杜甫 搖落
搖落巫山暮,寒江東北流。煙塵多戰鼓,風浪少行舟。
鵝費羲之墨,貂餘季子裘。長懷報明主,臥病復高秋。
(木の葉が揺れ散り落ちる頃の感を詠う)
木の葉が揺れ散り落ちる頃に巫山の山々も暮れかかる、夕方の寒気は長江を蔽い、東北方向に流れてゆく。戦の煙塵がやまず世情は落ち着かず、戦鼓の音が多くしている、長江は風浪が起こって行く船は少ない。自分はというと王羲之が「鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ」たというと同じように筆をとって詩を作り、諸子百家の一つ縦横家の一人である蘇秦が貂の裘を年がら年中着て勉強したことと同じように机にむかっている。そうした中で常日ごろから長期間にわたって思っているのは、明天子の御恩に報いることであるが、病で床に伏してしまって、また、天高い秋になってしまった。
766年-145杜甫 《1944搖落》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-145 <1017> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6765
杜甫詩1500-1017-1515/2500
年:766年大暦元年55歲-145
卷別: 卷二三○ 文體: 五言律詩
詩題: 搖落
作地點: 目前尚無資料
及地點: 巫山 (山南東道 夔州 巫山)
搖落
(木の葉が揺れ散り落ちる頃の感を詠う)
搖落巫山暮,寒江東北流。
木の葉が揺れ散り落ちる頃に巫山の山々も暮れかかる、夕方の寒気は長江を蔽い、東北方向に流れてゆく。
煙塵多戰鼓,風浪少行舟。
戦の煙塵がやまず世情は落ち着かず、戦鼓の音が多くしている、長江は風浪が起こって行く船は少ない。
鵝費羲之墨,貂餘季子裘。
自分はというと王羲之が「鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ」たというと同じように筆をとって詩を作り、諸子百家の一つ縦横家の一人である蘇秦が貂の裘を年がら年中着て勉強したことと同じように机にむかっている。
長懷報明主,臥病復高秋。
そうした中で常日ごろから長期間にわたって思っているのは、明天子の御恩に報いることであるが、病で床に伏してしまって、また、天高い秋になってしまった。
(搖落)
搖落 巫山暮る,寒江 東北に流る。
煙塵 戰鼓多く,風浪 行舟少し。
鵝は費す 羲之の墨を,貂は餘す 季子の裘を。
『搖落』 現代語訳と訳註解説
(本文)
搖落
搖落巫山暮,寒江東北流。
煙塵多戰鼓,風浪少行舟。
鵝費羲之墨,貂餘季子裘。
長懷報明主,臥病復高秋。
(下し文)
(搖落)
搖落 巫山暮る,寒江 東北に流る。
煙塵 戰鼓多く,風浪 行舟少し。
鵝は費す 羲之の墨を,貂は餘す 季子の裘を。
長懷して 明主に報いん,臥病して 復た高秋なり。
(現代語訳)
(木の葉が揺れ散り落ちる頃の感を詠う)
木の葉が揺れ散り落ちる頃に巫山の山々も暮れかかる、夕方の寒気は長江を蔽い、東北方向に流れてゆく。
戦の煙塵がやまず世情は落ち着かず、戦鼓の音が多くしている、長江は風浪が起こって行く船は少ない。
自分はというと王羲之が「鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ」たというと同じように筆をとって詩を作り、諸子百家の一つ縦横家の一人である蘇秦が貂の裘を年がら年中着て勉強したことと同じように机にむかっている。
そうした中で常日ごろから長期間にわたって思っているのは、明天子の御恩に報いることであるが、病で床に伏してしまって、また、天高い秋になってしまった。
(訳注)
搖落
(木の葉が揺れ散り落ちる頃の感を詠う)
766年大暦元年55歲の作-この年の145首目。
搖落巫山暮,寒江東北流。
木の葉が揺れ散り落ちる頃に巫山の山々も暮れかかる、夕方の寒気は長江を蔽い、東北方向に流れてゆく。
搖落 木の葉が揺れ散り落ちる頃をいう。
巫山 夔州から西日に照らされた巫山を見る。夔州からのぞむもっともたかいやまである。
煙塵多戰鼓,風浪少行舟。
戦の煙塵がやまず世情は落ち着かず、戦鼓の音が多くしている、長江は風浪が起こって行く船は少ない。
煙塵多戰鼓 765年永泰元年9月ウイグル、吐蕃が入寇し、その混乱に乗じ、同年10月崔旰、蜀全土を混乱させる反乱を起こす。
鵝費羲之墨,貂餘季子裘。
自分はというと王羲之が「鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ」たというと同じように筆をとって詩を作り、諸子百家の一つ縦横家の一人である蘇秦が貂の裘を年がら年中着て勉強したことと同じように机にむかっている。
鵝費羲之墨 王羲之は鵞鳥を多く飼っている山の道観に案内され、道士に「一羽でもいいから譲って欲しい」と頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったという。杜甫も筆を執って多くの詞を作って売文していた。
貂餘季子裘 蘇秦、諸子百家の一つ縦横家の一人。蘇秦が有名になるまで、貂の裘を着続けたことをいう。秦と対抗するために六国の合従策を主張し、六国の宰相を兼ねた。戦国策:蘇秦の名声は各国に及び、天下には対抗できるものもないほどになった。あるとき楚王に遊説しようと、故郷を通ることになった。それを知った父母は部屋をかたづけ、道を清め、楽隊を並べ、飲食の支度をして郊外三十里まで蘇秦を出迎えた。妻は目を伏せて蘇秦を見ることができず、兄嫁ははいつくばってにじり寄り、平謝りに昔のことを謝った。「姉上、昔は威張っていたのに、今はどうしたのですか」と問うと、兄嫁は「末っ子のあなたが今はお金持ちになったらですわ」と答えた。それを聞いた蘇秦は、「ああ、貧乏だと両親でさえ相手にしてくれない。金持ちになれば親戚まで恐れいる。この世に生まれたからには、地位や金銭はおそろかにできないものだ」と述べた。このことから「貧窮なれば、父母も子とせず」という言葉が生まれた。
長懷報明主,臥病復高秋。
そうした中で常日ごろから長期間にわたって思っているのは、明天子の御恩に報いることであるが、病で床に伏してしまって、また、天高い秋になってしまった。
長懷 常日ごろから長期間にわたって思いやる。