杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

左拾位での詩(3)

塞蘆子 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 196

塞蘆子 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 196

塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
757年 至德二載四月のこと


塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
五城何迢迢?迢迢隔河水。邊兵盡東徵,城內空荊杞。
思明割懷衛,秀岩西未已。回略大荒來,崤函蓋虛爾。
延州秦北戶,關防猶可倚。
焉得一萬人,疾驅塞蘆子。岐有薛大夫,旁製山賊起。
近聞昆戎徒,為退三百裡。蘆關扼兩寇,深意實在此。
誰能叫帝閽,胡行速如鬼!
sas0033

#1
  五城何迢迢,迢迢隔河水。
  邊兵盡東征,城内空荆杞。
  思明割懷衛,秀岩西未已。
  回略大荒來,崤函蓋虛爾。
  延州秦北戶,關防猶可倚。」
#2
  焉得一萬人,疾驅塞蘆子。
どうして一万人の兵士を得ることができようか。蘆子の塞より馬で疾走したのだ。
  岐有薛大夫,旁制山贼起。
北の異民族に辺境の国境を守った薛大夫は岐路のどちらを選ぶのか、偽の勅命を手にした山賊が反乱を起した。
  近聞昆戎徒,爲退三百里。
近くで聞いた異民族の兵士が叛乱軍の中に入り混じっている、王朝軍は三百里退却をしたのだ。
  蘆關扼兩寇,深意實在此。
蘆子関は安禄山と異民族の二つの軍に攻め込まれた、王朝軍にとってこの意味は深く実際にあった事なのだ。
  誰能叫帝閽,胡行速如鬼。

だれかどうやって天の皇帝の門を開けと叫ぶのであろうか、胡の軍隊は鬼のように早く行動するのだ。

#1
五城 何んぞ迢迢,迢迢 河水 隔つ。
邊兵 盡々く 東征し,城内 空しく荆杞。
思明 衛を懷し割く,秀岩 未だ已に西す。
回略し 大荒して來る,崤函し 蓋し爾を虛す。
延州 秦北の戶,關防 猶 倚なるべし。
#2
焉んぞ得ん 一萬人,疾驅 蘆子の塞。
岐 有る 薛大夫,旁制す 山贼 起す。
近く 昆戎の徒を聞く,退いて 三百里と爲す。
蘆關 兩寇を扼す,深意 此に在りて實る。
誰 能く 帝閽に叫ぶ,胡行 鬼の如く速し。

黄河二首 杜甫

現代語訳と訳註
(本文)

焉得一萬人,疾驅塞蘆子。岐有薛大夫,旁製山賊起。
近聞昆戎徒,為退三百裡。蘆關扼兩寇,深意實在此。
誰能叫帝閽,胡行速如鬼!


(下し文)
焉んぞ得ん 一萬人,疾驅 蘆子の塞。
岐 有る 薛大夫,旁制す 山贼 起す。
近く 昆戎の徒を聞く,退いて 三百里と爲す。
蘆關 兩寇を扼す,深意 此に在りて實る。
誰 能く 帝閽に叫ぶ,胡行 鬼の如く速し。


(現代語訳)
どうして一万人の兵士を得ることができようか。蘆子の塞より馬で疾走したのだ。
北の異民族に辺境の国境を守った薛大夫は岐路のどちらを選ぶのか、偽の勅命を手にした山賊が反乱を起した。
近くで聞いた異民族の兵士が叛乱軍の中に入り混じっている、王朝軍は三百里退却をしたのだ。
蘆子関は安禄山と異民族の二つの軍に攻め込まれた、王朝軍にとってこの意味は深く実際にあった事なのだ。
だれかどうやって天の皇帝の門を開けと叫ぶのであろうか、胡の軍隊は鬼のように早く行動するのだ。


(訳注)
焉得一萬人,疾驅塞蘆子。
焉んぞ得ん 一萬人,疾驅 蘆子の塞。
叛乱軍に圧倒され、どうして一万人の兵士を得ることができようか。さらに王朝軍の蘆子の塞より馬で疾走したのだ。
疾驅 スル車や馬を速く走らせること。


岐有薛大夫,旁制山贼起。
岐 有る 薛大夫,旁制す 山贼 起す。
北の異民族に辺境の国境を守った薛大夫は岐路のどちらを選ぶのか、偽の勅命を手にした山賊が反乱を起した。
 分かれ道。陝西省の岐山。○薛大夫 初唐の軍人。高麗・契丹・突飛を討ち、大功績をあげた軍人になぞらえて、杜甫とと親交のあった薛複。先祖に持つ。

蘇端薛複筵簡薛華醉歌 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 103

旁制 間違った勅命。


近聞昆戎徒,爲退三百里。
近く 昆戎の徒を聞く,退いて 三百里と爲す。
近くで聞いた異民族の兵士が叛乱軍の中に入り混じっている、王朝軍は三百里退却をしたのだ。


蘆關扼兩寇,深意實在此。
蘆關 兩寇を扼す,深意 此に在りて實る。
蘆子関は安禄山と異民族の二つの軍に攻め込まれた、王朝軍にとってこの意味は深く実際にあった事なのだ。
1 強く押さえる。締めつける。「ランスロットは腕を―・して」〈漱石・薤露行〉2 要所を占める。「二隊の兵を随えて大和橋を―・して」〈鴎外・大塩平八郎〉


誰能叫帝閽,胡行 速如鬼。
誰 能く 帝閽に叫ぶ,胡行 鬼の如く速し。
だれかどうやって天の皇帝の門を開けと叫ぶのであろうか、胡の軍隊は鬼のように早く行動するのだ。
帝閽 天の門。閶闔門
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塞蘆子 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 195

塞蘆子 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 195
塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
757年 至德二載四月のこと

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塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
五城何迢迢?迢迢隔河水。邊兵盡東徵,城內空荊杞。
思明割懷衛,秀岩西未已。回略大荒來,崤函蓋虛爾。
延州秦北戶,關防猶可倚。
焉得一萬人,疾驅塞蘆子。岐有薛大夫,旁製山賊起。
近聞昆戎徒,為退三百裡。蘆關扼兩寇,深意實在此。
誰能叫帝閽,胡行速如鬼!

#1塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
蘆子関の塞(蘆子關は夏州に屬している,蘆子関の司令官は塞から北に18里(約11km)去っていった。)
  五城何迢迢,迢迢隔河水。
天上の五宮殿ははるか遠くにある。行けども行けどもはるかに遠く、そして黄河の水を隔てているのである。
  邊兵盡東征,城内空荆杞。
霊武は辺境の異民族に対する師団が置いてある、この霊武の師団が長安洛陽の叛乱軍を征伐に行くのである。長安、洛陽の城内には誰もいなくなって、いばらや枸杞(くこ)の雑木が生い茂って荒れ果てたのである。
  思明割懷衛,秀岩西未已。
忠思明は天子の宮殿を破壊し、軍を分断したのだ。しかし、西の方に優れて選ばれた、大岩のような存在であり、その地においてまだ終わるものではないのだ。
  回略大荒來,崤函蓋虛爾。
まだ各地を回り攻略して、各地を大荒廃させている、洛寧県の要害の地と函谷関は洛陽と長安の大穴に蓋をする役割をしている。
  延州秦北戶,關防猶可倚。」

延州の地方というのは、都長安の北の戸口である、蘆子関の防衛がなお夷の軍に支配されている。
#2
  焉得一萬人,疾驅塞蘆子。
  岐有薛大夫,旁制山贼起。
  近聞昆戎徒,爲退三百里。
  蘆關扼兩寇,深意實在此。
  誰能叫帝閽,胡行速如鬼。
#1
蘆子の塞(蘆子關 夏州に屬す,北に塞を去る門鎮一十八里)
五城 何んぞ迢迢,迢迢 河水 隔つ。
邊兵 盡々く 東征し,城内 空しく荆杞。
思明 衛を懷し割く,秀岩 未だ已に西す。
回略し 大荒して來る,崤函し 蓋し爾を虛す。
延州 秦北の戶,關防 猶 倚なるべし。

