謁先主廟【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】 #1
慘淡風雲會,乘時各有人。力侔分社稷,志屈偃經綸。
復漢留長策,中原仗老臣。雜耕心未已,歐血事酸辛。
(夔州魚腹縣の蜀漢の先主、劉備、諡号昭烈帝の祠廟に謁したことを詠んだ詩) #1 後漢の末にものがなし風雲が集まり天下乱れたとき時勢に乗じてうごきだしたものにそれぞれその人があった。蜀の先主は魏・呉と対等の力を以て天下を三分する状態、三権鼎立が成立していた。晩年に遺恨を以て、呉の制覇の志をのばすことができず、經綸の策が倒れてしまった。そうして漢の天下を回復するよい計画を死後のものにのこした。したがって、中原の地を回復することは老臣である諸葛売をたよることにしたのである。諸葛亮は魏と対陣して、兵站に不利であることから、征領した土地の農民にまじって屯田制を敷くという、心は攻めることをやめることはなかったのだが、体力がつづかず血をはいて死ぬことになった、その事たるや悲惨きわまるものである。
766年-89-杜甫 《1569謁先主廟》-#1 五言古詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-89-1 <952-#1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6395
杜甫詩1500-952-#1-1450/2500
年:766年大暦元年55歲-89
卷別: 卷二二九 文體: 五言古詩
詩題: 謁先主廟【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】
作地點: 目前尚無資料
及地點: 先主廟 (山南東道 夔州 奉節)
劍閣 (劍南道北部 劍州 劍閣)
謁先主廟
(夔州魚腹縣の蜀漢の先主、劉備、諡号昭烈帝の祠廟に謁したことを詠んだ詩) #1
【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】 #1
(諡号である昭烈皇帝の祠廟は奉節縣の東、六里に在る。)
慘淡風雲會,乘時各有人。
後漢の末にものがなし風雲が集まり天下乱れたとき時勢に乗じてうごきだしたものにそれぞれその人があった。
力侔分社稷,志屈偃經綸。
蜀の先主は魏・呉と対等の力を以て天下を三分する状態、三権鼎立が成立していた。晩年に遺恨を以て、呉の制覇の志をのばすことができず、經綸の策が倒れてしまった。
復漢留長策,中原仗老臣。
そうして漢の天下を回復するよい計画を死後のものにのこした。したがって、中原の地を回復することは老臣である諸葛売をたよることにしたのである。
雜耕心未已,歐血事酸辛。
諸葛亮は魏と対陣して、兵站に不利であることから、征領した土地の農民にまじって屯田制を敷くという、心は攻めることをやめることはなかったのだが、体力がつづかず血をはいて死ぬことになった、その事たるや悲惨きわまるものである。
#2
霸氣西南歇,雄圖曆數屯。
錦江元過楚,劍閣復通秦。
舊俗存祠廟,空山立鬼神。
虛簷交鳥道,枯木半龍鱗。
#3
竹送清溪月,苔移玉座春。
閭閻兒女換,歌舞歲時新。
絕域歸舟遠,荒城繫馬頻。
如何對搖落,況乃久風塵。
#4
孰與關張並,功臨耿鄧親。
應天才不小,得士契無鄰。
遲暮堪帷幄,飄零且釣緡。
向來憂國淚,寂寞灑衣巾。
先主の廟に謁す【劉昭烈廟は奉節縣東六里に在る。】#1
慘淡たり風雲の會,時に乘ずる 各の人有り。
力侔しくして社稷を分つ,志 屈して經綸偃す。
復漢 長策を留どめ,中原 老臣に仗る。
雜耕 心 未だ已まず,歐血 事 酸辛なり。
#2
霸氣 西南歇み,雄圖 曆數 屯す。
錦江 元と楚に過ぐ,劍閣 復た秦に通ず。
舊俗 祠廟 存し,空山 鬼 神立つ。
虛簷 鳥道に交り,枯木 半ば龍鱗。
#3
竹は送る 清溪の月,苔は移る 玉座の春。
閭閻兒 女 換り,歌舞 歲時に新たなり。
絕域 歸 舟遠く,荒城 馬を繫ぐこと頻りなり。
如何んぞ 搖落に對せん,況や乃ち 風塵に久しきをや。
#4
孰か 關張と並び,功は 耿鄧の親しきに臨む。
應天 才 小ならず,得士 契り 鄰 無し。
遲暮 帷幄に堪えたり,飄零 且つ 釣緡。
向來 憂國の淚,寂寞として 衣巾に灑ぐ。
詩文(含異文): 慘淡風雲會,乘時各有人。力侔分社稷,志屈偃經綸。復漢留長策,中原仗老臣。雜耕心未已,歐血事酸辛【案:雜耕、嘔血皆諸葛亮事。】【嘔血事酸辛】。霸氣西南歇,雄圖曆數屯。錦江元過楚,劍閣復通秦。舊俗存祠廟,空山立鬼神【空山泣鬼神】。虛簷交鳥道【虛簷交鳥過】【虛簷扶鳥道】【虛簷扶鳥過】,枯木半龍鱗。竹送清溪月【竹送青溪月】,苔移玉座春。閭閻兒女換,歌舞歲時新。絕域歸舟遠,荒城繫馬頻。如何對搖落,況乃久風塵。孰與關張並【勢與關張並】,功臨耿鄧親。應天才不小【斷天才不小】,得士契無鄰【得土契無鄰】。遲暮堪帷幄,飄零且釣緡。向來憂國淚,寂寞灑衣巾。
