杜甫  峽口,二首之二

時清關失險,世亂戟如林。去矣英雄事,荒哉割據心。

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。疲煩親故,諸侯數賜金
(瞿塘峡口について感を叙する、この第二首は往時と比較して今の客況を傷むものである。)時世が治まって清ければ、関門の険があったとしても険の用を為さず、険の険たる用を失うけれども、時世が乱れるときには険阻の内は忽ち戟が林のごとくみだれ立つものである。昔の英雄(光武・昭烈のごとき)の事業はもはや過去のものになってしまい、迷乱極まる群雄(公孫述・李特のごとき)割拠の心のみがこの地には、はびこっている。今、江辺の蘆花は、まさに晩れんとしていたずらに旅客たる自分をここにひきとめているし、楓樹は深くたちこめて奥に猿を坐せしめているのである。疲れはてた身にとっては親交旧知の人を煩わすばかりで、ここの長官からもたびたび金銭を賜与されてその厄介になっているというありさまである。

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峽口,二首之一

(瞿塘峡口について感を叙し、その一は形勝に対して世の乱を傷む)

峽口大江間,西南控百蠻。

この瞿塘峡の入口である夔門口峡口は大江の間に位して、西南の南詔の方には百蛮をひかえている。

城攲連粉堞,岸斷更青山。

城は傾斜して白壁ぬった分壁が連なっており、岸が断えたかとおもうとその欠けた向こうには、更に青い山が見えている。

開闢多天險,防隅一水關。

ここは天地開闢の始めから天険の要害に当たっているのであり、城隅を防ぐためには一つの水関を設けて事足りているのである。

亂離聞鼓角,秋氣動衰顏。

時はいまだに乱世がおさまらず、ここでも鼓角の声がきこえるし、これによって一層、秋の気配がこの老衰の顔面にはたらきかけてくるかの感がするのである。

(峡口二首その一)

峡口大江の間、西南 百蛮を控す。

城攲きて粉堞連なり、岸断えて更に青山。

開闢より天険に多し、隅を防ぐ一水関。

乱離に鼓角を聞く、秋気 衰顔に動く。

 

 

年:66年大暦元年55-100

卷別:    卷二二九              文體:    五言律詩

詩題:    峽口,二首之二

作地點:              目前尚無資料

及地點:              峽口 (山南東道 夔州 夔州)              

 

峽口,二首之二

時清關失險,世亂戟如林。

去矣英雄事,荒哉割據心。

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。

疲薾煩親故,諸侯數賜金。

(瞿塘峡口について感を叙する、この第二首は往時と比較して今の客況を傷むものである。)

時世が治まって清ければ、関門の険があったとしても険の用を為さず、険の険たる用を失うけれども、時世が乱れるときには険阻の内は忽ち戟が林のごとくみだれ立つものである。

昔の英雄(光武・昭烈のごとき)の事業はもはや過去のものになってしまい、迷乱極まる群雄(公孫述・李特のごとき)割拠の心のみがこの地には、はびこっている。

今、江辺の蘆花は、まさに晩れんとしていたずらに旅客たる自分をここにひきとめているし、楓樹は深くたちこめて奥に猿を坐せしめているのである。

疲れはてた身にとっては親交旧知の人を煩わすばかりで、ここの長官からもたびたび金銭を賜与されてその厄介になっているというありさまである。

 

(峡口二首その二)

時清ければ関険を失う、世乱るれば戟林の如し。

去りぬ 英雄の事、荒なる哉 割拠の心。

蘆花 客を留どめて晩れ、楓樹 猿を坐せしめて深し。

疲茶 親故を煩わす、諸侯 数しば金を賜う。【自注:主人柏中丞,頻りに月俸を分つ。】。
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『峽口,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

峽口,二首之二

時清關失險,世亂戟如林。

去矣英雄事,荒哉割據心。

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。

煩親故,諸侯數賜金
峽口,二首之二(含異文)

時清關失險,世亂戟如林。去矣英雄事,荒哉割據心。

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。疲薾煩親故,諸侯數賜金【自注:主人柏中丞,頻分月俸。】。


(下し文)
(峡口二首その二)

