杜甫  諸將,五首之三  

洛陽宮殿化為烽,休道秦關百二重。滄海未全歸禹貢,薊門何處盡堯封。

朝廷袞職雖多預,天下軍儲不自供。稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農。

(外征や衛戍の指揮統率をする者たち、諸将軍や節度使たち、辺疆防衛のためにおかれた軍団の長たちについて、第三首は乱後の民困をいい、諸将の屯田を行なわぬことを責めるが、王維の弟の王縉に対して期待していると述べる。)766年大暦元年の作。

洛陽の宮殿も“のろし火”にかわった。秦中の関塞は昔から、外敵の百分二の防禦力あれば足るほどの要害だなどいうことであったが、百万の軍が三十万の安史軍に大敗したではないか。今日東海地方はまだ天子の職貢の地となり、平穏な状態になっているとは言えないし、安史軍の根拠地の薊門のあたりもどこがすっかり王領になって治まったというのか。朝廷の三公の職に居る人人はやたらに官職ばかり多く帯びているが、天下の軍需品は強制的に取るのでなければ供給されぬありさまではないか。このときすこしばかり喜ぶべきことがあるのは、私の親友の王維の弟の王相国(縉)が河南・准西・山南東道の辺統一にのぞまれたということだが、王相国のことだから、兵器をとかして農具をこしらへ春をまって農作を専務とされるかんがえがおありになることだろう。

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杜甫詩1500-992-1499/2500

年:766年大暦元年55-129 

卷別:    卷二三○              文體:    七言律詩

詩題:    諸將,五首之三

作地點:              夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)

及地點:              洛陽 (都畿道 河南府 洛陽) 別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下      

故函谷關 (都畿道 陜州 故函谷關) 別名:秦關             

 

 

諸將,五首之三

(外征や衛戍の指揮統率をする者たち、諸将軍や節度使たち、辺疆防衛のためにおかれた軍団の長たちについて、第三首は乱後の民困をいい、諸将の屯田を行なわぬことを責めるが、王維の弟の王縉に対して期待していると述べる。)766年大暦元年の作。

洛陽宮殿化為烽,休道秦關百二重。

洛陽の宮殿も“のろし火”にかわった。秦中の関塞は昔から、外敵の百分二の防禦力あれば足るほどの要害だなどいうことであったが、百万の軍が三十万の安史軍に大敗したではないか。

滄海未全歸禹貢,薊門何處盡堯封。

今日東海地方はまだ天子の職貢の地となり、平穏な状態になっているとは言えないし、安史軍の根拠地の薊門のあたりもどこがすっかり王領になって治まったというのか。

朝廷袞職雖多預,天下軍儲不自供。

朝廷の三公の職に居る人人はやたらに官職ばかり多く帯びているが、天下の軍需品は強制的に取るのでなければ供給されぬありさまではないか。

稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農。

このときすこしばかり喜ぶべきことがあるのは、私の親友の王維の弟の王相国(縉)が河南・准西・山南東道の辺統一にのぞまれたということだが、王相国のことだから、兵器をとかして農具をこしらへ春をまって農作を専務とされるかんがえがおありになることだろう。

 

(諸將,五首の三)

洛陽の宮殿 化して烽と為る,道うを休めよ 秦關 百二の重と。

滄海 未だ全っく禹貢に歸せず,薊門 何れの處にか 盡く堯封なる。

朝廷の袞職は 多く預ると雖も,天下の軍儲は 自ら供せず。

稍やもして 喜ぶは邊に王相國 臨み,肯えて金甲を銷して 春農を事とせんや。
楚州001

 

諸將,五首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

諸將,五首之三

洛陽宮殿化為烽,休道秦關百二重。

滄海未全歸禹貢,薊門何處盡堯封。

朝廷袞職雖多預,天下軍儲不自供。

稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農。
詩文(含異文)     洛陽宮殿化為烽,休道秦關百二重。滄海未全歸禹貢,薊門何處盡堯封【案:時河北幽、瀛皆安史餘孽盤據。】【薊門何處覓堯封】。朝廷袞職雖多預【朝廷袞職誰爭補】,天下軍儲不自供。稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農【案:廣德二年,王縉以同平章事,代李光弼都統行營。餘,遷河南副元帥。】。


(下し文)
(諸將,五首の三)

