杜甫《警急〔自注:時高公適領西川節度。〕》三国の参謀といわれた賈詡に喩えられ、淮南、楚の地で功勲を挙げられた高適公はその策は巧妙な戦略、兵を動かすのも適宜になされ、かつ兵卒を大事にされるお方である。
697 《警急〔自注:時高公適領西川節度。〕》 蜀中転々 杜甫 <604> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3330 杜甫詩1000-604-860/1500
詩 題:警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
作時:763年 廣德元年十月 閬州 杜甫52歳
卷別: 卷二二七
文體: 五言律詩
詩題: 警急【案:自注:時高公適領西川節度。】
作地點: 閬州(山南西道 / 閬州 / 閬州)
及地點:
玉壘山 (劍南道北部 無第二級行政層級 玉壘山) 別名:玉壘
松州 (劍南道北部 松州 松州)
掲 載; 杜甫1000首の604首目-場面
杜甫ブログ1500回予定の-860回目
警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
(此の非常事態を知らせる。〔この時、高適公は、再度剣南西川節度使となっている。〕)
才名舊楚將,妙略擁兵機。
三国の参謀といわれた賈詡に喩えられ、淮南、楚の地で功勲を挙げられた高適公はその策は巧妙な戦略、兵を動かすのも適宜になされ、かつ兵卒を大事にされるお方である。
玉壘雖傳檄,松州會解圍。
玉塁地区は太古より武勇が聞かれるところで、都江堰によっても守られているところかもしれないが、西域防御の松州の都督府もそこを吐蕃に倚って破られたのである。
和親知拙計,公主漫無歸。
粛宗が吐蕃との和親を進めてきたがこれが稚拙なたくらみでしかなかったのであり、嫁がせた公主は未だに帰国されてはいないのである。
青海今誰得,西戎實飽飛。
西域、隴右の青海地方は今誰が領有しているというのか、西の異民族たちの好き勝手にさせているのではないだろうか。
警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
才名 舊の楚將なり,略を妙とし兵機を擁す。
玉壘 傳檄をなすと雖も,松州 解圍に會す。
和親 拙計を知り,公主 漫【そぞろ】に歸る無し。
青海 今や誰か得るや,西戎 實に飽き飛ぶ。
『警急』 現代語訳と訳註
(本文)
警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
才名舊楚將,妙略擁兵機。
玉壘雖傳檄,松州會解圍。
和親知拙計,公主漫無歸。
青海今誰得,西戎實飽飛。
(下し文)
警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
才名 舊の楚將なり,略を妙とし兵機を擁す。
玉壘 傳檄をなすと雖も,松州 解圍に會す。
和親 拙計を知り,公主 漫【そぞろ】に歸る無し。
青海 今や誰か得るや,西戎 實に飽き飛ぶ。
(現代語訳)
(此の非常事態を知らせる。〔この時、高適公は、再度剣南西川節度使となっている。〕)
三国の参謀といわれた賈詡に喩えられ、淮南、楚の地で功勲を挙げられた高適公はその策は巧妙な戦略、兵を動かすのも適宜になされ、かつ兵卒を大事にされるお方である。
玉塁地区は太古より武勇が聞かれるところで、都江堰によっても守られているところかもしれないが、西域防御の松州の都督府もそこを吐蕃に倚って破られたのである。
粛宗が吐蕃との和親を進めてきたがこれが稚拙なたくらみでしかなかったのであり、嫁がせた公主は未だに帰国されてはいないのである。
西域、隴右の青海地方は今誰が領有しているというのか、西の異民族たちの好き勝手にさせているのではないだろうか。
(訳注)
警急〔自注:時高公適領西川節度。〕
(此の非常事態を知らせる。〔この時、高適公は、再度剣南西川節度使となっている。〕)
