そこで、文武の官員が天子の乗り物が長安に帰った後で、それを確認してから朝廷に帰ってきたこと、なさけないことに、後からお供をするというものであったそうだという。元通りに回復するというのはこの通りの有様であったが、その安心な部分と危険な部分が両方ある都の平穏さを取り戻すのは、朝廷を司る数人の宰相のかたにかかっている。

 
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廣徳元年(763) 10月、吐蕃が涇州へ来寇した。刺史の高暉は城を以てこれに降り、彼の為に道案内となって、吐蕃軍を 深く引き入れる。 吐蕃軍が奉天、武功へ来寇し、京師はパニックとなった。代宗皇帝は兵を動員しようとしていたが、 吐蕃軍は既に便橋を渡ったので、慌てふためいて為す術を知らなかった。代宗皇帝は陜州へ疎開する。 官吏はあちこち逃げ回り、六軍は逃げ散った。代宗皇帝は詔を下して、雍王・李适を関内元帥とし、 郭子儀を副元帥として吐蕃軍に当たらせることとした。郭子儀は只ちに動いたが、吐蕃軍が20万の大軍で 侵攻して来ていたので、募兵することにした。

  驃騎大将軍の程元振は横暴に振る舞っていて、人々は李輔国以上に畏れた。 そして程元振は、大功を建てた 諸将全員を忌疾し、彼等を害そうと思っていた。 吐蕃が入寇した時、程元振はすぐには上奏しなかったので、結局は代宗皇帝が慌てふためいて疎開する羽目となったのだ。 代宗皇帝が詔を発して諸道の兵を徴発しても、李光弼らは程元振が居ることを忌み、だれも駆けつけなかった。 中外は歯がみしたが、敢えて口に出す者はいなかった。

  まもなく吐蕃軍は長安を陥落させた。吐蕃軍は 広武王・李承宏を皇帝に立てて傀儡とした。吐蕃軍は府庫を掠奪、士民は皆、乱を避けて山中や谷間に逃げる者が 数え切れないほどであった。

 

 11月、代宗皇帝は程元振の官爵を削り、田里へ放帰した。

  郭子儀は30騎で御宿川の楯山の東に至る

 

12月 丁亥の日、吐蕃軍が去ったことを知り、車駕が陜州を出発し、京師へ戻った。 この時、左丞・顔眞卿は、まず陵廟へ謁してから宮へ帰るよう 代宗皇帝へ請うた。元載は従わない。顔眞卿は怒って言った。

 

  「相公が再び請われることに、朝廷がどうして耐えられようか!」

 

  元載は、これを根に持った。

  甲午の日、代宗皇帝が長安へ到着する。 魚朝恩を天下観軍容宣慰置使として、禁兵・神策軍を統率させた。 寵を得ること比類なかった。鄠県と中渭橋に城を築き、 兵を駐屯させて吐蕃帝国の襲撃に備えた。 駱奉仙を鄠県築城使とし、その兵を指揮させる。

 

  乙未の日、苗晋卿を太保、裴遵慶を太子少傅として、 共に政事をやめさせた。宗正卿・李峴を黄門侍郎、同平章事と する。

  裴遵慶が去ってしまうと、元載の権勢は益々盛んになった。 賄賂を贈って内侍の董秀や使主書卓・英倩と密かに往来する。 だから元載は、代宗皇帝が望んでいることを必ず先に知り、 細かく心を配って迎合したので、発言は全て意向に叶った。 それ故、代宗皇帝はますます元載を寵愛した。

 

  吐蕃軍が去った後に広武王・李承宏は野に身を隠していたが、 代宗皇帝は広武王・李承宏を華州へ放逐した。

 

  さて、程元振は、罪を得た後に三原へ帰っていたが、代宗皇帝が宮殿へ 帰ったと聞くと、布陣の衣を着て私的に長安へ入り、 密かに復帰の機会を窺った。 京兆府は、これを捕らえて報告した。

<大唐朝誌>

 

 

制作年:              764年廣德二年53

卷別:    卷二三四              文體:    五言律詩

詩題:    收京〔收京闕〕【草堂逸詩拾遺】

及地點:              長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都      

 

收京

復道收京邑,兼聞殺犬戎。

衣冠卻扈從,車駕已還宮。

克復成如此,安危在數公。

莫令回首地,慟哭起悲風。

(唐王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したことを詠う。)

