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767-171 自瀼西荊扉且移居東屯茅屋四首其一(卷二○(四 )頁一七四六)注(1187) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9659

(瀼西の隠遁者の扉の草堂から、しばらくの間の予定で、東屯の茅屋の方へ住まいを移すことを述べたもの。

ここは白鹽という急峻で落石の多い危なげな山の北側に位置する、また、赤甲山の古城の東にあたっている。

僅かな平らの地面に一筋の川が穏やかに流れているが、離れた四方はどちらも同じように、高山が立ち並んでいる。

今や煙霞や霜があって野良の日の光が冷たそうにひかり、照る、うるしねが空から吹く風に乗って実っている。

自分は、根無し蓬のように転々して歩くといういたましい人事に出会っているけれど、こんなところで桂叢を守って暮らそうと思っている。

 

767-171

自瀼西荊扉且移居東屯茅屋四首其一

(卷二(四 )頁一七四六)

全唐詩巻二二九76

全唐詩卷二○(四 )頁一七四六

767年大暦256  () -

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ9659

 

自瀼西扉且移居東屯茅屋四首(杜甫 唐詩)

其一

  白鹽危嶠北,赤甲古城東。

  平地一川穩,高山四面同。

  煙霜淒野日,粳稻熟天風。

  人事傷蓬轉,吾將守桂叢。

 其二

  東屯複瀼西,一種住青溪。

  來往皆茅屋,淹留爲稻畦。

  市喧宜近利,林僻此無蹊。

  若訪衰翁語,須令剩客迷。

 其三

  道北馮都使,高齋見一川。

  子能渠細石,吾亦沼清泉。

  枕帶還相似,柴即有焉。

  斫畬應費日,解纜不知年。

 其四

  牢落西江外,參差北間。

  久游巴子國,臥病楚人山。

  幽獨移佳境,清深隔遠關。

  寒空見鴛鷺,回首憶朝班。


 

作時年:

767

大暦2

56

全唐詩

巻二二九76

文體:

五言律詩

杜詩詳注

卷二○(四 )頁一七四六

20-27

詩題:

自瀼西荊扉且移居東屯茅屋四首其一(卷二○(四 )頁一七四六)

序文

 

作地點:

奉節(山南東道 / 夔州 / 東屯)

及地點:

奉節(山南東道 / 夔州 / 瀼西)

奉節(山南東道 / 夔州 / 白鹽)

奉節(山南東道 / 夔州 / 赤甲・古城)

 

交遊人物:

東屯李氏

 

 

高人逸士

0

 

 

自瀼西扉且移居東屯茅屋四首其一

(瀼西の隠遁者の扉の草堂から、しばらくの間の予定で、東屯の茅屋の方へ住まいを移すことを述べたもの。)その一

  白鹽危嶠北,赤甲古城東。

ここは白鹽という急峻で落石の多い危なげな山の北側に位置する、また、赤甲山の古城の東にあたっている。

  平地一川穩,高山四面同。

僅かな平らの地面に一筋の川が穏やかに流れているが、離れた四方はどちらも同じように、高山が立ち並んでいる。

  煙霜淒野日,粳稻熟天風。

今や煙霞や霜があって野良の日の光が冷たそうにひかり、照る、うるしねが空から吹く風に乗って実っている。

  人事傷蓬轉,吾將守桂叢。

自分は、根無し蓬のように転々して歩くといういたましい人事に出会っているけれど、こんなところで桂叢を守って暮らそうと思っている。

 

(瀼西の扉より 且く東屯の茅屋に移居す 四首其の一)

 白鹽 危嶠の北,赤甲 古城の東。

 平地 一川 穩やかに,高山 四面 同じゅうす。

 煙霜 野日淒たり,粳稻 天風に熟す。

 人事に 蓬轉を傷む,吾 將に桂叢を守らんとす。

 

