杜甫 諸葛廟
久遊巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,并吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
(夔州に滞在して屡、諸葛亮の廟を訪れた)
自分はながらく、曾ての巴子国(夔州魚腹)に遊んでいる、この地の諸葛武侯の祠にたびたび入ってみる。そこには竹林を照らす日光が、だれもおらぬ廟へ斜めにさしこみ、渓をわたってくる風が薄いとばりに万遍なく吹いている。諸葛孔明とその主人先主、劉備とは力をあわせて共に天下をすくう事業にあたり、時を同じくして聖君賢臣が存在していた。諸葛孔明は身を先主に帰してこれを戴き助け、北方を併呑するために晩年には更に軍隊を出し「北伐」を五度した。それが今はその人を祀った廟内では、画をかいた壁に虫や蛇があなをあけ、蜘蛛のいとの懸かっているところで女巫男巫がおみきに酔うている。このとき自分はふと諸葛孔明が平生梁父の吟を好んでなしたという話をおもいだす。あれをかんがえると自分などはここで身みずから耕作に従事したとてまだ遅くはないということか。
766年-98杜甫 《1917諸葛廟》五言古詩 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-98 <961> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6440 杜甫詩1500-961-1459/2500
年:766年大暦元年55歲-98
卷別: 卷二二九 文體: 五言古詩
詩題: 諸葛廟
作地點: 目前尚無資料
及地點: 武侯廟 (山南東道 夔州 奉節) 別名:諸葛廟、武侯祠、武侯祠堂、孔明廟
諸葛廟
(夔州に滞在して屡、諸葛亮の廟を訪れた)
久遊巴子國,屢入武侯祠。
自分はながらく、曾ての巴子国(夔州魚腹)に遊んでいる、この地の諸葛武侯の祠にたびたび入ってみる。
竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
そこには竹林を照らす日光が、だれもおらぬ廟へ斜めにさしこみ、渓をわたってくる風が薄いとばりに万遍なく吹いている。
君臣當共濟,賢聖亦同時。
諸葛孔明とその主人先主、劉備とは力をあわせて共に天下をすくう事業にあたり、時を同じくして聖君賢臣が存在していた。
翊戴歸先主,并吞更出師。
諸葛孔明は身を先主に帰してこれを戴き助け、北方を併呑するために晩年には更に軍隊を出し「北伐」を五度した。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。
それが今はその人を祀った廟内では、画をかいた壁に虫や蛇があなをあけ、蜘蛛のいとの懸かっているところで女巫男巫がおみきに酔うている。
欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
このとき自分はふと諸葛孔明が平生梁父の吟を好んでなしたという話をおもいだす。あれをかんがえると自分などはここで身みずから耕作に従事したとてまだ遅くはないということか。
(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国、屡々入る武侯の祠。
竹日 虚寝に斜めに、渓風薄唯に満つ。
君臣 共済に当たる、賢聖 亦た時を同じくす。
翊戴 先主に帰す、併呑 更に師を出す。
虫蛇 画壁を穿つ、巫覡 蛛糸に酔う。
欻ち憶う 梁父を吟ぜしを、窮耕するも 也た 未だ遅からず。
『諸葛廟』 現代語訳と訳註解説
(本文)
諸葛廟
久遊巴子國,屢入武侯祠。
竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。
翊戴歸先主,并吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。
欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
(下し文)
(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国、屡々入る武侯の祠。
竹日 虚寝に斜めに、渓風薄唯に満つ。
君臣 共済に当たる、賢聖 亦た時を同じくす。
翊戴 先主に帰す、併呑 更に師を出す。
虫蛇 画壁を穿つ、巫覡 蛛糸に酔う。
欻ち憶う 梁父を吟ぜしを、窮耕するも 也た 未だ遅からず。
(現代語訳)
(夔州に滞在して屡、諸葛亮の廟を訪れた)
