杜甫  夔州歌十句,十首之八   

憶昔咸陽都市合,山水之圖張賣時。巫峽曾經寶屏見,楚宮猶對碧峰疑。
(夔州の風土についてのべている。十首の八:昔咸陽の目瀬で見た巫山、巫峡の山水図と実物を見るに、楚王と瑤姫の宮がどこにあったのかしりたいと歌う。)昔のことだが、咸陽の年の古道具屋の店に、山水の図を張って売っていたのを見たことを思いだす。眼前に在る不況はあの時立派な屛風の上で見たことのある姿のままである。けれど、巫山の碧峰の実物に対しながら、楚王の宮殿というものがどこにあるのか、今なお疑問が晴らせないでいる。

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 杜甫詩1500-973-1475/2500

夔州における杜甫の住まい(4)

雲安⇒ 客堂→草閣(江辺閣)→西閣→赤甲→瀼西→東屯

 

 瀼西だけに限らないだろうが、そういう住まいの様子が杜甫にはよほど珍しかったのだろう、その後も詩の中で二度言及している。1564_贈李十五丈別》(大暦元年秋)の詩では、重なる山々の頂上に貼りつくように家がある様子を、鳥獣の住みかのようだと述べている。

1564_贈李十五丈別

 

峽人鳥獸居、其室附層顛。

峡の人は 鳥獣のごとく居り、其の室は 層なす顛(いただき)に附す。

下臨不測江、中有萬里船。

下は不測の江に臨み、中には万里よりきたる船有り。

 

さらに1536_雨二首》其一になると、もっとはっきりまるで樹上に巣を作る鳥のような住居をしていると詠じている。

雨,二首之一

 

殊俗狀巢居,曾臺俯風渚。

ここの殊俗は 巣居を状(かたど)り、層台より 風ふく渚を俯()

 

実は以前にも、山地の民が斜面に柱を立てかけて住む様子を、巣居のような住みかたをしていると感じたことがある。六年前、秦州から成都入りする途中で険しい五盤嶺を詠じた0906_五盤》の詩に「野人は半ばは巣居す」と詠じるのがそれである。

 また瀼西宅の南面、つまり対岸の瀼東には白塩山が高くたちはだかっていたことは、先に述べたとおりだが、瀼西宅の北側が赤甲山の東側の山麓にあたることは、《2028_自瀼西荊扉且移居東屯茅屋,四首之一瀼西の荊扉(あばらや)()り、且(しばら)く東屯の茅屋に移居す、四首其一)に、

 

自瀼西荊扉且移居東屯茅屋,四首之一

白鹽危嶠北,赤甲古城東。

ここは白塩の危嶠(キキョウ)の北の、赤甲やまの古城の東なり

とあることからもわかる'⑾'。さらに、その赤甲山に続く西側は険しい崖になっていた。そのことは、1907_課伐木》(大暦二年夏)の詩に、

 

虎穴連里閭、隄防舊風俗。

虎の穴は 里閭(むらざと)に連なり、隄防(テイボウ)するは 旧風俗なり

泊舟滄江岸、久客慎所觸。

舟を泊す 滄江の岸、久しき客のわれは (虎の)触るる所を慎しむ

舍西崖嶠壯、雷雨蔚含蓄。

舎の西は 崖嶠(ガイキョウ) 壮なり、雷雨には 蔚として含蓄す

とあり、草木がこんもり茂って雷雨の時には、虎や何かが隠れていそうな場所として描かれている。

 以上のように、瀼西宅と草堂河、瀼東区と瀼西区、白塩山と赤甲山などの景観や位置を、容易に杜甫の詩から読み取ることができる。そしてそれらは草堂河西岸説でこそ、無理なくすっきりと説明することができるのである。

 

 

年:766           大曆元年55

卷別:    卷二二九              文體:    樂府

詩題:    夔州歌十句,十首之八

作地點:              目前尚無資料

及地點:              夔州 (山南東道 夔州 夔州) 別名:夔府、信州             

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

 

夔州歌十句,十首之八

(夔州の風土についてのべている。十首の八:昔咸陽の目瀬で見た巫山、巫峡の山水図と実物を見るに、楚王と瑤姫の宮がどこにあったのかしりたいと歌う。)

憶昔咸陽都市合,山水之圖張賣時。

昔のことだが、咸陽の年の古道具屋の店に、山水の図を張って売っていたのを見たことを思いだす。

巫峽曾經寶屏見,楚宮猶對碧峰疑。

眼前に在る不況はあの時立派な屛風の上で見たことのある姿のままである。けれど、巫山の碧峰の実物に対しながら、楚王の宮殿というものがどこにあるのか、今なお疑問が晴らせないでいる。

