767-131五律   驪山(卷一七(四)一五二六)


 

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

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767年-集-17 【字解集】  ・解悶十二首 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8882

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

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杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

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767-131五律   驪山(卷一七(四)一五二六)五律 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8923
(驪山を開発して、離宮華清宮、温泉宮をつくり、毎年のように避寒に御幸行した玄宗の崩御を追懐して詠った)

冬に必ず驪山に行幸していた玄宗を待望することが絶えた、興慶宮の花萼相輝之樓で執務されていたがもう登られることもなくなった。死んでる人の黄泉の国は参朝することもないので、臣下を照らす燈燭もいらないし、生存している人人のあいだには、遺言により、王侯百官に恩賜さられた金があるので心配がない。黄帝の時のように鼎湖では龍が遠く去ってしまい、御陵の墓穴の廣堂では水銀の海に、底深いところで金雁がとんでいる。ただ御生前の時大明宮の蓬莱殿を照らした太陽は、万歳の後も長く元の羽林軍、いまの護陵軍の上にかかって輝いている。

興慶宮 沈香亭 

767-0131 -

  驪山(卷一七(四)一五二六)20 五律

杜詩詳注巻1758

全唐詩卷二三○ -20 五律

767年大暦256  (131) -

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ8923

 


(夔州抒情詩八首)

  卷230_13 《洞房》

  洞房環佩冷,玉殿起秋風。秦地應新月,龍池滿舊宮。

  系舟今夜遠,清漏往時同。萬里黃山北,園陵白露中。

  卷230_14 《宿昔》

  宿昔青門裏,蓬萊仗數移。花嬌迎雜樹,龍喜出平池。

  落日留王母,微風倚少兒。宮中行樂秘,少有外人知。

  卷230_15 《能畫》

  能畫毛延壽,投壺郭舍人。每蒙天一笑,複似物皆春。

  政化平如水,皇恩斷若神。時時用抵戲,亦未雜風塵。

  卷230_16 《鬥雞》

  鬥雞初賜錦,舞馬既登床。簾下宮人出,樓前禦柳長。

  仙遊終一閟,女樂久無香。寂寞驪山道,清秋草木黃。

  卷230_17 《鸚鵡(一作翦羽)》

  鸚鵡含愁思,聰明憶別離。翠衿渾短盡,紅觜漫多知。

  未有開籠日,空殘舊宿枝。世人憐複損,何用羽毛奇。

  卷230_18 《歷歷》

  歷歷開元事,分明在眼前。無端盜賊起,忽已時遷。

  巫峽西江外,秦城北斗邊。為郎從白首,臥病數秋天。

  卷230_19 《洛陽》

  洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。天子初愁思,都人慘別顏。

  清笳去宮闕,翠蓋出關山。故老仍流涕,龍髯幸再攀。

  卷230_20 《驪山》

  驪山望幸,花萼罷登臨。地下無朝燭,人間有賜金。

  鼎湖龍去遠,銀海雁飛深。萬蓬萊日,長懸舊羽林。

  卷230_21 《提封》

  提封漢天下,萬國尚同心。借問懸車守,何如儉德臨。

  時征俊乂入,草竊犬羊侵。願戒兵猶火,恩加四海深。

興慶宮 龍池 

作時年:

767

大暦2

56

全唐詩

卷二三○ -20 五律

文體:

五言律詩

杜詩詳注

1758

 -

詩題:

  驪山(卷一七(四)一五二六)

序文

 

作地點:

目前尚無資料

及地點:

驪山 (京畿道 京兆府 驪山別名:東山

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)

大明宮 (京畿道 京兆府 長安別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿

 

交遊人物:

 

0

0

 

 

鬥雞

(興慶宮でくりひろげられた雜芸は、驪山の離宮でも催され、闘鶏、舞馬などの遊戯が行われたことを追憶する。)

鬥雞初賜錦,舞馬既登牀。

むかし玄宗皇帝は、驪山において、御遊されるのに、闘鶏の勝負がついてやっとはじめて錦の賞を賜ったかと思うや、矢継ぎ早に舞馬が牀にのぼって雜芸をはじめる。

簾下宮人出,樓前御柳長。

簾のしたには女官たちが見物している、楼前にはしだれ柳がながく垂れている。

仙遊終一閟,女樂久無香。

ところが玄宗がおかくれになってからは、こんな遊びごとはまったくなくなってしまい、あれほど盛んであった女楽隊もながらく香をきかないことになってしまった。

寂寞驪山道,清秋草木黃。

ことになった。いまでは驪山の下道もさびしくて秋にあたって草木が黄ばんでをるばかりであろうと自分は想像するだけである。

 

