767--17 【字解集】   ・解悶十二首

 

 

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10年のBLOGの集大成

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745-028-#2巻178-16 酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招(卷十九(二)一一一五)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8867

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745年-06 【字解集】006 【字解集】 a.寓言三首  b.登廣武古戰場懷古 c.單父東樓秋夜送族弟沈之秦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8844

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-109 先生-巻八-01#28城南聯句 §6 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8868

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745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓  C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8772

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-集-17 【字解集】  ・解悶十二首 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8881

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767年-集-16 【字解集】  ・i.-別崔因寄薛據孟雲卿  ・j-寄韓諫議 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8804

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

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767--17 【字解集】   ・解悶十二首 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8881

ミミナグサ01 

 


【字解集】   ・解悶十二首

解悶十二首其一

1. 悶えを解くためこの詩を作る。其の一:夔州の風土についてのべたもの)

2. 解悶 もだえをとく。排悶・遣悶などの意。

卷二三○-09 -1     17-40 (卷一七(四)頁一五一一)

文體:   七言

3. 草閣 草吹き家、屋根に草が生えた高閣。

4. 柴扉 駟馬で編んだり、結んだりして作った扉。

5. 星散居 星のごとく散らばった渓の上から夜の景色を言う。

6. 浪翻江黑雨 谷底の水辺に近いところで、昼間に雨が降ると、夕暮れのように暗くなり、突風を伴うと、波は高く飜る。

7. 引子 鳥禽が雛を連れている。

8. 溪友 「渓」で生活をしている者たちをいうが、即ち、「友」は漁師、魚行商、露天商の女、そして、購入者ということだろう。

9. 得錢 魚を渡して銭を得る。

10. 留白魚 漁師が魚売りの女にわたし、魚を並べるとうろこの白いのが光るという意。

 

解悶十二首其二

1. 悶えを解くためこの詩を作る。其の二:夔州を去り、呉越に遊びたいとのべたもの)

11. 商胡 西域の異民族()の商人。

12. 揚州 水陸駅があり、淮南、江南と洛陽、長安とを大運河で結び重要、交通の要衝の地である。唐時代には海上貿易の拠点として栄え、アラビア商人も来て取引が行われていた。アラビア商人(ムスリム商人)はこの地を「カンツー」(江都の音訳)と言った。日本の遣唐使の中継地でもあった。揚州 (淮南道 揚州 揚州別名:廣陵、淮南、淮海は呉の国。

13. 西陵 西陵は江南東道越州、紹興府蕭山縣西十二里、銭塘江を隔てて北方講習と相対すところ、ここにも水陸駅があった。杭州、紹興西陵は越の国。

14. 故驛樓 もとからある、駅亭、駅楼をいう。

15. 為問 江南のコメ事情は、中国全土の経済に影響するので、聞いたもの。

16. 淮南 揚州のある淮南地方(穀倉地帯)

17 米貴賤 米価が高いか、安いか

18. 老夫 杜甫自身のことを言う。

19. 乘興 杜甫は近々荊州に行くつもりであるから、そこから揚州にはもう一度しないといけないから、こういう表現をしたもの。

20. 欲東流 川の流れは東に流れるから、呉越地方に行くことをいう。

 

解悶十二首其三

1. 悶えを解くためこの詩を作る。其の三:荊州へ貶謫されている鄭審を懐かしむことをのべたもの)

21. ・一辭:ひとたび辞去してより。 

22. ・故國:故郷。 

23. ・十經秋:十回の秋を経(へ)た。十年が経(た)った。

24. ・毎見:見る度に。 

25. ・秋瓜:秋のウリ。秦の東陵侯のウリ・「東陵瓜」を暗に謂うか。秦の東陵侯であった邵平は、秦が滅ぼされた後、庶民に戻って、長安の東でウリを栽培して生活をした。『史記・蕭相國世家』に「召平者,故秦東陵侯。秦破,爲布衣,貧,種瓜於長安城東,瓜美,故世俗謂之『東陵瓜』,從召平以爲名也。」とそのことが載っている。晉・陶潛の『飮酒二十首』其一に「衰榮無定在,彼此更共之。邵生瓜田中,寧似東陵時。寒暑有代謝,人道毎如茲。達人解其會,逝將不復疑。忽與一觴酒,日夕歡相持。」とある。 

