杜甫 秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三
暫阻蓬萊閣,終為江海人。揮金應物理,拖玉豈吾身。
羹煮秋蓴滑,杯迎露菊新。賦詩分氣象,佳句莫頻頻。
(秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩)
あなたは、蓬莱仙宮のような漢の蔵書閣であったところから疎外され追いやられ遠ざかり、貶謫されて、ついに江海地方、荊蛮の地、荊州の人になった。あなたが身銭をふるまって、酒宴などして他人を賑やかしてくれていたのは、物の道理にかなっていることであった。そして、私は、玉佩いをわが身に着けてひけらかして歩くような人ではない。だから今度お会いしても、晉の張翰のように羹には、秋のジュンサイの滑らかなものを煮ていて、杯には、陶淵明のように露菊の花弁を浮べての酒を飲むというのが一番良いとおもっている。それに、南湖のほとりの景色を堪能して、詩賦を作ることができれば、頻頻と佳い句が湧き出てこないということはないはずだ。
766年-164杜甫 《2003秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-164 <1036> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6860
秋日寄題鄭監湖上亭,三首之一 (秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩) 碧草逢春意,沅湘萬里秋。 荊州は、此処と万里を隔てた沅水、湘水にかけて秋であって、春の意にはそむくが草は依然として緑である。 池要山簡馬,月淨庾公樓。 こんなところではあるが、高陽池というべき池があるから長官は、山簡の馬を迎えることでしょうし、また、庾樓に比すべきあなたの楼には月の光が清らかに照らすことだろう。 磨滅餘篇翰,平生一釣舟。 自分はあなたからもらった詩篇を持っているが、それを愛撫するあまり、それがすり減ってなくなるほどである。しかし、平生の自分は、釣り船を一艘持っている。だからあなたのところいくじゅんびはできている。 高唐寒浪減,彷彿識昭丘。 自分はあなたからもらった詩篇を持っているが、それを愛撫するあまり、それがすり減ってなくなるほどである。しかし、平生の自分は、釣り船を一艘持っている。だからあなたのところいくじゅんびはできている。 (秋日 鄭監が湖上の亭に寄題す,三首の一) 碧草 春意に逢う,沅湘 萬里秋なり。 池は要う 山簡の馬,月は淨し 庾公の樓。 磨滅 篇翰を餘す,平生 釣舟一つなり。 高唐 寒浪減じ,彷彿 昭丘を識る。 |
秋日寄題鄭監湖上亭,三首之二 (秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩)之二 新作湖邊宅,還聞賓客過。 あなたは先ごろ新たに南湖のほとりに宅を作ったそうだが、そこへ又、賓客がたくさん来るということを聞いた。 自須開竹逕,誰道避雲蘿。 あなたのことであるから、隠遁した陶潜のようにひっそりとした奥まった庭の竹の林に三徑を作られて人を向い入れているでしょう、そして、雲蘿の影に人を避けたと誰が言いましょう。 官序潘生拙,才名賈傅多。 私は、潘岳が官途の詩序に書いたように修辞を凝らした繊細かつ美しいものであるが、私にはそんなに修辞をつくすのはうまくはないが、あなたは貶謫されても賈誼のように名声は高い。 舍舟應轉地,鄰接意如何。 自分は間もなく、三峡を下って、船を乗り捨ててとどまるならば、きっとそちらで棲むことにしたい、そうしたら、あなたと隣になってくっ付いて棲みたいと思うけれどあなたはいかがなものだろうか。 (秋日 鄭監が湖上の亭に寄題す,三首の二) 新に作る 湖邊の宅,還た聞く 賓客の過ぎるを。 自ら竹逕を開かんと須【ま】つ,誰か 雲蘿に避くと道うや。 官序 潘生 拙なり,才名 賈傅 多し。 舟を舍てれば應に地を轉ずるなるべし,鄰接せんとす意 如何。 |
杜甫詩1500-1036-1534/2500
年:766年大暦元年55歲-164
卷別: 卷二三一 文體: 五言律詩
詩題: 秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三
作地點: 夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)
及地點:湖上亭 (山南東道 峽州 峽州)
交遊人物/地點:鄭審 書信往來(山南東道 峽州 峽州)
秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三
(秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩)
暫阻蓬萊閣,終為江海人。
あなたは、蓬莱仙宮のような漢の蔵書閣であったところから疎外され追いやられ遠ざかり、貶謫されて、ついに江海地方、荊蛮の地、荊州の人になった。
揮金應物理,拖玉豈吾身。
あなたが身銭をふるまって、酒宴などして他人を賑やかしてくれていたのは、物の道理にかなっていることであった。そして、私は、玉佩いをわが身に着けてひけらかして歩くような人ではない。
