杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

社会風刺

大雲寺贊公房 四首 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 169

大雲寺贊公房 四首 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 169

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杜甫は叛乱軍の拘束中に大雲寺の僧贊公の宿坊に泊まった時に書いたものである。

大雲寺贊公房四首 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 164

大雲寺贊公房四首其一#2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 165#2

大雲寺贊公房四首 其二 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 166

大雲寺贊公房四首 其三 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 167

大雲寺贊公房四首 其四 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 168


大雲寺贊公房 四首 -#1
童兒汲井華,慣捷瓶手在。
沾灑不濡地,掃除似無帚。
明霞爛複閣,霽霧搴高牖。
側塞被徑花,飄搖委墀柳。
艱難世事迫,隱遁佳期後。
#2
晤語契深心,那能總鉗口?
あいさつの言葉というのは深く心に繋ぎとめておくものである。どうして口をつぐんで言わないとしても心の奥で考えることは分かってくるものなのだ。
奉辭還杖策,暫別終回首。
陶淵明、王羲之は官を辞したがその考えには確固たる信念があったのだ。ここでしばらくの間、最後の考えとして向こうを見て、ここを去ろうと思い私は僧贊公としばらく別れることとした。
泱泱泥汙人,狺狺國多狗。
長安の街にはこれだけの叛乱軍が横行し、泥でもって人々を汚している。まるで犬がキャンキャン都内騒ぐように国中が叛乱軍でいっぱいになっているのだ。
既未免羈絆,時來憩奔走。
規制の管理体制は全く機能せず足手まといのものと成り下がっている。本来なら、ここで、国のために奔走して人々が憩えるようにしてほしいのだ。
近公如白雪,執熱煩何有?
天子の近くにいる家臣は本来白雪のように清廉潔白であるものである。もっともっと熱く執着してこの困難を打開してくれることに何のためらいがあるというのか


#1
童兒 井華(せいか)に汲む,慣捷(かんせい) 瓶 手に在る。
沾灑(てんさい) 地に濡(うるお)わず,掃除(そうじょ) 帚(はく)こと 無しに似たり。
明霞(めいか) 爛(らん)複た閣,霽霧(せいむ) 高牖(こうりょ)を搴(ぬ)く。
側塞(そくさい) 徑花を被い,飄搖(ひょうよう) 墀柳(くつりゅう)に委ねる。
艱難(かんなん) 世事 迫る,隱遁 佳期の後。
#2
晤語 深心に契り,那んぞ能く 鉗口に總(おさ)めんや?
奉辭(ほうじ) 還た杖策し,暫別 終に首を回らす。
泱泱(おうおう)たる 泥 人を汙(けが)す,狺狺(ぎんぎん)たる 國に 狗 多し。
既に 未だ 羈絆 免じず,時 來りて 奔走して 憩(いこ)わむ。
近公 白雪の如し,執熱 煩(わざわ) い 何んぞ有りや?


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大雲寺贊公房 四首#2 現代語訳と訳註
(本文)

晤語契深心,那能總鉗口?
奉辭還杖策,暫別終回首。
泱泱泥汙人,狺狺國多狗。
既未免羈絆,時來憩奔走。
近公如白雪,執熱煩何有?

(下し文) #2
晤語 深心に契り,那んぞ能く 鉗口に總(おさ)めんや?
奉辭(ほうじ) 還た杖策し,暫別 終に首を回らす。
泱泱(おうおう)たる 泥 人を汙(けが)す,狺狺(ぎんぎん)たる 國に 狗 多し。
既に 未だ 羈絆 免じず,時 來りて 奔走して 憩(いこ)わむ。
近公 白雪の如し,執熱 煩(わざわ) い 何んぞ有りや?


(現代語訳) #2
あいさつの言葉というのは深く心に繋ぎとめておくものである。どうして口をつぐんで言わないとしても心の奥で考えることは分かってくるものなのだ。
陶淵明、王羲之は官を辞したがその考えには確固たる信念があったのだ。ここでしばらくの間、最後の考えとして向こうを見て、ここを去ろうと思い私は僧贊公としばらく別れることとした。
長安の街にはこれだけの叛乱軍が横行し、泥でもって人々を汚している。まるで犬がキャンキャン都内騒ぐように国中が叛乱軍でいっぱいになっているのだ。
規制の管理体制は全く機能せず足手まといのものと成り下がっている。本来なら、ここで、国のために奔走して人々が憩えるようにしてほしいのだ。
天子の近くにいる家臣は本来白雪のように清廉潔白であるものである。もっともっと熱く執着してこの困難を打開してくれることに何のためらいがあるというのか



(訳注) #2
晤語契深心,那能總鉗口?

あいさつの言葉というのは深く心に繋ぎとめておくものである。どうして口をつぐんで言わないとしても心の奥で考えることは分かってくるものなのだ。
○晤語 あいさつの言葉。⊗ 会う,面会する 晤商 会って相談する. ... 晤面 wumian. [動]. 《書》会う,面会する.
【音読み】ゴ. 【訓読み】あき-らか. 【字源】日と自身の意とで、. 自身を明らかに表す意。 【意味】自心を明確に表すさま。 人とよく内溶け合うさま。 心が賢く、人の心意をさとる得るもの。 明快な気質を現し、人とよく和み合うさま。
○鉗口 鉗口とは? (名)スル〔「けんこう(箝口)」の慣用読み〕 (1)他人の言論を束縛すること。 (2)口をつぐんでものを言わないこと。



奉辭還杖策,暫別終回首。
陶淵明、王羲之は官を辞したがその考えには確固たる信念があったのだ。ここでしばらくの間、最後の考えとして向こうを見て、ここを去ろうと思い私は僧贊公としばらく別れることとした。