#2
焉んぞ得ん 一萬人,疾驅 塞蘆の子。
岐 有る 薛大夫,旁制す 山贼 起す。
近く 昆戎の徒を聞く,退いて 三百里と爲す。
蘆關 兩寇を扼す,深意 此に在りて實る。
誰 能く 帝閽に叫ぶ,胡行 鬼の如く速し。

黄河二首 杜甫
 

現代語訳と訳註
(本文)

五城何迢迢?迢迢隔河水。邊兵盡東徵,城內空荊杞。
思明割懷衛,秀岩西未已。回略大荒來,崤函蓋虛爾。
延州秦北戶,關防猶可倚。


(下し文) #1
五城 何んぞ迢迢,迢迢 河水 隔つ。
邊兵 盡々く 東征し,城内 空しく荆杞。
思明 衛を懷し割く,秀岩 未だ已に西す。
回略し 大荒して來る,崤函し 蓋し爾を虛す。
延州 秦北の戶,關防 猶 倚なるべし。


(現代語訳)
蘆子関の塞(蘆子關は夏州に屬している,蘆子関の司令官は塞から北に18里(約11km)去っていった。)
天上の五宮殿ははるか遠くにある。行けども行けどもはるかに遠く、そして黄河の水を隔てているのである。
霊武は辺境の異民族に対する師団が置いてある、この霊武の師団が長安洛陽の叛乱軍を征伐に行くのである。長安、洛陽の城内には誰もいなくなって、いばらや枸杞(くこ)の雑木が生い茂って荒れ果てたのである。
忠思明は天子の宮殿を破壊し、軍を分断したのだ。しかし、西の方に優れて選ばれた、大岩のような存在であり、その地においてまだ終わるものではないのだ。
まだ各地を回り攻略して、各地を大荒廃させている、洛寧県の要害の地と函谷関は洛陽と長安の大穴に蓋をする役割をしている。
延州の地方というのは、都長安の北の戸口である、蘆子関の防衛がなお夷の軍に支配されている。

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(訳注)
塞蘆子(蘆子關屬夏州,北去塞門鎮一十八里)
蘆子の塞(蘆子關 夏州に屬す,北に塞を去る門鎮一十八里)
蘆子関の塞(蘆子關は夏州に屬している,蘆子関の司令官は塞から北に18里(約11km)去っていった。)
門鎮 蘆子関の司令官


五城何迢迢,迢迢隔河水。
五城 何んぞ迢迢,迢迢 河水 隔つ。
天上の五宮殿ははるか遠くにある。行けども行けどもはるかに遠く、そして黄河の水を隔てているのである。
五城 十二樓五城 神仙の居所。天上の白玉京に在りといふ城樓。)十二樓臺のことで、自分が思う女性の美しい部屋を謂うか。本来の義は、神話伝説中の仙人の居住場所。崑崙の仙宮・天墉城にある十二の楼台。ここでは、粛宗が霊武に行在所を置いていたので霊武の粛宗を言う。○河水 黄河、涇水をさす。場所、郭子儀軍の様子は、杜甫『黄河二首』に地府、年譜を参照。黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193

邊兵盡東征,城内空荆杞。
邊兵 盡して東を征す,城内 空しく荆杞。
邊兵 盡々く 東征し,城内 空しく荆杞。
霊武は辺境の異民族に対する師団が置いてある、この霊武の師団が長安洛陽の叛乱軍を征伐に行くのである。長安、洛陽の城内には誰もいなくなって、いばらや枸杞(くこ)の雑木が生い茂って荒れ果てたのである。
荆杞 ではいばらや枸杞(くこ)の雑草・雑木が生い茂って荒れ果てたさま。杜甫『兵車行  杜甫37』では、魯、斉の国で栄えた国があったのに唐の時代で荒れ果てて雑草の生い茂る原野になっていることを詠っている。戦争の結末を表現する語として使う。


思明 割懷衛,秀岩 西未已。
思明 衛を懷し割く,秀岩 未だ已に西す。
史思明は天子の宮殿を破壊し、軍を分断したのだ。しかし、西の方に優れて選ばれた、大岩のような存在であり、その地においてまだ終わるものではないのだ。
思明 史(忠)思明(ししめい)は、唐中期の大規模な反乱であった安史の乱の指導者。突厥出身で、安禄山と同郷だったため親しい仲にあった。安慶緒を殺して、大燕皇帝と称す。○ 天子の宮殿。○秀岩 優れて選ばれた、大岩のような存在。○未已 まだ終わらない。



回略大荒來,崤函 蓋虛爾。
回略し 大荒して來る,崤函し 蓋し爾を虛す。
まだ各地を回り攻略して、各地を大荒廃させている、洛寧県の要害の地と函谷関は洛陽と長安の大穴に蓋をする役割をしている。
○回略 廻りまわって攻略し占領する。○崤函 崤は河南省洛寧県の要害の地。函は函谷関。○蓋虛爾 汝の大穴に蓋をする。


延州 秦北戶,關防 猶可倚。
延州 秦北の戶,關防 猶 倚なるべし。
延州の地方というのは、都長安の北の戸口である、蘆子関の防衛がなお夷の軍に支配されている。
延州 延州(えんしゅう)は中国陝西省にかつて設置された州。延州 (広西チワン族自治区)。粛宗のいる霊武。○秦北戶 長安の北の入り口。○關防 蘆子関を防御されている。

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800tousouSenshu
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唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
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杜甫詩INDEX02

黄河二首 其二 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 194

黄河二首 其二 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 194


黄河二首 其二
黄河西岸是吾蜀、欲須供給家無粟。
黄河西岸、河曲の内側、オルドス地域をわが党の軍が支配している。このままではいけないのでこの軍に傭兵を増軍したいけれど唐王朝の左右の蔵にはなにもなく俸給できない状態なのだ。
願驅衆庶戴君王、混一車書棄金玉。

願うことは庶民みんなで天子と上皇を押し頂いて隊列を組んで進んでいきたいのだ、車をつかさどる軍人と書の文人も一つにまとまって地位や富貴になることを捨てようではないか。

黄河の西岸是れ吾が蜀、供給を須(もと)めんと欲すれば家に粟無し。
願はくは衆庶を驅り君王を戴いて、車書を混一せしめて金玉を棄てん。


現代語訳と訳註
(本文)
黄河二首 其二
黄河西岸是吾蜀、欲須供給家無粟。
願驅衆庶戴君王、混一車書棄金玉。


(下し文)
黄河の西岸是れ吾が蜀、供給を須(もと)めんと欲すれば家に粟無し。
願はくは衆庶を驅り君王を戴いて、車書を混一せしめて金玉を棄てん。
 
(現代語訳)
黄河西岸、河曲の内側、オルドス地域をわが党の軍が支配している。このままではいけないのでこの軍に傭兵を増軍したいけれど唐王朝の左右の蔵にはなにもなく俸給できない状態なのだ。
願うことは庶民みんなで天子と上皇を押し頂いて隊列を組んで進んでいきたいのだ、車をつかさどる軍人と書の文人も一つにまとまって地位や富貴になることを捨てようではないか。


(訳注)
黄河西岸是吾蜀,欲須供給家無粟。
黄河の西岸是れ吾が蜀、供給を須(もと)めんと欲すれば家に粟無し。)
黄河西岸、河曲の内側、オルドス地域をわが党の軍が支配している。このままではいけないのでこの軍に傭兵を増軍したいけれど唐王朝の左右の蔵にはなにもなく俸給できない状態なのだ。
黄河西岸 河曲(黄河の大湾曲部内側の北半部のオルドスを中心に,その外側の陰山山脈以南を合わせた一帯、現在の内蒙古自治区の一部と鎮にし、陝西省~寧夏回族自治区の北辺)を平定した地域を示す.。杜甫が拘束中の中ではこのことは認識できないはずなので、黄河二首の作時は鳳翔である。○ 玄宗皇帝が蜀であるため、この表現になる。○供給 傭兵を供給すること。安史軍が圧倒してきて、黄河西岸を平定するだけであったので、兵力を増強する必要があった。○家無粟 長安の唐の両蔵が安史軍に抑えられていることと、ウイグルの援軍を得るため、対価が大きかったので、この表現になる。


