杜甫  夔州歌十句,十首之三  

群雄競起問前朝,王者無外見今朝。比訝漁陽結怨恨,元聽舜日舊簫韶。
(夔州の風土についてのべている。十首の三:前王朝の徳のない施政を倒して、徳のある治世をしていたというのに、今、朝廷の風雅がなくなったのだろうか)前王朝である隋の末期には、天下は乱れて、多くの羣雄が競って隋を問罪する戦を起し、我が唐王朝が王者無外、この国をあまねく統一し、今の様な中央集権国家を作ったのである。というものの、このごろ不思議にたえぬことは、盤石の体制であったものが、安禄山が、漁陽から起って王朝と怨恨を結んでから各地で羣雄が叛意を起し始めたことだ。元元、舜のような治世、「貞元の治」「開元の治」と言われた治世には、雅楽を始め旧来の簫韶のような洋々たる音楽を聴き、天上世界の徳を世に至らしめていたのである。(今徳の政治をしていない)

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夔州歌十句,十首之一

(夔州の風土についてのべている。十首の一:夔州、白帝城、瞿塘峡)

中巴之東巴東山,江水開闢流其間。

中巴より東に横たわっている巴東の山。その間には天地開闢以来、長江の水が東に向かってながれている。

白帝高為三峽鎮,夔州險過百牢關。

そうしてこの夔州の険阻なことはあの関中の百牢関よりもまさり、白帝城は三峡の鎮めの山となっておる。

(夔州の歌 十句,十首の一)

中巴の東 巴東の山、江水かいえつ開闢よりして其の間に流る

白帝は高く三峡の鎮と為る、夔州の険は過ぐ百牢関。

 

夔州歌十句,十首之二

(夔州の風土についてのべている。十首の二:夔州城と白帝城、瞿塘峡と西陵峡そこでの事情)

白帝夔州各異城,蜀江楚峽混殊名。

旧所古跡である白帝城と州の役所である夔州城はそれぞれ異なった意味と位置的にも違った。である、又面白いことに、この三峡の夔門である瞿塘峡も別名西陵峡と云い、歸州の西陵峡とどちらも楚峡で同一、殊名混同ということである。

英雄割據非天意,霸主并吞在物情。

英雄が険地に割拠するのは、天のおぼしめしではあるはずがなく、覇王から起って天下を併合するものがあるが、それは常道ではなく、その時々の事情に寄るものである。民心に信頼を置けていないものが、その時の状況だけで謀反を起すのは馬鹿げている。

(夔州の歌 十句,十首の二)

白帝 夔州 各の城を異にす,蜀江 楚峽 殊名を混ず。

英雄 割據は天意に非らず,霸主の并吞するは物情に在り。

 

 

杜甫詩1500-968-1470/2500

年:766年大暦元年55

卷別:    卷二二九              文體:    樂府

詩題:    夔州歌十句,十首之三

作地點:              目前尚無資料

及地點:夔州 (山南東道 夔州 夔州) 別名:夔府、信州             

漁陽 (河北道南部 薊州 漁陽)       

 

 

夔州歌十句,十首之三

(夔州の風土についてのべている。十首の三:前王朝の徳のない施政を倒して、徳のある治世をしていたというのに、今、朝廷の風雅がなくなったのだろうか)

群雄競起問前朝,王者無外見今朝。

前王朝である隋の末期には、天下は乱れて、多くの羣雄が競って隋を問罪する戦を起し、我が唐王朝が王者無外、この国をあまねく統一し、今の様な中央集権国家を作ったのである。

比訝漁陽結怨恨,元聽舜日舊簫韶。

というものの、このごろ不思議にたえぬことは、盤石の体制であったものが、安禄山が、漁陽から起って王朝と怨恨を結んでから各地で羣雄が叛意を起し始めたことだ。元元、舜のような治世、「貞元の治」「開元の治」と言われた治世には、雅楽を始め旧来の簫韶のような洋々たる音楽を聴き、天上世界の徳を世に至らしめていたのである。(今徳の政治をしていない)

(夔州歌十句,十首の三)

群雄 競い起って 前朝を問う,王者 無外 今朝に見る。

比のごろ訝【いぶか】る 漁陽の怨恨を結ぶを,元と聽く 舜日 舊簫の韶。

 

『夔州歌十句,十首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

夔州歌十句,十首之三

群雄競起問前朝,王者無外見今朝。

比訝漁陽結怨恨,元聽舜日舊簫韶。
夔州歌十句,十首之三(含異文)

群雄競起問前朝【案:音潮。】【群雄競起前朝】【群雄競起前朝】,王者無外見今朝。

比訝漁陽結怨恨,元聽舜日舊簫韶。


(下し文)
(夔州歌十句,十首の三)

群雄 競い起って 前朝を問う,王者 無外 今朝に見る。

比のごろ訝【いぶか】る 漁陽の怨恨を結ぶを,元と聽く 舜日 舊簫の韶。

(現代語訳)
(夔州の風土についてのべている。十首の三:前王朝の徳のない施政を倒して、徳のある治世をしていたというのに、今、朝廷の風雅がなくなったのだろうか)

前王朝である隋の末期には、天下は乱れて、多くの羣雄が競って隋を問罪する戦を起し、我が唐王朝が王者無外、この国をあまねく統一し、今の様な中央集権国家を作ったのである。

