杜甫《折檻行》太宗のように家臣の意見をよく聞いた聖天子もいれば、先の天子肅宗のように、賀蘭進明や第五琦の様な都合のいい意見だけを取り上げてこの国の経済を悪化させるのである。

 
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766年大暦元年55-8 《折檻行》 杜甫index-15 杜甫<871 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5165

杜甫詩
1500-871-1204/2500766年大暦元年55-8

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二一              文體:    樂府

詩題:    折檻行

 

 

折檻行

(天子に諫言をした故事を引き合いにして、「房琯擁護事件」を揶揄したもの。)

嗚呼房魏不復見,秦王學士時難羨。

ああ、唐建国に功績を残し、太宗に見いだされ唐王朝の礎、初唐文学を形成した房玄齡と魏徵と云える人物は再び見出すことはできない。名君といわれた太宗に見いだされた文学者、士太夫達は時には羨まれるというばかりではなかった。

青衿冑子困泥塗,白馬將軍若雷電。

科挙受験のために頼る門閥に入る書生のころというのは、貧困で、泥に見える苦労をしたものだが、おなじ、青衿を着ていても、南朝梁の侯景がおこした反乱は50年におよんだ梁の武帝時代の平和の夢が雷電のごとくやぶられただけでなく,江南の社会は上下をあげて壊滅的な打撃をこうむった。(安史の乱は、150年の平穏が打ち破られた。)

千載少似朱雲人,至今折檻空嶙峋。

もう千年前になるだろう漢の朱雲という人が、天子を諌めたが、私も少しは似たことをした。そのために今に至って天子に 折檻“をしたために、このように空しく山の岩石が)ごつごつと重なっているこのような場所で、旅人として、しかも病気療養をしているのだ。

婁公不語宋公語,尚憶先皇容直臣。

漢の劉敬は「匈奴を今攻めるべきではないといった」と適切な諫言をしたが拘束され、発言を止められたし、戦国宋の襄公のように、「いま攻めるべき」といった意見を無視して大敗をした、このように、太宗のように家臣の意見をよく聞いた聖天子もいれば、先の天子肅宗のように、賀蘭進明や第五琦の様な都合のいい意見だけを取り上げてこの国の経済を悪化させるのである。

 

(折檻の行【うた】)

嗚呼 房・魏 復た見えず,秦王の學士 時に羨み難し。

青衿の冑子 困って泥塗すれど,白馬の將軍 雷電の若し。

千載 少くも似る 朱雲の人,至今 折檻すれど 空しく嶙峋たり。

婁公は語れず 宋公は語る,尚お憶う 先皇 直臣を容す。

蜀中転々圖 

 

『折檻行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

嗚呼房魏不復見,秦王學士時難羨。

青衿冑子困泥塗,白馬將軍若雷電。

千載少似朱雲人,至今折檻空嶙峋。

婁公不語宋公語,尚憶先皇容直臣。

 

 

(下し文)

(折檻の行【うた】)

嗚呼 房・魏 復た見えず,秦王の學士 時に羨み難し。

青衿の冑子 困って泥塗すれど,白馬の將軍 雷電の若し。

千載 少くも似る 朱雲の人,至今 折檻すれど 空しく嶙峋たり。

婁公は語れず 宋公は語る,尚お憶う 先皇 直臣を容す。

 

(現代語訳)

(天子に諫言をした故事を引き合いにして、「房琯擁護事件」を揶揄したもの。)

ああ、唐建国に功績を残し、太宗に見いだされ唐王朝の礎、初唐文学を形成した房玄齡と魏徵と云える人物は再び見出すことはできない。名君といわれた太宗に見いだされた文学者、士太夫達は時には羨まれるというばかりではなかった。

科挙受験のために頼る門閥に入る書生のころというのは、貧困で、泥に見える苦労をしたものだが、おなじ、青衿を着ていても、南朝梁の侯景がおこした反乱は50年におよんだ梁の武帝時代の平和の夢が雷電のごとくやぶられただけでなく,江南の社会は上下をあげて壊滅的な打撃をこうむった。(安史の乱は、150年の平穏が打ち破られた。)

