杜甫《送韋諷上閬州錄事參軍 》 韋諷殿にはきっと陶淵明の様な充実した四季、山水の春秋生活を過せる時が来る。清廉な知識者として存在していただくことを貫ぬき徹して欲しいのだ。
744廣徳2年764年―2 《送韋諷上閬州錄事參軍
》 蜀中転々 杜甫 <651-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3580 杜甫詩1000-651-#1-910/1500744
詩 題:送韋諷上閬州錄事參軍
作時:764年 廣德二年 杜甫53歳
掲 載; 杜甫1000首の654首目-場面
杜甫ブログ1500回予定の-910回目
卷別: 卷二二○ 文體: 五言古詩
詩題: 送韋諷上閬州錄事參軍
及地點: 閬州 (山南西道 閬州 閬州) 別名:閬、巴城
交遊人物/地點: 韋諷
763年この年の夏ごろから、杜甫は梓州刺史章彝(前任の杜済は綿州刺史に転じていた)の客分となり、その主催する送別や歓迎の宴に出席したり、遊覧・遊猟に随行している。杜甫の詩人としての名も、かなり揚がっていたらしく、彼はそれによって一家の生活を支え、また東下の旅費を蓄えていた。しかしこのころ、辺境の情勢は緊迫の度を加え、吐蕃の軍は長安に迫り、西南方面(松・雅・保州)においては巴・蜀を圧迫していた。そうして、十月になるとついに長安に攻めこみ、代宗は東の方の陝州(河南省陝県)に逃げてしまった。しばらくして郭子儀が反撃に転じ、吐蕃軍は遁走したが、まさに安禄山の乱の再現かと思われた。
杜甫はそれらの情報を伝え聞きながら、今はただ一つしか残されていない東方への道、長江を下るべく、ひたすら旅の準備をととのえていた。その大部分は章彝の援助に頼るしかなかったため、彼は章彝とその幕僚の機嫌を損ねないように、言行を慎重にしていたらしい。そのためであろう、杜甫が東方の旅に出発することを申し出ると、彼らは送別会を開いてくれ、章彝は無事な旅を祈って、梓州特産の桃竹の杖を二本、杜甫に贈った。
出発も間近に迫ったある日、都に帰った厳武のはからいであろうか、杜甫を京兆府の功曹参軍(庶務課長)に任ずるとの連絡があった。しかし、すでに三峡を下って呉・楚の地に赴く決心をしていた杜甫は、それを辞退した。
送韋諷上閬州錄事參軍 #1
(韋諷が閬州の錄事參軍に上奏するために送別する。)
國步猶艱難,兵革未衰息。
この国の歩むべき道のりは今なお、艱難辛苦に立ち向かっている。国軍の兵卒たちは未だに可哀相で、安息できる暇もないのである。
萬方哀嗷嗷,十載供軍食。
国の各機関、人民に至るまでどこを向いてみても、非難ごうごう、悲しくなるように満足できる状況ではないのである。あなたにしてみれば、この十年、戰場での食事を兵卒たちと一緒にとることの繰り返しということなのだ。
庶官務割剝,不暇憂反側。
余り高くない爵位職責で身を裂かれ剥れるほどの職務を全うされたのであるが、この先を憂うことばかり、ゆっくりすること、安寧であることなどなく全く反対側に居続けていて暇もない状態であった。
誅求何多門,賢者貴為德。
天による誅殺を求めるとしたならば、何と多くのグループ、一族、官僚に至る多くの門があるというものであろうか。儒者、賢者は仁徳でもって施政を行うということを貴きものとしている。
韋生富春秋,洞徹有清識。
韋諷殿にはきっと陶淵明の様な充実した四季、山水の春秋生活を過せる時が来る。清廉な知識者として存在していただくことを貫ぬき徹して欲しいのだ。
#2
操持紀綱地,喜見朱絲直。
當令豪奪吏,自此無顏色。
必若救瘡痍,先應去蟊賊。
揮淚臨大江,高天意悽惻。
行行樹佳政,慰我深相憶。
韋諷が閬州の錄事參軍に上つるを送る #1
國步 猶お艱難たり,兵革 未だ衰息せず。
萬方 哀嗷嗷として,十載 軍食を供にする。
庶官 割剝に務め,暇わず 反側を憂う。
誅求は何ぞ門多からん,賢者は德を為すを貴しとす。
韋 富める春秋を生じ,清識有るを洞徹せよ。
#2
操持して紀綱の地,喜見して朱絲の直。
當令 豪奪の吏,此れ自り顏色無し。
必ず瘡痍を救わんとするが若し,先ず應に蟊賊去る。
淚を揮って大江に臨み,高天 意 悽惻たり。
行き行きて佳政を樹て,我を慰む 深く相い憶うを。
『送韋諷上閬州錄事參軍』 現代語訳と訳註
(本文) 送韋諷上閬州錄事參軍 #1
國步猶艱難,兵革未衰息。
萬方哀嗷嗷,十載供軍食。
庶官務割剝,不暇憂反側。
誅求何多門,賢者貴為德。
韋生富春秋,洞徹有清識。
(下し文)
韋諷が閬州の錄事參軍に上つるを送る #1
國步 猶お艱難たり,兵革 未だ衰息せず。
萬方 哀嗷嗷として,十載 軍食を供にする。
庶官 割剝に務め,暇わず 反側を憂う。
誅求は何ぞ門多からん,賢者は德を為すを貴しとす。
韋 富める春秋を生じ,清識有るを洞徹せよ。
