寒食 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 25) 
浣花渓における寒食節における、生活と農村風景を詠う。
761年上元二年、晩春、浣花渓にあっての作。


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寒食 杜甫 <430>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2095 杜甫詩1000-430-613/1500


寒食 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 25) 
詩 題:寒食 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 25)
作時761年3月杜甫50歳 
掲 載; 杜甫1000首の430首目-場面4 – 25
杜甫ブログ1500回予定の-613回目


このシリーズは761年3月の日記と題したらいい様なものである。意味の上で連続性のある詩である。
春水
三月桃花浪,江流複舊痕。朝來沒沙尾,碧色動柴門。
接縷垂芳餌,連筒灌小園。已添無數鳥,爭浴故相喧。
春の出水のことをのべた。詩題の「春水」は、草堂の建設から一年たった新津から帰っての3月の作である。この年は去年の春雪解けの水より、増水が多く、岸いっぱいに流れたのだ。数え切れないほどたくさんの水鳥がやってきている。互いに争うように水浴びをしてわざわざ、さわざたてているのだ。


江亭
坦腹江亭臥,長吟野望時。水流心不競,雲在意俱遲。
寂寂春將晚,欣欣物自私。故林歸未得,排悶強裁詩。
江のほとりの亭で、おそらく四方に壁のない四阿出会ったのだろう。考えを変えて前向きになるためにこの詩をつくるのである。


早起
春來常早起,幽事頗相關。帖石防頹岸,開林出遠山。
一丘藏曲折,緩步有躋攀。童樸來城市,瓶中得酒還。
自分はいつも早く起きる。それは隠者の自覚をしっかり持ってきたため庭仕事にかかりあうのがたのしいためである。彼は瓶のなかにたのんでいた春の新酒を得てかえってきたのである。


可惜
花飛有底急?老去願春遲。可惜歡娛地,都非少壯時。
寬心應是酒,遣興莫過詩。此意陶潛解,吾生後汝期。
隠遁者の心持は陶淵明が理解していたのだ。私が生まれたのが彼より遅いのであるが彼の境地に達していないのではないだろうかと思っている。


落日
落日在簾鉤,溪邊春事幽。芳菲緣岸圃,樵爨倚灘舟。
啅雀爭枝墜,飛蟲滿院遊。濁醪誰造汝?一酌散千愁。
わたしはひとり酒をのむ。いったいこの楽しい酒をだれがつくりはじめたものか、知らない分けではないけれど、それをちょっとまたいっぱいのめば千万の心配ごとがみな散りうせるものである。


獨酌
步屧深林晚,開樽獨酌遲。仰蜂粘落絮,行蟻上枯梨。
簿劣慚真隱,幽偏得自怡。本無軒冕意,不是傲當時。
一日の作業を終えて、草堂付近を散策して一人酒を愉しむ幸せを詩にしている。草堂2年目の晩あき春の日記。


徐步
整履步青蕪,荒庭日欲晡。芹泥隨燕觜,花蕊上蜂須。
把酒從衣濕,吟詩信杖扶。敢論才見忌?實有醉如愚。
おもむろにあるく。前詩『獨酌』では酔っていない段階の詩を書き、酔い覚ましに散歩した様子を詠う。


寒食
寒食江村路,風花高下飛。汀煙輕冉冉,竹日淨暉暉。
田父要皆去,鄰家問不違。地偏相識盡,雞犬亦忘歸。
浣花渓における寒食節における、生活と農村風景を詠う。

石鏡
蜀王將此鏡,送死置空山。冥寞憐香骨,提攜近玉顏。
眾妃無複歡,千騎亦虛還。獨有傷心石,埋輪月宇間。
  
琴台
茂陵多病後,尚愛卓文君。酒肆人間世,琴台日暮雲。
野花留寶靨,蔓草見羅裙。歸鳳求凰意,寥寥不複聞。


寒食
寒食江村路,風花高下飛。
錦江と濯錦江ぞいの村の路に寒食節のころになる。晩春にかかり、風に吹かれて花びらが高く低く飛び散っている。
汀煙輕冉冉,竹日淨暉暉。
渚のみぎわの朝靄はかろやかに次第にのぼっている。竹林を照らす太陽が朝もやをきよらかにかがやきわたらせる。
田父要皆去,鄰家問不違。
寒食の時は農夫が招待要請があり、わたしはみなそこへでかけてゆく、隣家がおくりものをもってきてくれるのでありがたくそれをうける。
地偏相識盡,雞犬亦忘歸。

川と地がかたよったいなかであるからみんな知り合いのである。鶏や犬までもよそのうちへでかけていってもどるのを忘れるようことはいつもの事なのだ。

(寒食)
寒食江村の路、風花高下に飛ぶ。
汀煙軽くして冉冉たり、竹日浄くして暉暉たり。
田父要うれば皆去る、隣家問れば違わず。
地偏にして相識り尽す、雞犬も亦帰ることを忘る。


『寒食』 現代語訳と訳註
(本文)