泱泱泥汙人,狺狺國多狗。
長安の街にはこれだけの叛乱軍が横行し、泥でもって人々を汚している。まるで犬がキャンキャン都内騒ぐように国中が叛乱軍でいっぱいになっているのだ。
泱泱  (1) (水面が)広々とした,洋々たる. (2) 気宇壮大な,堂々たる.○泥汙 杜甫『秋雨嘆三首 其三』「泥汙後土何時乾」泥は後土を汙(けが)して何の時か乾かん?
狺狺犬之狺狺、不過吠非其主耳、是有功於主也。 犬の狺狺(ぎん・ぎん)たる、その主にあらざるを吠ゆるに過ぎざるのみ、これ、主において功あり。 イヌがぎゃんぎゃんと鳴くのは、その主人以外の者に吠えるだけではございませんか。
 安禄山の叛乱軍を指す。


既未免羈絆,時來憩奔走。
規制の管理体制は全く機能せず足手まといのものと成り下がっている。本来なら、ここで、国のために奔走して人々が憩えるようにしてほしいのだ。
○羈《牛馬をつなぐ意から》足手まといとなる身辺の物事。きずな。ほだし。



近公如白雪,執熱煩何有?
天子の近くにいる家臣は本来白雪のように清廉潔白であるものである。もっともっと熱く執着してこの困難を打開してくれることに何のためらいがあるというのか
近公 ・近 近臣。・公 貴人への敬称。○執熱執熱不濯 読み:しゅうねつふたく 意味:熱いものを手で直接掴めないので、先ずは水を入れてからでないと洗えないということから転じて、困難を克服するためには、賢人を起用しなければならないのに、それをしないことのたとえ。
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喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 159

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 159
雨つづきのあとに晴れとなったことを喜んだ詩である。
製作時は至徳二載三月癸亥(756.3/7)より大雨があり、甲戌の日(756.3/11)に至って止んだ後の作である。
長詩のため3分割して掲載その3回目

(1)喜晴  157 (2)喜晴  158 (3)喜晴  159

喜晴
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
其人骨已朽,此道誰疵瑕?
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
顧慚味所適,回手白日斜。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3

なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。


皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり。
郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す。
青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花。
春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや。』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も。
甘沢猶愈らずや 且耕今未だ賒ならず。
丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り。
力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得。』

千載商山の芝 往者東門の瓜。
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん。
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る。
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり。
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り。
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん。』


喜晴 現代語訳と訳註
(本文) #3
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』


(下し文)
千載商山の芝 往者東門の瓜
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん』

(現代語訳)
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。


(訳注)
千載商山芝,往者東門瓜。
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
千載 遠い昔をいう。○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。○往者 さきには、これも昔時をさす。○東門瓜 漢の初め、卲平というものが長安の城の東門外で五色の瓜を作って売っていた、彼はもと秦の東陵侯であったという。
李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。

其人骨已朽,此道誰疵瑕?
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
○其人 商山の四人の老人(四時)と卲平とをさす。○此道 隠遁の道。○疵瑕 きず、欠点。

英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
英賢 秀でた賢さを持った人。○轗軻 車の平かでないさまから、人の不遇のさま境遇をいう。ここでは叛乱軍との不利な戦況をいう。○遠引 遠く退引すること。戦況が悪いので戦力を整えるということ。○蟠泥沙 これは竜の動かぬさま、泥や沙のなかにわだかまっている。 この句は戦力を整える、一喜一憂の作戦をとることを批判し、「角を矯めて牛を殺す」様な作戦上の誤りを言う。 

顧慚味所適,回手白日斜。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
昧所適 自分の往くべき所をはっきり知らぬ、世の中へ出でてあらわれもせず、山中に入って隠遁もできないことをいう。○白日斜 人生の晩碁に近づいたことをいう。

漢陰有鹿門,滄海有靈查。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
漢陰 漢水の南。○鹿門山の名、湖北省襄陽府にある。後漢の龐徳公が妻子を携えて隠れた処。鹿門山は旧名を蘇嶺山という。建武年間(二五~五六)、襄陽侯の習郁が山中に祠を建立し、神の出入り口を挟んで鹿の石像を二つ彫った。それを俗に「鹿門廟」と呼び、廟のあることから山の名が付けられたのである。○滄海 ひろうみ。仙界につつく遙かな海。蓬莱山などの東海の三山にまでの海を示す。○霊查 ふしぎないかだ。查は槎と同じ、張華の「博物志」に天の河と海とは通じており、或る人が不思議な槎にのってついに天の河にいたったことを載せる。 
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
儒教思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。

焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。
學眾口 凡衆の口まねをする。○咄咄  中国、晉の殷浩が左遷されて、家に居り空中にその怨みを言葉には出さないで、ただ「咄咄怪事」という四字を空に書いたという「晉書‐殷浩伝」に見える故事による)驚くほどあやしいできごと。意外なことに驚いて発する声。舌打ちする音。おやおや。 ○咨嗟 ため息をつく。高貴な人のすばらしさを敬慕しつつ、ため息をついてうらやむ意味。
杜甫「対雪」愁坐正書空。
戦哭多新鬼、愁吟独老翁。
乱雲低薄暮、急雪舞廻風。
瓢棄樽無淥、炉存火似紅。
数州消息断、愁坐正書空。

 

喜晴
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3

雨,佳。華。花。涯。/蛇。賒。家。麻。/瓜。瑕。沙。斜。查。嗟。

皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり
郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す
青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花
春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も
甘沢猶愈らずや 且耕今未だ賒ならず
丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り
力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』

千載商山の芝 往者東門の瓜
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん』

(現代語訳)
好天がつづいて久しく雨ふらなかった。降りだして長雨になると晴れたのがよかったと思うものである。
晴れたので長安城郭からでかけて四方の野外をながめたのだ、もう、整斉と春の景色すっかりととのっていて春めく華やかさを増してきているのだ。
丘陵や土陂、堤の上に生えている麦は青々としてかがやいている、桃や李の花が色うつくしく咲いている。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。
このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。
男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。
女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』

千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 158

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 158

雨つづきのあとに晴れとなったことを喜んだ詩である。

製作時は至徳二載三月癸亥(756.3/7)より大雨があり、甲戌の日(756.3/11)に至って止んだ後の作である。

長詩のため3分割して掲載その2回目

(1)喜晴  157 (2)喜晴  158 (3)喜晴  159


喜晴

皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。

青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

甘澤不猶愈,且耕今未

このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。

丈夫則帶甲,婦女終在家。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

力難及黍稷,得種菜與麻。』#2

女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』


千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?