願驅眾庶戴君王,混一車書棄金玉。
願はくは衆庶を驅り君王を戴いて、車書を混一せしめて金玉を棄てん。)
願うことは庶民みんなで天子と上皇を押し頂いて隊列を組んで進んでいきたいのだ、車をつかさどる軍人と書の文人も一つにまとまって地位や富貴になることを捨てようではないか。
 整列してすすむ。○衆庶 一般の人々。庶民。○混一 一つにまとめること。まぜて一つにすること。 平民も士太夫も一つになること。○金玉 金玉の富貴なものを棄つ。米粟を貴ぶことを示す。


黄河二首 其一
  黄河北岸海西軍,椎鼓鳴鍾天下聞。
  鐵馬長鳴不知數,胡人高鼻動成群。
其二
  黄河西岸是吾蜀,欲須供給家無粟。
  願驅眾庶戴君王,混一車書棄金玉。


 

○ 756年6月,玄 宗 の命令 により、哥舒翰軍は潼関より東に出撃.哥舒翰は敗北して敵の手中に。.
○ 長安では楊国忠の主張により、蜀(四川)への蒙塵を決定.。
○ 756年6月13日 未明、玄宗、皇太子夫妻、楊貴妃 とその一族、楊国忠一家、公主たちが、極秘裏に宮殿を脱出。
.
○ その後,玄宗は蜀へ蒙塵し、玄宗は皇太子に長安を奪回せよと命ず。皇太子は捲土重来を期して霊武へ向かう。霊武は西北辺境の要衝であり、かつ朔方節度使・郭子儀の本拠地.。

○ 756年07月,皇太子は群臣の懇望を受けて、蜀にある玄宗を上皇にまつりあげ、粛宗として霊武で即位.至徳と改元。援軍を得るためには皇太子が皇帝にならなければ要請できない。

○ 756年09月,粛宗はウイグルに援軍を求めるために使者を。漠北のモンゴリアに派遣使者となったのは,王族の一人(敦 煙郡王承粟)とトルコ系武将の僕固懐恩とソグド系 武将の石定番.


★756年8~9月 杜甫蘆子関付近で捕縛される


○ ・756年10月にオルホン河畔のオルドバリクで会見.ウイグルの第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)は喜んで、可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた.。

○ 756年7~12月[通鑑 による],安史勢力側の阿史那従礼が突廠・同羅・僕骨軍5000騎を率い,河曲にあった九府・六胡州の勢力数万も合わせて、行在=霊武を襲わんとした。

○ 756年9~12月郭子儀は,磨延啜自身が率いて南下してきたウィグル本軍を陰山と黄河の間にある呼延谷で迎え,これと合流、
・一方これ以前 に葛遷支率いる ウイグル別働 隊2000騎 がまず范陽を攻撃したが,成功せずにそこから太原方面に移動
・.郭子儀軍はこれ らのウイグル本軍並びに別働隊と協力して,阿史那従礼軍を斥け,河曲(黄河の大湾曲部内側の北半部,す なわちオルドスを中心に,そ の外側の陰山山脈以南を合わせた一帯;現在の内蒙古自治区の一部とちんにし陝西省~寧夏回族自治区の北辺)を平定した.。

★ 杜甫 黄河二首
★ 杜甫長安に護送される。


●757年至徳二 年元 旦,安禄山は洛陽で実子の安慶緒,並びに腹心の部下によって暗殺さる.


○757年安禄山の盟友で,洛陽政権樹立の最:大の功労者であった史思明は,いちはやく分離独立の方針を決め,莫大な軍資金を蓄積してある范陽に帰還.


○ 757年同年2月,粛宗は鳳翔に進出.前年末からこれまでに,コータン・安西・北庭・抜汗那・大食からの援軍が集結.同 月,ウイグル首領の大将軍・多攬15人 が入朝.


○同年9月,ウ イグルの磨 延畷可汗は太子 の葉護 を筆頭に,将 軍の帝徳らに4000余 騎(旧 唐書 ・安禄山伝では3000騎)を率いさせて唐に派遣.粛宗は喜び,宴会を催し,元帥の広平王・淑(後の代宗)に命じて葉護 と兄弟の契りを結ばせる.


○蕃漢15万にふくれあがった唐軍は,広平王・淑 を総帥とし,鳳翔を出発.扶風で ウイグル軍を出迎 えた郭子儀は,3日 間の大宴会で接待.以 後,ウイグル軍には食料として毎日,羊200匹,牛20頭,米40石 が支給さる.


○ 757年9月17日,長安攻撃開始.朔方左廟兵馬使・僕固懐恩 とウイグル軍が連携して活躍.安慶緒側の守備軍は約6万の損失を蒙って潰走.唐軍,長安を回復す.


○ 757年10月,反乱軍は唐側の郭子儀軍やウイグル軍により滝関・陳郡を次々に落とされ,安 慶緒は洛陽を脱出して河北の鄭に走る.唐側は遂に洛陽を奪回.


○ 757年11月,長 安で粛宗と葉護が会見.粛宗は葉護を労い,司空の位を与え,忠義王に封じ,錦繍繰や金銀器皿を賜す,さらに毎年,絹2万匹を朔方軍にて支給する事を約す.


● 758年乾元元年5~7月,ウイグルの使者・多亥 阿波一行が長安に来て,公主降嫁 を要請.粛宗は幼少であった実の王女を寧国公主に封じて降嫁させ、同時に磨延畷を英武威遠砒伽可汗に冊立することを決定.寧国公主と冊立使の一行が ウイグルの本営に到着
.
758年08月,磨 延畷は王子の骨畷特勤と宰相・帝徳らに3000騎を率いさせて唐に派遣.粛宗は僕固懐恩にこの援軍との共同作戦の指揮を命ず.


● 759年乾元二年3月,史思明 は安慶緒を殺し,4月,自ら大燕皇帝として即位.


○ 759年4月,ウイグルの磨延畷可汗が急逝.ウイグルは寧国公主を殉死させ(132)ようとしたが,公主は抵抗し,同年8月に唐に帰国.一 方,長男・葉護太子は既に罪を得て殺されていたので,末子の移地健が牟羽可汗として即位(第3代).磨延畷在世中に,移地健のために唐に婚姻 を請うたため,粛宗は僕固懐恩めあわに命じてその娘を嬰せていた.それゆえ,彼女が可敦に昇格.

● 760年上元元年(760)閏3月,史思明は洛陽に入城.再び東西両都に対立する政権.

○  しかし,この後,史思明は長男の史朝義に替わって妾腹の子・史朝清を溺愛し始め,これを後継者にせんとしたため,逆に史朝義の部下が史思明を捕らえて幽閉.以後,史朝義が洛陽を保持.


○ 760年9月,ウイグルよりの使者 として倶録莫賀 達干タルカンらの一行が入朝.

● 761年上元二年2月,史思明殺され,史朝義が即位.

● 762年宝応元年4月,約2年 の蟄居生活の後,玄宗が死去.わずか十余日後に粛宗も崩御.代宗が即位.宝応と改元.

○  762年8月,ウイグルは史朝義から援軍要請を受け,「唐朝では天子の死去が度重なり,国は乱れ,主君がいないので,侵略して府庫を手に入れてはどうか」(両唐書ウイグル伝)と誘われたので,牟羽可汗自らが「国を傾けて」十万とも称される大軍を率いて南進.


○ 762年秋,代宗は,史朝義軍を打倒するため,中使・劉清潭を派遣し,ウイグル軍の出動を要請.劉清潭は既に陰山を越 えていたウイグル軍と遭遇.劉清潭が可汗に,・か つて代宗がウイグルの葉護と協力して安慶緒から両京を奪還した故事,・さらに唐からウイグルに毎年絹数万匹を贈っていることを訴えても,・ウイグル側はこれを無視して太原方面に向かうそこで劉清潭は長安の代宗に密使を送ってウイグル軍の現状を報告.長安中が略奪の危険を恐 れて震撼、たまたま可敦が両親に会いたいと要請してきたので,僕固懐恩が太原方面に赴き,娘婿の牟羽可汗に道理を説く.その結果,ウイグルは再 び唐側に就くこととなる.


