漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩 杜甫詳注1500

杜甫の詩をあまり知られていないものも取り上げる予定。約1500首。(杜詩詳注・全唐詩・杜甫詩 総合案内時系列に整理した)青春期遊学から長安を中心に就職活動の10年、やっと就職できたら、安史の乱、騒乱の中で自分の生きる道を求めて苦悩、騒乱のない地方へ逃避紀行、成都浣花渓草堂、騒乱回避、夔州寓居、そして漂白の旅。 ブログも2011年~2018年の計画で掲載進行中。。。都合、3往復、とらえ方を変えて掲載していく、2022年ごろ完成する予定である。(ここでは、訓読み下し分にできるだけルビをふりません。漢字の雰囲気で読んでほしいからで、また、意味、読みはすぐわかるようになります。)

杜甫の詩 誠実な詩人特集。2011・11月『士官がきまった。~安禄山の叛乱』期の詩。2011年12月は『反乱軍に捕まる。軟禁状態での詩』2012.1月は『反乱軍からの脱出劇、朝廷に到着・・・・』。2012.2月粛宗に許可をもらって家族を迎えに「北征」紀行を中心に掲載していきます。2012.3月は、朝廷での疎外感、やるせなさが伝わる詩です。2012.4月華州へ左遷、2012.5月三吏三別。秦州抒情9月、同谷紀行11月、成都紀行12月、2013.3現在、成都浣花渓の草堂、2013.12蜀中転々からふたたび成都草堂へ(杜甫全詩の約半分を掲載)・・・・・・そして成都を後にして、夔州へ、(2/3掲載)ここで人生の1/3の量の詩を書く。漂白の旅。紀行。杜甫の苦悩の内容的な変化、様子がよくわかります。
都合、3往復、とらえ方を変えて掲載していく、2022年ごろ完成する予定である。
このブログ以外にも、李白1000首、李商隠150首、韓愈全詩・韓愈グループ、などは別のブログで掲載中 kanbuniinkai 検索で、いろんな漢文委員会HP,ブログ を今までの漢詩紹介とは違っています。
中華書局 発行 杜詩詳注 を基本に訳注解説しています。
杜甫詩の概要目録につては、http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/details1.html 参照。

房琯関連

758年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(9)》 杜甫index-14 764年 房琯関連 1-(9) 杜甫<1502-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4385 杜甫詩1500-1502-9-1048/2500

房琯の政策が現在最もとらなければいけない政策であること、宰相たるにふさわしい人物であり、十分な能力を持っていることとは枉げられないものと信じて申し上げたことで、国を思ってのことでこの点が罪にあたるとは思えない。

 
 2014年6月21日の紀頌之5つのブログ 
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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ758年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(9)》 杜甫index-14 764年 房琯関連 1-(9) 杜甫<1502-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4385 杜甫詩1500-1502-9-1048/2500 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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758年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(9) 杜甫index-14 764 房琯関連 1-(9) 杜甫<1502-9 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4385 杜甫詩1500-1502-9-1048/2500

 

 

玄宗は受け入れていた房琯の政策は十分妥当性を持っていた。杜甫はそれが正しいと思っていたから、房琯を擁護し、弁護した。その意見を親である、玄宗・上皇が認めていることから、その息子である肅宗は、嫉妬といら立ちを募らせて激昂したのである。

兵力増強のために貨幣を発行するというのは歴史の必然であるがそれは一時的なもの限定的にされなければいけない。ところが、仏像をとかし、銅の比率を1/50と著しく低くしてそれを俸禄の支払い、朝廷、宦官の専横のために使用される。

 

租庸調のうち、租は大飢饉で徴収できず、庸調は売って現金にする。それがどこかに行って朝廷には入らない。倉庫に収められたものが根こそぎ安史軍に持っていかれる。江淮の備蓄、現金を利用して永王璘が叛乱を起すという事態は唐の築き上げてきた制度と組織を無視した、第五琦・賀蘭進明の間違った政策に原因がある。

 

杜甫は死んでも、その間違った政策を指摘しようとしたのである。房琯が軍事的素養に長けていたら、事態はもっと良い方に展開したであろう。陳濤斜、青坂の大敗は房琯の説得力を完全に奪った。

 

房琯関連1

奉謝口敕放三司推問狀

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

涉近激訐,違忤圣旨,

既下有司,具已舉劾,

某從自棄,就戮為幸。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

 (3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

しかし、校滑なる逆賊、安史軍はいまだ征伐されず、私の愁痛は、やりきれないものがあります。

そのため、諌官の末席に連なる身として、わが君の政治をいささかなりとも稗補うことができればと願った次第です。

ひそかに見るところでは、房琯は宰相の子として、若いころから立派に世に立ちました。

年をとってからは儒者としての仁徳を醸し出すほまれがあり、大臣の風格をそなえておりました。

 (4)

時論許琯必、位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀琯之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而琯性失於簡,酷嗜鼓琴。

時論も房琯の能力を認めて、将来は必ず宰相の位に上り、人民を康んじ済うことであろうといっておりました。

わが君も、果たせるかな房琯に宰相の職をお委ねになり、はなはだ衆望がありました。

房琯は、わが君の憂いたもうところに深く思いを寄せ、正義の心はその顔色に表われておりました。

しかしながら房琯の性格ははなはだしく放漫であり、琴を鼓くことを過度に好みました。

 

(5)

董庭蘭今之琴工,游門下有日,

貧病之老,依倚為非,

之愛惜人情,一至於玷。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

琴師の董庭蘭は、長年にわたって房琯の家に毎日のように出入りしておりましたが、

貧乏と病に取りつかれた老人である彼が、その地位を頼んでよからぬことをいたしたということはないのです。

房琯は頼って来る董庭蘭への情にひかれて、このたび罪に問わ、名をけがすことになったものです。

私は身のほどもわきまえず、なげかわしいことに、与えられた職責の功名をいまだ遂げないのであります。

したがって、志気の挫折してしまうところであり、陛下が些細なことで、棄ておくようにと大いなる才能を思ってくださることを切に願いもうしあげるところです。

死を冒して申し述べたわけでございます。こうして思いましたことがどのように思われようともかまいません、そのため朝廷に再三参上いたしたのであります。

 (6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

陛下は、そのような私に仁慈をおかけくださり、いちずな思いを憐れまれました。

それは一途に理想家で頑固者であるわたしが犯したことを罪とされてはいないのです、縄目にかからんとしていたのをお許しくださいました。

これは古来の伝統にそうものであり、深く直言の臣を型通り致したのであり、これからも諌言の臣であることを勤勉実直に勧めあげる所存であります。

天下の幸甚をせつにねがいものであります。天下を語らせていただきありがたき幸せに存じます。

どうして小者の私が、罪を許されてこの身を全うできるのでありましょうか。或は罪を受ける列に待っているということは既に終わったということでありましょうか。

ここに至って先のことを懼れるに任せることはなく、ただ弁明をさせていただく喜びに至って折るところであります。慎んで朝廷の推問の方々に上進狀を提出し、併せて申し開きの発言をお聴き取りいただき感謝申し上げるところであります。謹んでここに申し上げます。

 

 

 

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文)

(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

 

 

(下し文) (6)

陛下 貸すに仁慈を以てし、其の懇到なるを憐れみ、

狂洞の過ちを書せず、復た網羅の急なるを解く。

是れ古の深く直臣を容れ、来者を勤勉するの意なり

天下 幸甚!天下 幸甚!

豈に小臣 獨り全軀を蒙り、列に就く罪を待ち已まん?

先懼後喜 之に至るに任せる無く,謹んで閣門進狀謝して以って聞き奉り詣でる。謹進す。

 

 

(現代語訳)

陛下は、そのような私に仁慈をおかけくださり、いちずな思いを憐れまれました。

それは一途に理想家で頑固者であるわたしが犯したことを罪とされてはいないのです、縄目にかからんとしていたのをお許しくださいました。

これは古来の伝統にそうものであり、深く直言の臣を型通り致したのであり、これからも諌言の臣であることを勤勉実直に勧めあげる所存であります。

天下の幸甚をせつにねがいものであります。天下を語らせていただきありがたき幸せに存じます。

どうして小者の私が、罪を許されてこの身を全うできるのでありましょうか。或は罪を受ける列に待っているということは既に終わったということでありましょうか。

ここに至って先のことを懼れるに任せることはなく、ただ弁明をさせていただく喜びに至って折るところであります。慎んで朝廷の推問の方々に上進狀を提出し、併せて申し開きの発言をお聴き取りいただき感謝申し上げるところであります。謹んでここに申し上げます。

 

 

(訳注)(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

陛下は、そのような私に仁慈をおかけくださり、いちずな思いを憐れまれました。

仁慈 思いやりがあって情け深いこと。

懇到 懇到切至。すみずみまで心が行き届いて、このうえなく親切なこと。また、真心を尽くして十分に言い聞かせること。▽「懇到」「切至」ともに、ねんごろに行き届くこと。 -

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

それは一途に理想家で頑固者であるわたしが犯したことを罪とされてはいないのです、縄目にかからんとしていたのをお許しくださいました。

狂狷 いちずに理想に走り、自分の意思をまげないこと。”:《論語·子路第十三・二十一

子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。

子曰わく、中行を得てこれに与【くみ】せずんば、必ずや狂狷【きょうけん】か。狂者は進みて取り、狷者【けんしゃ】は為さざる所あり。

孔子説かれて話される。

 「もし中庸の徳を心得た人物と交際ができなければ、狂者:理想家か狂者:頑固者と交際すると良い。狂者は進んで善い事を受け入れるし、狷者は悪い事をしないからだ。」

 

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

これは古来の伝統にそうものであり、深く直言の臣を型通り致したのであり、これからも諌言の臣であることを勤勉実直に勧めあげる所存であります。

 

天下幸甚!天下幸甚!