英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。

漢陰有鹿門,滄海有靈。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3


皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり

郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す

青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花

春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も

甘沢猶愈らずや 且耕今未だならず

丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り

力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』

千載商山の芝 往者東門の瓜

其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん

英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る

顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり

漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り

焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく嗟せん』



喜晴  現代語訳と訳註
(本文)

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未

丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2


(
下し文)
干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も

甘沢猶愈らずや 且耕今未だならず

丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り

力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』


(
現代語訳)
今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』




(訳注)

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

千曳たて、ほこ。○横放かってほうだいにはびこる、安禄山の乱をさす。○惨澹 ものすごく。○闘竜蛇 竜(天子)と蛇(禄山)とが相いたたかう。



甘澤不猶愈,且耕今未
このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。
甘沢 甘露の恵みの雨、種の植え時の前の大雨の好都合なしめりをいう。○不猶愈 この雨は耕作をする前の雨であるから日照りに比較していう。雨の方がまだ日照りよりまさっている。○且耕 且は鉏、鉏は田地をすくこと、耕はたがやすこと。○今乗除絵は遠いこと。適当時期にまだ近い、おそすぎぬということ。


丈夫則帶甲,婦女終在家。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

丈夫 男子、夫をさす。○帯甲よろいを身につける、戦場へでていること。○婦女妻をいう。



力難及黍稷,得種菜與麻。』
女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』
黍稷 きび、あわ。


喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 157
雨つづきのあとに晴れとなったことを喜んだ詩である。
製作時は至徳二載三月癸亥(756.3/7)より大雨があり、甲戌の日(756.3/11)に至って止んだ後の作である。

長詩のため3分割して掲載その1回目

(1)喜晴  157 (2)喜晴  158 (3)喜晴  159



喜晴
皇天久不雨,既雨晴亦佳。
好天がつづいて久しく雨ふらなかった。降りだして長雨になると晴れたのがよかったと思うものである。
出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
晴れたので長安城郭からでかけて四方の野外をながめたのだ、もう、整斉と春の景色すっかりととのっていて春めく華やかさを増してきているのだ。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。
丘陵や土陂、堤の上に生えている麦は青々としてかがやいでいる、桃や李の花が色うつくしく咲いている。
春夏各有實,我饑豈無涯。』
#1
春と夏とに桃李や麦はそれぞれ実を結ぶから、叛乱軍も鎮圧され、自分の餓じい生活の果てが見えてくるようだ。』
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3


皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり。

郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す。

たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花。

春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや。』


干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も
甘沢猶愈らずや 且耕今未だ賒ならず
丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り
力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』
千載商山の芝 往者東門の瓜
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん』


喜晴 現代語訳と訳註
(本文)

皇天久不雨,既雨晴亦佳。
出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。
春夏各有實,我饑豈無涯。』

(下し文)
皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり
郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す
青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花
春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや』

(現代語訳)
好天がつづいて久しく雨ふらなかった。降りだして長雨になると晴れたのがよかったと思うものである。
晴れたので長安城郭からでかけて四方の野外をながめたのだ、もう、整斉と春の景色すっかりととのっていて春めく華やかさを増してきているのだ。
丘陵や土陂、堤の上に生えている麦は青々としてかがやいでいる、桃や李の花が色うつくしく咲いている。
春と夏とに桃李や麦はそれぞれ実を結ぶから、叛乱軍も鎮圧され、自分の餓じい生活の果てが見えてくるようだ。』

(訳注)
皇天久不雨,既雨晴亦佳。

好天がつづいて久しく雨ふらなかった。降りだして長雨になると晴れたのがよかったと思うものである。
皇天 おおぞら。好天。皇帝の大空。(日本だと「日本晴」)

出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
晴れたので長安城郭からでかけて四方の野外をながめたのだ、もう、整斉と春の景色すっかりととのっていて春めく華やかさを増してきているのだ。
 長安城のそとくるわ。○ ながめる。○四郊 西方ののはら。城郭の南側には高い丘があるのでおそらくそこに上って眺めたのだろう。○粛粛 すっかりととのっている整斉なるさま。○増華 華やいだ美しさをます。

青熒陵陂麥,窈窕桃李花。
丘陵や土陂、堤の上に生えている麦は青々としてかがやいでいる、桃や李の花が色うつくしく咲いている。
青焚 あおくびかる。(1) かすかな光. (2) 目がくらむ○陵陵おか、どて。○窈窕 美人の心容のうつくしいさま。春の美しさは美人に喩えられるもので、擬人化表現である。

春夏各有實,我饑豈無涯。』
春と夏とに桃李や麦はそれぞれ実を結ぶから、叛乱軍も鎮圧され、自分の餓じい生活の果てが見えてくるようだ。』
各有実 麦と桃李とそれぞれ実を結ぶ。○豈無涯 無涯ははてしないこと、豈無涯は反語になり、はてのあることをいう。



(解説)
中國の中心であった、東都洛陽、世界最大の国際都市であった長安、幽州(現在の北京)から反旗を立て、2年で主要な都市をほとんど陥落させ、略奪の限りを尽くし、大量の殺戮を行った叛乱軍は、唐王朝に嫌気を向けていた民衆の支持をすぐに失うのである。そして、内部分裂を起こすため、唐王朝に、奪回のチャンスが生まれてきていた。

 杜甫は、軟禁状態で、叛乱軍の拘束下にあった。「春望」も春めいたことで希望を述べていたが、4,5日大雨が降って、外に出られないでいて塞いでいたのだろう。今日であれば、桜が長雨で散った後の時節と思われる。平安な時代は春三月といえば、長安の街は牡丹の花でいっぱいになった。安禄山の乱で、貴族の家、宮殿の牡丹は咲かなかったのか、杜甫はあまり好きではなかったので春の表現に使わない。杜甫が好きな景色は南の丘陵地である。ここからの眺めを詠ったものもある。

曲江三章章五句2  奉陪鄭駙馬韋曲二首其一 杜甫 樂遊園歌  杜甫  陪鄭広文遊何将軍山林十首 其一 杜甫  渼陂行  杜甫   重過何氏五首其一 杜甫    夏日李公見訪 杜甫特集