26. ・憶:思い出す。 

27. ・故丘:故郷の丘。「故國」に同じ。「故丘」の「丘」は韻脚のためでもあり、故居のある長安城外の少陵のことでもあろう。この詩、「故国」「故丘」と意味が重なり「故」字も重なっている。他にも「秋」字、「瓜」字が重なっており、比較的気楽に作られたものなのだろう。

28. ・南湖:湖北省江陵県の南にある湖。唐の鄭審が居を構えたところ。夔州にある湖。後出・殷末・伯夷の『采薇歌』の「登彼西山兮,采其薇矣。」の「西山」を捩(もじ)って「南湖」としてはいまいか。そうだとすれば、「隠者のような生活をしている」の意。 

29. ・采:採(と)る。つみとる。採取する。≒採。上古・『詩經』「風」等の『史記』初期のものには、この野草採取の詩篇「采…」が多い。『王風』「采葛」「彼采葛兮,一日不見,如三月兮。彼采蕭兮,一日不見,如三秋兮。彼采艾兮,一日不見,如三歳兮。」とある。 

30. ・薇蕨:ゼンマイやワラビといった山菜。首陽山に隠棲して薇(ぜんまい)を採って過ごした伯夷・叔齊の故事を暗示して、「隠者のような生活をしている」といいたい。殷末周初・伯夷の『采薇歌』に「登彼西山兮,采其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農虞夏,忽焉沒兮,吾適安歸矣!吁嗟徂兮,命之衰矣!」とある。 ・:ゼンマイ。ワラビ。山菜。『史記』の古註は、「索隱『薇,蕨也。』『爾雅』云:『蕨,鼈也。』 正義 陸『毛詩草木疏』云:『薇,山菜也。莖葉皆似小豆,蔓生,其味亦如小豆,可作羹,亦可生食也。』」日本語では薇字は「ゼンマイ」、蕨字は「ワラビ」としており、現代語でも“蕨〔jue2〕”は「ワラビ」の意、“薇〔wei1〕”は「ゼンマイ」や「ハマエンドウ」の古称。「ゼンマイ」の古称。なお、伯夷や叔斉は、周の統治下の畑でできたアワ(禄)を食むのを潔しとせず、山野に自生している山菜を食べた、周の禄を拒絶したということの強調でもある。

31. ・何人:だれか。なんぴと。 

32. ・爲:因(よ)って。ために。 

33. ・覓:さがしもとめる。もとめる。 

34. ・鄭瓜州:瓜州出身の鄭審。また、東陵侯・召平のように野(や)に下って瓜を作っていたであろう秘監の鄭審のこと。南湖の畔に住んでいた。原注に「今鄭秘監審」とある。

 

解悶十二首其四

35.  (悶えを解くためこの詩を作る。其の四:薛璩のことを思って述べた詩)

36. 【解説】仇兆鰲の解に 此懐薛據也。とある。薛璩は夔州に来ていた、杜甫が朝廷で左拾遺をしていたころの知人である。同じ房迀グループで、貶謫されているものである。薛璩について、杜甫《同諸公登慈恩寺塔》以来しばしば詩に登るが、近年の作品は以下の通り。

757年-030 寄薛三郎中璩 杜詩詳注 卷一八(四)一六二○ i紀頌之の漢詩ブログ7672

767年-99#1 奉酬薛十二丈判官見贈#1 杜詩詳注(卷一九(四)一六八四)Ⅲ ブログ8539

767年-111 別崔、因寄薛據、孟雲卿 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六)Ⅲ 8743