天下の幸甚をせつにねがいものであります。天下を語らせていただきありがたき幸せに存じます。

幸甚 (多く手紙文で用いて)この上もない幸せ。大変ありがたいこと。また、そのさま。

 

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

どうして小者の私が、罪を許されてこの身を全うできるのでありましょうか。或は罪を受ける列に待っているということは既に終わったということでありましょうか。

 

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

ここに至って先のことを懼れるに任せることはなく、ただ弁明をさせていただく喜びに至って折るところであります。慎んで朝廷の推問の方々に上進狀を提出し、併せて申し開きの発言をお聴き取りいただき感謝申し上げるところであります。謹んでここに申し上げます。

三者の思惑が合致 

 

罪をゆるされたのを感謝する文でありながら、内容は、房琯の政策が現在最もとらなければいけない政策であること、宰相たるにふさわしい人物であり、十分な能力を持っていることとは枉げられないものと信じて申し上げたことで、国を思ってのことでこの点が罪にあたるとは思えない。人民が一層の苦しみにおちいっている状態を改善する政策をとらなければ安史軍を真に討伐できるものではないということで、発言の時期を間違ったことはまことに申し訳なく、死罪に処されても甘んじて受けます。ということだ。その本質的なところがもし間違っていましたということであれば、杜甫は本当に詩材となっていたかもしれない。

 行ったことは反省するが、その中身については間違ったことは言ってないというのである。

 

757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(8)》 杜甫index-14 764年 房琯関連 1-(8) 杜甫<1502-8> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4380 杜甫詩1500-1502-8-1047/2500

琴師の董庭蘭は、長年にわたって房琯の家に毎日のように出入りしておりましたが、貧乏と病に取りつかれた老人である彼が、その地位を頼んでよからぬことをいたしたということはないのです。房琯は頼って来る董庭蘭への情にひかれて、このたび罪に問わ、名をけがすことになったものです。


757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(8)》 杜甫index-14 764年 房琯関連 1-(8) 杜甫<1502-8>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4380 杜甫詩1500-1502-8-1047/2500

 

 

このころ、杜甫の他の友人の消息を見てみると、李白は江南の地で粛宗の弟永王璘の軍に加わっていたが、この年の二月、永王が粛宗との仲たがいから反乱軍として討伐されたあとは、江南のあちこちを逃げまわっている。しかし、やがて捕らえられて尋陽の獄につながれることになる。

高適は、皮肉にも永王追討軍を指揮して江南を転戦し、そのまま推南節度使となって揚州にとどまっている。杜甫がのちに厨の成都でその庇護を受けることになる厳武は、杜甫と同じ役所の門下省に、給事中として勤めている。鄭度は賊の偽政府で水部郎中を授けられていたために、王維らとともに重陽里の牢獄に投ぜられ、のちに台州(浙江省の東海岸)の司戸参軍として流された。

鳳翔に来て以来、杜甫は鄜州に避難させている家族の安否を気づかい、あれこれ手を尽くして消息を知ろうとしたが、何の情報も得られなかった。時には、知らせが来ても、それが悪い知らせであるならば、むしろないほうがいい、と畏れながら、落ち着かぬ日々を過ごしていたが、涼風の立ち、白露の降りはじめる初秋になって、やっと家からの手紙が届けられた。

行商人にたのんで家族に手紙を持っていってもらったが、その人が返書を持ってきてくれた。

おかげで今日やっとその消息が分かり一安心。他郷ではあるけれど、ともかく旧の居にいるという。熊児(長男宗文の幼名)は幸いに志なく、咲子(次男宗武の幼名)も元気、それがほんとうにうれしい。年老いて旅空での孤独はたまらないが、こんな時世であるから会うこともできない。白髪頭で行在所勤め、低い位ながらも天子の側にお仕えしている。長安には今なお胡賊の妖気が満ちており、ここ初秋の鳳翔には白露が降り・て志気は張りつめている。

涼たい風は雁を吹き送り、秋の雨に魚もふえてくる。田舎に帰って人気のない山の中で畠を耕し、掛を荷いで暮らしたいものとしみじみ思う。

家族からの手紙を受け取り、その無事を確かめた杜甫は、安堵の胸をなで下ろし職務に励もうとしたことであろうが、思いもかけず、勅命によって休暇が与えられた。杜甫個人にとっては感謝すべき処置であったろうが、時に長安奪回作戦が開始されようとしており、その職務は作戦に直接関わりはないにしても、休暇が与えられる理由はまったくない。要するに杜甫は、さきごろの諌評によって粛宗に嫌われ、無用の人間とされたわけである。

粛宗は「房琯弁護事件」の罪として、鳳翔から邠州まで約二〇〇キロの道を、閏八月の初めから半月ばかりかかって、馬は与えられなという屈辱的な処罰(下僕扱い)のために、途中で馬を借りるまでは口笛をふいて徒歩でゆくのである。長安、洛陽の奪還には房琯一派ははじき出されたのである。その意味では『徒歩歸行』『北征』の一聯の紀行の関連司徒いえるかもしれない。(当然中の句には触れるものがある。)

 

(5)

董庭蘭今之琴工,游門下有日,

琴師の董庭蘭は、長年にわたって房琯の家に毎日のように出入りしておりましたが、

貧病之老,依倚為非,

貧乏と病に取りつかれた老人である彼が、その地位を頼んでよからぬことをいたしたということはないのです。

琯之愛惜人情,一至於玷琯。

房琯は頼って来る董庭蘭への情にひかれて、このたび罪に問わ、名をけがすことになったものです。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

私は身のほどもわきまえず、なげかわしいことに、与えられた職責の功名をいまだ遂げないのであります。

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

したがって、志気の挫折してしまうところであり、陛下が些細なことで、棄ておくようにと大いなる才能を思ってくださることを切に願いもうしあげるところです。

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

死を冒して申し述べたわけでございます。こうして思いましたことがどのように思われようともかまいません、そのため朝廷に再三参上いたしたのであります。

 (6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

 

 

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文) (5)

董庭蘭今之琴工,游琯門下有日,

貧病之老,依倚為非,

琯之愛惜人情,一至於玷琯。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

 

(下し文) (5)

董庭蘭は今の琴工なり。琯の門下に遊びて日有り。

貧病の老にして、依倚して非を為す。

琯の人情を愛惜すること、一に玷琯に至る。

臣自ら度量せず、其の功名の未だ垂れずして、

而して志気 挫衄せん。陛下の細を棄てて大を録さるることを覬望す。

死を冒して称述せし所以なり。何ぞ思慮の始めに竟きず、再三に開けたるや。

 

(現代語訳)

琴師の董庭蘭は、長年にわたって房琯の家に毎日のように出入りしておりましたが、

貧乏と病に取りつかれた老人である彼が、その地位を頼んでよからぬことをいたしたということはないのです。

房琯は頼って来る董庭蘭への情にひかれて、このたび罪に問わ、名をけがすことになったものです。

私は身のほどもわきまえず、なげかわしいことに、与えられた職責の功名をいまだ遂げないのであります。

したがって、志気の挫折してしまうところであり、陛下が些細なことで、棄ておくようにと大いなる才能を思ってくださることを切に願いもうしあげるところです。

死を冒して申し述べたわけでございます。こうして思いましたことがどのように思われようともかまいません、そのため朝廷に再三参上いたしたのであります。

 

 

(訳注) (5)

董庭蘭今之琴工,游琯門下有日,

琴師の董庭蘭は、長年にわたって房琯の家に毎日のように出入りしておりましたが、

董庭蘭 房琯は高簡な性格。この時、国家は多難だったのに、房琯は病気と称して朝謁せず、 職務など気にしていなかった。庶子の劉秩、諫議大夫・李揖らと共に釈迦や老子を高談したり、 あるいは門客の董庭蘭の鼓琴を聞いたりしていた。 董庭蘭は、これでたくさんの権利を得た。董庭蘭が収賄したと、御史が上奏した。

丁巳、房琯をやめさせて太子少師とする。 諫議大夫 ・張鎬を中書侍郎、同平章事とした。

 

貧病之老,依倚為非,

貧乏と病に取りつかれた老人である彼が、その地位を頼んでよからぬことをいたしたということはないのです。

 

琯之愛惜人情,一至於玷琯。

房琯は頼って来る董庭蘭への情にひかれて、このたび罪に問わ、名をけがすことになったものです。

玷 。(1) 白玉のきず.(2) 汚す.玷辱 、辱める,名を汚す玷辱名声名を汚す.

