767--1 【字解集】 ・A洞房 B宿昔 C能畫 D鬥雞 E歷歷 F洛陽 G驪山 

 

 

2017618

の紀頌之”6”つの校注Blog

10年のBLOGの集大成

   李白総合案内

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745-030-#2巻166-13 鳴皋歌送岑徵君(卷七(一)五○六)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8915

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745年-07 【字解集】007 a.過四皓墓 b.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招 c.鳴皋歌奉餞從翁清歸五崖山居Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8904

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

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諸葛亮 出師表

曹植詩65

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李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

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10年のBLOGの集大成

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-117 先生-巻八-01#36城南聯句 §9 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8916

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745年-05 【字解集】005 【字解集】 a.留別王司馬嵩 B.商山四皓  C.訪道安陵遇蓋寰為予造真籙臨別留贈 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8772

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

10年のBLOGの集大成

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-集-1 【字解集】・A洞房 B宿昔 C能畫 D鬥雞 E歷歷 F洛陽 G驪山  杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8929

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767年-集-17 【字解集】  ・解悶十二首 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8882

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

杜甫詩 全詩 総合案内 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

Ⅳブログ詩集

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花間集 訳注解説 (225)回目張泌 《巻五01 江城子二首 其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8918

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花間集 訳注解説 (219)回目張泌 《張泌【字解集】 ―2 a. 臨江仙 b. 女冠子 c.河傳二首 D.酒泉子二首 E.子 F.思越人 》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8882 

 

 

 

10年のBLOGの集大成

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-巻二25 樂府詩七首 其六秋蘭篇〔傳玄〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8919

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玉集-014【字解集】  樂府二首 【字解集】詠懷詩二首    Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8806

●薛濤の全詩

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767--1 【字解集】・A洞房 B宿昔 C能畫 D鬥雞 E歷歷 F洛陽 G驪山  杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8929

 

 

【字解集】   ・A洞房  

洞房

1. (杜甫が長安にいた時のことを思い出し、特にこの篇では玄宗皇帝のことについて追想したものである。)

2.【解説】 洞房、宿昔、能畫、鬥雞、鸚鵡、歷歷、洛陽、驪山、提封の篇いづれも長安の往事を追想したものである。詩中の「起秋風」により、大暦二年七月の作。前の懐悶十二首と同時期の作品である。この八篇は起句の二字を切りとって題とした。

1.  洞房環珮冷 洞房はおくふかきところの閨、環珮は婦人の金属の珠のついたおびもの、・此句に杜甫寓居の寝室のつまのねるぶぶんのこと。妻の佩び玉から、楊貴妃を連想し、貴妃とともに玄宗に思いを馳せたものである。杜甫のいる場所と思いを馳せる場所を退避して描写する手法である。《長門賦》徂清夜於洞房。 植《史記》南子環珮、玉聲璆然。 《記》 行則有環珮之聲。

2. 玉殿 長安の興慶宮をいうもの。曹植詩:歡坐玉殿。 漢武辭:秋風起兮白雲飛。 楊妃過温泉/行云:玉殿 掩扉、秋風動琪樹。昔日繁事、盡逐流水去。 

3. 寒地 長安の地。張儀曰:「秦地半天下。」  鮑泉詩:新扇如新月。 

4. 龍池 興慶宮の池、南薫殿の南にある。《唐明皇在藩邸、居興慶里、 有龍池湧出、日以浸廣、至開元中、為興慶宮。唐太宗詩、丹陵幸舊

5. 滿舊宮 舊宮とはもとの宮をいう、満とは池水が龍が水そこに住むほどに満水であることをいう。輿慶官はもと玄宗の藩邸にして、俄に地陥りて池となり水が湧きいできたという虚なり。道衡詩、今夜寒車出。

6. 繋舟 「秋興」詩の「孤舟一繋」の意、夔州に舟なつなぎ客寓するをいう。

7.  清漏 宮殿にて清き水の流れを伴った漏刻により知らされる時の音。

8. 往時同 杜甫が朝廷につかえた時に聞いていた当時の音が今も変わらずしているであろうという意。

9.  黃山北 黃山は京畿道京兆府金城であり、西安府興平鹿東北にあり、其地はむかしの塊里にして漢の武帝の茂陵そこに在り。茂陵を借りて玄宗の泰陵を比すという解もある。泰陵は同州府蒲城縣金粟山にあるので黃山北にあたればおのずから諸陵中にふくまれるということ。