もう千年前になるだろう漢の朱雲という人が、天子を諌めたが、私も少しは似たことをした。そのために今に至って天子に 折檻“をしたために、このように空しく山の岩石が)ごつごつと重なっているこのような場所で、旅人として、しかも病気療養をしているのだ。

漢の劉敬は「匈奴を今攻めるべきではないといった」と適切な諫言をしたが拘束され、発言を止められたし、戦国宋の襄公のように、「いま攻めるべき」といった意見を無視して大敗をした、このように、太宗のように家臣の意見をよく聞いた聖天子もいれば、先の天子肅宗のように、賀蘭進明や第五琦の様な都合のいい意見だけを取り上げてこの国の経済を悪化させるのである。

華州から秦州同谷成都00 

(訳注)

折檻行

(天子に諫言をした故事を引き合いにして、「房琯擁護事件」を揶揄したもの。)

嗚呼房魏不復  秦王學士時難羨
青衿冑子困泥塗  白馬將軍若雷
千載少似朱雲  至今折檻空嶙
婁公不語宋公語  尚憶先皇容直

○○○●△●●  ○△●●○△○

○○●●●△○  ●●△○△○●

○●●●○○○  ●○△●△△○

○○△●●○●  △●△○○●○

 

嗚呼房魏不復見,秦王學士時難羨。

ああ、唐建国に功績を残し、太宗に見いだされ唐王朝の礎、初唐文学を形成した房玄齡と魏徵と云える人物は再び見出すことはできない。名君といわれた太宗に見いだされた文学者、士太夫達は時には羨まれるというばかりではなかった。

房魏 初唐の房玄齡と魏徵のこと。

○房玄齢(ぼうげんれい 578 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。玄齢は字で、諱は喬。杜如晦と共に太宗の謀臣として玄武門の変において太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者の一人とされる。また正史編纂にも関わり、『北斉書』などを総監した。高祖李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努め、貞観の治のもう一人の立役者である杜如梅を見出し、太宗に推挙もおこなっている。建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いが起きると、房玄齢杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。世民も建成に悟られないように策謀を進め、直前に二人に連絡を取り、玄武門の変を成功させて建成を殺して即位した。

○魏 (ぎ ちょう、580 - 643年)は唐の政治家。字は玄成。太宗らに仕え、諫議大夫・左光禄大夫に任じられ、鄭国公に封じられた。直諫(じかに諫言)することで有名であり、そのやりとりは『貞観政要』に多く載せられている。巨鹿曲城(今の河北省)の人。幼少時貧困で、隋末に李密(瓦崗軍)のもとへ身を寄せ、敗戦して唐へ帰する。竇建徳の捕虜となり、才能を見出される。建徳の兵が敗れ、唐へ帰り、太子洗馬つまり李建成の側近の地位を得た。玄武門の変で建成が死ぬと、太宗は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させた、後に秘書監、侍中等の職を転任。癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めた。死亡時、太宗は非常に哀しみ、侍臣へ以下のように言ったという。

「人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。」(『資治通鑑』巻一九六)。

太宗の命で編纂した『隋書』の序論、『梁書』、『陳書』、『齊書』の総論など、多くの著作がある。その言論は『貞観政要』に多く収められている。「人生意気に感ず」の句で有名な「述懐」という詩を詠んだ。

○秦王 唐太宗(李世民)(598年-649年),太宗は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。

隋末唐初の混乱から国土を回復させ、後の唐の土台を築く治世を行ったこと、唐の領土を広げ、北方異民族の脅威を長年に渡って取り除いたこと、兄の李建成に、李世民の存在が皇太子の座を危うくしていること感じて殺害することを進言した魏徴の命を助け、彼を始めとする部下たちの諫言をよく聞き入れたことなどから、中国史上でも有数の名君と称えられる。

