杜甫 詠懷古跡,五首之二
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
江山故宅空文藻,雲雨荒臺豈夢思。最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
「古跡に於ける詠懐」:第二首は宋玉の宅についての懐いをのべている、ただしその宅が荊州のものであるか帰州 のものであるかは不明。
むかし宋玉は「悲愁」といい、秋風揺落に対して悲しんだというが自分もいま深く彼の悲しみの意味を知った。また彼は風流儒雅の人物であるがこの点もまた吾が師とすべきものだ。彼と我とは千年経ており、代を異にして時を同じくして生まれあわさぬことはまことにさびしい、自分はただ千年のむかしをうらめしくながめてもっぱら涙をそそぐのである。江山のあいだに宋玉の故宅はのこっているが屋舎などは今はなくなって彼の製作した詞賦の詩文のみが空しく存在している、宋玉が「行雲行雨、陽台の下」とうとうた台が荒れながらあるが、彼がその台のことを賦したのはどうして夢幻の思いから出たものなどであろう。事実あったことにちがいない。ひとり宋玉の宅ばかりではない、最も傷心にたえぬことは、楚王の宮までも彼の宅とともにほろんでしまったことで、今になっては舟人がその場所を指して、そこかここかなどと真偽に迷うているのである。
766年-123杜甫 《巻1735詠懷古跡,五首之二【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。】》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-123 <986> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6610
杜甫詩1500-986-1493/2500
年:-766年大暦元年55歲-123
卷別: 卷二三○ 文體: 七言律詩
詩題: 詠懷古跡,五首之二【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。】
作地點: 夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)
及地點: 楚宮 (山南東道 夔州 巫山)
詠懷古跡,五首之二
【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。
「古跡に於ける詠懐」:第二首は宋玉の宅についての懐いをのべている、ただしその宅が荊州のものであるか帰州 のものであるかは不明。
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。
むかし宋玉は「悲愁」といい、秋風揺落に対して悲しんだというが自分もいま深く彼の悲しみの意味を知った。また彼は風流儒雅の人物であるがこの点もまた吾が師とすべきものだ。
悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
彼と我とは千年経ており、代を異にして時を同じくして生まれあわさぬことはまことにさびしい、自分はただ千年のむかしをうらめしくながめてもっぱら涙をそそぐのである。
江山故宅空文藻,雲雨荒臺豈夢思。
江山のあいだに宋玉の故宅はのこっているが屋舎などは今はなくなって彼の製作した詞賦の詩文のみが空しく存在している、宋玉が「行雲行雨、陽台の下」とうとうた台が荒れながらあるが、彼がその台のことを賦したのはどうして夢幻の思いから出たものなどであろう。事実あったことにちがいない。
最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
ひとり宋玉の宅ばかりではない、最も傷心にたえぬことは、楚王の宮までも彼の宅とともにほろんでしまったことで、今になっては舟人がその場所を指して、そこかここかなどと真偽に迷うているのである。
(詠懷古跡,五首の二)
揺落深く知る 宋玉が悲しみ、風流 儒雅も亦た吾が師。
千秋を帳望して 一に涙を濯ぐ、蕭条 異代 時を同じくせず。
江山の故宅 空しく文藻、雲雨 荒台 豈に夢思ならんや。
最も是れ楚宮 倶に泯滅す、舟人指点して今に到りて疑う。
『詠懷古跡,五首之二』 現代語訳と訳註解説
(本文)
詠懷古跡,五首之二【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。
悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
江山故宅空文藻,雲雨荒臺豈夢思。
最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
(詠懷古跡,五首之二【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。)
搖落深知宋玉悲【搖落深知為主悲】,風流儒雅亦吾師。悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。江山故宅空文藻,雲雨荒臺豈夢思。最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
(下し文)
(詠懷古跡,五首の二)
揺落深く知る 宋玉が悲しみ、風流 儒雅も亦た吾が師。
千秋を帳望して 一に涙を濯ぐ、蕭条 異代 時を同じくせず。
江山の故宅 空しく文藻、雲雨 荒台 豈に夢思ならんや。
最も是れ楚宮 倶に泯滅す、舟人指点して今に到りて疑う。
(現代語訳)
「古跡に於ける詠懐」:第二首は宋玉の宅についての懐いをのべている、ただしその宅が荊州のものであるか帰州 のものであるかは不明。
むかし宋玉は「悲愁」といい、秋風揺落に対して悲しんだというが自分もいま深く彼の悲しみの意味を知った。また彼は風流儒雅の人物であるがこの点もまた吾が師とすべきものだ。
彼と我とは千年経ており、代を異にして時を同じくして生まれあわさぬことはまことにさびしい、自分はただ千年のむかしをうらめしくながめてもっぱら涙をそそぐのである。