世間のうわさを聞くと、王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したというし、その上、犬戎ともいう吐蕃をも殺したともいうのである。

そこで、文武の官員が天子の乗り物が長安に帰った後で、それを確認してから朝廷に帰ってきたこと、なさけないことに、後からお供をするというものであったそうだという。

元通りに回復するというのはこの通りの有様であったが、その安心な部分と危険な部分が両方ある都の平穏さを取り戻すのは、朝廷を司る数人の宰相のかたにかかっている。

その場からあちこちを見回してみると、何度も、こうして逃げ出さなければいけなくて、何度も慟哭するような事態が起こらないようにしてもらいたいものだ。

 

(收京)

復た道う 京邑を收むと,兼ねて聞く 犬戎を殺すと。

衣冠 卻って扈從【こじゅう】す,車駕 已に宮に還える。

克復【こくふく】 成【まこと】に此の如し,安危【あんき】數公に在り。

回首の地を令て,慟哭 悲風を起さしむること莫れ。

 

閶闔門001 

『收京』 現代語訳と訳註

(本文)

收京

復道收京邑,兼聞殺犬戎。

衣冠卻扈從,車駕已還宮。

克復成如此,安危在數公。

莫令回首地,慟哭起悲風。

 

(含異文)           

復道收京邑,兼聞殺犬戎。

衣冠卻扈從,車駕已還宮。

克復成如此,安危在數公【扶持在數公】。

莫令回首地,慟哭起悲風。

 

(下し文)

(收京)

復た道う 京邑を收むと,兼ねて聞く 犬戎を殺すと。

衣冠 卻って扈從【こじゅう】す,車駕 已に宮に還える。

克復【こくふく】 成【まこと】に此の如し,安危【あんき】數公に在り。

回首の地を令て,慟哭 悲風を起さしむること莫れ。

 

(現代語訳)

(唐王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したことを詠う。)

世間のうわさを聞くと、王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したというし、その上、犬戎ともいう吐蕃をも殺したともいうのである。

そこで、文武の官員が天子の乗り物が長安に帰った後で、それを確認してから朝廷に帰ってきたこと、なさけないことに、後からお供をするというものであったそうだという。

元通りに回復するというのはこの通りの有様であったが、その安心な部分と危険な部分が両方ある都の平穏さを取り戻すのは、朝廷を司る数人の宰相のかたにかかっている。

その場からあちこちを見回してみると、何度も、こうして逃げ出さなければいけなくて、何度も慟哭するような事態が起こらないようにしてもらいたいものだ。

 

安史の乱当時の勢力図 

(訳注)

收京

(唐王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したことを詠う。)

この詩は、76312月に長安を収め、代宗が帰られたということを杜甫が年明けに聞きこの詩をつくったが、764年秋、厳武の幕府から草堂に帰って整理している。

 

復道收京邑,兼聞殺犬戎。

世間のうわさを聞くと、王朝軍の郭子儀が吐蕃の手から都長安を取り返したというし、その上、犬戎ともいう吐蕃をも殺したともいうのである。

復道 安禄山の時も天子は蜀と霊武に逃げたが、吐蕃侵入に代宗は千秋ににげたことで「復道」という。

京邑 長安、長安近郊。

犬戎 侵攻した吐蕃を指す。

 

衣冠卻扈從,車駕已還宮。

そこで、文武の官員が天子の乗り物が長安に帰った後で、それを確認してから朝廷に帰ってきたこと、なさけないことに、後からお供をするというものであったそうだという。

衣冠 文武の官員。

卻扈從 後からお供をする。飛散していた朝廷の官僚は天子が長安に帰った後で、それを確認してから朝廷に帰ってきたことをいう。

車駕 天子の乗り物。

還宮 長安の宮殿に帰って来る。

 

克復成如此,安危在數公。

元通りに回復するというのはこの通りの有様であったが、その安心な部分と危険な部分が両方ある都の平穏さを取り戻すのは、朝廷を司る数人の宰相のかたにかかっている。

克復 元通りに回復する。

安危 安心な部分と危険な部分が両方あること。

數公 朝廷を司る数人の宰相。

 

莫令回首地,慟哭起悲風。

その場からあちこちを見回してみると、何度も、こうして逃げ出さなければいけなくて、何度も慟哭するような事態が起こらないようにしてもらいたいものだ。

回首地 杜甫がその場からあちこちを見回すことをいう。
三者の思惑が合致