37. 沈范 梁の、沈約と范雲のこと。

37.-1 ・沈約441 - 513年)は、中国南朝を代表する文学者、政治家。呉興郡武康県(現在の浙江省徳清県)の人。字は休文。沈璞の子として生まれた。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。このため諡は、当初「文」とされるところを武帝の命により「隠」とされた。

37.-2 ・范雲451年(元嘉8年)、南郷舞陰(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭琛と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。

38. 何水部 何遜のこと。梁が建国されると、起家して奉朝請となる。その後は地方に駐屯する皇族の幕僚を歴任する。一時期、尚書水部郎として中央の官職を兼務し(後世、彼が「何水部」と呼ばれるのはこのことによる)、武帝の弟、建安王蕭偉の推薦によって武帝に目通りを許されることもあったが、程なくして武帝の不興を被り、中央から退けられる。母の喪に服した後、武帝の子、廬陵王蕭続の記室参軍として江州に赴き、在任中に死去した。その葬儀は、彼のよき理解者であった蕭偉により執りおこなわれ、残された家族も彼の庇護を受けたという。無何薛同為水部、但何有知音而薛 同調故為惜之當省 。

39. 曹劉 魏の曹植、劉楨をいう。

39.-1 ・曹植:曹 植は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の皇族。豫州沛国譙県の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。

39.-2 ・劉楨:後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。兗州東平国寧陽県の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子。

不待薛郎中 唐の水部郎中薛璩

40. 獨當省署開文苑 薛璩君は尚書省にいたころは、役所の中において、ただ一人で文壇を開き担っていたものであるという意。省署は役所内で。開文苑 詩文学の文壇を形成すること。安史の乱以前は、そうそうたるものが、朝廷内にいたからそれと比べて薛璩が、一人で文壇を支えていたという、小規模のものであったと思われる。

41. 泛滄浪學釣翁 昔、梁の何遜は水部郎を為し滄浪に泛んだ、今、楚に客となって杜に陳べて道うて曰く、省署において文苑を開き、詩篇「滄浪學釣翁」といい、即ち薛璩の詩也。

宮島001702 

解悶十二首其五

42. (悶えを解くためこの詩を作る。其の五:孟雲卿のことを思って述べた詩)

43. 李陵 前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処される原因を作った人物である。字は少卿。

44. 蘇武 前漢の名臣。字は子卿。父蘇建は匈奴征伐に功があった。天漢1 ( 100) 年中郎将として匈奴に使いしたが,単于に捕われ,節を曲げなかったため北海 (バイカル湖のほとりに 19年間幽閉された。昭帝のとき,帝が上林苑の狩りで射落した雁の足に,武の手紙がつけてあったと称して,蘇武の送還を匈奴に求め,ついに漢に帰ることができた。蘇武が帰国の際,李陵と贈りかわした五言詩が『文選』にあるが,彼の作かどうか疑わしい。

45. 孟子論文 校書郎孟雲卿のつくった詩文を言う。

46. 更不疑 そのとおりであって疑いを持つことはない。

47. 一飯 ひとたび飯をたべるにも。

48. 留俗客 留とは雲卿が之をとどめること。俗客は世間一般的な俗人を言う。

49. 數篇 篇数の数が多くないことを言う。

50. 古人詩 李陵、蘇武などのように高官で文人であるような人物の詩文。

 

解悶十二首其六

51.悶えを解くためこの詩を作る。其の六:鹿門山の澗渓に隠遁する孟浩然のことをのべたもの)

52. 襄陽孟浩然 孟浩然の詩について、孟浩然60掲載しているので参考にされたい。

53. 清詩句句盡堪傳 孟浩然の詩は、田園山水を詠うものが多いが滻水のしぇいしが出なくその一部を見事に動的に表現するという素晴らしいものが多い。杜甫李白にとって、師匠格の詩人である。