時清ければ関険を失う、世乱るれば戟林の如し。

去りぬ 英雄の事、荒なる哉 割拠の心。

蘆花 客を留どめて晩れ、楓樹 猿を坐せしめて深し。

疲茶 親故を煩わす、諸侯 数しば金を賜う。

(現代語訳)
(瞿塘峡口について感を叙する、この第二首は往時と比較して今の客況を傷むものである。)

時世が治まって清ければ、関門の険があったとしても険の用を為さず、険の険たる用を失うけれども、時世が乱れるときには険阻の内は忽ち戟が林のごとくみだれ立つものである。

昔の英雄(光武・昭烈のごとき)の事業はもはや過去のものになってしまい、迷乱極まる群雄(公孫述・李特のごとき)割拠の心のみがこの地には、はびこっている。

今、江辺の蘆花は、まさに晩れんとしていたずらに旅客たる自分をここにひきとめているし、楓樹は深くたちこめて奥に猿を坐せしめているのである。

疲れはてた身にとっては親交旧知の人を煩わすばかりで、ここの長官からもたびたび金銭を賜与されてその厄介になっているというありさまである。



(訳注)

峽口,二首之二

(瞿塘峡口について感を叙する、この第二首は往時と比較して今の客況を傷むものである。)

 

時清關失險,世亂戟如林。

時世が治まって清ければ、関門の険があったとしても険の用を為さず、険の険たる用を失うけれども、時世が乱れるときには険阻の内は忽ち戟が林のごとくみだれ立つものである。

〇時清 世の治まっていることをいう。

○関失険 関門の険があっても無いのとおなじ、故に「失う」という。

 

去矣英雄事,荒哉割據心。

昔の英雄(光武・昭烈のごとき)の事業はもはや過去のものになってしまい、迷乱極まる群雄(公孫述・李特のごとき)割拠の心のみがこの地には、はびこっている。

○英雄 後漢の光武帝、蜀漢の昭烈帝(劉備)の如く蜀を平らげた人をさす。この句は上の「時清」を承けていう。

○荒 心の迷乱することを荒という。

○割拠心 割拠とは蜀の一地にふんばり居ることをいう、後漢の公孫述、晋の李特の如く蜀地に王位を僣した者をさす。この句は上の「世乱」を承けていう。公孫述のこと、述、字は子陽、王奔のとき兵を起こし宗成王岑の乱を討ってこれを破り、遂に蜀を領有し、立して帝となり成都に都した、色は白を尊び、成都の郭外の旧倉を改めて自帝倉となし、のち魚復に城を築き号して白帝城といった、述は帝位に立って十二年にして後漢の光武帝に滅ぼされた。

李特は、五胡十六国時代の成漢の建国の祖で、初代の君主とされた人物。息子の李雄(武帝)により景帝の諡号を追贈された。略陽郡臨渭(甘粛省秦安の東南)の人。巴賨族の出身、一説に氐族の出ともいう。父の名は李慕。298年、食い扶持を求め、一族や天水など六郡の流民を率いて蜀に入った。はじめ西晋の益州刺史趙廞(廞は广(まだれ)偏に欽)の反乱に協力したが、301年、趙廞が李特兄弟の力を恐れて、兄を殺したため、反攻して趙廞を滅ぼした。新たに益州刺史羅尚(羅憲の兄の子)が蜀に入ると、功績により宣威将軍に任ぜられ、長楽郷侯に封ぜられた。

その後、羅尚が流民を郷里に帰そうとしたため、起兵して羅尚の軍を破った。鎮北大将軍を称し、蜀の民に法三章を約し、財貨を施し、人材を選挙した。302年、大将軍・益州牧を称し、303年、成都に入城したが、羅尚の策略にかかり、羅尚の軍勢と内外呼応した現地人の決起により殺害された。李特については《晋書巻百二十 載記第二十 李特》の白文と1/3の訳文を参考にされたい。

 

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。

今、江辺の蘆花は、まさに晩れんとしていたずらに旅客たる自分をここにひきとめているし、楓樹は深くたちこめて奥に猿を坐せしめているのである。

○意花留客晩 留客蘆花晩、或は、蘆花晩留客、というのに同じ。客とは杜甫をはじめとしてここに入る旅人。

○楓樹坐猿深 “坐しめて猿楓樹深し”、或は“楓樹深くして 猿に坐しむ”、に同じ。

 

