767-250#2   觀公孫大娘弟子舞劍器行並序(卷二○(四)一八一五)#2

 

 

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自分はその時、715年開元三年で、まだ4歳のこどもであった。

その舞は、郾城で公孫大娘が剣器・渾脱を舞うのを観劇したことをよく記憶している。

その舞の様子はなだらかでまた急激の変化があるもので、その踊り手は、時流を傑出、ぬきんでている第一人者である。

そのころ御所の宜春院や梨園などの教坊の高頭内人とよばれる人から

その以外の御用の舞女までのなかで、この舞を知っているものはいたのである。

この舞を知っているものは、聖文神武皇帝(玄宗)の御代に公孫氏ただひとりしかいなかったのであった。

 

 

 

 

杜甫 《東屯の詩》   11

 

瀼西宅では余剰の野菜を売っていた可能性もあった。さらに薬草の売買に関しては、求職中の長安時代から、生活費を稼ぐために薬草を採集したり、秦州では、薬草売りでもして生計を立てようかと考えていたり、成都時代には実際に薬草園を持っていたりした'⒃'。杜甫は生きていくために、このような経済活動にも早くから手を染めてきた。一方的に高官や知人等の経済的援助に、頼っていただけではないのである。

 自活の道をさぐっていた杜甫の姿は、もっと注目されてしかるべきである。もちろん官を辞めてからの杜甫の後半生は、結局は人の援助に頼らざるを得ない生活であった。しかし薬草を採集し、野菜を種え、蜜柑園と稲作を経営して生計の足しにし、少しでも自立しようとしていたその姿勢は、杜甫の精神の有り様を考えるうえで重要である。

 

  詩題

全唐詩

杜少陵

1  寄裴施州(卷二○(四)一八一○)

卷二二一 019

20-100

2  鄭典設自施州歸(卷二○(四)一八一二)

卷二二一  20

20-101

3  觀公孫大娘弟子舞劍器行並序(卷二○(四)一八一五)

卷二二二 012

20-102

4 寫懷二首其一(卷二○(四)頁一八一八)

卷二二二  09

20-103

5 寫懷二首其二(卷二○(四)頁一八二○)

卷二二二  10

21-01

6 冬至(卷二一(四)一八二三)

巻二三一-0011

21-02

 

1

寄裴施州

〔裴冕坐李輔國貶施州刺史〕

廊廟之具裴施州,宿昔一逢無此流。金鐘大鏞在東序,冰壺玉衡懸清秋。

#2

自從相遇感多病,三為客寬邊愁。堯有四嶽明至理,漢二千石真分憂。

幾度寄書白鹽北,苦寒贈我青羔裘。

#3

霜雪回光避錦袖,龍蛇動篋蟠銀鉤。紫衣使者辭複命,再拜故人謝佳政。

將老已失子孫憂,後來況接才華盛。

 

2

鄭典設自施州歸

吾憐滎陽秀,冒暑初有適。名賢慎所出,不肯妄行役。

旅茲殊俗遠,竟以屢空迫。

#2

南謁裴施州,氣合無險僻。攀援懸根木,登頓入天石。

青山自一川,城郭洗憂慼。

#3

聽子話此邦,令我心悅懌。其俗則純樸,不知有主客。

溫溫諸侯門,禮亦如古昔。

4

敕廚倍常羞,杯盤頗狼藉。時雖屬喪亂,事貴賞匹敵。

中宵愜良會,裴鄭非遠戚。

5

群書一萬卷,博涉供務隙。他日辱銀鉤,森疏見矛戟。

倒屣喜旋歸,畫地求所歷。

6

乃聞風土質,又重田疇闢。刺史似寇恂,列郡宜競惜。

北風吹瘴癘,羸老思散策。

7

渚拂蒹葭塞,嶠穿蘿蔦冪。此身仗兒僕,高興潛有激。

孟冬方首路,強飯取崖壁。歎爾疲駑駘,汗溝血不赤。

8

終然備外飾,駕馭何所益。我有平肩輿,前途猶准的。

翩翩入鳥道,庶蹉跌厄。

 

