(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩で、この春は床に伏していて春の興が進まないが次年の春こそは春に酔いたいと詠う)その三
765年永泰元年54歲-45 《十二月一日,三首之三》 杜甫index-15 杜甫<845> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4960 杜甫詩1500-845-1163/2500765年永泰元年54歲-45
765年永泰元年54歲
卷別: 卷二二九 文體: 七言律詩
杜少陵集 巻十四
詩題: 十二月一日,三首之三
作地點: 雲安(山南東道 / 夔州 / 雲安)
十二月一日,三首之一
今朝臘月春意動,雲安縣前江可憐。
一聲何處送書雁,百丈誰家上水船。
未將梅蕊驚愁眼,要取楸花媚遠天。
明光起草人所羨,肺病幾時朝日邊。
(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩である)その一
今朝は、まだ、十二月になったばかりというに、春の気配が動き出しているようで、ここ雲安縣の前の長江の様子も、可愛らしいと思えるようだ。
雁が一声鳴いて飛んでゆくが、何処に書簡を届けるのだろうか、百丈の闌で、舟を引っ張ってゆくのは何処の邸宅にゆくのだろうか。
春の気配があるといっても、さすがに開いていない梅の花ではわたしの愁眼をおどろかすことはできないけれど、正月の酒に山椒の花を入れて飲むのであるが、その代用として、遠き長安の空に向かって咲いている「楸花」を入れて酒を呑むということにしよう。
郎官になっているので、明光殿で詔勅の起草をせねばならないので人に羨ましがられるけれども、今、自分は肺病を患っているから、どれだけ太陽が上り下りするのを見れば、参朝できるのであろうかわからないのである。
(十二月一日,三首の一)
今朝 臘月 春意動く,雲安 縣前 江憐れむ可し。
一聲 何れの處に書を雁に送らん,百丈 誰が家に 水の船に上らん。
未だし梅蕊を將って 愁眼を驚かさざらしむ,楸花【しょうか】を取って遠天に媚びんと要す。
明光 起草 人の羨む所なり,肺病 幾時か 日邊を朝せん。
十二月一日,三首之二
寒輕市上山煙碧,日滿樓前江霧黃。
負鹽出井此谿女,打鼓發船何郡郎。
新亭舉目風景切,茂陵著書消渴長。
春花不愁不爛漫,楚客唯聽棹相將。
(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩で、早くこの地を離れたいと詠う)その二
寒さが軽くひろがり、この市街地の上には山にかけて緑色の煙が上がっている。太陽の光は、十分楼閣前に照りかがやき長江の霧が黄ばんで見える。
塩を背負って運んで井からでてくるのはこの地の谿女である。太鼓をたたいては船を出発させているのは、何処の若者だろうか。
周顗が新亭で、眼をあげて眺めた様に眺めると異郷の風景が物悲しくひしひしと胸に迫ってくる、茂陵に隠れて書を著した司馬相如のように、自分も朝廷の左拾遺から引っ込んで、消渴の病を永らく患って、詩文を暖めた。
ここでの春は、花が爛漫と咲こうと咲くまいとそんなことは心配することではない。自分は早く三峡を下り、楚の国の旅人として船頭と合いの手たちの舟を漕ぐ音を聞きながら、それを心にとめて行きたいと思っているのだ。
(十二月一日,三首之二)
寒輕るくして 市上 山煙碧りに,日滿ちて 樓前 江霧黃なり。
鹽を負いて 井を出づ 此の谿女,鼓を打ちて 船を發す 何の郡郎ぞ。
新亭 目を舉ぐ 風景切なり,茂陵 書を著して 消渴長し。
春花 爛漫たらざるを愁えず,楚客 唯だ聽く 棹 相い將いるを。
十二月一日,三首之三
(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩で、この春は床に伏していて春の興が進まないが次年の春こそは春に酔いたいと詠う)その三
即看燕子入山扉,豈有黃鸝歷翠微。
病床のその場でツバメが山樓の扉より飛び込んでくるのを見るだろうし、高麗鶯が山の中腹を渡ってゆくのを見ることになるのだ
短短桃花臨水岸,輕輕柳絮點人衣。
背丈の低い桃の花が水辺に覗き込むように咲いていて、より低くなっているだろうし、柳絮が軽やかに飛んで、行き交う人の着物にくっ付いて軽く揺れていることだろう。
