杜甫  詠懷古跡,五首之三   

群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黃昏。

畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論。
(「古跡に於ける詠懐」:第三首は王昭君の生まれた村のことより王昭君についての感をのべている。)

多くの山や壁が荊門山の方に向かって走っている、かかる地勢のところ“帰州”にむかし明妃(王昭君)が生長したと称せられる村がまだのこっている。昭君は画家に賄賂をしなかったばかりに、一たび漢の紫宮からたち去ってどこどこまでも沙漠の奥までいってしまい、ついに匈奴の土となったので、黄昏になりかかるころなど独りさびしく彼の地に青塚をのこしている。昭君は画工が醜くかいた画像によって、やっと、天子にそのうつくしい顔をみしられたのであり、生前はついに寵愛を被らず、死後になって月夜には、その霊魂が環珮を鳴らして空しく漢へ帰ってくる というような気の毒な目にあった。それで千年後の今日も琶琵にあわせてうたう彼女の詩が胡地の言語のような節をして、その「怨恨」のこころをはっきりと音曲のなかで語っているのである。

766-124杜甫 《巻1736詠懷古跡,五首之三【案:若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。】》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-124 <987 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6615 

 

 
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杜甫詩
1500-987-1494/2500

年:766年大暦元年55-124

卷別:    卷二三○              文體:    七言律詩

詩題:    詠懷古跡,五首之三【案:若本作〈詠懷〉一章、〈古跡〉四首。】

作地點:              夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)

及地點:              荊門山 (山南東道 峽州 宜都)           

青冢 ( 豐州 豐州)   

 

 

詠懷古跡,五首之三

(「古跡に於ける詠懐」:第三首は王昭君の生まれた村のことより王昭君についての感をのべている。)

群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。

多くの山や壁が荊門山の方に向かって走っている、かかる地勢のところ“帰州”にむかし明妃(王昭君)が生長したと称せられる村がまだのこっている。

一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黃昏。

昭君は画家に賄賂をしなかったばかりに、一たび漢の紫宮からたち去ってどこどこまでも沙漠の奥までいってしまい、ついに匈奴の土となったので、黄昏になりかかるころなど独りさびしく彼の地に青塚をのこしている。

畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。

昭君は画工が醜くかいた画像によって、やっと、天子にそのうつくしい顔をみしられたのであり、生前はついに寵愛を被らず、死後になって月夜には、その霊魂が環珮を鳴らして空しく漢へ帰ってくる というような気の毒な目にあった。

千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論。

それで千年後の今日も琶琵にあわせてうたう彼女の詩が胡地の言語のような節をして、その「怨恨」のこころをはっきりと音曲のなかで語っているのである。

(詠懷古跡,五首の三)

群山万整刑門に赴く、明妃を生長して 尚お村有り。

一たび紫台を去って朔漠に連なり、獨り青冢を留めて黃昏に向う。

画図に省識せらる春風の面、環珮空しく帰る夜月の魂。

千載琵琶胡語を作し、分明に怨恨を 曲中に論ず。

 

夔州東川卜居図000

『詠懷古跡,五首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

詠懷古跡,五首之三

群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。

一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黃昏。

畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。

千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論。
詩文(含異文)     群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黃昏。畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論【分明愁恨曲中論】。


(下し文)
(詠懷古跡,五首の三)

群山万整刑門に赴く、明妃を生長して 尚お村有り。

一たび紫台を去って朔漠に連なり、獨り青冢を留めて黃昏に向う。

画図に省識せらる春風の面、環珮空しく帰る夜月の魂。

千載琵琶胡語を作し、分明に怨恨を 曲中に論ず。

(現代語訳)
「古跡に於ける詠懐」:第三首は王昭君の生まれた村のことより王昭君についての感をのべている。

多くの山や壁が荊門山の方に向かって走っている、かかる地勢のところ“帰州”にむかし明妃(王昭君)が生長したと称せられる村がまだのこっている。

昭君は画家に賄賂をしなかったばかりに、一たび漢の紫宮からたち去ってどこどこまでも沙漠の奥までいってしまい、ついに匈奴の土となったので、黄昏になりかかるころなど独りさびしく彼の地に青塚をのこしている。