3

觀公孫大娘弟子舞劍器行並序

 大曆二年十月十九日,夔州別駕元持(一作特)宅,見臨潁李十二娘舞劍器,壯其蔚跂。問其所師(一本此下有答字),曰:「余公孫大娘弟子也。」開元三載,余尚童稚,記於郾城,觀公孫氏舞劍器、渾,瀏灕頓挫,獨出冠時。自高頭宜春、梨園二伎(一作教)坊人,洎外供奉舞女(從《英華》,他本無舞女字)曉是舞者,聖文神武皇帝初,公孫一人而已。玉貌錦(一作繡)衣,況余白首,今茲弟子,亦匪盛顏。既辨其由來,知波瀾莫二。撫事慷慨,聊為〈劍器行〉。

#3

昔有佳人公孫氏,一舞劍氣動四方。觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。

火霍如羿射九日落,矯如群帝驂龍翔。

#4

來如雷霆收震怒,罷如江海凝清光。絳脣朱袖兩寂寞,況有弟子傳芬芳。

臨潁美人在白帝,妙舞此曲神揚揚。

#5

與余問答既有以,感時撫事增惋傷。先帝侍女八千人,公孫劍器初第一。

五十年間似反掌,風塵傾動昏王室。梨園子弟散如煙,女樂餘姿映寒日。

#6

金粟堆南木已拱,瞿唐石城草蕭瑟。玳筵急管曲復終,樂極哀來月東出。

老夫不知其所往,足繭荒山轉愁疾。

 

4

寫懷二首其一

勞生共乾坤,何處異風俗。冉冉自趨競,行行見羈束。

無貴賤不悲,無富貧亦足。

萬古一骸骨,鄰家遞歌哭。鄙夫到巫峽,三如轉燭。

全命甘留滯,忘情任榮辱。

朝班及暮齒,日給還粟。編蓬石城東,采藥山北谷。

用心霜雪間,不必條蔓綠。

非關故安排,曾是順幽獨。達士如弦直,小人似鉤曲。

曲直我不知,負暄候樵牧。

5

寫懷二首其二

夜深坐南軒,明月照我膝。驚風翻河漢,梁棟已出日。

群生各一宿,飛動自儔匹。

吾亦驅其兒,營營為私實。天寒行旅稀,暮日月疾。

榮名忽中人,世亂如蟣蝨。

古者三皇前,滿腹志願畢。胡為有結繩,陷此膠與漆。

禍首燧人氏,厲階董狐筆。

君看燈燭張,轉使飛蛾密。放神八極外,俯仰俱蕭瑟。

終契如往還,得匪合仙術。

 

6

冬至

年年至日長為客,忽忽窮愁泥殺人。

江上形容吾獨老,天邊風俗自相親。

杖藜雪後臨丹壑,鳴玉朝來散紫宸。

心折此時無一寸,路迷何處見三秦。


 

767年大暦256

  觀公孫大娘弟子舞劍器行並序(卷二○(四)一八一五)#1

杜詩詳注卷二○(四)一八一五

全唐詩卷二二二                             012

杜少陵集巻二〇102 -訳注1262

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の杜詩ブログ

 

 

1207        觀公孫大娘弟子舞劍器行並序(卷二○(四)一八一五)

序文    大曆二年十月十九日,夔府別駕元持宅,見臨李十二娘 舞劍器,壯其蔚跂,問其所師,曰:“余公孫大娘弟子也。”

