杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

index-15 夔州

766年大暦元年55歲-20-2奉節-12 《毒熱寄簡崔評事十六弟 -#2》 杜甫index-15 杜甫<893> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5350

まあ君に逢うとしたら、いつになるかわからないが、清秋がすぎ、霜や雪が飛ぶ頃までには難しいだろうが、必ず行くので、その時は、長江のほとり樓閣で会いたいものだ。

 

 
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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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766年大暦元年55-20-2奉節-12 《毒熱寄簡崔評事十六弟 -#2》 杜甫index-15 杜甫<893 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5350
杜甫詩
1500-893-1241/2500766年大暦元年55-20-2

 

 

年:766年大暦元年55-20-1

卷別:    卷二二一              文體:    五言古詩

詩題:    毒熱寄簡崔評事十六弟

作地點:              夔州(山南東道 / 夔州 / 夔州)

及地點:荊州 (山南東道 荊州 荊州) 別名:郢門         

揚州 (淮南道 揚州 揚州) 別名:廣陵、淮南、淮海     

交遊人物:崔評事              書信往來

 

 

毒熱寄簡崔評事十六弟 #1

(大暦元年初秋、残暑が厳しくたまらない暑さの中、従弟の評事官である徘行13の崔公輔より年少の徘行16の内弟崔某にこの詩を手紙として送った)

大暑運金氣,荊揚不知秋。

「大暑」の厳しい暑さの中、それでも、天の金星が下りはじめて秋の気配を運んで来ようとしているが、此処荊揚の楚の地ではとんでもない暑さで、秋の気配など全く感じさせるものはない。

林下有塌翼,水中無行舟。

というのも、林の木陰には暑さに翼をやられて垂らしたままの鳥がいるし、河江に舟の行き交うことすらない。

千室但掃地,閉關人事休。

ここに在る千軒の家々でも、とにかく家の中で、地面に臥して涼を求めようとしているだけだ、そればかりか家の門の閂を閉じて、仕事も休んでじっとしている。

老夫轉不樂,旅次兼百憂。

自分は歳をとっているのでこの暑さは愈々面白くない、また、旅の途中のみで寓居に宿しているので、先々の事、心配事がおおくて苦慮している。

-#2

蝮蛇暮偃蹇,空床難暗投。

それは、日暮れになればマムシやへびがにょろにょろしていて、空けている寝牀には暗がりの中に飛び込んでゆくことができない、ということだ。

炎宵惡明燭,況乃懷舊丘。

暑く寝苦しい宵は明るい燈火にするのは悪いことだ、このように「旅次兼百憂」を見聞きし、体験して厭な上に、故郷を思う気持ちが重なるのである。

開襟仰弟,執熱露白頭。

自分は胸を開き率直に、ここに弟たちがいたならと思い、熱いものを握るような苦しい思いでこの白髪頭を丸出しにいている。

束帶負芒刺,接居成阻修。

衣冠束帯して、他人の家を訪問するのは、背中に棘を背負うような気苦労をすることなので、その付き合いも、近間に居る人でさえ、遠隔の地にでもいるかの様になっている。

何當清霜飛,會子臨江樓。

まあ君に逢うとしたら、いつになるかわからないが、清秋がすぎ、霜や雪が飛ぶ頃までには難しいだろうが、必ず行くので、その時は、長江のほとり樓閣で会いたいものだ。

 

-#3

載聞大易義,諷興詩家流。

蘊藉異時輩,檢身非苟求。

皇皇使臣體,信是德業優。

楚材擇杞梓,漢苑歸驊騮。

短章達我心,理為識者籌。

 

(含異文)

大暑運金氣【大火運金氣】,荊揚不知秋。林下有塌翼,水中無行舟。千室但掃地,閉關人事休。老夫轉不樂【老大轉不樂】,旅次兼百憂。蝮蛇暮偃蹇,空床難暗投。炎宵惡明燭,況乃懷舊丘。開襟仰弟【開襟仰第】,執熱露白頭。束帶負芒刺,接居成阻修。何當清霜飛,會子臨江樓。載聞大易義,諷興詩家流【諷詠詩家流】。蘊藉異時輩,檢身非苟求。皇皇使臣體,信是德業優。楚材擇杞梓,漢苑歸驊騮。短章達我心,理為識者籌【理待識者籌】。

