奉節-32-1 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -1(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

 

 
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 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ766年大暦元年55歲-41-#1奉節-32-#1 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -1》 杜甫index-15 杜甫<904-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5615 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ766年大暦元年55歲-41-#1奉節-32-#1 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -1》 杜甫index-15 杜甫<904-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5615 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-5韋荘83《巻2-33 浣渓沙五首 其五 (夜夜相思更漏殘)》二巻33-〈83〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5617 
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766年大暦元年55-41-1奉節-32-1 《巻16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -1 杜甫index-15 杜甫<904-1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5615 杜甫詩1500-904-1-1294/2500766年大暦元年55-41-1

 

 

巻16-02 八哀詩八首 

巻16-03 八哀詩八首〔一〕贈司空王公思禮

16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼

16-05 八哀詩八首〔三〕贈左僕射鄭國公嚴公武

16-06 八哀詩八首〔四〕贈太子太師汝陽郡王璡

16-07 八哀詩八首〔五〕贈秘書監江夏李公邕

16-08 八哀詩八首〔六〕故秘書少監武功蘇公源明

16-09 八哀詩八首〔七〕故著作郎貶台州司滎陽鄭公虔

16-10 八哀詩八首〔八〕故右僕射相國張公九齡

 

 

八哀詩 故司徒李公光弼

李公光弼(李光弼)をかなしんでよんだ詩。

16-04 八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

司徒天寶末,北收晉陽甲。

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

安若泰山,薊北斷右脅。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

 

(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1

北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。

胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。

人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。

朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。
#2

二宮泣西郊,九廟起壓。未散河陽卒,思明偽臣妾。

複自碣石來,火焚乾坤獵。高視笑祿山,公又大獻捷。

#3

異王冊崇勳,小敵信所怯。擁兵鎮河汴,千里初妥帖。

青蠅紛營營,風雨秋一葉。省未入朝,死淚終映睫。

#4

大屋去高棟,長城掃遺堞。平生白羽扇,零落蛟龍匣。

雅望與英姿,惻愴槐裏接。三軍晦光彩,烈士痛稠疊。

#5

直筆在史臣,將來洗箱篋。吾思哭孤塚,南紀阻歸楫。

扶顛永蕭條,未濟失利涉。疲苶竟何人,灑涕巴東峽。

 黄河二首の背景 杜甫

 

『八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

司徒天寶末,北收晉陽甲。胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

人安若泰山,薊北斷右脅。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。



(下し文)
(八哀詩八首〔二〕故の司徒李公光弼) -#1

北斷右。朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

司徒天宝の末、北のかた晋陽の甲を収む。

胡騎 吾が城を攻む、愁寂 意 愜【かな】わず。

人 安すること 泰山の若し、薊北 右脅を断つ。

朔方 気乃ち蘇し、黎首 帝業を見る。

(現代語訳)
(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

安史の乱当時の勢力図

(訳注)

八哀詩八首〔二〕故司徒李公光弼 -#1

(八人の哀悼を示す武将の二番目には六卿の一人、司徒公である李光弼について詠う。)

○司徒 司徒(しと)とは、中国の官名。西周ではじめて設置され、三公の次に位し、六卿に相当する。田土・財貨・教育などを司った。前漢では丞相が三公の一つとされたが、哀帝の元寿2年(紀元前1年)に、丞相を大司徒と改称している。後漢の建武27年(51年)に、大司徒は司徒と改称される。献帝の建安13年(208年)6月、曹操が三公制度を廃止して、丞相・御史大夫を置いたことにより、廃止されたが、漢から魏への禅譲が行われると三公制度が復活し、再び司徒が三公の一つとして設置された。

○故政司徒李公光弼 故はすでに死んだ者を称する、司徒は上に云う官名、光弼をさす。

郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。

実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。

安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。

 李光弼(708~764年)は、営州柳城(遼寧朝陽南)の出身で、契丹族です。幼いころは遊びまわらないで、乗馬して弓を射ることがうまく、成年してからは威厳、落ち着き、果敢さがあり、知略にとんでいた。

 唐国の粛宗の靈武行在所で、郭子儀河西節度使、朔方節度副使に任命され、ついで、河東節度使、天下兵馬副元帥に任命され、安史の乱の平定する戦いのなかで功績をあげ、郭子儀とともに「李郭」と言われた。『新唐書』には、その功績をたたえ、「戦功は中興の名臣の中でも一番だ」と記されている。