 

臣不自度量,嘆其功名未垂,

私は身のほどもわきまえず、なげかわしいことに、与えられた職責の功名をいまだ遂げないのであります。

 

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

したがって、志気の挫折してしまうところであり、陛下が些細なことで、棄ておくようにと大いなる才能を思ってくださることを切に願いもうしあげるところです。

 

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

死を冒して申し述べたわけでございます。こうして思いましたことがどのように思われようともかまいません、そのため朝廷に再三参上いたしたのであります。
三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。 

 
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玄宗は受け入れていた房琯の政策は十分妥当性を持っていた。杜甫はそれが正しいと思っていたから、房琯を擁護し、弁護した。その意見を親である、玄宗・上皇が認めていることから、その息子である肅宗は、嫉妬といら立ちを募らせて激昂したのである。

兵力増強のために貨幣を発行するというのは歴史の必然であるがそれは一時的なもの限定的にされなければいけない。ところが、仏像をとかし、銅の比率を1/50と著しく低くしてそれを俸禄の支払い、朝廷、宦官の専横のために使用される。

 

租庸調のうち、租は大飢饉で徴収できず、庸調は売って現金にする。それがどこかに行って朝廷には入らない。倉庫に収められたものが根こそぎ安史軍に持っていかれる。江淮の備蓄、現金を利用して永王璘が叛乱を起すという事態は唐の築き上げてきた制度と組織を無視した、第五琦・賀蘭進明の間違った政策に原因がある。

 

杜甫は死んでも、その間違った政策を指摘しようとしたのである。房琯が軍事的素養に長けていたら、事態はもっと良い方に展開したであろう。陳濤斜、青坂の大敗は房琯の説得力を完全に奪った。

 

房琯関連1

奉謝口敕放三司推問狀

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

涉近激訐,違忤圣旨,

既下有司,具已舉劾,

某從自棄,就戮為幸。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

 (3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

しかし、校滑なる逆賊、安史軍はいまだ征伐されず、私の愁痛は、やりきれないものがあります。

そのため、諌官の末席に連なる身として、わが君の政治をいささかなりとも稗補うことができればと願った次第です。

ひそかに見るところでは、房琯は宰相の子として、若いころから立派に世に立ちました。

年をとってからは儒者としての仁徳を醸し出すほまれがあり、大臣の風格をそなえておりました。

 (4)

時論許琯必、位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀琯之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而琯性失於簡,酷嗜鼓琴。

時論も房琯の能力を認めて、将来は必ず宰相の位に上り、人民を康んじ済うことであろうといっておりました。

わが君も、果たせるかな房琯に宰相の職をお委ねになり、はなはだ衆望がありました。

房琯は、わが君の憂いたもうところに深く思いを寄せ、正義の心はその顔色に表われておりました。

しかしながら房琯の性格ははなはだしく放漫であり、琴を鼓くことを過度に好みました。

 (5)

董庭蘭今之琴工,游琯門下有日,

貧病之老,依倚為非,

琯之愛惜人情,一至於玷。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

 

 

「房琯擁護事件」は、賀蘭進明、第五埼による増税高負担、ご都合主義と暗躍、陰険、朝廷の私物化、専横のための鋳造資金の宦官勢力、早く長安洛陽を奪還するためには唐王朝財政を破綻させる破壊的好条件のウイグル援軍採用策の粛宗という三者の思惑が一致したことから、はじき出されたのが房琯一党で、その真っ最中に、杜甫が起したことなのである。

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文)

(4)

時論許琯必位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀琯之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而琯性失於簡,酷嗜鼓琴。

 

(下し文) (4)

時論琯に許すに、必ず位は公輔に至り、元元とから康済せん。

陛下果たして委ぬるに枢密を以てし、衆望 甚だ允す。

琯の深く主の憂ひを念ふを観るに、義は色に形る。

況んや一を画くがごとく保泰すること、其れ素より蓄積する所の者なるのみ。

而れども琯性簡に失し、酷だ琴を鼓すを嗜む。

 

(現代語訳)

時論も房琯の能力を認めて、将来は必ず宰相の位に上り、人民を康んじ済うことであろうといっておりました。

わが君も、果たせるかな房琯に宰相の職をお委ねになり、はなはだ衆望がありました。

房琯は、わが君の憂いたもうところに深く思いを寄せ、正義の心はその顔色に表われておりました。

しかしながら房琯の性格ははなはだしく放漫であり、琴を鼓くことを過度に好みました。

 

(訳注) (4)

時論許琯必位至公輔,康濟元元。

時論も房琯の能力を認めて、将来は必ず宰相の位に上り、人民を康んじ済うことであろうといっておりました。

康濟 安康、安泰、救済する。

元元 行動を起こす前と変わらないこと。損にも得にもならないこと。また、そのさま。「ふられて―だ」「失敗して―だ」[副]はじめから。もとから。

 

陛下果委以樞密,眾望甚允。

わが君も、果たせるかな房琯に宰相の職をお委ねになり、はなはだ衆望がありました。

樞密 政治上秘密にすべき大事。枢要な機密。

眾望 多くの人々からかけられている期待や信頼。

甚允 はなはだ、まことに。調和がとれて誠実なさま。穏やか。 ゆるす。かどをたてずに、相手の意見を聞き入れる。

 

觀琯之深念主憂,義形於色,

房琯は、わが君の憂いたもうところに深く思いを寄せ、正義の心はその顔色に表われておりました。

 

況畫一保泰,素所蓄積者已。

ましてその公平なる施政と国家を保つ軍謀については、平素から蓄積された、すぐれた力を持っておりました。

 

而琯性失於簡,酷嗜鼓琴。

しかしながら房琯の性格ははなはだしく放漫であり、琴を鼓くことを過度に好みました。

酷嗜鼓琴。

房琯は高簡な性格。この時、国家は多難だったのに、房琯は病気と称して朝謁せず、 職務など気にしていなかった。庶子の劉秩、諫議大夫・李揖らと共に釈迦や老子を高談したり、 あるいは門客の董庭蘭の鼓琴を聞いたりしていた。 董庭蘭は、これでたくさんの権利を得た。董庭蘭が収賄したと、御史が上奏した。

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三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

 

 

 

このころ、杜甫の他の友人の消息を見てみると、李白は江南の地で粛宗の弟永王璘の軍に加わっていたが、この年の二月、永王が粛宗との仲たがいから反乱軍として討伐されたあとは、江南のあちこちを逃げまわっている。しかし、やがて捕らえられて尋陽の獄につながれることになる。

高適は、皮肉にも永王追討軍を指揮して江南を転戦し、そのまま推南節度使となって揚州にとどまっている。杜甫がのちに厨の成都でその庇護を受けることになる厳武は、杜甫と同じ役所の門下省に、給事中として勤めている。鄭度は賊の偽政府で水部郎中を授けられていたために、王維らとともに重陽里の牢獄に投ぜられ、のちに台州(浙江省の東海岸)の司戸参軍として流された。

鳳翔に来て以来、杜甫は鄜州に避難させている家族の安否を気づかい、あれこれ手を尽くして消息を知ろうとしたが、何の情報も得られなかった。時には、知らせが来ても、それが悪い知らせであるならば、むしろないほうがいい、と畏れながら、落ち着かぬ日々を過ごしていたが、涼風の立ち、白露の降りはじめる初秋になって、やっと家からの手紙が届けられた。

行商人にたのんで家族に手紙を持っていってもらったが、その人が返書を持ってきてくれた。

おかげで今日やっとその消息が分かり一安心。他郷ではあるけれど、ともかく旧の居にいるという。熊児(長男宗文の幼名)は幸いに志なく、咲子(次男宗武の幼名)も元気、それがほんとうにうれしい。年老いて旅空での孤独はたまらないが、こんな時世であるから会うこともできない。白髪頭で行在所勤め、低い位ながらも天子の側にお仕えしている。長安には今なお胡賊の妖気が満ちており、ここ初秋の鳳翔には白露が降り・て志気は張りつめている。

涼たい風は雁を吹き送り、秋の雨に魚もふえてくる。田舎に帰って人気のない山の中で畠を耕し、掛を荷いで暮らしたいものとしみじみ思う。

家族からの手紙を受け取り、その無事を確かめた杜甫は、安堵の胸をなで下ろし職務に励もうとしたことであろうが、思いもかけず、勅命によって休暇が与えられた。杜甫個人にとっては感謝すべき処置であったろうが、時に長安奪回作戦が開始されようとしており、その職務は作戦に直接関わりはないにしても、休暇が与えられる理由はまったくない。要するに杜甫は、さきごろの諌評によって粛宗に嫌われ、無用の人間とされたわけである。

粛宗は「房琯弁護事件」の罪として、鳳翔から邠州まで約二〇〇キロの道を、閏八月の初めから半月ばかりかかって、馬は与えられなという屈辱的な処罰(下僕扱い)のために、途中で馬を借りるまでは口笛をふいて徒歩でゆくのである。長安、洛陽の奪還には房琯一派ははじき出されたのである。その意味では『徒歩歸行』『北征』の一聯の紀行の関連司徒いえるかもしれない。(当然中の句には触れるものがある。)

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「房琯擁護事件」は、賀蘭進明、第五埼による増税高負担、ご都合主義と暗躍、陰険、朝廷の私物化、専横のための鋳造資金の宦官勢力、早く長安洛陽を奪還するためには唐王朝財政を破綻させる破壊的好条件のウイグル援軍採用策の粛宗という三者の思惑が一致したことから、はじき出されたのが房琯一党で、その真っ最中に、杜甫が起したことなのである。

 
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 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問狀 房琯関連 1-(6)》 杜甫index-14 764年 房琯関連 1-(6) 杜甫<1502-6>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4370 杜甫詩1500-1502-6-1045/2500

 

 

