《答楊梓州》春になって州境の靑渓関に向かったが互いに合うということはなかったなら、そこに船をむかえにやらせても、帰ってきてまさにいとこ兄弟として舟遊びをしようではないか。
723 《答楊梓州》 蜀中転々 杜甫 <630> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3460 杜甫詩1000-630-886/1500
詩 題:答楊梓州
作時:763年 廣德元年 杜甫52歳 掲 載; 杜甫1000首の630首目-場面杜甫ブログ1500回予定の-886回目
卷別: 卷二二八
文體: 七言絕句
作地點: 漢州(劍南道北部 / 漢州 / 漢州)
及地點: 梓州 (劍南道北部 梓州 梓州)
交遊人: 楊梓州
掲 載; 杜甫1000首の630首目-場面
杜甫ブログ1500回予定の-886回目
40985
763年春、漢州(四川省広漢縣)に行ったときの作。この池は即ち房琯公池で房琯か相を罷めて後、漢州の刺史となって来て掘らせた池。房琯この春召しかえされて刑部尚書に進められたが、途中疾にあい、八月、閬州の客舎で死んだ。杜甫とは関係のふかい政治家であった。
この詩は房琯が去った後、漢州にゆき、彼の掘らせた池に遊んで、鵞鳥の子を見て詠じたもの。いろいろ諷刺の意味に解されているが、このままでも可愛いいうたである。
同時期に下記をつくる
・陪王漢州留杜綿州泛房公西湖
・舟前小鵝兒
・得房公池鵝
・答楊梓州
●陪王漢州留杜綿州泛房公西湖〔房琯刺漢州時所鑿。〕
舊相恩追後,春池賞不稀。
闕庭分未到,舟楫有光輝。
豉化蓴絲熟,刀鳴鱠縷飛。
使君雙皁蓋,灘淺正相依。
(王漢州が杜甫を留まるようにいわれ綿州にお供する際に房琯公の作った西池に舟を泛べる。)
〔房琯公が漢州の刺使の時に鑿った所。〕
前の宰相の今は亡き房琯公の御恩にたいしてのお礼にここに来た。房琯公の掘った春の池は素晴らしいもので稀にでも見られるものではないのである。
東宮の皇太子の粛宗から貶められたのちに召されたがその途中で病死した。ここでは舟の楫をとる水面は春の日に輝き照らされている。
大豆黄巻の豆はなり、蓴菜も取れごろであり、料理人の包丁の音が鳴り、鱠も糸のように調理され、おおざらにならべられてとぶようにしてはこばれてくる。
王漢州使君と舟屋に二つ並んで繋ぎ、そして中州に行き、浅瀬に、まさに一緒に行動する。
(王漢州が杜を留めて陪し、綿州房公西湖に泛ぶ〔房琯刺の漢州の時、鑿をとる所。〕)
舊相 恩 後を追い,春池 賞 稀れならず。
闕庭【さくてい】分れて未だ到らず,舟楫【しゅうとう】光輝有り。
豉化【かか】蓴絲【せんし】熟し,刀鳴は鱠縷【かいい】飛ばす。
使君 皁蓋【そうがい】に雙ぶ,灘淺【たんせん】正に相い依る。
●舟前小鵝兒
〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕
鵝兒黃似酒,對酒愛新鵝。
引頸嗔船逼,無行亂眼多。
翅開遭宿雨,力小困滄波。
客散層城暮,狐狸奈若何。
(房琯が去った後、漢州にゆき、彼の掘らせた池に遊んで、鵞鳥の子を見て詠じたもの。)
〔杜甫が注を付す。漢州城の西北の官有地に作られた官が作った池で「房公湖」という。〕
鵞鳥のひなは黄色くて漢州の鵞黄酒のような色をしている。その酒を汲みかわして、その鵞鳥の子を可愛いく眺めている。
ひなは頸をのばして、舟が近づくのを怒ったり、行列もつくらず歩きまわって、見る人の目をチラチラさせる。
羽根は夜来の雨に遭うてささくれ立ち、まだ力がよわいので紋にぶっつかって困っている。
城が暮れて来て、遊客も散り果てたあと、またぞろ、狐狸のような群寇が出て来たら、それをどうしたらいいだろう。
(舟前【さき】の小鵝兒【しょうがじ】〔自注:漢州城西北の角の官池にて作る,官池は即ち房公湖という。〕)
鵝兒 黃なるは酒に似たり,酒に對すれば新鵝を愛す。
頸を引【のば】せば船の逼るを嗔【いか】り,行を無くせば眼を亂すこと多し。
翅 開けば宿雨に遭い,力 小【すくな】ければ滄波に困しむ。
客は散ず 層城の暮に,狐狸 若【なんじ】を奈何【いかん】せん。
●得房公池鵝
房相西亭鵝一群,眠沙泛浦白於雲。
鳳皇池上應迴首,為報籠隨王右軍。