  自瀼西扉且移居東屯茅屋四首

鶴注公以大厯二年移居東屯當是其時作

  平于栗東屯少陵故居記峽中多高山峻谷地少 曠東屯距白帝五里而近稻 

  田水畦延袤百頃前帶清溪後枕高岡樹林葱蒨氣象深秀稱高人逸士之居 陸游記東屯李氏 

  居已數世上距少陵纔三易主大厯初故劵猶在何宇度談資工部草堂在城東十餘里尚有遺址

  可尋止有一碑存數字題重修東屯草堂記似是元物

白鹽危嶠北赤甲古城東平地一川穏高山四面同煙

霜凄野日秔稻熟天風人事傷蓬轉吾將守桂叢

首章敘移居之事有上四東屯地勢五六東屯秋景末居屯之意 後 寄裴施州詩云幾度附書

白鹽北可見東屯在白鹽之北赤甲之東矣秔稻熟天風上半句因下 霜煙凄野日下半句因上

顧注公自冬寓夔之西閣再遷赤甲三遷瀼西今又遷東屯一四遷不啻如飄蓬之轉故欲守

此而不移也。 邵注山峻而高曰嶠秔稻粳米也昏謝靈運詩序石門新營所住四面高山周

王褒詩庭 野日黄 劉安招隠士桂樹叢生兮山之幽曰桂叢時/蓋八月矣

 東屯復扶又/瀼西一種/住清溪來往皆一作/茅屋淹

 留為/稻畦市喧宜近/利林僻此無蹊若訪衰翁語

須令/賸客迷

次章寫居屯之故為東西兩舍總在清/溪今特移屯者一 穫稻而來一為避喧而至也

過客易迷言地僻不減桃源/ 市喧指瀼西公詩市瀼西頭可證 一種一様也/為近

市三倍庾信賦晏嬰近市不求朝夕之利其曹植詩/欲還絶無蹊 陸機詩遊賞愧賸客賸言 多也

 

 

道北馮都使/高齋見一川子能渠細石吾亦沼清泉

枕帶一作/還相似柴即有焉斫畬//費日解纜不知年

三章敘東屯隣居之勝/故彼渠此沼共在一川 都使高齋隔川望見/朱注林泉枕帶兩家

相似故柴門之外即可兼而有之道斫畬種植應費時/目則解䌫而去正未有期也 謂東屯之北

游少陵髙齋記少陵居夔三徙居皆名高齋其詩曰次/水門者白帝城之高齋也曰依藥餌者瀼西之高齋也

曰見一川者東屯之高齋也故又曰高齋非一處今按/高齋見一川緊接道北馮都使則高齋當屬馮氏之居

大約集中高齋有就他人言者如高齋坐林杪是白水/崔少府之齋有就自已言者如高齋常見野是梓州所

寓之居此皆可證泉趙汸云渠之沼之實字作活字用/注細石通渠清 作沼兩句用倒裝法 北史韋夐

淡於營利所居之宅枕帶林泉對玩琴書蕭然自/申涵光曰柴即有焉不成句法 薛夢符曰

畬田先縱火燒爐候經雨下種蓋田厯三土脉已竭/不可復樹藝故須燒榛以肥其土爾雅田三曰畬

夢得竹枝歌長刀短笠去燒畬纜揚雄太/𤣥經徒費日也 謝靈運詩解 候前

 

牢落西江外參初簪//間久遊巴子國吴作/

臥病楚人山幽獨移佳境清深隔關寒空見鴛鷺

首憶一作//末章見東屯不可居以杜臆牢落/參差終非老之地但 臥病旅中

取其幽獨清深以自休息耳及見鴛鷺翔空則又想朝/班行列公於用世之志終未忘歟 牢落寥落也

注公之北與馮都使居參差相對瞿巴子國夔州也/ 謝靈運詩幽獨賴鳴琴 入蜀記 唐關西門正對

灔澦堆自關而東即少陵東屯故居不黄生曰/ 鴛鷺不列於朝忽從寒空見之 堪回首

 

《自瀼西扉且移居東屯茅屋四首》現代語訳と訳註解説
(
本文)

其一

  白鹽危嶠北,赤甲古城東。

  平地一川穩,高山四面同。

  煙霜淒野日,粳稻熟天風。

  人事傷蓬轉,吾將守桂叢。

 

(下し文)
(瀼西の扉より 且く東屯の茅屋に移居す 四首其の一)

 白鹽 危嶠の北,赤甲 古城の東。

 平地 一川 穩やかに,高山 四面 同じゅうす。

 煙霜 野日淒たり,粳稻 天風に熟す。

 人事に 蓬轉を傷む,吾 將に桂叢を守らんとす。

 