(現代語訳)
(韋諷が閬州の錄事參軍に上奏するために送別する。)
この国の歩むべき道のりは今なお、艱難辛苦に立ち向かっている。国軍の兵卒たちは未だに可哀相で、安息できる暇もないのである。
国の各機関、人民に至るまでどこを向いてみても、非難ごうごう、悲しくなるように満足できる状況ではないのである。あなたにしてみれば、この十年、戰場での食事を兵卒たちと一緒にとることの繰り返しということなのだ。
余り高くない爵位職責で身を裂かれ剥れるほどの職務を全うされたのであるが、この先を憂うことばかり、ゆっくりすること、安寧であることなどなく全く反対側に居続けていて暇もない状態であった。
天による誅殺を求めるとしたならば、何と多くのグループ、一族、官僚に至る多くの門があるというものであろうか。儒者、賢者は仁徳でもって施政を行うということを貴きものとしている。
韋諷殿にはきっと陶淵明の様な充実した四季、山水の春秋生活を過せる時が来る。清廉な知識者として存在していただくことを貫ぬき徹して欲しいのだ。
(訳注)
送韋諷上閬州錄事參軍
(韋諷が閬州の錄事參軍に上奏するために送別する。)
『東津送韋諷攝閬州錄事』
聞說江山好,憐君吏隱兼。
寵行舟遠泛,怯別酒頻添。
推薦非承乏,操持必去嫌。
他時如按縣,不得慢陶潛。
650五言律詩 《東津送韋諷攝閬州錄事》 蜀中転々 杜甫 <555> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3000 杜甫詩1000-555-794/1500
○錄事參軍 古代の官職。衛門尉の別称。常是軍政長官的幕僚。衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督
(後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。
國步 猶艱難 ,兵革 未
衰息 。
この国の歩むべき道のりは今なお、艱難辛苦に立ち向かっている。国軍の兵卒たちは未だに可哀相で、安息できる暇もないのである。
○國步」国の歩むべき道のり、世局。
○艱難」艱難辛苦に立ち向かっている。
○兵革」国軍の兵卒たち。
萬方 哀 嗷嗷 ,十載 供
軍食 。
国の各機関、人民に至るまでどこを向いてみても、非難ごうごう、悲しくなるように満足できる状況ではないのである。あなたにしてみれば、この十年、戰場での食事を兵卒たちと一緒にとることの繰り返しということなのだ。
○萬方」国の各機関、人民に至るまでどこを向いてみても。
○嗷嗷」【ごうごう】叫び声などが騒がしいさま。口やかましく非難するさま。
○十載」十年。
庶官 務割剝,不暇 憂 反側。
余り高くない爵位職責で身を裂かれ剥れるほどの職務を全うされたのであるが、この先を憂うことばかり、ゆっくりすること、安寧であることなどなく全く反対側に居続けていて暇もない状態であった。
○庶官」余り高くない爵位職責。
○割剝 中国では皮剥ぎの刑を「剥皮」(はくひ)「割剝」(かつはく)と呼ぶ。
前漢の景帝の御世、皇族の広川王劉去が「生の人を割剥した」との記録が「漢書」にある。ここでは、10年来軍に務めあげることをこれほどの辛い思いをして勤め上げたことを云う。
誅求 何多門 ,賢者 貴為德
。
天による誅殺を求めるとしたならば、何と多くのグループ、一族、官僚に至る多くの門があるというものであろうか。儒者、賢者は仁徳でもって施政を行うということを貴きものとしている。
○誅求」天による誅殺を求めること。
韋生 富春秋 ,洞徹 有
清識 。
韋諷殿にはきっと陶淵明の様な充実した四季、山水の春秋生活を過せる時が来る。清廉な知識者として存在していただくことを貫ぬき徹して欲しいのだ。
○韋生」韋諷。
○春秋」陶淵明の様な充実した四季、山水の春秋生活を過せる時が来ることをいう。
○洞徹」知ること、貫通する。通り抜ける。
○清識」清廉な知識者。清玩・清幽・清談・清閑・清貧を理解する。
清玩:」「清雅:清らかで上品な美しさのあること。」「清幽:世俗を離れ、清らかで静かなこと。」「清談:知識人たちの哲学的な談話のこと。
概要[編集]. 中国思想史において、儒教思想全盛の漢代から、魏の時代になり、知識人たちは常識的な儒教道徳を超えて、主に老荘思想を題材とする幽玄な哲学的議論を交わしていた」「清閑:俗事にわずらわされず静かなこと。」「清貧:私欲をすてて行いが正しいために、貧しく生活が質素であること。」
法書名画、古鼎宋硯、そのほかくさぐさの文房具をつらねて、香を焚き、茶をすすり、花竹を愛でつつ、窓外に奇峰遠水を眺めて、佳客とともに清玩する。
このような文房生活の境地をいつしか文房清玩とよぶようになった。



