767-130五律  洛陽(卷一七(四)一五二五)

 

 

2017616

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745年-07 【字解集】007 a.過四皓墓 b.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招 c.鳴皋歌奉餞從翁清歸五崖山居Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8903

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745年-06 【字解集】006 【字解集】 a.寓言三首  b.登廣武古戰場懷古 c.單父東樓秋夜送族弟沈之秦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8844

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

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・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-3 805年陽山から江陵36

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index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

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index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

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767年-集-17 【字解集】  ・解悶十二首 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8882

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

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767-130五律  洛陽(卷一七(四)一五二五)五律 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8917

(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

一昔になるが、洛陽が安史軍に陥落させられ、瞬く間に異民族連合の安史軍は圧倒的優位にあった王朝軍をやぶって潼關に侵入したのである。その時、天子玄宗は、都を棄て、途中、楊貴妃に自殺を命じ、初めて悲愁な思いをされたのである、突然の出奔に、残された長安、洛陽の都の人々は、愕然とした顔つきをしたのである。それは、異民族の吹く胡笳が清らかな朝聞こえてくるときに宮殿の門を去られたのである、翡翠の羽で飾られた天子の御輦は蜀道の関所を越え、蜀に逃避されたのである。東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

767-0130 -

 洛陽(卷一七(四)一五二五)19 五律

杜詩詳注巻1757

全唐詩卷二三○ -19 五律

767年大暦256  (130) -

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ8917

全唐詩卷二三○ -18

767年大暦256  (129) -

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ8911


唐時代剣南道北部075 

(夔州抒情詩八首)

  卷230_13 《洞房》

  洞房環佩冷,玉殿起秋風。秦地應新月,龍池滿舊宮。

  系舟今夜遠,清漏往時同。萬里黃山北,園陵白露中。

  卷230_14 《宿昔》

  宿昔青門裏,蓬萊仗數移。花嬌迎雜樹,龍喜出平池。

  落日留王母,微風倚少兒。宮中行樂秘,少有外人知。

  卷230_15 《能畫》

  能畫毛延壽,投壺郭舍人。每蒙天一笑,複似物皆春。

  政化平如水,皇恩斷若神。時時用抵戲,亦未雜風塵。

  卷230_16 《鬥雞》

  鬥雞初賜錦,舞馬既登床。簾下宮人出,樓前禦柳長。

  仙遊終一閟,女樂久無香。寂寞驪山道,清秋草木黃。

  卷230_17 《鸚鵡(一作翦羽)》

  鸚鵡含愁思,聰明憶別離。翠衿渾短盡,紅觜漫多知。

  未有開籠日,空殘舊宿枝。世人憐複損,何用羽毛奇。

  卷230_18 《歷歷》

  歷歷開元事,分明在眼前。無端盜賊起,忽已時遷。

  巫峽西江外,秦城北斗邊。為郎從白首,臥病數秋天。

  卷230_19 《洛陽》

  洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。天子初愁思,都人慘別顏。

  清笳去宮闕,翠蓋出關山。故老仍流涕,龍髯幸再攀。

  卷230_20 《驪山》

  驪山望幸,花萼罷登臨。地下無朝燭,人間有賜金。

  鼎湖龍去遠,銀海雁飛深。萬蓬萊日,長懸舊羽林。

  卷230_21 《提封》

  提封漢天下,萬國尚同心。借問懸車守,何如儉德臨。

  時征俊乂入,草竊犬羊侵。願戒兵猶火,恩加四海深。

 

作時年:

767

大暦2

56

全唐詩

卷二三○ -19 五律

文體:

五言律詩

杜詩詳注

1757

 -

詩題:

 洛陽(卷一七(四)一五二五)

序文

 

作地點:

目前尚無資料

及地點:

洛陽 (都畿道 河南府 洛陽別名:洛城、洛、東洛、洛邑、京洛、河洛、洛下

潼關 (京畿道 華州 潼關)

0

 

交遊人物:

 

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洛陽 函谷関002 

洛陽

(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。

一昔になるが、洛陽が安史軍に陥落させられ、瞬く間に異民族連合の安史軍は圧倒的優位にあった王朝軍をやぶって潼關に侵入したのである。

天子初愁思,都人慘別顏。

その時、天子玄宗は、都を棄て、途中、楊貴妃に自殺を命じ、初めて悲愁な思いをされたのである、突然の出奔に、残された長安、洛陽の都の人々は、愕然とした顔つきをしたのである。

清笳去宮闕,翠蓋出關山。

それは、異民族の吹く胡笳が清らかな朝聞こえてくるときに宮殿の門を去られたのである、翡翠の羽で飾られた天子の御輦は蜀道の関所を越え、蜀に逃避されたのである。

故老仍流涕,龍髯幸再攀。

東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

 

(洛陽)