(現代語訳)

(瀼西の隠遁者の扉の草堂から、しばらくの間の予定で、東屯の茅屋の方へ住まいを移すことを述べたもの。

ここは白鹽という急峻で落石の多い危なげな山の北側に位置する、また、赤甲山の古城の東にあたっている。

僅かな平らの地面に一筋の川が穏やかに流れているが、離れた四方はどちらも同じように、高山が立ち並んでいる。

今や煙霞や霜があって野良の日の光が冷たそうにひかり、照る、うるしねが空から吹く風に乗って実っている。

自分は、根無し蓬のように転々して歩くといういたましい人事に出会っているけれど、こんなところで桂叢を守って暮らそうと思っている。

 

(訳注)

自瀼西扉且移居東屯茅屋四首其一

1. (瀼西の隠遁者の扉の草堂から、しばらくの間の予定で、東屯の茅屋の方へ住まいを移すことを述べたもの。

2. 【題意】于栗が東《東少陵故居記》に「峽中には高山峻谷多く、地は平曠なるもの少く、東屯は白帝を距さること五里にして近し、稻田水畦、延袤百頃、前には、清溪を帶び、後には、高岡に枕のぞむに、樹林葱蒨、氣象深秀、高人逸士之居に稱かなう」と。

 陸游の記に、「東屯の李氏、居ること已に數世、上 少陵を距る、纔に三たび主を易う、大厯の初めの故劵 猶お在り」と。

何宇度の談、資工部、草堂は城東十餘里に在り。尚お遺址有り、可尋止一碑有り。數字存り、題重修、東屯の草堂、記は是れ元物に似たり。

3. 瀼西 瀼西の草堂と蜜柑園がワン・セットになっていたらしいことを思わせる。また《1850_暮春題瀼西新賃草屋五首》其三の詩に「乾坤の一草亭」、すなわちこの草屋にあって「細雨に鋤を荷って立つ」とあるから、畑なども同時に付属していたらしいことがわかる。

 この詩の詠じ方からすると、瀼西に移り住んでからの、杜甫の蜜柑に対する関心は、果木の美しさを観賞するという立場ではなく、あきらかに経済的、経営的な立場からのそれである。彼の蜜柑園もまた商品作物であり、また即ちいわゆる封殖(土寄して栽培)することである。どのように言おうとも、彼は蜜柑園をとても重視していた」(『杜甫夔州詩現地研究』二八六頁。第Ⅲ部第一章参照)と述べているとおりである。蜜柑が商品作物だから当然お金で売り買いされる。杜甫もそのことはよく承知していた。

4. 東屯 奉節県の東十里、白帝城の東に東瀼水がある、水源は長松嶺であり白帝山を経て大江に流れ入る。公孫述が東瀼水のほとりに稲田を開墾したので、其の地を東屯という。

東屯」は夔州城の東の地名(重慶市奉節県白帝鎮浣花村附近。宋開玉『杜詩釈地』)。かつての公孫述の駐屯地とされ(異説あり)、また「蜀」(ここでは四川省と重慶市)でも最良の稲が収穫できた。杜甫はこの時期、ここに稲田を所有していた。「夔州歌十絶句」其の六に「東屯の稲畦は一百頃」。其の一は転居した東屯の地を述べる。其の二は転居の理由をいう。其の三では自らの居宅と隣家の様子を措く。其の四は東屯が長く住むのにふさわしくないことを歌う。

 

  白鹽危嶠北,赤甲古城東。

ここは白鹽という急峻で落石の多い危なげな山の北側に位置する、また、赤甲山の古城の東にあたっている。

5. 白鹽・赤甲 杜甫《夔州歌十句,十首之四》  

赤甲白鹽俱刺天,閭閻繚繞接山。楓林橘樹丹青合,複道重樓錦繡懸。

(夔州の風土についてのべている。十首の四:夔州の杜甫草堂から臨む景色を述べたもの)赤甲山も白塩山もともにそびえて天をつきさしている。村里の家家がうねうねと山のいただきまでつづいている。それをながめると楓の林、橘の樹がまじって丹青の色がいっしょになり、複道や重楼は錦繍がつるしてあるかのようにうつくしくみえる。

