767--31 767-【字解集】5首・九月三十日 ・十月一日 ・孟冬 ・雷 ・悶

  

2018226

の紀頌之"6"つの校注Blog

#2戰城南

毛頴傳§2-3》〔#5〕

【字解集】5首・9/30・10/1・孟冬・雷・悶

浣溪沙九首其三

#0 秋胡詩原文〔顏延之〕・列女傳

#8【聯句】 光威裒姉妹三人、

李白詩

韓愈詩

杜甫詩

花間集

玉臺新詠

古代史女性論

 

 

2018226

の紀頌之”6”つの校注Blog

10年のBLOGの集大成

   李白総合案内

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

747-020#2戰城南(卷三○(二)一七一一詩文補遺)漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之の李白詩訳注解説Blog10177

LiveDoo

rBlog

746-【字解集】21.魯東門觀刈蒲 22.魯郡堯祠送五之琅琊 23.魯郡堯祠送張十四遊西北Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集Blog9884

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

 

 

 

10年のBLOGの集大成

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

807年-08元和二年40歳昌黎文巻八02《毛頴傳§2-3》〔#5〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10170

LiveDoo

rBlog

807年-05元和二年40歳《【字解集】》〔酬裴十六功曹巡府西驛塗中見寄・記夢〕Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之Blog10066

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

10年のBLOGの集大成

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-集-31 767-【字解集】5首・九月三十日 ・十月一日 ・孟冬 ・雷 ・悶  Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10158

LiveDoo

rBlog

767年-集-21 【字解集】 ・寄峽州劉伯華使君四十韻  Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9366

767年 【字解集】152.課小豎鉏斫舍北果,林枝蔓荒穢淨,訖移床,三首 155.反照 157.向夕 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9645

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

杜甫詩 全詩 総合案内 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 (381)回目孫光憲巻七40浣溪沙九首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10173 (02/25)

  fc2

Blog

花間集 訳注解説 (313)回目和凝【字解集】11柳枝三首  12.漁父一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9639 (12/07)

 

 

 

10年のBLOGの集大成

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉臺・巻4•2-2 -#0 秋胡詩原文〔顏延之〕・列女傳 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 10195

LiveDoo

rBlog

巻三-29 【字解集】雜詩三首其一~其三  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 10077

●薛濤の全詩

●花間集(1

●花間集(2

●花間集(3

●花間集(4

●花間集(5

●魚玄機全詩

●花間集(6

●花間集(7

●花間集(8

●花間集(9

●花間集10

Ⅵ唐代女性論         ninjaブログ

48-#8【聯句】 光威裒姉妹三人、小孤而始姸乃有。是作精醉儔難。謝家聯雪何以加、之有客自京師来者示予因次其韻漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10175

 ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)

漢詩総合サイト 07ch

杜甫全詩案内

韓愈全詩案内

李白全集

李白詩のサイト

古詩源

花間集案内

漢詩・唐詩・宋詩研究

http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/

767--31 767-【字解集】5首・九月三十日 ・十月一日 ・孟冬 ・雷 ・悶  Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10158

 

 

 

 

 

杜甫    《東屯の詩》 5

 

 

219  大曆二年九月三十日(卷二○(四)一七八七)

為客無時了,悲秋向夕終。

瘴餘夔子國,霜薄楚王宮。

草敵虛嵐翠,花禁冷葉紅。

年年小搖落,不與故園同。

 

220          十月一日(卷二○(四)一七八七)

有瘴非全歇,為冬亦不難。

夜郎溪日暖,白帝峽風寒。

蒸裹如千室,焦糟幸一柈。

茲辰南國重,舊俗自相歡。

 

221          孟冬(卷二○(四)一七八八)

殊俗還多事,方冬變所為。

破甘霜落爪,嘗稻雪翻匙。

巫峽寒都薄,黔溪瘴遠隨。

終然減灘瀨,暫喜息蛟螭。

 

222          雷(卷二○(四)一七八九)

巫峽中宵動,滄江十月雷。

龍蛇不成蟄,天地劃爭回。

卻碾空山過,深蟠壁來。

何須妒雲雨,霹靂楚王台。

 

223          悶(卷二○(四)一七九○)