広徳元年(七六三)正月、北方ではひきつづき敗戦を重ねていた賊将史胡挙賊将史朝義(史忠明の子。史思明を殺してこれに代わった)が遂に縊死し、部将らは多く投降し、かくて長年にわたったさしもの大乱も、一段落ついたことになる。この快報を梓州できいた杜甫は、狂喜して詩を賦し、自分も一日も早く北に帰ろうと心をきめたのであった。しかし、その実、時局はなかなか治まらず、回紇が中原に入って横行暴虐の限りをつくし、かつて牡甫が、回紇に救援をたのむことに危惧を抱いた、ちょうどそのことが、今や目前に起こりつつあったのみならず、吐蕃はたえず侵入して、七月には秦州・成州をはじめ河西・隴西隴右を占拠、十月には邠州まで攻めよせたので、代宗はあわてて陝州に逃げ、一時、吐蕃が長安を占領して掠奪をほしいままにした。長安は、郭子儀の反撃により、蜀、松州、維州は高適に倚り、吐蕃は撤退した。
杜甫は北の故郷に帰ることもできず、梓州にいて、その間、綿州にゆき、漢州にゆき、閬州にゆき、恐らくは生活のために転々と奔走したのであろう。当時の詩の数はますます多いが、その中、百分の世話になった人々に贈り、その人々に感謝する詩が非常に多い。
この十月頃の作品である。
才名舊楚將,妙略擁兵機。
三国の参謀といわれた賈詡に喩えられ、淮南、楚の地で功勲を挙げられた高適公はその策は巧妙な戦略、兵を動かすのも適宜になされ、かつ兵卒を大事にされるお方である。
・才名 三国時代曹操、曹丕に仕え名参謀といわれた賈
詡(か
く、147年 - 223年、建和元年 - 黄初4年)のこと。後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文和(ぶんわ)。董卓・李傕・段煨・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり重臣として活躍した[1] 。賈穆・賈訪の父。賈模の祖父、賈胤・賈龕の高祖父。高適も高齢になって抜擢されたもの。
・舊楚將 高適が永王璘討伐で、揚州都督府長史、淮南節度使を兼ね「楚」の地で功勲を挙げたことをいう。
玉壘雖傳檄,松州會解圍。
玉塁地区は太古より武勇が聞かれるところで、都江堰によっても守られているところかもしれないが、西域防御の松州の都督府もそこを吐蕃に倚って破られたのである。
・玉壘 成都の北西50kmの都江堰近くにあるやま。戦国時代末期に巴蜀を領土とした秦の孝文王(紀元前225年)のころ、蜀郡の太守に赴任した李氷(リーピン)は、氾濫する岷江(ピンコウ)を改修するため、四川盆地の治水工事に挑んだ。成都の北西50キロの灌県にある世界遺産「都江堰(トコウエン)」が、その代表的な治水工事である。これは水路を開削して流れを分ける離堆を築く工事である。李氷がこの治水にあたって龍を降し、石犀牛を三(五)作らせ守り神とし、祖先伝来の開山大斧を三度振るって玉塁山を開削したと語り伝えられている。
和親知拙計,公主漫無歸。
粛宗が吐蕃との和親を進めてきたがこれが稚拙なたくらみでしかなかったのであり、嫁がせた公主は未だに帰国されてはいないのである。
・公主 吐蕃との和親で文成公主をいう。文成公主(ぶんせいこうしゅ、623年 頃 - 680年)は、唐の皇女で、吐蕃のソンツェン・ガンポ王の第2皇后。
青海今誰得,西戎實飽飛。
西域、隴右の青海地方は今誰が領有しているというのか、西の異民族たちの好き勝手にさせているのではないだろうか。
・西戎 749年哥舒翰は吐蕃の石堡城の攻略を命じられる。隴右・河西・朔方・河東及び突厥の兵合わせて10万を率いて攻め込んだ。石堡城は難攻不落であったが、数万の兵を失いつつも落城させた。それがこの7月、吐蕃に倚り、奪回されたことを云う。
・實飽飛 好き勝手にされること。
高適
滄州渤海(現河北省)の出身。生年不詳 ‐ 765年で李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫侁とともに皇弟である永王李璘の軍を討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。
これまでの杜甫が高適に贈った詩は下記の通り。