(鬥雞)

雞 初めて錦を賜う,舞馬 既に牀に登る。

簾下 宮人出でて,樓前 御柳 長し。

仙遊 終に一女樂 久しく 香無し。

寂寞たり 驪山の道,清秋 草木なり。

 

歷歷

(安史の乱後久しく蜀地に病客しているが、何とかして故郷に帰りたいと思いを馳せる。)

歷歷開元事,分明在眼前。

開元の太平時代の事は齊趙江南に遊んだこともあってはっきりとじぶんの眼のまえにある。

無端盜賊起,忽已時遷。

それだのに突然、安禄山のような盗賊が急に起って、それから年月がめまぐるしくうつりかはった。

巫峽西江外,秦城北斗邊。

じぶんの居る巫峡の地は西江のまた外にあるし、故郷長安の城郭は北斗星のあたりにある。

為郎從白首,臥病數秋天。

郎官になるにはなったが、もうすっかり白髪になってしまった。それも運命であるから仕方がない。その上このように病に伏してまた秋の経過するのを数えて暮らしているのである。

 

(歴歴)

歴歴たり開元の事、分明眼前に在り。

端無く盗賊起る、忽ち己に歳時遷る。

巫峡は西江の外、秦城は北斗の邊。

郎と為る白首に従す、病に臥して秋天を数ふ。

 

 

洛陽

(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

洛陽昔陷沒,胡馬犯潼關。

一昔になるが、洛陽が安史軍に陥落させられ、瞬く間に異民族連合の安史軍は圧倒的優位にあった王朝軍をやぶって潼關に侵入したのである。

天子初愁思,都人慘別顏。

その時、天子玄宗は、都を棄て、途中、楊貴妃に自殺を命じ、初めて悲愁な思いをされたのである、突然の出奔に、残された長安、洛陽の都の人々は、愕然とした顔つきをしたのである。

清笳去宮闕,翠蓋出關山。

それは、異民族の吹く胡笳が清らかな朝聞こえてくるときに宮殿の門を去られたのである、翡翠の羽で飾られた天子の御輦は蜀道の関所を越え、蜀に逃避されたのである。

故老仍流涕,龍髯幸再攀。

東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

 

(洛陽)

洛陽 昔 陷沒して,胡馬 潼關を犯さる。

天子 初めて愁思し,都人 別顏慘なり。

清笳 宮闕より去り,翠蓋 關山を出ず。

故老 仍りて 流涕す,龍髯 幸に再び攀ず。

 

驪山

(驪山を開発して、離宮華清宮、温泉宮をつくり、毎年のように避寒に御幸行した玄宗の崩御を追懐して詠った)

驪山望幸,花萼罷登臨。

冬に必ず驪山に行幸していた玄宗を待望することが絶えた、興慶宮の花萼相輝之樓で執務されていたがもう登られることもなくなった。

地下無朝燭,人間有賜金。

死んでる人の黄泉の国は参朝することもないので、臣下を照らす燈燭もいらないし、生存している人人のあいだには、遺言により、王侯百官に恩賜さられた金があるので心配がない。

鼎湖龍去遠,銀海雁飛深。

黄帝の時のように鼎湖では龍が遠く去ってしまい、御陵の墓穴の廣堂では水銀の海に、底深いところで金雁がとんでいる。

蓬萊日,長懸舊羽林。

ただ御生前の時大明宮の蓬莱殿を照らした太陽は、万歳の後も長く元の羽林軍、いまの護陵軍の上にかかって輝いている。

(驪山)

驪山 望幸え,花萼 登臨罷む。

地下 朝燭 無く,人間 賜金有り。

鼎湖 龍去ること遠く,銀海 雁 飛ぶこと深し。

 日,長えに懸る舊羽林

 