曰黄山、名「在槐里。 

10.  園陵 諸帝陵をいう、而して泰陵其中にふくまれる。《前漢・叔孫通傳》先帝園陵寢廟。 《詩》白露為霜。

11.  白露中 「わが衣では露に濡れつつ」というきせつをいう。

 

 

【字解集】   ・B宿昔  

宿昔

12. (玄宗が李林甫に朝廷の実務を任せた730年後半から興慶宮での行楽、花萼相輝樓、勤政務本楼での大歌会、など次第に頽廃淫乱になって行った事を詠う)

 

宿昔青門裡,蓬萊仗數移。

 むかし青門のうち、即ち長安城内では天子玄宗が大明宮の蓬莱宮からしばしば儀杖を他所(興慶宮のごとき)へお移しになった。

13.. 青門裡 青門は長安城の東、春明門である。靑門裏とは長安城内の繁華街であったところ。

14. 蓬萊 大明宮の宮殿の名。神仙三山の一つで、大明宮にはこの宮殿の北に向かって大掖池の中に浮かぶように設置されていた。大明宮図参照。

15. 仗數移.  「仗」とは玄宗が長安場内の離宮と結ぶ専用道(夾城)を通して、主に興慶宮に行かれて執務をとられたことを言う。

 

花嬌迎雜樹,龍喜出平池。

そのとき雜樹の花、数千人の芸妓はたをやかに行幸をお迎へし、また宮池のなかから龍が喜んであそびに出た。

16. 花嬌 花のように愛らしさま、嬌げる芸妓が常時数百人集められていたことを言う。花は即ち下の難樹の花。

17.  迎雜樹 雑樹は直接的な意味として、龍池、沈香亭の周りにあらゆる花木が植えられていたことを言うが、、興慶池、龍池の東、沈香亭の前に植えられたる紅・紫・浅紅・通白四種の木芍薬(牡丹)をいうもの。書して、興慶宮には、花萼相輝樓、官妓の詰所の勤政務本楼があり、玄宗の到着の細数千名の芸妓に迎えられた子を言う。

18.  龍喜出平池 平地は即ち龍池を言う。

により平池といふ、「明皇十七事」にいふ、天資中に、興慶池の小龍常に出でて宮塩水薄ら中に遊ぶ、塊艇たる奇状、人みな之をみる、

19. 留王母 王母は西王母であるが、ここでは、楊貴妃をさす、留とはひきとめて夜に至るをいうものである。


20.  微風 そよふく風。

21.  倚少兒 漢の武帝の衛子夫を言いその姉妹が使えて事で、ここでは楊貴妃の姉妹、虢国夫人に封じられもの、姉が韓国夫人、妹も秦国夫人に封じられ、毎年千貫を化粧代として支給されることになった。ことをさす。

貴妃の姉妹等をさす。倚るとは肩などによりかかることをいう、上に微風とあれば酔後風に吹かれながらよりかかるものなるを言うのであるが、陽国忠は宰相になり、陽一族で朝廷を左右させた。


22. 行樂祕 宮殿の庭や、離宮の中で、男女の頽廃的な行為を示すもの。行楽とは、野外に万幕這って飲食を行う、ピクニックであるが、「秘」とあるのは人前では話すことができないほどの行為をしていたという事。

23. 外人 宮禁以外の人、李白に宮中行楽詞八首あり、其四に日く、

《宮中行樂詞,八首之四》 

玉樹春歸日,金宮樂事多。後庭朝未入,輕輦夜相過。

笑出花間語,嬌來竹下歌。莫教明月去,留著醉嫦娥。

(宮中行楽詞 其の四)
玉樹 春 帰るの日、金宮 楽事 多し。
後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。
笑って 花間を出でて語り、嬌として 竹に下し来って歌う。
明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん。

(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)

宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。

743年(39)李白357 巻四25-《宮中行樂詞,八首之四》(玉樹春歸日,) 漢詩ブログ7033

 


 

 

 

【字解集】   ・C能畫  

能畫

24.(漢の武帝も一芸に秀でたものを引き上げた、この「能畫」は玄宗が「開元の治」と太平公平な時代の政治を行い、「一芸に秀でたもの」を引き上げた事を詠う)

