杜甫  存歿口號,二首之二

【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

鄭公粉繪隨長夜,曹霸丹青已白頭。

【自注:高士滎陽鄭虔善畫山水,曹霸善畫馬。】。

天下何曾有山水,人間不解重驊騮。

(死んでいったもの生きている人の事、それぞれの思いのほどを口ずさんだ詩:曹霸、鄭虔)この詩篇毎に、まず死没した人、次に生きている一人というように述べる。この時、席謙と曹霸は生きていて、畢曜、鄭虔は死没している。鄭公は玄宗から「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞されたが、既に没して長い夜を過ごしておられる。曹霸はよい絵を描くには「丹青不知老將至」と没頭してかくものだと言っていて白頭になってしまっている。【自註:人格高潔な人であり、滎陽の生まれの鄭虔は、よく山水の書画を書く。曹霸はよく馬の絵を描いている】鄭公が死没されてから、真の山水を天下に描ける人が、かつてのようにいるだろうか、曹霸は今も生きているが、世の人というもの、彼の描いた駿馬の素晴らしさを重んじ、本当の理解をすることができないのである。

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杜甫詩1500-1039-1537/2500

年:766年大暦元年55-167

卷別:    卷二三一              文體:    七言

詩題:    存歿口號,二首之一【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

交遊人物/地點:鄭虔          詩文提及

 

 

(死んでいったもの生きている人の事、それぞれの思いのほどを口ずさんだ詩:席謙と畢曜)之一

【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

この詩篇毎に、まず生きている一人、次に死没した人というように述べる。この時、席謙と曹霸は生きていて、畢曜、鄭虔は死没している。

席謙不見近彈棋,畢曜仍傳舊小詩。

席謙殿は近ごろ棋を彈いているのを見ていない、畢曜殿は死後の今なお、以前に作った小詩を世に伝えている。

玉局他年無限笑,白楊今日幾人悲。

往年、玉の棋盤に対して席謙とともに無限に笑いあったものだが畢曜の方は、彼の墓の白楊についていまだに悲しんでいるものが幾人いるだろうか、きっと自分一人だろう。

【原注】道士席謙。呉人。善彈棋。畢曜善爲小詩。

【杜甫の註】席謙は道士であり、呉の人である。よく将棋をはじいている。(生きている人)畢曜はよく小詩を作った。(死んでいった人)】

(存歿口號,二首の一)

【案:每篇 一存一歿なり。是の時 席謙、曹霸は存り、畢曜、鄭虔は歿す。】

席謙 見ず 近ごろ 棋を彈ずる,畢曜 仍ほ傳う 舊小詩。

玉局 他年 無限に笑う,白楊 今日 幾人か悲しむ。

杜甫詩1500-1040-1538/2500

年:766年大暦元年55-168

卷別:    卷二三一              文體:    七言

詩題:    存歿口號,二首之二【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

交遊人物/地點:鄭虔          詩文提及

 

 

1621存歿口號,二首之二

(死んでいったもの生きている人の事、それぞれの思いのほどを口ずさんだ詩:曹霸、鄭虔)

【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

この詩篇毎に、まず死没した人、次に生きている一人というように述べる。この時、席謙と曹霸は生きていて、畢曜、鄭虔は死没している。

鄭公粉繪隨長夜,曹霸丹青已白頭。

鄭公は玄宗から「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞されたが、既に没して長い夜を過ごしておられる。曹霸はよい絵を描くには「丹青不知老將至」と没頭してかくものだと言っていて白頭になってしまっている。

【案:自注:高士滎陽鄭虔善畫山水,曹霸善畫馬。】。

【自註:人格高潔な人であり、滎陽の生まれの鄭虔は、よく山水の書画を書く。曹霸はよく馬の絵を描いている】

天下何曾有山水,人間不解重驊騮。

鄭公が死没されてから、真の山水を天下に描ける人が、かつてのようにいるだろうか、曹霸は今も生きているが、世の人というもの、彼の描いた駿馬の素晴らしさを重んじ、本当の理解をすることができないのである。

 

 

(存歿口號,二首の二)

【案:每篇 一存一歿なり。是の時 席謙、曹霸は存り、畢曜、鄭虔は歿す。】

鄭公は粉繪し 長夜に隨う,曹霸は丹青にして 已に白頭なり。

【自注:高士 滎陽の鄭虔は善く山水を畫く,曹霸は善く馬を畫く。】。

天下 何ぞ曾て山水有らむ,人間 解せず驊騮を重んずるを。

 

