杜甫  示奴阿段  

山木蒼蒼落日曛,竹竿褭褭細泉分。郡人入夜爭餘瀝,豎子尋源獨不聞。

病渴三更迴白首,傳聲一注青雲。曾驚陶侃胡奴異,怪爾常穿虎豹群。
南蛮系のしもべである阿段に示した詩。【獠は乃ち 南蠻の別種であり,名字ではない。長男は阿謨、阿段と稱す;女は阿夷、阿等と稱すのがこの類である。】山の樹木の色が、かぐろくなり、夕陽が暗くなりかけた。この時、なよなよとした竹竿からは細々とした泉水がいくつか流れている。郡の人たちは夜になるとそのあまりのしずくを我勝ちにと争って汲みあう。だが自分のしもべは黙って私には聞かせずに山奥の源に尋ねて行った。真夜中に自分はのどが渇いて困り、水が欲しいと白髪首を長くして眺めた。あたかも、自分の処へさっと、ひと声水の音がして、それが青雲をうるおしてそそぎくだってきた。自分はむかし陶侃の胡奴が人の出来ないほど変わったことをしたいという話に驚いているのだが、お前が何時も虎豹の群れの中を分け入って歩くのも不思議に堪えず感心をしているのである。
766-83杜甫 1506示獠奴阿段【獠乃南蠻別種,無名字。男稱阿謨、阿段】》 杜甫詩index-15-大暦元年-83 <946 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6365

 

 

杜甫詩1500-946-1444/2500奴阿段

 

阿段  ――――― 杜甫が奴僕、使用人に対してのおもい。

 

 杜甫はわずか二年弱の夔州時代に、四百首あまりの詩を作っている。これは単純に計算しても三日に二首ほどのペースであり、千四百余首あるなかで、その占める分量を考えると、夔州時代が杜甫の詩作のきわめて旺盛な時期であったことを示している。杜甫の夔州時代といえば、七言律詩の完成期という面に注意が向きがちであるが、この活発な詩作時期が包含するものはただそれだけではない。この時期にはもう一つ、日常生活に題材をとった大量の生活詩が存在する。

 その主要な部分は、夔州という慣れない土地に移り住んで、役人たちとの社交生活にも気を使いながら、大家族の生活を病身の身に一身に背負い、自宅では鶏を飼ったり、薬草を採集したり、野菜をうえたり、蜜柑園を経営したり、米作りを請け負ったりしたことなどを述べた、一連の生活詩、農業詩である。そしてそういう農的生活を杜甫の身辺で支えたのが、杜甫が現地で私的に雇用したと思われる数名の使用人たちである。

 

 

 山から湧泉の水を引いてくるために、竹筒を次々に連結して樋(とい)を作って、それで水を導いてくることがあるが、杜甫は夔州に来て初めて、その大がかりな仕掛けを見たらしい。

 長江三峡のこの瞿塘峡あたりでは井戸というものがなく、雲安では水の確保のために使用人たちはひどく難儀していた。ところが夔州に到着してみると、ここには便利な竹の樋によって長々とつながれた導水設備があった。杜甫はそれを見出してとても喜び、雲安での使用人たちの嘗ての苦労を気の毒がった。夔州到着後に作った《1505_水を引く》の詩で、杜甫はそのことを次のように詠じている。

 

引水

月峽瞿塘雲作頂,亂石崢嶸俗無井。

雲安酤水奴僕悲,魚復移居心力省。

白帝城西萬竹蟠,接筒引水喉不乾。

人生留滯生理難,斗水何直百憂寬。

(竹樋で水をひく。)

明月峡も瞿塘峡も雲がその剣閣山から巴山十二晩峰の頂を成しており、岩石固く乱れて起っていて、そこには井戸がないからのどが乾く。

だから、自分が療養している雲安では水を購入して呑まねばならんので、下僕の者たちはそれを悲しんだが、奉節の魚復という湊町に移居してからは水の心配は少し省けて、下僕たちの力仕事も省けた。

その一つに、白帝城の西に幾万本の竹林があって、そこの竹を伐採して、竹筒や樋にしてつなぎ合わせ、遠くから水をひいてきたので、のどが渇くことが無くなった。

自分の人生、こうして他郷に過ごすということは、生活することにおいて暮らし向きというものに難儀をするもので、心の中の様々な愁いを分量で測るとすれば、一斗の水を汲み、運ぶのが大変であったが、その水の両とは比べ物にならないほど大変な量の愁いである。

 (引水)