(房琯の作った池に浮かぶ鵞鳥とその子供たちを見ると王羲之の故事を思ってしまって作った詩。)
今は、亡き房琯宰相の西湖の傍の亭から鵞鳥の一群を見つめる。あるものは砂の上で眠り、水の上の者たちは遠く浮ぶ雲と一緒に水面を泳いでいる。
それは鳳凰たちが池に浮かんでいるようであるので思わず首を廻して一緒に見ている人と納得をするのである。というのも、私だってこんなかわいい鵞鳥を見れば、鵞鳥を大変寵愛した晋の王羲之の逸話のように飼ってやり、かわいがることもどうようにするものである。
(房公池の鵝を得る)
房相 西亭 鵝の一群,沙に眠り 浦に雲を於き白くし泛ぶ。
鳳皇 池上 應に首を迴し,報を為す 王右軍を籠隨すと。
●答楊梓州
悶到房公池水頭,坐逢楊子鎮東州。
卻向青溪不相見,迴船應載阿戎遊。
(楊梓州刺史からの書簡に答える。)
長い間の漂泊生活の苦しみのなかで、房琯公の作られた池のほとりにやっと到った。ここでの生活する日常的にであったのが楊殿であり、彼は蜀の東側の州の乱れを鎮圧された。
こうして春になって州境の靑渓関に向かったが互いに合うということはなかったなら、そこに船をむかえにやらせても、帰ってきてまさにいとこ兄弟として舟遊びをしようではないか。
『答楊梓州』 現代語訳と訳註
(本文)
答楊梓州
悶到房公池水頭,坐逢楊子鎮東州。
卻向青溪不相見,迴船應載阿戎遊。
(下し文)
楊梓州に答える
悶到したのは房公の池水の頭に,坐ろに逢うは楊子が東州を鎮めしころだ。
卻て向うた青溪で相いに見まわざれば,船を迴して應載して阿戎として遊ばん。
(現代語訳)
(楊梓州刺史からの書簡に答える。)
長い間の漂泊生活の苦しみのなかで、房琯公の作られた池のほとりにやっと到った。ここでの生活する日常的にであったのが楊殿であり、彼は蜀の東側の州の乱れを鎮圧された。
こうして春になって州境の靑渓関に向かったが互いに合うということはなかったなら、そこに船をむかえにやらせても、帰ってきてまさにいとこ兄弟として舟遊びをしようではないか。
(訳注)
答楊梓州
(楊梓州刺史からの書簡に答える。)
直属の部下である梓州の留後の章彝との仲が良かった。
章梓州水亭
〔原注〕時漢中王乗道士席謙在合、同用荷字韻
城晚通雲霧,亭深到芰荷。
吏人橋外少,秋水席邊多。
近屬淮王至,高門薊子過。
荊州愛山簡,吾醉亦長歌。
701 《章梓州水亭〔自注:時漢中王兼道士席謙在會,同用荷字韻。〕》蜀中転々 杜甫<608> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3350 杜甫詩1000-608-864/1500
692 《陪章留後侍御宴南樓〔得風字。〕》#1 蜀中転々 杜甫 <598> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3300 杜甫詩1000-598-854/1500
悶到房公池水頭,坐逢楊子鎮東州。
長い間の漂泊生活の苦しみのなかで、房琯公の作られた池のほとりにやっと到った。ここでの生活する日常的にであったのが楊殿であり、彼は蜀の東側の州の乱れを鎮圧された。
・悶 長い間の漂泊生活の苦しみを云う。1 もだえ苦しむ。「悶死・悶絶・悶悶/苦悶・煩悶」2 もつれる。「悶着」
・房公 房琯のこと。河湖地名(湖海池潭)、房公池。
・池 漢州城の西北の官有地に作られた官が作った池で「房公湖」という。
・東州 梓州の漢時代の名称。唐では剣南西道の東側(梓州、遂州、普州)をいう。
卻向青溪不相見,迴船應載阿戎遊。
うして春になって州境の靑渓関に向かったが互いに合うということはなかったなら、そこに船をむかえにやらせても、帰ってきてまさにいとこ兄弟として舟遊びをしようではないか。
・青溪 梓州、綿州と漢州の境界近くの渓谷の名前。近くに靑渓関がある。春景色の靑渓関。
・阿戎 いとこ。堂弟。
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◎房琯擁護事件について
杜甫は、天子の側近にあって国政に直接関わることのできる地位に就くことができたのである。
今こそ
「致君堯舜上,再使風俗淳。」
“君を堯と舜の上に致し、再び風俗をして淳あつからしめん”