瘴癘浮三蜀,風雲暗百蠻。

捲簾唯白水,隱幾亦青山。

猿捷長難見,鷗輕故不還。

無錢從滯客,有鏡巧催顏。

 


 

 

 

杜甫  字解集  《東屯の詩》 5

 

 

 

【字解集】・九月三十日 

大曆二年九月三十日

1. (秋の最後の日に夔州の秋の霜が、草木が、楓の葉がそれぞれ色好き、薄れ枯れてゆくのは故郷と同じであるはずが、情景は同じではないと詠う)

2. 【題意】 大暦二年(767年)の秋の最後の日に夔州の秋の情景が故郷とは異なっているのを見て望郷の思いを詠じた詩。『黄鶴補注』巻三二では夔州の東屯の作と推定している。

 

為客無時了,悲秋向夕終。

私は長らく旅の身で、旅を終える時はなかなかやってこないのだが、悲しみを誘う秋は今晩で終わりだ。

 

瘴餘夔子國,霜薄楚王宮。

いにしえの夔子の国があったここ夔州には夏の瘴癘の毒気が残っており、楚王の離宮跡のある巫峡に降りる霜もまだ薄い。

3. 瘴 中国南方の山川に生ずる多湿な熱気で、病気を引き起こすとされた。

4. 夔子園 春秋時代に愛子が建てた国。西暦前六三四年の秋、楚によって滅ぼされた (『春秋左氏伝』億公二十六年)。ここでは髪州を指す。

5. 楚王宮 戦国時代の楚王の離宮である高唐観。夔州のすぐ東(重慶市巫山県)にある。ここでは借りて夔州を含めた三峡周辺を指す。

 

草敵虛嵐翠,花禁冷葉紅。

草は山の清らかな靄に匹敵するほどの翠色で、花は紅葉とともに霜に耐えて紅々と咲いている。

6. 草敵 草が碧色に匹敵するという意。

7. 虚嵐 山が放つ気配。靄に包まれた木々の緑をいう。

8. 禁 耐える。花が霜の寒さに耐えるとする。これは『九家注』巻三二の「花の紅さは、紅葉と共に寒さに耐えている」という解釈を踏まえたもの。なお鈴木注、『全訳』一〇三四貢、『李寿松注』一至四頁いずれも、前句の 「敵」と同じく匹敵する意とみて、花は紅葉に匹敵するほどに紅いと解する。

9. 冷葉 冷気によって色づいた紅葉。

 

年年小搖落,不與故園同。

毎年この辺りでは草花が枯れるのもわずかで、故郷の洛陽の景色とはまるで違うのだ。

10. 揺落 秋になり、草木が枯れ落ちること。第二句の「悲秋」と呼応する語。

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】・十月一日 

十月一日

1. (秦代の習わしを受け継ぐ夔州の習俗、十月一日を元日とするのを歓んでこの詩を作る)

2. 【題意】大暦二年(767)の初冬、前詩「大曆二年九月三十日」の翌日の作。陰暦では十月から十二月が冬。十月一目を元日とする秦代の習わしを受け継ぐ夔州の習俗を詠じた詩。

 

有瘴非全歇,為冬亦不難。

夏は毒気があり、大変だったがそれが、すべては消えたわけではないが、今日は暦どおりにあっさりと冬になったし、夔州は暖かなので冬を過ごすのも楽である。

3. 瘴(瘴癘) 高温多湿の毒気。中国南方の山川に生ずる多湿な熱気で、病気を引き起こすとされた。

4. 為冬亦不難 もう冬がやってきた。冬を過ごす意とし、夔州は暖かなので冬を過ごすのも楽だと解する。

 

夜郎溪日暖,白帝峽風寒。

南の夜即には五渓にのぼる太陽が暖かく照っているようだが、白帝城では笹唐峡に吹く風が冷たい。

5. 夜郎 秦・漢時代に中国西南地区に少数民族によって作られた国。今の貴州省西北部・雲南省東北部および四川盆地南部に当たり、巴州や夔州と境を接する。

6. 溪 五渓すなわち雄渓、樠渓、無渓、西渓、辰渓を指す。この地は、漢代には武陵郡に属した。現在の貴州省東部と湖南省西部に位置し、やはり夔州と境を接する。陶潜の武陵桃源、『桃花源記』 、『桃花源詩』 の舞台でもある。

