757年至徳二載四月、安緑山の乱のさなか、長安で虜囚となって軟禁されていた杜甫は、安史軍の目を盗んで脱出した。間道を抜けて、鳳翔の行在所に駆けつけた。命がけであった。安史軍支配地から鳳翔行在所へ逃げのびて來る者たちは多かった。


 
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自京竄至鳳翔達連行在所 三首其一杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其二杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其三杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ

 

その功によって五月十六日、左拾遺の官を授けられる。

 

これに先立つ五月十日には宰相房琯が罷免されていた。

 

 

左拾遺に任じられた杜甫は、上疏して房琯を救おうとして粛宗の逆鱗に触れ、粛宗は詔によって三司に推問(取り調べ)を命じた。宰相張鏑の弁護により罪は免ぜられたが、翌年房琯が左遷されると、杜甫も房琯一派とみなされて、華州司功参軍に左遷された。杜甫が房靖を弁護して危うく罪に問われそうになり、やがて房璃一派として左遷されたこの一連の事件をここでは(房琯擁護事件)と呼ぶこととする。

 

ではなぜ杜甫は房琯を弁護したのだろうか。

それは、75810月に杜甫が『乾元元年華州試進士策問五首』試験問題を作成しているがこの中に見事に示しているがここまでの房琯についてのべてみる。

 

7567月霊武に到着行在所とする。

756年7月  玄宗・上皇が制を下す。

太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、 長安、洛陽を奪取させる

・御史中丞・裴冕は左庶子を兼務させる。

・隴西郡司馬・劉秩は試守右庶子とする。

永王・李璘山南東道・嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、

・少府監・竇紹をこれの傅とし、 長沙太守李峴を都副大使とする。

盛王・李琦廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南・河南等路節度都使とし、

・前の江陵都督府長史・劉彙をこれの傅とし、

・廣陵郡長史・李成式を都副大使とする。

豊王・李珙を武威都督に充て、領河西・隴右・安西・北庭等路節度都使とし、

・隴西太守の済陰の鄧景山をこれの傅とし、都副大使とする。

これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、 全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使・虢王巨らは、従来通り節度使とする。 官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」

   この時、李琦も李珙も共に閣を出ず、ただ李璘だけが鎮へ赴いた。

 ・山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。

 ・五府経略使を嶺南節度へ昇格させ、南海等二十二郡を領有させる。

 ・五溪経略使を黔南節度へ昇格させ、 黔中等諸郡を領有させる。

 ・江南を東西二道へ分け、 東道は餘杭を西道は豫章等諸郡を領有させた。

 

 

7568月  玄宗・上皇が制を下す。

 

癸未、上皇が制を下して、天下へ恩赦を下した。

北海太守の賀蘭進明は録事参軍・第五琦を蜀へ派遣して、事を上奏した。7月の“すべて各自で工面して戦力を整えよ”にこたえ「今用兵するには、財賦が急務で、財賦の多くは江、淮にて生産されます。 ここで、兵糧の欠乏を防ぐことができます。」 上皇は、即座に第五琦を監察御史、江淮租庸使とした。

 

霊武にいた粛宗は、「16相」を決め、多くの事項を合議に書けた。やがて霊武を出発、南下を始めて順化に向かう。

肅宗の宰相十六人 韋見素・崔圓・房琯・裴冕・崔渙・李麟・苗晉卿・張鎬・王璵・呂・李峴・第五琦・李揆・蕭華・裴遵慶・元載。

654 《述古,三首之二》 蜀中転々 杜甫 <559  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3025 杜甫詩1000-559-799/1500

 

7569月 安史軍快進撃。

黄河二首の背景 杜甫

至徳元年(756)―――9月―――――――――――――――――

丙子、粛宗皇帝は順化へ到着した。

韋見素らが成都から来て、粛宗皇帝へ上皇の寶冊を献上する。粛宗皇帝は、固辞して「これは、中原が戦乱に巻き込まれたので、百官を統率するための処置だ。危難に乗じて即位するようなことはしない!」  群臣も固く請うたが、粛宗皇帝は許さない。寶冊は別殿へ、 定められた礼で朝夕拝礼する。