 

(夔州歌十句,十首の八)

憶う昔 咸陽都市の合,山水の圖 張賣の時。

巫峽は 曾て經たり 寶屏に見しことを,楚宮は猶お碧峰に對して疑う。
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京兆地域図002 

『夔州歌十句,十首之八』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

夔州歌十句,十首之八

憶昔咸陽都市合,山水之圖張賣時。

巫峽曾經寶屏見,楚宮猶對碧峰疑。

(下し文)
(夔州歌十句,十首の八)

憶う昔 咸陽都市の合,山水の圖 張賣の時。

巫峽は 曾て經たり 寶屏に見しことを,楚宮は猶お碧峰に對して疑う。

(現代語訳)
(夔州の風土についてのべている。十首の八:昔咸陽の目瀬で見た巫山、巫峡の山水図と実物を見るに、楚王と瑤姫の宮がどこにあったのかしりたいと歌う。)

昔のことだが、咸陽の年の古道具屋の店に、山水の図を張って売っていたのを見たことを思いだす。

眼前に在る不況はあの時立派な屛風の上で見たことのある姿のままである。けれど、巫山の碧峰の実物に対しながら、楚王の宮殿というものがどこにあるのか、今なお疑問が晴らせないでいる。


(訳注)

夔州歌十句,十首之八

(夔州の風土についてのべている。十首の八:昔咸陽の目瀬で見た巫山、巫峡の山水図と実物を見るに、楚王と瑤姫の宮がどこにあったのかしりたいと歌う。)

 

憶昔咸陽都市合,山水之圖張賣時。

昔のことだが、咸陽の年の古道具屋の店に、山水の図を張って売っていたのを見たことを思いだす。

咸陽都市合 咸陽の街の通りの交差の合わさっているところ。咸陽:かつては秦朝の首都として大いに栄えた。風水においては山・丘・阜などの南側、河・江・川・湖などの水辺の北側を陽と言う。この都市は九嵕山の南、渭水の北に当たり「咸陽」なためにこの名前がついた。杜甫《卷二11兵車行》「車轔轔,馬蕭蕭,行人弓箭各在腰。耶孃妻子走相送,塵埃不見咸陽橋。」(車 轔轔(りんりん),馬 蕭蕭(しょうしょう),行人の 弓箭(きゅうせん)各ゝ(おのおの)腰に在り。耶孃(やぢゃう) 妻子  走りて 相(あ)ひ送り,塵埃(じんあい)に 見えず  咸陽橋(かんようきょう)。)○咸陽橋 咸陽は県の名、渭水をへだてて長安より北の岸にある。橋は成陽へわたるためのはしで、或は西渭橋のことといい、或は中渭橋のことというが、はっきりしない。兵車行  杜

山水之圖 巫山、巫峡の山水図。

張賣 店内の戸板に張り出して販売する。

 

巫峽曾經寶屏見,楚宮猶對碧峰疑。

眼前に在る不況はあの時立派な屛風の上で見たことのある姿のままである。けれど、巫山の碧峰の実物に対しながら、楚王の宮殿というものがどこにあるのか、今なお疑問が晴らせないでいる。

巫峽 長江三峡の二番目の峡谷。重慶市巫山県の大寧河の河口から湖北省巴東県官渡口まで全長45km。 上流側の巫山県は四川盆地東端にあり、巫山山脈をはじめ東西方向に伸びる細長い褶曲山脈多数が並行して走っている。巫山県城付近は長江沿いの丘陵地帯で大寧河の河口付近にある。

楚宮 楚 (紀元前223年まで)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。現在の長江下流域、湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした楚の宮殿。紀元前278年に楚の都・郢(現在の湖北省江陵県県内)が秦軍に攻め落とされると、屈原は国を救う望みがなくなったことを感じ、旧暦五月五日の端午節に『懐沙』(石をいだく)を書き、汨羅江に身投げしたことを詠う詩が多い。李商隠は唐王朝に対して楚宮を喩えるために詩題としているのであろう。つまり楚宮という歴史を過ぎても今も荒淫の歴史は続くとしている。李商隠《過楚宮》「巫峽迢迢舊楚宮,至今雲雨暗丹楓。」

過楚宮 李商隱 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 56

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碧峰 巫山十二峰の緑の峯をいう。
夔州東川卜居図詳細 002