散愁二首 之一 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -11) 杜甫 <399> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1930 杜甫詩1000-399-580/1500
詩 題:散愁二首 之一 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -11)
作時760年10月杜甫49歳
掲 載; 杜甫1000首の399首目-#3 -11
杜甫ブログ1500回予定の-580回目 散愁二首 之一 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -11)
杜甫の成都の生活が559年12月から1年を迎えようとしているこの数か月の同系統の詩を並べてみると面白い。このブログでは、文学者に多い詩の一部分だけ切り取り、自分の結論に結び付ける論理がまかり通っているが、森を見て木を見る論法でなければ杜甫に失礼と思っている。ここに示す作品は
(1)江漲
江漲柴門外,兒童報急流。
下牀高數尺,倚杖沒中洲。
細動迎風燕,輕搖逐浪鷗。
漁人縈小楫,容易拔船頭。
柴門の外をみると錦江の水位があがってみなぎっている。すると、こどもらが錦江の水の流れが急になっていると報せてくる。
これをきいて川べりの平たい石の台をおりてみると二三尺も水嵩が高くなっている、杖に倚りかかって乗り出して見るとどうやら中洲が水没しているのだ。
軒端のツバメは出たり入ったり行動して風を切って飛んでいる。鴎は軽やかに揺らいで飛び、それから素早く動いて浪と追っかけっこをしている。
川上の漁師達は小さな舵を縄でくくりつけて下っていて、いとも簡単に波間を抜けて船の頭を操っているのだ。(江漲る)
(2)野老
野老籬邊江岸迴,柴門不正逐江開。
漁人網集澄潭下,估客船隨返照來。
長路關心悲劍閣,片雲何意傍琴台?
王師未報收東郡,城闕秋生畫角哀。
田野の老人の家の籬の一辺は錦江流れで岸がまがっている、だから柴の門もまがった江の流れに添うように家に平行でなくつくったのだ。
垣根の向こうに魚を取る人々は澄んだ潭に集まって網漁をしている。流れを下ってくる商人の船も夕日の照り返しとともに成都にやってくる。
こうしてみると華州、秦州、同谷から成都の西のこの地へ遠い道を旅をしたことをおもいだす、その上途中に剣閣という難所があり悲苦しいものであった。成都の琴台の方をみると一片の雲がこの樓閣に寄り添っているが、なんと司馬相如の所縁とでもいうのだろうか。
未だに唐王朝軍が安史軍に抑えられている洛陽以東の諸郡を取り返したという知らせはまだないけれど、この成都城の門闕には秋が生じている、軍隊の吹きならす角笛の音がまた秋の哀れにきこえるのである。
(3)所思
苦憶荊州醉司馬,謫官樽酒定常開。
九江日落醒何處?一柱觀頭眠幾回。
可憐懷抱向人盡,欲問平安無使來。
故憑錦水將雙淚,好過瞿塘灩預堆。
自分は荊州の酔っぱらいの崔司馬のことをたびたび強くおもいだすである。彼は流刑のように貶されていても、そこでまちがいなく常に樽の酒をひらいているはずである。
九江が流入する洞庭湖に日が落ちるときになると彼はどこで酔いをさますのだろうか。荊州の名所の一柱観で彼はきっとなんべんも酔って眠っていることだろう。
こうして彼に向かっての心持は、かくすところなくすべてはきだして、憐れに思うところである。それで彼の平安であるかどうかを問いたくおもうのだが、彼の方からは使いがこないのである。
しかたがないから、わたしはこの錦江の水でもって我が両眼の涙をもっていってもらおうとおもうのである、どうかこの水が無事に瞿塘峡、灩預堆の難場所をとおってくれるようにいのるのである。
(4)遣興
干戈猶未定,弟妹各何之!