 

1621『存歿口號,二首之二』現代語訳と訳註解説
(
本文)

存歿口號,二首之二

【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

鄭公粉繪隨長夜,曹霸丹青已白頭。

【自注:高士滎陽鄭虔善畫山水,曹霸善畫馬。】。

天下何曾有山水,人間不解重驊騮。


(下し文)
(存歿口號,二首の二)

【案:每篇 一存一歿なり。是の時 席謙、曹霸は存り、畢曜、鄭虔は歿す。】

鄭公は粉繪し 長夜に隨う,曹霸は丹青にして 已に白頭なり。

【自注:高士 滎陽の鄭虔は善く山水を畫く,曹霸は善く馬を畫く。】。

天下 何ぞ曾て山水有らむ,人間 解せず驊騮を重んずるを。


(現代語訳)
(死んでいったもの生きている人の事、それぞれの思いのほどを口ずさんだ詩:曹霸、鄭虔)

この詩篇毎に、まず死没した人、次に生きている一人というように述べる。この時、席謙と曹霸は生きていて、畢曜、鄭虔は死没している。

鄭公は玄宗から「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞されたが、既に没して長い夜を過ごしておられる。曹霸はよい絵を描くには「丹青不知老將至」と没頭してかくものだと言っていて白頭になってしまっている。

【自註:人格高潔な人であり、滎陽の生まれの鄭虔は、よく山水の書画を書く。曹霸はよく馬の絵を描いている】

鄭公が死没されてから、真の山水を天下に描ける人が、かつてのようにいるだろうか、曹霸は今も生きているが、世の人というもの、彼の描いた駿馬の素晴らしさを重んじ、本当の理解をすることができないのである。


(訳注)

存歿口號,二首之二

(死んでいったもの生きている人の事、それぞれの思いのほどを口ずさんだ詩:曹霸、鄭虔)

 

【案:每篇一存一歿。是時席謙、曹霸存、畢曜、鄭虔歿。】

この詩篇毎に、まず死没した人、次に生きている一人というように述べる。この時、席謙と曹霸は生きていて、畢曜、鄭虔は死没している。

 

鄭公粉繪隨長夜,曹霸丹青已白頭。

鄭公は玄宗から「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞されたが、既に没して長い夜を過ごしておられる。曹霸はよい絵を描くには「丹青不知老將至」と没頭してかくものだと言っていて白頭になってしまっている。

鄭公 国子監博士で玄宗から「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞された人物で滎陽の人

粉繪 ごふん、絵具と書をいう。

隨長夜 死んでしまって黄泉の世界に長夜している。

曹霸 唐の左武衛将軍曹覇をいう、覇は魏の曹髦の子孫〔曹操の曾孫・高貴郷公と呼ばれ、後に司馬昭に殺されたが、文学を好み、ことに絵画に巧みであった。〕である。特に馬をよく書く。曹霸(704770郡人,唐沛国(今亳州市)人,魏武王曹操后代、曹魏高贵乡公曹髦后人,官左武。唐玄宗期画家,能文善画,人甚至以其祖先“三曹”比之,有“文如植武如操字画抵丕流” 之美誉。

丹青已白頭 《巻十三69 丹青引、贈曹将軍覇》「丹青不知老將至,富貴於我如浮雲。図画は最も好まれる所で画のためには『論語、述而』にいう身に年の寄ることさえうち忘れるというものであり、、さらに、富貴なんぞは自分にとっては浮雲の大空をすぎるがごとくなんでもないものとみておられるのである。

○不知老將至、富貴於我如浮雲 これもまた「論語、述而」に本づく、以上は曹覇の家世と書画の能事とを叙する。《論語注疏述而》子曰:「女奚不曰,其為人也,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至云爾。」・・・「不義而富且貴,於我如浮雲。」に基づいている。

 

【案:自注:高士滎陽鄭虔善畫山水,曹霸善畫馬。】。

【自註:人格高潔な人であり、滎陽の生まれの鄭虔は、よく山水の書画を書く。曹霸はよく馬の絵を描いている】

高士の用語解説 - 1 志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。「高士世に容()れられず」2 世俗を離れて生活している高潔な人物。隠君子。

 

天下何曾有山水,人間不解重驊騮。

鄭公が死没されてから、真の山水を天下に描ける人が、かつてのようにいるだろうか、曹霸は今も生きているが、世の人というもの、彼の描いた駿馬の素晴らしさを重んじ、本当の理解をすることができないのである。