7. 白帝 白帝城。

8. 峡 ここでは特に瞿塘峡を指す。

 

蒸裹如千室,焦糟幸一柈。

今日はどこの家も粽を作っており、よそ者の私にも水飴などを皿いっぱいくれたのは有り難いことだ。

9. 蒸裏 ちまき。

10. 千室 多くの家々。近体詩では平声韻を踏まない句は句末に平声(「家」)を使えないので、仄声「室」を用いた。

11. 焦糟 麦芽糖や甘薯糖を煮つめて作る、水飴や粉末状の食品。

12. 柈 「盤」に同じ。物を盛る器。

 

茲辰南國重,舊俗自相歡。

南方の人々はこの日を元日とし、佳節として重視しており、秦代から続くこの古い習俗を私は自分一人で楽しんでいる。

13. 自相歡 (夔州の人々とは別に)自分は一人勝手にこの由緒ある習俗を歓ぶ。秦では初冬の十月を一年の初めとして祝った(初春の一月を年初とするのは「夏」の暦で、いわゆる旧暦はこの「夏」暦)。その習俗が辺境の夔州でしっかり保存されているのを、杜甫は喜んだ。「相」は「お互いに」の意とし、夔州の人々が互いに喜びあうと解する。なお「冬至」に「天涯風俗自相親」という似た表現があるが、「客為るに於て与る無し」とあって、こ地元の人間同士が互いに親しむ意とするが、一方的にひたすら親しむという意としてもよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】・孟冬 

孟冬

1. (農事が終わった初冬の夔州の情況を太極的にとらえて詠じた)

2. 【題意】 農事が終わった初冬の夔州の情況を詠じた詩。上四句は冬日人事について、下四句は冬日風景を述べる。

大暦二年(767)十月、夔州東屯での作。

 

殊俗還多事,方冬變所為。

風俗の殊なるこの地ではずっと農事に忙しかったが、十月になると農作業もこと無事終わってゆとりができたが、暖かいのでやることが違う。

3. 還 相い変わらず。

4. 多事 農事が多く、忙しい。畑や果樹園の監督という仕事があることをいう。

5. 方冬變所為 十月になると収穫も終わった。「方冬」は冬になったばかり。陰暦十月を指す。「変所為」は、することが変わる。農作業が終わる意で、「冬になっても北の長安とはすることがちがふ」と解する。

 

破甘霜落爪,嘗稻雪翻匙。

今年穫れた蜜柑を剥くと皮についた霜が爪の上にこぼれ落ちるし、新米を食べると白い米が雪のように匙の上に翻る。

6. 破甘霜落爪 黄柑(コウジミカン)を剥くと、蜜柑の表面についた霜が爪にこぼれる(冷凍ミカン)、あるいは、蜜柑が取れたてであることをいう。

7. 嘗稻雪翻匙 新米を食べると、雪のように白い米粒が匙のうえに翻る。「雪」は白米の比喩。古川末書『杜甫農業詩研究』によれば、「唐代ごろは粟や米は匙で食べる習慣があった」。

 

巫峽寒都薄,黔溪瘴遠隨。

巫峡毒は寒さがまるで厳しくなく、遠く五渓の辺りから蒸し暑い痺気が気流に沿ってやってくる。

8. 黔溪 貴州省を流れる渓流。ここではいわゆる五渓を指す。夜郎溪、白帝峽、巫峽、黔溪

等を言う。五渓すなわち雄渓、樠渓、無渓、西渓、辰渓を指す。この地は、漢代には武陵郡に属した。現在の貴州省東部と湖南省西部に位置し、やはり夔州と境を接する。陶潜の武陵桃源、『桃花源記』 、『桃花源詩』 の舞台でもある。

 

終然減灘瀨,暫喜息蛟螭。

やっと早瀬も水量が減って、蚊龍が休息して水害を起こさなくなったのがうれしい。

9. 灘瀨 早瀬。

10. 蛟螭 みずち。龍の類。水害はみずちが暴れて起こすものと考えられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】・雷 

1. (冬の巫峡に時ならぬ雷が響いた驚きを、詩經“十月の交”を連想させて、朝廷の元載の横暴について述べる)