月峽 瞿塘 雲頂と作し,亂石 崢嶸【そうおう】俗 井無し。

雲安 水を酤うて奴僕悲しむ,魚復 居移して心力省く。

白帝城 西萬竹 蟠【わだかま】る,筒を接し水を引きて喉を乾かず。

人生 留滯 生理難し,斗水 何ぞ直【あた】らん百憂の寬なるに。

 

この詩の三句目に出てくる雲安の奴僕は、杜甫がまだ雲安に滞在していたとき、(それは結局は重い病のために実質八、九ヶ月に及ぶ長逗留となったのだが)、現地で雇った杜甫の使用人と思われる。他家の奴僕たちが水を買出しに行っている有様を、自分とは関係のない風景のように詠じているというのではあるまい。そうだとすれば、この詩は杜甫が自分の身近な使用人に対して、私的な感情を吐露した最初の例である。

 

 もちろん杜甫の家族にも、昔からずっと一家に付き従っていた家内の使用人たちがいたはずである。杜甫の詩の中では、樸夫・僮僕・婢・(走使)などとして、それらしき者が何度か登場する。彼(女)らは、唐代の身分制では実質的には「家内奴隷」と呼んでいいのかもしれないが、しかし杜甫は彼らを、隷人階層に属する客観的な第三者的な存在として特別に意識したことはない。杜甫にとって常に家族とともにいる家内の使用人は、いわば空気のような存在で、特に彼らの存在が何か特別なものとして意識にのぼることも、詩に描かれることもなかった。しかし夔州に来てからは、彼らとは別に現地で雇った使用人が、杜甫の生活、詩のなかで大きな存在を占めるようになる。そしてその萌しは、この雲安あたりから始まる。

 

 さきの詩にもどって、雲安の状況を振り返った箇所では、杜甫が使用人に対して「奴僕悲しみ」と感情移入し、同情の念を抱いているのが注目される。しかしその奴僕が杜甫とどういう関わりを持っていたのか、或いはどういう人間だったのかはまだ見えてこない。いずれにしろこの奴僕には、まだ顔も個性も見えていない。杜甫にとって雲安時代の奴僕は、まだ身近な人としての個別性は与えられず、奴僕一般の中に解消されていると言える。

 夔州あたりのこの竹製の樋は、山腹をくねくねと掛け渡されて、長いものになると数百丈(一丈は約三メートル)にも達したという(南宋の魯訔の注)。そういうこともあってか、この樋は時々壊れて、水が流れてこなくなることがあったようである。実は、杜甫も一、二度そういう事態に出くわしたことがある。

 

 夔州に着いた最初の年のある暮れ方、樋から水がだんだん流れてこなくなり、夜には村人たちが滴る水を争うほどまでになった。糖尿病を患っていた杜甫にはこれは大きな痛手で、夜中に彼は水が欲しくてたまらなかった。ちょうどその時、使用人の阿段と呼ばれる少年が''、水源まで山を登っていって修理してくれた。そのおかげで、杜甫は水を得ることができ、ひどく感激したのだった。そこで杜甫は彼のために、以下のような七言律詩《1506_獠奴の阿段に示す》を作った。

 

示獠奴阿段

山木蒼蒼落日曛、竹竿裊裊細泉分。

郡人入夜爭餘瀝、豎子尋源獨不聞。

病渇三更迴白首、傳聲一注濕青雲。

曾驚陶侃胡奴異、怪爾常穿虎豹羣。

 

山の木は蒼蒼として 落日は曛()れゆき、竹の竿(さお)は裊裊(なよなよ)として 細泉分かる。

郡人は夜に入って 余瀝(ヨレキ)を争う、豎子(ジュシ)は源を尋ねて 独り聞せず。

われは渇(糖尿病)を病みて 三更のよなかに 白首を迴(めぐ)らせば、声を伝えて一たび注ぎ 青雲を湿(うるお)しきたる。

(かつ)て驚く 陶侃の胡奴の異なるに、爾が常に虎豹の群れを穿(うが)つを 怪しむ。         

 

四句目で、少年の阿段が山上の泉源まで誰にも言わず一人登って行ったと、杜甫は詠じている。そんな言い方に対して清初の黄生は、その真意をさぐって、次のように、大いに郡人を鄙薄するの意有り。既に余瀝を争うを屑(いさぎよ)しとせず、又た能く険を冒して源を尋ぬ。

  世の、小利を狃(むさぼ)りて遠図を忽(ゆるがせ)にし、独り労するを避けて公事を諉(おしつ)くる者を視れば、其の賢なること遠きなり。故に特に詩もて之を表す。阿段を表して、当事を譏(そし)る所以なり。

                                          