拭淚沾襟血,梳頭滿面絲。
地卑荒野大,天遠暮江遲。
衰疾那能久,應無見汝期。
安史の乱は史思明が依然として洛陽を占拠しており、自分がいた秦州には異民族に侵略されたり、戦がいまだに平定していない。弟や妹はそれぞれどこでなにをしているのだろうか。
同谷紀行、成都紀行で艱難辛苦で、涙をぬぐい、襟もとを濡らすのは血の涙を流したのである、頭をくしでとかせば白髪がぬけおちて顔中にふりかかるほどなのだ。
家の外をながめると、地面は湿地帯のようでく平らで荒れた野はらが大きく横たわっている、天ははるか遠くつらなって夕ぐれの江はゆるくながれている。
老いてきて持病がある身ではとてもこの世に長く生きていることはできるとは思はない、きみたち(弟妹をさす)にこれからもう面会する時期はとても無いとおもう。
(5)南鄰
錦裡先生烏角巾,園收芋栗未全貧。
慣看賓客兒童喜,得食階除鳥雀馴。
秋水纔深四五尺,野航恰受兩三人。
白沙翠竹江村暮,相送柴門月色新。
浣花渓の錦裡先生は鳥角巾を頭に乗せて隠者のすがたをしている。小さな農園でつくっている芋や栗がとれるからまったくの貧乏というのではない。
子どもは南隣のお客をみなれているので来客をみて喜び歓迎しているようだ、小鳥や、雀などもいつも外のきざはしあたりに近づいてきて物がたべよく人になれてきている。
秋の澄んだ江水がそこまでよく見え、四五尺の水深だ、そこへ二三人のれる野の小舟をうかべている。
白い沙浜のむこうに翠の竹林があり、江村も夕暮れが近づいてくる。客の朱山人を送ろうと柴門にむかうと秋の夕暮れは速く月明かりが増して新たに月があらわれたようなのである。
(6)北鄰
明府豈辭滿,藏身方告勞。
青錢買野竹,白幘岸江皋。
愛酒晉山簡,能詩何水曹。
時來訪老疾,步屧到蓬蒿。
(南隣には朱山人が住んでいて北隣はわたしだ。)そのわたしは華州でここらが潮時と官を辞したのだ、秦州同谷と経てここに隠遁している身となっている。「不敢告労」という語もあるがわたしの場合はまさに労苦を語りたいというものだ。
青銭万選の詩文を売って家の周りに綿竹を買って植えた。役人の白い帽子のような花が岸辺の曲った所に咲いている。
白い帽子で思うのは酒を愛す西晋の山簡公であり、翼詩文を書き、いつも浣花渓の流れの隈の所でたむろしている自分と重なるのである。
隠棲をした今となって自分には年を重ねていくことと持病が時に見舞われ、なにもできないことがある。今は敷き藁の上のような貧乏生活であるがなにもできないことつづくと転蓬の草ぼうぼうの野原をさまようことになるのだろうか。
(7)恨別
洛城一別四千裡,胡騎長驅五六年。
草木變衰行劍外,兵戈阻絕老江邊。
思家步月清宵立,憶弟看雲白日眠。
聞道河陽近乘勝,司徒急為破幽燕。
一年前、洛陽城と別れてからここは、四千里の遠くの地にある。国の東部で安史軍の騎兵がとおく駆けて攻めよせてから五六年経過したことになる。
宋玉が言う「草木の色かわり衰うる悲秋」にあたって剣門を越えて蜀にきたのだ。私の最も嫌いな兵卒が戦闘をするということだが、それをのがれて此処、錦江のほとりにくらし老いぼれていこうとしている。
安禄山の乱により、離れ離れの家族と家のことを思っては、はれたわたる夜更け遅くまで月の光の下を歩くのである。弟のことを考えないことはないのだ、いまも雲をみながら昼寝をするのである。
先日も、聞くところによると河陽の地方では唐王朝軍が、近頃のこと、勝ち始め、反転攻勢になったということである。李光弼司徒殿が、我がために早く勝ち進んで河北地方、幽州・燕州の安史の根拠地を撃ち平定してもらいたいものだ。