玄宗は受け入れていた房琯の政策は十分妥当性を持っていた。杜甫はそれが正しいと思っていたから、房琯を擁護し、弁護した。その意見を親である、玄宗・上皇が認めていることから、その息子である肅宗は、嫉妬といら立ちを募らせて激昂したのである。

兵力増強のために貨幣を発行するというのは歴史の必然であるがそれは一時的なもの限定的にされなければいけない。ところが、仏像をとかし、銅の比率を1/50と著しく低くしてそれを俸禄の支払い、朝廷、宦官の専横のために使用される。

 

租庸調のうち、租は大飢饉で徴収できず、庸調は売って現金にする。それがどこかに行って朝廷には入らない。倉庫に収められたものが根こそぎ安史軍に持っていかれる。江淮の備蓄、現金を利用して永王璘が叛乱を起すという事態は唐の築き上げてきた制度と組織を無視した、第五琦・賀蘭進明の間違った政策に原因がある。

 

杜甫は死んでも、その間違った政策を指摘しようとしたのである。房琯が軍事的素養に長けていたら、事態はもっと良い方に展開したであろう。陳濤斜、青坂の大敗は房琯の説得力を完全に奪った。

 

房琯関連1

奉謝口敕放三司推問狀

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

涉近激訐,違忤圣旨,

既下有司,具已舉劾,

某從自棄,就戮為幸。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

 (3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

しかし、校滑なる逆賊、安史軍はいまだ征伐されず、私の愁痛は、やりきれないものがあります。

そのため、諌官の末席に連なる身として、わが君の政治をいささかなりとも稗補うことができればと願った次第です。

ひそかに見るところでは、房琯は宰相の子として、若いころから立派に世に立ちました。

年をとってからは儒者としての仁徳を醸し出すほまれがあり、大臣の風格をそなえておりました。

 (4)

時論許琯必、位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀琯之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而性失於簡,酷嗜鼓琴。

(5)

董庭蘭今之琴工,游琯門下有日,

貧病之老,依倚為非,

琯之愛惜人情,一至於玷。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

 

 

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文)

(3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

 

(下し文)

(3)

猾逆 未だ除かれず,愁痛 過ぎ難し,

猥廁【わいそく】して 袞職【コンショク】し,愿んで少しくも裨補す。

窺かに房琯を見るに、宰相の子を以て、少くして自ら樹立し、晩に醇儒と為る。大臣の体有り。

(現代語訳)

しかし、校滑なる逆賊、安史軍はいまだ征伐されず、私の愁痛は、やりきれないものがあります。

そのため、諌官の末席に連なる身として、わが君の政治をいささかなりとも稗補うことができればと願った次第です。

ひそかに見るところでは、房琯は宰相の子として、若いころから立派に世に立ちました。

年をとってからは儒者としての仁徳を醸し出すほまれがあり、大臣の風格をそなえておりました。

 

 

(訳注) (3)

猾逆未除,愁痛難過,

しかし、校滑なる逆賊、安史軍はいまだ征伐されず、私の愁痛は、やりきれないものがあります。

 

猥廁袞職,愿少裨補。

そのため、諌官の末席に連なる身として、わが君の政治をいささかなりとも稗補うことができればと願った次第です。

猥廁 卑猥で厠のようにげすといわれようと必死にする。

袞職【コンショク】: 天子の天職、即ち国家を統治する職.

 

竊見房琯,以宰相子,少自樹立,

ひそかに見るところでは、房琯は宰相の子として、若いころから立派に世に立ちました。

 

晚為醇儒,有大臣體。

年をとってからは儒者としての仁徳を醸し出すほまれがあり、大臣の風格をそなえておりました。
三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。 

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粛宗は御史台・刑部・大理寺(いずれも司法機関)に命じて杜甫を弾劾裁判に付した。最悪の場合は死刑である。しかし、新任の宰相張鎬の「もし杜甫を罪に当てるようなことがあれは、今後、天子を諌める者はいなくなりましょう」という言葉によって、粛宗は仕方なく怒りを抑えた。

 
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 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor14-381《風流子三首其三》孫光憲(41)Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-564-14-(381) 花間集 巻第八 (四十八首)漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4367 
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房琯関連1

奉謝口敕放三司推問狀

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

涉近激訐,違忤圣旨,

既下有司,具已舉劾,

某從自棄,就戮為幸。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

 (3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

(4)

時論許必位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而性失於簡,酷嗜鼓琴。

(5)

董庭蘭今之琴工,游門下有日,

貧病之老,依倚為非,

之愛惜人情,一至於玷。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

三者の思惑が合致 

 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文) (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

 

(下し文)(2)

臣 愚戇【ぐとう】を知り,臣 萬死を赦さる,

曲居 恩造,再び骸骨を賜わる。

臣甫 誠頑 誠蔽,死罪 死罪。

臣 以って身 賊庭に陷ち,憤り惋んで疾と成る,

實に間道に從い,獲やく龍顏に謁す。

 

 

(現代語訳)

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

 

 

(訳注) (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

家臣としてそのあまりの愚かさを知りました。家臣として萬死をお許しいただきました。

○愚戇 愚戇なる人、愚も戇も、「おろか」、という意味ですが、この人は、止の行(修行)はしているけれども、おろかである為に矯言(誤魔化しの言葉)することさえできないのである。

 

曲居恩造,再賜骸骨。

腰を曲げ、ひれ伏して御恩を告げられたのです。それで再び、この骨体を賜りました。

 

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

家臣たるわたくし()甫は誠心誠意忠義を尽くし貫き、そうでなければ即、死罪、有無言わせず死罪をうけます。

 

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

私はこの身が安史軍の賊の手に陥ったために、憤り惋んで病気にまでなりました。

賊庭 蘆子関で安史軍の手に捕縛され長安に送られたこと。

 

實從間道,獲謁龍顏。

実際に、そこより間道つたいに脱出して、ようやくご竜顔を拝することができました。

龍顏 天子の顔。天顔。りょうがん。
黄河二首の背景 杜甫 

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このとき、私は青蒲(玉座の敷物)に伏して諌言し、天子の御椅子にすがりついて離れなかった。君が胡賊に辱しめられているというのに、どうしてわが命を惜しんでおれようか。天子は赫怒されたが、幸いにも私は死罪を免れることができた。

 
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杜甫の上奏文を読んで粛宗は激怒した。激怒したのは奏文の内容のためでもあったろうが、さらに、その諌奏の態度があまりに執拗であったこととも関係があろう。杜甫がのちに襲州で詠んだ「壮遊」の詩には、この時の諌評に触れて、

 

「斯時伏青蒲,延爭守御床。  君辱敢愛死,赫怒幸無傷。」 

 

斯の時 青蒲に伏し、延爭して御牀を守る。

君辱しめらるるに敢えて死を愛しまんや、赫怒さるるも 幸いに傷なわるること無し。

 

「このとき、私は青蒲(玉座の敷物)に伏して諌言し、天子の御椅子にすがりついて離れなかった。君が胡賊に辱しめられているというのに、どうしてわが命を惜しんでおれようか。天子は赫怒されたが、幸いにも私は死罪を免れることができた」とあるように、その諌辞の態度はきわめて激しいものであったらしい。杜甫にしてみれば、国のため民のためには一命を惜しまぬ決意であったから、その激しさも当然のことであったろう。

 

粛宗は御史台・刑部・大理寺(いずれも司法機関)に命じて杜甫を弾劾裁判に付した。最悪の場合は死刑である。しかし、新任の宰相張鎬の「もし杜甫を罪に当てるようなことがあれは、今後、天子を諌める者はいなくなりましょう」という言葉によって、粛宗は仕方なく怒りを抑えた。張鏑から、このたびの件についてはお各めなし、という連絡を受けた杜甫は、粛宗に謝罪文を奉った。それを挙げると次のごとくである。

 

 

「房琯擁護事件」

奉謝口敕放三司推問狀

 

房琯関連1

奉謝口敕放三司推問狀

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

涉近激訐,違忤圣旨,

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

既下有司,具已舉劾,

既に、司法機関の三司人にとり調べを受けかのです、三者が共に既に弾劾点を挙げられました。
某從自棄,就戮為幸。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 (2)

知臣愚戇,赦臣萬死,

曲居恩造,再賜骸骨。

臣甫誠頑誠蔽,死罪死罪。

臣以陷身賊庭,憤惋成疾,

實從間道,獲謁龍顏。

(3)

猾逆未除,愁痛難過,

猥廁袞職,愿少裨補。

竊見房以宰相子,少自樹立,

晚為醇儒,有大臣體。

(4)

時論許必位至公輔,康濟元元。

陛下果委以樞密,眾望甚允。

觀之深念主憂,義形於色,

況畫一保泰,素所蓄積者已。

而性失於簡,酷嗜鼓琴。

(5)

董庭蘭今之琴工,游門下有日,

貧病之老,依倚為非,

之愛惜人情,一至於玷。

臣不自度量,嘆其功名未垂,

而志氣挫衄,覬望陛下棄細錄大,

所以冒死稱述,何思慮始竟,闕於再三。

(6)

陛下貸以仁慈,憐其懇到,

不書狂狷之罪,復解網羅之急,

是古之深容直臣、勸勉來者之意。

天下幸甚!天下幸甚!

豈小臣獨蒙全軀、就列待罪而已?