 

 

(毒熱 崔評事十六弟に寄簡す。)

#1

大暑 金氣を運び,荊揚 秋を知らず。

林下 塌翼【とうよく】有り,水中 行舟無し。

千室 但だ地を掃い,關を閉じて人事休す。

老夫 轉た樂しまず,旅次 百憂を兼ぬ。

-#2

蝮蛇 暮に偃蹇【えんてん】たり,空床 暗に投じ難し。

炎宵 明燭を惡む,況んや乃ち舊丘を懷うえをや。

開襟 弟を仰ぎ,執熱 白頭を露わす。

束帶 芒刺を負い,接居 阻修を成す。

何【いつ】か當に清霜飛びて,子に臨江の樓に會さん。

-#3

載【すなわ】ち大易の義を聞き,諷興【ふうきょう】せん 詩家の流。

蘊藉【うんしゃ】時輩に異なり,檢身 苟【いやし】くも求むるに非ず。

皇皇たり使臣の體,信に是れ德業優なり。

楚材 杞梓【きし】擇ばれ,漢苑 驊騮【かりゅうる】歸る。

短章 達我が心をし,理 識者の籌と為らん。

 

唐時代 地図山南 東・西道50 

『毒熱寄簡崔評事十六弟』現代語訳と訳註解説

(本文)

-#2

蝮蛇暮偃蹇,空床難暗投。

炎宵惡明燭,況乃懷舊丘。

開襟仰弟,執熱露白頭。

束帶負芒刺,接居成阻修。

何當清霜飛,會子臨江樓。

 

(下し文)

-#2

蝮蛇 暮に偃蹇【えんてん】たり,空床 暗に投じ難し。

炎宵 明燭を惡む,況んや乃ち舊丘を懷うえをや。

開襟 弟を仰ぎ,執熱 白頭を露わす。

束帶 芒刺を負い,接居 阻修を成す。

何【いつ】か當に清霜飛びて,子に臨江の樓に會さん。

 

(現代語訳)

それは、日暮れになればマムシやへびがにょろにょろしていて、空けている寝牀には暗がりの中に飛び込んでゆくことができない、ということだ。

暑く寝苦しい宵は明るい燈火にするのは悪いことだ、このように「旅次兼百憂」を見聞きし、体験して厭な上に、故郷を思う気持ちが重なるのである。

自分は胸を開き率直に、ここに弟たちがいたならと思い、熱いものを握るような苦しい思いでこの白髪頭を丸出しにいている。

衣冠束帯して、他人の家を訪問するのは、背中に棘を背負うような気苦労をすることなので、その付き合いも、近間に居る人でさえ、遠隔の地にでもいるかの様になっている。

まあ君に逢うとしたら、いつになるかわからないが、清秋がすぎ、霜や雪が飛ぶ頃までには難しいだろうが、必ず行くので、その時は、長江のほとり樓閣で会いたいものだ。

夔州東川卜居図001 

 

(訳注) -#2

毒熱寄簡崔評事十六弟 #2

(大暦元年初秋、残暑が厳しくたまらない暑さの中、従弟の評事官である徘行13の崔公輔より年少の徘行16の内弟崔某にこの詩を手紙として送った)

毒熱 たまらないあつさ。

崔評事十六弟 杜甫に『1523 贈崔十三評事公輔』詩あり。大理寺に属す出張裁判官の官名、母方の従弟の崔公輔より年少の徘行の内弟。

 

蝮蛇暮偃蹇,空床難暗投。

それは、日暮れになればマムシやへびがにょろにょろしていて、空けている寝牀には暗がりの中に飛び込んでゆくことができない、ということだ。

蝮蛇 マムシやへびがにょろにょろしている。

 

炎宵惡明燭,況乃懷舊丘。

暑く寝苦しい宵は明るい燈火にするのは悪いことだ、このように「旅次兼百憂」を見聞きし、体験して厭な上に、故郷を思う気持ちが重なるのである。

舊丘 故郷の丘。生れは洛陽近郊の偃師、十五歳を過ぎると洛陽で過ごし、二十代前半は山東、江南に遊び、二十代後半から、四十過ぎ、奴十近くまで長安で過ごしているから、長安南の杜曲の丘をいうのであろう。

 

