上後園山腳#3 杜詩詳注(卷一九(四)一六四七)
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2017年2月4日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
744年-045卷161_8 陌上贈美人(卷二五(二)一四七八)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8111 |
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744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-68#3 上後園山腳#3 杜詩詳注(卷一九(四)一六四七)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8113 |
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767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山腳・c季夏送鄉弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集訳注解説 (92)回目韋莊二十二首-1《巻二28 浣溪沙五首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8114 (02/04) |
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Blog |
91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03) |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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767年-68#3 上後園山腳#3 杜詩詳注(卷一九(四)一六四七)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8113
それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。
767年-068 - |
上後園山腳卷一九(四)一六四七#3 |
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杜詩詳注巻1910 |
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全唐詩221-38 -#3 |
767年大暦2年56歲 (68) - |
漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ8113 |
作時年: | 767年 | 大暦2年 | 56歲 |
全唐詩 | 221-38 -#3 | 文體: | 五言古詩 |
杜詩詳注 | 巻1910 | 卷一九(四)一六四七 - | |
詩題: | 上後園山腳 | ||
序文 | |||
作地點: | 目前尚無資料 | ||
及地點: | 隴首山 (隴右道東部 秦州 秦州) | ||
劍門山 (劍南道北部 劍州 劍門) 別名:蜀門 | |||
蘇門山 (河北道南部 衛州 蘇門山) | |||
上後園山腳 #1
(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)
朱夏熱所嬰,清旭步北林。
真夏は熱気にとりつかれるのでたまらぬから自分は朝日のすずしいときに北の林に散歩する。
小園背高岡,挽葛上崎崟。
小さな庭園の背後に高い岡がある。自分は葛の蔓につかまってそのけわしいところへのぼる。
曠望延駐目,飄颻散疏襟。
そこには、遠方のひろいながめがあり、そのなかでも自分の注視を呼んでくれる景色があり、いい気持ちでふわふわと襟もとを風に吹かせる。
潛鱗恨水壯,去翼依雲深。
淵にひそんでいる魚は水勢のさかんなせいで泳ぎだせないのを恨んでる様だし、飛び去る鳥はおくふかい雲に依りそうように飛んでゆく。
#2
勿謂地無疆,劣於山有陰。
天下の地面には際限がないなどと謂うものではない。いま、この天下は広いといってもここの山にこの山陰の園が有ることそのものがもっとわるいのではなかろうか。
石榞遍天下,水陸兼浮沈。
安史の乱から、いわば天下じゅう、隅々までが穀物のできない石原みたいなものになってしまい、人民は水にも溺れ沈み、陸ながらも沈没しているとおなじことになっている。
自我登隴首,十年經碧岑。
自分は西の辺境、隴山の首にのぼりだしてから、もう十年ばかり、青山を経歴し、旅客している。
劍門來巫峽,薄倚浩至今。
隴から剣門・成都へ、剣門・成都から巫峡へ、拙と疾とにとりつかれてあのときからすっと今日におよんでいるのである。