無任先懼後喜之至,謹詣閣門進狀奉謝以聞。謹進。

 

 

『奉謝口敕放三司推問狀』 現代語訳と訳註

(本文) (1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

涉近激訐,違忤圣旨,

既下有司,具已舉劾,

某從自棄,就戮為幸。

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

 

(下し文)

右、臣甫は、智識淺昧にして、向に論ずる所の事、

激訐【げきけつ】に渉近し、圣旨【せいし】に違忤【いご】す。

既に有司に下る,具に已に劾を舉ぐ,

某 自ら棄てて從り,戮に幸を為すに就く。

今日 已む時,中書侍郎 平章事 張鎬 宣口の敕を奉り,推問を宜放す。

 

 

(現代語訳)

右におります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

既に、司法機関の三司人にとり調べを受けかのです、三者が共に既に弾劾点を挙げられました。
どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。

 

 

(訳注)

(1)

右。臣甫智識淺昧,向所論事,

右に降ります。臣下であります、わたくし()甫は勉強不足であることも顧みず、先に房琯について自己の主張の論をのべさせていただきました。

 

涉近激訐,違忤圣旨,

近場のことにわたって激しい直言を致したところ、聖天子の思いに決定的に逆らってしまいました。

違忤 【いご】さからうこと。

 

既下有司,具已舉劾,

既に、司法機関の三司人にとり調べを受けかのです、三者が共に既に弾劾点を挙げられました。

有司 三司、御史台・刑部・大理寺の司法機関に命じて杜甫を弾劾裁判に付した。韋陟・崔光遠・顔真卿の三人にとり調べを受ける。

 

某從自棄,就戮為幸。

どこぞの私めとしても自己を棄てることにより、たとえ殺されても喜んでうけるつもりで居ります。

 

今日已時,中書侍郎平章事張鎬奉宣口敕,宜放推問。

今日ただ今終ってしまうとしており、中書侍郎、平章事張鎬殿に宣口の敕を奉り,推問を宜放いたすところであります。
三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

757年至徳二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(3)》 杜甫index-14 764年房琯関連 1-(3) 杜甫<1601-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4355 杜甫詩1500-1601-3-1042/2500

房琯や杜甫たちは玄宗の戦略(下記に示す7567,7568月)に固執していた。ところが、唐王朝軍は局地戦では勝つものの全面戦ではことごとく敗れた。兵法が古いのと経験不足が原因であった。哥舒翰の潼関の戦い、房琯の陳濤斜、青坂の戦いなど、大敗を喫している。そのため肅宗は国家財政が破たん寸前であるにもかかわらず、ウイグル、吐蕃に援軍を要請している。それは、唐軍の歩兵戦では百戦錬磨の安史軍の騎馬軍団に勝てないからである。ウイグルの騎馬軍団が援軍になって初めて対等に戦えはじめたのである。

759年至徳二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(3)》 杜甫index-14 764年房琯関連 1-(3) 杜甫<1601-3>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4355 杜甫詩1500-1601-3-1042/2500

 

 
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756年7月  玄宗・上皇が制を下す。

太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、 長安、洛陽を奪取させる

・御史中丞・裴冕は左庶子を兼務させる。

・隴西郡司馬・劉秩は試守右庶子とする。

永王・李璘山南東道・嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、

・少府監・竇紹をこれの傅とし、 長沙太守李峴を都副大使とする。

盛王・李琦廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南・河南等路節度都使とし、

・前の江陵都督府長史・劉彙をこれの傅とし、

・廣陵郡長史・李成式を都副大使とする。

豊王・李珙を武威都督に充て、領河西・隴右・安西・北庭等路節度都使とし、

・隴西太守の済陰の鄧景山をこれの傅とし、都副大使とする。

これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、 全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使・虢王巨らは、従来通り節度使とする。 官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」

   この時、李琦も李珙も共に閣を出ず、ただ李璘だけが鎮へ赴いた。

 ・山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。

 ・五府経略使を嶺南節度へ昇格させ、南海等二十二郡を領有させる。

 ・五溪経略使を黔南節度へ昇格させ、 黔中等諸郡を領有させる。

 ・江南を東西二道へ分け、 東道は餘杭を西道は豫章等諸郡を領有させた。

黄河二首の背景 杜甫 

 

7568月  玄宗・上皇が制を下す。

――――――――――――――――――――

  癸未、上皇が制を下して、天下へ恩赦を下した。

   北海太守の賀蘭進明は録事参軍・第五琦を蜀へ派遣して、事を上奏した。 第五琦は上皇へ言った。

   「今の用兵は、財賦が急務ですが、財賦の多くは江、淮にて生産されます。 どうか臣へ一職をください。そうすれば、兵糧の欠乏を防いで見せます。」

   上皇は悦び、即座に第五琦を監察御史、江淮租庸使とした。

 

つまり、唐王朝は闘うお金がないのでそれぞれが調達して賄えということで、払われたのは、名誉と爵位であった。

 

 

杜甫にとって房琯は私的には地位の上下をぬきにしたつきあいをしていた人で「布衣の交わりを為す」(『新居書』杜甫伝)あるし、また公的には、新政府の中で、仁徳のある宰相として彼以上の人物はいないと信じていた。あとのものは、宦官との癒着、金権体質、根っからの武将であった。国の良い時期は仁徳の政治が行われているから、房琯が左遷されたのを、そのまま見過ごしておくことはできなかった。そう、して、朝廷内の宦官勢力の専横、賀蘭進明、第五琦、の癒着政治に反対し、また左拾遺としての慣例などおかまいなしにやむに已まれず過激に擁護の論を述べたてて、「罪は細なり。宜しく大臣を免ずべからず」(『新唐書』杜甫傳)理想に向かって突っ走ろうとする、いかにも杜甫らしい行動であった。

 

杜甫の上奏文を読んで粛宗は激怒した。激怒したのは奏文の内容のためでもあったろうが、さらに、その諌奏の態度があまりに執拗であったこととも関係があろう。杜甫がのちに夔州で詠んだ「壮遊」の詩には、この時の諌評に触れて、「このとき、私は青蒲(玉座の敷物)に伏して諌言し、天子の御椅子にすがりついて離れなかった。君が胡賊に辱しめられているというのに、どうしてわが命を惜しんでおれようか。天子は赫怒されたが、幸いにも私は死罪を免れることができた」とあるように、その諌辞の態度はきわめて激しいものであったらしい。杜甫にしてみれば、国のため民のためには一命を惜しまぬ決意であったから、その激しさも当然のことであったろう。

 

左拾遺に任じられた杜甫は、上疏して房琯を救おうとして粛宗の逆鱗に触れ、粛宗は詔によって三司に推問(取り調べ)を命じた。宰相張鏑の弁護により罪は免ぜられたが、翌年房琯が左遷されると、杜甫も房琯一派とみなされて、華州司功参軍に左遷された。杜甫が房靖を弁護して危うく罪に問われそうになり、やがて房璃一派として左遷されたこの一連の事件をここでは(房琯擁護事件)と呼ぶこととする。

 

三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

ではなぜ杜甫は房琯を弁護したのだろうか。

① 甫と房琯が以前から交友があったこと、高適、岑参、鄭虔らも同じグループである。基本に儒者たちであり、復古主義であった。

② 756年、7月に玄宗上皇が制を下されたものを忠実に守って闘いを進めようとするもの。

③ このままでは国家財政は破たんする。急騰するインフレーションは悪貨鋳造にある。④ 租庸を中間搾取、収奪が人民の生活を苦しめている。特に、関中近畿には租庸が治められない状況が続いている。第五琦・賀蘭進明の経済政策に問題がある。

⑤ 杜甫が任命された左拾遺は皇帝の過失を諌言する役目であり、着任早々の杜甫は使命感に燃え、また周囲の状況を知らなかったこと、

⑥ 房琯が宰相を罷免された理由が現実に直面している問題に比較してさほど重大でないと考えられること、などである。

ただ、これまでの学説では、①、⑤、⑥と杜甫の経済分析に全く理解をしていないものが多かった。この「房琯擁護事件」を理解するためには杜甫書き残したものを時系列を反対にして詠んでいくと実に明快に論点が見えてくるのである。

765年廣徳2

永泰元年765-855 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之一》(遠聞房太守) 杜甫index-15 765年 杜甫<855 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4220 杜甫詩1500-855-1015/250053

永泰元年765-97-7 《承聞故房相公靈櫬,自閬州殯歸葬東都有作,二首之二》 杜甫index-14 764年(丹旐飛飛日) 杜甫<856 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4225 杜甫詩1500-856-1016/250054

764年廣徳2

廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年閬州<764 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052

763年廣徳元年

720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房琯刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩

721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500

722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500

763年廣徳元年

763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1) 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500

廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(2) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-2 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4160 杜甫詩1500-1501-2-1003/250054

廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(3) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-3 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4165 杜甫詩1500-1501-3-1004/250055

廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(4) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-4 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4170 杜甫詩1500-1501-4-1005/250056

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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(6) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-6 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4180 杜甫詩1500-1501-6-1007/250058

廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(7) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059

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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(9) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-9 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4195 杜甫詩1500-1501-9-1010/250064

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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(11) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-11 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4205 杜甫詩1500-1501-11-1012/250066-#1

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廣徳元年763 《祭故相國清河房公文-(13) 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-13 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4215 杜甫詩1500-1501-13-1014/2500

 