○白鹽 山の名、奉節県東十七里にある。

卷一五48  白鹽山「卓立群峰外,蟠根積水邊。他皆任厚地,爾獨近高天。白牓千家邑,清秋萬估船。詞人取佳句,刻畫竟誰傳?」

卷一八52  入宅三首其一「奔峭背赤甲,斷崖當白鹽。客居愧遷次,春色漸多添。花亞欲移竹,鳥窺希捲簾。衰年不敢恨,勝概欲相兼。」

卷二○10  反照「反照開巫峽,寒空半有無。已低魚腹暗,不盡白鹽孤。荻岸如秋水,松門似畫圖。牛羊識僮僕,既夕應傳呼。」

卷二○25 自瀼西荊扉且移居東屯茅屋四首其一「白鹽危嶠北,赤甲古城東。平地一川穩,高山四面同。煙霜淒野日,(禾亢)稻熟天風。人事傷蓬轉,吾將守桂叢。」

卷二○97   寄裴施州(「幾度寄書白鹽北,苦寒贈我青羔裘。」

○赤甲 夔州府奉節県の東十五里にある山の名。

卷一五67 黃草 「黃草峽西船不歸,赤甲山下人行稀。秦中驛使無消息,蜀道兵戈有是非。萬里秋風吹錦水,誰家別淚濕羅衣?莫愁劍閣終堪據,聞道松州已被圍。」

卷一八52 入宅三首其一「奔峭背赤甲,斷崖當白鹽。客居愧遷次,春色漸多添。花亞欲移竹,鳥窺希捲簾。衰年不敢恨,勝概欲相兼。」

卷一八55赤甲「卜居赤甲遷新居,兩見巫山楚水春。炙背可以獻天子,美芹由來知野人。荊州鄭薛寄詩近,蜀客郗岑非我鄰。笑接郎中評事飲,病從深酌道吾真。」

卷二○25 自瀼西荊扉且移居東屯茅屋四首其一「白鹽危嶠北,赤甲古城東。平地一川穩,高山四面同。煙霜淒野日,(禾亢)稻熟天風。人事傷蓬轉,吾將守桂叢。」

 

  平地一川穩,高山四面同。

僅かな平らの地面に一筋の川が穏やかに流れているが、離れた四方はどちらも同じように、高山が立ち並んでいる。

6. 一川 東瀼水、この東浜の傍に、東屯がある。

 

  煙霜淒野日,粳稻熟天風。

今や煙霞や霜があって野良の日の光が冷たそうにひかり、照る、うるしねが空から吹く風に乗って実っている。

7. 淒 冷たい感じ、様子を言う。

8. 粳稻 うるしね、粳、ウルシネ。水稲米。

  人事傷蓬轉,吾將守桂叢。

自分は、根無し蓬のように転々して歩くといういたましい人事に出会っているけれど、こんなところで桂叢を守って暮らそうと思っている。

9. 蓬轉 根無し蓬のように転々する。

10. 桂叢 桂の高木の林。

瞿塘峡・白帝城・魚復 

 

<題意の補足(杜甫詩を理解を深めるために)>

東屯への転居について

------------------------------------------------------------------

 杜甫は米作りをし、水遣りと草取りのさぎょうもした。そして、767年、大暦二年の晩秋、農業経営の中心であった瀼西宅から、東屯への引っ越しをしたのである。そのことは、《2008_瀼西の荊扉より且らく東屯の茅屋に移居す、四首》の詩によって知ることができる重要な詩である。

 引っ越したのは、もっぱら稲作のためだった。其の二の詩に目的がみえる。

  來往皆茅屋、淹留為稻畦。 

(来たりまた往くも皆な茅屋にして、淹(ひさ)しく留まるは稲畦(いなだ)が為なり。)

 《2028_自瀼西荊扉且移居東屯茅屋、四首其二》

「稻畦」と、はっきり述べられている。

 同じことはまた《2058_暫く白帝に往きて復た東屯に還る》の詩でも述べられている。このとき杜甫は東屯から、白帝城のある城内にしばらく行っていたのだが、また東屯にもどってきた。