羹煮秋蓴滑,杯迎露菊新。
だから今度お会いしても、晉の張翰のように羹には、秋のジュンサイの滑らかなものを煮ていて、杯には、陶淵明のように露菊の花弁を浮べての酒を飲むというのが一番良いとおもっている。
賦詩分氣象,佳句莫頻頻。
それに、南湖のほとりの景色を堪能して、詩賦を作ることができれば、頻頻と佳い句が湧き出てこないということはないはずだ。
(秋日 鄭監が湖上の亭に寄題す,三首の三)
暫く阻つ 蓬萊閣,終に江海の人と為る。
揮金 物理に應ず,拖玉 豈に吾が身ならんや。
羹は煮る 秋蓴の滑なるを,杯には迎うは 露菊の新なるを。
賦詩 氣象を分たば,佳句 頻頻たらざる莫らんや。
『秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三』 現代語訳と訳註解説
(本文)
秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三
暫阻蓬萊閣,終為江海人。
揮金應物理,拖玉豈吾身。
羹煮秋蓴滑,杯迎露菊新。
賦詩分氣象,佳句莫頻頻。
詩文(含異文): 暫阻蓬萊閣【暫住蓬萊閣】,終為江海人。揮金應物理,拖玉豈吾身。羹煮秋蓴滑【羹煮秋蓴弱】,杯迎露菊新【杯凝露菊新】。賦詩分氣象,佳句莫頻頻【佳句莫辭頻】。
(下し文)
(秋日 鄭監が湖上の亭に寄題す,三首の三)
暫く阻つ 蓬萊閣,終に江海の人と為る。
揮金 物理に應ず,拖玉 豈に吾が身ならんや。
羹は煮る 秋蓴の滑なるを,杯には迎うは 露菊の新なるを。
賦詩 氣象を分たば,佳句 頻頻たらざる莫らんや。
(現代語訳)
(秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩)
あなたは、蓬莱仙宮のような漢の蔵書閣であったところから疎外され追いやられ遠ざかり、貶謫されて、ついに江海地方、荊蛮の地、荊州の人になった。
あなたが身銭をふるまって、酒宴などして他人を賑やかしてくれていたのは、物の道理にかなっていることであった。そして、私は、玉佩いをわが身に着けてひけらかして歩くような人ではない。
だから今度お会いしても、晉の張翰のように羹には、秋のジュンサイの滑らかなものを煮ていて、杯には、陶淵明のように露菊の花弁を浮べての酒を飲むというのが一番良いとおもっている。
それに、南湖のほとりの景色を堪能して、詩賦を作ることができれば、頻頻と佳い句が湧き出てこないということはないはずだ。
(訳注)
秋日寄題鄭監湖上亭,三首之三
(秋の日に秘書少監鄭審が荊州の南湖のほとりにある亭に寄せ題した詩)大暦元年55歲
鄭監 秘書少監鄭審、この時荊蛮の地に謫貶されている。・秘書少監:古代の官職。図書助の別称。
湖上亭 山南東道 峽州南湖のほとりの亭。
暫阻蓬萊閣,終為江海人。
あなたは、蓬莱仙宮のような漢の蔵書閣であったところから疎外され追いやられ遠ざかり、貶謫されて、ついに江海地方、荊蛮の地、荊州の人になった。
○蓬萊閣 華嶠《後漢書》「學者稱東觀爲老氏藏室,道家蓬萊山。」(學者 東觀を稱して老氏の藏室と爲し,道家の蓬萊山となす。)とあり、鄭監がかっていたところは、蓬莱仙宮のような漢の蔵書閣であったことを言う。杜甫《1940 秋日夔府詠懐鄭監李賓客一百韻》「羽翼商山起,蓬萊漢閣連。」とこの時の様子を詳しく述べている。鄭監は、房琯グループであったので、貶謫されたのである。
○江海人 貶謫されて荊州の人になったことを言う。
揮金應物理,拖玉豈吾身。
あなたが身銭をふるまって、酒宴などして他人を賑やかしてくれていたのは、物の道理にかなっていることであった。そして、私は、玉佩いをわが身に着けてひけらかして歩くような人ではない。
○揮金 自前の銭を揮る舞って、酒宴を開くことを言う。
○應物理 事理にかなう、物の道理にかなっていること。
○拖玉 玉佩を引く。身分地位を示す玉佩を、これ見よがしにして歩く。
○豈吾身 杜甫は、自分の地位をひけらかすこと、此処では、その地位に見合うご馳走を出してほしいとは思わないことを示していて、次句の二句に掛かってゆく語である。
羹煮秋蓴滑,杯迎露菊新。
だから今度お会いしても、晉の張翰のように羹には、秋のジュンサイの滑らかなものを煮ていて、杯には、陶淵明のように露菊の花弁を浮べての酒を飲むというのが一番良いとおもっている。
○羹煮秋蓴滑 晉の張翰の「蓴羹鱸膾」故事、故郷を懐かしく思い慕う情のこと。▽「蓴羹」は蓴菜じゅんさいの吸い物。「羹」はあつもの・吸い物。「鱸膾」は鱸すずきのなますの意。張翰ちょうかんが、故郷の料理である蓴菜の吸い物と鱸のなますのおいしさにひかれるあまり、官を辞して帰郷した故事をいう。
○露菊新 陶潜《飲酒其七》「秋菊有佳色、裹露掇其英。汎此忘憂物、遠我遺世情。」(秋菊 佳色あり、露を裹【つつ】みて其の英を採り。此の忘憂の物に汎べて、我が世を遺るるの情を遠くす。)に基づくもの。
賦詩分氣象,佳句莫頻頻。
それに、南湖のほとりの景色を堪能して、詩賦を作ることができれば、頻頻と佳い句が湧き出てこないということはないはずだ。
○分氣象 南湖のほとりの気象を分けてもらう、南湖のほとりの景色を堪能させてもらうこと。
○佳句 杜甫が作るのに、佳い句ができること。
○莫頻頻 莫は「莫不」で、詩賦が頻頻と湧き出ないということはないということ。