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杜甫『月夜』と比較してみる 白居易『八月十五日夜禁中独直対月憶元九』 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 147 

杜甫『月夜』と比較してみる 白居易『八月十五日夜禁中独直対月憶元九』 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 147 

月夜」と家族の考え方の考察(研究)
 1.なぜ「長安の月」ではなく「州の月」なのか
月夜 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 144
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維
    ー 杜甫『月夜』の理解を深めるために ー
2.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145 九月九日憶山東兄弟  王維

3. 除夜作  高適
3.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 146 除夜作 高適
 4.八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
4.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 146 八月十五日夜禁中独直対月憶元九 白居易

 5. 夜雨寄北 李商隠
5.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 148 夜雨寄北
kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 149 李白の家族の詩について(6


 7.杜甫の彭衙行(ほうがこう)自京赴奉先縣詠懷五百字遺興
 8. 「月夜」子供に対する「北征」の詩に、淋前の南中女

月夜 と家族を詠う詩について 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 150

 

9. 《倦夜〔倦秋夜〕》 763年 蜀の乱を避けて「蜀中転々」の時期に、江南の地に移住しようと思っていたころ、自分と家族のことを考えている中で旅の空のもと自然を詠う秀作。

695 《倦夜〔倦秋夜〕》 蜀中転々 杜甫 <602  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3320 杜甫詩1000-602-858/1500


月夜」と家族の考え方の考察(研究)


杜甫『月夜』と比較してみる 白居易『八月十五日夜禁中独直対月憶元九』
 809年元和4年 憲宗神策軍強化に宦官を抜擢、李絳、白居易宦官糾弾の上奏文、元稹は更に強く矢継ぎ早に糾弾した。そのため、宰相に嫌われ、左遷される。元稹はその手腕は高評価され、すぐ中央に呼び戻される。また、元稹は地方の節度使、地方官僚の汚職、収賄にまみれているじょうたいを、徹底糾弾しているのだ。31,32歳の若者が地方の最高責任者や権力者を糾察するわけだけだから徹底的に嫌われてしまう。こうして宦官の策略で、810年3月元稹は四川に左遷される。8月一緒に戦っていた白居易が宮中において宿直をしているとき、元稹にあてて詠った詩がこの詩である。 


八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
 


八月十五日夜禁中独直対月憶元九 
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。

それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)
八月十五日の夜 禁中に独り直し 月に対して元九を憶う
銀台【ぎんだい】  金闕【きんけつ】  夕べ沈沈たり、独宿【どくしゅく】  相思うて 翰林【かんりん】に在り。
三五夜中【さんごやちゅう】  新月の色、二千里外【にせんりがい】  故人【こじん】の心。
渚宮【しょきゅう】の東面には煙波【えんぱ】冷やかならん、浴殿【よくでん】の西頭には鐘漏【しょうろう】深し。
猶【な】お恐る  清光【せいこう】  同じくは見えざるを、江陵は卑湿【ひしつ】にして  秋陰【しゅういん】足る


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八月十五日夜禁中独直対月憶元九 現代語訳と訳註
(本文)

銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。

(下し文)
銀台(ぎんだい)  金闕(きんけつ)  夕べ沈沈たり、独宿(どくしゅく)  相思うて 翰林(かんりん)に在り。
三五夜中(さんごやちゅう)  新月の色、二千里外(にせんりがい)  故人(こじん)の心。
渚宮(しょきゅう)の東面には煙波(えんぱ)冷やかならん、浴殿(よくでん)の西頭には鐘漏(しょうろう)深し。
猶(な)お恐る  清光(せいこう)  同じくは見えざるを、江陵は卑湿(ひしつ)にして  秋陰(しゅういん)足る。


(現代語訳)

宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)

唐朝 大明宮2000

銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。


三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの仲秋の明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。


渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
(そこ、)渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。(ここ)私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
  
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)

「三五夜中新月色,二千里外故人心。」(三五夜中(さんごやちゅう)  新月の色、二千里外(にせんりがい)  故人(こじん)の心。


(解説)
 白居易が「新楽府五十篇」「秦中吟十篇」に集約される諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときで、政事批判の詩は、これまでに先例はあったものの、これだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことであった。タイムリーな時期に発表されてものかどうかはわからないことであり、元稹の言動は露骨に近かったから、露骨な策略に貶められたということではなかろうか。

 これら詩文をもってただちに、唐代においては比較的言論の自由はあったとみるのは早計であろう。歴史は力関係により作られるもので、批判は陰にこもったものであったはずである。陰に籠もったからこそ詩文として残ったのではなかろうか。いずれにしても、白居易にとって、元稹という心許せる同調者がいたときはよかったが、元稹が宦官の策略に落ちって左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得なかった。

 掲げた詩は元稹が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っている。「青門」は青明門のことで、春、東が青で示される五行思想に基づいたもの、塗られていた青門といい、長安の東壁南側にあった。 
10risho長安城の図035

月夜 
今夜鄜州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。

今夜  鄜州【ふしゅう】の月、閨中【けいちゅう】  只だ独り看【み】るらん。
遥かに憐【あわ】れむ小児女【しょうじじょ】の、未【いま】だ長安を憶【おも】うを解(かい)せざるを。
香霧【こうむ】に雲鬟【うんかん】湿【うるお】い、清輝【せいき】に玉臂【ぎょくひ】寒からん。
何【いず】れの時か虚幌【きょこう】に倚【よ】り、双【とも】に照らされて涙痕【るいこん】乾かん。


さて杜甫の「月夜」は、 白欒天のこの詩にもいうように、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」であって、月色は、山河を隔て、環境を異にしつつも、その色を同じくするものである。だから、それに誘発されて、杜甫は、はるかなる妻の身の上を思うのであり、おなじ月の光にさそわれて、はるかなる妻も、自分を思うであろうことを自分自身に思わせるのであるが、自分の見る月とはいわないで、妻の見る月の色を、はるかに思いやったというところは、この詩人の心が、常に常識を越えて別の次元につき入ろうとしていたこと、そうしてまたその結果、表現としては、緊迫した言葉を常に求めていたこと、つまりみずからもいうように「語の人を驚かさずんば死すとも休まず」とする傾向にあったことを、もとより最も顕著に示す例ではないけれども、なお何がしか示すものである。