江山のあいだに宋玉の故宅はのこっているが屋舎などは今はなくなって彼の製作した詞賦の詩文のみが空しく存在している、宋玉が「行雲行雨、陽台の下」とうとうた台が荒れながらあるが、彼がその台のことを賦したのはどうして夢幻の思いから出たものなどであろう。事実あったことにちがいない。
ひとり宋玉の宅ばかりではない、最も傷心にたえぬことは、楚王の宮までも彼の宅とともにほろんでしまったことで、今になっては舟人がその場所を指して、そこかここかなどと真偽に迷うているのである。
詠懷古跡,五首之二
「古跡に於ける詠懐」:第二首は宋玉の宅についての懐いをのべている、ただしその宅が荊州のものであるか帰州 のものであるかは不明。
○詠懐古跡 古跡において我が懐を詠ずるという意で。陶淵明の詩題に「懐古田舎」というものがある
が、それは田舎において往古を懐うことをいっている。杜甫の詩題もまたこれと相い類する命名である。
詠懷古跡,五首之二【案:吳若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。
搖落深知宋玉悲,風流儒雅亦吾師。
むかし宋玉は「悲愁」といい、秋風揺落に対して悲しんだというが自分もいま深く彼の悲しみの意味を知った。また彼は風流儒雅の人物であるがこの点もまた吾が師とすべきものだ。
○揺落 秋の樹の葉の風にゆられおちることをいう。宋玉の九弁にいう、「悲哉秋之為氣也!蕭瑟兮草木搖落而變衰。」(悲しいかな秋の気たるや、蕭瑟たり草木揺落して変衰す)と。
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○深知 自己も深く知る。
○宋玉悲 宋玉が秋に対してなした悲しみ。宋玉は秋を悲しんだのにより悲秋宋玉の故事をなす。
○風流儒雅 宋玉の人物をいう。風流にして儒者らしくみやびで
ある。
○亦吾師 亦とは上の悲秋ばかりでなくこれもまたということである。
悵望千秋一灑淚,蕭條異代不同時。
彼と我とは千年経ており、代を異にして時を同じくして生まれあわさぬことはまことにさびしい、自分はただ千年のむかしをうらめしくながめてもっぱら涙をそそぐのである。
○悵望千秋 千年の上代をうらめしくながめる。
〇一灑淚 一はもっぱらの意。
○蕭條 さびしい、中間に人物がとだえているためである。
○異代 宋玉と自己とは生まれでた時代がおなじくない。
江山故宅空文藻,雲雨荒臺豈夢思。
江山のあいだに宋玉の故宅はのこっているが屋舎などは今はなくなって彼の製作した詞賦の詩文のみが空しく存在している、宋玉が「行雲行雨、陽台の下」とうとうた台が荒れながらあるが、彼がその台のことを賦したのはどうして夢幻の思いから出たものなどであろう。事実あったことにちがいない。
○江山故宅 確証があるわけではないが宋玉の帰州の宅をさすといっている。しかしながら、宋玉の宅は杜甫詩の言によって二種あり、《1837送李攻曹之荊州充、鄭侍御判官重贈》「曾聞宋玉宅,每欲到荊州。」(曾て聞く宋玉が宅、毎に荊州に到らんと欲す)は荊州にある宋玉の宅をいう、前詩の庾信が住んだという江陵城北の宋玉宅がそれである。《1854入宅,三首之三【案:大歷二年春,甫自西閣遷赤甲。】》「宋玉歸州宅,雲通白帝城。
吾人淹老病,旅食豈才名。」(宋玉が帰州の宅、雲は通ず白帝城。吾人老病に淹し,旅食 豈に才名にあらんや。)は帰州にある宋玉の宅をいう。「清一統志」に宅は帰州の東二里にあるといっている。此の詩は二種のうち其のいずれをさすか明らかでない。杜甫がこの詩を書く時期では荊州の宅を確認していない。
○空文藻 文藻とは宋玉が作った詞賊のあやをいう、空文藻とは屋舎が亡んで文藻のみがむなしく存することをいう。
○雲雨荒台豈夢思 此の句には諸説がある。余は都見をのべよう。雲雨荒台は楚の懐王が夢に神女に会ったという陽台をいう、宋玉の
「高唐賦」にいう、「昔者先王嘗遊高唐,怠而晝寢,夢見一婦人曰:‘妾,巫山之女也。爲高唐之客。聞君遊高唐,願薦枕席。’王因幸之。去而辭曰:‘妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨。朝朝暮暮,陽臺之下。」(昔先王(懐王をいう)嘗て高庸に遊ぶ、夢に一婦人を見て曰く「妾,巫山の女なり。高唐の客と爲す。君高唐に遊ぶを聞き,願わくば枕席を薦めんと。」、王因って之を幸す、去らんとして辞して曰く、妾は巫山の陽、高丘の岨に在り、旦には行雲と為り、暮には行雨と為る、朝朝暮暮、陽台の下にす)と。荒台というのは現にあれておる台であることをいう。「清一統志」にいう、陽台山は巫山県城内北隅にあり、高さ百丈、上に陽雲台の遺址あり、と。豈夢息とは反語にみる。宋玉の賦した所は必ずしも夢幻虚構の想像ではない、其の事実があったという。此の詩を作ったのは玄宗と
楊貴妃との事をおもいうかべたものである。
最是楚宮俱泯滅,舟人指點到今疑。
ひとり宋玉の宅ばかりではない、最も傷心にたえぬことは、楚王の宮までも彼の宅とともにほろんでしまったことで、今になっては舟人がその場所を指して、そこかここかなどと真偽に迷うているのである。
○最是 最も心を傷ましむるものはこれの意。
○楚宮 すなわち楚王の宮、巫山県東北一里にあるという。
○倶泯滅 供とは宋玉の古屋舎とともにの意、漑
減はほろびてなくなったこと。
○舟人指點 船頭が指ざしする。
○到今疑 今日となってはとこが昔のその場
所であるかさだかでなく、そこかここかと疑い迷うことをいう。《1538夔州歌十絶句」の第八首》「巫峽曾經寶屏見,楚宮猶對碧峰疑。」(巫峽 曾て經たり寶屏に見しことを,楚宮猶お碧峰に対して疑う)の疑字と同意。
766年-110杜甫 《巻1538夔州歌十絕句,十首之八》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-110 <973> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6520
揺落深く知る 宋玉が悲しみ、風流 儒雅も亦た吾が師。
千秋を帳望して 一に涙を濯ぐ、蕭条 異代 時を同じくせず。
江山の故宅 空しく文藻、雲雨 荒台 豈に夢思ならんや。
最も是れ楚宮 倶に泯滅す、舟人指点して今に到りて疑う。