54. 即今 今日只今まで。

55. 耆舊 この地には、詩人と称す長老、老人が多く棲んでいることを言う。

56. 無新語 中国の詩人の目指すところ、新語を生み出し使い切ることにある。

57. 漫釣 を釣っていても、詩句がないことを言う。慢性化した寄せ集めの詩であることを言う。

槎頭縮頸 58.槎頭」:仕掛けのやな漁を意味する言葉である。釣り堀のようにして魚を釣るという意味で、釣りの醍醐味のないものであるような詩文を言う。59.「縮頸」:首を知事込めた姿を言う。(のびのびとした詩文ではない)60.」:頭の扁平な魚を言うが、妙な形、偏った詩篇を意味する。

61. 【解説】詩の表現は魚であらわされることが多い。孟浩然の詩は、六朝から続く華美マンネリ化した詩を劇的に変えた詩であったという事をいうものである。

 

 

 浩然(日本語読み:もう こうねん/もう こうぜん、中国語読み:モン ハオラン、ピンイン:Mèng Hàorán689 - 740年)は中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。

若い頃から各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流した。また後漢の龐徳公や後年の皮日休ゆかりの鹿門山(襄陽市)に隠棲したこともあった。玄宗の世となってから長安に赴き仕官しようとするが、科挙に及第していないのでかなわなかった。しかしながら、孟浩然を気に入った韓朝宗との約束をすっぽかして朝廷への推薦をだめにしたり、いざ玄宗の前に出ても不平不満を詩にして玄宗を怒らせるなど、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。

孟浩然の詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した(李白には「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」という作品がある)。740年、背中にできものがあって調子の悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態を悪化させて亡くなった。

自然を題材にした詩が評価されており、詩のなかに人生の愁いと超俗とを行き来する心情を詠みこんでいる。日本では五言絶句「春暁」が特に有名である。詩の特徴から王維と孟浩然は「王孟」と並称された。『孟浩然集』がある。その内、有名で、傑作とするものを下に示す。

与諸子登峴山

輿黄侍御北津泛舟

峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)

過故人莊 

峴山送蕭員外之荊州

登峴山亭,寄晉陵張少府

澗南園即時貽皎上入

田園作 

田家元日

南山下與老圃期種瓜

夏日南亭懷辛大

登鹿門山懐古 #1

仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊 #1

暮歸故園(歳暮帰南山) 

留別王侍御維

登安陽城樓 

秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎

夏日辮玉法師茅齋

題長安主人壁

宿建徳江 孟浩然

與顏錢塘登障樓望潮作

下贛石

舟中曉望

將適天臺,留別臨安李主簿

寄天台道士

春暁

・・・・・・・・・・・・・・・・・

もっとあるが、ここではこれにとどめる。

杜甫のブログ001 

解悶,十二首之七

62. (悶えを解くためこの詩を作る。其の四:薛璩のことを思って述べた詩)

63. 作を鍛錬する。陶は土をこねて土器をつくる、仕事をすること。冶は冶金すること、困難な仕事をする。

64. の持前、心の霊妙なる所。

65. 底物 何物。

66. 新詩 新しく作った詩。

67. 改罷 作る途中で落ち着かない詩を改めること。

68. 長吟 長く節をつけて吟ずる、気持ちよく吟ずる。

二謝 謝靈運、謝朓をいう。69. 謝 霊運385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は、東晋・南朝宋の詩人・文学者。本籍は陳郡陽夏(現河南省太康)。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。父の謝瑍(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。族弟の謝恵連の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では南斉の謝朓とあわせて「三謝」とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。

70.  謝朓 謝 朓(464 - 499年)は、中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉。陳郡陽夏(現河南省)の人。同族の謝霊運・謝恵連とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。また謝霊運と併称して「二謝」と呼ぶこともあり、その場合は、謝霊運を「大謝」と呼ぶのに対し、謝朓を「小謝」と呼ぶ(ただし「小謝」の呼称は謝恵連を指すこともある)。宣城太守に任じられ、この地で多くの山水詩を残したことから、「謝宣城」とも呼ばれる。竟陵王・蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の一人であり、同じく八友の仲間である沈約・王融らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。