続く 李商隠「夜雨寄北」

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哀王孫 杜甫142  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#3

哀王孫 杜甫142  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-3


■哀王孫(王孫を哀む)  #3
「王孫を哀しむ」詩は、賊に描らえられて間もなくの作で、賊軍の厳しい捜索の目をのがれて町なかに身を潜めている皇族に出会い、その惨めな様子を哀れみ、力づけたものである。

安禄山の乱に逃げ遅れた皇族が零落して民間に潜んでおるのを見てあわれにおもって作った詩である。製作時は756年至徳元載(即ち天宝十五載)の九月頃の作で、掴まって初めて書いたもの。。


哀王孫 #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』
#2
問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。
已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』
#3
不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。
こんな人と交叉した巷にきて自分は長話をしないつもりでいたのだが、しかしこの王孫のためにはなおしばらく立ちどまってお相手をしようとおもう。
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
昨夜、春の突風が吹いたように叛乱軍が戦場の血を吹いて残忍なものを送って来た。そうして東都から叛乱軍の駱駝軍が長安の都を大軍でまんぱいにしたのだ。
朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
一時は体格・技術できこえた朔方軍の武士たちも、なんで昔はあんなに勇敢、鋭敏で誇らしく思えたものが、今はこんなに愚鈍で遺憾なことではないか。」
竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
ただひそかに聞くところによれば玄宗皇帝はもはや太子に譲位されたという、新帝の粛宗の聖徳が北の異民族の南単于というべき回乾の長をも悦服せしめられたそうである。
花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
異民族、回紇の側では面皮を割りさいて誠意を表わしてくれ、我が唐のため恥辱をそそぎたいと申し出てくれたそうである。この事はあなたにこっそりお聞かせするのであるから、之を口外して他人に話してはいけない、他人はあなたの身をねらっているのですから。
哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』

哀しいことです。王孫さま。気をつけて自身を内街路にしてはいけないのです。長安には五陵の佳気がいつのときでも存在し、立ち上っているのですから、時がくればこのような災難はなくなりましょう。』

○押韻 烏,呼。胡。/死,驅。隅。/名,奴。膚。殊。軀。/衢,須。都。愚。/位,於。狙。無。


王孫を哀れむ #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』
#2
之に問えども 肯て 姓名を這わず、但だ 這う困苦なり乞う奴と為らんと
己に百日 刑疎に 窺する を 経たり、身上 完き 肌膚 有ること無し。
高帝の子孫は 尽く隆準、竜種 自ら常人と殊なり。
財狼 邑に在り 竜野に在り、王孫 善く 保てよ 千金の姫。』
#3
敢て 長話して 交衝に臨まず、且つ王孫の為めに立つこと斯須。
昨夜 東風 血を吹いて過し、東乗の秦乾は旧都に満つ。
朔方の健児は 好身手、昔 何ぞ勇鋭に今何ぞ愚なる。』
縞に聞く 天子 己に位を伝うと、聖徳 北服せしむ南単干。
花門 面を嘗きて 恥を雪がんと請う、憤みてロより出す勿れ他人に狙われん。
哀しい哉 王孫 慎みて疎なること勿れ、五陵の佳気は時として無きは無し。』


哀王孫 #3 現代語訳と訳註
(本文)

不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』

(下し文) #3
敢て長話して交衝に臨まず、且つ王孫の為めに立つこと斯須
昨夜東風血を吹いて過し、東乗の秦乾は旧都に満つ
朔方の健児は好身手、昔何ぞ勇鋭に今何ぞ愚なる』
縞に聞く天子己に位を伝うと、聖徳北服せしむ南単干
花門面を嘗きて恥を雪がんと請う、憤みてロより出す勿れ他人に狙われん
哀い哉王孫慎みて疎なること勿れ、五陵の佳気は時として無きは無し』


(現代語訳)
こんな人と交叉した巷にきて自分は長話をしないつもりでいたのだが、しかしこの王孫のためにはなおしばらく立ちどまってお相手をしようとおもう。
昨夜、春の突風が吹いたように叛乱軍が戦場の血を吹いて残忍なものを送って来た。そうして東都から叛乱軍の駱駝軍が長安の都を大軍でまんぱいにしたのだ。
一時は体格・技術できこえた朔方軍の武士たちも、なんで昔はあんなに勇敢、鋭敏で誇らしく思えたものが、今はこんなに愚鈍で遺憾なことではないか。」
ただひそかに聞くところによれば玄宗皇帝はもはや太子に譲位されたという、新帝の粛宗の聖徳が北の異民族の南単于というべき回乾の長をも悦服せしめられたそうである。
異民族、回紇の側では面皮を割りさいて誠意を表わしてくれ、我が唐のため恥辱をそそぎたいと申し出てくれたそうである。この事はあなたにこっそりお聞かせするのであるから、之を口外して他人に話してはいけない、他人はあなたの身をねらっているのですから。
哀しいことです。王孫さま。気をつけて自身を内街路にしてはいけないのです。長安には五陵の佳気がいつのときでも存在し、立ち上っているのですから、時がくればこのような災難はなくなりましょう。』


(訳注)#3
不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。

こんな人と交叉した巷にきて自分は長話をしないつもりでいたのだが、しかしこの王孫のためにはなおしばらく立ちどまってお相手をしようとおもう。
不敢 この二句は叙事の文。○長語 ながいはなし。○交衛 交叉した巷。○ しばらく。○斯須  須典と同じ、暫時。
 
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
昨夜、春の突風が吹いたように叛乱軍が戦場の血を吹いて残忍なものを送って来た。そうして東都から叛乱軍の駱駝軍が長安の都を大軍でまんぱいにしたのだ。
昨夜 前の夜、漠然という。此の句より結句までは杜甫の言葉。○春風 五行思想で東、春、青で、吹血腥 春とは東都洛陽に禄山がいて、反乱を起こした方位、吹血腥とは戦争があって人が死んだことをいう。世界大戦以前の四大虐殺にはいる叛乱で人口が半減したといわれている。○橐駝 らくだ、叛乱軍の使用するもの。○旧都 長安。


朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
一時は体格・技術できこえた朔方軍の武士たちも、なんで昔はあんなに勇敢、鋭敏で誇らしく思えたものが、今はこんなに愚鈍で遺憾なことではないか。」
○朔方健児 朔方軍の武卒をいう。朔方軍のこと。始めは陝西の霊州に鎮在し、後に山西の鄜州に鎮在した。哥舒翰は河陳・朔方の兵、及び蕃兵20万に将として安禄山の10万の軍と潼関で対峙し、大敗した。○好身手 好身とは体格のよいこと、好手とは戦の技術のうまいこと。統制のとれた軍隊ということ。○ 昔とは749年哥舒翰が吐蕃を破った当時をいい、今とは今回の756年6月4日の大敗時をいう。


竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
ただひそかに聞くところによれば玄宗皇帝はもはや太子に譲位されたという、新帝の粛宗の聖徳が北の異民族の南単于というべき回乾の長をも悦服せしめられたそうである。
竊聞 ひそかに聞くところ○天子 玄宗。○伝位 位を太子粛宗に譲位された。○聖徳 粛宗の徳、玄宗の徳ととく者があるが取らぬ。○南單於 漢の時、匈奴に南北があり、南部の酋長が南単於(于)である。ここは回紇の酋長をさしていう、唐の威徳が回紇に及んだことをいう。


花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
異民族、回紇の側では面皮を割りさいて誠意を表わしてくれ、我が唐のため恥辱をそそぎたいと申し出てくれたそうである。この事はあなたにこっそりお聞かせするのであるから、之を口外して他人に話してはいけない、他人はあなたの身をねらっているのですから。
花門 花門即ち回紇の門閥、種族のこと。○剺面 剺面の皮を割りさくことをいう、これは回紇の誠意を表示することである。○請雪恥 請とは唐へたのむこと、雪恥とは唐の官軍が叛乱軍に敗れた恥をすすぎきよめること。○出口 上述の事を口からそとへもらす。実際には唐粛宗の側から依頼しているが王孫が王家筋の人間であるため控えて発言している。


哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』
哀しいことです。王孫さま。気をつけて自身を内街路にしてはいけないのです。長安には五陵の佳気がいつのときでも存在し、立ち上っているのですから、時がくればこのような災難はなくなりましょう。』
○勿疎 疎は疎略、疎忽の意、自己の挙動をかるががしくすること。〇五陵 漢の五陵をさす。長安にあり、高祖の長陵、恵帝の安陵、景帝の陽陵、武帝の茂陵、昭帝の平陵をいう。唐にも高祖より容宗まで五陵があるが、これは漢をかりて唐をさし、直接に唐をささぬ。○佳気 帝運興隆の気象。風水上の良い所の気配を指す。○無時無 佳気がない時はない。否定の否定で肯定を強調する。この句は王孫と五陵佳氣の関連付けにより、王孫を励ますもの。

長安の近郊

道端で見かけた逃げ惑う王家の孫。杜甫知り得た情報を話して励ますのである。長安の路傍にたまたま遭遇した杜甫、わずかな時間であったと思われるが詩にまとめたものである。
 8世紀の国際都市、100万人の都市であった。安禄山語時に倍の兵士がいる、しかも精鋭とされた軍隊であった。それが敗れたのは、無知な楊国忠の策略であった。当時、安禄山と、哥舒翰が、やりにくい相手で、安禄山と哥舒翰が戦えば哥舒翰が勝ってもダメージをこうむるものと思って、諫言を弄して、けしかけ、潼関から敵方に打って出たことが敗因である。大軍は狭い場所では軽挙妄動してはいけないのだ。安禄山は東側、北から、洛陽に唐軍が攻め浮足立っていた。その突破口を開かせたのだ。その結果、最悪のシナリオとなったのだ。一気に形勢は逆転し、諸国の潘鎮が安禄山討伐を辞め、洛陽長安を占めることになった。

哀王孫 杜甫141  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#2

哀王孫 杜甫141  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#2


■哀王孫(王孫を哀む)  #2
「王孫を哀しむ」詩は、賊に描らえられて間もなくの作で、賊軍の厳しい捜索の目をのがれて町なかに身を潜めている皇族に出会い、その惨めな様子を哀れみ、力づけたものである。

安禄山の乱に逃げ遅れた皇族が零落して民間に潜んでおるのを見てあわれにおもって作った詩である。製作時は756年至徳元載(即ち天宝十五載)の九月頃の作で、掴まって初めて書いたもの。。


哀王孫 #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』
#2
問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。
私はその人に「あなた姓名は?」と尋ねたのです、その人は姓名をいわない、ただ「非常に困っているから奴僕でもよいから助けてくれ」といわれる。
已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
既に過ぎたこの百日ばかり、荊棘のあいだをにげかくれしていたのだろう、おからだの上は傷だらけで無傷完全な肌の部分がないのである。
高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
漢の高祖の御子孫は御先祖の血統をひいてみんな鼻筋が通っている面相でおられる、どうしても竜の種は竜でただの人間とはおのずとちがっているということだ。
豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』

いま豺や狼のように残虐で略奪強奪の限りを尽くした安禄山の叛乱軍は都邑へはいりこんできた、天子の竜は野へのがれておられるということなのだ。高宗のお孫のあなたは千金の貴いおからだを無事にお保ちくださるさることが善いことなのだ。』
#3
不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』

○押韻 烏,呼。胡。/死,驅。隅。/名,奴。膚。殊。軀。/衢,須。都。愚。/位,於。狙。無。

王孫を哀れむ #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』

#2
之に問えども 肯て 姓名を這わず、但だ 這う困苦なり乞う奴と為らんと
己に百日 刑疎に 窺する を 経たり、身上 完き 肌膚 有ること無し。
高帝の子孫は 尽く隆準、竜種 自ら常人と殊なり。
財狼 邑に在り 竜野に在り、王孫 善く 保てよ 千金の姫。』
#3
敢て 長話して 交衝に臨まず、且つ王孫の為めに立つこと斯須。
昨夜 東風 血を吹いて過し、東乗の秦乾は旧都に満つ。
朔方の健児は 好身手、昔 何ぞ勇鋭に今何ぞ愚なる。』
縞に聞く 天子 己に位を伝うと、聖徳 北服せしむ南単干。
花門 面を嘗きて 恥を雪がんと請う、憤みてロより出す勿れ他人に狙われん。
哀しい哉 王孫 慎みて疎なること勿れ、五陵の佳気は時として無きは無し。』