 

25. 能畫毛延壽 漢の後宮に選ばれた王昭君がかれに賄賂を送らなかったことが理由で顔を醜く描かれ、やがて匈奴に送り出される運命に強いられ、絶世の美人を不本意に失った皇帝が毛延寿を死刑に処す。《西京雜記》巻五、畫工有杜陵毛延寫人好醜老少、必得 真。

杜甫《巻1736詠懐古跡五首其三》 

郡山万壑赴荊門、生長明妃尚有村。一去紫台連朔漠、独留青塚向黄昏。

画図省識春風面、環佩空帰月夜魂。千載琵琶作胡語、分明怨恨曲中論。

郡山万壑荊門に赴く、明妃を生長して尚お村有り。一たび紫台を去れば朔漠連る、独り青塚を留めて黄昏に向う。

画図に省て識らる 春風の面て、環佩 空しく帰る 月夜の魂。千載 琵琶は胡語を作りて、分明に怨恨を曲中に論ず。

山々、谷々は荊門山になだれこんでいく。このあたりに、王昭君が成長した村が今も残っている。ひとたび漢の王宮を去れば、どこまでも砂漠が続く。ただ青塚と呼ばれる墓だけが、夕暮れの光を前にして残っている。似顔絵師が故意に醜く描いたその似顔絵によってのみ、王昭君の美しい顔は皇帝に知られたのであり、環佩(女性の装身具)を揺らして、月の夜、魂だけが空しく故郷に帰って来る。千年後の今日まで、琵琶は異民族の調べを奏で、彼女の恨みをありありと曲の中に語っている。

26. 投壺郭舍人 投壺は『春秋左氏伝』にも見える非常に古いゲームである。『礼記』および『大戴礼記』に投壺篇があり、投壺の儀礼、壺と矢の寸法、席から壺までの距離などを細かく規定している。後世になると、『礼記』の記述とは異なる多くの特殊ルールがつけ加えられていった。たとえば『西京雑記』によると、壺に投げ入れた矢がはねかえるのを「驍」といって尊んだという。顔之推『顔氏家訓』の雑芸篇でも、驍が重視されたことが見える。また、壺の脇に「耳」と呼ばれる部分を設け、そこに矢が通るのを通常よりもよいとした。

《西京雜記》巻五、「武帝時、郭舍人善投壺。以竹為矢、不用棘、古之投壺、取中而不求還、故入小豆、惡矢躍而出也。郭舍人則激矢令還、一矢百餘反、謂之驍、言於軰中為驍傑也。 每投壺、帝輙賜金帛。」

27. 天一笑 天子武帝は投壺をうまくしたとき一笑して「賜金帛」を賜ったという。玄宗の時、歌舞、音楽、書画、雑技が最高に栄えた。

28. 物皆春 書画によって百物春の趣を生図という事。杜甫も馬、鷹等の絵について詩を作っている。絵師の馮紹正、韓幹などがいた。

29. 政化平如水 政治・施政の感化、平は泰平、公平が水のように水平である。

30. 皇恩 天子の報恩。天子は聡明である。

31. 斷若神 諸事を裁断あそばされること神のごとくであるということ。

32. 抵戲 前漢の正史『漢書』「武帝記」の元封3年の記録には、「春、角抵戯をおこない、三百里のうち、みなこれを観る」とある。舞踊や儀礼、射的、馬車を使ったものの披露や競い合いが増えていった。その後、それは文化スポーツ・娯楽活動である「角抵戯」として発展したのである。これらは雑技の範疇のものである。

33. 雜風塵 戦乱の風塵を言い、天下泰平にこの戦火が混じることはなかったという事。玄宗の「開元の治」は、唐始まって以来の大繁栄の時期であったことを言う。

 

 

 

【字解集】   ・D鬥雞  

鬥雞

34.(興慶宮でくりひろげられた雜芸は、驪山の離宮でも催され、闘鶏、舞馬などの遊戯が行われたことを追憶する。)