開襟仰弟,執熱露白頭。

自分は胸を開き率直に、ここに弟たちがいたならと思い、熱いものを握るような苦しい思いでこの白髪頭を丸出しにいている。

開襟 率直な気持ちをいう。

 弟は母方の従弟の年少者をいう。仰ぐは、遠くにいるものへの呼びかけ言葉。

執熱 日中置いている物が太陽で熱せられて暑くなっていても、取り上げ暑くても我慢して使う時のことをいう。

 

束帶負芒刺,接居成阻修。

衣冠束帯して、他人の家を訪問するのは、背中に棘を背負うような気苦労をすることなので、その付き合いも、近間に居る人でさえ、遠隔の地にでもいるかの様になっている。

束帶 衣冠束帯、かしこまった格好をし、他人の家を訪問すること。貴族や高級官僚の正装。▽「衣冠」「束帯」はともに貴族の装束。「束帯」は衣を束ね、整える帯と佩びをつけるの意。転じて、朝廷での公事・儀式などでの正装。

負芒刺 背中に棘を背負うような気苦労をすること。

接居 近所に住んでいる人。

阻修 遠隔の地にでもいるかの様になっている。

 

何當清霜飛,會子臨江樓。

まあ君に逢うとしたら、いつになるかわからないが、清秋がすぎ、霜や雪が飛ぶ頃までには難しいだろうが、必ず行くので、その時は、長江のほとり樓閣で会いたいものだ。

何當 秋口の熱い時にこの詩を作っているので、少なくとも、早ければこの秋を過して、荊州に向かうというほどの時間を示す言葉であろう。

清霜飛 清秋がすぎ、霜や雪が飛ぶ頃をいう。早ければこの秋を過ぎたころというほどの意味。

會子 崔十六に遭うこと。

臨江樓 崔十六が荊州、九江、岳陽、潭州などに事務職として転任していたことと、杜甫は船で旅行するしかなく、足が悪いので長江を望むどこかの高楼という意味になる。黄鶴楼ということかもしれないが、水陸駅の駅楼であろう。

永泰元年764-97-7 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之二》 杜甫index-14 764年(丹旐飛飛日) 杜甫<856> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4225 杜甫詩1500-856-1016/250054

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

        
 2014年5月20日の紀頌之5つのブログ 
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 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ永泰元年764-97-7 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之二》 杜甫index-14 764年(丹旐飛飛日) 杜甫<856> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4225 杜甫詩1500-856-1016/250054 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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永泰元年764-97-7 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二》 杜甫index-14 764(丹旐飛飛日) 杜甫<856> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4225 杜甫詩1500-856-1016/250054

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

いまはなくなった宰相房琯公の霊枢が閬州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。

Index-15

765年永泰元年 杜甫54歳 63

855

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

遠聞房太守,

856

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

丹旐飛飛日,

製作年:765  永泰元年  54

卷別: 巻十四 卷二二九  文體: 五言律詩 

詩題: 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二 

作地點: 雲安(山南東道 / 夔州 / 雲安

及地點:  閬州 (山南西道 閬州 閬州) 別名:閬、巴城     

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京     

陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山 

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

 

其一  

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

其二

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

風塵終不解,江漢忽同流。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

劍動新身匣,書歸故國樓。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

盡哀知有處,為客恐長休。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。

 

蜀中転々圖 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其二』 現代語訳と訳註

(本文)

其二   

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

風塵終不解,江漢忽同流。

劍動新身匣,書歸故國樓。

盡哀知有處,為客恐長休。

 

(下し文)

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。

 

(現代語訳)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

 

杜甫詩年譜INDEX00 

(訳注)

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其二

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の二)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

(2)この第二首は洛陽陸渾に帰って哭そうと欲することをいう。

 

丹旐飛飛日,初傳發閬州。

あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと閬州から出発したと伝え聞いた。

○丹旐 銘旐、これは死者の姓名を記したはたをいう。のぼりのような場合もあり。

 

風塵終不解,江漢忽同流。

兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。

○風塵 兵馬の塵。

○江漢 江は長江、漢は西漢水、すなわち嘉陵江。

○同流 房琯の枢舟と杜甫自身の舟とが同じ流れにうかぶことをいう。

 