  驪山

驪山絶望幸、花萼罷登臨①。地下無朝/燭②、人間有賜金③。

鼎湖龍去④、銀海雁飛深。萬蓬萊日、長懸舊羽林⑥。

此重傷園陵而作也。上四、升遐之感。下四、陵寢之悲。邵注明:皇崩後、驪山花蕚、

不復幸臨、地下無朝燭 、人間徒有賜金。自此鼎湖龍去、銀海雁深、唯留此蓬萊日色、

長照陵上羽林耳。寂寞身後、良可歎也。 《杜臆》蓬萊先帝所居。 羽林軍、守陵寢者。

黄生曰:此章即申首/章園陵霜露之感、而言更深切 、是孤臣獨泣、此則率土同悲也。

① 明皇在日、每十月、必至驪山華清又、友愛諸王、造花蕚相輝之樓。

② 趙曰:朝燭、當音朝。覲之朝。 凢朝在早、則秉燭而受朝、今地下幽閟無朝見之燭也。

③ 黄庭堅曰:《漢書・髙后紀》遺詔賜諸侯王各千金。 《北史》:隋獻皇后山陵成、

賜楊素金鉢一、實以金:銀鉢一、實以銀。

④ 鼎湖、注已見上章。

⑤ 《漢書》:秦始皇塟於驪山之阿、下錮三泉、上崇三墳、水銀為江海、黄金為鳬雁。

何遜《經孫氏陵》詩:銀海終無浪、金鳬不飛。 

⑥ 黄注:日者、君象。 羽林、上應星文、故與日相貼。 羽林即萬騎軍、後改為龍武軍、

明皇塟後、用為軍。 《漢・禮樂志》:芬樹羽林、雲景杳

顔注:言所樹羽葆、其盛若林也。

 

 

《驪山》現代語訳と訳註解説
(
本文)
 
驪山

驪山望幸,花萼罷登臨。

地下無朝燭,人間有賜金。

鼎湖龍去遠,銀海雁飛深。

蓬萊日,長懸舊羽林。

 

(下し文)
(驪山)

驪山 望幸え,花萼 登臨罷む。

地下 朝燭 無く,人間 賜金有り。

鼎湖 龍去ること遠く,銀海 雁 飛ぶこと深し。

 日,長えに懸る舊羽林

 

(現代語訳)

(驪山を開発して、離宮華清宮、温泉宮をつくり、毎年のように避寒に御幸行した玄宗の崩御を追懐して詠った)

冬に必ず驪山に行幸していた玄宗を待望することが絶えた、興慶宮の花萼相輝之樓で執務されていたがもう登られることもなくなった。

死んでる人の黄泉の国は参朝することもないので、臣下を照らす燈燭もいらないし、生存している人人のあいだには、遺言により、王侯百官に恩賜さられた金があるので心配がない。

黄帝の時のように鼎湖では龍が遠く去ってしまい、御陵の墓穴の廣堂では水銀の海に、底深いところで金雁がとんでいる。

ただ御生前の時大明宮の蓬莱殿を照らした太陽は、万歳の後も長く元の羽林軍、いまの護陵軍の上にかかって輝いている。

函谷関長安地図座標001 

(訳注) 
驪山

68. (驪山を開発して、離宮華清宮、温泉宮をつくり、毎年のように避寒に御幸行した玄宗の崩御を追懐して詠った)

69. 驪山 杜甫の《巻四07 奉同郭給事湯東靈湫作》「東山氣鴻蒙,宮殿居上頭。君來必十月,樹羽臨九州。」郭給事が湯東の靈湫の作に同し奉る。長安の東にあたる驪山にはもくもくと煙、湯気が立ち込めている、華清宮の宮殿はその上方にかぶさるように存在している。我が君がここへおいでになるのはかならず十月になってからだ、ここに羽旗をたてて天下九州のまつりごとにあたられるのである。
 和するをいう。他人が作った詩につけて、我が意をのべること。○郭給事 郭は姓、名は詳かでない、給事は官名、給事中をいう。○湯東靈湫 湯は驪山の温泉をいう。前詩では、華清宮。靈湫とは竜の住む不思議な池をいう。○東山 驪山をいう、長安の東に在るからである。○ 温泉の気。○濠鴻 或は鴻濠に作る、もやくや。○宮殿 華清宮をいう。○上頭 上方にかぶさるように存在するさま。○ 玄宗。〇十月 玄宗は避寒のため十月に行幸し、歳が尽きて帰る。○樹羽 羽旗をたてる、羽旗は羽をかざった旗。「赴奉先県詠懐」詩の「羽林相摩真ス」と同意であろう。或は楽器の装飾ととくが恐らくは非であろう。○臨九州 九州は天下をいう。天下に臨むとはここで政治を視られることをいう。

驪山の麓(長安から二十数km)に、玄宗皇帝の離宮華清宮(楊貴妃と過ごすようになって名称をこれに変えた。それまでは、温泉宮が築かれていて、山の険しいところに玉座のある宮殿が建っているのが見える。、李白も朝廷翰林院の時、三首、天子に同行した詩がある。

侍従遊宿温泉宮作 

駕去温泉宮後贈楊山人 

溫泉侍從歸逢故人 

 

