二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

 

        
 2014年5月12日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
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 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059  
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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763 《祭故相國清河房公文-(7) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059

 

 

(房琯公は退けられ、病に憑かれた)

(6)三段目-1

天道闊遠,元精茫昧。

房琯公の天の道理は広いこころではるか先まで包む、その根元の精気のはたらきはそれがひろくはてしないがために理解されにくいのだ。

偶生賢達,不必際會;

賢く天の法則・道理を得て達するものが偶然この世紅生まれたとしても、その域に達したものはその域に達したものに出会うものだとされるが必ず会うとは言えないのだ。

明明我公,可云時代。

明明白白、疑わしいところのない我が房公は時代から退けられてよいものだろうか、退けられてはならないのだ。

賈誼慟哭,雖多顛沛;

漢の賈誼は改革の芽を摘まれ、左遷され、いく度も慟哭したけれども、ついにはつまずき倒れてしまった。

仲尼旅人,自有遺愛。

孔子は弟子とともに諸国巡遊の旅に出て、国政に失望したけれど、その仁愛はいつまでもしたわれているのだ。

(7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

後事所委,不在臥

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

因循寢疾,憔翠無悔;

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

夭閼泉涂,激揚風

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

天柱既折,安仰翊戴?

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

地維則,安放夾載?

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。

 

(6)三段目-1

天道は 闊遠し,元精は茫昧たり。

偶ま賢達を生じるも,不必ずしも際會せず;

明明たる我公,時代と云う可きなり。

賈誼 慟哭する,多くあると雖も顛沛す;

仲尼は旅人なるも,自ずから遺愛有り。

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥在らず

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

玄武門 

『祭故相國清河房公文』-(7) 現代語訳と訳註

(本文) (7) 三段目-2

二圣崩日,長號荒外;

後事所委,不在臥

因循寢疾,憔翠無悔;

夭閼泉涂,激揚風

天柱既折,安仰翊戴?

地維則,安放夾載?

 

(下し文)

(7) 三段目-2

二圣【にせい】崩ぜし日,長く荒外に號す;

後事 委ぬるに,臥に在らず。

因循して疾に寢るも,憔翠して悔い無し;

泉涂に夭閼【ようあつ】し,風概を激揚す。

天柱 既に折れ,安んぞ仰ぎて翊戴せん?

地維 則ちたれ,安んぞ放ちて夾載せん?

 

(現代語訳)

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。

 

蜀中転々圖 

(訳注) (7) 三段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

 

二圣崩日,長號荒外;

二人の聖人、玄宗と粛宗が崩じられた時、房公は遠き荒外の地から二聖人を忍んでにいつまでも哭きさけんだ。

二圣 二人の聖人、玄宗と粛宗のこと。

 

後事所委,不在臥

二聖人亡き後の事を託すべき人は、朝廷内にはふさわしい人がいないということを憂いていたからだ。

 臥室、內室.ここでは朝廷内をいう。

 

因循寢疾,憔翠無悔;

房公は病床について悪くなったり戻ったりしていたが、代宗の治政を案じて、どんなに憔悴しても心配することをいとわなかった。

 

夭閼泉涂,激揚風概。

黄泉の国への道を遮って逆に大事業を計画するという、その気高い風格を奮いたたせられたのである。

夭閼  押さえてさえぎる。(南方に発展しようとすること。転じて、大事業を計画すること。)『荘子』逍遥遊「而後乃今培風、背負青天、而莫之夭閼者。而後乃今將圖南。」而しかる後のち乃今いま風かぜに培のれば、背せに青天せいてんを負おいて、之これを夭閼ようあつする者もの莫なし。而しかる後のち乃今いま将まさに南みなみを図はからんとす。

泉涂 黄泉の国への道

 

天柱既折,安仰翊戴?

しかし、天を支える柱はすでに折れてしまったのに、どうして主君をあおぎいただいてお助けできるだろうか。

翊戴 翊:あおぎいただくすじのとおった主君。
 

地維則,安放夾載?

大地を維持する綱が切れてしまったのに、どうしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう。
鶻 

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

855 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

856 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

●文

奉謝口敕放三司推問状

祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)




貨幣を変えたことで驚異的なインフレーションを起こしているのは朝廷と富貴の者に人民の富を収奪していくことに他ならないのである。。

黄河下流域・運河は安史軍に抑えられ、長安洛陽に江南からの物資が届かないことでの物価高騰。

杜甫はその詩で度々述べているが「太夫の士族で税金がかからないから生活ができる」が、税を重くすれば、農民は逃散するということを身をもって体験している。



張皇后と李輔国は表裏一体となって禁中で横車を押し、政事に関与した。
収賄は日常。粛宗皇帝は不愉快だったが、 何もできなかった。 宦官達は、彼の官職さえ口にせず、皆、”五郎”と呼んだとある。

李輔国は肅宗政権の清廉で、忠君な者たちの排除を肅宗に遣らせた。それが房琯の一党の左遷である。それを契機に張皇后と李輔国の横暴はエスカレートし、肅宗は縮み込んだ存在になってゆく。


肅宗は張皇后・李輔国の宦官勢力に身動き取れない状態に追い込まれ、玄宗と同じように蓬伍するのである。

杜甫は房琯の政策こそが唐を救うものとしていた。



この時、杜甫が把握していただろう情勢を整理してみると以下のとおりである。 

①    張皇后と李輔国の宦官勢力の横暴。

② 戦争課税を人民を苦しめず現有勢力を整えて上手くやるより、各種増税を人民負担の増加に求めたこと。


③ 悪貨鋳造により、人民収奪、超過激なインフレーションをを引き起こした。

④ 天災飢饉の最中人民を助けないで重税・増税を行った。


⑤ 麻薬のような劇薬ともいえるウイグル軍への安易な援軍要請。(これにより唐の財政破たん衰退がボディーブローのように効いていくことになる)

⑥ 第五琦の主張する江、淮の庸調を売って軽貨とし、江、漢を遡って 洋川へ持って行き、そこから先は扶風まで漢中王・禹へ陸送させて軍用とするよう請うた。粛宗皇帝は、 これへ従う。 次いで、第五琦へ山南等五道度支使を加えた。第五琦は塩を専売にして国用にした政策実施は戦時下において的を得たものであったが、その物資は途中安史軍によって略奪されることになり相手の強化に寄与することもある。。


⑦賀蘭進明は宦官グループの代弁者となった。

杜甫がどこまでこれらのことを把握していたのか。

房琯グループ、杜甫は完全に把握していたと思われる。ただここまで来ても、宦官勢力のゲシタポ以上の統率力の前には誰もどうしようもなく、発言も出来なくなっていたのだ。
⑧宦官たちは、ある部分唐王朝の利益を守る大きなファクターであったからだ。 

成都遂州00