劍動新身匣,書歸故國樓。

今回運ばれる新しいお棺のなかには故房琯公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。

○剣動 房公の霊、兵乱を平らげようと欲するかのごとくであることをいう。

○新身匣 匣は剣を入れた新しいはこ、身とは公の屍のことをいう。

○書 書籍、公の愛読したもの。この二句は房琯の二つの実績、一つは剣で、二つは書ということ。

○故国 故郷の河南をいう。

 

盡哀知有處,為客恐長休。

わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。

○尽哀 一哀を尽くして哭すること。一哀は、「礼記」の檀弓上、曾子問篇にみえる。

○有処 処とは陸津山の公の墓地をさすが、杜甫がわざわざなく場所があるといっているのは、朝廷が763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されており、たしかに途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒したとはいえ、本葬儀に対して朝廷がかかわるべきである。太尉を贈られたのであれば朝廷がかかわる必要があるということをいうのである。作者の旧荘もまた陸渾にあるゆえに陸渾の地と解するのは単純すぎる。763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

を全13回にわたって通訳しているので参照されたい。

○長休 休は休止である、『禮記』五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたのであること、したがってここで哭せんと欲することが『儀礼』にのとったものでなければ泛ばれないというものである。そのまま哭することを得ずしてやむことをいう。房琯の名誉の為にも朝廷は再考ねがいたいということを思っているのだ。

 

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)

丹旐【たんちょう】 飛飛たる日、初めて 閬州を発すと伝う。

風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。

剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。

尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん

陸渾は下の図の C-7 の位置である。
 

 河南省中南部 陸渾00

永泰元年765-855 《承聞故房相公靈櫬,自閬州啟殯歸葬東都有作,二首之一》(遠聞房太守) 杜甫index-15 765年 杜甫<855> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4220 杜甫詩1500-855-1015/250053

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

        
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永泰元年765-855 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一》(遠聞房太守) 杜甫index-15 765年 杜甫<855> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4220 杜甫詩1500-855-1015/250053

 

 

757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房琯を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房琯の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。

左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房琯擁護事件」である。

 杜甫と房琯について杜甫の詩文は以下のようにある。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

廣徳2764-88 《別房太尉墓》杜甫index-14 764年閬州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

杜甫詩index-15  765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63

855 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

856 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首)

 

●文

奉謝口敕放三司推問状

祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)

 

○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152   悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月廣徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩『別房太尉墓』がある。作者の文集中に広徳元年九月に作った「故相国清河房公を祭る文」がある。(全唐文にあるものを別に紹介する。)

763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

いまはなくなった宰相房琯公の霊枢が閬州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。

Index-15

765年永泰元年 杜甫54歳 63

855

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一

遠聞房太守,

856

 

承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二

丹旐飛飛日,

製作年:765  永泰元年  54

卷別: 巻十四 卷二二九  文體: 五言律詩 

詩題: 承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一 

作地點: 雲安(山南東道 / 夔州 / 雲安

及地點:  閬州 (山南西道 閬州 閬州) 別名:閬、巴城     

東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京     

陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山 

 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

 

其一   

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その一

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

其二    丹旐飛飛日,初傳發閬州。風塵終不解,江漢忽同流。

        劍動新身匣,書歸故國樓。盡哀知有處,為客恐長休。

 

王屋山00 

 

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其一』 現代語訳と訳註

(本文)其一     

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

一德興王后,孤魂久客間。

孔明多故事,安石竟崇班。

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

 

(下し文)

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

 

(現代語訳)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

 

(訳注)

承聞故房相公靈櫬自閬州殯歸葬東都有作 二首 其一

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)

(以前宰相であった房琯公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)

(1)この第一首は房琯を思い雲安の地においてふたたび涙をそそぐことをいう。永泰元年雲安にあっての作。

○承聞 「聞くを承く」、聞だけでもよろしいが東を加えたのはさらに尊ぶためである。

○故房相公 没故した元の宰相 房琯。

○房大尉 宰相房琯、大尉はその贈官である、琯、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき肅宗に上皇承諾の使者として霊武に行き宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

)によって房琯を貶されて邠州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)閬州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。

764年広徳二年春、閬州より成都に赴こうとして房琯の墓に別れる情をのべた詩。作者の文集中(全唐文)に広徳元年九月に作った祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)には杜甫の房琯に対する思いが一番よくわかるものである。

杜甫詩index-13  763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

 はかりうめ、はひらく、かりうめの場所をあけてはりだす。廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