洛陽 昔 陷沒して,胡馬 潼關を犯さる。

天子 初めて愁思し,都人 別顏慘なり。

清笳 宮闕より去り,翠蓋 關山を出ず。

故老 仍りて 流涕す,龍髯 幸に再び攀ず。

 

 

  洛陽

洛陽昔陷没、胡馬犯潼①。天子初愁思、/都人慘顔。

清笳去闕③、翠盖出山④。故老仍流涕⑤、龍髯幸再攀⑥

此歎西狩之事也。上四、敘幸蜀之由。下四、記還京之事。顔流涕上下相應。禄山於天寳

十四年十二月、陷東京所謂洛陽没也。次年六月七日、靈寳敗績、賊入潼所謂犯潼也。 

是夕、平安火不至、明皇懼而謀幸蜀、所謂初愁思也。十三日、帝出延秋門、至咸陽驛、

而従官駭散、所謂慘顔也。至徳二年九月、郭子儀收復西京、賊衆夜遁、所謂去闕也

十月、肅宗入長安、上皇發蜀郡所謂出山也。十二月、上皇至自蜀、百姓舞抃路側曰:

「不圖今日、復見二聖。」 所謂故老流涕、龍髯再扳也。 此敘出狩還之事、首尾詳明、

真可謂詩史矣。 《杜臆》初愁思、盖向不知愁者。流涕攀髯、則開元美政、去國仁言、

真足以繫人心者。 考唐史、帝之出奔、經過左蔵、楊國忠請焚之、

上曰:「賊来無得、必更斂百姓、不如與之、無重困赤子。」 上、既過便橋、國忠使人焚橋、

上曰:「人各避賊求生、奈何絶其路?」留髙力士撲滅之、皆去國之仁言也。

① 邵注:「洛陽屬河南府、唐髙宗以此為東都。 潼在陜西 西安府華隂縣乃秦要地。

前凉主實書、忽聞北地陷没、逼長安。  古詩胡馬 北風。

 馬融《與謝伯世書》憤憤愁思。

③ 杜摯《笳賦》:操笳揚清。謝朓詩:寥戾清笳轉。梁鴻歌:闕崔巍兮。江淹《恨賦》山無極。

④ 《髙唐賦》:以翠羽為盖。 《淮南子》:翠盖。

⑤ 《晉書・懐帝紀》故老或歔欷流涕。

⑥ 《前漢・郊祀志》黄帝首山銅、鑄鼎於下。 鼎既成、有龍垂胡髯下迎。

黄帝上騎、羣臣後七十餘人従上、龍乃去。 餘小臣不得上、迺悉持龍髯。

龍髯拔墮、墮黄帝之弓、百姓乃抱其弓與龍髯號。 後世因名其處曰鼎湖、弓曰烏號。

 

 

《洛陽》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
洛陽

洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。

天子初愁思,都人慘別顏。

清笳去宮闕,翠蓋出關山。

故老仍流涕,龍髯幸再攀。

 

(下し文)
(洛陽)

洛陽 昔 陷沒して,胡馬 潼關を犯さる。

天子 初めて愁思し,都人 別顏慘なり。

清笳 宮闕より去り,翠蓋 關山を出ず。

故老 仍りて 流涕す,龍髯 幸に再び攀ず。

 

(現代語訳)

(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

一昔になるが、洛陽が安史軍に陥落させられ、瞬く間に異民族連合の安史軍は圧倒的優位にあった王朝軍をやぶって潼關に侵入したのである。

その時、天子玄宗は、都を棄て、途中、楊貴妃に自殺を命じ、初めて悲愁な思いをされたのである、突然の出奔に、残された長安、洛陽の都の人々は、愕然とした顔つきをしたのである。

それは、異民族の吹く胡笳が清らかな朝聞こえてくるときに宮殿の門を去られたのである、翡翠の羽で飾られた天子の御輦は蜀道の関所を越え、蜀に逃避されたのである。

東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

 

(訳注) 
洛陽

57.(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

安禄山の乱と杜甫 を参照。

 

洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。

一昔になるが、洛陽が安史軍に陥落させられ、瞬く間に異民族連合の安史軍は圧倒的優位にあった王朝軍をやぶって潼關に侵入したのである。

58. 洛陽昔陷沒 安史軍によって洛陽が攻め音さえたこと。

755 天宝十四年11月 9日、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。

755 1116日-朝廷では安西節度使封常清を召して対策を下問。封常清を先鋒部隊の大将として洛陽に進発させた。
755
 12月 2日-高仙芝が総司令官として東に向かった。