というものの、このごろ不思議にたえぬことは、盤石の体制であったものが、安禄山が、漁陽から起って王朝と怨恨を結んでから各地で羣雄が叛意を起し始めたことだ。元元、舜のような治世、「貞元の治」「開元の治」と言われた治世には、雅楽を始め旧来の簫韶のような洋々たる音楽を聴き、天上世界の徳を世に至らしめていたのである。(今徳の政治をしていない)

隋末群雄割拠図00
(訳注)

夔州歌十句,十首之三

(夔州の風土についてのべている。十首の三:前王朝の徳のない施政を倒して、徳のある治世をしていたというのに、今、朝廷の風雅がなくなったのだろうか)

大暦元年夏の作。

杜甫が住まいとした瀼西の草堂は、草堂河に沿った小高い処であった。白帝城、少し前までと都賦のあった夔州城、いずれも西方向で比較的近く、地続きだから陸路でも行けるし、視界にも入るいちにあった。杜甫が詠じる白帝城は、夔州城が州の役所であり、白帝城とは別物であった。そのことは杜甫自身が「白帝と夔州は各(おのおの)城を異にす」(《1527_夔州歌十絶句》其二)と述べていることから明らかである。とはいえ、夔州城は白帝城と連接していた。そしてそれは白帝城の北にあり、白帝城よりはずっと大きく、旧赤甲城の場所にあった。(もちろん唐代の夔州城は梅渓河の方にはなかった。)

白帝城には旧都督府の役所があった。杜甫が夔州に滞在していたとき、夔州都督府は既に廃されていたが、白帝城は州より一つ上位の都督府的な役所(防禦使など)として、一部機能していたのではなかろうか。杜甫は白帝山の西閣に住んだことがあり、白帝城をひどく気に入って何度も詩に描いたが、夔州城にはあまり心惹かれていないようだ。

 

群雄競起問前朝,王者無外見今朝。

前王朝である隋の末期には、天下は乱れて、多くの羣雄が競って隋を問罪する戦を起し、我が唐王朝が王者無外、この国をあまねく統一し、今の様な中央集権国家を作ったのである。

群雄 煬帝の過剰に人民に負担をしいたことに対し、羣雄が競って隋を問罪する戦を起した。杜甫(卷五28)《行次昭陵》「舊俗疲庸主,群雄問獨夫。讖歸龍鳳質,威定虎狼都。」(旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。)これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。

行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

杜甫(卷十一13)《戲為六句其四》「才力應難跨(或作誇)數公,凡今誰是出群雄?或看翡翠蘭苕上,未掣鯨魚碧海中。才力應難誇數公,凡今誰是出群雄。(才力 応に数公を誇【まさ】り難かるべし、凡そ今誰か是れ出群の雄なる。或は看る翡翠【ひすい】蘭苕【らんちょう】の上、未だ鯨魚を掣せず碧海【そうかい】の中。)今人は古人のことをかれこれいうが、その才力において庚信や、初唐四傑の数公よりまさることはむつかしいであろう。いったいいまはだれが抜羣の英雄というのだ。蘭の花ぶさのうえに翡翠がとまったような華麗なすがたをしたものは或はみとめうるが、碧海の中に鯨魚をとりひしぐような雄健なるものではないか。

戲為六句,六首之四 蜀中転々 杜甫 <516  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2775 杜甫詩1000-516-749/1500

競起問前朝 煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中にかつての煬帝の側近楊素の息子楊玄感が黎陽で反乱を起こして洛陽を攻撃した。これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして中国全土で反乱が起こり出した。

これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退[20]。この敗戦が更なる引き金となり、616年には反乱が各地でピーク状態に達した[21]。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、楊玄感の参謀を務めていた李密(北周八柱国・李弼の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の1人。楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた西域出身で隋の将軍を務めていた王世充、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った竇建徳、そして隋の太原留守(たいげんりゅうしゅ)であった李淵(後の唐の高祖)などが独立勢力となった(隋末唐初の群雄の図)ウィキペディアより。

 


比訝漁陽結怨恨,元聽舜日舊簫韶。

というものの、このごろ不思議にたえぬことは、盤石の体制であったものが、安禄山が、漁陽から起って王朝と怨恨を結んでから各地で羣雄が叛意を起し始めたことだ。元元、舜のような治世、「貞元の治」「開元の治」と言われた治世には、雅楽を始め旧来の簫韶のような洋々たる音楽を聴き、天上世界の徳を世に至らしめていたのである。(今徳の政治をしていない)

漁陽結怨恨 

元聽舜日舊簫韶 天子は庶民の暮らしとかけ離れたものこそがよく、それがあふれる様に、庶民に徳をもたらすことができるという思想である。

古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。

唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。

唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。

楊貴妃の作曲した「涼州」「阿那曲」を歌い、のちには、「凌波曲」、霓裳羽衣曲」、「連昌宮詞」と進んでゆき、散楽は、宮廷だけではなく、皇族や貴族の邸宅でも行われた。また、長安には、大慈恩寺、青竜寺、大薦福寺、永寿寺などの寺の境内や門前に「戯場」が置かれ、散楽が演じられた。