35. 鬥雞 《『荘子』達成篇 十九》紀省子爲王養闘鶏。十日而問、鷄已乎。曰、未也。方虚驕而恃氣。十日又問。曰、未也。猶應響景。十日又問。曰、未也。猶疾視而盛氣。十日又問。曰、幾矣。鷄雖有鳴者、已無変矣。望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者、反走矣。』(紀渻子、王の為に闘鶏を養ふ。 十日にして問ふ、 鶏は已にするや、と。 曰く、未だなり、方に虚憍にして気を恃む、と。 十日にして又た問ふ、曰く、 未だなり、猶ほ嚮景に応ず、と。十日にして又た問ふ、曰く、未だなり、猶ほ疾視して気を盛んにす、と。十日にして又た問ふ、曰く、 幾し。 鶏に鳴く者有りと雖も、已に変ずる無し。 之に望むに木鶏に似たり。

其の徳は全し。 異鶏に敢へて応ずる者無く、反りて走る、と)

二羽のニワトリを左右につがえて蹴り合わせる鶏合わせ=闘鶏は、もともとその勝敗により神意を判定する神占であった。中国古代の黄帝時代に、蒼頡(そうけつ)が鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。

36. 鬥雞 《東城父老傳》𤣥宗藩邸に在る時、民間清明節の 雞しむ、即位に及びて、雞坊を間に於て立て、長安の雄雞の、金毫、鐵距、髙冠、昂尾なるものを千數を索めて、雞坊に於て養い、六軍の小兒五百人を選び、之を馴擾し教飼せしむ。帝、出遊して、賈昌が雲龍門の道旁に於て木雞を弄するを見る。召し入れて五百の小兒の長と為し。天子、甚だ之を愛幸し、之に金帛の賜、日日其の家に至る、天下號して神雞童と為す。傳え又、云うて明皇、以て乙酉生じて雞を喜び、是れ兆亂の象なり。黄庭堅曰く:觀風樓の南に雞殿を起す

とあって、玄宗が統計を好んでいたことを示すものである。

37. 初賜錦 賜錦と勝った難に賞として錦をたまわった。杜甫《能畫》「天一笑」天子武帝は投壺をうまくしたとき一笑して「賜金帛」を賜ったという。玄宗の時、歌舞、音楽、書画、雑技が最高に栄えた。「初」は次句の「既」と対語、中途半端な勝負ではなく、死闘の後やっと錦を賜ったという事。

38. 舞馬 興慶宮には、いろんな戦いや軽業師、雜芸の詩が集まっていたことを示す句である。馬事態にいろんな芸を仕込んだり、馬上で軽業をしたりするあらゆる雑技を言う。特にその技に名づけられたものが多かった、それは、《明皇雜録》には上(玄宗)、嘗て舞馬四百匹を教えしむ、各おの左右部を分ち、目、某家龍、某家驕と為す。時に塞外善馬を以て来り貢する者あれば、上、之を俾して教習せしむ、其の妙を曲盡せざる無し。 因て命じて衣するに文繡をて以し、絡うに金鈴を以てし 其の鬃鬛を飾り、間するに珠玉を以てす。其の曲 之を《傾盃樂》と謂う者 數十回、首を奮い 尾を鼓かし、縦横 節に應ず。 又三層の板牀を施し、馬を上に乗す、抃轉 飛ぶが如し、或は令壯士をして舉榻せしめ、榻の上に舞わしめん、樂工 數十人 環立す、皆 淡黄の衫を衣て、文玉の帶をす、必ず年少く姿美なる者を求める、千秋節の每に、命じて御勤政樓の下に舞わしむ。  《明皇雜録》上、每宴賜酺、則ち御勤政樓、太常陳樂、教坊大陳尋橦、走索、丸劍、角觝、雞、令人數百、飾は珠翠を以てし、衣は錦繡を以てし、自ら幃中雷鼓を撃ち、《破陣樂》と為す。とある。

39. 宮人 見物の宮女も集められた、有る年の元宵節觀燈には数千名を超える宮女が興慶宮に集められた。

40. 御柳長 御〔曲〕長 「柳」の場合は興慶宮の龍池の柳を言うが、「曲」のばあい、玄宗は多くの演舞曲を作らせている。𤣥宗製新曲四十餘、又新製樂譜、每初年望夜、 勤政樓觀燈作樂、貴臣戚里設看樓觀望。“清之樂” 、“紫雲迴”、“霓裳羽衣之曲” 夜闌、太常樂府懸樂畢、即遣女於樓前縛架、出眺歌舞以之。