759年乾元二載

新安吏 杜甫 三吏三別詩<215>#1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1019 杜甫詩集700- 304 

新安吏 杜甫 三吏三別詩<215>#2 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1022 杜甫詩集700- 305

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758年乾元元載

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首Q-1 -(1) 杜甫index-14 764年(1)Q-1-#1 杜甫<765 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4230 杜甫詩1500-765-1017/2500index-21

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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (7) Q-3-#1 杜甫index-14 764年 (7) Q-3-#1 杜甫<771 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4260 杜甫詩1500-771-1023/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (8) Q-3-#2 杜甫index-14 764年 (8) Q-3-#2 杜甫<772 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4265 杜甫詩1500-772-1024/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (9) Q-3-#3 杜甫index-14 764年 (9) Q-3-#3 杜甫<773 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4270 杜甫詩1500-773-1025/2500index-21

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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (14) Q-5-#1 杜甫index-14 764年 (14) Q-5-#1 杜甫<778 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4295 杜甫詩1500-778-1030/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (15) Q-5-#2 杜甫index-14 764年 (15) Q-5-#2 杜甫<779 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4300 杜甫詩1500-779-1031/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (16) Q-5-#3 杜甫index-14 764年 (16) Q-5-#3 杜甫<1509-16 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4305 杜甫詩1500-1509-16-1032/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (17) Q-5-#4 杜甫index-14 764年 (17) Q-5-#4 杜甫<1509-17 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4310 杜甫詩1500-1509-17-1033/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (18) Q-5-#5 杜甫 <1509-18 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4315 杜甫詩1500-1509-18-1034/2500index-21

乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (19) Q-5-#6 杜甫index-14 764年 (19) Q-5-#6 杜甫<1509-19 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4320 杜甫詩1500-1509-19-1035/2500index-21

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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (21) Q-5-#8 杜甫<1509-21 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4330 杜甫詩1500-1509-21-1037/2500index-21

乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (22) Q-5-#9》 杜甫index-14 764 (22) Q-5-#9 杜甫<1509-22> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4335 杜甫詩1500-1509-22-1038/2500index-21

757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首 (23) 全体》 杜甫index-14 764 (23) 全体 杜甫<1509-23> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500-1509-23-1039/2500

 

757年至徳二載

奉謝口敕放三司推問狀 〔この項で次回から連載〕

 

①を理由としているのは主に『舊唐書』杜甫伝・『新唐書』杜甫伝である。

 

房琯布衣の時甫と善し。時に琯宰相為り。自ら師を帥ゐて賊を討たんことを講ひ、帝之を許す。其の年十月、房琯の陳濤斜に敗る。明年春、瑞相を罷む。甫上疏して琯の才有りて、宜しく罷免すべからざるを言ふ。粛宗怒り、瑞を乾して刺史と為し、甫を出して華州司功参軍と為す(『書庫書』巻一百九十下、杜甫伝)。

甫,字子美,少不自振,客吴越、斉越間。李邕奇其材,先往之。士不中第,困長安。

 

天宝十三,玄宗朝献太清及郊,甫奏三篇。帝奇之,使待制集院,命宰相文章,擢河西尉,不拜,改右率府胄曹参。数上賦頌,因高自称道,且言:“先臣恕、以来,承儒守官十一世,迨言,以文章中宗時。臣頼緒業,自七属辞,且四十年,然衣不蓋体,常寄食于人,窃恐死溝壑,伏惟天子哀怜之。若令先臣故事,拔泥涂之久辱,臣之述作不足鼓吹《六》,至沈郁挫,随雄、枚皋可企及也。有臣如此,陛下其忍弃之?”

 

会禄山乱,天子入蜀,甫避走三川。粛宗立,自鄜州羸服欲奔行在,爲賦所得。至德二年,亡走鳳翔上,拜右拾遺。与房琯布衣交,琯時敗陳涛斜,又以客董庭蘭宰相。甫上疏言:“罪,不宜免大臣。”帝怒,三司親問。宰相曰:“甫若抵罪,言者路。”帝乃解。甫,且称:“琯宰相子,少自醇儒,有大臣体,時論許琯才堪公,陛下果委而相之。其深念主形于色,然性失于。酷嗜鼓琴,庭托琯下,疾昏老,依倚非,琯惜人情,一至玷。臣其功名未就,志气挫衄,陛下弃细录大,所以冒死称述,涉近激,忤圣心。陛下赦臣百死,再骸骨,天下之幸,非臣独蒙。”然帝自是不甚省

 

所在寇,甫家寓鄜,弥年艰窭,孺弱至饿死,因甫自往省。从,出为华州司功参。关辅饥弃官去,客秦州,薪采橡栗自。流落南,结庐成都西郭。召京兆功曹参,不至。会、西川,往依焉。武再帅剑南,表校工部外郎。武以世旧,待甫甚善,至其家。甫之,或不巾,而性褊躁傲醉登武床,瞪曰:“挺之乃有此儿!”武亦暴猛,外若不忤,中之。一日欲甫及梓州刺史章彝,集吏于。武将出,冠于帘三,左右白其母,奔救得止,独彝。武卒,崔旰等乱,甫往来梓、夔

 

中,出瞿唐,下江陵,溯沅、湘以登衡山,因客耒阳。游岳祠,大水遽至,涉旬不得食,令具舟迎之,乃得。令尝馈牛炙白酒,大醉,一昔卒,年五十九。

拜右拾遺。房琯罷相。甫上疏言琯有才,不宜罷免。肅宗怒,貶琯為刺史,出甫為華州司功參軍。

房琯布衣時善甫。時爲琯宰相。

 

粛宗は御史台・刑部・大理寺(いずれも司法機関)に命じて杜甫を弾劾裁判に付した。最悪の場合は死刑である。しかし、新任の宰相張鏑の「もし杜甫を罪に当てるようなことがあれは、今後、天子を諌める者はいなくなりましょう」という言葉によって、粛宗は仕方なく怒りを抑えた。張鏑から、このたびの件についてはお各めなし、という連絡を受けた杜甫は、粛宗に謝罪文を奉った。それを挙げると次のごとくである。
(つづく)

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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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ところで胡賊は、長安・洛陽の両都を抑えてはいるものの、しだいに内部崩壊が進んでいた。すなわち757年、この年の一月初め、安禄山は洛陽において、重臣の厳荘にそそのかされた息子の安慶緒に殺されてしまい、動揺した安史軍は、分裂のきざしが見えていた。一方、粛宗は、この事態に乗じてさらに南下し、長安の西約二〇〇キロメートルの所にある鳳翔に行在を進めた。このような情勢のもと、洛陽に止められていた官吏たちはひそかに長安に帰ってくる者がふえ、また長安からは脱走して鳳翔に向かう官吏が続出した。

 

 

杜甫の親友である鄭虔も、安史軍に捕らえられ、脅迫されて偽政府の水部郎中に任じられていたが、このころひそかに長安に逃げ帰った。そうして杜甫と再会し、互いにその無事を喜びあい、久しぶりに杯を交わしている。鄭虔との再会を喜びながら、杜甫の心の中には長安脱出の決心が固まりつつあった。そうして四月に入ってのある日、長安西城の金光門から鳳翔に向かって脱出した。一説によれは、脱出の前に、朱雀街の南の懐遠坊にある大雲経寺に僧の賛公を訪れて決意を打ち明け、そこに数日間滞在して安史軍の目をくらましたともいう。

大雲寺贊公房四首其一

心在水精域,衣沾春雨時。

洞門盡徐步,深院果幽期。』

到扉開複閉,撞鐘齋及茲。

醍醐長發性,飲食過扶衰。

把臂有多日,開懷無愧辭。』

黃鸝度結構,紫鴿下罘

愚意會所適,花邊行自遲。

湯休起我病,微笑索題詩。』

大雲寺公房 四首 其一#1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 164

大雲寺贊公房 四首 其一# 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 165

其二
細軟青絲履,光明白氎巾。
深藏供老宿,取用及吾身。
自顧轉無趣,交情何尚新。
道林才不世,惠遠得過人。
雨瀉暮簷竹,風吹春井芹。
天陰對圖畫,最覺潤龍鱗。

大雲寺贊公房 四首 其二 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ  166

其三

燈影照無睡,心清聞妙香。

夜深殿突兀,風動金瑯璫。

天黑閉春院,地清棲暗芳。

玉繩迥斷,鐵鳳森翔。

梵放時出寺,鐘殘仍殷床。

明朝在沃野,苦見塵沙黃。』

大雲寺贊公 四首 其三 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ  167

大雲寺贊公房 四首 其四

童兒汲井華,慣捷瓶手在。

沾灑不濡地,掃除似無帚。

明霞爛複閣,霽霧搴高牖。

側塞被徑花,飄搖委墀柳。

艱難世事迫,隱遁佳期後。

晤語契深心,那能總鉗口?

奉辭還杖策,暫別終回首。

泱泱泥汙人,狺狺國多狗。

既未免羈絆,時來憩奔走。

近公如白雪,執熱煩何有?