 

青衿冑子困泥塗,白馬將軍若雷電。

科挙受験のために頼る門閥に入るの書生のころというのは、貧困で、泥に見える苦労をしたものだが、おなじ、青衿を着ていても、南朝梁の侯景がおこした反乱は50年におよんだ梁の武帝時代の平和の夢が雷電のごとくやぶられただけでなく,江南の社会は上下をあげて壊滅的な打撃をこうむった。(安史の乱は、150年の平穏が打ち破られた。)

青衿冑子 科挙受験のために頼る門閥に入るの書生のころ。

困泥塗 貧困で泥に見える苦労をした。・泥塗:泥まみれになること。また,ぬかるみ。低い地位の喩え。けがれ汚れた場所。

白馬將軍 東魏からの投降将軍であった南朝梁の南予州刺史の侯景がおこした反乱をいう。

杜甫《洗兵行》「青袍白馬更何有?後漢今周喜再昌。」(青砲 白馬更に何か有らん、後漢 今周【こんしゅう】再び昌【さかん】なるを喜ぶ。)にあるように

 

千載少似朱雲人,至今折檻空嶙峋。

もう千年前になるだろう漢の朱雲という人が、天子を諌めたが、私も少しは似たことをした。そのために今に至って天子に 折檻“をしたために、このように空しく山の岩石が)ごつごつと重なっているこのような場所で、旅人として、しかも病気療養をしているのだ。

朱雲・折檻 君主を強く諫(いさ)める意。わが国では転じて、広く、きびしく意見して戒める意。《漢書・朱雲伝》「上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。御史遂將雲去。」

嶙峋 山の岩石が)ごつごつと重なっている.

 

婁公不語宋公語,尚憶先皇容直臣。

漢の劉敬は「匈奴を今攻めるべきではないといった」と適切な諫言をしたが拘束され、発言を止められたし、戦国宋の襄公のように、「いま攻めるべき」といった意見を無視して大敗をした、このように、太宗のように家臣の意見をよく聞いた聖天子もいれば、先の天子肅宗のように、賀蘭進明や第五琦の様な都合のいい意見だけを取り上げてこの国の経済を悪化させるのである。

婁公 漢の劉敬のこと。(前漢紀元前200年ごろ)は、中国前漢時代の政治家。斉の人。元の名は婁敬。劉敬は国境警備の兵として隴西へ行く途中劉邦のいる洛陽を通ったとき、同じ斉出身の虜将軍に劉邦と会わせて貰えるように頼んだ。この時劉敬は羊の皮の服を着ていたので虜将軍に新しい服を着るように言ったが、結局劉敬はそのまま劉邦に謁見することにした。劉敬は劉邦に洛陽を都とした周と漢との違いを述べ、天然の要害である秦の故地長安を都にすべきと進言した。しかし群臣の多くは秦が短命に終わり、周が長く続いたことをもって洛陽を推した。劉邦は決めかねていたが張良が長安を推したために長安に決した。最初に長安を勧めた功により劉敬は劉姓を賜り、婁敬から名を改め劉敬とし、郎中に任じられ奉春君の称号を貰った。

韓王信謀反の報を聞いた劉邦は軍を率いこれを討とうしたが、韓王信が匈奴と手を結んだことを聞き大いに怒り匈奴に使者を送った。匈奴は壮士や良馬は隠し、老弱な者ややせた家畜しか使者に見せなかったので、使者は皆大いに侮り劉邦に匈奴を攻撃するよう進言した。しかし同じく匈奴に使者としていった劉敬は「国同士が争うときは自国の良い所を相手に見せ誇るものです。しかし匈奴は老弱な者ややせた家畜しか見せない。これはわざと弱いところを見せて、伏兵によって勝利しようとしようとしてるのです。匈奴を攻撃するのはやめるべきです」と進言したが、この時すでに二十万余りの兵を発していた劉邦は進言を怒り劉敬を拘束してしまった。その後劉邦は平城にて匈奴の伏兵により囲まれ、陳平の奇策によってなんとか難を逃れると、劉敬の拘束を解き自分の非を認め、劉敬を関内侯とし二千戸の領地と建信侯の称号を与えた。