(8)出郭
霜露晚淒淒,高天逐望低。
遠煙臨井上,斜景雪峰西。
故國猶兵馬,他鄉亦鼓鼙。
江城今夜客,還與舊烏啼。
夕方になると夜露や霜の季節になっていて、静かで冷え冷えとしてくる。昼間あれほど空が澄み渡り高かった空も夕闇が迫ってきて、眺めるたびに天空が暗く垂れさがってくるのだ。
遠く彼方に昇る煙は、成都特産の塩工場の上にあがるものだ。その向こうに雪峰がつづきの入り日の後のわずかなひかりが斜めに空に残し映している。
故国のある東の方角は未だに安史軍により兵馬が治まらず、他郷たるこの地にもまた叛乱か、吐蕃の不穏な動きで剣南節度使軍の戦いの大太鼓、小つづみの音がずっと止まないままだ。
今夜この江城からでたわたしは旅人となるのだろう。そして戰がおさまらない今、前からの烏とともに啼く詩をつくるより外になのだ。
(9)散愁二首 之一
久客宜旋旆,興王未息戈。
私はもう随分長く旅にでているけれど、兄弟親族が元々の故郷に帰えれればよいとおもっている。しかし、唐中興の呼び声高い天子たる粛宗はいまだ戦を止めさせることができてはいない。
蜀星陰見少,江雨夜聞多。
ここ蜀では雨降りの日が多く星が陰っているので、星による占いもできることはすくない。錦江の雨は夜になると巫山神女の故事により雨の音を聞くことが多いのだ。
百萬傳深入,寰區望匪他。
百万の大軍の唐王朝連合軍は敵の安史軍の奥深く入り込んだそうだが、天下の望む所は安史軍を打ち負かすこと、これ以外ほかにのぞむことはないのだ。
司徒下燕趙,收取舊山河。
たから李光弼司徒殿が燕趙の安史軍支配地を征伐を下してもらい、この荒れ果てた山河をの前の緑豊かな山河を奪い返えしてもらうということなのである。
散愁二首 之一(愁いを散ず 二首 之一)
久客宜しく旆【はい】を旋【かえ】すべし、興王【こうおう】未だ戈【ほこ】を息【やす】めず。
蜀星陰りて見ゆること少なく、江雨夜聞くこと多し。
百万深く入るを伝う、寰区【かんく】望むこと他に匪ず。
司徒【しと】燕趙【えんちょう】を下して、収取【しゅうしゅ】せよ旧山河。
(10)散愁二首 之二
聞道並州鎮,尚書訓士齊。
幾時通薊北?當日報關西。
戀闕丹心破,沾衣皓首啼。
老魂招不得,歸路恐長迷。
聞道ならく並州の鎮 尚書士を訓すること斉しと
幾時か薊北に通じて 当日関西に報ぜん
闕を恋いて丹心破れ、衣を零して皓首啼く
老魂招き得ず 帰路恐らくは長く迷わん
『散愁二首 之一』 現代語訳と訳註
(本文)
散愁二首 之一
久客宜旋旆,興王未息戈。
蜀星陰見少,江雨夜聞多。
百萬傳深入,寰區望匪他。
司徒下燕趙,收取舊山河。
(下し文)
散愁二首 之一(愁いを散ず 二首 之一)
久客宜しく旆【はい】を旋【かえ】すべし、興王【こうおう】未だ戈【ほこ】を息【やす】めず。
蜀星陰りて見ゆること少なく、江雨夜聞くこと多し。
百万深く入るを伝う、寰区【かんく】望むこと他に匪ず。
司徒【しと】燕趙【えんちょう】を下して、収取【しゅうしゅ】せよ旧山河。
(現代語訳)
私はもう随分長く旅にでているけれど、兄弟親族が元々の故郷に帰えれればよいとおもっている。しかし、唐中興の呼び声高い天子たる粛宗はいまだ戦を止めさせることができてはいない。
ここ蜀では雨降りの日が多く星が陰っているので、星による占いもできることはすくない。錦江の雨は夜になると巫山神女の故事により雨の音を聞くことが多いのだ。