○代宗 は雍王适(後 の徳宗)を 兵馬元帥とし,僕固懐恩らに命じて,陝州(太原倉の食料あ り)でウイグル軍に合流させる.牟羽可汗は雍王を引見するに当たって,雍王が拝舞(踏舞)の 礼をしないのを難詰.やりとりがあるが,結局,雍王の側近を不敬罪で棒打ち(翌日死亡).この後,ウ イグルの右 シャドの軍と僕固懐恩軍とが先鋒となって戦い,遂に洛陽を奪還(10月).史朝義は范陽に向かって敗走、雍王は霊宝に帰り,可汗は河陽(河南省孟県,黄河の北岸)に 数 ヶ月間駐屯.僕固懐 の息子・僕固瑒(チョウ) の軍はウイグル軍 と共に史朝義を2000余里も追跡して追いつめる.

●763年宝応二年(763)正月,史朝義 は范陽で自殺.史朝義の首が長安に届き,安史の乱,平ら ぐ.

○ 763年2月,牟 羽可汗は代宗に別れ を告げて帰国.内殿にて繰200段を賜与さる.。

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黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193

黄河二首 其一 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 193
756年 至徳元年秋に安史軍(叛乱軍)に捕縛される前後の出来事を後になって作ったものと思う。時期的には、鳳翔に在った時以降だろう。どちらにしても中央で閑職状態の時期である。


黄河二首 其一
黄河北岸海西軍、推鼓鳴鐘天下聞。
陰山山脈と黄河の北側後に唐王朝軍援軍のためウイグル軍が駐屯している、鼓舞するための太鼓や鐘の音が、大空に響き渡る。
鐵馬長鳴不知數、胡人高鼻動成羣。

甲冑で武装した兵馬は長い嘶きが続いているので数がおおくて数えることができないだろう。異民族のウイグル人はひょっとすると唐軍に叛乱の群れになるかもしれない。

黄河の北岸 海西の軍、鼓を推(う)ち鐘を鳴らして天下に聞ゆ。
鐵馬 長鳴して數を知らず、胡人 高鼻にして動((ややも)すれば羣を成す。

黄河二首 杜甫オレンジが安史軍支配地域756年7月から12月期。
安史の乱は官軍と賊軍という範疇では説明できない。反乱軍という表現だけでもいけない。異民族はどちらにも構成軍に入っているし、安禄山の軍も、いろんな構成であった。
この詩、黄河二首の時期の勢力図であり、地図の中央上部の地点で安史軍と王朝ウイグル連合軍が対峙した。この時唐王朝は、霊武から河曲(緑の矢印辺)あたりしか支配地域が限定して、じり貧状態であった。

現代語訳と訳註
(本文) 黄河二首

黄河北岸海西軍、推鼓鳴鐘天下聞。
鐵馬長鳴不知數、胡人高鼻動成羣。


(下し文)
黄河の北岸 海西の軍、鼓を推(う)ち鐘を鳴らして天下に聞ゆ。
鐵馬 長鳴して數を知らず、胡人 高鼻にして動((ややも)すれば羣を成す。


(現代語訳)
陰山山脈と黄河の北側後に唐王朝軍援軍のためウイグル軍が駐屯している、鼓舞するための太鼓や鐘の音が、大空に響き渡る。
甲冑で武装した兵馬は長い嘶きが続いているので数がおおくて数えることができないだろう。異民族のウイグル人はひょっとすると唐軍に叛乱の群れになるかもしれない。

(訳注)
黄河北岸海西軍、推鼓鳴鐘天下聞。
黄河の北岸 海西の軍、鼓を推(う)ち鐘を鳴らして天下に聞ゆ。
陰山山脈と黄河の北側後に唐王朝軍援軍のためウイグル軍が駐屯している、鼓舞するための太鼓や鐘の音が、大空に響き渡る。
黄河北岸 南下してきたウィグル本軍を陰山と黄河の間にある呼延谷のこと。○海西の軍。粛宗が即位し、援軍を求めたウイグルの騎兵隊の軍。


鐵馬長鳴不知數、胡人高鼻動成羣。
鐵馬 長鳴して數を知らず、胡人 高鼻にして動((ややも)すれば羣を成す。
甲冑で武装した兵馬は長い嘶きが続いているので数がおおくて数えることができないだろう。異民族のウイグル人はひょっとすると唐軍に叛乱の群れになるかもしれない。
鐵馬 甲冑で武装した兵馬。○胡人 異民族の中で北方、西方にウイグル人がおり、北には鮮卑系もいた。○高鼻 異民族のウイグルの人。

○唐王朝は滅亡寸前という態勢であったが、霊武は西北辺境の要衝であり、朔方節度使・郭子儀の本拠地であった。ウイグルがこの時安史軍(叛乱軍)に味方するか、中立を取れば、唐は滅亡していたかもしれない。
○杜甫は、ウイグルによって救われていることを不安に思っていた。




安史の乱の年譜(黄河二首の背景)
○ 756年6月,玄 宗 の命令 により、哥舒翰軍は潼関より東に出撃.哥舒翰は敗北して敵の手中に。.

○ 長安では楊国忠の主張により、蜀(四川)への蒙塵を決定.。

○ 756年6月13日 未明、玄宗、皇太子夫妻、楊貴妃 とその一族、楊国忠一家、公主たちが、極秘裏に宮殿を脱出。


○ その後,玄宗は蜀へ蒙塵し、玄宗は皇太子に長安を奪回せよと命ず。皇太子は捲土重来を期して霊武へ向かう。霊武は西北辺境の要衝であり、かつ朔方節度使・郭子儀の本拠地。


○ 756年07月,皇太子は群臣の懇望を受けて、蜀にある玄宗を上皇にまつりあげ、粛宗として霊武で即位.至徳と改元。援軍を得るためには皇太子が皇帝にならなければ要請できない。


○ 756年09月,粛宗はウイグルに援軍を求めるために使者を。漠北のモンゴリアに派遣使者となったのは,王族の一人(敦 煙郡王承粟)とトルコ系武将の僕固懐恩とソグド系 武将の石定番。


★756年8~9月 杜甫蘆子関付近で捕縛される。


○ 756年10月にオルホン河畔のオルドバリクで会見.ウイグルの第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)は喜んで、可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた。


○ 756年7~12月[通鑑 による],安史勢力側の阿史那従礼が突廠・同羅・僕骨軍5000騎を率い,河曲にあった九府・六胡州の勢力数万も合わせて、行在=霊武を襲わんとした。


○ 756年9~12月郭子儀は,磨延啜自身が率いて南下してきたウィグル本軍を陰山と黄河の間にある呼延谷で迎え,これと合流。

・一方これ以前 に葛遷支率いる ウイグル別働 隊2000騎 がまず范陽を攻撃したが,成功せずにそこから太原方面に移動。


・郭子儀軍はこれ らのウイグル本軍並びに別働隊と協力して,阿史那従礼軍を斥け,河曲(黄河の大湾曲部内側の北半部,す なわちオルドスを中心に,そ の外側の陰山山脈以南を合わせた一帯;現在の内蒙古自治区の一部とちんにし陝西省~寧夏回族自治区の北辺)を平定した。


★ 杜甫 黄河二首

★ 杜甫長安に護送される。

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述懐 #3 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 180

述懐 #3 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 180
    
述懐 
#1 五韻十句(久。走。肘。醜。厚。口。)
去年潼関破、妻子隔絶久。今夏草木長、脱身得西走。
麻鞋見天子、衣袖露両肘。朝廷愍生還、親故傷老醜。
涕涙授拾遺、流離主恩厚。柴門雖得去,未忍即開口。
#2 四韻八句(否。狗。牖。朽。) 
寄書問三川,不知家在否?比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。摧頹蒼松根,地冷骨未朽。

#3 四韻八句(後。有。酒。叟。)
自寄一封書,今已十月後。
反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。
沈思歡會處,恐作窮獨叟。