宋公 宋公(待考)戦国宋の襄公のここと。

泓水の戦いで、圧倒的に自軍が不利にも拘らず「敵が渡河している間に攻撃するべきだ」と言った意見を、襄公はこれを許さず、大敗した。こような行動をとったことから、身の程知らずの情けのことを「宋襄の仁」と呼ぶようになった。

先皇 代宗の前の皇帝は肅宗で、杜甫は、諫言した「房琯擁護事件」により、肅宗の逆鱗に触れた。唐王朝の先帝、太宗は諫言をよく聞き入れ、聖天子といわれる「貞観の治」を行った。

容直臣 肅宗は後宮と宦官などに都合のいい、意見を取り入れた。杜甫の「房琯擁護事件」の真相は、房琯杜甫ら一党の経済政策と賀蘭進明・第五琦らの経済政策との対立が原因である。

三者の思惑が合致 

 

 

《洗兵行》「青袍白馬更何有?後漢今周喜再昌。」(青砲 白馬更に何か有らん、後漢 今周【こんしゅう】再び昌【さかん】なるを喜ぶ。

もはや侯景の様な青袍白馬の大義のない叛乱の将等というのは物の数ではない。後漢光武の世、周の宣王の世が粛宗によって今日ふたたびさかんになるに至ったことはよろこばしいことである。 

○青袍白馬 梁の侯景の故事。大同中に「青糸白馬寿陽より来たる」という童謡がはやった。景が渦陽の敗に錦を求めたところ、朝廷は給するのに青布を以てした。景はことごとく用いて袍となし、白馬に乗り青糸を轡となして童謡の語に応じょぅとした。青袍白馬は侯景が叛いたときのいでたちであり、今借りて安史軍の史思明・安慶緒等をさす。○更何有 意とするに足らないことをいう。○後漢今周  後漢は光武帝の中興をさし、今周は今日において周の宜王の再起したことをいう、竝に粛宗をたとえていう。○再昌 「攀竜」の句より「後漢」の句までは、功臣は恩寵をたのむべからず、宰相は其の人を得て、唐朝復興の兆のあることを喜ぶことをいう。

侯景が身に靑袍を着け、靑袍白馬といふのは"梁の侯景の故事

【侯景の乱】

中国,南朝梁の武帝治下の548(太清2)8月,南予州刺史の侯景がおこした反乱。侯景は羯族(かつぞく)の出身,東魏からの投降将軍であった。反乱軍は寿春(安徽省寿県)からただちに都の建康(南京)を突き,翌年3月,数ヵ月にわたる籠城のすえ宮城は陥落。55111月に侯景は即位して国号を漢と定めたが,王僧弁と陳霸先の連合軍の攻撃をうけて敗死した。この乱によって,50年におよんだ梁の武帝時代の平和の夢がやぶられただけでなく,江南の社会は上下をあげて壊滅的な打撃をこうむった。

 

折檻 君主を強く諫(いさ)める意。わが国では転じて、広く、きびしく意見して戒める意。《漢書・朱雲伝》「上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。御史遂將雲去。」

漢の朱雲が悪臣の張禹(ちょうう)を殺させてほしいと成帝に願い出た時、帝は大いに怒って朱雲を死罪にしようとした。御史(ぎょし)が朱雲を殿上から引きおろそうとしたが、朱雲が檻(てすり)にしがみついて動かないので檻が折れたという故事による。

上大怒曰、小臣居下訕上、廷辱師傅。罪死不赦。御史將雲下。雲攀殿檻。檻折。雲呼曰、臣得下從龍逢・比干、遊於地下、足矣。未知聖朝何如耳。御史遂將雲去。