755 12月 6日-陳留(河南省開封の陳留)陥落。

755 1210日-鄭州(河南省許昌の鄭県)陥落。

755 1213日-洛陽陥落。敗れた封常清は、高仙芝とともに洛陽と長安の間にある潼関で安禄山軍をくい止めようとしたが、監軍(目付)として従っていた嘗者の辺令誠の蔑言により、両名は玄宗より死を賜わった。そのあとは河西・院右の節度使哥舒翰に引き継がれた。12月翌年の618日には長安に入城する。

59. 胡馬 ウイグルの傭兵を多く含んだ安禄山と史忠明の連合で、乱を起こしたために、安史軍、安史の乱という。

60. 潼關 潼關の闘い、756年天宝十五載の六月九日哥舒翰は守戦が利として反対する。北地で戦っていた郭子儀と李光弼も守るべきと上奏したが、楊国忠が強硬に言い張り玄宗も同意した。何度も出撃命令の使者を送られた哥舒翰は慟哭したが、20万の兵を率い潼関から出た。安禄山軍の武将・崔乾祐と交戦するが、伏兵にあい大敗。潼関に退却し、敗残兵8千を率いて再戦を試みるが、武将の火抜帰仁が裏切ったために捕らえられる。火抜帰仁は、安禄山軍の田乾真に降伏し、哥舒翰は洛陽に送られる。杜甫《巻五08述懐》「去年潼関破、妻子隔絶久。」(去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。)去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
去年756年天宝十五載、即ち至徳元載をさす、至徳の改元は七月である。〇潼関破 756年天宝十五載の六月九日、哥舒翰が王朝軍、叛乱軍の倍の数の軍を率いて絶対破れないとされていた潼関において、叛乱軍に大敗し、捕えられたことをいう。○隔絶 杜甫の妻子は鄜州の羌村に寄寓させてあった。両者の間がへだたることをいう。逢うためには、う回路の峻険な山道を通らなければならない。

述懐 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 178

 

天子初愁思,都人慘別顏。

その時、天子玄宗は、都を棄て、途中、楊貴妃に自殺を命じ、初めて悲愁な思いをされたのである、突然の出奔に、残された長安、洛陽の都の人々は、愕然とした顔つきをしたのである。

61. 天子初愁思,都人慘別顏 潼關の戦いは、敗北を全く予想だにしていなかったため、唐王朝、長安の人々は大パニックに陥った。唐朝廷は、楊国忠の進言により、756613日、宮廷を脱出する。次の朝には、朝廷には、上級官僚以上は誰もいなくなっていた。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗は自殺を銘ず、その意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる。失意の中、玄宗は退位した。このことを「初愁思」と表現し、残された長安の人々は「都人慘別顏」と表現したもの。

皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。

 

清笳去宮闕,翠蓋出關山。

それは、異民族の吹く胡笳が清らかな朝聞こえてくるときに宮殿の門を去られたのである、翡翠の羽で飾られた天子の御輦は蜀道の関所を越え、蜀に逃避されたのである。

62. 清笳去宮闕 「清笳」は756618日、安史軍が朝方から長安に入朝したことをいう。

63. 翠蓋 翡翠の羽で飾られた天子の御輦。

64. 關山 辺地の関所のある山。この場合、蜀道を意味し、玄宗の職への逃避を意味する。

 

故老仍流涕,龍髯幸再攀。

東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

65. 故老 長安陥落は潼關で哥舒 翰が大敗、長安脱出に、残された老人たちのこと。

66. 流涕 激しく泣くこと。

67. 龍髯幸再攀 龍髯は三皇五帝の黄帝、五帝の第一。炎帝(神農氏)の末に蚩尤(しゆう)の乱を平らげて天子となり、衣服、舟車、家屋、弓矢などの生活用具を初めてつくるとともに、文字、音律、暦などを制定し、また薬草を試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王とされる。この黄帝伝説は『書経』『詩経』などの古文献にはみえず、戦国末の五行説の流行に伴って、先行の各種の神話伝説を基に徐々に形成された比較的新しいものである。また、道家末流によって老子に先だつ開祖とされ、その所説に付会した書がつくられて、漢初には「黄老の学」が流行した。後漢(ごかん)以降は神仙術や道教と結んで神格化された。その黄帝が龍の髯をつかまり天に昇ったことに、多くの天子の崩御の事に用いた、道教を重んじた玄宗を喩え、また、玄宗は龍にかかわる多くの故事があり、喩えられた。黄帝の事は、《前漢・郊祀志》黄帝、首山の銅をり、鼎を山の下に鑄る。 鼎、既に成る、龍有り胡髯を垂れて下り迎う。黄帝騎りて上る、羣臣、後七十餘人従いて上つる、龍に乃りて去る。 餘の小臣は得ずしれ上る、迺悉龍髯を持つ。龍髯拔けて墮す、黄帝之弓を墮す、百姓乃ち其の弓と龍髯とを抱きて號す。 後世、因て其處を名けて鼎湖と曰い、弓を烏號と曰う。と見える。