私が一通の手紙を出して以来音沙汰がない。今はかれこれ、十箇月もたっているので心配だ。
そうはいっても、実はかえって便りが来るのを畏れているのだ、もしたよりに家族全滅を知らせてくるかもしれないので私のこの胸の内は心も消えうせるばかりなのだ。
今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位されてことにあたられることになったのだ、ところがこの私は、左拾遺に召されたが、平生、年より扱いしかされないので心は沈みがちで酒にふけっているのだ。
朝廷でのことは心が沈んでしまうことだ。それより、妻や子とのうれしい会合の場面をじっと考えてみることにする、それは夢であってもしかしたら、家族もいない貧窮孤独の老人として残るのではないかと恐れてしまうのだ。

#3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


DCF00209


述懐 #3 現代語訳と訳註
(本文) #3 四韻八句(後。有。酒。叟。)
自寄一封書,今已十月後。
反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。
沈思歡會處,恐作窮獨叟。


(下し文) #3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


(現代語訳)
私が一通の手紙を出して以来音沙汰がない。今はかれこれ、十箇月もたっているので心配だ。
そうはいっても、実はかえって便りが来るのを畏れているのだ、もしたよりに家族全滅を知らせてくるかもしれないので私のこの胸の内は心も消えうせるばかりなのだ。
今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位されてことにあたられることになったのだ、ところがこの私は、左拾遺に召されたが、平生、年より扱いしかされないので心は沈みがちで酒にふけっているのだ。
朝廷でのことは心が沈んでしまうことだ。それより、妻や子とのうれしい会合の場面をじっと考えてみることにする、それは夢であってもしかしたら、家族もいない貧窮孤独の老人として残るのではないかと恐れてしまうのだ。


(訳注)
自寄一封書,今已十月後。

私が去年の9月に一通の手紙を出して以来、音沙汰がない。今は六月で、かれこれ、十箇月もたっているのでとても心配だ。
一封書 一通の手がみ。〇十月後十か月の後、此の詩の作が何月にあるかは不明であるが、左拾遺の任命が五月十六日、後の「北征」の詩が閏八月初音であるのによって推すときは、其の中間に在ってしかも任官後あまりほどとおからぬときであろう。仮りに六月頃とすればその十か月以前は前年の九月頃、叛乱軍に捕まった時となる。


反畏消息來,寸心亦何有?
そうはいっても、実はかえって便りが来るのを畏れているのだ、もしたよりに家族全滅を知らせてくるかもしれないので私のこの胸の内は心も消えうせるばかりなのだ。
消息 鄜州の妻子からのたより。○寸心 むねのうち、中国人は心のはたらきを一寸四方の心臓に在るとかんがえていた。○亦何有 なにもないことをいう、心も消えうせるばかり。


漢連初中興,生平老耽酒。
今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位されてことにあたられることになったのだ、ところがこの私は、左拾遺に召されたが、平生、年より扱いしかされないので心は沈みがちで酒にふけっているのだ。
漢連 唐の国運をいう。○初中興 初めて興るにあたる、粛宗皇帝の即位されたことをさす。○生平平生と同じ。○沈思ふかくかんがえる。


沈思歡會處,恐作窮獨叟。
朝廷でのことは心が沈んでしまうことだ。それより、妻や子とのうれしい会合の場面をじっと考えてみることにする、それは夢であってもしかしたら、家族もいない貧窮孤独の老人として残るのではないかと恐れてしまうのだ。
歓会処 よろこんで一家族会合する場合のこと。○窮獨叟 貧窮で単独な老人。朝廷の中で、相手にされないので孤独感に陥っている、その上もしかしたら、家族のものがみな殺されてしまったかもしれないのだ。


解説
杜甫の言いたいことは、この#3に集約されている。ここでは、もう、杜甫の政治に対しての心が折れてしまっったようである。朝廷内で自分の意見を発揮できないばかりか、歳より扱いなのだ。勢い酒を飲むことになってしまう。思うことは、家族のことが心配なのだ。杜甫は、男として、いったん口にした、「房琯擁護」について、語らなくなった。この段階で朝廷内で宦官の影響力に負けたのである。そのことを口に出せば、死罪になるのである。しかし、詩人を数段高い詩人に成長させる事件であったのだ。


述懷
去年潼關破,妻子隔絕久。今夏草木長,脫身得西走。
麻鞋見天子,衣袖露兩肘。朝廷敏生還,親故傷老醜。
涕淚授拾遺,流離主恩厚。柴門雖得去,未忍即開口。』#1
寄書問三川,不知家在否?比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命?盡室豈相偶?嶔岑猛虎場,鬱結回我首。』#2
自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。』#3
#1
去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
#2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす

#3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
今年の夏は草木が生長するころに、叛乱軍の囲みの中からぬけだして西方、鳳翔の行在所をめがけて逃げて走ったのだ。
幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。
朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つみすぼらしい姿をきのどくがってくれた。
幸いにも自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけすることになった。この流浪零落の時にわが天子の御恩はいかばかりにお厚いことなのである。
粗末な門のある家族を疎開させている麒州の家の方へは若し願いでるならば行くことはできるのであろうが、とても今すぐそんな事を、口を開いて言いだすには忍びないのである。』


自分は今また新しく手紙をだして三川鄜州羌村の家族の様子をたずねている、いったいわが家は現に存在しているのかどうか知ることができない。
このごろ聞けば、どこの家も同様に戦争の兵禍にかかって鶏や家畜、犬までも殺されてしまったともいう。
あの山の中の雨もりのする茅屋のいえなのだ、そこでは誰かが、また以前の様に戸や窓にさびしくよりそっているだろう。
また殺されていれば家族のものは、あの囲いのくずれ、くだけた松の樹の根もとにいるのだろう、地面は冷たくその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。(そうであってもなんにもしてやれないのだ)
こんなむごたらしいことがあっていいのか、無事でいきながらえ得るものが幾人あるというのだ? 一家全員一人も欠けずそってならんで坐ることがはたしてできるのだろうか?
こんなことを考えて、けわしい山の向こうの猛虎のはびこれる地方がある、家族とは深く心むすぼれているので首をふりむけてながめやることで私の心のうちが伝わることであろう。』


私が一通の手紙を出して以来音沙汰がない。今はかれこれ、十箇月もたっているので心配だ。
そうはいっても、実はかえって便りが来るのを畏れているのだ、もしたよりに家族全滅を知らせてくるかもしれないので私のこの胸の内は心も消えうせるばかりなのだ。
今や我が唐の国運は粛宗皇帝の御即位されてことにあたられることになったのだ、ところがこの私は、左拾遺に召されたが、平生、年より扱いしかされないので心は沈みがちで酒にふけっているのだ。
朝廷でのことは心が沈んでしまうことだ。それより、妻や子とのうれしい会合の場面をじっと考えてみることにする、それは夢であってもしかしたら、家族もいない貧窮孤独の老人として残るのではないかと恐れてしまうのだ。

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述懐 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 179

述懐 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 179
    
述懐 #1 五韻十句
去年潼関破、妻子隔絶久。今夏草木長、脱身得西走。
麻鞋見天子、衣袖露両肘。朝廷愍生還、親故傷老醜。
涕涙授拾遺、流離主恩厚。柴門雖得去,未忍即開口。
#2 
寄書問三川,不知家在否?
自分は今また新しく手紙をだして三川鄜州羌村の家族の様子をたずねている、いったいわが家は現に存在しているのかどうか知ることができない。
比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
このごろ聞けば、どこの家も同様に戦争の兵禍にかかって鶏や家畜、犬までも殺されてしまったともいう。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。
あの山の中の雨もりのする茅屋のいえなのだ、そこでは誰かが、また以前の様に戸や窓にさびしくよりそっているだろう。
摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
また殺されていれば家族のものは、あの囲いのくずれ、くだけた松の樹の根もとにいるのだろう、地面は冷たくその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。(そうであってもなんにもしてやれないのだ)
幾人全性命?盡室豈相偶?
こんなむごたらしいことがあっていいのか、無事でいきながらえ得るものが幾人あるというのだ? 一家全員一人も欠けずそってならんで坐ることがはたしてできるのだろうか?
嶔岑猛虎場,鬱結回我首。

こんなことを考えて、けわしい山の向こうの猛虎のはびこれる地方がある、家族とは深く心むすぼれているので首をふりむけてながめやることで私の心のうちが伝わることであろう。』

#3
自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。

去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
#2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす
#3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