開元傳信録》:明皇夢遊月諸仙子以上清之樂、其曲凄楚動人、明皇以玉笛尋得之、曲名《紫雲迴》。 《異聞録》開元六年八月望、上與申天師、洪都客作術、夜遊月見素娥十餘人、笑舞於廣庭桂樹之下、音樂清麗、遂歸製霓裳羽衣之曲。とある。

41. 仙遊 玄宗がおかくれになってしまったこと。道教を厚く保護推進し、崩御を昇天仙遊と表現した。

42. 終一閟 このような遊びごとはまったくなくなってしまったことをいう。

43. 女樂 上級奏者の妓優をえらびあつめた女楽隊。

44. 驪山 西安府臨撞縣東南二里にある。驪山には温泉宮があった

李白《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人》

温泉宮。驪山の華清宮にある。《唐書》「京兆府昭應縣木新豐有宮旗國山下天寶二年分新豐萬年置舍昌繇七載肖新豐改會圄為胎應治溫泉宮  開元十一年置溫泉宮,天寶六載改為華清宮於驪山上,益治湯井為池,臺殿環列山谷。自開元來,每 ...... 是年,改溫泉曰華清宮,治湯井為池,環山列宮室,又築羅城,置百司及十宅。」

李白307-#1 《巻八 23駕去溫泉後贈楊山人#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白307-#1> Ⅰ李白詩1609 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6593

 

 

 

【字解集】   ・E歷歷  

歷歷

45. (安史の乱後久しく蜀地に病客しているが、何とかして故郷に帰りたいと思いを馳せる。)

46. 歴歴 はっきりしている貌。張華詩昔事歴歴記。

47. 開元 玄宗の年號、治平の時、「開元の治」なり。開元の治(かいげんのち)は、中国唐(618 - 907年)の第6代皇帝玄宗の治世、開元(元年 - 29年)年間(713 - 741年)の政治を指す。貞観の治と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つで、唐は絶頂期を迎えた。しかし、後に玄宗が楊貴妃を寵愛し政治を放棄したため唐は混乱し、安史の乱が起こったため崩壊した。

48. 分明 庾信《春賦》分明入射堂、 謝靈運詩:浮歡昧眼前。

49. 無端 突然。

50. 盗賊 安禄山。安史軍。75511月幽州、薊州で蜂起した。安史の乱(あんしのらん)、ないし、安禄山の乱とは、755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。

51. 歳時 一年四時。1年の四つの季節、春夏秋冬の総称。四季。

52. 西江 長江は長安よりみて西南にあり故に之を西江という。隂鏗詩 :江連巫峽長。  梁簡 帝詩:落日下西江。曰蜀江従西来、故謂之西江。長安城謂之北斗城。蔡夢弼曰:公在蜀為尚書員外郎、故云。  荀悦《漢紀》馮唐白首屈於郎署謂。謝靈運詩:卧病同淮陽。

53. 秦城 長安の城。

54. 北斗邊 北方にあり、故に北斗の邊といふ、毎依北斗-望京華。と同意。

55. 為郎白首 漢の馮唐が故事。馮唐は孝行で知られ、文帝の時に郎中署長となった。あるとき文帝は彼に「貴方はどうして郎となったのか?家はどこにある?」と尋ねたので、馮唐はありのまま答えた。文帝は「私は鉅鹿で戦った趙将李斉の賢明さを聞いて以来、鉅鹿のことを思わない日は無い。貴方は彼を知っているか?」と聞いた。馮唐は「李斉は廉頗、李牧には敵いません」と言った。文帝は「廉頗や李牧を将にできれば匈奴を怖れることもないのだが」と嘆息したが、馮唐は「陛下が廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないでしょう」と言ったため、文帝は怒って禁中に入っていった。しばらくして文帝は馮唐を召し出し、「どうして公衆の面前で私を辱めず、人のいないところで言わないのだ?」と叱責した。馮唐は「私は田舎者で隠すことを知らなかったのです」と答えた。