と述べている。また清の浦起竜も「他人の、利を眼前に争うを見て、此の子は遠く泉脈を尋ぬ、所以(ゆえ)にその績を表するなり」(『読杜心解』巻四之二)と言う。黄生も浦起竜も、杜甫が阿段の品性、行為を褒め、とくにそれを顕彰するためにこの詩を書いたのだと考えている。

 詩意全体から感じ取れるのは、たしかにそうである。さらに言葉の上からも杜甫の阿段への思い入れが感じられる。それは末句の「爾が常に虎豹の群れを穿つを怪しむ」の「怪しむ」という言葉である。「怪」は不思議がるとか、責めるの意味でよく用いられ、杜甫詩の用例でも少なくない。その中でもたとえば《1905_園官が菜を送る》の「園吏は未だ怪しむに足りず」と言うのは、とがめるの意であろう。だがここでは、その意味でとれば、阿段を顕彰するという詩全体の主旨と反してしまう。浦起竜がそれを「七・八は之を賛し、亦た之を誡むるなり」と解釈するのが、この「怪」の意をよくとらえている。七、八句目を、この詩で用いられている“陶峴の故事”と重ね合わせて解すると、泳ぎがうまかった陶峴の胡奴はついに蛟竜のために死んだ、お前が山に入るときも慎重にしたほうがよいぞ、となろう。このように、ここでの「怪」は戒めるの意味を兼ね備えていると解する方が、杜甫の気持ちにぴったりする。

 この詩の詩題は「阿段に示す」となっているが、詩題で「誰々に示す」と書く場合、杜甫はどういう使い方をしているのだろうか。杜甫の用例を検討してみると、たとえば《0318_我が従孫の済に示す》や《0813_姪の佐に示す》の場合と同じような意味で用いられている。いずれも一族の目下のものに直接教訓を垂れるか、眼前で褒めたりしている意味と考えてよいであろう。

 たしかに杜甫は、詩の中で直接感謝の情を述べているわけではない。しかし以上見てきたように、詩題の「示す」という表現や、詩を作って阿段に示したという行為、また詩の行間などから、阿段への杜甫の賛嘆や感謝やいとおしむ気持ちを、充分感じとることができる。冒頭に掲げた《1505_引水》の詩では、雲安時代の「奴僕」にはまだ個人性が賦与されていなかったが、夔州時代の使用人にはもう飛躍的に杜甫自身の個人的な親密さが表明されている。こういった最下層の人を特定して詩に取り上げるというのは、当時にあっては異例のことであった。

 

 

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二九              文體:    七言律詩

詩題:    示獠奴阿段【案:獠乃南蠻別種,無名字。男稱阿謨、阿段;女稱阿夷、阿等之類。】

作地點:              夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)

交遊人物:阿段

 

 

示獠奴阿段

南蛮系のしもべである阿段に示した詩。

【獠乃南蠻別種,無名字。男稱阿謨、阿段;女稱阿夷、阿等之類。】

【獠は乃ち 南蠻の別種であり,名字ではない。長男は阿謨、阿段と稱す;女は阿夷、阿等と稱すのがこの類である。】

山木蒼蒼落日曛,竹竿褭褭細泉分。

山の樹木の色が、かぐろくなり、夕陽が暗くなりかけた。この時、なよなよとした竹竿からは細々とした泉水がいくつか流れている。

郡人入夜爭餘瀝,豎子尋源獨不聞。

郡の人たちは夜になるとそのあまりのしずくを我勝ちにと争って汲みあう。だが自分のしもべは黙って私には聞かせずに山奥の源に尋ねて行った。

病渴三更迴白首,傳聲一注青雲。

真夜中に自分はのどが渇いて困り、水が欲しいと白髪首を長くして眺めた。あたかも、自分の処へさっと、ひと声水の音がして、それが青雲をうるおしてそそぎくだってきた。

曾驚陶侃胡奴異,怪爾常穿虎豹群。

自分はむかし陶侃の胡奴が人の出来ないほど変わったことをしたいという話に驚いているのだが、お前が何時も虎豹の群れの中を分け入って歩くのも不思議に堪えず感心をしているのである。

 

『示奴阿段』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

奴阿段

山木蒼蒼落日曛,竹竿褭褭細泉分。

郡人入夜爭餘瀝,豎子尋源獨不聞。

病渴三更迴白首,傳聲一注青雲。

曾驚陶侃胡奴異,怪爾常穿虎豹群。

(下し文)