疲薾煩親故,諸侯數賜金。【自注:主人柏中丞,頻分月俸。】。

疲れはてた身にとっては親交旧知の人を煩わすばかりで、ここの長官からもたびたび金銭を賜与されてその厄介になっているというありさまである。

○疲薾 薾は一に疲弊に作る、疲れきるさまをいう。

親故 親しいもの、旧知のもの。すなわち下句の「諸侯」をいう。

○諸侯 作者の自注に「主人柏中丞なり、頻りに月俸を分かつ」とある。柏は夔州の都督であるから古の諸侯にあたるので諸侯といったのである。

○賜金 金は金銭、作者の自注に月俸といっているもののこと、柏が月俸を割いて杜甫に金銭を贈ってくれるのである。

 

(2)

時清關失險,世亂戟如林。去矣英雄事,荒哉割據心。

蘆花留客晚,楓樹坐猿深。疲苶煩親故,諸侯數賜金。

(峡口二首その二)

時清ければ関険を失う、世乱るれば戟林の如し。

去りぬ 英雄の事、荒なる哉 割拠の心。

蘆花 客を留どめて晩れ、楓樹 猿を坐せしめて深し。

疲茶 親故を煩わす、諸侯 数しば金を賜う。

 

 

晋書巻百二十 載記第二十 李特

李特,字玄休,巴西宕渠人,其先廩君之苗裔也。昔武落鐘離山崩,有石穴二所,其一赤如丹,一黑如漆。有人出於赤穴者,名曰務相,姓巴氏。有出於黑穴者,凡四姓:曰KL氏、樊氏、柏氏、鄭氏。五姓俱出,皆爭為神,於是相與以劍刺穴屋,能著者以為廩君。四姓莫著,而務相之劍懸焉。

李特、字は玄休、巴西宕渠の人で、その祖先は廩君の子孫である。

 昔、武落の鍾離山が崩れたとき、ほらあなが二つできた。一つは丹のように真っ赤で、もう一つは漆のように真っ黒であった。赤穴から出た者は名を務相といい、姓は巴氏であった。黒穴から出た者は合わせて四姓おり、曎氏、樊氏、柏氏、鄭氏と言った。五姓は一緒に出てきて、みな(自分が)神になろうとして競い合った。そこで、みなで一緒に剣をほらあなに(投げ入れて)突き刺し、きっちり突き刺すことができた者を廩君とすることに取り決めした。四姓で突き刺せた者はいなかったが、ただ務相の剣はしっかり刺さった。

 

又以土為船,雕畫之而浮水中,曰:「若其船浮存者,以為廩君。」務相船又獨浮。於是遂稱廩君,乘其土船,將其徒卒,當夷水而下,至於鹽陽。鹽陽水神女子止廩君曰:「此魚鹽所有,地又廣大,與君俱生,可止無行。」廩君曰:「我當為君求廩地,不能止也。」鹽神夜從廩君宿,旦輒去為飛蟲,諸神皆從其飛,蔽日晝昏。

また、土で船を造り、模様を装飾して川に浮かべることになった際には、こう決められた。「もし船が浮き続けられたら、(その船を造った者を)廩君としよう」。またも、務相の船だけが浮いた。こうして遂に(務相は)廩君を称したのである。(廩君は)造った土船に乗り、歩兵を率いて川を上っていった。夷水にぶつかるとそのまま夷水を下り、塩陽に到着した。塩陽の水神である女神が廩君を引き留めて言った。「ここは魚と塩が獲れますし、土地は広大です。ここに留まって一緒に暮らしましょうよ」。廩君、「君のために廩(米などの食料)の取れる土地を探そうと思う。留まることはできない」。(すると)塩神が夜、廩君に従ってそのまま一晩泊まり、夜が明けて朝になるとたちまち去って飛虫となり、もろもろの神々もみな(塩神の)飛ぶのにつき従ったため、(たくさんの虫で)日光が覆われて昼でも真っ暗であった。