文帝は馮唐に「貴方はどうして廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのだ?」と聞いた。馮唐は「古の王は将を派遣する際には、軍の功績や恩賞は国の外で決められ、帰ってから報告したと聞きます。李牧も恩賞を外で決め、国内からそれを覆すことはしませんでした。だから李牧は匈奴を追い払い秦を抑えることができたのです。私が聞くところでは、雲中郡の太守をしていた魏尚は私費まで出して士卒に振る舞い、このお陰で匈奴も雲中を避け、匈奴が侵入した時には魏尚が迎撃して多くの敵を殺しました。そもそも兵士は農地を離れて従軍しているのですから、どうして法令を知っているでしょう。力戦して首級を挙げたところで、功績を幕府に報告すると、見合う恩賞は与えられず、役人が法でがんじがらめにするという状態です。思うに陛下は法には大変明るいのですが、賞は大変軽く、罰は大変重くなっています。また魏尚は報告した首級の数が6つ合わないというだけで罪となり、爵位は削られ刑徒となっています。そうしたところから、陛下は廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのです」と答えた。

文帝はその日のうちに馮唐に節を持たせて使者とし、魏尚を赦免して雲中守に再び任命した。それから馮唐を車騎都尉に任命し、中尉と郡国の戦車兵を仕切らせた。

十年後、景帝の時代になり、景帝は馮唐を楚相とした。また武帝が即位し、賢良を求めた際に90歳を超えていた馮唐が推挙された。馮唐は老年で行けなかったので子の馮遂を郎に任命した

56. 數秋天 幾同秋日を経しやをかぞえる、「南菊再逢」・「黄菊兩開」の類である。

數秋天、屢經秋日也。 顧注 前後情事、俱従卧病中 數而見者、其語太曲。庾信《小園賦》異秋天 而可悲。

 

 

 

【字解集】   ・F洛陽  

洛陽

57.(安禄山蜂起し、1か月で東都洛陽が陥落し、翌年6月には、潼關に侵入し、同月玄宗は蜀に逃避、長安も陥落した。この詩は玄宗の都落ち、再び、翌年十二月、帰還したことを追懐して詠ったもの)

安禄山の乱と杜甫 を参照。

58. 洛陽昔陷沒 安史軍によって洛陽が攻め音さえたこと。

755 天宝十四年11月 9日、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。

755 1116日-朝廷では安西節度使封常清を召して対策を下問。封常清を先鋒部隊の大将として洛陽に進発させた。
755
 12月 2日-高仙芝が総司令官として東に向かった。

755 12月 6日-陳留(河南省開封の陳留)陥落。

755 1210日-鄭州(河南省許昌の鄭県)陥落。

755 1213日-洛陽陥落。敗れた封常清は、高仙芝とともに洛陽と長安の間にある潼関で安禄山軍をくい止めようとしたが、監軍(目付)として従っていた嘗者の辺令誠の蔑言により、両名は玄宗より死を賜わった。そのあとは河西・院右の節度使哥舒翰に引き継がれた。12月翌年の618日には長安に入城する。

59. 胡馬 ウイグルの傭兵を多く含んだ安禄山と史忠明の連合で、乱を起こしたために、安史軍、安史の乱という。

60. 潼關 潼關の闘い、756年天宝十五載の六月九日哥舒翰は守戦が利として反対する。北地で戦っていた郭子儀と李光弼も守るべきと上奏したが、楊国忠が強硬に言い張り玄宗も同意した。何度も出撃命令の使者を送られた哥舒翰は慟哭したが、20万の兵を率い潼関から出た。安禄山軍の武将・崔乾祐と交戦するが、伏兵にあい大敗。潼関に退却し、敗残兵8千を率いて再戦を試みるが、武将の火抜帰仁が裏切ったために捕らえられる。火抜帰仁は、安禄山軍の田乾真に降伏し、哥舒翰は洛陽に送られる。杜甫《巻五08述懐》「去年潼関破、妻子隔絶久。」(去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。)去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
去年756年天宝十五載、即ち至徳元載をさす、至徳の改元は七月である。〇潼関破 756年天宝十五載の六月九日、哥舒翰が王朝軍、叛乱軍の倍の数の軍を率いて絶対破れないとされていた潼関において、叛乱軍に大敗し、捕えられたことをいう。○隔絶 杜甫の妻子は鄜州の羌村に寄寓させてあった。両者の間がへだたることをいう。逢うためには、う回路の峻険な山道を通らなければならない。