述懐 #2 五韻十句 現代語訳と訳註
 (本文) #2 

寄書問三川,不知家在否?
比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。
摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命?盡室豈相偶?
嶔岑猛虎場,鬱結回我首。

(下し文) #2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす

(現代語訳)
自分は今また新しく手紙をだして三川鄜州羌村の家族の様子をたずねている、いったいわが家は現に存在しているのかどうか知ることができない。
このごろ聞けば、どこの家も同様に戦争の兵禍にかかって鶏や家畜、犬までも殺されてしまったともいう。
あの山の中の雨もりのする茅屋のいえなのだ、そこでは誰かが、また以前の様に戸や窓にさびしくよりそっているだろう。
また殺されていれば家族のものは、あの囲いのくずれ、くだけた松の樹の根もとにいるのだろう、地面は冷たくその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。(そうであってもなんにもしてやれないのだ)
こんなむごたらしいことがあっていいのか、無事でいきながらえ得るものが幾人あるというのだ? 一家全員一人も欠けずそってならんで坐ることがはたしてできるのだろうか?
こんなことを考えて、けわしい山の向こうの猛虎のはびこれる地方がある、家族とは深く心むすぼれているので首をふりむけてながめやることで私の心のうちが伝わることであろう。』


(訳注)
寄書問三川,不知家在否?

自分は今また新しく手紙をだして三川鄜州羌村の家族の様子をたずねている、いったいわが家は現に存在しているのかどうか知ることができない。
寄書 手紙をやる。〇三川 鄜州地方のことで羌村の方をいう。三川觀水漲二十韻 杜甫 127 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 127-#1
家在否 自分の家が存在しているかどうか。野党、盗賊、叛乱軍、王朝軍それぞれが略奪、強盗をしていた。
 
比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
このごろ聞けば、どこの家も同様に戦争の兵禍にかかって鶏や家畜、犬までも殺されてしまったともいう。
○同罷禍 自分の家も他の家と同じく戦争の兵禍にかかった。○殺戮 ころす。○到雞狗 鶏や家畜、犬までも。


山中漏茅屋,誰複依戶牖。
あの山の中の雨もりのする茅屋のいえなのだ、そこでは誰かが、また以前の様に戸や窓にさびしくよりそっているだろう。
山中漏茅屋 漏茅屋は雨のもれるかやぶきの家。○依戶牖 戸や窓によりそって立つ。


摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
また殺されていれば家族のものは、あの囲いのくずれ、くだけた松の樹の根もとにいるのだろう、地面は冷たくその下に埋められて骨はまだ朽ちずにいることであろう。(そうであってもなんにもしてやれないのだ)
○摧頹 くだけ、くずれる。壁が剥がれ落ちる。○地冷骨未朽この二句は杜甫の心配がどうしようもないところまで至っていて、2年前、餓死で死んだ子供のことと重ねて家族全体が死んでしまったのではないかということを言っている。この時無政府状態で、すべての人間が、野党盗賊に変身して略奪、殺戮を行っていた。杜甫は、自分が経験し、目の前で見てきているので、心配でたまらなかったのだ

自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 105 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700-105-1参照

 
幾人全性命?盡室豈相偶?
こんなむごたらしいことがあっていいのか、無事でいきながらえ得るものが幾人あるというのだ? 一家全員一人も欠けずそってならんで坐ることがはたしてできるのだろうか?
全性命 無事にいきながらえる。○尽室 一家全体かけることなく。○相偶 偶とはならんで坐ることをいう。


嶔岑猛虎場,鬱結回我首。
こんなことを考えて、けわしい山の向こうの猛虎のはびこれる地方がある、家族とは深く心むすぼれているので首をふりむけてながめやることで私の心のうちが伝わることであろう。』
嶔岑 嶔岑は山のけわしいさま。

三川觀水漲二十韻 杜甫 127 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 127-#1

彭衙行 杜甫 132 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132 -#1

王砅「送重表姪王秋評事便南海」 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 131

猛虎場 野盗、盗賊、叛乱軍のはびこる地をいう、家族のいる方向であるが、即ち鄜州へは、その盗賊、叛乱軍の向こう側にいるということをいう。○鬱結 心のむすぼれること。○廻我首 鄜州、羌村の方へと首をふりむけること。


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述懐 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 178

述懐 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 178
    
述懐 #1 五韻十句
去年潼関破、妻子隔絶久。
去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
今夏草木長、脱身得西走。
今年の夏は草木が生長するころに、叛乱軍の囲みの中からぬけだして西方、鳳翔の行在所をめがけて逃げて走ったのだ。
麻鞋見天子、衣袖露両肘。
幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。
朝廷愍生還、親故傷老醜。
朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つみすぼらしい姿をきのどくがってくれた。
涕涙授拾遺、流離主恩厚。
幸いにも自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけすることになった。この流浪零落の時にわが天子の御恩はいかばかりにお厚いことなのである。
柴門雖得去,未忍即開口。
粗末な門のある家族を疎開させている麒州の家の方へは若し願いでるならば行くことはできるのであろうが、とても今すぐそんな事を、口を開いて言いだすには忍びないのである。』

#2 
寄書問三川,不知家在否?比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命?盡室豈相偶?嶔岑猛虎場,鬱結回我首。
#3
自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。

去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
#2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす
#3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


述懐 #1 五韻十句 現代語訳と訳註
(本文)
去年潼関破、妻子隔絶久。
今夏草木長、脱身得西走。
麻鞋見天子、衣袖露両肘。
朝廷愍生還、親故傷老醜。
涕涙授拾遺、流離主恩厚。
柴門雖得去,未忍即開口。

(下し文)
去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
(現代語訳)
去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
今年の夏は草木が生長するころに、叛乱軍の囲みの中からぬけだして西方、鳳翔の行在所をめがけて逃げて走ったのだ。
幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。
朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つみすぼらしい姿をきのどくがってくれた。
幸いにも自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけすることになった。この流浪零落の時にわが天子の御恩はいかばかりにお厚いことなのである。
粗末な門のある家族を疎開させている麒州の家の方へは若し願いでるならば行くことはできるのであろうが、とても今すぐそんな事を、口を開いて言いだすには忍びないのである。』


(訳注)
去年潼関破、妻子隔絶久。

去年あの不敗神話の潼関で最強幕府の将軍、哥舒翰が破れてしまったから、妻子とは簡単に逢うことができないかけはなれた存在になってしまった。
去年756年天宝十五載、即ち至徳元載をさす、至徳の改元は七月である。〇潼関破 756年天宝十五載の六月九日、哥舒翰が王朝軍、叛乱軍の倍の数の軍を率いて絶対破れないとされていた潼関において、叛乱軍に大敗し、捕えられたことをいう。○隔絶 杜甫の妻子は鄜州の羌村に寄寓させてあった。両者の間がへだたることをいう。逢うためには、う回路の峻険な山道を通らなければならない。

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彭衙行 杜甫 132 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132 -#1

 
今夏草木長、脱身得西走。
今年の夏は草木が生長するころに、叛乱軍の囲みの中からぬけだして西方、鳳翔の行在所をめがけて逃げて走ったのだ。
今夏 757年至徳二載の夏。○ せがのぴる。○脱身 叛乱軍のなかからぬけだす。○西走 長安から西の方鳳翔に向かって走る。この年の初め安禄山が息子に殺され、叛乱軍の内紛があったために、粛宗は霊武から鳳翔まで南下できて行在所としたのだ。


麻鞋見天子、衣袖露両肘。
幸に行在所に到著ができ、麻のわらじのまま粛宗皇帝におめみえをしたが、衣のそでは破れて両ひじが現われていた。
麻軽 あさのわらじ、旅装のままである。○見天子 粛宗皇帝に謁見する。○露両肘 そでのやぶれている故に左右のひじをあらわす。


朝廷愍生還、親故傷老醜。
朝廷ではこの自分がいきて戻ってきたのをおあわれみ下され、親しきもの、ふるなじみのもの等は自分の老い且つみすぼらしい姿をきのどくがってくれた。
生還 いきてもどってきたこと。○親故 親しい人々や、ふるなじみの人々。親戚と友達。○傷老醜作者の老いてみにくくなったことを気のどくがる。