自分はながらく、曾ての巴子国(夔州魚腹)に遊んでいる、この地の諸葛武侯の祠にたびたび入ってみる。
そこには竹林を照らす日光が、だれもおらぬ廟へ斜めにさしこみ、渓をわたってくる風が薄いとばりに万遍なく吹いている。
諸葛孔明とその主人先主、劉備とは力をあわせて共に天下をすくう事業にあたり、時を同じくして聖君賢臣が存在していた。
諸葛孔明は身を先主に帰してこれを戴き助け、北方を併呑するために晩年には更に軍隊を出し「北伐」を五度した。
それが今はその人を祀った廟内では、画をかいた壁に虫や蛇があなをあけ、蜘蛛のいとの懸かっているところで女巫男巫がおみきに酔うている。
このとき自分はふと諸葛孔明が平生梁父の吟を好んでなしたという話をおもいだす。あれをかんがえると自分などはここで身みずから耕作に従事したとてまだ遅くはないということか。
諸葛廟
(夔州に滞在して屡、諸葛亮の廟を訪れた)
夔州にある諸葛孔明の廟にまいったことをよんだ詩。766年大暦元年55歲-98の作。
蜀漢の諸葛亮、字は孔明をいう、後主の223年建興元年、武郷侯に封ぜられた。廟は夔州府魚復縣の永安宮の傍、赤甲山の麓にあった。
久遊巴子國,屢入武侯祠。
自分はながらく、曾ての巴子国(夔州魚腹)に遊んでいる、この地の諸葛武侯の祠にたびたび入ってみる。
○巴子国 ここは夔州をいう。周の武王が殷を伐ったとき、巴人は武王を助けて功があったので後に封ぜられて巴子となった。古の巴国は東は魚復に至り、西は樊【棘人】道に至り、北は漢中に接し、南は牂牁を極める。夔州魚復県は巴国の域内にある。
周の武王が紂王を討伐した時、巴と蜀は支援に出兵した。「尚書」に記載があり、巴国の軍隊は勇猛で、殷商人が巴と蜀の人の歌舞とその勇気と気概に心服し、陣の前で鉾を下ろしたという。これが後世「武王紂王討伐、前歌後舞」と称されるようになった事件である。武王の殷平定後、巴地を同姓として分封し、子爵を授けた。古代において、僻遠の地の国家は大国でも君主の爵位は子を授けられた。ゆえに呉、楚と巴の諸子は皆子と称した。巴国の境界は、東は魚復(現重慶市奉節県)、西は【棘人】道(四川省宣賓)、北は漢中、南は牂牁(黔・涪)に接していた。
周代中期、巴国は、周王を奉っていたけれども、秦、楚、鄧の国と同様、夷狄の国と見られた。春秋時代の魯の桓公9年(前703年)、巴子*1が韓服という名の使者を楚によこして、巴国と鄧国の友好関係を設立することを乞うた。楚は使者の道朔を派遣し、巴国の使者に鄧国への訪問に付き添わせた。鄧国は南の辺境国だと蔑視し、使者の隊伍を攻撃し財貨を奪った。巴子は軍隊を派遣し、鄧国を破った。この後、巴国の軍隊は、楚国の軍と連合して、申国を討った。楚子は、巴国の軍隊を掠略し、両国の関係は破裂した。魯の庄公18年(前676年)、巴国は楚に攻め入り、楚軍を破った。魯文公16年(前611年)、巴国と秦国、楚国は、共同して出兵し、庸国を滅ぼし、庸国の土地を分割した。魯哀公18年(前476年)、巴人は楚国を攻撃し、【憂阝】において、呉楚の連合軍に破られた。これは巴国の大きな打撃となった。これ以降、楚国は中原に向かって勢力を集中し発展し、中原諸侯国の会盟に参加するようになった。秦は主に周の西の辺境で活動をしていたが、守りを固めて強勢になっていた。巴国は中原からの距離が非常に遠く、会盟に参加する機会は非常に少なかった。
竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
そこには竹林を照らす日光が、だれもおらぬ廟へ斜めにさしこみ、渓をわたってくる風が薄いとばりに万遍なく吹いている。
○竹日 竹林をてらす日光。
○虚寝 人のいない廟。
○薄帷 うすいとばり。
君臣當共濟,賢聖亦同時。
諸葛孔明とその主人先主、劉備とは力をあわせて共に天下をすくう事業にあたり、時を同じくして聖君賢臣が存在していた。
○共済 ともに天下をすくう。
○賢聖 賢臣聖君。
翊戴歸先主,并吞更出師。
諸葛孔明は身を先主に帰してこれを戴き助け、北方を併呑するために晩年には更に軍隊を出し「北伐」を五度した。
○翊戴 たすけいただく。
○先主 劉備。《1569謁先主廟》【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】
○井呑 中原の地方を合わそうとする「北伐」をいう。
○出師 後主の227年建興五年、諸葛亮は魏を伐とうとして諸軍を率いて北のかた漢中に進駐しょうとし、出発にのぞんで表をたてまつった、これがすなわち有名な「出師の表」である。《1512武侯廟》に「猶聞辭後主」とあり、」辞とはこの表をたてまつって暇乞いの御挨拶をすることをいう。