驪山望幸,花萼罷登臨。

冬に必ず驪山に行幸していた玄宗を待望することが絶えた、興慶宮の花萼相輝之樓で執務されていたがもう登られることもなくなった。

70. 絶望幸 行幸を望むことも絶えたという事。玄宗がすでに崩御しているということ。玄宗は肅宗の上元二年(761)四月甲寅、神龍殿に崩御す。御年七十八、代宗の廣徳元年三月辛酉(763)に泰陵に葬る。

71. 花萼 興慶宮の花萼相輝之樓の事。玄宗晩年、執務をとったところ。勤政務本之樓と相対す。興慶宮の図参照。

72. 罷登臨 樓に登って俯臨することもなくなったことを言う、これも玄宗崩御に依ることを言う。

興慶宮00 

地下無朝燭,人間有賜金。

死んでる人の黄泉の国は参朝することもないので、臣下を照らす燈燭もいらないし、生存している人人のあいだには、遺言により、王侯百官に恩賜さられた金があるので心配がない。

73. 地下 冥土、黄泉の国をいう。

74. 無朝燭 朝は朝覲、參朝、などの朝、臣下が朝早く宮中へでむくこと、こうした參朝は、夜が明けるまでに整列するため暗いうちに宮殿に入るので蝋燭を煌々とつけたことを言う。

75. 人間 生存している人人のあいだに。

76. 有賜金 皇帝が残した遺言により王侯百官に恩賜さられた金。黄庭堅曰:《漢書・髙后紀》遺詔賜諸侯王各千金。 《北史》:隋獻皇后山陵成、賜楊素金鉢一、實以金:銀鉢一、實以銀。

 

鼎湖龍去遠,銀海雁飛深。

黄帝の時のように鼎湖では龍が遠く去ってしまい、御陵の墓穴の廣堂では水銀の海に、底深いところで金雁がとんでいる。

77. 鼎湖龍去遠 黄帝の故事をもちいて玄宗の崩御を言う。。杜甫《(卷一七(四)一五二五)洛陽》「故老仍流涕,龍髯幸再攀。」(故老 仍りて 流涕す,龍髯 幸に再び攀ず。東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

78. 銀海雁飛深 秦の始皇帝陵の故事を言う。《漢書》:秦の始皇 於驪山の阿に塟らる、下は三泉を錮し、上は三墳を崇くし、水銀にて江海を為くり、黄金にて鳬雁を為くる。何遜の《經孫氏陵》詩に:銀海は浪無く終り、金鳬は飛ばずにす。

 

蓬萊日,長懸舊羽林。

ただ御生前の時大明宮の蓬莱殿を照らした太陽は、万歳の後も長く元の羽林軍、いまの護陵軍の上にかかって輝いている。

79. 萬 永久に。

80. 蓬萊日 大明宮の蓬莱宮を照らした太陽、宮殿は玄宗の生時に居られた処であったところであること。

81. 舊羽林 羽林軍、龍武軍などを言い、玄宗崩御後、護陵軍となったのでこういう。

高宗の龍朔二年(662年)、左右の屯衛を改めて左右の羽林とし、大将軍、将軍を設けて統率させ、下に長史、参軍そして校尉、旅帥、隊正などの各級官員を置いた。武則天は太宗のときの百騎を改めて「千騎」とし、中宗はさらに千騎を改めて「万騎」とし、玄宗は万騎を改めて左右の龍武軍とし、その編制は羽林と同じであった。ここに至り、左右の羽林と左右の龍武の四軍から組織された北衙禁軍が形成された。北衙禁軍の主要な任務は宮城に宿直しての警備で、あわせて宮城北門も統制し、少しですが出征して戦争もした。

 玄宗の天宝年間、府兵と同じように、一万人を擁する北衙禁軍も衰退に向かった。「天宝末年になると、禁軍は活動を停止して弱体化し、蜀に入ったとき、玄宗に従ったのはわずか千人であった。粛宗が霊武に赴いたとき、兵士は百に満たない数で」、北衙禁軍は弱まり散って尽きるに及んだのであった。粛宗の至徳二年(757年)、さらに左右の龍武と左右の羽林の四軍を再建し、あわせて「はじめて左右の神武軍を置き、あわせて神軍天騎と言い、制度は羽林と同様で、まとめて北衙六軍と言い」、合計で約一万人であった。殿前の保衛力量を増強するため、さらに「乗馬して射撃するのがうまい人を選んで、衙前射生手千人を置き、供奉射生官とも言い、さらに殿前射生とも言い、左右の廂に分かれた」。まもなく、殿前射生左右廂は拡充されて英武軍となった。その後、諸軍は設置と廃止を繰り返し、舞廂もたびたび変化したのである。

大明宮 作図011