涕涙授拾遺、流離主恩厚。
幸いにも自分は涙ながらに左拾遺の官をおうけすることになった。この流浪零落の時にわが天子の御恩はいかばかりにお厚いことなのである。
沸涙 なみだながらに。○受拾遺 拾遺は官名、供奉・諷諌を掌る。作者は至徳二載五月十六日に中書侍郎張鏑の勅命を奉じて左拾遺に任ぜられた。○流離 零落のさま。○主恩天子の御恩。


柴門雖得去,未忍即開口。
粗末な門のある家族を疎開させている麒州の家の方へは若し願いでるならば行くことはできるのであろうが、とても今すぐそんな事を、口を開いて言いだすには忍びないのである。』
柴門 鄜州羌村にある家の門、前に「柴門老樹ノ村」とあった柴門と同じ。○ そこへゆくことをいう。○即開口 すぐにロを開いてそのことを言いだす。


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述懐  杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 177

述懐  杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 177
鳳翔において粛宗皇帝に謁見し、左拾遺の官を拝命して以後、鄜州の家族の安否を問い、消息がなお来なかったときのおもいをのべた作。製作時は至徳二載の夏。757年 46歳

■ この詩を読むための杜甫の状況と解説
 「行在所に達するを喜ぶ 三首」が鳳翔到着直後の作品であるのに対して、「述懐」はそれからひと月ほどたった五月十六日以後の作品。「述懐」はそのころの杜甫の感懐を述べるもので、はじめの十句で長安を脱出して粛宗の朝廷に参じ、左拾遺の職を授けられた喜びを述べている。 鳳翔の朝廷には旧知の者も多く、敵地から逃れてきた杜甫は歓迎されている。旅装のままで粛宗に謁見し、慰労の言葉をかけられ感動する。厳武(げんぶ)は杜甫の若いころからの理解者であった厳挺之(げんていし)の息子で、このとき粛宗朝の給事中(正五品上)の要職にあった。また賈至は譲位の詔勅を起草して房琯と共に粛宗朝に参加していた詩人である。

 これら友人たちの推薦があって、杜甫は五月十六日に左拾遺(従八品上)に任ぜられる。左拾遺は門下省に属し、品階は高くありませんが、天子の側近にあって諫言と正言をすすめる清官(せいかん)ということになる。進士でもない杜甫が文士の正道をゆく官職に就いたわけですから、杜甫は感激して左拾遺の職を受けている。

 しかし、鄜州方面へゆく人に書信を託して家族の安否を調べたが、三川県羌村からの返事はなかなか返ってこず、聞こえてくるのは鄜州方面は兵禍に遭って、鶏や子犬までが殺されてしまったという悲惨な噂だけ。杜甫の心配はつのり、家族は死に絶えてしまったのではないかと思う。

 書信を出してから三か月後の七月には鄜州の妻から返事が届き、家族全員が無事であるとわかる。
「述懷」は安禄山の叛乱軍に拘束され、そこから鳳翔の行在所に逃げ帰ったことなど、杜甫の周りの出来事、心境を述べたものである。
三回分割で掲載。


述懷
去年潼關破,妻子隔絕久。今夏草木長,脫身得西走。
麻鞋見天子,衣袖露兩肘。朝廷敏生還,親故傷老醜。
涕淚授拾遺,流離主恩厚。柴門雖得去,未忍即開口。』#1

寄書問三川,不知家在否?比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命?盡室豈相偶?嶔岑猛虎場,鬱結回我首。』#2

自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。』#3
#1
去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
#2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす
#3


■ この頃の詩を読むための杜甫、この事件により、杜甫の人生が完全に変わるのである。
杜甫の授かった左拾遣の官は門下省に属しており、長官の侍中(正三品)以下、左散騎常侍(従三品)、黄門侍郎(正四品上)、給事中(正五品上)と続く、その末端に置かれていて、位は従八品上であった。しかし、杜甫にとってははじめての天子直属の官であり、その「述懐」(懐いを述ぶる)詩に、「洋涙して拾遣を授かり、流雌して主恩は厚し」と詠っているように、感涙にむせびつつ左拾遺を授かっている。

 それまで、杜甫が任命されようとした「河西の尉」は地方官で、天子の側に近寄ることなど夢にも考えられなかったし、次に就任した右衛率府兵曹参軍は東宮の職員であり、国政とは関わりのないものであった。杜甫は、家柄として、官僚にならないといけない宿命を佩びていたのだ。
ここにおいて杜甫は、天子の側近にあって国政に直接関わることのできる地位に就くことができたのである。
今こそ
  「致君堯舜上,再使風俗淳。」
  “君を堯と舜の上に致し、再び風俗をして淳あつからしめん”
『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』という年来の志を果たすことができようと、杜甫は身の引き締まる思いをしながらも、心からうれしかったのだ。
その左拾遺に任ずる詔書には、
 “襄陽の杜甫、爾の才徳は、朕深く之を知る。
  今、特に命じて宜義郎・行在の左拾遺と為す。
  職を授けし後は、宜しく是の職に勤めて怠る
  ことなかるべし。中書侍郎の張鎬に命じ、
  符をもたらして告論せしむ。
  至徳二載五月十六日行。”
とあり、杜甫は“宜しく是の職に勤めて怠ることなかるべき”ことを誓った。そうして数日ののち、拾遺の職務に忠実に諌諍を行なったが、粛宗の激怒によって危うく一命を失いそうになる。

 諌諍の内容は、杜甫が左拾遺を授けられる六日前、すなわち757年五月十六日に宰相から太子少師の閑職に左遷された房琯の弁護であった。房琯は、蜀にある玄宗のもとから派遣されて粛宗の政府の宰相となっていたが、陳陶斜と青坂での敗戦の責任は、粛宗の信任あつい李泌のとりなしによってなんとか問われなかったものの、粛宗の信頼は失われてしまっていた。また、賀蘭進明・崔円ら粛宗直属の臣と、玄宗のもとから遺わされてきた者との対立、知識人宰相として実務家官僚たちと意見が合わず孤立していた、などという事情を背景とし、直接には、房琯の取り巻きの一人である楽師が宰相への口利き料を取っていたのが露見して収賄罪で告訴され、それを房琯が救けようとした、ということが原因となって左遭されたものであった。

 杜甫にとって房琯は、私的には「布衣の交わりを為す」(『新唐書』杜甫伝)つまり地位の上下をぬきにしたつき合いをしていた人であったようであるし、また公的には、新政府の宰相として彼以上の人物はいないと信じていたために、房棺が左遷されたのを、そのまま見過ごしておくことはできなかった。そうして、政府内の事情もよくわからないままに、また左拾遺としての慣例などおかまいなしに、わが思うままを述べたてて、「罪は細なり。宜しく大臣を免ずべからず」(『新唐書』杜甫伝)と奏上した。それは実情を考慮することなく、理想に向かって突っ走ろうとする、
いかにも杜甫らしい行動であった。

 職務に忠実とはいえ、僭越過ぎる諫諍をしたものである。朝廷とは行在所で粛宗も皇帝としての実績もなく、叛乱軍に対する政策も方針も確固たるものがなかった時期である。確かに、戦力を整えるときで人材を豊富にし、集積にして行かなければいけない時であった。粛宗の好みで近臣を選定していたのである。したがって、好みでないものは左遷された。そうであっても、成りたての新米、朝廷内のなにもわからないものが、云うべき問題であったのか、疑問は残る。それと、杜甫がせっかく擁護した房琯のその後の態度姿勢は擁護に値する人間ではなかったのである。ただ、玄宗皇帝にうまく取り入っていた男に過ぎなかったのではないのか。そうした意味で杜甫の一生をかけていうべき問題ではなかったというのが結果論である。

