長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、というありさまなのだ。昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくない。

        
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廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(9)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4195 杜甫詩1500-1501-9-1010/250064

 

(国を思い、清廉で徳のある人房琯公対して朝廷は非礼をかえしている)

(8)四段目-1

豈無群?我心忉忉。

かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいるはずなのであるが、だが、それを選んでくれるかどうか、私の心はうれいで一杯になる。

不見君子,逝水滔滔。

房公が亡くなった、いま、立派な人物とであったことがないし、流れゆく水はそのままとうとうと流れ去ってかえってはこない。

泄涕寒谷,吞聲賊壕;

涕をこの閬州の寒々しい谷にこぼしてしまい、悲しみの声はここにたくさんある叛乱軍に備える塹壕に呑みこませることにするのである。

有車爰送,有紼爰操。

房公の棺を車にのせてここに送り、挽歌を歌いながら挽き綱をここら引いてゆく。

撫墳日落,劍秋高;

棺を納め、墳墓をなで静める頃には日は西に落ちかかる、剣をさやから抜いて掲げると秋の空は高く晴れ渡る。

我公戒子,無作爾勞。

しかし、我が公は死の真際に子に戒めて、「自分の葬儀に労力をかけないよう」申しおかれたという。

 (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

身瘞萬里,家無一毫。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

數子哀過,他人郁陶;

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。
水漿不入,日月其忄舀。』

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

州府救喪,一二而已;

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

自古所嘆,罕聞知已。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

 (8)四段目-1

豈に群無からん?我が心 忉忉【とうとう】たり。

君子に見【まみ】えざり,逝く水 滔滔【とうとう】たり。

涕を寒谷に泄【もら】し,聲を賊壕に吞む;

車有りて爰【ここ】に送り,紼有りて爰に操る。

墳を撫すれば日落ち,劍をすれば秋高し;

我が公子を戒め,「爾が勞を作す無かれ」と。

(9) 四段目-2

斂するに素帛を以ってし,諸を蓬蒿に付す;

身は萬里に瘞【えい】せられ,家には一毫無し。

數子 哀しみ過ぎり,他人 郁陶たり;

水漿 入らず,日月 其れ慆【す】ぐ。

州府 救喪し,一二 にやむ;

古より嘆く所なり,知已を聞くは罕なり。

 

玄武門 

『祭故相國清河房公文』 現代語訳と訳註

(本文)  (9) 四段目-2

斂以素帛,付諸蓬蒿;

身瘞萬里,家無一毫。

數子哀過,他人郁陶;

水漿不入,日月其忄舀。』

州府救喪,一二而已;

自古所嘆,罕聞知已。」

 

(下し文) (9) 四段目-2

斂するに素帛を以ってし,諸を蓬蒿に付す;

身は萬里に瘞【えい】せられ,家には一毫無し。

數子 哀しみ過ぎり,他人 郁陶たり;

水漿 入らず,日月 其れ慆【す】ぐ。

州府 救喪し,一二 にやむ;

古より嘆く所なり,知已を聞くは罕なり。

 

(現代語訳)

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

 

(訳注) (9) 四段目-2

祭故相國清河房公文

(もと宰相であって、清河郡の刺史であった房琯公を祭る文をつくる。)

宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

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斂以素帛,付諸蓬蒿;

亡骸を納めるのに白絹だけで死に衣裳とし、棺はこともあろうに野原におかれたのである。

『儀礼』では、一般士族でさえ、死者を埋葬する場合には、特別の衣装が用いられる。下着である明衣裳には、麻布が用いられ、死者の顔をおおう正方形の布巾、頭をくるむ掩(えん)、黒布製の顔面の覆い、手をくるむ黒布、死者の上半身をかぶせる黒色の袋、下半身をかぶせる赤袋が房の中に一列にならべられる、というもので、また三日間は依代【よりしろ】という棺を木材で作られた台の上におかれるもので、野原に置くとは言語道断ということである。仮埋葬の三日月を経て、正式の埋葬に移るのである。

 

身瘞萬里,家無一毫。

そんな理不尽な葬儀の上、房公のなきがらは故郷から万里離れた地に仮埋葬され、家に主君からは一毫の贈り物もなく、わずかな財産もなかったという。

●この時代の葬儀は、死んだ故人の為、畏敬のためというものもあるが、主君に尽くしてくれた故人が黄泉の国に問題なく逝ってもらうためであり、主君の権威づけのために行われるものであった。葬儀を形式通り行わないのは、殺した可能性の場合、五書『儀礼』を無視することある。杜甫がこの詩文でこのことを最も重要な点であるとしているのである。代宗が全く無能な天子であるといっていることになるのである。張后と李崔国の宦官グループに対して何もできない傀儡の様な存在に成り下がっていたということなのだ

 

數子哀過,他人郁陶;

遺された房公の子どもたちは悲しみに暮れすぎてやつれ果てた、他人はあなたを思って心がふさぐだけでなにもできなかったのだ。

 

水漿不入,日月其忄舀。

水や飲みものさえも、のどを通らないままに、月日だけがどんどん過ぎていった。

 

州府救喪,一二而已;

長官であった房琯の死に州や幕府からの葬儀へのたすけは、ほとんどなく、あっても一つか二つあっただけというありさまなのだ。

●ここにあるように、朝廷から使者も何もない、州府からほとんどない、というのは異常なことで、なぜこのような態度をとったのか。再度朝廷に召されたというのは嘘なのか。朝廷に向かう途中で病死したのか。結論をいうと、これらの事から朝廷で房琯を召して宰相に還すことに反対の勢力(張后と李崔国の宦官グループ)が一切を止めたということ、邪推かもしれないが、房琯の死、玄宗、肅宗の死は、宦官グループの仕業と考えれば、すべて理解できることとなるのである。ただ、この宦官グループはこの時代のすべての機関にゲシュタポGeheime Staatspolizei、のように影響力を持っていたため歴史書に見ることはなく、推測である。の聯は押韻が変換されているが、あえて次の聯と共に第四段として区切った。

 

自古所嘆,罕聞知已。」

昔から五書『儀礼』で嘆かくことはさだめられてきたものであり、こんな葬儀で知己の者だけで行われるということは前代未聞、きいたことがまったくないことである。

○自古 五経典『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』により葬儀の方法は明確に示されているということ。この事は、儒者に限った事ではなく、ここに至るすべての王朝で執り行われてきたことなのである。

●ここまでは、執り行われた葬儀が、五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたののであること、杜甫は、本人の希望とはいえ、朝廷に迎えられるほどの人物に対する儀礼がなされていないことをいうのである。

ここまでの解釈はおそらく初めての解釈であろうと思う。

少陵台 

この「祭故相國清河房公文」が強烈な朝廷批判であるために同時期に作られた

763年の三首

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764の《別房太尉墓》

廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

が極端にゆるい追悼の詩文にしたのは房琯個人にだけ向けられたものであるということ、杜甫が「文」と「詩四首」を使い分けをしたということである。