2. 【題意】 大層二年(芙七) の冬十月の作。冬の巫峡に時ならぬ雷が響いた驚きを詠じた詩。

3. 【補説】 『詩経』「小雅」の「十月之交」に「燁燁震電,不寧不令。百川沸騰,山塚崒崩。高岸為谷,深谷為陵。哀今之人,胡懲。」(燁燁たる震電,寧からず令からず。百川沸騰し,山塚 崒く崩る。高岸 谷と為し,深谷 陵と為る。哀し今の人,胡ぞ懲ること莫し。とあり、皇父(天子の寵臣)が政治を乱したことを諷刺している。盧元昌の説では、杜甫がこの詩を作った当時、宰相の元載(?〜七七七)が代宗皇帝の威光を借りて専横を極めていた(765770年)ためで元載を暗に諷刺しているのだろうと推測できる。詩經、小雅のこの章に政治的横暴について述べている。盧元昌曰く、詩十月辛卯記、及び震電は皇甫の亂を刺す也。當時、元載、亦た即ち、皇甫、末だ意せず、蓋し有指す。

 

巫峽中宵動,滄江十月雷。

巫峡の谷間に夜中にどよめいた、長江に起こった十月の雷であるが、詩經の“十月の交”にもあるように、元載の専横を許していた。

4. 巫峡 ここでは広く三峡一帯を表す。

5. 中宵 夜中。「宵」は「よい」ではない。

6. 滄江 長江を指す。長江は黄河に対して、愴い江といわれた。

 

龍蛇不成蟄,天地劃爭回。

ここは南で、まだ暖かいから龍や蛇は冬ごもりをしていない、だから、天地に雷が突然争って戻ってきて、この地を駆け巡る。

7. 不成蟄 冬ごもりをしない。気候が温暖なため。

8. 劃爭廻 (雷が)たちまち競いつつ戻ってくる。「劃」は、にわかに、突然。鈴木注では「電光の線がくぎりをつけるさまを云えるならん」とする。

 

卻碾空山過,深蟠壁來。

そして、雷は、ひと気のない山をひきつぶすような音をたてて通り過ぎ、絶壁の辺りにいつまでも蟠ったまま去ろうとしない。

9.   臼でひきつぶす。雷が相い前後して鳴るさまを形容。

10. 蟠 雷雲が居坐る(即ち雷鳴が一カ所にとどまる)さまを形容。

 

何須妒雲雨,霹靂楚王台。

すでに冬にはなったのだが、雷はどうして巫山の神女の雲雨を妬んで、楚王台の辺りに大きな音を響きわたらせる必要があるのか、朝廷と同じようなことがあるものだ。

11. 妒雲雨 「雲雨」は「朝雲暮雨」の略で、戦国・楚の懐王が夢の中で巫山の神女と契りを交わしたが、神女がたち去る時に、朝には雲、夕方には雨となると言った故事。雷がそれを妬んで暴れる。

12. 霹靂 かみなり。いかずち。雷鳴。「青天の霹靂」雷が激しく鳴ること。落雷すること。また、大きな音が響き渡ること。

13. 楚王臺 楚王宮つまり戦国時代の楚王の離宮である高唐観のこと。夔州のすぐ東(重慶市巫山県)にある。

 

 

 

 

黄生曰く、十月の雷は記異也。結處必寓比興方非徒作從來詩人少詠雷者此詩出千古詩人竟閣筆矣

 

不巳似深蟠絶壁之上雨雷鳴則雲散雨收今當十月之候何須妬巫山雲雨而霹靂陽臺耶真可駭矣張綖注末比號令乖張失其威也

陸機詩、迅雷中宵激 易傳、龍蛇之蟄以存身也 注天地不安閉塞而劃然爭廻轉行夏令也。

陽趙曰、高唐賦言神女朝為行雲暮為行雨朝朝暮暮 臺之下今雷鳴不時若妬神女而霹/靂以震之

 

 載(? - 大暦12年(777年))は、唐代粛宗朝・代宗朝の政治家。代宗朝に宰相として専権を振るった。鳳翔岐山(現在の陝西省)の人。字は公輔。本姓は継父の姓の景氏で、北魏の太武帝の子・景穆帝拓跋晃の後裔と冒称する[1][2]。継父は景昇。寒門の出身で家は貧しかったが、幼少のころから聡明で学問を好み、特に道教に造詣が深かった。玄宗朝の開元29年(741年)、『荘子』・『老子』・『文子』・『列子』の学を問う道挙に登第。邠州新平(現在の甘粛省)尉を授けられた。その後、監察御史韋鎰が黔中監選使となるとその判官となり、大理評事を経て東都留守苗晋卿に引かれてその判官、さらに大理司直を歴任する。