『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』という年来の志を果たすことができようと、杜甫は身の引き締まる思いをしながらも、心からうれしかったのだ。
その左拾遺に任ずる詔書には、
“襄陽の杜甫、爾の才徳は、朕深く之を知る。
今、特に命じて宜義郎・行在の左拾遺と為す。
職を授けし後は、宜しく是の職に勤めて怠る
ことなかるべし。中書侍郎の張鎬に命じ、
符をもたらして告論せしむ。
至徳二載五月十六日行。”
とあり、杜甫は“宜しく是の職に勤めて怠ることなかるべき”ことを誓った。そうして数日ののち、拾遺の職務に忠実に諌諍を行なったが、粛宗の激怒によって危うく一命を失いそうになる。
諌諍の内容は、杜甫が左拾遺を授けられる六日前、すなわち757年五月十六日に宰相から太子少師の閑職に左遷された房琯の弁護であった。房琯は、蜀にある玄宗のもとから派遣されて粛宗の政府の宰相となっていたが、陳陶斜と青坂での敗戦の責任は、粛宗の信任あつい李泌のとりなしによってなんとか問われなかったものの、粛宗の信頼は失われてしまっていた。また、賀蘭進明・崔円ら粛宗直属の臣と、玄宗のもとから遺わされてきた者との対立、知識人宰相として実務家官僚たちと意見が合わず孤立していた、などという事情を背景とし、直接には、房琯の取り巻きの一人である楽師が宰相への口利き料を取っていたのが露見して収賄罪で告訴され、それを房琯が救けようとした、ということが原因となって左遭されたものであった。
杜甫にとって房琯は、私的には「布衣の交わりを為す」(『新唐書』杜甫伝)つまり地位の上下をぬきにしたつき合いをしていた人であったようであるし、また公的には、新政府の宰相として彼以上の人物はいないと信じていたために、房棺が左遷されたのを、そのまま見過ごしておくことはできなかった。そうして、政府内の事情もよくわからないままに、また左拾遺としての慣例などおかまいなしに、わが思うままを述べたてて、「罪は細なり。宜しく大臣を免ずべからず」(『新唐書』杜甫伝)と奏上した。それは実情を考慮することなく、理想に向かって突っ走ろうとする、
いかにも杜甫らしい行動であった。
職務に忠実とはいえ、僭越過ぎる諫諍をしたものである。朝廷とは行在所で粛宗も皇帝としての実績もなく、叛乱軍に対する政策も方針も確固たるものがなかった時期である。確かに、戦力を整えるときで人材を豊富にし、集積にして行かなければいけない時であった。粛宗の好みで近臣を選定していたのである。したがって、好みでないものは左遷された。そうであっても、成りたての新米、朝廷内のなにもわからないものが、云うべき問題であったのか、疑問は残る。それと、杜甫がせっかく擁護した房琯のその後の態度姿勢は擁護に値する人間ではなかったのである。ただ、玄宗皇帝にうまく取り入っていた男に過ぎなかったのではないのか。そうした意味で杜甫の一生をかけていうべき問題ではなかったというのが結果論である。
粛宗はこの時、杜甫を玄宗派出なく自派の陣営として左拾位に任命したのである。玄宗の指令を受けてきて素行のよろしくないとされている房琯を誰もが援護するとは思ってもみなかった。なりよりも、陳陶、青坂の戦いは軍を率いた将軍として不甲斐無さ過ぎた。玄宗から派遣されたものでなければ将軍に抜擢されていないはずである。近親が必要な段階であった。房琯のおつきの楽師が賄賂を採ったとは、宦官の仕組んだ罠のようなものであったのだとは思うが、この段階で、その房琯を擁護するのは、どう考えても僭越を通り過ぎている。杜甫を、粛宗が信用するはずはなく、将来がなくなるのは当り前であろう。すべて宦官のしくんだ罠にはまったのである。玄宗も、粛宗も一番信頼できたのは、宦官勢力であった。事実宦官に寄って王朝は守られ維持できたのである。この読みの違いは杜甫にとってはどうしようもない失策であった。杜甫自身も一回朝廷の地位に付けば先祖に対する名分は立ったと考えたのかもしれない。ある意味で覚悟した言動行動であったのかもしれないし、杜甫の中では、玄宗元皇帝の影響力がまだ残っていると考えていたのかもしれない。杜甫の人生の中のエポックになる事件であった。しかし杜甫はこの事件について、その後も反省はしていない。