『謁先主廟』 現代語訳と訳註解説
(本文)
謁先主廟【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】 #1
慘淡風雲會,乘時各有人。
力侔分社稷,志屈偃經綸。
復漢留長策,中原仗老臣。
雜耕心未已,歐血事酸辛。
(下し文)
先主の廟に謁す【劉昭烈廟は奉節縣東六里に在る。】 #1
慘淡たり風雲の會,時に乘ずる 各の人有り。
力侔しくして社稷を分つ,志 屈して經綸偃す。
復漢 長策を留どめ,中原 老臣に仗る。
雜耕 心 未だ已まず,歐血 事 酸辛なり。
(現代語訳)
(夔州魚腹縣の蜀漢の先主、劉備、諡号昭烈帝の祠廟に謁したことを詠んだ詩) #1
後漢の末にものがなし風雲が集まり天下乱れたとき時勢に乗じてうごきだしたものにそれぞれその人があった。
蜀の先主は魏・呉と対等の力を以て天下を三分する状態、三権鼎立が成立していた。晩年に遺恨を以て、呉の制覇の志をのばすことができず、經綸の策が倒れてしまった。
そうして漢の天下を回復するよい計画を死後のものにのこした。したがって、中原の地を回復することは老臣である諸葛売をたよることにしたのである。
諸葛亮は魏と対陣して、兵站に不利であることから、征領した土地の農民にまじって屯田制を敷くという、心は攻めることをやめることはなかったのだが、体力がつづかず血をはいて死ぬことになった、その事たるや悲惨きわまるものである。
(訳注)
謁先主廟【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】 #1
(夔州魚腹縣の蜀漢の先主、劉備、諡号昭烈帝の祠廟に謁したことを詠んだ詩)
○先主廟 蜀漢の先主劉備、字は玄徳の廟である。奉節県の東六里、白帝城の西郊にあたる地にある。
(諡号である昭烈皇帝の祠廟は奉節縣の東、六里に在る。)
○劉昭烈 昭烈帝(しょうれつてい)は、中国の皇帝の諡号の一つ。三国時代の蜀漢の劉備(在位:221年 - 223年)。『蜀書』先主伝では「昭烈帝」と記されている。
慘淡風雲會,乘時各有人。
後漢の末にものがなし風雲が集まり天下乱れたとき時勢に乗じてうごきだしたものにそれぞれその人があった。
○惨澹ものがなしいさま。
○風雲会 天下に騒乱の撃-ったことをいう。
○乗時 時勢をしおにうごきだす。
力侔分社稷,志屈偃經綸。
蜀の先主は魏・呉と対等の力を以て天下を三分する状態、三権鼎立が成立していた。晩年に遺恨を以て、呉の制覇の志をのばすことができず、經綸の策が倒れてしまった。
○力侔 魏・呉・蜀が鼎の足のごとくに対時する、三権鼎立。
○分社稷 天下を分かつ。社稷:社稷(しゃしょく)とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。天壇・地壇や宗廟などとともに、中国の国家祭祀の中枢を担う。本項で記述。転じて、国家のことを意味する。古代中国に於いては、土地とそこから収穫される作物が、国家の基礎であると考えられており、村ごとに土地の神と五穀の神を祀っていたが、やがて古代王朝が発生するようになると、天下を治める君主が国家の祭祀を行うようになり、やがて国家そのものを意味するようになった。
○志屈 先主は晩年、呉を征伐しようとして戦いに敗れて死んだので志を伸べることができなかった。
〇偃經綸 經綸の策がたおれた。經綸:国家の秩序をととのえ治めること。また、その方策。
復漢留長策,中原仗老臣。
そうして漢の天下を回復するよい計画を死後のものにのこした。したがって、中原の地を回復することは老臣である諸葛売をたよることにしたのである。
○復漢 漢の天下を回復しょうとしたこと。
○留長策 よいはかりごとを身後にのこす。
○中原 黄河地方(魂の地)を奪取しようとすること。
○老臣 諸葛亮をさす。
雜耕心未已,歐血事酸辛。
諸葛亮は魏と対陣して、兵站に不利であることから、征領した土地の農民にまじって屯田制を敷くという、心は攻めることをやめることはなかったのだが、体力がつづかず血をはいて死ぬことになった、その事たるや悲惨きわまるものである。
○雑耕 兵站が上手くいかず、五回にわたって北伐をしている。屯田の兵卒が農民とまじって耕すこと。諸葛充が北伐して魏の司馬懿と渭水の南に対陣したとき、糧食のとだえることをうれえて兵を分かって屯田し久駐留の基となした、耕者は渭浜の居民の間に雜わったが、百姓は生活に安んじ軍隊には利己的な行為がなかったという。
○欧血 欧は嘔とおなじ、はくこと、諸葛亮は糧尽き勢い窮まり憂患のあまり血をはき、営を焼き逃がれ、走って谷に入り、道に病を発して卒したという。
建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。