杜甫 《苦戰行》 楽府(五言律詩) 成都(6部)浣花渓の草堂(6-(13))   苦戦をして死んでしまった漢の馬将軍のような人物がいる。彼はみずからを伏波将軍の子孫だとして公言している。天下は戦乱いまだ定まらないのに彼のような勇壮な士を失った。このことは自分は嘆き恨んで酷く心を傷めさせられるのである。

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苦戰行 楽府(五言律詩) 成都6-(13) 杜甫 <478>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2515 杜甫詩1000-478-697/1500


詩 題:苦戰行楽府(五言律詩) 杜甫 成都(6部)浣花渓の草堂(6-(13)) 
卷別: 卷二一九  文體: 樂府  (七言歌行)
作時:寶應元年   762年   51歲
掲 載; 杜甫1000首の478首目-場面6-(13)
杜甫ブログ1500回予定の-697回目   40796
馬将軍が賊を討ち苦戦して死んだことを惜しんでよんだうたで、宝応元年の作とされる。



(大唐朝史から抜粋)
上元2年(761) 4月19日
 梓州刺史の段子璋が造反した。 段子璋は驍勇で、上皇に随従して蜀にて功績を建てた。東川節度使・李奐がこれを替えるよう奏したので、 段子璋は挙兵して綿州にて李奐を襲撃しようとした。 途中、遂州を通過すると、虢王巨が郡の官吏を正装させてこれを迎えた。 段子璋は、これを殺す。 李奐は戦って敗れ、成都へ逃げた。
 段子璋は梁王と自称し、黄龍と改元する。綿州を龍安府と改称し、 百官を設置する。また、剣州を落とす。
 5月2日 西川節度使の崔光遠と東川節度使・李奐が、共に綿州を攻めた。
 5月7日 これを抜き、段子璋を斬って叛乱を鎮圧した。


苦戰行
(苦戦をして死んでしまった人の歌)
苦戰身死馬將軍,自雲伏波之子孫。
苦戦をして死んでしまった漢の馬将軍のような人物がいる。彼はみずからを伏波将軍の子孫だとして公言している。
干戈未定失壯士,使我歎恨傷精魂。』
天下は戦乱いまだ定まらないのに彼のような勇壮な士を失った。このことは自分は嘆き恨んで酷く心を傷めさせられるのである。』
去年江南討狂賊,臨江把臂難再得。
彼が去年南方へ賊をうちにでかけたとき江にのぞみ、臂をとりあって親しく物語りをして別れたが、それをまたすることはできないことになった。
別時孤雲今不飛,時獨看雲淚橫臆。』
 その別れた時に見た天上の孤雲は今は飛んではいない。わたしは時時、ひとりで別の雲をみては、胸のなかで涙をながしているのである。

浮桟橋00












『苦戰行』 現代語訳と訳註
(本文)
苦戰身死馬將軍,自雲伏波之子孫。
干戈未定失壯士,使我歎恨傷精魂。』
去年江南討狂賊,臨江把臂難再得。
別時孤雲今不飛,時獨看雲淚橫臆。』


(下し文)
(苦戦行)
苦戦身死す馬将軍、自ら云う伏波【ふくは】の子孫なりと。
干戈【かんか】未だ定まらず壮士を失う、我をして嘆恨【たんこん】精魂【せいこん】を傷ましむ。』
去年 南行 狂賊【きょうぞく】を討つ、江に臨み臂【ひじ】を把るは再び得るを難し。
別時の孤雲 今飛ばず、時に独り雲を看て 涙 臆【おく】に横たわる。』


(現代語訳)
(苦戦をして死んでしまった人の歌)
苦戦をして死んでしまった漢の馬将軍のような人物がいる。彼はみずからを伏波将軍の子孫だとして公言している。
天下は戦乱いまだ定まらないのに彼のような勇壮な士を失った。このことは自分は嘆き恨んで酷く心を傷めさせられるのである。』
彼が去年南方へ賊をうちにでかけたとき江にのぞみ、臂をとりあって親しく物語りをして別れたが、それをまたすることはできないことになった。
 その別れた時に見た天上の孤雲は今は飛んではいない。わたしは時時、ひとりで別の雲をみては、胸のなかで涙をながしているのである。