奴阿段に

は乃ち 南蠻の別種であり,名字ではない。長男は阿謨、阿段と稱す;女は阿夷、阿等と稱すのがこの類である。】
山木 蒼蒼 落日曛す,竹竿 褭褭 細泉分る。

郡人 夜に入りて餘瀝を爭う,豎子 源を尋ねて獨り聞かしめず。

渴を病みて 三更 白首を迴らす,聲を傳えて 一注 青雲をす。

曾て驚く 陶侃が胡奴の異るをするに,怪しむ爾が 常に 虎豹の群を穿つ。


(現代語訳)
南蛮系のしもべである阿段に示した詩。

【獠は乃ち 南蠻の別種であり,名字ではない。長男は阿謨、阿段と稱す;女は阿夷、阿等と稱すのがこの類である。】

山の樹木の色が、かぐろくなり、夕陽が暗くなりかけた。この時、なよなよとした竹竿からは細々とした泉水がいくつか流れている。

郡の人たちは夜になるとそのあまりのしずくを我勝ちにと争って汲みあう。だが自分のしもべは黙って私には聞かせずに山奥の源に尋ねて行った。

真夜中に自分はのどが渇いて困り、水が欲しいと白髪首を長くして眺めた。あたかも、自分の処へさっと、ひと声水の音がして、それが青雲をうるおしてそそぎくだってきた。

自分はむかし陶侃の胡奴が人の出来ないほど変わったことをしたいという話に驚いているのだが、お前が何時も虎豹の群れの中を分け入って歩くのも不思議に堪えず感心をしているのである。

(訳注)

示獠奴阿段

南蛮系のしもべである阿段に示した詩。

【獠乃南蠻別種,無名字。男稱阿謨、阿段;女稱阿夷、阿等之類。】

【獠は乃ち 南蠻の別種であり,名字ではない。長男は阿謨、阿段と稱す;女は阿夷、阿等と稱すのがこの類である。】

獠奴 獠は南蛮系の名、奴はしもべ。

阿段 意味は、長男という意味で、杜甫の家の奴婢の長男が成長して一人で作業をするようになった。

 

山木蒼蒼落日曛,竹竿褭褭細泉分。

山の樹木の色が、かぐろくなり、夕陽が暗くなりかけた。この時、なよなよとした竹竿からは細々とした泉水がいくつか流れている。

褭褭 たおやか。

細泉 細々とした泉がいくつかに別れて流れる。

 

郡人入夜爭餘瀝,豎子尋源獨不聞。

郡の人たちは夜になるとそのあまりのしずくを我勝ちにと争って汲みあう。だが自分のしもべは黙って私には聞かせずに山奥の源に尋ねて行った。

餘瀝 筧樋からあまり、したたる。

豎子 ① 未熟者。青二才。 「軽薄なる二-の為めに吾校の特権を毀損せられて/坊っちゃん 漱石」 子供。わらべ。ここでは、阿段のこと。

不聞 主人の杜甫に、断りの言葉を聞かせないこと。

 

病渴三更迴白首,傳聲一注青雲。

真夜中に自分はのどが渇いて困り、水が欲しいと白髪首を長くして眺めた。あたかも、自分の処へさっと、ひと声水の音がして、それが青雲をうるおしてそそぎくだってきた。

病渴 のどの渇きの病気。この時杜甫は、喘息、糖尿病を患っていた。ここでは糖尿病をいう。

三更 真夜中

迴白首 水のある筧樋の上流側の高い当たりを眺めること。

傳聲 筧樋から水の流れる音が伝わってくる。

青雲 高い所から水が流れてくる様子を詩的に表現したもので、青雲をうるおしてそそぎくだってくることをいう。

 

曾驚陶侃胡奴異,怪爾常穿虎豹群。

自分はむかし陶侃の胡奴が人の出来ないほど変わったことをしたいという話に驚いているのだが、お前が何時も虎豹の群れの中を分け入って歩くのも不思議に堪えず感心をしているのである。

陶侃 陶侃(とうかん、259 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将。字は士行。鄱陽の人。父は呉の揚武将軍陶丹。母は湛氏。子は16人いたとされるが、記録に残っているのは陶洪、陶瞻、陶夏、陶琦、陶旗、陶斌、陶称、陶範、陶岱の9人だけである。甥に陶臻、陶輿。詩人の陶淵明は曾孫とされるが、陶淵明の祖父とされる陶茂は晋書の陶侃伝には記録されていない。荊州刺史として杜とう (ととう) 討伐にあたった。いったん広州刺史に左遷され,のち再び荊州刺史となって,蘇峻の乱の平定に功があった。東晋最大の州鎮の統帥として大きな勢力をもち,長沙郡公となり,在任のまま没した。

胡奴異 異民族の奴婢が尋常と違ったことをする。

怪爾常 不思議に堪えず感心をしている

穿虎豹群 虎豹の群れの中を分け入って歩く