 

安史の乱に際しては、江南に避難し、江東採訪使李希言の副使から祠部員外郎・洪州(現在の江西省)刺史と遷った。唐朝が長安・洛陽を回復すると度支郎中に任命され財務官僚として頭角を現し、粛宗の信任を得て江淮方面の物資輸送を管轄、戸部侍郎・度支使・諸道転運使に任ぜられた。元載は財務関係の役職で重用されると共に、粛宗朝の権臣李輔国の妻・元氏と親戚関係にあったことを足がかりに宝応元年(762年)同中書門下平章事・度支転運使となり、以後15年間にわたって宰相を務めた。

 

宰相となった直後に粛宗は崩御し、李輔国に擁立された代宗が即位。元載はいよいよ重んじられ中書侍郎へ遷り、修賢殿大学士・修国史・銀青光禄大夫を加えられ許昌県子に封ぜられた。この際責任が重く職務繁多な財務関係の使職を辞し、後任に劉晏を推薦した。李輔国が失脚し殺害された後も元載は重用され、先任の宰相である苗晋卿・裴遵慶が辞めると、元載派の王縉(王維の弟)・杜鴻漸が宰相に任命された。広徳2年(764年)以降は禁軍の実権を握る宦官・魚朝恩に対抗すべく、同列の宰相である王縉・杜鴻漸、さらに代宗の近くで機密を扱う宦官董秀・中書主書卓英倩らと結び元載派を形成し、大暦5年(770年)には代宗と謀ってついに魚朝恩を誅殺した。

 

この間元載は宰相として専権を振るっており、永泰2年(766年)には官僚の上奏に宰相が事前審査を加える制度を定め、この制度に反対した顔真卿を左遷した。また名門出身で粛宗朝において元載が寒門出身であることを批判した李揆や代宗の信任厚かった李泌など自らに批判的な人物を左遷して、元載派の人士や賄賂を送った人物を任用した。顧繇・李少良・郇謨など元載とその一族の収賄を告発したり、元載の政策を批判する上書を行ったりした人士は処罰された。一方で文学に長じた人士を重用し、劉晏に塩の専売制や漕運の改革を命じたり、後に両税法を施行することで有名な楊炎を自らの後継者として吏部侍郎・修国史に任用した。

 

代宗は元載の専権や一族の収賄、豪華な邸宅を造っての贅沢な生活から、魚朝恩誅殺後の大暦5年(770年)頃から元載を除くことを決意していたが、その力の大きさから叔父の呉湊とのみ謀って、大暦12年(777年)328日、元載・王縉らを捕え、反元載派に転じていた劉晏はじめ常袞ら6人に事後処理を命じた。劉晏は即日極刑の判断を下して元載を杖死させ、彼の一族・董秀・卓英倩らは誅殺され、王縉・楊炎ら元載派の人士は左遷された。

 

元載政権への評価

『旧唐書』・『新唐書』・『資治通鑑』の元載をめぐる記述には恣意的な記述が多く、否定的側面を強調しているため適切に評価することが難しい。しかし近年では次代の徳宗朝において元載の政策が評価され、官位を戻すなど名誉回復が行われたことから、元載失脚の背景には自身の政治姿勢の他に、宦官を巻き込んだ次期皇帝位をめぐる争いがあったともされる[3]

 

元載に関する逸話

以下はいずれも『資治通鑑』や『太平広記』に見える、元載の権勢と人柄をあらわす逸話である。

 