寒食江村路,風花高下飛。
汀煙輕冉冉,竹日淨暉暉。
田父要皆去,鄰家問不違。
地偏相識盡,雞犬亦忘歸。


(下し文)
(寒食)
寒食江村の路、風花高下に飛ぶ。
汀煙軽くして冉冉たり、竹日浄くして暉暉たり。
田父要うれば皆去る、隣家問れば違わず。
地偏にして相識り尽す、雞犬も亦帰ることを忘る。


(現代語訳)
錦江と濯錦江ぞいの村の路に寒食節のころになる。晩春にかかり、風に吹かれて花びらが高く低く飛び散っている。
渚のみぎわの朝靄はかろやかに次第にのぼっている。竹林を照らす太陽が朝もやをきよらかにかがやきわたらせる。
寒食の時は農夫が招待要請があり、わたしはみなそこへでかけてゆく、隣家がおくりものをもってきてくれるのでありがたくそれをうける。
川と地がかたよったいなかであるからみんな知り合いのである。鶏や犬までもよそのうちへでかけていってもどるのを忘れるようことはいつもの事なのだ。


(訳注)
寒食

浣花渓における寒食説における、生活と農村風景を詠う。
○寒食 冬至節から一百五・六・七日を寒食という。火を使わない。料理をしない。清明節の3日前から


杜甫草堂詳細図02寒食江村路,風花高下飛。
錦江と濯錦江ぞいの村の路に寒食節のころになる。晩春にかかり、風に吹かれて花びらが高く低く飛び散っている。
○江村 錦江が濯錦江に分水してまた近郊に戻るまでの間のこと。洪水調整の河川である。都市の上流には必ず設けられた。浣花村。
○風花 風をうけた花びら。


汀煙輕冉冉,竹日淨暉暉。
渚のみぎわの朝靄はかろやかに次第にのぼっている。竹林を照らす太陽が朝もやをきよらかにかがやきわたらせる。
○汀煙 みぎわのけむり。波が打ち寄せる所のもや。波うちぎわ。
○冉冉 次第に生ずるさま。
○竹日 竹林をてらす太陽。
〇時嘩 かがやくさま。


田父要皆去,鄰家問不違。
寒食の時は農夫が招待要請があり、わたしはみなそこへでかけてゆく、隣家がおくりものをもってきてくれるのでありがたくそれをうける。
○田父 ひゃくしょう。
○要 こちらを招きむかえる。
○去 こちらが先方へでかけてゆく。
○問 問通に同じ、こちらの様子をききに品物をおくってくれること。
○不違 贈ってくれた気持に従ってこれを受けることをいう。
 

地偏相識盡,雞犬亦忘歸。
川と地がかたよったいなかであるからみんな知り合いのである。鶏や犬までもよそのうちへでかけていってもどるのを忘れるようことはいつもの事なのだ。
○偏 かたよる。
○相識尽 尽相識の意、みんなしりあう。
○忘帰 他家に行っても自家のようにおもって帰ることをわすれる。転じていつものこと。


鸕鷀001寒食
寒食江村路,風花高下飛。汀煙輕冉冉,竹日淨暉暉。
田父要皆去,鄰家問不違。地偏相識盡,雞犬亦忘歸。

(寒食)
寒食江村の路、風花高下に飛ぶ。
汀煙軽くして冉冉たり、竹日浄くして暉暉たり。
田父要うれば皆去る、隣家問れば違わず。
地偏にして相識り尽す、雞犬も亦帰ることを忘る。



寒食節はちょうど冬至の翌日からかぞえて百五日目にあたり、昔の人はみな寒食を百五といった。杜甫の『百五日の夜に月に対す』という詩は、このことを裏付けている。「家無くして寒食に対す、涙は金の波の如し」。また、姚合の『寒食書事詩』には、「今朝は百五なり、戸を出で雨初めて晴れる」とある。寒食節と清明節はすぐつづいているので、人々はこの二つの祭日を混同しがちであるが、そのじつ、古代では寒食は一つの独立した祭日であった。隋・唐の時代には、多くの寒食を清明の二日前に固定し、宋代には三日前と定めていた。

言い伝えによると、寒食節の起源は次のような歴史物語に由来するそうである。二千年前の春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。重耳が肉を食べたいというと、介子推はひそかに自分の腕の肉を切りとって、煮て彼に食べさせた。のちに重耳は秦国の国王・穆公の助けをえて、晋国の国王になった。重耳はずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞を行い、それぞれ諸侯に封じてやった。介子推は母親と相談して、富貴を求めない決心を固め、綿山に入って隠居した。その後、晋の文公・重耳は彼のことを思い出し、自ら車に乗って捜しにいったが、なん日捜しても介子推母子の行方はわからなかった。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公はこの母子の死を心からいたみ、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名した。そして介子推の自分に対する情誼を永遠に記念するために、その柳の木を切りとって持ち帰り、木のくつを作らせ、毎日眺めては悲嘆にくれた。「悲しきかな、足下よ!」

のちに人々は、自分に親しい友人に手紙を送る時、「××足下」と書いて、厚い友情を示すようになった。晋の文公は、介子推の生前「士は甘んじて焚死しても公候にならず」という志を通した高尚な人となりをたたえて、この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた。寒食の日には、人々は先祖の墓に詣でて故人をしのび、亡き霊を祭ることにしている。