遺懐-1
昔我遊宋中,惟梁孝王都。

名今陳留亞,劇則貝魏俱。

邑中九萬家,高棟照通衢。

舟車半天下,主客多歡

(旧友の高適と李白と一緒に遊んだ若い日のことを思い浮かべ、今胸に在るうさを遣るために詠んだ詩)むかし自分は宋州に遊んだことがある。そこは梁の孝王の都であったところである。

その名高さは陳留の次位ぐらいだが、要衝の地であるだけに繁劇さは貝州・魏州と同列になるほどである。

 

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  杜甫詩1500-915-#1-1375/2500

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二二              文體:    五言古詩

詩題:    遺懷

作地點:              夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)

及地點:宋州 (河南道 宋州 宋州) 別名:宋  

陳留 (河南道 汴州 陳留)              

貝州 (河北道南部 貝州 貝州)       

魏州 (河北道南部 魏州 魏州)       

荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)   

 

 

遺懷-1

(旧友の高適と李白と一緒に遊んだ若い日のことを思い浮かべ、今胸に在るうさを遣るために詠んだ詩)

昔我遊宋中,惟梁孝王都。

むかし自分は宋州に遊んだことがある。そこは梁の孝王の都であったところである。

名今陳留亞,劇則貝魏俱。

その名高さは陳留の次位ぐらいだが、要衝の地であるだけに繁劇さは貝州・魏州と同列になるほどである。

邑中九萬家,高棟照通衢。

その宋州の城内には九萬家もあり、富貴の邸宅の高い棟木が四通りにならび、街路をあからく照らしている。

舟車半天下,主客多歡

水駅と陸駅があり、物資がここに集積され、発送されるから、天下の舟車の半分はここに集まってくる、土地の者のものも、他所のものも皆寄り集まって、面白く過すのである。

2

白刃讎不義,黃金傾有無。

殺人紅塵裡,報答在斯須。

憶與高李輩,論交人酒壚。

兩公壯藻思,得我色敷腴。

3

氣酣登吹臺,懷古視平蕪。

芒碭雲一去,雁騖空相呼。

先帝正好武,寰海未凋枯。

猛將收西域,長戟破林胡。

4

百萬攻一城,獻捷不云輸。

組練棄如泥,尺土負百夫。

拓境功未已,元和辭大爐。

亂離朋友盡,合沓月徂。

5

吾衰將焉託,存歿再嗚呼。

蕭條益堪愧,獨在天一隅。

乘黃已去矣,凡馬徒區區。

不復見顏鮑,繫舟臥荊巫。

臨餐吐更食,常恐違撫孤。

 

#1

昔 我 宋中に遊び,惟れ 梁の孝王の都なり。

名は今 陳留に亜ぐ、劇は則ち 貝魏倶なり。

邑中 九萬家、高棟 通衛を照らす。

舟車 天下に半なり、主客 歓娯 多し。

#2

白刃不義に讎す、黃金 有無を傾ける。

人を殺す 紅塵の裏.報答 斯須に在り。 

憶ふ 高と李とが輩と、交を論じて 酒壚に入る。

両公 藻思 牡んなり、我を得て色数腴たり。

#3

氣酣にして吹臺に登る、古を懐うて平蕪を視る。

芒碭 雲一去、雁騖 空しく相い呼ぶ。 

先帝 正に武を好む、寰海 未だ凋枯せず。

猛將 西域を収め、長戟 林胡を破る。

#4

百萬 一城を攻む、捷を献じて 輸けたちと云わず。

組練 棄つること泥の如し、尺士 百夫に負く。

拓境 功未だ巳ます、元和 大爐を辭す。

乱離 朋友 尽く、合沓 歳月 く。

#5

吾 衰へて 將に 焉に託せんとする、存歿 再び鳴呼す。

蕭条 益ます 愧づるに堪へたり、獨り 天の一隅に在り。

乘黃 巳に去らぬ、凡馬 徒らに區區たり。

復た 顏鮑を見ず、舟を繋いで荊巫に臥す。

餐に臨みて吐て更に食す、常に恐る 撫弧に違はむことを。

 

 

taigennankin88 

 

『遺懷』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

遺懐-1
昔我遊宋中,惟梁孝王都。

名今陳留亞,劇則貝魏俱。

邑中九萬家,高棟照通衢。

舟車半天下,主客多歡

(下し文)
#1

昔 我 宋中に遊び,惟れ 梁の孝王の都なり。

名は今 陳留に亜ぐ、劇は則ち 貝魏倶なり。

邑中 九萬家、高棟 通衛を照らす。

舟車 天下に半なり、主客 歓娯 多し。


(現代語訳)
(旧友の高適と李白と一緒に遊んだ若い日のことを思い浮かべ、今胸に在るうさを遣るために詠んだ詩)

むかし自分は宋州に遊んだことがある。そこは梁の孝王の都であったところである。

その名高さは陳留の次位ぐらいだが、要衝の地であるだけに繁劇さは貝州・魏州と同列になるほどである。

その宋州の城内には九萬家もあり、富貴の邸宅の高い棟木が四通りにならび、街路をあからく照らしている。

水駅と陸駅があり、物資がここに集積され、発送されるから、天下の舟車の半分はここに集まってくる、土地の者のものも、他所のものも皆寄り集まって、面白く過すのである。


(訳注)

遺懷 

(旧友の高適と李白と一緒に遊んだ若い日のことを思い浮かべ、今胸に在るうさを遣るために詠んだ詩)