洛陽の宮殿 化して烽と為る,道うを休めよ 秦關 百二の重と。

滄海 未だ全っく禹貢に歸せず,薊門 何れの處にか 盡く堯封なる。

朝廷の袞職は 多く預ると雖も,天下の軍儲は 自ら供せず。

稍やもして 喜ぶは邊に王相國 臨み,肯えて金甲を銷して 春農を事とせんや。

(現代語訳)
(外征や衛戍の指揮統率をする者たち、諸将軍や節度使たち、辺疆防衛のためにおかれた軍団の長たちについて、第三首は乱後の民困をいい、諸将の屯田を行なわぬことを責めるが、王維の弟の王縉に対して期待していると述べる。)766年大暦元年の作。

洛陽の宮殿も“のろし火”にかわった。秦中の関塞は昔から、外敵の百分二の防禦力あれば足るほどの要害だなどいうことであったが、百万の軍が三十万の安史軍に大敗したではないか。

今日東海地方はまだ天子の職貢の地となり、平穏な状態になっているとは言えないし、安史軍の根拠地の薊門のあたりもどこがすっかり王領になって治まったというのか。

朝廷の三公の職に居る人人はやたらに官職ばかり多く帯びているが、天下の軍需品は強制的に取るのでなければ供給されぬありさまではないか。

このときすこしばかり喜ぶべきことがあるのは、私の親友の王維の弟の王相国(縉)が河南・准西・山南東道の辺統一にのぞまれたということだが、王相国のことだから、兵器をとかして農具をこしらへ春をまって農作を専務とされるかんがえがおありになることだろう。


(訳注)

諸將,五首之三

(外征や衛戍の指揮統率をする者たち、諸将軍や節度使たち、辺疆防衛のためにおかれた軍団の長たちについて、第三首は乱後の民困をいい、諸将の屯田を行なわぬことを責めるが、王維の弟の王縉に対して期待していると述べる。)766年大暦元年の作。

○諸将 諸将軍。命を受けて軍を統帥して、外征や衛戍の指揮統率をする者たち。諸将軍や節度使たち。辺疆防衛のためにおかれた軍団の長たち。作者は安史の乱に遭い、大唐の軍部の不甲斐なさを歎いてこの詩を作った。詩中に或はその人を明言し或は明言しない。

第三首は乱後の民困をいい、諸将の屯田を行なわぬことを責めるが、王維の弟の王縉に対して期待し、かつ諸将の模範として頑張ってほしい旨を述べる。766年大暦元年55の時、129首目の作である。

 

洛陽宮殿化為烽,休道秦關百二重。

洛陽の宮殿も“のろし火”にかわった。秦中の関塞は昔から、外敵の百分二の防禦力あれば足るほどの要害だなどいうことであったが、百万の軍が三十万の安史軍に大敗したではないか。

○洛陽宮殿 安禄山は75511月についに挙兵した。挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する。6月初めには長安をも陥落させた。

○化為蜂 のろし火にかわる、兵乱のここに及んだことをいう。天宝十四載二月、禄山は東京(洛陽)を陥れ、十五載六月滝関を破った。

○秦関 潼関、函谷関をさす、禄山は函谷関・潼関をこえてはじめて長安に入った。

〇百二重 《漢紀》に「秦は形勝の国なり、山を帯び河を阻て、持戟百万、秦百が二を得たり」とあり、注に秦地は険固にして二万人を以て諸侯の百万人に当たるに足るといっている。百二とは百分の二だけの防禦力で足ることをいう。重とはかさなる、函谷関、潼関の要害のかさなって幾重にもあることをいう、百二重とは己を防ぐには敵の百分の二の力で足る要害というの意。実際には、函谷関に集結していた百万の哥舒翰の軍勢が、三十万の安史軍に大敗をした。

 

滄海未全歸禹貢,薊門何處盡堯封。

今日東海地方はまだ天子の職貢の地となり、平穏な状態になっているとは言えないし、安史軍の根拠地の薊門のあたりもどこがすっかり王領になって治まったというのか。

○滄海 ひろいうみ。禹貢の青州の域、今の山東省の東及び北の海面をさす。

○禹貢 「尚書」に禹貢篇があり、夏の禹王の時の中国全土の行政区分と、各地よりたてまつるべき貢賦の事とを記載している、因って「禹貢に帰す」とは「天子の領域」に帰するという意となる。

○薊門 薊州、今の順天府地方、安禄山の根拠地であったところ。

○堯封 周の時、堯の子孫を薊に封じたので堯封という、これも天子の領地の意である。

 