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『北伐』諸葛亮が自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。
これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。元々蜀は荊州と益州の二方面からの北伐を計画していたが、荊州を魏と呉に奪われていたため、益州のみからの北伐を余儀なくされた。
228年春の第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていたものの、諸葛亮の指示に背いた先鋒の馬謖が張郃に撃破され、その後蜀軍は撤退する(街亭の戦い)。 228年冬の第二次北伐は、攻めあぐねているうちに食糧不足により撤退した。撤退時に追撃してきた王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。 229年春の第三次北伐は、陳式が武都・陰平を攻め、諸葛亮が魏の郭淮を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定した。 231年春2月から始まった第四次北伐は、祁山を包囲し、援軍に来た張郃・司馬懿を撃退するが、同年夏6月に食料不足により撤退する。撤退時に追撃してきた張郃を討ち取っている。 そして234年春2月から始まった第五次北伐は屯田を行い長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没した(五丈原の戦い)。
第四次北伐と五次北伐の間に益州南部で反乱が起こっている。蜀末期の学者で『三国志』の著者の陳寿の学問の師である譙周によれば、「益州南部は遠方蛮族(南蛮)の土地で、反乱が多く統治の難しさから従来は税が課されていなかったが、諸葛亮が益州南部の反乱を制圧したのち益州南部に租税を課せるようになり、それを苦しみ恨んでいる」と言って蜀が滅びる前に南方に撤退しようと検討していた劉禅を説得している(譙周伝)。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。
それが今はその人を祀った廟内では、画をかいた壁に虫や蛇があなをあけ、蜘蛛のいとの懸かっているところで女巫男巫がおみきに酔うている。
○巫覡 女のみこ、男のみこ。
○醉蛛絲 蜘蛛のいとの懸かっているところで・・・・・・が御神酒に酔うている。
欻憶吟梁父,躬耕也未遲。【躬耕起未遲】
このとき自分はふと諸葛孔明が平生梁父の吟を好んでなしたという話をおもいだす。あれをかんがえると自分などはここで身みずから耕作に従事したとてまだ遅くはないということか。
○吟梁父 孔明が好んで梁父吟をなしたことは、すでにしばしば見える。
○梁甫吟 梁甫は泰山の傍にある山の名である、梁父ともいう。梁甫吟は山東地方の民謡。三国志に諸葛亮(孔明)が父の死後、既成のメロディーに合わせて歌詞をつくったとある。諸葛亮が愛詞した詩篇、其の辞にいう、「歩して斉の城門を出で、造かに蕩陰里を望む。里中に三墳有り、索索として相い似たり。閉り是れ誰が家の墓ぞ、田彊と古治子と。カは能く南山を排し、文は能く地紀を絶つ。一朝謹言を被り、二桃三士を殺す。誰か能く此の謀を為せる、国相たる斉の量子なり」と。梁甫は泰山の下の小山の名、孔明は山東に耕して此の詩を好んで吟じたという。其の意は妟子の陰謀を悪むに在るもののようである。
梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643
諸葛廟
久游巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,併吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国、屡々入る武侯の祠。
竹日 虚寝に斜めに、渓風薄唯に満つ。
君臣 共済に当たる、賢聖 亦た時を同じくす。
翊戴 先主に帰す、併呑 更に師を出す。
虫蛇 画壁を穿つ、巫覡 蛛糸に酔う。
欻ち憶う 梁父を吟ぜしを、窮耕するも 也た 未だ遅からず。
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謁先主廟【劉昭烈廟在奉節縣東六里。】 #1
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#2
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