自叙伝というべき1514壯遊》は少年壮年時、天下を周遊したことを述べ、且つ、老後の感慨を述べたものであったが、その続編というべき作品である。

同時期の自叙伝シリーズ

1.《巻1512 往在》

766年大暦元年55-48【8分割】 《巻1512 往在 -1 杜甫index-15 杜甫<911 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5865

2《巻1513 昔遊》

766年大暦元年55-49【5分割】 《巻1513 昔遊 -1 杜甫index-15 杜甫<912-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5905

3. 《巻2084 昔遊二首其一 -1

杜甫 《巻20・84 昔遊二首其一 -1》【4分割】 杜甫詩index-15-767年大暦元年56-83 <913-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5930 杜甫詩1500-913-#1-1357/2500

4.《巻1514 壯遊》

66年大暦元年55-50 《1514壯遊-#1》【14分割】 杜甫index-15 杜甫<916 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5925

5.《巻1515 遺懷》

 

昔我遊宋中,惟梁孝王都。

むかし自分は宋州に遊んだことがある。そこは梁の孝王の都であったところである。

昔我 天寶三、四載のころ。(744745年、33~34歳)741年年開元29載に洛陽に帰る。744年祖母が没し墓誌を作るまで洛陽に在った。夏に李白と出遭う。秋に、李白、高適と一緒に梁、宋(河南)に遊ぶ。

宋中 宋は宋州をいい、中は城郭の中をいう。宋州は(河南道、宋州で別名、宋という。

梁孝王都  梁の孝王、名は武、漢の文帝と竇皇后との間に生れる、長子は景帝、次は孝王なり、文帝の十二年に梁に徙封せらる。睢陽に都す、即ち商丘縣の地なり。景帝の五年、孝王睢城を廣むること七十里、大に宮室を治む。東苑を築く、方三百余里。

漢代梁孝王所營建的園囿。在河南省開封縣東南。唐.杜甫〈寄李十二白二十韻〉:「醉舞梁園夜,行歌泗水春。」寄李十二白 二十韻 杜甫 <232-#2> kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1133 杜甫特集700- 342

唐.李白〈梁園吟〉:「平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。」梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

169 -1(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -1Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <169 -1> Ⅰ李白詩1378 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5438

 

名今陳留亞,劇則貝魏俱。

その名高さは陳留の次位ぐらいだが、要衝の地であるだけに繁劇さは貝州・魏州と同列になるほどである。

陳留亞 河南道 汴州 陳留河南省東部に位置する地級市。中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都であった。11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。前漢の時代に武帝の弟・梁王・劉武が封じられたこともあったが、後漢から三国時代の魏にかけての時期には郊外の陳留が陳留郡の郡治と位置づけられるなど、さほど重要視される都市ではなかった。東魏時代には梁州、北周時代には汴州(べんしゅう)と呼ばれた。

隋代になり、大運河が開通すると一気にこの都市の重要性は高まり、南からやってくる物資の大集積地として栄えた。

その後の唐末期に首都長安は荒廃し、それに代わってこの都市が全中国の中心地となり、唐から簒奪した朱全忠はここを首都として後梁を建てた。その後の五代政権も後唐を除いて全てこの地を首都とし、後周により汴州(べんしゅう、汴はさんずいに卞)と改称された。

劇 繁劇、街の繁栄状況が激烈であることをいう。

貝魏俱 貝州のこと。577年(建徳6年)、北周により設置された。隋朝が成立すると当初は清河郡と広宗郡の23県を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い貝州は清河郡と改称され下部に14県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては清河郡(清河県 清陽県 宗城県、清淵県 高唐県 博平県、茌平県 武城県 漳南県、臨清県 清平県 経城県、歴亭県 )。

魏 魏州のこと。582年(大象2年)、北周により相州昌楽郡[1]に魏州が設置された。隋朝が成立すると当初は26県を管轄した。605年(大業元年)に屯州が廃止されその管轄県を統合している。607年(大業3年)、郡制施行に伴い魏州は武陽郡と改称され、14県(貴郷県 観城県 莘県、武陽県 館陶県 聊城県、元城県 繁水県 魏県、頓丘県 臨黄県 堂邑県、冠氏県 武水県)を管轄した。

 

邑中九萬家,高棟照通衢。

その宋州の城内には九萬家もあり、富貴の邸宅の高い棟木が四通りにならび、街路をあからく照らしている。

邑中 宋州の城郭の繁華街。

高棟 富貴の者の大邸宅。

 邸宅にはかがり火が焚かれ、そのあかりに街路が照らされる。

通衢 往来のにぎやかな道路,街道.通衢廣陌、四通八達的寬廣大路。。《周禮》冬官・考工記には「匠人営國、方九里、傍三門。國中九經九緯」一門参通りで一面に三門で、九筋九通で皇城との兼ね合いで三筋三通りの混じり合うところが繁劇・繁華街となる。

 

舟車半天下,主客多歡
水駅と陸駅があり、物資がここに集積され、発送されるから、天下の舟車の半分はここに集まってくる、土地の者のものも、他所のものも皆寄り集まって、面白く過すのである。

舟車 水駅と陸駅の二つの駅が併合されたことを示す。交通の要衝の地であること。

半天下 天下の舟車の半数がここに集まる。

主客 土着のものと外来のものということ。

多歡 皆寄り集まって、おもしろく過すことをいう
洛陽 函谷関002