土木の妖

大暦年間、長く続いた安史の乱、その後の僕固懐恩の反乱・吐蕃の入寇が終結し大臣・将軍・宦官は豪奢な建築物を競うようになった。禁軍の実力者魚朝恩は自らの荘園に章敬太后(代宗の母・呉氏)の菩提を弔うため章敬寺を建立、その為に長安中の材木がなくなり曲江の館・はては玄宗と楊貴妃ゆかりの華清宮の館まで毀して寺の材木とした。また元載・王縉・杜鴻漸は代宗と共に不空(密教第四祖)の五台山金閣寺造立を後援し、その建物は瓦に銅を鋳て金を塗るような豪華なものだった。元載も長安の南北に豪華な邸宅を造った。当時の人はこのような風潮を「木妖」(土木の妖)と称した。元載失脚後、「土木の妖」を憎んだ代宗によってその邸宅は馬璘(将軍)・劉忠翼(宦官)の邸宅と共に最も豪華なものとして毀された。

 

魚朝恩と元載

宦官魚朝恩は「自分は文武の才がある」と誇って国子監(国立大学)の釈奠において『易経』の講義を行った。宰相である元載・王縉も官僚を率いて参列していたが、魚朝恩は『易経』の「鼎足を折り公餗を覆す」(鼎の足が折れて天子の料理を盛った器をひっくり返す、転じて大臣が国政を誤ること)を講義して、宰相を謗った。王縉は怒って席を立ったが、元載は笑ってそのまま講義を聞いた。魚朝恩は終わった後で「あれで怒る者(王縉)は普通だ。しかし笑う者(元載)は測りがたい。(恐ろしい者だ)」と語った。

 

河北の一書

魚朝恩誅殺後、権勢並ぶ者なくなった元載のもとに宣州(現在の安徽省)から知り合いの老人がやってきて、任官させてくれるように頼んだ。しかし元載の見るところ、官に就けられるほどの才能はなく、河北(現在の河北省周辺)への書状を渡して送り出した。老人は面白くなく幽州(現在の北京周辺)に着くとこっそり書状を見た。すると白紙の書状にただ元載の署名があるだけだった。老人は激怒したが、やむを得ず試しに書状を官僚に渡した。節度判官は元載の署名を見て大いに驚き、すぐに節度使に報告し、軍の大官を派遣して元載の書状を受け取らすと、老人を上級の宿舎に泊まらせた。節度使は老人を数日間とどめて宴会を行い、去る時には絹千匹を贈った。元載の権勢はこのように盛んだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】・悶

1. (久しく南方で転々とし、故郷に帰りたいのに、持病がひどくなり、鐘も予定ほどたまらず、帰れない気持ち、憂悶を詠ずる詩)

2. 【題意】大暦二年(767)の作。久しく南方に滞留し、出口の見えない憂悶を詠ずる詩。

 

瘴癘浮三蜀,風雲暗百蠻。

熱病を起こす毒気が三蜀の地全体に浮遊し、風や雲はここより南の異民族の住む地域に暗く立ちこめている。

3. 瘴癘 高温多湿の南方辺境にみなぎる毒気。特殊の気候や風土によって起こる伝染性の熱病。マラリアなど。

4. 三蜀 蜀の地。漢の初めに設置されたに蜀郡・廣漢・犍為を三蜀と称した。夔州から見て、長江の上流に位置す。

5. 百蠻 襲州以南の少数民族が集まる地域を指す。

 

捲簾唯白水,隱幾亦青山。

簾を巻き上げると見えるのは、白く光る江の水だけであり、脇息に寄りかかると見えるのは、これまた青い山々が見えるだけである。。

6. 青山 長安なら、春山、遠方に見える春山を言うが、南国の山は彼は、枯れ木の山というのは考えられず、春山のように緑をたたえた山という事である。

 

猿捷長難見,鷗輕故不還。

猿は敏捷でいつも目にするのが難しく、鴎も軽やかに飛んでいったまま帰ってこない。

 

無錢從滯客,有鏡巧催顏。

自由きままな猿や鶴と違い、異郷に長く滞留している私には、帰京に必要な金もできないし、、手許の鏡は、病弱な私の顔を、さらに見事に老いさらばえさせるのである。

6. 従 身に沿う。「銭」を擬人化しての用法。「任す・放っておく」の意とし、「従」を句全体にかけて「滞客の無銭に従す」の意味とし、「銭がないのはそれもそのまま勝手にするがよい」と訳す。杜甫は長安に還りたいという事なので、「滞客」だけにかけて、「帰郷する金がない」「異郷に留まるにまかせるしかない」とするのがよい。

7. 催顏 鏡が私の容顔の衰えをうながす。