 

 

廩君欲殺之不可,別又不知天地東西。如此者十日,廩君乃以青縷遺鹽神曰:「嬰此,即宜之,與汝俱生。弗宜,將去汝。」鹽神受而嬰之。廩君立碭石之上,望膺有青縷者,跪而射之,中鹽神。鹽神死,群神與俱飛者皆去,天乃開朗。廩君複乘土船,下及夷城。夷城石岸曲,泉水亦曲。廩君望如穴狀,歎曰:「我新從穴中出,今又入此,奈何!」岸即為崩,廣三丈餘,而階陛相乘,廩君登之。岸上有平石方一丈,長五尺,廩君休其上,投策計算,皆著石焉,因立城其旁而居之。

廩君は虫(神)を殺そうとしたができず、また上下や東西もわからなくなった。このようであること十日、廩君はそこで、青い糸を塩神に贈ろうとした。「これを身につけてみてください。もしお気に召すようでしたら、あなたと一緒に生活しましょう。お気に召さなかったら、あなたの元を去ることにいたします」。塩神はこれを受け取って身につけた。すると、廩君は(その地にあった)陽石の上に立ち、胸に青い糸がある者を遠く見て取るや、ひざをついてこれを射て、塩神に命中させた。塩神は死に、一緒になって飛んでいた神々はすべて去り、天はようやく広々と開けて明るくなった。廩君はふたたび土船に乗り、川を下って夷城に着いた。夷城の石の岸壁は湾曲しており、川も湾曲していた。廩君が遠くを眺めると、(行く先は)穴のような様子だったので、歎息して言った。「私はほらあなの中から出てきたのに、いままたかようなあなに入ることになるのか。マジどうしよう」。するとたちまち岸壁が崩落し、幅三丈あまりにもわたり、(石が)積み重なって階段ができあがった。廩君はこれを登っていくと、岸壁の上には四方一丈、長さは五尺の平石があった。廩君はその上で一息つき、くじを引いて(うらないで)計画を立てた。(そうして)みなで石を配置して(積み上げ)、その平石のそばに城を築き、(廩君は)そこに居住した 。その後、種族は増えていった。

 

 

其後種類遂繁。秦並天下,以為黔中郡,薄賦斂之,口出錢四十。巴人呼賦為賨,因謂之賨人焉。及漢高祖為漢王,募賨人平定三秦。既而求還里,高祖以其功,複同豐、沛,不供賦,更名其地為巴郡。土有鹽鐵丹漆之饒,俗性剽勇,又善歌舞。高祖愛其舞,詔樂府習之,今《巴渝舞》是也。

 秦が天下を統一すると、(その地を)黔中郡とし、税金の取り立てを軽くして、一口ごと年に銭四十を取り立てた。巴人は「賦」のことを「賨」と呼んでいたため、「賨人」と呼ばれた。

 

 漢の高祖が漢王となると、賨人を募って三秦地方を平定した。平定後、(賨人は)郷里に還ることを求めた。高祖はその功績を評価して、豊・沛と同様、賦税を免除し、地名を改めて巴郡とした 。その土地には塩・鉄・丹・漆が豊富で、習俗は素早く勇敢、また歌舞を得意としていた。高祖はその舞を好んだので、詔を下して楽府にこれを習わせた。現在の巴渝舞がこれである。

 

漢末,張魯居漢中,以鬼道教百姓,賨人敬信巫覡,多往奉之。天下大亂,自巴西之宕渠遷于漢中楊車阪,抄掠行旅,百姓患之,號為楊車巴。魏武帝克漢中,特祖將五百餘家歸之,魏武帝拜為將軍,遷于略陽,北土複號之為巴氐。特父慕,為東羌獵將。

 後漢末、張魯が漢中に割拠し、鬼道で民衆を教え導いていた。賨人は祈祷師を敬い信仰していたので、よく(張魯の元に)行って奉じていた。天下大乱の時代となると、(賨人は)巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移住し、旅人から掠奪を行なったので、民衆はこれに頭を悩ませ、楊車巴と呼んでいた。魏の武帝が漢中を陥落させると、李特の祖父は五百余家を率いて帰順した。魏の武帝は将軍に任命して、(李特の祖父らを)略陽に移し、北方では彼らをを巴氐と呼んだ。李特は父を慕って東羌獵將と為す。