有山水 曾ては山水画の三筆は,王維、畢宏()、鄭虔とされていて、そろっていた(が、いまは三人とも死没して、あれほどの滻水を描ける者はいないということ。)

不解 本当の理解をすることができない

驊騮 周の穆(ぼく)王が天下巡幸に用いた,一日千里を走るという駿馬の名。転じて,駿馬、名馬。

 

○鄭 虔(生没年不詳)は、唐代玄宗朝の学者。詩、書、画に長け、多くの著書をものしたが、貧困にあえいだ。のち、安史の乱において燕に降伏し、官職を受けたため、乱後に左遷された。杜甫と特に親交があった。

鄭州の滎陽の出身。地理や地形、地方の物産、各地の兵の数について詳しかった。高官であった蘇挺と年齢を越えた交わりを結び、その推薦を受けた。天宝元年 742年、協律郎に就任し、80以上の著書を書き上げたが、その著書に国史を私撰した部分があるという上書が出されたことで、10年間地方に流された。長安に戻ってからも、玄宗からその才能を愛され、広文館の博士に任命され、国子司業の蘇源明と交流があった。山水画、書道、詩作に長じ、玄宗にそれを献上し、「鄭虔三絶(詩、書、画)」と賞され、著作郎に移った。

天宝14載(755年)、安史の乱が勃発すると、燕の軍に捕らえられて洛陽に移され、安禄山側の水部郎中に任命された。密かに粛宗の唐側に通じたが、至徳2載(757年)、安慶緒の洛陽逃亡の際に、張通と王維とともに、燕に降伏した罪で宣陽里に閉じこめられた。3人とも画に長じていたため、崔圓によって、壁画を描かせられ、死罪を免れ、台州の司戸参軍事に落とされた。その数年後に死去している。

官職に就いた時でも貧困のままで、紙に不足することもあった。そのため、杜甫の詩に、「才名四十年、坐客寒にして氈(敷物)無し」と詠まれている。杜甫、李白ともに詩酒の友であったと伝えられる。

その画について、王維、畢宏とともに三絶と呼ばれた。晩唐の朱景玄も『唐朝名画録』において、第七位「能品上」に評価している。

 

 

○畢宏

木と石の画に長けており、松石図を門下省の壁に描き、杜甫など多くの詩人に詩で称えられた。当代において、その画の名声は高く、樹木の画法に変革を行ったと伝えられる。

大歴2年(767年)、給事中となり、その後、京兆少尹に移り、太子左庶子となった。

その画は、「唐朝名画録」において、第七位「能品上」に評価されている。

 

○曹霸

《巻十三69 丹青引、贈曹将軍覇》

將軍魏武之子孫,於今為庶為清門。英雄割據雖已矣,文彩風流猶尚存。

學書初學衛夫人,但恨無過王右軍。丹青不知老將至,富貴於我如浮雲。』

#2

開元之中常引見,承恩數上南熏殿。淩煙功臣少顏色,將軍下筆開生面。

良相頭上進賢冠,猛將腰間大羽箭。褒公鄂公毛發動,英姿颯爽來酣戰。』

#3

先帝天馬玉花驄,畫工如山貌不同。是日牽來赤墀下,迥立閶闔生長風。

詔謂將軍拂絹素,意匠慘澹經營中。須臾九重真龍出,一洗萬古凡馬空。』

#4

玉花卻在禦榻上,榻上庭前屹相向。至尊含笑催賜金,圉人太僕皆惆悵。

弟子韓幹早入室,亦能畫馬窮殊相。幹惟畫肉不畫骨,忍使驊騮氣凋喪。』

#5

將軍畫善蓋有神,必逢佳士亦寫真。即今飄泊干戈際,屢貌尋常行路人。

途窮反遭俗眼白,世上未有如公貧。但看古來盛名下,終日坎壈纏其身。』

 

(左武衛将軍曹覇が画技に妙を得て、しかも時世に遇わぬ次第をのべた歌で曹覇に贈ったもの。)

○丹青引 丹青は画をいうが基本の色である丹の赤と青とでかかれたことからくる、引は歌の一種である。

○曹将軍覇 唐の左武衛将軍曹覇をいう、覇は魏の曹髦の子孫〔曹操の曾孫・高貴郷公と呼ばれ、後に司馬昭に殺されたが、文学を好み、ことに絵画に巧みであった。〕である、髦は画を以て魏の代に称せられた、覇は玄宗の開元中にすでに有名になり、天宝の末には詔によって御馬及び功臣の像を写した。官は左武衛将軍に至った。