71 陰何 陰鏗や何遜のこと。陰鏗:(511年-563年)六朝時代の陳の詩人。字,子堅。六朝末の「宮体」詩人として艶麗な五言詩の作品があり,梁の何遜 (かそんとともに「陰何」と並称される。

72. 何遜:(未詳―518)六朝時代の梁の詩人。たん (山東省の人。字,仲言。官名によって何水部とも呼ばれた。陰鏗 (いんこうとともに「陰何」と称され,風景や心境の描写にすぐれ,また音律や修辞を練る詩風で,唐の近体詩の成立にも影響があった。

73. 苦用心 非常に「詩作」に心を用いた態度を頗る学んでいる

 

解悶十二首其八

74. (悶えを解くためこの詩を作る。其の八:尊敬していた隠遁者の王維を思い、彼の弟の王縉に及んで詩にしたもの)

74. 高人 儒者、道家でない人物の高尚な人。王維は輞川莊に仏教寺院を建立している。

75. 王右丞 尚書右丞王維のこと。

76. 藍田丘壑 藍田縣の丘や壑、王維の別荘、輞川莊を言う。《巻六37 崔氏東山草堂》「何為西莊王給事,柴門空閉鎖松筠?」(何為【なんすれ】ぞ西荘【せいそう】の王給事、柴門【さいもん】空しく閉じて松筠【しょうきん】に鎖【とざ】す。)ここへ西どなりの王維でも居るといっそういいのだが、どうしたためか彼の別荘はいたずらに柴門が閉じられて松竹林中にかぎをおろしてある。○西荘 雀氏草堂の西にある別荘。 ○王給事 王維のこと。王維は宋之間の藍田の別業を安史の乱までにすべての財産をつぎ込んで、整備し、建設した。即ち綱川荘である。粛宗が長安に還るや王維は太子中允となり、また給事中となった、このとき王維は長安にあってこの輞川荘にいなかった。 ○柴門 王維の荘の柴でつくった門。 ○鎖松筠 筠は竹の膚の青色をいうが竹そのものの義として用いる。松筠に鎖すとは松竹の林の中にとざすことをいう。

77. 寒藤 枯藤。

78. 最傳秀句 秀句は佳句であり、王維の秀句は他の詩人の句よりも、世間によく伝わり、広がったという事。

79. 寰區 天下を言う。

80. 未風流 風流と同意。王維の山水、風流を受け継ぐものがあって、途絶えはしない。

81. 相國能 王維の弟、王縉のこと。《巻1603諸將,五首之三》「稍喜臨邊王相國,肯銷金甲事春農。」(稍やもして 喜ぶは邊に王相國 臨み,肯えて金甲を銷して 春農を事とせんや。)このときすこしばかり喜ぶべきことがあるのは、私の親友の王維の弟の王相国(縉)が河南・准西・山南東道の辺統一にのぞまれたということだが、王相国のことだから、兵器をとかして農具をこしらへ春をまって農作を専務とされるかんがえがおありになることだろう。

○王相国 王縉をいう、王縉は王維の弟で、広徳二年に同平章事(すなわち宰相)に拝し、その年八月李光粥に代わって河南・准西・山南東道の諸節度行常の事を都統し、兼ねて東京留守を領したが、歳余にして(永泰元年末)河南副元帥に遷り、大暦三年には幽州盧竜節度を領し、また太原尹・北京留守を兼ね河東軍節度使にあてられている。

766-129杜甫 1603諸將,五首之三》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55-129 <992 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6640

杏の花01 

解悶,十二首之九

81. (悶えを解くためこの詩を作る。其の九:玄宗妃の楊貴妃が好んで食した茘枝について、その今昔の感を述べたもの。)