#3
故園暗戎馬,骨肉失追尋。
それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。
時危無消息,老去多歸心。
社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。
志士惜白日,久客藉黃金。
志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。
敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。
だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。
(後園の山腳に上る)
朱夏 熱 嬰る所なり,清旭に 北林に步す。
小園 高岡をに背す,葛を挽きて 崎崟たるに上る。
曠望 駐目を延く,飄颻 疏襟を散ず。
潛鱗 水の壯なるを恨み,去翼 雲の深きに依る。
#2
謂う勿れ 地 疆【かぎ】り無しと,山の陰有るよりも劣れり。
石榞【せきげん】天下に遍し,水陸 兼て 浮沈す。
我が隴首に登りしより,十年 碧岑を經る。
劍門より 巫峽に來る,薄倚 浩として今に至れり。
#3
故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。
時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。
志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。
敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。
『上後園山腳』現代語訳と訳註解説
(本文)
#3
故園暗戎馬,骨肉失追尋。
時危無消息,老去多歸心。
志士惜白日,久客藉黃金。
敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。
(下し文)
#3
故園 戎馬暗し,骨肉 追尋を失す。
時危くして 消息無く,老去って 歸心多し。
志士 白日を惜み,久客 黃金に藉【よ】る。
敢て蘇門の嘯を為さんや,庶わくば 〈梁父の吟〉を作さん。
(現代語訳)
#3
それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。
社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。
志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。
だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。
(訳注)#3
上後園山腳
(瀼西の居宅の北にある農園の山麓にのぼったときの詩。)
故園暗戎馬,骨肉失追尋。
それに、故郷は戎馬の濛塵により暗いままであり、兄弟親族のものも尋ねるすべを失ったままなのである。
23 故園 故郷。
24 暗戎馬 安史の乱によるものと、それが収まって、謀叛、叛乱、叛起等が増加したことを言う。
25 骨肉 兄弟、肉親の消息。
時危無消息,老去多歸心。
社会が混乱していて、危くてすこしも消息が無いのでどうしようもないというのに、老いゆくままに歸郷の念ばかり多くなってゆくのである。
26 時危無消息 社会が混乱していて、特に駅伝制に乱れが起こったことで、書簡の往復がむつかしい状況が続いているのである。死んでしまったから消息がないのか、社会の混乱によって消息が取れないのか、この時杜甫はわかっていない。
志士惜白日,久客藉黃金。
志士は白日の去るのを惜むというものであるというけれど、こうして長ながの旅人としているものにとっては、人から黄金をみついでもらってやつとこの日をすごしているのである。
27 藉黃金 金は金銭で、月給といえるものをもらっていたようで、この時杜甫は柏中丞から月ごとに金銭をもらっていたことをしめすものだ。
敢為蘇門嘯,庶作〈梁父吟〉。
だからといって、決して、道家の導氣之術などを学んで孫登がした様な「蘇門長嘯」をして、道教の隠遁者のまねをしようとはおもわぬが、願うことなら、畑を耕し、諸葛亮が鍬を担いで「梁父吟」を歌っていて、「三顧の礼」出迎えられたようなことはできればそうなりたいとは願って居るところである。
28 蘇門嘯 蘇門長嘯の故事のこと。魏の阮籍が薊門山にのぼり、孫登に遭遇、ともに古今のこと、道家の導氣之術などを談義しようとしたが、孫登はこれに答えようとはしなかった。阮籍は 長嘯して、その場を退き、山を下り始めた。半ば下りかけたころ、天空に声がした。それは鸞鳳の声かとおもったが、孫登の長嘯であった。ここでは、孫登の隠者風なことを形容するものである。また、この頃までは、隠者を訪ねて逢えないものというものというのが隠者の形容であった。「隠者不遇」と「蘇門長嘯」とは同類の語である。