この一代の名人も、安史の乱後は、おちぶれて蜀の地に流れて来ていた。作者はこの人の不遇に同情し、あわせて自身の感慨を托したのである。

 

將軍魏武之子孫,於今為庶為清門。

曹将軍は魏の武帝の子孫であって、今では普通人であるが上品な家がらの人である。

○将軍 曹覇をさす。左武衛将軍曹覇(そうは)は、三国志に登場する曹操の曾孫で、文学を好みことに絵画に才能を発揮した。唐の時代、度々宮中に呼ばれ、建国の功臣たちの肖像画が歳月と共に色あせてきたのでその修復を命じられた。曹覇がひとたび筆を下ろすと、たちまち生き生きとした相貌をあらわした。勇将たちは毛髪も動き出すかと思われ、その颯爽とした英姿は、たった今、戦場から出てきたかのように思われた。また名馬を描いては真の名馬が再現され、古来描かれてきた平凡な馬を完全に一洗した。それはその絵に魂がこもっているからだ。また立派な人物に出逢ったら、きっとその真の姿を写しだすだろう。(落詩選杜甫、目加田誠訳)“必逢佳士亦写真”これが文献に出て来た最初の「写真」で、今から1250年前なのだ。

○魏武 魏の武帝曹操をいう、操の後商が髦となり、髦の後商が覇となったのである。

○於今為庶 「左伝」(昭公三十二年)に、晋の史墨が璃簡子に答えたことばに、「三后の姓、今に於て庶たるは、主の知る所なり」とみえる。三后は虞・夏・商の君である、昔三王の姓であったものも其の子孫となれば耗簡子の時代には庶人となったというのである、庶人は普通の人民をいう。玄宗の末年に覇が罪を得て籍を削られ庶人とされたことを引いているが、それまでを引くのはどうであろうか。作者の意は曹覇は昔ならば国姓の家すじにあたるはずの人であるが、唐の今では同姓は「李」であるので、ただの人民であるというにとどまるであろう。

○清門 上品の家がら。

 

英雄割據雖已矣,文彩風流猶尚存。

だから三権鼎立という英雄割拠といわれるようなことはもはやなくなってしまったが、お家がらの文彩風流は今日までまだのこっているのである。

○英雄割拠 魏の曹操は蜀の劉備、呉の孫権と天下を三分して相い争ったことをさしていう。

○文彩風流  曹操は武人でありながら、詩賦をよくし、風流の心がけがあった。その子曹丕・曹値もみな一流の詩人であった。

 

學書初學衛夫人,但恨無過王右軍。

実証をあげると、将軍は初め衛夫人の書を学ばれて書もなかなか素晴らしく、王右軍(王義之)以上に評価されないのが恨めしいというくらいである。

○学書 書は文字の書法。

○衛夫人 晋の衛鑠、字は茂猗、廷尉展の妹で恒のめいにあたり、汝陰の太守李矩に嫁した、隷書にはなはだすぐれ魂の鍾繇を手本とした、王右軍は若いとき嘗て彼女を師としたことがある、永和五年(西紀349年)に卒した。

○王右軍 晋の右軍将軍・会稽内史王義之をいう。義之、字は逸少、家より起こって秘書郎となり、のち右軍将軍に至った。古今の書聖として知られる。義之の父は王曠といい王導の従弟である、曠は衛氏と親戚の関係によって衛鑠より蔡邕の書法を得て、これを子の義之に授けた。

 

丹青不知老將至,富貴於我如浮雲。

図画は最も好まれる所で画のためには『論語、述而』にいう身に年の寄ることさえうち忘れるというものであり、、さらに、富貴なんぞは自分にとっては浮雲の大空をすぎるがごとくなんでもないものとみておられるのである。』

○不知老將至、富貴於我如浮雲 これもまた「論語、述而」に本づく、以上は曹覇の家世と書画の能事とを叙する。

《論語注疏述而》子曰:「女奚不曰,其為人也,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至云爾。」

《論語注疏述而》「不義而富且貴,於我如浮雲。」
746廣徳2764年―3-1 《丹青引,贈曹將軍霸》 蜀中転々 杜甫 <652  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3590 杜甫詩1000-652-912/1500 7461