大雲寺贊公房 四首 其四 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 168

大雲寺贊房 四首 其四 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 168

時に安史軍将の安守忠と李帰仁は、河東から軍を進めて、長安の西郊の清渠あたりに陣を布いており、郭子儀に率いられて橘橋を守る官軍と対時していた。杜甫はその間を、間道ぞいに必死の思いで進んだのであろう。そのときの様子は「行在所に達するを喜ぶ三首」の中に述べられている。

自京竄至鳳翔達連行在所三首 

喜達行在所三首 其一

西憶岐陽信,無人遂卻回。眼穿當落日,心死著寒灰。

霧樹行相引,連山望忽開。所親驚老瘦,辛苦賊中來。

自京竄至鳳翔達連在所 三首其一杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

其二

愁思胡笳夕,淒涼漢苑春。生還今日事,間道暫時人。

司隸章初睹,南陽氣已新。喜心翻倒極,鳴咽淚沾巾。

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其二杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

其三

死去憑誰報,歸來始自憐。猶瞻太白雪,喜遇武功天。

影靜千官裡,心蘇七校前。今朝漢社稷,新數中興年。

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其三杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ

 

鳳翔の行在にようやくたどりついた杜甫は五月十六日に左拾遺の官を授けられた。左拾遺ほは、天子の側近にあって、天子が政治上「通れ」残したことがらを「拾い」上げて知らせる、いわゆる諫官である。

 

黄河二首の背景 杜甫中国における政治の中枢は、中書省・門下省・尚書省の三省にあり、中書省で政策の立案、詔勅の起草がなされ、門下省で詔勅の内容の吟味が行なわれ、尚書省で詔勅が施行される。尚書省には吏部(官吏の選授・勲封)・戸部(戸籍・年貢)・礼部(礼儀・祠祭)・兵部(軍衛・武官の選授)・刑部(刑罰)・工部(百工・屯田・山沢・水利)の六部が置かれ、それぞれの政務を担当していた。杜甫の授かった左拾遺の官は門下省に属しており、長官の侍中(正三品)以下、左散騎常侍(従三品)、黄門侍郎(正四品上)、給事中(正五品上)と続く、その末端に置かれていて、位は従八品上であった。しかし、杜甫にとってほはじめての天子直属の官であり、その「述懐」(懐いを述ぶる)詩に、おも「洗涙して拾遺を授かり、流離して主恩は厚し」と詠っているように、感涙にむせびつつ左拾遺を授かっている。

それまで、杜甫が任命されようとした「河西の尉」は地方官で、天子の側に近寄ることなど夢にも考えられなかったし、次に就任した右衛率府兵曹参軍は東宮の職員であり、国政とは関わりのないものであった。今や杜甫は、天子の側近にあって国政に直接関わることのできる地位に就くことができたのである。

今こそ「君を尭・舜の上に致し、再び風俗をして淳からしめん」(「葦左丞丈に贈り奉る」二十二韻)という年来の志を果たすことができようと、杜甫は身の引き締まる思いをしながらも、心からうれしかったにちがいない。その左拾遺に任ずる詔書には、「襄陽杜甫,爾之才德,朕深知之。今特命為宣義郎行在左拾遺。授職之後,宜勤是職,毋怠。 命中書侍郎張鎬齎符告諭。至徳二載五月十六日行。」

襄陽の杜甫、爾の才徳は、朕深く之を知る。今、特に命じて宜義郎・行在の左拾遺と為す。

職を授けし後は、宜しく是の職に勤めて怠ること母かるべし。中書侍郎の張鎬に命じ、符を齎して告諭せしむ。至徳二載五月十六日行。

とあり、杜甫は「宜しく是の職に勤めて怠ることなかるべき」ことを誓った。

三者の思惑が合致 

そうして数日ののち、拾遺の職務に忠実に諌辞を行なったが、粛宗の激怒によって危うく一命を失いそうになる。諌評の内容は、杜甫が左拾遺を授けられる六日前、すなわち五月十日に宰相から太子少師の閑職に左遷された房棺の弁護であった。房琯は、蜀の玄宗のもとから派遣され霊武に赴いた際、粛宗の政府の宰相となっていたが、陳陶斜と青坂での敗戦の責任は、粛宗の信任あつい李泌のとりなしによってなんとか問われなかったものの、粛宗の信頼は失われてしまっていた。また、賀蘭進明・雀円ら粛宗直属の臣と、玄宗のもとから遣わされてきた者との対立、知識人宰相として実務家官僚たちと意見が合わずこりつしていた、などという事情を背景とし、直接には、房琯の取り巻きの一人である楽師が宰相への口利き料を取っていたのが露見して収賄罪で告訴され、それを房琯が救けようとした、ということが原因となって左遷されたものであった。

 

ではなぜ杜甫は房琯を弁護したのだろうか。

① 甫と房琯が以前から交友があったこと、高適、岑参、鄭虔らも同じグループである。基本に儒者たちであり、復古主義であった。

② 756年、7月に玄宗上皇が制を下されたものを忠実に守って闘いを進めようとするもの。

③ 杜甫が任命された左拾遺は皇帝の過失を諌言する役目であり、着任早々の杜甫は使命感に燃え、また周囲の状況を知らなかったこと、

④ 房琯が宰相を罷免された理由が杜甫にはさほど重大でないと考えられたこと、などがこれまで指摘されてきた。①を理由としているのは主に『舊唐書』杜甫伝・『新唐書』杜甫伝である。

756年至徳元から二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(1)》 杜甫index-5 756年房琯関連 1-(1) 杜甫<1601-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4345 杜甫詩1500-1601-1-1040/2500

757年至徳二載四月、安緑山の乱のさなか、長安で虜囚となって軟禁されていた杜甫は、安史軍の目を盗んで脱出した。間道を抜けて、鳳翔の行在所に駆けつけた。命がけであった。安史軍支配地から鳳翔行在所へ逃げのびて來る者たちは多かった。


 
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756年至徳元から二載 《杜甫と房琯房琯関連 1-(1)》 杜甫index-5 756年房琯関連 1-(1) 杜甫<1601-1>漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4345 杜甫詩1500-1601-1-1040/2500


 

 

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其一杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其二杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 

自京竄至鳳翔達連行在所 三首其三杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ

 

その功によって五月十六日、左拾遺の官を授けられる。

 

これに先立つ五月十日には宰相房琯が罷免されていた。

 

 

左拾遺に任じられた杜甫は、上疏して房琯を救おうとして粛宗の逆鱗に触れ、粛宗は詔によって三司に推問(取り調べ)を命じた。宰相張鏑の弁護により罪は免ぜられたが、翌年房琯が左遷されると、杜甫も房琯一派とみなされて、華州司功参軍に左遷された。杜甫が房靖を弁護して危うく罪に問われそうになり、やがて房璃一派として左遷されたこの一連の事件をここでは(房琯擁護事件)と呼ぶこととする。

 

ではなぜ杜甫は房琯を弁護したのだろうか。

それは、75810月に杜甫が『乾元元年華州試進士策問五首』試験問題を作成しているがこの中に見事に示しているがここまでの房琯についてのべてみる。

 

7567月霊武に到着行在所とする。

756年7月  玄宗・上皇が制を下す。

太子の亨を天下兵馬元帥に充て、朔方、河北、平盧節度都使として、 長安、洛陽を奪取させる

・御史中丞・裴冕は左庶子を兼務させる。

・隴西郡司馬・劉秩は試守右庶子とする。

永王・李璘山南東道・嶺南・黔中・江南西道節度都使とし、

・少府監・竇紹をこれの傅とし、 長沙太守李峴を都副大使とする。

盛王・李琦廣陵大都督に充て、領江南東路及び淮南・河南等路節度都使とし、

・前の江陵都督府長史・劉彙をこれの傅とし、

・廣陵郡長史・李成式を都副大使とする。

豊王・李珙を武威都督に充て、領河西・隴右・安西・北庭等路節度都使とし、

・隴西太守の済陰の鄧景山をこれの傅とし、都副大使とする。

これらの士馬、甲仗、兵糧や兵士への給料は、 全て各路にて工面せよ。その諸路の本の節度使・虢王巨らは、従来通り節度使とする。 官属及び本路の郡県官は各々で選び、奏聞せよ。」

   この時、李琦も李珙も共に閣を出ず、ただ李璘だけが鎮へ赴いた。

 ・山南東道節度使を設置し、襄陽等九郡を領有させる。

 ・五府経略使を嶺南節度へ昇格させ、南海等二十二郡を領有させる。

 ・五溪経略使を黔南節度へ昇格させ、 黔中等諸郡を領有させる。

 ・江南を東西二道へ分け、 東道は餘杭を西道は豫章等諸郡を領有させた。

 

 

7568月  玄宗・上皇が制を下す。

 

癸未、上皇が制を下して、天下へ恩赦を下した。

北海太守の賀蘭進明は録事参軍・第五琦を蜀へ派遣して、事を上奏した。7月の“すべて各自で工面して戦力を整えよ”にこたえ「今用兵するには、財賦が急務で、財賦の多くは江、淮にて生産されます。 ここで、兵糧の欠乏を防ぐことができます。」 上皇は、即座に第五琦を監察御史、江淮租庸使とした。

 

霊武にいた粛宗は、「16相」を決め、多くの事項を合議に書けた。やがて霊武を出発、南下を始めて順化に向かう。

肅宗の宰相十六人 韋見素・崔圓・房琯・裴冕・崔渙・李麟・苗晉卿・張鎬・王璵・呂・李峴・第五琦・李揆・蕭華・裴遵慶・元載。

654 《述古,三首之二》 蜀中転々 杜甫 <559  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3025 杜甫詩1000-559-799/1500

 