昭君は画工が醜くかいた画像によって、やっと、天子にそのうつくしい顔をみしられたのであり、生前はついに寵愛を被らず、死後になって月夜には、その霊魂が環珮を鳴らして空しく漢へ帰ってくる というような気の毒な目にあった。

それで千年後の今日も琶琵にあわせてうたう彼女の詩が胡地の言語のような節をして、その「怨恨」のこころをはっきりと音曲のなかで語っているのである。


(訳注)

詠懷古跡,五首之三

「古跡に於ける詠懐」:第三首は王昭君の生まれた村のことより王昭君についての感をのべている。

○詠懐古跡 古跡において我が懐を詠ずるという意で。陶淵明の詩題に「懐古田舎」というものがある が、それは田舎において往古を懐うことをいっている。杜甫の詩題もまたこれと相い類する命名である。

仇注には「杜臆」を引いて、宮に入りて妬まるると朝に入りて妬まるるとは千古同感ありといっている。昭君 に同情して作ったものである。

李白33-35 王昭君を詠う 三首

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群山萬壑赴荊門,生長明妃尚有村。

多くの山や壁が荊門山の方に向かって走っている、かかる地勢のところ“帰州”にむかし明妃(王昭君)が生長したと称せられる村がまだのこっている。

荊門 山の名、山南東道峽州宜都縣(荊州府宜都県)西北五十里にある、虎牙山と相い対する。

明妃 漢の王昭君をいう、晋の時、 文帝の名が昭であったため、晋人は昭の諱を避けて明君といった、明妃とは元帝の妃明君の意。漢の王嬙、字は昭君は元帝の宮人となったが、竟寧元年、匈奴の呼韓邪単子が来朝し、漢の壻となって親しもうと請うたので、元帝は王嬙を単千に賜わった、単子の子雕陶莫皐が位に即くに及び、また王嬙を妻としたために、昭君は黒河に身を投じその岸に葬られた。なお「画図省識」の句解をみよ。

尚有村 王嬙は蜀郡秭帰の人、今の荊州府帰州の東北四十里にある。

 

一去紫臺連朔漠,獨留青冢向黃昏。

昭君は画家に賄賂をしなかったばかりに、一たび漢の紫宮からたち去ってどこどこまでも沙漠の奥までいってしまい、ついに匈奴の土となったので、黄昏になりかかるころなど独りさびしく彼の地に青塚をのこしている。

紫台 王宮。梁の江掩の「恨賦」にいう、「明妃去る時、天を仰ぎて太息す、紫台稍々遠く、関山極まり無し」と。李善の注に紫台は紫宮をいうといっている。紫宮は紫色の彩を施した漢の宮殿をいう。

連朔漠 朔漠は北方の沙漠、連とは沙漠のつづきをどこまでもゆくことをいう、すなわち「恨賦」の「関山極り無し」の意。

青塚 昭君の墓をいう、「清一統志」にいう、塚は山西省朔平府帰化城の南二十里にあり、蒙古名は特木爾烏爾虎という。其の地は多く白草なるに昭君の塚のみは青し、よって青塚という、と。王昭君の墓は盛唐以降、「青塚(青冢)」【せいちょう】と呼ばれ、李白は「生きては黄金を乏【か】き枉げて図画せられ(画工に賄賂を贈らなかったがために醜く描かれ)、死しては青塚を留めて人をして嗟かしむ」(「王昭君 二首 其一」)と歌い、白居易や張蠙らは青塚を詩題とする作品を為し、かくて王昭君墓を表現する固有名詞となった。敦煌発見のペリオ将来「王昭君変文」(絵を用いた講釈の台本)にも「墳高數尺号青塚」の表現が見え、「青塚」の表現が広く一般に定着していたことが知れる。

「青塚」の名は、『太平寰宇記』巻38 振武軍・金河県條に「青冢、県の西北に在り。漢の王昭君、此に葬らる。其の上、草の色、常に青く、故に青冢と曰ふ。」とあり、また漢・蔡邕撰『琴操』(散逸。実際は南北朝期の偽作)「胡中、白草多きも、此の冢独(ひと)り青し。」とある様に、「一面の白沙白草の胡地に、王昭君の墓所のみ青草が生い茂る」ことに由来し、この伝説は、「王昭君の魂魄の再生復活をその青草に期待し、願望したもの」である。