  開元三載,余尚童稚,記于郾城觀公孫氏,舞劍器渾 瀏漓頓挫,獨出冠時,自高頭宜春梨園二伎坊人洎外供奉, 曉是舞者,聖文神武皇帝初,公孫一人而已。

 玉貌錦衣,況余白首,今茲弟子,亦非盛顏。

既辨其由來,知波瀾莫二,撫事慷慨,聊為《劍器行》。

 昔者人張旭,善草書帖,數常于鄴縣見公孫大娘 舞西河劍器,自此草書長進,豪蕩感激,即公孫可知矣。

觀公孫大娘弟子舞劍器行 幷序 

大娘の弟子李仙奴というものが剣器の舞うのを観てつくったうた。)幷序

大歷二年十月十九日夔府別駕元持宅

大暦二年の十月十九日に自分は夔州別駕元特の宅で

見臨潁李十二娘舞劍器,壯其蔚跂。

臨頴の李十二娘が剣器を舞うのをみると、それはとても雄壮で、文織のある、艶のあるものである。

問其所師,曰余公孫大娘弟子也。

それで、「先生はだれか」とたずねたら「公孫大娘の弟子だ」とこたえた。

 

開元三載,余尚童稚。

自分はその時、715年開元三年で、まだ4歳のこどもであった。

記於郾城觀公孫氏舞劍器渾その舞は、郾城で公孫大娘が剣器・渾脱を舞うのを観劇したことをよく記憶している。

頓挫,獨出冠時。

その舞の様子はなだらかでまた急激の変化があるもので、その踊り手は、時流を傑出、ぬきんでている第一人者である。

自高頭宜春梨園二伎坊人,

そのころ御所の宜春院や梨園などの教坊の高頭内人とよばれる人から、

洎外供奉,曉是舞者。

その以外の御用の舞女までのなかで、この舞を知っているものはいたのである。

 

 玉貌錦衣,況余白首,今茲弟子,亦非盛顏。

既辨其由來,知波瀾莫二,撫事慷慨,聊為《劍器行》。

 昔者人張旭,善草書帖,數常于鄴縣見公孫大娘 舞西河劍器,自此草書長進,豪蕩感激,即公孫可知矣

 

(公孫大娘が弟子の劍器を舞う觀る行【うた】)并びに序 -

大暦二年、十月十九日、夔州の別駕元持が宅にて、臨頴の李十二娘が剣器を舞うを見て、其の蔚跂たるを壮として其の師とする所を問う。

曰く、余は公孫大娘が弟子なりと。

-

開元三載。余 尚お童稚なり。

記す郾城に於て公孫氏が剣器・渾脱を舞うを観しことを。

瀏灕頓挫、独出時に冠たり。高頭の宜春・梨園二伎坊の内人より、外供奉の舞女に洎ぶまで、是の舞を暁るもの。聖文神武皇帝の初め。公孫一人のみ。

-

玉貌錦衣。〔‥…〕況や余白首。今 茲の弟子。亦た盛顔に匪ず、既に其の由来を弁じ、波瀾二莫きを知る。

事を撫して慷慨し、聊か剣器行を為る。

-

昔者呉人張旭、草書を善くし、帖に書すること数しばなり。嘗て鄴縣に於て、公孫大娘が西河の剣器を舞うを見る、此れより草書長進し、豪蕩感激すと。即ち公孫は知る可し。

 

 

『觀公孫大娘弟子舞劍器行并序』 現代語訳と訳註解説
(本文)

開元三載,余尚童稚,

記于郾城觀公孫氏,舞劍器渾

瀏灕頓挫,獨出冠時。

自高頭宜春梨園二伎坊人,

洎外供奉,曉是舞者,

聖文神武皇帝初,公孫一人而已。

 

(下し文)

-

開元三載。余 尚お童稚なり。

記す郾城に於て公孫氏が剣器・渾脱を舞うを観しことを。

瀏灕頓挫、独出時に冠たり。高頭の宜春・梨園二伎坊の内人より、外供奉の舞女に洎ぶまで、是の舞を暁るもの。聖文神武皇帝の初め。公孫一人のみ。

 

(現代語訳)