 韋見素はもともと楊国忠へ諂っていたので、粛宗皇帝は、彼を蔑視していた。 対して房琯の名声をもともと耳にしていたので、粛宗皇帝は虚心に彼を待った。 房琯は粛宗皇帝へ謁見すると時事を語った。その有様が悲憤慷慨していた為、 粛宗皇帝は居住まいを改めた。これによって、軍国の事の多くは房琯と謀った。 房琯もまた、天下を自分の仕事と思い、 知りて行わないことはなく、諸相は、手を拱ねいているだけだった。

房琯と賀蘭進明・第五琦らとは安史の乱以前、李林甫が宰相であった頃からことごとく反発し合っていた。

 

霊武にいた粛宗は、さらに南下を始めて彰原(甘粛省寧県)に行在所を移し、長安奪回の機をうかがう。

 

そうして十月、「房琯は口先だけの男」賀蘭進明・第五琦らに照って口撃されていたこともあって房琯は、自ら兵を率いて両京を回復することを上疏した。 粛宗皇帝はこれを許し、房琯は、自ら参佐を選ぶことを請い、御史中丞・鄧景山を副、戸部侍郎・李揖を 行軍司馬、給事中・劉秩を参謀とした。出発した後、また、兵部尚書・王思禮を副とした。この二人は書生で軍事は素人であった。

房琯は、全隊を三軍に分けた。

裨将・楊希文は南軍を率いて宜寿から入り、

劉貴哲は中軍を率いて武功から入り、

李光進は北軍を率いて奉天から入った。

賀蘭進明を河南節度使とした。

東方では安史軍の令狐潮、王福徳が歩騎万余を率いて、また雍丘を攻めた。 張巡は出撃し、これを大いに破って数千級の首を斬る。安史軍は逃げ去った。

三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

 房琯は渭水北岸道路沿いに勧める中軍戦車隊、奉天から東南に進む北軍を前鋒とした。

十月二十一日、二軍は咸陽の陳濤斜にて安史軍の将・安守忠と遭遇した。房琯は、古法に倣って車戦を用い、牛車二千乗を馬歩が挟むような陣立てをした。 安史軍は、順風に乗って軍鼓を打ち鳴らす。牛は皆、震え上がった。そこで燕軍は火を放ったので、 人畜共に大いに乱れた。官軍の死傷者は四万余人。生存者は数千人だけだった。 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152陳陶を悲しむ)は、その敗軍を痛んだ詩である。

『悲陳陶』 

孟冬十郡良家子、血作陳陶沢中水。

野曠天清無戦声、四万義軍同日死。

群胡帰来血洗箭、仍唱胡歌飲都市。

都人廻面向北啼、日夜更望官軍至。

陳陶を悲しむ)孟冬(もうとう)  十郡の良家(りょうか)の子()、血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作()る。

()(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し、四万の義軍  同日に死す。群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭()を洗い、仍()お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む。都人  面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き、日夜  更に官軍の至るを望む。

冬の初めの月に凡そ十郡の良家出身の兵卒たちで構成されたものだった。しかし彼等の血は流れて陳陶の沢の水となってしまったのだ。

死の後には戦場の野原はむなしくひろい、空も青々として寂しい、さらに戦の声はまったくしないのだ。あれだけの兵士、四万という忠義の兵士がたった一日のうちで死んだのである。

勝ちほこった異民族の入り混じった叛乱軍の兵士どもはもどって来て血の箭をあらい流した。そして、そのまま異民族の歌を唱えながら、長安の繁華街で酒を飲んでいるのである。

都の人たちは之を見て面をそむけて北方に向いて啼いたのだ、昼となく夜となく王朝の官軍が到著してくれればよいとみんなが望んでいるのである。

ついで二十三日、態勢を立て直し房琯は自ら渭水南ルートの南軍を率いて青坂で戦ったが、ここでも敗れた。 楊希文、劉貴哲は共に賊へ降伏した。悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

咸陽の東門ちかく青坂があった。房琯率いる王朝軍は至徳元載十月。五行思想での日にち計算により、辛丑:9日目、癸卯:11日目、たった11日間で敗れたのである。兵力の多さ、儒者で古式戦法の教条的な採用により、歩兵戦での兵量を過信した幼稚な作戦面で失敗である。