82. 先帝 ここでは玄宗。

83. 貴妃 楊貴妃。楊 貴妃(719- 756616日)は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。

84. 荔枝 楊貴妃がレイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことも伝えられる。6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けた。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられる。

85. 還復 やっぱりまた。

86. 炎方 霊視の生産地、南海、広東地方から、駅馬を継いで長安に届けさせた。蜀の涪州からも遅らせた。

87. 每續朱櫻獻 「朱櫻」は含桃あるいは、櫻桃といい、櫻の実のこと。 《禮記》月令に「仲夏之月、天子含桃を以て先ず寢廟を薦む。」とある。歴朝五月に宗廟に櫻桃を薦めらるのが恒例と定められる。「續獻」とは、櫻桃に続いて、茘枝が貢献されることを言う。

88. 玉座應悲 馬嵬(陝西省興平市)に至って、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達が、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。楊貴妃に自殺を命じた。そして蜀に逃避し、その地で茘枝を献上され楊貴妃を思いかな死んだことを言う。玉座は、文選謝朓《同謝咨議銅雀臺》詩:「玉座猶寂漠,況乃妾身輕。」とあるを以て使う。

89. 白露團 夏の終わりに、葉上に露が丸く結ぶ季節になって、今玉座におわす、代宗が茘枝の入朝するを見て先帝を思い涙したというに基づく。《詩經》「白露為霜、又零露兮。」

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解悶,十二首之十

90. (悶えを解くためこの詩を作る。其の十:玄宗妃の楊貴妃が好んで食した茘枝について、産地で食べたことがあるが、その味といろは長安に贈られたものは産地のものとは味も色艶も違ったものでしかない。)

 

91. .過瀘戎 蜀中転々としたとき、765年永泰元年54瀘州、戎州を通りすぎたこと。

《巻1453宴戎州楊使君東樓》「重碧拈春酒,輕紅擘荔枝。」  重碧の春酒を拈【ひね】り,輕紅の荔枝を擘【やぶ】る。) 新酒で濃い緑の竹筒に入った「春酒」をつまむようにして口元に持って行って飲むと、南国の紅色の荔枝をつよく裂き破ってつまみにする。

重碧 濃い青竹に入れている酒で、春に搾りたての新酒。長安新豊の新酒は口広の甕で油紙で、黄色いひもで縛っている。高温で焼いた瓶でこい茶色。緑色の酒という解釈をしている書物もあるが、間違い。

 酒を絞り出すこと、つくり出すこと。【拈る】ひねる物を指先などでねじる。 体の一部をねじり回す。「足を拈った」簡単に負かす。ここでは、盃はワイングラスのような形の銀製で作られるので右手でつまむようにして口元に持って行くと左手で隠しながら飲むので、盃をひねるようにして飲むことをいう。

765年永泰元年54-31 《宴戎州楊使君東樓》 杜甫

92. 隱映 茘枝とうつろう事を言う。

93. 石逶迤 石の小路がうねりくねって続いている。

94. 京中(京華) 長安のこと。

95. 顏色 茘枝の色艶のことを言う。蜀の茘枝のランクは瀘州、戎州がトップで、次いで涪州、合州と続くとされていたという。

96. 紅顆 茘枝の外皮を言うが、取れ立ちのものと早馬で運ぶといっても新鮮さが違うという事を言う。

97. 酸甜 酸っぱさと甘み、酸味と甘味。

98. 自知 産地の新鮮な茘枝を食べた自分は知っているという事。杜甫も、長安の朝廷で食べたものと、蜀の一番おいしいものを食べてその違いを認識しているという事。

 

解悶,十二首之十一

99. (悶えを解くためこの詩を作る。其の十:玄宗妃の楊貴妃が好んで食したけれど、僻地で実るため多くの人は知らないのであり、そんな僻地に自分も寓居していて世の中に詩文が知られにくいとのべる。)