 

畫圖省識春風面,環珮空歸月夜魂。

昭君は画工が醜くかいた画像によって、やっと、天子にそのうつくしい顔をみしられたのであり、生前はついに寵愛を被らず、死後になって月夜には、その霊魂が環珮を鳴らして空しく漢へ帰ってくる というような気の毒な目にあった。

画園省識春風面 「西京雑記」にいう、元帝、後宮既に多し、画工をして形を図せしめ図を按じて召して之を幸す。宮人皆画工に賂う、昭君自ずから其の貌を恃みて独り与えず、乃ち悪しく之を図す、遂に見ゆることを得ず、のち匈奴来朝して美人を求めて閻氏(匈奴の単子の后)となさんとす、帝、昭君を以て行かしむ。去るに及び召し見るに貌、後宮第第一たり、帝之を悔い其の事を窮按し、画工毛延寿をば棄市す、と。・画図とは画工のかいた昭君の画像をいう、・省識とは元帝が昭君をかえりみみしったことをいう、省の字を略の意ととく説がぁるが非である。昭君よりいえばみしられたのである。・春風面とはうつくしい顔色をいう。

環珮 女子の 身に帯びる金環や玉偏をいう。

月夜魂 月夜に乗じての昭君の霊魂、昭君は身は匈奴に死んで漢の方へかえることができず、魂のみがかえる。

 

千載琵琶作胡語,分明怨恨曲中論。

それで千年後の今日も琶琵にあわせてうたう彼女の詩が胡地の言語のような節をして、その「怨恨」のこころをはっきりと音曲のなかで語っているのである。

千載 千年の後をいう。

琵琶 びわの音曲をいう。

作胡語 昭君の自作の「怨詩」( 王昭君  漢詩<110-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩545 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1452)の中において胡語を為して悲憤を訴える意とといている。昭君は漢人であるが匈奴に嫁したので匈奴の胡言で詩をもつくるとみなしたもののごとくである。ここではは琵琶曲中にていうことが胡語のようにきこえるというまでの意。

怨恨 昭君のうらみ。

曲中 琵琶の曲の中において。

 

詠懷古跡,五首之三

群山万整刑門に赴く、明妃を生長して 尚お村有り。

一たび紫台を去って朔漠に連なり、獨り青冢を留めて黃昏に向う。

画図に省識せらる春風の面、環珮空しく帰る夜月の魂。

千載琵琶胡語を作し、分明に怨恨を 曲中に論ず。

蜀中転々圖 

 

 

 

 

昭君が匈奴に入ろうとするとき作ったと伝えられる「怨詩」は次の如くである。

 

怨詩》  王昭君

秋木萋萋,其葉萎黄。有鳥處山,集于苞桑。

養育毛羽,形容生光。既得升雲,上遊曲房。

離宮絶曠,身體摧藏。志念抑沈,不得頡頏。

雖得委食,心有徊徨。我獨伊何,來往變常。

翩翩之燕,遠集西羌。高山峨峨,河水泱泱。

父兮母兮,道里悠長。嗚呼哀哉,憂心惻傷。

 

(怨詩)

秋木 萋萋【せいせい】として,其の葉 萎黄【いこう】す。

鳥有り 山に處【を】り,苞桑【ほうそう】に集【むらが】る。

毛羽を養育し,形容 光を生ず。

既に雲に升【のぼ】るを得て,上のかた 曲房に遊ぶ。

離宮 絶【はなは】だ 曠【ひろ】くして,身體 摧藏【さいぞう】す。

志念 抑沈【よくちん】して,頡頏【けつこう】するを得ず。

 

委食を得【う】と 雖も,心に 徊徨【かいこう】する有り。

獨り 伊【こ】れ 何ぞ,來往【らいおう】常を變ず。

翩翩【へんぺん】たる燕,遠く西羌【せいきょう)に集【いた】る。

高山峨峨【がが】たり,河水泱泱【おうおう】たり。

父や母や,道里 悠長なり。

嗚呼【ああ】 哀しい哉,憂心惻傷【そくしょう】す。