述懐 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 178

61. 天子初愁思,都人慘別顏 潼關の戦いは、敗北を全く予想だにしていなかったため、唐王朝、長安の人々は大パニックに陥った。唐朝廷は、楊国忠の進言により、756613日、宮廷を脱出する。次の朝には、朝廷には、上級官僚以上は誰もいなくなっていた。玄宗は蜀(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗は自殺を銘ず、その意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる。失意の中、玄宗は退位した。このことを「初愁思」と表現し、残された長安の人々は「都人慘別顏」と表現したもの。

皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。

62. 清笳去宮闕 「清笳」は756618日、安史軍が朝方から長安に入朝したことをいう。

63. 翠蓋 翡翠の羽で飾られた天子の御輦。

64. 關山 辺地の関所のある山。この場合、蜀道を意味し、玄宗の職への逃避を意味する。

65. 故老 長安陥落は潼關で哥舒 翰が大敗、長安脱出に、残された老人たちのこと。

66. 流涕 激しく泣くこと。

67. 龍髯幸再攀 龍髯は三皇五帝の黄帝、五帝の第一。炎帝(神農氏)の末に蚩尤(しゆう)の乱を平らげて天子となり、衣服、舟車、家屋、弓矢などの生活用具を初めてつくるとともに、文字、音律、暦などを制定し、また薬草を試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王とされる。この黄帝伝説は『書経』『詩経』などの古文献にはみえず、戦国末の五行説の流行に伴って、先行の各種の神話伝説を基に徐々に形成された比較的新しいものである。また、道家末流によって老子に先だつ開祖とされ、その所説に付会した書がつくられて、漢初には「黄老の学」が流行した。後漢(ごかん)以降は神仙術や道教と結んで神格化された。その黄帝が龍の髯をつかまり天に昇ったことに、多くの天子の崩御の事に用いた、道教を重んじた玄宗を喩え、また、玄宗は龍にかかわる多くの故事があり、喩えられた。黄帝の事は、《前漢・郊祀志》黄帝、首山の銅をり、鼎を山の下に鑄る。 鼎、既に成る、龍有り胡髯を垂れて下り迎う。黄帝騎りて上る、羣臣、後七十餘人従いて上つる、龍に乃りて去る。 餘の小臣は得ずしれ上る、迺悉龍髯を持つ。龍髯拔けて墮す、黄帝之弓を墮す、百姓乃ち其の弓と龍髯とを抱きて號す。 後世、因て其處を名けて鼎湖と曰い、弓を烏號と曰う。と見える。

 

 

 

【字解集】   ・G驪山 

驪山

68. (驪山を開発して、離宮華清宮、温泉宮をつくり、毎年のように避寒に御幸行した玄宗の崩御を追懐して詠った)

69. 驪山 杜甫の《巻四07 奉同郭給事湯東靈湫作》「東山氣鴻蒙,宮殿居上頭。君來必十月,樹羽臨九州。」郭給事が湯東の靈湫の作に同し奉る。長安の東にあたる驪山にはもくもくと煙、湯気が立ち込めている、華清宮の宮殿はその上方にかぶさるように存在している。我が君がここへおいでになるのはかならず十月になってからだ、ここに羽旗をたてて天下九州のまつりごとにあたられるのである。
 和するをいう。他人が作った詩につけて、我が意をのべること。○郭給事 郭は姓、名は詳かでない、給事は官名、給事中をいう。○湯東靈湫 湯は驪山の温泉をいう。前詩では、華清宮。靈湫とは竜の住む不思議な池をいう。○東山 驪山をいう、長安の東に在るからである。○ 温泉の気。○濠鴻 或は鴻濠に作る、もやくや。○宮殿 華清宮をいう。○上頭 上方にかぶさるように存在するさま。○ 玄宗。〇十月 玄宗は避寒のため十月に行幸し、歳が尽きて帰る。○樹羽 羽旗をたてる、羽旗は羽をかざった旗。「赴奉先県詠懐」詩の「羽林相摩真ス」と同意であろう。或は楽器の装飾ととくが恐らくは非であろう。○臨九州 九州は天下をいう。天下に臨むとはここで政治を視られることをいう。

驪山の麓(長安から二十数km)に、玄宗皇帝の離宮華清宮(楊貴妃と過ごすようになって名称をこれに変えた。それまでは、温泉宮が築かれていて、山の険しいところに玉座のある宮殿が建っているのが見える。、李白も朝廷翰林院の時、三首、天子に同行した詩がある。