(訳注)
苦戰行

(苦戦をして死んでしまった人の歌)
苦戦 初句二字をとる。馬援(漢)。将軍なる者が苦戦して死んだことを惜しんでよんだうた。其の事実が何年の事であるかには諸家に異説がある、上元二年段子璋が反して遂州綿州を陥れた時であるとする者が多いが疑うべき点もおおい。厳武との交遊が盛んで政治談議の中で生まれた作品には違いない。ここでは、成都尹に兼任し、厳武が中央朝廷に呼び戻されるわずかな期間の作品とした。


苦戰身死馬將軍,自雲伏波之子孫。
苦戦をして死んでしまった漢の馬将軍のような人物がいる。彼はみずからを伏波将軍の子孫だとして公言している。
○馬将軍 名は詳らかでない。
○伏波 後漢の伏波将軍馬援。


干戈未定失壯士,使我歎恨傷精魂。』
天下は戦乱いまだ定まらないのに彼のような勇壮な士を失った。このことは自分は嘆き恨んで酷く心を傷めさせられるのである。』
○干戈 1 武器。また、武力。 2 戦争。
○壮士 馬将軍をさす。


去年江南討狂賊,臨江把臂難再得。
彼が去年南方へ賊をうちにでかけたとき江にのぞみ、臂をとりあって親しく物語りをして別れたが、それをまたすることはできないことになった。
○去年 戦死の事実が上元二年のこととするものは此の語によって此の詩を宝応元年とし、宝応元年から前年の上元二年をさして去年といったものとみる。
〇江南 遂州の方へいったこと。涪江の南の流域、遂州は今の渡川府逐寧県である。一に南行をに作るもある。
○狂賊 段子璋。
臨江把臂 綿州、梓州、遂州を流れる涪江をいうとみることが至当である。上元二年に作者は涪江には居らず成都にあった。把臂はひじをとって親しく語りあう。膝詰よりさらに親密であることを云う。


別時孤雲今不飛,時獨看雲淚橫臆。』
その別れた時に見た天上の孤雲は今は飛んではいない。わたしは時時、ひとりで別の雲をみては、胸のなかで涙をながしているのである。




参考

『戲作花卿歌』 現代語訳と訳註
(本文)
成都猛將有花卿,學語小兒知姓名。
用如快鶻風火生,見賊惟多身始輕。
綿州副使著柘黃,我卿掃除即日平。
子璋髑髏血模糊,手提擲還崔大夫。
李侯重有此節度,人道我卿絕世無!
既稱絕世無,天子何不喚取守東都?
(下し文) (戯れに花卿の歌を作る)
成都に猛将 花卿有り、学語の小児 姓名を知る。
用うれば快鶴の如く風火生ず、賊を見れば惟多ければ身始めて軽し。
綿州の副使 柘黄を著し、我が卿 掃除して即ち日平とす。』
子璋の髑髏は血 模糊たり、手ずから提げ擲還すは崔大夫なり。
李侯 重ねて此の節度有り、人は道う我が卿 絶世無し。
既に「絶世無し」と称す、天子何ぞ喚び取って東都を守らしめざる。』
(現代語訳)
成都には勇猛果敢な大将で花驚定卿というのがいるのだ。いまや彼の姓名はことばを学び始めたこどもでも知っている。
彼を用うればすばやい髄鷹の如くうごき、そのはげしきことは風にあおられ強い炎の生ずるようなものである。叛乱者を見て相手が多いとき、はじめて身がるに働き出すというのだ。
このたび綿州の副使待遇の兵馬使の段子璋が謀反を起こして天子の御衣と赭色の身に着けひけらかしたとき、我が花卿はその叛乱を制定、掃き清め、「日平」事件として治め報告された。』
段子璋のむくろは血がしたたるほどべたべた状態であった。それを手ずから提げてこれを征伐軍の司令官の崔光遠大夫のもとへなげうちかえしたのだ。
これがためこともあろうに、一度は逃げだした綿州の李節度使もふたたび節度の職を有するに至ったのだ。人人は我が花卿のごときものは世にたえて無きものだというている。(だから、崔光遠を讃えず、李奐を嘲笑して「戯れ」たのだ。)
そんなに世に無い「絕世」武将だというのであるなら、天子におかせられてはなぜに彼を喚びとって東都洛陽をお守らせることさせられないのであろうか。(良いぶしょうを自分の好き嫌い、その日の気分、宦官の言いなりの粛宗を批判している。この杜甫の批判姿勢は一貫している)