 

  特少仕州郡,見異當時,身長八尺,雄武善騎射,沈毅有大度。元康中,氐齊萬年反,關西擾亂,頻大饑,百姓乃流移就穀,相與入漢川者數萬家。特隨流人將入於蜀,至劍閣,箕踞太息,顧眄險阻曰:「劉禪有如此之地而面縛於人,豈非庸才邪!」同移者閻式、趙肅、李遠、任回等鹹歎異之。

 

  初,流人既至漢中,上書求寄食巴、蜀,朝議不許,遣侍御史李苾持節慰勞,且監察之,不令入劍閣。苾至漢中,受流人貨賂,反為表曰:「流人十萬餘口,非漢中一郡所能振贍,東下荊州,水湍迅險,又無舟船。蜀有倉儲,人複豐稔,宜令就食。」朝廷從之,由是散在益、梁,不可禁止。

 

  永康元年,詔征益州刺史趙廞為大長秋,以成都史耿滕代廞。廞遂謀叛,潛有劉氏割據之志,乃傾倉廩,振施流人,以收眾心。特之党類皆巴西人,與廞同郡,率多勇壯,廞厚遇之,以為爪牙,故特等聚眾,專為寇盜,蜀人患之。滕密上表,以為流人剛剽而蜀人懦弱,客主不能相制,必為亂階,宜使移還其本。若致之險地,將恐秦雍之禍萃于梁益,必貽聖朝西顧之憂。廞聞而惡之。時益州文武千餘人已往迎滕,滕率眾入州,廞遣眾逆滕,戰于西門,滕敗,死之。

 

  廞自稱大都督、大將軍、益州牧。特弟庠與兄弟及妹夫李含、任回、上官惇、扶風李攀、始平費佗、氐苻成、隗伯等以四千騎歸廞。廞以庠為威寇將軍,使斷北道。庠素東羌良將,曉軍法,不用麾幟,舉矛為行伍,斬部下不用命者三人,部陣肅然。廞惡其齊整,欲殺之而未言。長史杜淑、司馬張粲言於廞曰:「傳雲五大不在邊,將軍起兵始爾,便遣李庠握強兵於外,愚竊惑焉。且非我族類,其心必異,倒戈授人,竊以為不可,願將軍圖之。」廞斂容曰:「卿言正當吾意,可謂起予者商,此天使卿等成吾事也。」會庠在門,請見廞,廞大悅,引庠見之。庠欲觀廞意旨,再拜進曰:「今中國大亂,無複綱維,晉室當不可復興也。明公道格天地,德被區宇,湯、武之事,實在於今。宜應天時,順人心,拯百姓于塗炭,使物情知所歸,則天下可定,非但庸、蜀而已。,」廞怒曰:「此豈人臣所宜言!」令淑等議之。於是淑等上庠大逆不道,廞乃殺之,及其子侄宗族三十余人。廞慮特等為難,遣人之曰:「庠非所宜言,罪應至死,不及兄弟。」以庠屍還特,複以特兄弟為督將,以安其眾。牙門將許弇求為巴東監軍,杜淑、張粲固執不許。弇怒,于廞閣下手刃殺淑、粲,淑、粲左右又殺弇,皆廞腹心也。

 

  特兄弟既以怨廞,引兵歸綿竹。廞恐朝廷討己,遣長史費遠、犍為太守李苾、督護常俊督萬餘人斷北道,次綿竹之石亭。特密收合得七千餘人,夜襲遠軍,遠大潰,因放火燒之,死者十八九。進攻成都。廞聞兵至,驚懼不知所為。李苾、張征等夜斬關走出,文武盡散。廞獨與妻子乘小船走至廣都,為下人硃竺所殺。特至成都,縱兵大掠,害西夷護軍薑發,殺廞長史袁治及廞所置守長,遣其牙門王角、李基詣洛陽陳廞之罪狀。

 