哀王孫 #2 現代語訳と訳註
(本文) #2

問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。
已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』

(下し文) #2
之に問えども肯て姓名を這わず、但だ這う困苦なり乞う奴と為らんと
己に百日刑疎に窺するを経たり、身上完き肌膚有ること無し
高帝の子孫は尽く隆準、竜種自ら常人と殊なり
財狼邑に在り竜野に在り、王孫善く保てよ千金の姫』

(現代語訳)
私はその人に「あなた姓名は?」と尋ねたのです、その人は姓名をいわない、ただ「非常に困っているから奴僕でもよいから助けてくれ」といわれる。
既に過ぎたこの百日ばかり、荊棘のあいだをにげかくれしていたのだろう、おからだの上は傷だらけで無傷完全な肌の部分がないのである。
漢の高祖の御子孫は御先祖の血統をひいてみんな鼻筋が通っている面相でおられる、どうしても竜の種は竜でただの人間とはおのずとちがっているということだ。
いま豺や狼のように残虐で略奪強奪の限りを尽くした安禄山の叛乱軍は都邑へはいりこんできた、天子の竜は野へのがれておられるということなのだ。高宗のお孫のあなたは千金の貴いおからだを無事にお保ちくださるさることが善いことなのだ。』


哀王孫 #2 (訳注)
問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。

私はその人に「あなた姓名は?」と尋ねたのです、その人は姓名をいわない、ただ「非常に困っているから奴僕でもよいから助けてくれ」といわれる。
問之 之は王孫をさす。


已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
既に過ぎたこの百日ばかり、荊棘のあいだをにげかくれしていたのだろう、おからだの上は傷だらけで無傷完全な肌の部分がないのである。
百日 数十日を過ぎれば百日というのが詩に日數であること方、8月か9月である。杜甫が捕まったのが8月であるから、計算的にもあう。○ かくれる。○荊棘 いばらやとげの中であるから、街の中野宿して逃げ回ったのだろう。○完肌膚 傷つかずして完全なはだ。


高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
漢の高祖の御子孫は御先祖の血統をひいてみんな鼻筋が通っている面相でおられる、どうしても竜の種は竜でただの人間とはおのずとちがっているということだ。
高帝子孫 高帝は漢の高祖、ここは唐の高宗をさす。○隆準 準は鼻、隆は高。鼻筋が通っている面相。○竜種 竜の種子、竜は天子をさす。


豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』
いま豺や狼のように残虐で略奪強奪の限りを尽くした安禄山の叛乱軍は都邑へはいりこんできた、天子の竜は野へのがれておられるということなのだ。高宗のお孫のあなたは千金の貴いおからだを無事にお保ちくださるさることが善いことなのだ。』
財狼 豺や狼、実際に残虐で略奪強奪の限りを尽くした安禄山の叛乱軍をいう。○竜在野 竜は玄宗をさし、宮殿から野に逃げたのである。

哀王孫 杜甫140  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#1

哀王孫 杜甫140  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 140-#1

■ 孫宰一家の手厚いもてなしを受けて元気を取りもどした杜甫と家族は、さらに北に向かって進んだが、当初の目的地である蘆子関(駅西省の北端、横山県の近く)までは行き着けず、ひとまず鄜州(陳西省延安の鄜県)の羌村に落ち着くことになった。そうして八月になって、杜甫は単身、粛宗のいる霊武の行在所を目指し、身をやつして出発した。北上して蘆子関を抜け、西に霊武に向かおうとしたものであろうが、不運にも途中で安禄山の叛乱軍に捕らえられ、長安に送られたのだ。
(孫宰一家の手厚いもてなしにつては彭衙行 杜甫 132 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132 -#1、#2、#3、#4を参照)

■ 長安に送還された杜甫は、詩人としては、知られていても、李白、王維のように官僚としては知られていない存在であった。叛乱軍の手に落ちた他の官吏、杜甫の知り合いのなかでは王維や鄭虔のように、洛陽に連行されて安禄山の朝廷に仕えるよう強要されることはなく、一般の市民とほぼ同じように行動できたようだ。(初めのころは拘束されていた。)

その間、杜甫は、鄜州の羌村にいる家族のこと、霊武の行在所で長安・洛陽の奪回の機をうかがっている粛宗、そうして蜀の成都で悲嘆の日々を送っているであろう玄宗の身の上に思いをはせながら、これから自分のとるべき行動を考えていた。この年、天宝十五年、改元されて至徳元年八七票)の秋から、翌年四月に長安を脱出して鳳翔の粛宗のもとにたどり着くまでの半年あまりの間、叛乱軍中にあっての杜甫のおもな作品には「哀王孫」(王孫を哀しむ)、「月夜」、「悲陳陶」(陳陶を悲しむ)、「対雪」(雪に対す)、「春望」、「哀江頭」(江頭に哀しむ」、など歴史的名作がある。


■哀王孫(王孫を哀しむ)
「王孫を哀しむ」詩は、賊に描らえられて間もなくの作で、賊軍の厳しい捜索の目をのがれて町なかに身を潜めている皇族に出会い、その惨めな様子を哀れみ、力づけたものである。

安禄山の乱に逃げ遅れた皇族が零落して民間に潜んでおるのを見てあわれにおもって作った詩である。製作時は756年至徳元載(即ち天宝十五載)の九月頃の作で、掴まって初めて書いたもの。。
事蹟は次のとおりである。756年天宝十五載の六月九日に潼関が禄山の軍に破られた。楊国忠は玄宗に蜀に逃れることをすすめ、十一日(甲午)の夕、陳玄礼に命じて軍隊を整え九百の厩馬をひそかに選びおかせ、十二日(乙未)の朝、白々あけに玄宗は楊貴妃、その姉妹、王子、妃主、皇孫、楊国忠、葦見素、陳玄礼及び高力士など親近の宦官、宮人と長安の延秋門から外へ逃出した。時に居あわさなかった人々はすべておきざりとなった。