  復作歸田去、猶殘穫稻功。 

(復た 田に帰り去るを 作()すは、猶お 稲を穫()るの功(しごと)を 残せばなり。)

    《2058_暫往白帝、復還東屯》

稲田のある地にまた帰って行くのは、やり残した収穫の仕事のためなのだと詠じている。稲の収穫は、杜甫にとっては人任せにしたり、片手間にやれるようなものではなかった。杜甫の人生にとって、引っ越しをせねばならぬほどの重みがあったと言うべきであろう。

 

 転居の時期は、晩秋と考えられる。そのことは左の詩の其の一で、

  煙霜淒野日、秔稻熟天風。 

(煙(もや)と霜のなか野日は凄(さむ)く、秔(うるち)の稲は天風にふかれつつ熟す。)

  《2027_自瀼西荊扉、且移居東屯茅屋、四首其一》

といっていることからもわかる。霜が降り、稲穂が熟しつつある時節である。稲が熟す稲刈りの時期が、杜甫の夔州詩では旧暦の晩秋九月であることは、第四節で述べたとおりである。

 では移居後、東屯にはいつまで居たのか、収穫が終わったらまた瀼西宅に戻ったのか。これらについてはよくわからない。夔州期は生活上のことをよく詩に歌っているが、再び瀼西宅に戻ったなどと、はっきり述べる詩は残っていない。ただ東屯に移ったあとの瀼西宅を、杜甫の娘婿の呉郎に貸し与えていたことはよく知られている。

 

 杜甫は翌年の正月中旬には夔州を旅立つ。城内では出航の準備をする必要もあったろう。東屯に引っ越す九月初めから一月中旬まで、その四ヶ月余り杜甫はどのような住まい方をしていたか。それはよく分からないし、旧来の伝記類もその点については曖昧にしている。しかし残された詩からすると、東屯を中心にしつつも、収穫の点検が終わってからは東屯、瀼西、白帝城内の三ヶ所を必要に応じて往来していた、と考えるのが無難なところではなかろうか。

 

 東屯に移り住んだあと、杜甫はどのような農事にたずさわったのだろうか。それらを拾い上げると、みな収穫に関する詩である。既に引いたものもあるが、煩をいとわず列挙してみると、

2030_從驛次草堂復至東屯茅屋二首》其一

  築場看斂積、一學楚人為。

(脱穀の)場を築きて イネを斂(おさ)め積むを看る、一に学ばん 楚人の為すを)

2058_暫往白帝復還東屯》

  復作歸田去、猶殘穫稻功。築場憐穴蟻、拾穗許村童。 

(復た 田に帰り去るを 作()すは、猶お 稲を穫()るの功(しごと)を 残せばなり。

 場を築きては穴の蟻を憐み、穂を拾うは村童に許さん。)

2033_刈稻了詠懷》

  稻穫空雲水、川平對石門。 

(稲は穫()りおわりて雲水は空しく、川は平らかにして石門に対す)

2043_雲》

  收穫辭霜渚、分明在夕岑。 

(米の収穫の後、雲は霜おく朝の渚を辞して、分明と 夕べの岑に在り。)

の如くである。

 

 ここには、「収穫」「稲は穫りおわる」「稲を刈り了る」「稲を穫る功」「(脱穀の)場を築く」「イネを斂(おさ)め積む」などの表現が用いられている。しかしこれらは、いずれも収穫の具体的な状況を描いたものではない。それは杜甫が初めから具体的な農事の場を写しとるつもりで、詩を作ったわけではないから当然であろう。

 「イネを斂(おさ)め積むを看る」とあるように、杜甫は稲の取り入れを傍から見ているのである。それが杜甫が行った米作りの「農事」である。繰り返すが、実際に杜甫が田に下り、鎌を持って稲を刈ったわけではない。それは病気がちの杜甫の健康が許さなかったなどという問題ではない。もちろん例外的なケースはあるだろう。が、伝統中国の王朝体制では、読書人階層の人間が自分の肉体を酷使する、こうした穀物生産労働に直接従事することは、普通はなかった。(後世の文人趣味としての風流な花卉栽培や、隠遁的風情をもった蔬菜・薬草の栽培などは話が別であるが。)