  先是,惠帝以梁州刺史羅尚為平西將軍、領護西夷校尉、益州刺史,督牙門將王敦、上庸都尉義歆、蜀郡太守徐儉、廣漢太守辛冉等凡七千餘人入蜀。特等聞尚來,甚懼,使其弟驤于道奉迎,並貢寶物。尚甚悅,以驤為騎督。特及弟流複以牛酒勞尚於綿竹。王敦、辛冉並尚曰:「特等流人,專為盜賊,急宜梟除,可因會斬之。」尚不納。冉先與特有舊,因謂特曰:「故人相逢,不吉當凶矣。」特深自猜懼。

 

  尋有符下秦、雍州,凡流人入漢川者,皆下所在召還。特兄輔素留里,托言迎家,既至蜀,謂特曰:「中國方亂,不足複還,」特以為然,乃有雄據巴、蜀之意。朝廷以討趙廞功,拜特宣威將軍,封長樂侯,流為奮威將軍、武陽侯。璽書下益州,條列六郡流人與特協同討廞者,將加封賞。會辛冉以非次見征,不顧應召,又欲以滅廞為己功,乃寢朝命,不以實上。眾鹹怨之。羅尚遣從事催遣流人,限七月上道,辛冉性貪暴,欲殺流人首領,取其資貨,乃移檄發遣。又令梓潼太守張演于諸要施關,搜索寶貨。特等固請,求至秋收。流人布在梁、益,為人傭力,及聞州郡逼遣,人人愁怨,不知所為。又知特兄弟頻請求停,皆感而恃之。且水雨將降,年穀未登,流人無以為行資,遂相與詣特。特乃結大營於綿竹,以處流人,移冉求自寬。冉大怒,遣人分榜通逵,購募特兄弟,許以重賞。特見,大懼,悉取以歸,與驤改其購雲:「能送六郡之豪李、任、閻、趙、楊、上官及氐、叟侯王一首,賞百匹。」流人既不樂移,鹹往歸特,騁馬屬鞬,同聲雲集,旬月間眾過二萬。流亦聚眾數千。物乃分為二營,特居北營,流居東營。

 

  特遣閻式詣羅尚,求申期。式既至,見冉營柵沖要,謀掩流人,歎曰:「無寇而城,仇必保焉。今而速之,亂將作矣!」又知冉及李苾意不可回,乃辭尚還綿竹。尚謂式曰:「子且以吾意告諸流人,今聽寬矣。」式曰:「明公惑於奸,恐無寬理。弱而不可輕者百姓也,今促之不以理,眾怒難犯,恐為禍不淺。」尚曰:「然。吾不欺子,子其行矣。」式至綿竹,言於特曰:「尚雖雲爾,然未可必信也。何者?尚威刑不立,冉等各擁強兵,一旦為變,亦非尚所能制,深宜為備。」特納之。冉、苾相與謀曰:「羅侯貪而無斷,日復一日,流人得展奸計。李特兄弟並有雄才,吾屬將為豎子虜矣。宜為決計,不足複問之。乃遣廣漢都尉曾元、牙門張顯、劉並等潛率步騎三萬襲特營。羅尚聞之,亦遣督護田佐助元。特素知之,乃繕甲厲兵,戒嚴以待之。元等至,特安臥不動,待其眾半入,發伏擊之,殺傷者甚眾,害田佐、曾元、張顯,傳首以示尚、冉。尚謂將佐曰:「此虜成去矣,而廣漢不用吾言,以張賊勢,今將若之何!」

 