 唐、760年上元元年、李光弼は軍隊を率いて、史思明の安史軍と戦い、勝利をあげた。李光弼の部隊は野水度に駐屯していたが、牙将の雍希顥に留守を任せて、自ら千名の兵士をひきつれて他所に隠れた。出て行く前、李光弼は留守を任せる武将たちに言った。「敵将の高暉、李日越は、一人で一万人分くらいの力がある敵だ。敵は私を襲ってくるだろう。おまえはここに残り、敵が来ても戦うな。もし降伏したら、私のところに連れてこい」

 武将たちは、この言葉を聞いて、かなり変だと感じたものの、心の中では「大将は、どう事をさばくのか、こんな不思議なことをするのだろう」と思った。

 翌日、史思明は、武将の李日越に五百騎の完全武装の騎馬隊を指揮させ、李光弼を襲うことにする。このとき勝てなければ帰ってくるなと命じた。李日越は、軍隊をひきいて野水度に来て、そこには雍希顥しかいないと知ると、ついに降伏した。李光弼は、李日越を厚遇したうえ、さらに郭子儀に頼んで右金吾大将軍にしてもらった。それで、この話を聞いた高暉も、李光弼に降伏する。

 すべてが片付いた後、武将たちはどんどんどうやって二人の敵将を投降させられたのかを聞きいた。李光弼は解説するように言った。「李日越が降伏したのは、私がどこにもいなかったので任務を遂行しようがなかったし、雍希顥は無名の武将なので、戦死させたとしても功績にならないからだ。高暉は、李日越より自分はすごいと自負しており、すでに李日越が降伏して厚遇されている以上、自分が降伏すればもっと厚遇されるだろうと思うだろうからだ」

 李光弼の戦法は、戦略をきちんと立て、計画ができてから戦うというもので、つねに少ない兵力で大軍に勝っている。軍隊の管理が厳正で、武将たちはだれもが命令に従う。764年、李光弼は病死したが、死に際して、財産をすべて武将たちに分け与えている。武将たちはだれもが李光弼の死を泣いて悲しんだ。

 

 

司徒天寶末,北收晉陽甲。

司徒李公(光弼)は天宝の末年756年に河東節度副使となって北のかた晋陽(太原)の兵を配下軍とされた。

天寶末 756年。

○収晋陽甲 晋陽は山西省太原府、太原は唐では北都と称して都督府を置いた、甲は武装した兵をさす。晋陽の甲を収むとは大原尹・北京留守であったことをいう。収晋陽甲の字面は「公羊伝」「晋の趙鞅は晋陽の兵を用いて荀寅と士吉射を駆逐した」に本づく。伝によれば郭子儀が朔方節度使であったとき李光弼を推奨して雲中太守となし河東節度副使にあてた。756年天宝十五載、唐哥舒翰軍が潼関を出て大敗し、守りを失ったとき戸部尚書を授けられ、太原尹・北京留守を兼ねた、757年至徳二年、史思明らの四偽帥(禄山の将をいう)が衆十余万を率いて太原を攻めたとき、光弼は拒守すること五十余日、安史軍の油断を伺い出撃して大いにこれを破り、首を斬ること七万余級、検校司徒を加えられ、ついで司空に遷された。

 

胡騎攻吾城,愁寂意不愜。

そのとき安史軍の史思明らは吾が太原の城を攻めてきたので守城のものは心配して不安の念をいだいたものであった。

○胡騎 安史軍の騎兵。安禄山が混血であったことで、ウイグルの傭兵がほとんどであったために、騎馬部隊が優れていた。

○吾城 太原城。

○意不愜 唐軍は、敗戦に次ぐ敗戦で、守城の人が不安の念をいだくことをいう。

 

人安若泰山,薊北斷右脅。

しかし、李光弼公は安史軍をうち破って薊州の右臂の脅を断ちきったので、人民の安らかなること泰山のごとくといわれたものだ。

○若泰山 動揺せぬさまをいう。泰山鳴動して鼠一匹。

○薊北 燕・薊州のこと、安禄山の根拠地。

○断右脅 「西域伝」に「匈奴の右臂を断つ」の語がある、ここは、その意を取って臂を脅とした、右とは西をいう、太原は薊州の西にあたるのでこれを右脅という。

 

朔方氣乃蘇,黎首見帝業。

朔方の霊武行在所の元気よみがえり、人人ふたたび帝業を仰ぎ見るに至ったのである。

○朔方 北方。霊武行在所のこと。

○黎首 黒頭、人民をいう。

○見帝業 当時安禄山・史思明らが乱を構え、安禄山は河北より潼関に向かい、史思明は山右より秦隴をうかがった、李光弼は西のかた安史軍を防御したために朔方は虞れなくして粛宗は業を霊武に起こすことができた。房琯が玄宗より詔を受け、至徳元年とした、起八句は太原を守った功をいう。
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