百万の大軍の唐王朝連合軍は敵の安史軍の奥深く入り込んだそうだが、天下の望む所は安史軍を打ち負かすこと、これ以外ほかにのぞむことはないのだ。
たから李光弼司徒殿が燕趙の安史軍支配地を征伐を下してもらい、この荒れ果てた山河をの前の緑豊かな山河を奪い返えしてもらうということなのである。
(訳注)
散愁二首 之一
官軍の勢いがよいので気ばらしのためにつくった詩である。
○散愁 うれいのこころをちらす。この1~2か月前の作品と微妙に変化している。
久客宜旋旆,興王未息戈。
私はもう随分長く旅にでているけれど、兄弟親族が元々の故郷に帰えれればよいとおもっている。しかし、唐中興の呼び声高い天子たる粛宗はいまだ戦を止めさせることができてはいない。
○久客 ながくなったたびびと、自己をさす。
〇旋旆 (1)日月と昇竜・降竜を描いた大きな旗。昔、中国で天子または将軍が用いた。これで戦火を挙げて帰る。さくせんをかえる。 (2)堂々とした旗印。故郷へもどること。
○興王 中興の君、粛宗をさす。
○息曳 ほこを休息させる、いくさをやめること。
ずにおいでになる。
蜀星陰見少,江雨夜聞多。
ここ蜀では雨降りの日が多く星が陰っているので、星による占いもできることはすくない。錦江の雨は夜になると巫山神女の故事により雨の音を聞くことが多いのだ。
○江雨夜聞多 巫山の神女。雨は楚の王が夢のなかで交わった神女の化身。「重ねて聖女両を過ぎる」夢雨 楚の懐王の巫山神女を夢みるの故事にもとづき、男女の愛の喜びとその名残を夢雨という。雨が宋玉「高唐の賦」にある巫山神女の故事によるもので、懷王と交わった後、神女が「暮には行雨とならん」とどんな時でも一緒にいるといった意味を持つ雨である。
百萬傳深入,寰區望匪他。
百万の大軍の唐王朝連合軍は敵の安史軍の奥深く入り込んだそうだが、天下の望む所は安史軍を打ち負かすこと、これ以外ほかにのぞむことはないのだ。
〇百万 多くの唐王朝連合軍。安史軍がウィグルを味方にしようとしたのを食い止めふたたび粛宗の要請に答えたので、この頃、単独では呉六十万といわれており、百万という表現をしたのはウィグルの援軍と共にという意味である。
○深入 賊境へふかくはいりこむ。
○寰区 天下。
○望匪他 望むことはほかのことではない、即ち次の司徒二句はその説明である。
司徒下燕趙,收取舊山河。
たから李光弼司徒殿が燕趙の安史軍支配地を征伐を下してもらい、この荒れ果てた山河をの前の緑豊かな山河を奪い返えしてもらうということなのである。
○司徒 李光弼司徒。『恨別』でいう。
洛城一別四千裡,胡騎長驅五六年。
草木變衰行劍外,兵戈阻絕老江邊。
思家步月清宵立,憶弟看雲白日眠。
聞道河陽近乘勝,司徒急為破幽燕。
恨別 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -10) 杜甫 <398> 七言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1925 杜甫詩1000-398-579/1500
○燕趙 ともに戦国時代の河北の北部のことで、安史軍の拠る所。
○旧山河 もと唐の朝廷に属していた山河。戦火に見舞われ荒廃した地域のことと、安史軍が支配している領域を云う。『春望』
國破山河在,城春草木深。
感時花濺涙,恨別鳥驚心。
烽火連三月,家書抵萬金。
白頭掻更短,渾欲不勝簪。
春望 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 155