朝廷袞職雖多預,天下軍儲不自供。

朝廷の三公の職に居る人人はやたらに官職ばかり多く帯びているが、天下の軍需品は強制的に取るのでなければ供給されぬありさまではないか。

職 《詩経、烝民》「人亦有言、德輶如毛、民鮮克舉之。我儀圖之、維仲山甫舉之、愛莫助之。袞職有闕、維仲山甫補之。」(人亦有言、德輶如毛、民鮮克舉之。我儀圖之、維仲山甫舉之、愛莫助之。人亦た言あり、德の輶いこと毛の如し、民克くこれを舉げること鮮し。我これを儀圖するに、維れ仲山甫はこれを舉ぐ、愛すれどこれを助くることなし。袞職闕くる有れば、維れ仲山甫之を補う)とある、衰職は天子の職をさす、後漢に至っては衰職を三公の職の事として用いる、「法兵伝」に「臣願わくは聖朝、就ち衰職を加えられんことを」というのがそれである。此の詩句も後世の意により三公の職として用いる。袞は巷竜の模様のある衣、三公はそれを着るのによって其の職を袞職という。

○誰争補 袞職を天子職とするが、実際この時、高級官僚のおおくは、複数の官職を兼ね領してその事務に関係していたために混乱していた。当時の藩鎭、節度使は本官の外に多くは中書令・平章事を加えられ、兼ねて内銜(宮内省関係官職の肩書き)を領していた。これは恩賞や俸禄に対して現金がなく官位をばらまいたことによるもので、安史の篇の期間中、安禄山と唐王朝で争奪戦となり、唐王朝は、藩鎭節度使の食い止め策に官位を乱発した。力のないものまで、諸侯に加えられた。この時、最も力をつけたのが宦官勢力である。

○軍儲 軍需品。

○不自供 地方より自発的に供納せず、上より求索するのを待って供せられることをいう。強奪ということを娩曲にいったものである。

 

稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農。

このときすこしばかり喜ぶべきことがあるのは、私の親友の王維の弟の王相国(縉)が河南・准西・山南東道の辺統一にのぞまれたということだが、王相国のことだから、兵器をとかして農具をこしらへ春をまって農作を専務とされるかんがえがおありになることだろう。

○臨辺 辺境にのぞむ。辺境というのは京畿以外の地をさしていい、必ずしも真に辺遠の地をさすわけではなく、仮に辺境地とするならば本第を大暦三年以後の作としなければならないが、王縉の記述から、大暦元年の作に間違いない。

○王相国 王縉をいう、王縉は王維の弟で、広徳二年に同平章事(すなわち宰相)に拝し、その年八月李光粥に代わって河南・准西・山南東道の諸節度行常の事を都統し、兼ねて東京留守を領したが、歳余にして(永泰元年末)河南副元帥に遷り、大暦三年には幽州盧竜節度を領し、また太原尹・北京留守を兼ね河東軍節度使にあてられている。

○肯 此の骨の字は《巻九72客至》「肯與鄰翁相對飲、隔籬呼取盡餘杯。」(肯【あえ】)て隣翁【りんおう】と相い対して飲まむや、籬【まがき】を隔てて呼び取りて余杯【よはい】を尽さしめん。)の肯とおなじく、こちらからもちかけて相談する意。

客至 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 3)  杜甫 <408 七言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1985 杜甫詩1000-408-591/1500

○錦金甲 金属で造ったよろいをとかす、兵器をとかして農具となすのである。

○春農 春の農作。魏の曹操が、屯田兵制度を積極的に進めたこともあって、王縉がおなじ地域の節度して言うことで、こういう言い回しとしたのである。

196年には魏の曹操は、韓浩・棗祗らの提言に従って屯田制を導入した。これは、辺境地帯でなく内地において、荒廃した田畑を一般の人民にあてがって耕作させるもの(民屯)で、当初は許都の周辺で行われ、のち各地に広まった。屯田制下の人民は、各郡の典農中郎将、各県の典農都尉によって、一般の農村行政とは別に軍事組織と結びついた形で統治された。司馬懿の提言で、長期にわたる抗争を繰り広げていた呉・蜀それぞれの国境付近(淮河流域、関中)でも軍屯が展開され、これにより安定した食糧供給を維持した魏は、両国との争いを有利に進めた。
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