《晉書·卷四十九·阮籍傳》「阮籍曾於蘇門遇孫登, 談論道家導氣之術, 登皆不應答, 籍因此長嘯而退。 行至半嶺, 聞山谷中傳出有若鸞鳳的聲音, 乃是孫登之嘯。 」( 阮籍 曾て於蘇門に孫登遇,道家の導氣之術を談論す, 登 皆 應答せず, 籍此因にり長嘯して退く。行きて半嶺に至り,山谷に中って傳出する 鸞鳳の聲音の若く有るを聞き, 乃ち是れ孫登の嘯なり。)にみえる。 後 以て蘇門長嘯を形容するのは高傲或は嘯傲 不羈とする態度をいう。
29 梁父吟 梁甫吟は古楽府題の一つ。相和歌楚調曲に梁父吟行とあって、その由来は戦国の武侯が好んで詠ったものといわれる。梁甫は、梁父とも書き、むかしの斉の国、いまの山東省の、泰山のふもとにある、570mの小さな山の名である。そこは、古代の迷信では、死者のたましいの帰る場所とされていた。「梁甫吟」はもともと、葬いの歌であったという。また、骨子(孔子の弟子)の作ったものであるという。骨子が泰山のふもとに耕していたところ、天が大雪をふらし、凍ること旬日、帰ることができず、その父母を思って、巣山歌を作ったと、「琴挽」という本に見える、それが「梁甫吟」の起源であるという。現在「楽府詩集」に収められている一首は、「三国志」の立役者である諸葛亮(孔明)の作と伝えられている。それは次の歌である。
諸葛亮(孔明)「梁甫吟」
歩出斉城門、遥望蕩陰里。里中有三墳、塁塁正相似。
問是誰家墓、田疆古冶子。力能排南山、文能絶地紀。
一朝被讒言、二桃殺三士。誰能為此謀、国相斉晏子。
歩して斉の城門を出で 遥に蕩陰の里を望む
里中に三墳有り 塁塁として正に相似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ 田疆古冶氏
力を能く南山を排し 文を能く地紀を絶つ
一朝 讒言を被りて 二桃 三士を殺す
誰か能く此の謀を為せる 国相斉の晏子なり
現代訳
梁甫の歌;
斉の城門を歩いて出て、遠くに蕩陰(地名)の村を眺めるとそこにお墓が三基ある 並んで立っていて、よく似ていた。
これはどちらのお墓ですかと聞いてみた。
これが有名な公孫接・田開彊・古冶子のお墓です。
三人は南山を動かすほど力が強く、大地の四隅を繋ぐ紐を切るほど学問もできる人たちでした
ところが、ひとたび、讒言を言われ、二つの桃でもって三人を殺してしまった。
誰がこんなはかりごとをしたのですか? それは斉の宰相の晏嬰です
これは、詭計をもちいて人を殺した、斉の量子の故事をうたったものである。「力排南山三壯士。齊相殺之費二桃」参照。李白のこの詩は、その故事をふくみつつ、主題を少しかえ、不遇の志士の時機到来を待つ気持をうたいあげる。
梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643
・諸葛亮 (181-234)字は孔明、陽都(山東折水県の南) の人。蜀漢の名臣で、三国時代第一流の人物。劉備三顧の礼に感激して襄陽(湖北省)の隠居を出で、曹操を赤壁に破って丞相となり、劉備の死後はその千割禅を助けて幾を討ったが、陣中に病没した。その 「出師表」は赤誠の発露と文品の高いのによって称せられる。
李白も同様に作っている。
155-#1 《巻02-04 梁甫吟 -#1》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <155-#1> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323 |
杜甫 《1347》登樓
花近高樓傷客心,萬方多難此登臨。
錦江春色來天地,玉壘浮雲變古今。
北極朝廷終不改,西山寇盜莫相侵。
可憐後主還祠廟,日暮聊為梁甫吟。
(楼に登る)
花 高楼に近うして 客心を傷ましむ、万方 多難 此に登臨す。
錦江の春色 天地より来たり、玉塁の浮雲古今 変ず。
北極の朝廷は終に改まらず、西山の寇盜 相い侵すこと莫れ。
憐む可し後主 還た祠廟、日暮 聊か梁父の吟を為す。
廣徳2年764-94 《巻13-47登樓》 杜甫index-14 764年登樓 杜甫<766>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4415 杜甫詩1500-766-1054/25001
杜甫 《巻14-24初冬》初冬
垂老戎衣窄,歸休寒色深。漁舟上急水,獵火著高林。
日有習池醉,愁來〈梁甫吟〉。干戈未偃息,出處遂何心。
(初冬)
垂老 戎衣窄【せま】し,歸休すれば 寒色深し。漁舟 急水を上り,獵火 高林に著く。
日に 習池の醉有り,愁い來れば〈梁甫吟〉をす。干戈 未だ偃息せず,出處 遂に何の心ぞ。
《1917諸葛廟》
久遊巴子國,屢入武侯祠。竹日斜虛寢,溪風滿薄帷。
君臣當共濟,賢聖亦同時。翊戴歸先主,并吞更出師。
蟲蛇穿畫壁,巫覡醉蛛絲。欻憶吟梁父,躬耕也未遲。
(諸葛廟)
久しく遊ぶ巴子の国、屡々入る武侯の祠。竹日 虚寝に斜めに、渓風薄唯に満つ。
君臣 共済に当たる、賢聖 亦た時を同じくす。翊戴 先主に帰す、併呑 更に師を出す。
虫蛇 画壁を穿つ、巫覡 蛛糸に酔う。欻ち憶う 梁父を吟ぜしを、窮耕するも 也た 未だ遅からず。