1021日、の青坂で敗れたことを悲しんで作る。杜甫は房琯が霊武、順化、彭原で賀蘭進明、第五琦、宦官らに追い詰められ、自らこの戦を買って出るよう仕向けられてことは全く知らない。ただ詩の内容から、房琯率いる軍であることは泯指揮していたようだ。

悲青坂   

我軍青坂在東門、天寒飲馬太白窟。

黄頭奚児日向西、数騎彎弓敢馳突。

山雪河冰野蕭瑟、青是烽煙白人骨。

焉得付書与我軍、忍待明年莫倉卒。

 (青坂を悲しむ)

我れ青坂(せいはん)に軍して東に門在り、天寒くして馬に飲(みずか)う太白の窟(いわや)

黄頭(こうとう)の奚児(けいじ)  日に西に向かう、数騎 弓を彎()いて敢(あえ)て馳突(ちとつ)す。

山雪  河冰 野に蕭瑟(しょうしつ)たり、青(せい)は是れ烽煙(ほうえん) 白は人骨。

(いずくん)ぞ書を付して我が軍に与え、忍んで明年を待って倉卒(そうそつ)なる莫かれと言い得む。

咸陽の東門外にある青坂の地での戦いの詩

我が王朝軍は咸陽の東門ちかく青坂に陣取っている。この冬の寒空に太白山の窟に馬に水かい、西の峻山道から進んできたのだ。

安禄山軍の黄頭の異民族の帽子の奚部族と漢民族の兵士等は勝ちに乗じて毎日だんだんと西へ向ってくる。それをいまいましがって味方(官軍)の二三騎が弓をひいてむりに馳せて突出してみるのだが、大勢的に劣勢で敗軍でどうにもならないのだ。

山には雪がふり河には冰がはり、原野は風が簫の笛や瑟琴のようにさびしく吹いていて、青くみえるのはのろし火の煙であり、白くみえるのは大殺戮による屍が、おびただしい数であった、今むりに戦をしても仕方がないというものなのだ。

どうしたら、我が王朝の軍隊へ手紙をとどけ与えて「我慢して明年を待て、今は戦力を整えるのだ、そうしてあわてて軍をしかけてはならないのだ」と言ってやることができるだろうか。

 

 粛宗皇帝は房琯の敗北を聞いて大いに怒った。だが、李泌が取りなしたので、 怒りもどうにか収まり、房琯とは従来通り接した。

官軍放る・の知らせは、官軍が長安の西に近づいていることを聞き、その勝利の報を心待ちにしていた長安の市民を落胆させたこと、いうまでもない。

次の「雪に対す」の詩は、官軍大敗の重苦しい気分のうちにあって、雪の舞う冬の夕暮れに作られたもので、食糧は乏しく、もちろん酒などはない、困窮した暮らしの中での落ちこんだ思いを詠んでいる。対雪 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 154

『対雪』

戦哭多新鬼、愁吟独老翁。

乱雲低薄暮、急雪舞廻風。

瓢棄樽無、炉存火似紅。

数州消息断、愁坐正書空。

(雪に対す)

戦哭【せんこく】  新鬼(しんき)多く、愁吟【しゅうぎん】  独り老翁。

乱雲 薄暮に低【た】れ、急雪( 廻風に舞う。

瓢【ひょう】棄てられて 樽【たる】に【ろく】無く、炉 存して  火は紅に似たり。

数州 消息断たれ、愁え 坐して 正に空に書す。

至るところが戦場で、そこでの号泣がひびきわたる、それは多くの新しい戦死者の声である。その声を聞きつつ愁えて吟じるものはただ一人、筋を通し生き抜いてきた初老のわたしである。

それなのに乱れた雲、崩れた王朝にたそがれが低くたれさがるのである。そこに急にふりそそいできた雪が吹き、風につれて舞いくるうように、異民族たちが街を覆うのである。

清酒を飲むため、自然その酒を小出しにする瓢もなげすてられている、樽盃には清酒の透き通った色が無くなってしまった。談義ができるわけもないのに炉のみは消えずにいて火が紅色を呈している。

天下九州の内二三の州は叛乱軍の手にでも落ちたものかどうか消息がとだえている。それがため自分は愁えた気持ちで座敷に座り、ちょうど殷浩の様に手で空中に文字を書いて不安な気持ちを抑えるのだ。

 

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房琯は全隊を三軍にわけた