哀王孫 #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』

その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。
#2
問之不肯道姓名,但道困苦乞為奴。
已經百日竄荊棘,身上無有完肌膚。
高帝子孫盡隆準,龍種自與常人殊。
豺狼在邑龍在野,王孫善保千金軀。』
#3
不敢長語臨交衢,且為王孫立斯須。
昨夜春風吹血腥,東來橐駝滿舊都。
朔方健兒好身手,昔何勇銳今何愚?」
竊聞天子已傳位,聖德北服南單於。
花門剺面請雪恥,慎勿出口他人狙。
哀哉王孫慎勿疏,五陵佳氣無時無。』

○押韻 烏,呼。胡。/死,驅。隅。/名,奴。膚。殊。軀。/衢,須。都。愚。/位,於。狙。無。

王孫を哀れむ #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』
#2
之に問えども 肯て 姓名を這わず、但だ 這う困苦なり乞う奴と為らんと
己に百日 刑疎に 窺する を 経たり、身上 完き 肌膚 有ること無し。
高帝の子孫は 尽く隆準、竜種 自ら常人と殊なり。
財狼 邑に在り 竜野に在り、王孫 善く 保てよ 千金の姫。』
#3
敢て 長話して 交衝に臨まず、且つ王孫の為めに立つこと斯須。
昨夜 東風 血を吹いて過し、東乗の秦乾は旧都に満つ。
朔方の健児は 好身手、昔 何ぞ勇鋭に今何ぞ愚なる。』
縞に聞く 天子 己に位を伝うと、聖徳 北服せしむ南単干。
花門 面を嘗きて 恥を雪がんと請う、憤みてロより出す勿れ他人に狙われん。
哀しい哉 王孫 慎みて疎なること勿れ、五陵の佳気は時として無きは無し。』

哀王孫 #1現代語訳と訳註
(本文) #1
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;
又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』

(下し文)  #1
長安城頭頭白の烏、夜 延秋 門上に飛んで呼ぶ。
又人家に向って大屋に啄む、屋底の達官走って胡を遅く」
金鞭折断して九馬は死す、骨肉も同じく馳駆する を 得ず。
腰下の宝珠青珊瑚、憐れむべし 王孫路隅に泣く。』


(現代語訳) #1 
長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。


(訳注)#1 
長安城頭頭白烏,夜飛延秋門上呼;

長安の城の上に頭の白い烏がいた、夜なかに飛んできて、延秋門の上で「西に逃げなさい」と鳴きたてた。
城頭 ○頭白鳥 頭の白いからす。これを言うのは変異を記すのであり、梁の侯景が叛いたときにも、頭白の烏が朱雀門の楼に集まったという。○延秋 延秋門のことで端門外西建此門のこと。五行思想で秋は西を示す。宮中の一番西門で右参軍に守られていた。○門上呼 門の上でカラスが「ここから西に逃げなさい」と啼いた。通常の烏は宦官とか、賊軍を示す。


又向人家啄大屋,屋底達官走避胡。」
それから又、普通の民家に向ってなかでも貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつついているのだ。すでに、その屋根の下に住んでいた大官はもはや叛乱軍を避けるために逃げ走ってしまっていたのである。』
人家 ただぴとの家用。○啄大屋 貴族富豪の大屋根で、食物をあさってつつく。○達官 高位の官をいう。高位の官は其の人の姓名が君に通達するのによって達官という。○ 安禄山の叛乱軍には異民族の兵士がかなりいた。

金鞭斷折九馬死,骨肉不得同馳驅。
逃げだした天子御一門、貴族らは、黄金の鞭は折れたまま放置し、血統の良い名馬でさえ死なせている。貴族の血統である貴公子が逃げた人々と一緒に行くことはできなかった。(とりのこされている。) 
金鞭折断 黄金をかざったむちがおれる、びどく馬をうったのである。〇九馬死 漢の文帝が代の地より迎えられたとき、九匹の名馬があった。○骨肉不得 骨肉とは親属であることをいう。詩題の王孫は天子と血つづきである。○同馳駆 一緒に走ってにげる。

腰下寶玦青珊瑚,可憐王孫泣路隅。』
その貴公子は腰のあたりに青色珊瑚の宝玦の佩びをまいている。かわいそうに王孫はみちばたで泣いていのだ。
宝珠 珠は環の一部が開いているもの。○青桐瑚 珠の実質をいう。○王孫 王孫は貴公子のこと。


************ 参考 ***************

756年6月4日潼関で哥舒翰の軍が敗れ、長安には瞬く間にしらされたが10日になってやっと玄宗は実感したのだ。
士民は驚き慌てて走り出したが、行くべき所が判らない。10日、市里は寂れかえった。 楊国忠は韓、虢夫人を入宮させて、玄宗皇帝へ入蜀を勧めた。
  11日、登朝した百官は一、二割もいなかった。玄宗皇帝は勧政楼へ御幸して制を下し、 親征の意思を表明したが、聞く者は誰もいなかった。
  京兆尹の魏方進を御史大夫兼置頓使とする。京兆少尹の霊昌の崔光遠を京兆尹として、西京留守に充てる。 将軍・辺令誠へ宮殿内のことを任せた。剣南節度大使に、急いで鎮へ赴き本道へ皇帝の後座所を 設けさせるよう命じた。
  この日、玄宗皇帝は北内へ移った。 夕方になると、龍武大将軍・陳玄禮へ六軍を整列させ、厚く銭帛を賜下する。閑厩馬九百余匹を選んだが、 他の者は何も知らなかった。
  12日黎明、玄宗皇帝は貴妃姉妹、皇子、妃、主、皇孫、楊国忠、韋見素、魏方進、陳玄禮及び近親の宦官、 宮人達と延秋門を出た。在外の妃、主、皇孫は、皆、これを委ねて去った。

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