 粛宗はこの時、杜甫を玄宗派出なく自派の陣営として左拾位に任命したのである。玄宗の指令を受けてきて素行のよろしくないとされている房琯を誰もが援護するとは思ってもみなかった。なりよりも、陳陶、青坂の戦いは軍を率いた将軍として不甲斐無さ過ぎた。玄宗から派遣されたものでなければ将軍に抜擢されていないはずである。近親が必要な段階であった。房琯のおつきの楽師が賄賂を採ったとは、宦官の仕組んだ罠のようなものであったのだとは思うが、この段階で、その房琯を擁護するのは、どう考えても僭越を通り過ぎている。杜甫を、粛宗が信用するはずはなく、将来がなくなるのは当り前であろう。すべて宦官のしくんだ罠にはまったのである。玄宗も、粛宗も一番信頼できたのは、宦官勢力であった。事実宦官に寄って王朝は守られ維持できたのである。この読みの違いは杜甫にとってはどうしようもない失策であった。杜甫自身も一回朝廷の地位に付けば先祖に対する名分は立ったと考えたのかもしれない。ある意味で覚悟した言動行動であったのかもしれないし、杜甫の中では、玄宗元皇帝の影響力がまだ残っていると考えていたのかもしれない。杜甫の人生の中のエポックになる事件であった。しかし杜甫はこの事件について、その後も反省はしていない。



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李 白 詩
唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
杜 甫 詩
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端午日賜衣 杜甫 <1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫詩 700- 1

端午日賜衣 杜甫 <1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫詩 700- 1


端午日賜衣 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  1
(杜甫の一生の中で子供のように一番喜んだ日)

758乾元元年の五月五日 杜甫47歳
左拾遺であったとき、宮中より衣をたまわったことをのべている。杜甫が子供のように喜んでいる。杜甫人生、全詩の中から唯一無二の作品である。杜甫をスタートするにふさわしい本当に象徴的な作品。杜甫が分かればわかるほどこの作品時の杜甫がいとおしくなる。杜甫は誠実な詩人、苦悩することから、逃避していない。道教的な部分はなく、中国の良心ともいえる杜甫詩少しづつ見ていきます。杜甫の詩は作時期がはっきりしているが、必ずしも順序については、違っている。(長い詩が多いためで、私は長編詩を区切って紹介するのは、間違っていると思うので、それが理由で少し変わる可能性があるということである。)きっちり通してみていていくと杜甫のことがよく理解できると思う。


杜甫 1 端午日賜衣

五言律詩
端午日賜衣
宮衣亦有名,端午被恩榮。
こんど賜わった宮中でつくられた衣については、自分ほどのものの姓名まで御下賜者のなかにあって、端午のお祝い日にありがたき栄誉を被った。
細葛含風軟,香羅疊雪輕。
その着物は、細い葛の糸を用いたのは風を含んでしなやかであり、香を燻らした薄絹のものは雪色を畳んでふわりとしている。
自天題處濕,當暑著來清。
御筆で題されたところは墨のあともまだ乾かず、暑さにあたって之を身に着ければいと清々しい。
意內稱長短,終身荷聖情。
腹の中で積もってみるにこの着物は真に自分のからだの寸法によく合っている。これを下さった我が君のお情けのかたじけなさは自分が一生涯のいただきものである。




(端午の日衣を賜う)
宮衣亦名有り 端午恩栄を被る
細葛風を含んで軟やかに 香羅雪を畳んで軽(かるし)
天よりして題する処 湿い 署に当って 著け 来れば 清(きよし)。
意内 長短に 称う、 終身 聖情を 荷なう



現代語訳と訳註
(本文)
五言律詩
端午日賜衣
宮衣亦有名,端午被恩榮。
細葛含風軟,香羅疊雪輕。
自天題處濕,當暑著來清。
意內稱長短,終身荷聖情。

(下し文)
(端午の日衣を賜う)
宮衣亦名有り 端午恩栄を被る
細葛風を含んで軟やかに 香羅雪を畳んで軽(かるし)
天よりして題する処 湿い 署に当って 著け 来れば 清(きよし)。
意内 長短に 称う、 終身 聖情を 荷なう

(現代語訳)
こんど賜わった宮中でつくられた衣については、自分ほどのものの姓名まで御下賜者のなかにあって、端午のお祝い日にありがたき栄誉を被った。
その着物は、細い葛の糸を用いたのは風を含んでしなやかであり、香を燻らした薄絹のものは雪色を畳んでふわりとしている。
御筆で題されたところは墨のあともまだ乾かず、暑さにあたって之を身に着ければいと清々しい。
腹の中で積もってみるにこの着物は真に自分のからだの寸法によく合っている。これを下さった我が君のお情けのかたじけなさは自分が一生涯のいただきものである。



(訳注)


自天題處濕,當暑著來清。
御筆で題されたところは墨のあともまだ乾かず、暑さにあたって之を身に着ければいと清々しい。
自天 「題署自天子」( 天子 自ら題署す)を省略して、題の字を下におく。役職名と名前を書いてある、天子みずから名を題したまえることをいう。
題処 かき記されたもの、此の句は首句の「有名」を承けるもの。
湿 墨の痕がうるおう、かきたてであることをいう。
当暑 あつさのおりに。 
 さっぱりしてすがすがしいこと。


細葛含風軟,香羅疊雪輕
その着物は、細い葛の糸を用いたのは風を含んでしなやかであり、香を燻らした薄絹のものは雪色を畳んでふわりとしている。
細葛 ほそいくずのいとでつくった衣をいう。 
含風気孔が多くて風をいれやすいこと。 
 しなやかなこと。 
香羅 かんばしいうすぎぬの衣、香とは香をたきこめたのであろう。
畳雪 雪とは純白色をたとえていう、白衣を畳んであるのをみて雪をたたむと表現したもの。
 ふわりとしている。


宮衣亦有名,端午被恩榮
こんど賜わった宮中でつくられた衣については、自分ほどのものの姓名まで御下賜者のなかにあって、端午のお祝い日にありがたき栄誉を被った。
宮衣 宮女のつくった衣、即ち下の葛、羅を以て製したもの。 
亦有名 「我亦た名有り」の義、宮中に名札版があり、賜衣者の列内に自分の姓名を確認できたのだ。最高に喜んでいる雰囲気を感じ取れる。○端午 夏暦では正月を寅とし、五月は午にあたる。五月が午であるために五の日をまた午とする、端は初の義、端午とは五月の初旬の午の日の義であるという。
恩栄 天子の御恩による栄誉。


意內稱長短,終身荷聖情。
腹の中で積もってみるにこの着物は真に自分のからだの寸法によく合っている。これを下さった我が君のお情けのかたじけなさは自分が一生涯のいただきものである。
意内 自己のこころのなかではかってみる。一説に天子の意内とするが、恐らくは天子は一々臣下の身の寸法をはからせることはあるまい。 
 つりあいのよろしいこと、去声によむ。
長短 きもののせたけ、そでたけ等の長いこと、短いこと。○荷 いただいている。○聖情 聖君のお情け心。




 この詩は、杜甫の数ある詩の中で、この詩をトップに取り上げるこよはおそらく初めてのことではないだろうか、一千首以上もある杜詩を、何度も読み返している。そのたびに違った印象を受けたり、新たな発見ができたりしている。何度読み返して飽きることのない作者である。
 実は、この詩を頂点に詩の内容がガラッと変わっていくのである。正確にいえばこの詩の前後20首で変わっている。杜甫がこんなに喜んだんだ感情を表に出している唯一の作品である。その後2か月足らずで奈落に落ちた感覚の詩を書くのである。

 それは下の長い題の詩である。

  至德二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。
  乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有輩往事

という詩である。(758年47歳乾元元年6月この詩から劇的に詩が変化が起こるのである。この詩古これ以降の詩は、杜甫の心中を図って涙なくして読めないものが続く。

 ただ、このブログの趣旨は杜甫のエポックメーキングの考察にはないので一般論で紹介していくこととする。杜甫の詩を時系列に紹介していく。マイナーなものもできるだけとらえるので、、また、杜甫の詩は長編ものが多い。私の信条で詩をいくつかに分けてブログ掲載すということしないけれど、毎日書いても3年以上はかかると思う。


○韻 名,榮、軽、清、情。


(端午の日衣を賜う)
宮衣亦名有り 端午恩栄を被る
細葛風を含んで軟やかに 香羅雪を畳んで軽(かるし)
天よりして題する処 湿い 署に当って 著け 来れば 清(きよし)。
意内 長短に 称う、 終身 聖情を 荷なう

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紀 頌之

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