春來準擬開懷久,老去親知見面稀。
春が来れば長らく会っていない親友、知友とあいたいとまちかまえようとおもっているが、年を取ってしまうと顔を合わすこと事態稀になっているのだ。
他日一杯難強進,重嗟筋力故山違。
このまま病床にいて、この春が過ぎ去り、他の日になって一杯の盃を強引に進めてみても、春の花の景色がなければ趣きがないだろうし、その上、筋力がさらに劣ってきて、故郷の山を登れないようだと間違った選択をしたことになってしまう。
(十二月一日,三首之三)
即ち燕子山扉に入るを看る,豈に黃鸝の翠微を歷る有り。
短短たる桃花 水岸を臨み,輕輕たる柳絮 人衣に點する。
春來らば準擬す 懷いを開かんと久しくするを,老去らば親知す 面を見んこと稀れなるを。
他日 一杯 強いて進め難し,重ねて嗟せん 筋力 故山に違うを。
『十二月一日,三首之三』 現代語訳と訳註
(本文)
十二月一日,三首之三
即看燕子入山扉,豈有黃鸝歷翠微。
短短桃花臨水岸,輕輕柳絮點人衣。
春來準擬開懷久,老去親知見面稀。
他日一杯難強進,重嗟筋力故山違。
(下し文)
(十二月一日,三首之三)
即ち燕子山扉に入るを看る,豈に黃鸝の翠微を歷る有り。
短短たる桃花 水岸を臨み,輕輕たる柳絮 人衣に點する。
春來らば準擬す 懷いを開かんと久しくするを,老去らば親知す 面を見んこと稀れなるを。
他日 一杯 強いて進め難し,重ねて嗟せん 筋力 故山に違うを。
(現代語訳)
(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩で、この春は床に伏していて春の興が進まないが次年の春こそは春に酔いたいと詠う)その三
病床のその場でツバメが山樓の扉より飛び込んでくるのを見るだろうし、高麗鶯が山の中腹を渡ってゆくのを見ることになるのだ
背丈の低い桃の花が水辺に覗き込むように咲いていて、より低くなっているだろうし、柳絮が軽やかに飛んで、行き交う人の着物にくっ付いて軽く揺れていることだろう。
春が来れば長らく会っていない親友、知友とあいたいとまちかまえようとおもっているが、年を取ってしまうと顔を合わすこと事態稀になっているのだ。
のまま病床にいて、この春が過ぎ去り、他の日になっていっぱいの盃を強引に進めてみても、春の花の景色がなければ趣きがないだろうし、その上、筋力がさらに劣ってきて、故郷の山を登れないようだと間違った選択をしたことになってしまう。
(訳注)
十二月一日,三首之三
(病気で、雲安の長江を臨む小閣を借り受け、療養し始めのころ、気分転換に作った詩で、この春は床に伏していて春の興が進まないが次年の春こそは春に酔いたいと詠う)その三
この三首は第二首の詩意が最も述べたいことで、一首と三首は杜甫の置かれている状況を述べている。
読み方に諸説あるが、語句からくる雰囲気的に、文法を難しく考える必要はなく、単純に読み取ることが最良と考える。
即看燕子入山扉,豈有黃鸝歷翠微。
病床のその場でツバメが山樓の扉より飛び込んでくるのを見るだろうし、高麗鶯が山の中腹を渡ってゆくのを見ることになるのだ
即看 ①取りも直さず見る。②すぐその場で見る。③もし見るとすれば。ここは杜甫は、病床の暇をもてあまし、外を眺めているので②
短短桃花臨水岸,輕輕柳絮點人衣。
背丈の低い桃の花が水辺に覗き込むように咲いていて、より低くなっているだろうし、柳絮が軽やかに飛んで、行き交う人の着物にくっ付いて軽く揺れていることだろう。
短短・輕輕 対句を強調する語で、短い短いことは~で、軽-るい軽―るいことは~だ。
春來準擬開懷久,老去親知見面稀。
春が来れば長らく会っていない親友、知友とあいたいとまちかまえようとおもっているが、年を取ってしまうと顔を合わすこと事態稀になっているのだ。
準擬 まちかまえていること。
他日一杯難強進,重嗟筋力故山違。
このまま病床にいて、この春が過ぎ去り、他の日になっていっぱいの盃を強引に進めてみても、春の花の景色がなければ趣きがないだろうし、その上、筋力がさらに劣ってきて、故郷の山を登れないようだと間違った選択をしたことになってしまう。
故山違 成都で再び官を辞して故郷に向かう選択をしたものの、雲安で床に伏していることで間違った選択をしたことにはなりはしないかという危惧をしている。だから二首に言う、早く三峡を下りたいのである。