詩がある。それはかりうめの墓である。

○東都 洛陽。

 

遠聞房太守,歸葬陸渾山。

はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。

○房大尉 房琯は卒して太尉を贈られた。

○陸渾山 河南府嵩県の東北にある山、洛陽から遠くない。籍は河南の人、宰相房融の子で、わかくして学を好み、東平の呂向とともに十年間りくこん山に隠れていたことがある。今没してその山に葬られようとするのである。

・洛陽の陸渾荘にやった継母の盧氏と幼い弟妹たちからの連絡はない。洛陽が奪回されて半年以上もたつのに何の連絡もないのだ。『得舎弟消息』「乱後誰帰得、他郷勝故郷。直為心厄苦、久念与存亡。汝書猶在壁、汝妾已辞房。旧犬知愁恨、垂頭傍我牀。」

得舎弟消息 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 289

重過何氏五首 其五 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 72

・王維が藍田の宋之問の別荘を購入している。宗之問の死から30年経過していてほとんど手入れをされていない状態のものであった。王維は二十数年かけて整理し輞川集を完成させた。杜甫・王維関連年表参照。しかし王維の輞川荘は長安の東南50km藍田にある。

この杜甫の詩の宋之問の別荘は洛陽の北西河南省偃師県にある。高級官僚であるし、武則天は洛陽にほとんどいたので、むしろ偃師県に別荘の利用が多かったかもしれない。宋之問と杜甫の祖父の杜審言と交友があった。

杜甫は、741年開元 二十九年、首陽山の下に室を築き、遠祖当陽君(晋の杜頚)を祭った。また、このとき、陸渾荘を建て,妻を娶る。世話になったおばの死からの喪明けの年とすべてが重なるが、これら一連をやり、李白の後を追って旅に出ることになる。『過宋員外之問舊莊』「宋公舊池館,零落首陽阿。枉道祗從入,吟詩許更過。淹留問耆老,寂寞向山河。更識將軍樹,悲風日暮多。」

過宋員外之問舊莊  杜甫

河南省中南部 陸渾00 

一德興王后,孤魂久客間。

房琯公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。

〇一徳 儒者の基本、一徳とは守りを変えず、一筋に徳を保つことをいう、ここの意は房琯が徳操のあったことをいう。

○興王 中興の天子、粛宗をいう。

○孤魂 地方にさまよって居った房琯の精神、魂は生者の魂をさす。

○久客 地方に流寓していた他の人人。

 

孔明多故事,安石竟崇班。

房琯公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。

○孔明 諸葛亮の字、以て房琯に此する。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。

○故事 晋の陳寿、筍巌らと諸葛亮の故事二十四篇を定めてたてまつった。故事とは過去の行事をいう。諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。これらを踏まえているということ。

○安石 東晋の謝安の字、これを房琯に此する。東晋の名宰相。字は安石。陳郡陽夏(河南省太康県)が本籍の人であるが,会稽(浙江省)上虞(じようぐ)に寓居して,早くから大人物と目されながら王羲之らと風流自適の生活を楽しみ,40歳を過ぎてはじめて出仕した。中央に地位を占めてからは,東晋を奪おうとする桓温(かんおん)の野望をくじき,383(太元8)には甥の謝玄らを派遣して,南下する前秦苻堅(ふけん)の大軍を淝水(ひすい)に破った(淝水の戦)。行書にも巧みで教養豊かな彼のおおらかな政治のやり方は,貴族政治の典型とされる。

○克崇班 崇班はたかい位をいう、増が卒して大尉を贈られたのは崇班である、訪安も卒して太博を贈られた、故に相い比する。

 

他日嘉陵涕,仍霑楚水還。

自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。

○他日 異日、往日の意。

○嘉陵涙 嘉陵は嘉陵江、閬州の西漢水をさす、ここは閬州の房琯の墓にそそいだ涙をさしていう。

○仍 やっぱりということ。

○楚水 楚地の水、夔州府より下流の長江のことを楚水といっている。この地より房琯の枢舟(びつぎぶね)が経過するはずの処をいう。

○還 ゆくというほどの意であるが、洛陽は杜甫の故郷でもあるゆえにかえるといっている。

 

(故房相公靈櫬,閬州より殯をき 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一)

房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。

一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。

孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。

他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。

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