  於是六郡流人推特為主。特命六郡人部曲督李含、上邽令任臧、始昌令閻式、諫議大夫李攀、陳倉令李武、陰平令李遠、將兵都尉楊褒等上書,請依梁統奉竇融故事,推特行鎮北大將軍,承制封拜,其弟流行鎮東將軍,以相鎮統。於是進兵攻冉於廣漢。冉眾出戰,特每破之。尚遣李苾及費遠率眾救冉,憚特不敢進。冉智力既窘,出奔江陽。特入據廣漢,以李超為太守,進兵攻尚于成都。閻式遺尚書,責其信用讒構,欲討流人,又陳特兄弟立功王室,以寧益土。尚覽書,知特等將有大志,嬰城固守,求救于梁、寧二州。於是特自稱使持節、大都督、鎮北大將軍,承制封拜一依竇融在河西故事。兄輔為驃騎將軍,弟驤為驍騎將軍,長子始為武威將軍,次子蕩為鎮軍將軍,少子雄為前將軍,李含為西夷校尉,含子國離、任回、李恭、上官晶、李攀、費佗等為將帥,任臧、上官惇、楊褒、楊珪、王達、麹歆等為爪牙,李遠、李博、夕斌、嚴檉、上官琦、李濤、王懷等為僚屬,閻式為謀主,何世、趙肅為腹心。時羅尚貪殘,為百姓患,而特與蜀人約法三章,施捨振貸,禮賢拔滯,軍政肅然。百姓為之謠曰:「李特尚可,羅尚殺我。」尚頻為特所敗,乃阻長圍,緣水作營,自都安至犍為七百里,與特相距。

 

  河間王顒遣督護衙博、廣漢太守張征討特,南夷校尉李毅又遣兵五千助尚,尚遣督護張龜軍繁城,三道攻特。特命蕩、雄襲博。特躬擊張龜,龜眾大敗。蕩又與博接戰連日,博亦敗績,死者太半。蕩追博至漢德,博走葭萌。蕩進寇巴西,巴西郡丞毛植、五官襄珍以郡降蕩。蕩撫恤初附,百姓安之。蕩進攻葭萌,博又遠遁,其眾盡降於蕩。

 

  太安元年,特自稱益州牧、都督梁、益二州諸軍事、大將軍、大都督,改年建初,赦其境。於是進攻張征。征依高據險,與特相持連日。時特與蕩分為二營,徵候特營空虛,遣步兵循山攻之,特逆戰不利,山險窘逼,眾不知所為。羅准、任道皆勸引退,特量蕩必來,故不許。征眾至稍多,山道至狹,唯可一二人行,蕩軍不得前,謂其司馬王辛曰:「父在深寇之中,是我死日也。」乃衣重鎧,持長矛,大呼直前,推鋒必死,殺十餘人。征眾來相救,蕩軍皆殊死戰,征軍遂潰。特議欲釋征還涪,蕩與王辛進曰:「征軍連戰,士卒傷殘,智勇俱竭,宜因其弊遂擒之。若舍而寬之,征養病收亡,餘眾更合,圖之未易也。」特從之,複進攻征,征潰圍走。蕩水陸追之,遂害征,生擒征子存,以征喪還之。

 

  以騫碩為德陽太守,碩略地至巴郡之墊江。

 

  特之攻張征也,使李驤與李攀、任回、李恭屯軍毗橋,以備羅尚。尚遣軍挑戰,驤等破之。尚又遣數千人出戰,驤又陷破之,大獲器甲,攻燒其門。流進次成都之北。尚遣將張興偽降於驤,以觀虛實。時驤軍不過二千人,興夜歸白尚,尚遣精勇萬人銜枚隨興夜襲驤營。李攀逆戰死,驤及將士奔於流柵,與流並力回攻尚軍。尚軍亂,敗還者十一二。晉梁州刺史許雄遣軍攻特,特陷破之,進擊,破尚水上軍,遂寇成都。蜀郡太守徐儉以小城降,特以李瑾為蜀郡太守以撫之。羅尚據大城自守。流進屯江西,尚懼,遣使求和。

 

  是時蜀人危懼,並結村堡,請命於特,特遣人安撫之。益州從事任明尚曰:「特既凶逆,侵暴百姓,又分人散眾,在諸村堡,驕怠無備,是天亡之也。可告諸村,密克期日,外擊之,破之必矣。」尚從之。明先偽降特,特問城中虛實,明曰:「米穀已欲盡,但有貨帛耳。」因求省家,特許之。明潛諸村,諸村悉聽命。還報尚,尚許如期出軍,諸村亦許一時赴會。

 

  二年,惠帝遣荊州刺史宋岱、建平太守孫阜救尚。阜已次德陽,特遣蕩督李璜助任臧距阜。尚遣大眾奄襲特營,連戰二日,眾少不敵,特軍大敗,收合餘卒,引趣新繁。尚軍引還,特複追之,轉戰三十余裏,尚出大軍逆戰,特軍敗績,斬特及李輔、李遠,皆焚屍,傳首洛陽。在位二年。其子雄僭稱王,追諡特景王,及僭號,追尊曰景皇帝,廟號始祖。