自分はその時、715年開元三年で、まだ4歳のこどもであった。

その舞は、郾城で公孫大娘が剣器・渾脱を舞うのを観劇したことをよく記憶している。

その舞の様子はなだらかでまた急激の変化があるもので、その踊り手は、時流を傑出、ぬきんでている第一人者である。

そのころ御所の宜春院や梨園などの教坊の高頭内人とよばれる人から

その以外の御用の舞女までのなかで、この舞を知っているものはいたのである。

この舞を知っているものは、聖文神武皇帝(玄宗)の御代に公孫氏ただひとりしかいなかったのであった。

 

(訳注)

觀公孫大娘弟子舞劍器行并序 -

大娘の弟子李仙奴というものが剣器の舞うのを観てつくったうた。

 

開元三載,余尚童稚。

自分はその時、715年開元三年で、まだ4歳のこどもであった。

10 開元三載 715年開元三載より767年大暦二年までおよそ五十三年であるし、杜甫は、712年先天元年生まれで、この年、56歳である。杜甫、四歳の時に見たことになるが、娯楽のない時期、四歳の時であっても舞をみたことを強烈に記憶していたのである。

 

記於郾城觀公孫氏舞劍器渾

その舞は、郾城で公孫大娘が剣器・渾脱を舞うのを観劇したことをよく記憶している。

11 鄭城 地名、河南省許州に属する、臨頴より南にある。

12 公孫氏舞剣器渾脱 渾脱も舞の名である。「明皇雑録」にいう、上(玄宗)素音律を暁る、安禄山、白玉の寮管数百事を献ず、梨園に陳す、是より音響人間に類せず、諸公主及び我国以下競いて貴妃が弟子となる。授曲の終りごとに皆広く進奉あり。時に公孫大娘、能く隣里曲及び装将軍・満堂勢・西河剣器・渾脱の舞を為す、折妙皆時に冠絶す、と。

 

頓挫,獨出冠時。

その舞の様子はなだらかでまた急激の変化があるもので、その踊り手は、時流を傑出、ぬきんでている第一人者である。

13 劉灘 なめらかなさま。

14 頓挫 激勢の急停止をいう。

15 独出 ひとり傑出する。

16 冠時 時の第一人者であること。

 

自高頭宜春梨園二伎坊人,

そのころ御所の宜春院や梨園などの教坊の高頭内人とよばれる人から

17 高頭宜春梨園二伎坊内人 宜春・梨園の二伎坊の高頭の内人の意。高頭の二字は内人へかかる。高頭は前頭の意、天子の御前にある優秀のものをさす。雀令軟の「教坊記」にいう、右教坊は光宅坊(坊は街の意)に在り、左教坊は延政坊に在り。右には善歌多く、左には工舞多し。妓女宜春院に入れば之を内人といい、亦前頭人ともいう、常に上の前に在るを以てなり、と。宜春・梨園については「薙録」に記事があり、それにはいう、開元二年正月、教坊(歌舞の教練場)を蓬莱宮側に置く。上(玄宗)自ら法曲を教う、之を梨園の弟子という。天宝の初め、東宮に即きて宜春北院を置き官女数百人に命じて梨園の弟子となす。梨園は光化門の北に在り。光化門とは禁苑南面の西頭第一門(最西端の門)なり、と。元来伎女のすぐれた者を宜春院に入れたものであり、更にその中よりすぐれた者を選んで梨園の弟子となしたのである。二伎坊とは宜春と梨園との二教坊をさす。

宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。

宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸*、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。

*楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。

 

 

彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。

 

玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。

 

洎外供奉,曉是舞者。

その以外の御用の舞女までのなかで、この舞を知っているものはいたのである。

18 泊 及に同じ。

19 外供奉舞女 宜春・梨園のもの以外のもので御ともをし御用をつとめる舞女。

 

聖文神武皇帝初,公孫一人而已。

この舞を知っているものは、聖文神武皇帝(玄宗)の御代に公孫氏ただひとりしかいなかったのであった。

20 聖文神武皇帝 玄宗の尊号。