侍従遊宿温泉宮作 

駕去温泉宮後贈楊山人 

溫泉侍從歸逢故人 

70. 絶望幸 行幸を望むことも絶えたという事。玄宗がすでに崩御しているということ。玄宗は肅宗の上元二年(761)四月甲寅、神龍殿に崩御す。御年七十八、代宗の廣徳元年三月辛酉(763)に泰陵に葬る。

71. 花萼 興慶宮の花萼相輝之樓の事。玄宗晩年、執務をとったところ。勤政務本之樓と相対す。興慶宮の図参照。

72. 罷登臨 樓に登って俯臨することもなくなったことを言う、これも玄宗崩御に依ることを言う。

73. 地下 冥土、黄泉の国をいう。

74. 無朝燭 朝は朝覲、參朝、などの朝、臣下が朝早く宮中へでむくこと、こうした參朝は、夜が明けるまでに整列するため暗いうちに宮殿に入るので蝋燭を煌々とつけたことを言う。

75. 人間 生存している人人のあいだに。

76. 有賜金 皇帝が残した遺言により王侯百官に恩賜さられた金。黄庭堅曰:《漢書・髙后紀》遺詔賜諸侯王各千金。 《北史》:隋獻皇后山陵成、賜楊素金鉢一、實以金:銀鉢一、實以銀。

77. 鼎湖龍去遠 黄帝の故事をもちいて玄宗の崩御を言う。。杜甫《(卷一七(四)一五二五)洛陽》「故老仍流涕,龍髯幸再攀。」(故老 仍りて 流涕す,龍髯 幸に再び攀ず。東西の都を奪還され、一度離れた龍の髯に幸いにも再びよじ登ることができるという事は、誠に喜ばしく、長安、洛陽の都の故老たちは感動して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるほどであった。

78. 銀海雁飛深 秦の始皇帝陵の故事を言う。《漢書》:秦の始皇 於驪山の阿に塟らる、下は三泉を錮し、上は三墳を崇くし、水銀にて江海を為くり、黄金にて鳬雁を為くる。何遜の《經孫氏陵》詩に:銀海は浪無く終り、金鳬は飛ばずにす。

79. 萬 永久に。

80. 蓬萊日 大明宮の蓬莱宮を照らした太陽、宮殿は玄宗の生時に居られた処であったところであること。

81. 舊羽林 羽林軍、龍武軍などを言い、玄宗崩御後、護陵軍となったのでこういう。

高宗の龍朔二年(662年)、左右の屯衛を改めて左右の羽林とし、大将軍、将軍を設けて統率させ、下に長史、参軍そして校尉、旅帥、隊正などの各級官員を置いた。武則天は太宗のときの百騎を改めて「千騎」とし、中宗はさらに千騎を改めて「万騎」とし、玄宗は万騎を改めて左右の龍武軍とし、その編制は羽林と同じであった。ここに至り、左右の羽林と左右の龍武の四軍から組織された北衙禁軍が形成された。北衙禁軍の主要な任務は宮城に宿直しての警備で、あわせて宮城北門も統制し、少しですが出征して戦争もした。

 玄宗の天宝年間、府兵と同じように、一万人を擁する北衙禁軍も衰退に向かった。「天宝末年になると、禁軍は活動を停止して弱体化し、蜀に入ったとき、玄宗に従ったのはわずか千人であった。粛宗が霊武に赴いたとき、兵士は百に満たない数で」、北衙禁軍は弱まり散って尽きるに及んだのであった。粛宗の至徳二年(757年)、さらに左右の龍武と左右の羽林の四軍を再建し、あわせて「はじめて左右の神武軍を置き、あわせて神軍天騎と言い、制度は羽林と同様で、まとめて北衙六軍と言い」、合計で約一万人であった。殿前の保衛力量を増強するため、さらに「乗馬して射撃するのがうまい人を選んで、衙前射生手千人を置き、供奉射生官とも言い、さらに殿前射生とも言い、左右の廂に分かれた」。まもなく、殿前射生左右廂は拡充されて英武軍となった。その後、諸軍は設置と廃止を繰り返し、舞廂もたびたび変化したのである。