7569月 安史軍快進撃。

黄河二首の背景 杜甫

至徳元年(756)―――9月―――――――――――――――――

丙子、粛宗皇帝は順化へ到着した。

韋見素らが成都から来て、粛宗皇帝へ上皇の寶冊を献上する。粛宗皇帝は、固辞して「これは、中原が戦乱に巻き込まれたので、百官を統率するための処置だ。危難に乗じて即位するようなことはしない!」  群臣も固く請うたが、粛宗皇帝は許さない。寶冊は別殿へ、 定められた礼で朝夕拝礼する。

 韋見素はもともと楊国忠へ諂っていたので、粛宗皇帝は、彼を蔑視していた。 対して房琯の名声をもともと耳にしていたので、粛宗皇帝は虚心に彼を待った。 房琯は粛宗皇帝へ謁見すると時事を語った。その有様が悲憤慷慨していた為、 粛宗皇帝は居住まいを改めた。これによって、軍国の事の多くは房琯と謀った。 房琯もまた、天下を自分の仕事と思い、 知りて行わないことはなく、諸相は、手を拱ねいているだけだった。

房琯と賀蘭進明・第五琦らとは安史の乱以前、李林甫が宰相であった頃からことごとく反発し合っていた。

 

霊武にいた粛宗は、さらに南下を始めて彰原(甘粛省寧県)に行在所を移し、長安奪回の機をうかがう。

 

そうして十月、「房琯は口先だけの男」賀蘭進明・第五琦らに照って口撃されていたこともあって房琯は、自ら兵を率いて両京を回復することを上疏した。 粛宗皇帝はこれを許し、房琯は、自ら参佐を選ぶことを請い、御史中丞・鄧景山を副、戸部侍郎・李揖を 行軍司馬、給事中・劉秩を参謀とした。出発した後、また、兵部尚書・王思禮を副とした。この二人は書生で軍事は素人であった。

房琯は、全隊を三軍に分けた。

裨将・楊希文は南軍を率いて宜寿から入り、

劉貴哲は中軍を率いて武功から入り、

李光進は北軍を率いて奉天から入った。

賀蘭進明を河南節度使とした。

東方では安史軍の令狐潮、王福徳が歩騎万余を率いて、また雍丘を攻めた。 張巡は出撃し、これを大いに破って数千級の首を斬る。安史軍は逃げ去った。

三者の思惑が合致 房琯・杜甫のグループは朝廷からはじき出されたのである。

 房琯は渭水北岸道路沿いに勧める中軍戦車隊、奉天から東南に進む北軍を前鋒とした。

十月二十一日、二軍は咸陽の陳濤斜にて安史軍の将・安守忠と遭遇した。房琯は、古法に倣って車戦を用い、牛車二千乗を馬歩が挟むような陣立てをした。 安史軍は、順風に乗って軍鼓を打ち鳴らす。牛は皆、震え上がった。そこで燕軍は火を放ったので、 人畜共に大いに乱れた。官軍の死傷者は四万余人。生存者は数千人だけだった。 悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152陳陶を悲しむ)は、その敗軍を痛んだ詩である。

『悲陳陶』 

孟冬十郡良家子、血作陳陶沢中水。

野曠天清無戦声、四万義軍同日死。

群胡帰来血洗箭、仍唱胡歌飲都市。

都人廻面向北啼、日夜更望官軍至。

陳陶を悲しむ)孟冬(もうとう)  十郡の良家(りょうか)の子()、血は陳陶(ちんとう)沢中(たくちゅう)の水と作()る。

()(むな)しく天清くして戦声(せんせい)無し、四万の義軍  同日に死す。群胡(ぐんこ)帰り来たって血もて箭()を洗い、仍()お胡歌(こか)を唱(うた)って都市に飲む。都人  面(かお)を廻(めぐ)らして北に向かって啼き、日夜  更に官軍の至るを望む。

冬の初めの月に凡そ十郡の良家出身の兵卒たちで構成されたものだった。しかし彼等の血は流れて陳陶の沢の水となってしまったのだ。

死の後には戦場の野原はむなしくひろい、空も青々として寂しい、さらに戦の声はまったくしないのだ。あれだけの兵士、四万という忠義の兵士がたった一日のうちで死んだのである。

勝ちほこった異民族の入り混じった叛乱軍の兵士どもはもどって来て血の箭をあらい流した。そして、そのまま異民族の歌を唱えながら、長安の繁華街で酒を飲んでいるのである。

都の人たちは之を見て面をそむけて北方に向いて啼いたのだ、昼となく夜となく王朝の官軍が到著してくれればよいとみんなが望んでいるのである。

ついで二十三日、態勢を立て直し房琯は自ら渭水南ルートの南軍を率いて青坂で戦ったが、ここでも敗れた。 楊希文、劉貴哲は共に賊へ降伏した。悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

咸陽の東門ちかく青坂があった。房琯率いる王朝軍は至徳元載十月。五行思想での日にち計算により、辛丑:9日目、癸卯:11日目、たった11日間で敗れたのである。兵力の多さ、儒者で古式戦法の教条的な採用により、歩兵戦での兵量を過信した幼稚な作戦面で失敗である。

1021日、の青坂で敗れたことを悲しんで作る。杜甫は房琯が霊武、順化、彭原で賀蘭進明、第五琦、宦官らに追い詰められ、自らこの戦を買って出るよう仕向けられてことは全く知らない。ただ詩の内容から、房琯率いる軍であることは泯指揮していたようだ。

悲青坂   

我軍青坂在東門、天寒飲馬太白窟。

黄頭奚児日向西、数騎彎弓敢馳突。

山雪河冰野蕭瑟、青是烽煙白人骨。

焉得付書与我軍、忍待明年莫倉卒。

 (青坂を悲しむ)

我れ青坂(せいはん)に軍して東に門在り、天寒くして馬に飲(みずか)う太白の窟(いわや)

黄頭(こうとう)の奚児(けいじ)  日に西に向かう、数騎 弓を彎()いて敢(あえ)て馳突(ちとつ)す。

山雪  河冰 野に蕭瑟(しょうしつ)たり、青(せい)は是れ烽煙(ほうえん) 白は人骨。

(いずくん)ぞ書を付して我が軍に与え、忍んで明年を待って倉卒(そうそつ)なる莫かれと言い得む。

咸陽の東門外にある青坂の地での戦いの詩

我が王朝軍は咸陽の東門ちかく青坂に陣取っている。この冬の寒空に太白山の窟に馬に水かい、西の峻山道から進んできたのだ。

安禄山軍の黄頭の異民族の帽子の奚部族と漢民族の兵士等は勝ちに乗じて毎日だんだんと西へ向ってくる。それをいまいましがって味方(官軍)の二三騎が弓をひいてむりに馳せて突出してみるのだが、大勢的に劣勢で敗軍でどうにもならないのだ。

山には雪がふり河には冰がはり、原野は風が簫の笛や瑟琴のようにさびしく吹いていて、青くみえるのはのろし火の煙であり、白くみえるのは大殺戮による屍が、おびただしい数であった、今むりに戦をしても仕方がないというものなのだ。

どうしたら、我が王朝の軍隊へ手紙をとどけ与えて「我慢して明年を待て、今は戦力を整えるのだ、そうしてあわてて軍をしかけてはならないのだ」と言ってやることができるだろうか。

 

 粛宗皇帝は房琯の敗北を聞いて大いに怒った。だが、李泌が取りなしたので、 怒りもどうにか収まり、房琯とは従来通り接した。

官軍放る・の知らせは、官軍が長安の西に近づいていることを聞き、その勝利の報を心待ちにしていた長安の市民を落胆させたこと、いうまでもない。

次の「雪に対す」の詩は、官軍大敗の重苦しい気分のうちにあって、雪の舞う冬の夕暮れに作られたもので、食糧は乏しく、もちろん酒などはない、困窮した暮らしの中での落ちこんだ思いを詠んでいる。対雪 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 154

『対雪』

戦哭多新鬼、愁吟独老翁。

乱雲低薄暮、急雪舞廻風。

瓢棄樽無、炉存火似紅。

数州消息断、愁坐正書空。

(雪に対す)

戦哭【せんこく】  新鬼(しんき)多く、愁吟【しゅうぎん】  独り老翁。

乱雲 薄暮に低【た】れ、急雪( 廻風に舞う。

瓢【ひょう】棄てられて 樽【たる】に【ろく】無く、炉 存して  火は紅に似たり。

数州 消息断たれ、愁え 坐して 正に空に書す。

至るところが戦場で、そこでの号泣がひびきわたる、それは多くの新しい戦死者の声である。その声を聞きつつ愁えて吟じるものはただ一人、筋を通し生き抜いてきた初老のわたしである。

それなのに乱れた雲、崩れた王朝にたそがれが低くたれさがるのである。そこに急にふりそそいできた雪が吹き、風につれて舞いくるうように、異民族たちが街を覆うのである。

清酒を飲むため、自然その酒を小出しにする瓢もなげすてられている、樽盃には清酒の透き通った色が無くなってしまった。談義ができるわけもないのに炉のみは消えずにいて火が紅色を呈している。

天下九州の内二三の州は叛乱軍の手にでも落ちたものかどうか消息がとだえている。それがため自分は愁えた気持ちで座敷に座り、ちょうど殷浩の様に手で空中に文字を書いて不安な気持ちを抑えるのだ。

 

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房琯は全隊を三軍にわけた

 

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