杜甫《送李卿曄》少し前ではあるが、天子でさえ、衣を露で濡らすような状況で陜州に行在所を置かれていたし、吐蕃が退却してやっと馬を走らせて、承明蘆のある長安にむかうことができたのである。
廣徳2年764-58 《送李卿曄》 ふたたび成都 杜甫<734> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4000 杜甫詩1500-734-971/250022
製作年: 764年 廣德二年 53歲
卷別: 卷二二七 文體: 五言律詩
詩題: 送李卿曄
及地點: 長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都
承明廬 (京畿道 京兆府 長安) 別名:承明
晉山 (山南西道 閬州 晉安(晋安)) (山南西道 閬州 閬州)
交遊人物: 李曄
送李卿曄
(嶺南に貶められる李嘩卿を送る。)
王子思歸日,長安已亂兵。
王子である李曄は長安に帰る日があるというように思うことである。今長安は安史の乱に続いて、吐蕃が攻め入り、乱れておるのである。
霑衣問行在,走馬向承明。
少し前ではあるが、天子でさえ、衣を露で濡らすような状況で陜州に行在所を置かれていたし、吐蕃が退却してやっと馬を走らせて、承明蘆のある長安にむかうことができたのである。
暮景巴蜀僻,春風江漢清。
まあ、確かにここ巴蜀の夕暮というのは辺鄙な所と思われるけれど、この春風に乗って漢水を下り、長江の清々しい所を下ってゆかれるのである。
晉山雖自棄,魏闕尚含情。
閬州晋山での地位というものを自ずから捨てられるということではありますが、古くから由緒ある家系のことでもあり、唐の朝廷からしてもまだなお厚情というのがあるものです。
李卿曄 を送る
王子 歸日を思い,長安 已に兵に亂る。
霑衣して 行在に問い,走馬して 承明に向う。
暮景 巴蜀の僻,春風 江漢の清。
晉山 自棄すると雖も,魏闕 尚お情を含まん。
『送李卿曄』 現代語訳と訳註
(本文)
送李卿曄
王子思歸日,長安已亂兵。
霑衣問行在,走馬向承明。
暮景巴蜀僻,春風江漢清。
晉山雖自棄,魏闕尚含情。
(下し文)
李卿曄 を送る
王子 歸日を思い,長安 已に兵に亂る。
霑衣して 行在に問い,走馬して 承明に向う。
暮景 巴蜀の僻,春風 江漢の清。
晉山 自棄すると雖も,魏闕 尚お情を含まん。
(現代語訳)
(嶺南に貶められる李嘩卿を送る。)
王子である李曄は長安に帰る日があるというように思うことである。今長安は安史の乱に続いて、吐蕃が攻め入り、乱れておるのである。
少し前ではあるが、天子でさえ、衣を露で濡らすような状況で陜州に行在所を置かれていたし、吐蕃が退却してやっと馬を走らせて、承明蘆のある長安にむかうことができたのである。
まあ、確かにここ巴蜀の夕暮というのは辺鄙な所と思われるけれど、この春風に乗って漢水を下り、長江の清々しい所を下ってゆかれるのである。
閬州晋山での地位というものを自ずから捨てられるということではありますが、古くから由緒ある家系のことでもあり、唐の朝廷からしてもまだなお厚情というのがあるものです。
(訳注)
送李卿曄
(嶺南に貶められる李嘩卿を送る。)
・李卿曄 曄は戶部尚書淮安郡國公であった李琇の子で、刑部侍郎ある。杜甫が出会ったのは山南西道閬州の晉安であり、この時、罪により嶺南に貶められることになったもの。
李琇は字琇といい,淮安の忠公であり、宗正卿 李齊晏のことである,陝王府戶曹參軍までなった。
この詩で、代宗の気まぐれの逆鱗に触れたものと思われるが、何らかの罪で、嶺南・広東へ流されるのを見送ったもの。
王子思歸日,長安已亂兵。
王子である李曄は長安に帰る日があるというように思うことである。今長安は安史の乱に続いて、吐蕃が攻め入り、乱れておるのである。
○杜甫が、3月に成都に帰るが正月から2月にかけて閬州で送別の宴があったのだろう。
霑衣問行在,走馬向承明。
少し前ではあるが、天子でさえ、衣を露で濡らすような状況で陜州に行在所を置かれていたし、吐蕃が退却してやっと馬を走らせて、承明蘆のある長安にむかうことができたのである。
暮景巴蜀僻,春風江漢清。
まあ、確かにここ巴蜀の夕暮というのは辺鄙な所と思われるけれど、この春風に乗って漢水を下り、長江の清々しい所を下ってゆかれるのである。
・巴蜀僻 巴蜀の辺鄙な所。剣南道、山南西道三巴をいうが、長安に比較して辺鄙であること。
晉山雖自棄,魏闕尚含情。
閬州晋山での地位というものを自ずから捨てられるということではありますが、古くから由緒ある家系のことでもあり、唐の朝廷からしてもまだなお厚情というのがあるものです。
・晉山 古くからある住持職(住持)の略称。住職になることを出世(しゆつせ)といい,住職として実際にその寺に入ることを入院(じゆいん),あるいは晋住(しんじゆう),また晋山(しんざん)という。【案:介山在綿上,以子推自比。】 綿山の抱腹寺は曹魏の太和年間に建立されたものである。綿山の『大唐汾州抱腹寺碑』の記載よると、同寺は曹魏の太和年間の高僧・迪公が考察したうえ、朝廷に建設案を上奏して魏明帝の勅令によって建立し、さらに抱腹寺という名を勅封した。