 

100. 沈玉甃 「玉甃」とは美しい瓦、これを畳みて井戸端として泉の水をたたえ、その中に売りを鎮めるという事。

101. 寒露成 昼夜の温度差が激しくなる寒露の置く頃に成熟する

102. 先不異枝蔓 茘枝はかわいそうなことに、あらかじめ他の果物と特別に違った人目を引くような姿をしていないという意。

103. 此物 茘枝を指す。

104. 娟娟 美しいさま。清らかなさま。遠くかすかなさま。

105. 長遠生 いつも遠方の地に生えてそのまま捨て置かれてしまうことをいう。

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解悶,十二首之十二

悶えを解くためこの詩を作る。其の十:玄宗妃の楊貴妃が好んで食した茘枝というものが重んじられ、人が軽んじられ、馬も大切にされることがなくなった。〔このため当時世界一であった駅伝制も放火するに至った。〕)

●杜甫は以前から駅伝制の崩壊について論じている

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (4) Q-2-#1 杜甫index-14 764 (4) Q-2-#1 杜甫<768 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4245

●杜甫は馬が好きで、安史の乱までは、朝廷も馬をいとおしみ、駿馬を育てるシステムが構築されていたことを喜ぶ詩を書いている。この詩は、楊貴妃の為に理不尽に駿馬が死んでゆくありさまが我慢できず、四篇を費やして思いを述べたのである。

106. 側生【他のものの傍に生ずるという事。地下の水が豊富である土地、平均気温が高く、温度差の多い地方。左思《蜀都賦》「旁挺龍目,側生荔枝。」《釋名》:「以草團屋曰蒲。」とあるに基づく。①《蜀都賦》旁挺龍目、側生荔枝。楊慎《丹鉛録》詩用側生字、盖為庾文隠語、以避時忌、即《春秋》定哀多詞之意。

107. 野岸 田畑、原野の水辺。趙曰:自戎𤏡而下、以畝為蒲。今官私契約皆然、用以韻。師作

108. 江蒲 大江の岸辺、蒲の生えるようなの水辺。港や淵の岸辺。江浦、非是。朱注、或曰:劉熈《釋名》草團屋曰蒲、又謂之菴。 此詩江蒲、似用此義、言荔枝生於野岸江菴之側耳。

109. 不熟 熟したものは輸送に耐えられないので、熟していないうちに、多くの労働者で一気に急いで摘み取り、鞭でたたいて急がせて送り出すことを言う。

110. 丹宮 皇城の丹庭階段を経て、後宮に運ばれることを言う。美女に関連したところだけに運ばれることを連想させる。

111. 滿玉壺 盛り付けられることを言う。きれいに磨かれて輝くようなツボに容れ、すぐ食べるものは大盤などに盛るのである

112. 雲壑 茘枝の産地から都までには、広東からは南嶺山脈、蜀からは秦嶺山脈、浮き橋桟道を経て運ばれることを表現する、

113. 布衣 貧賤の士。

114. 駘背死 茘枝を摘み取る作業者、運搬の作業者の背中が傷もぐれのサメ肌の背になって 死んで行っても捨て置かれる。

115. 勞生(勞人) 人に難儀を掛けること、茘枝を生産する人、摘み取って集荷し、運び出すなどの労働者を言う。

116. 重馬(害馬) 早馬を乗り継いで運搬することを言う。唐の駅伝制は30里ごとに駅があり、そこで用意された馬を乗り継いで運ぶ、重い荷物を運ばせ急ぐと馬が死んでしまう事を言う、通常天子の勅令を伝達するのが駅伝制の重要な役割であるが、政変などの為馬を酷使していたところへ、茘枝を運ぶのを西遊せさせるのであるから、多くの駿馬が死んだという。

117. 翠眉須 美人を言う、ここでは楊貴妃のことを言う。傾国の美人。