 

  李流,字玄通,特第四弟也。少好學,便弓馬,東羌校尉何攀稱流有賁育之勇,舉為東羌督。及避地益州,刺史趙廞器異之。廞之使庠合部眾也,流亦招里子弟得數千人。庠為廞所殺,流從特安慰流人,破常俊於綿竹,平趙廞于成都。朝廷論功,拜奮威將軍,封武陽侯。

 

  特之承制也,以流為鎮東將軍,居東營,號為東督護。特常使流督眾,與羅尚相持。特之陷成都小城,使六郡流人分口入城,壯勇督領村堡。流言於特曰:「殿下神武,已克小城,然山藪未集,糧仗不多,宜錄州郡大姓子弟以為質任,送付廣漢,縶之二營,收集猛,嚴為防衛。」又書與特司馬上官惇,深陳納降若待敵之義。特不納。

 

  特既死,蜀人多叛,流人大懼。流與兄子蕩、雄收遺眾,還赤祖,流保東營,蕩、雄保北營。流自稱大將軍、大都督、益州牧。

 

  時宋岱水軍三萬,次於墊江,前鋒孫阜破德陽,獲特所置守將騫碩,太守任臧等退屯涪陵縣。羅尚遣督護常深軍毗橋,牙門左氾、黃訇、何沖三道攻北營。流身率蕩、雄攻深柵,克之,深士眾星散。追至成都,尚閉門自守,蕩馳馬追擊,觸倚矛被傷死。流以特、蕩並死,而岱、阜又至,甚懼。太守李含又勸流降,流將從之。雄與李驤迭諫,不納,流遣子世及含子胡質於阜軍。胡兄含子離聞父欲降,自梓潼馳還,欲諫不及,退與雄謀襲阜軍,曰:「若功成事濟,約與君三年迭為主。」雄曰:「今計可定,二翁不從,將若之何?」離曰:「今當制之,若不可制,便行大事。翁雖是君叔,勢不得已,老父在君,夫複何言!」雄大喜,乃攻尚軍。尚保大城。雄渡江害汶山太守陳圖,遂入郫城,流移營據之。三蜀百姓並保險結塢,城邑皆空,流野無所略,士眾饑困。涪陵人范長生率千餘家依青城山,尚參軍涪陵徐轝求為汶山太守,欲要結長生等,與尚掎角討流。尚不許,轝怨之,求使江西,遂降於流,長生等使資給流軍糧。長生從之,故流軍複振。

 

  流素重雄有長者之德,每雲:「興吾家者,必此人也。」敕諸子尊奉之。流疾篤,謂諸將曰:「驍騎高明仁愛,識斷多奇,固足以濟大事,然前軍英武,殆天所相,可共受事於前軍,以為成都王。」遂死,時年五十六。諸將共立雄為主。雄僭號,追諡流秦文王。

 

  李庠,字玄序,特第三弟也。少以烈氣聞。仕郡督郵、主簿,皆有當官之稱。元康四年,察孝廉,不就。後以善騎射,舉良將,亦不就。州以庠才兼文武,舉秀異,固以疾辭。州郡不聽,以其名上聞,中護軍切征,不得已而應之,拜中軍騎督。弓馬便捷,膂力過人,時論方之文鴦。以洛陽方亂,稱疾去官。性在任俠,好濟人之難,州黨爭附之。與六郡流人避難梁、益,道路有饑病者,庠常營護隱恤,振施窮乏,大收眾心。至蜀,趙廞深器之,與論兵法,無不稱善,每謂所親曰:「李玄序蓋亦一時之關、張也。」及將有異志,委以心膂之任,乃表庠為部曲督,使招合六郡壯勇,至萬餘人。以討叛羌功,表庠為威寇將軍,假赤幢曲蓋,封陽泉亭侯,賜錢百萬,馬五十匹。被誅之日,六郡士庶莫不流涕,時年五十五。