元結 《賊退示官吏(并序)》#4
今彼徵斂者,迫之如火煎。誰能絕人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。將家就魚麥,歸老江湖邊。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
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元結〈賊退示官吏(并序)〉(搜韻)
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
序#1
癸卯歲,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦徵斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。
#2
昔歲逢太平,山林二十年。
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
泉源在庭戶,洞壑當門前。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
井稅有常期,日晏猶得眠。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
忽然遭世變,數歲親戎旃。
れが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
#3
今來典斯郡,山夷又紛然。
わたしは、このたび、この道州をつかさどりはじめたら、西原蠻の山の夷どもが紛然と攻め込んできた。
城小賊不屠,人貧傷可憐。
しかし小さな城であるのに西原蠻の賊はこれを屠らず、人民が貧乏なので彼らも心をいためてきのどくだとおもったようだ。
是以陷鄰境,此州獨見全。
そのため彼らは隣境の永州、その西側の卲州等の地は陥れたがこの道州だけは安全にしておいてくれた。
使臣將王命,豈不如賊焉。
地方へ使者となって、出ている上司は天子の命を奉行するのがその職務であるが、それがどうして彼ら西原蠻ごときに劣ってよいというのだろうか。
#4
今彼徵斂者,迫之如火煎。
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
誰能絕人命,以作時世賢。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
思欲委符節,引竿自刺船。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
昔歳 太平に逢い、山林にあること 二十年。
泉源 庭戸に在り、洞壑 門前に当たる。
井税に 常期有り、日 晏くして猶お眠るを得たり。
忽然として 世変に遭い、数歳 親ら戎旃す。』
今来 彼の郡を典るに、山夷 又た紛然たり。
城小にして賊屠らず、人貧にして傷みて憐れむ可しとす。
是を以て 隣境を陥るるも、此の州 独り全くせらる。
使臣 王命を将う、豈に賊にだも如かざらんや。』
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
『賊退示官吏』 現代語訳と訳註解説
(本文) #4
今彼徵斂者,迫之如火煎。
誰能絕人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
(下し文)
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
(現代語訳)
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
(訳注) #4
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
道州の地は、広徳元年(763)九月以降に三カ月ほど西原蠻の賊の侵入を被っている。里広徳二年五月二十二日に元結は道州に着任し、それから五十日余り後に「舂陵行」と「奏免科率状」が書かれた。「賊退示官吏」序に「明年、敗又攻永州、破部、不犯此州連郡両道」とあるのによれば、広徳二年(764)にも賊が遭州に追ったことになる。一方、永泰二年(七六六)の「奏免科率等状」には「去年又賊逼州界、防拝一首除目。賊攻永州、陷邵州、臣州濁全者、爲百姓捍賊。」とあり、この賊の侵入は765年であったことになる。この100日余りの侵入がいつごろであったかはなお疑問だが、「賊退示官吏」は、少なくとも「舂陵行」が書かれてから三カ月以上後に制作されたものであると思われる。
この楽府は序に「藷使何爲忍苦徴斂。」とあるとおり、諸使の徴求に対する憤りが中心になっている。詩の序文はまず、西原の賊が道州に侵入し、翌764年広德二年にも周辺の郡に侵入したが、道州はあまりにも悲惨な状況であったので、その賊ですら手を付けなかったと述べる。最初の西原の賊の侵入に関しては、「奏免科率状」に「臣當州被西原賊屠陥、賊停留一月餘、日焚焼糧儲居宅、浮掠百姓男女、駆殺牛馬老少、一州幾盡。賊散後、百姓歸復、十不存一。」と、より詳細に述べられ、翌広徳二年764の侵入に関しても「奏免科率等状」に指摘されている。序は続いて諸使の徴求の厳しさを述べるが、この部分は「舂陵行」に「郵亭傳急符,來往跡相追。更無寬大恩,但有迫促期。」とある部分に対応する。巌しい徴税は「奏免科率状」「舂陵行」制作後、西原蠻の賊の侵入時にも続いていたと思われる。やがて「奏免科率状」に対して恩赦が下り、「広徳二年賀赦表」(764)が書かれ、引き続き改元に伴なう恩赦に対応して「永泰元年賀赦表」(765)が書かれることになるのであるが、この「賊封示官吏」制作時点ではまだ厳しい徴税の符牒が届けられていたのであろう。「奏免科率等状」には、賊の侵入を防いでいた、とあるのに対して、序では「不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已」と表現されている。また「新唐書」巻二二二下、西原蠻列伝には、「餘衆復閑適州、刺史元結固守、不能下。進攻永州、陥那州、留敷H而去。(僚衆復た遠州を寓むも、刺史元結固く守れば、下す能はず。進みて永州を攻め、部州を陥れ、留ること救日にして去る。)」と、元結が鹿の侵入を防いだことを記す。おそらく西原の敗の侵入を防いだのが事実であったのだろう。「敗退示官吏」序では、賊ですら哀れんだと記すことによって、民を哀れむこともなく、厳しく徴税を行なう萬使の苛酷さが一層際立つように描かれているのである。
詩の本文は「舂陵行」とは異なって、まず道州制史となるまでの自らの状況を述べることから始まる。続いて敗すら憐れんだ道州に対して租税の徴求が厳しくなされていることに対する批判が展開される。「使臣」「彼徴斂者」すなわち租税の徴斂のために命を受けて州県に赴く官僚をその批判の直接の対象としているのである。最後にこうした状況に対時した時の自らの決意、即ち官を辞するという決断が呈示される。
今彼徵斂者,迫之如火煎。
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
徵斂者 序に見える「豈力能制敵歟」のこと。苦徵斂 税の取り立てを厳しくするために住民を苦しめる。征:徵收。斂:聚。征斂無限・期:統治者が無限度に土地、家族構成に見合った税を徴収すること。
誰能絕人命,以作時世賢。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
○時世賢 元結《舂陵行》#7「前賢重守分,惡以禍福移。亦雲貴守官,不愛能適時。」「能適時」とあるのもおなじ、時世むきの賢人、孟子「今之所謂良臣、古之所謂民賊也」(今の艮臣は、古の民賊)といっているのと同意。
元結 《舂陵行(并序)-#6》【7分割】 <杜甫詩1939同元使君舂陵行>関連 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6070
思欲委符節,引竿自刺船。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
○委符節 委はうちすてること。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
○将家 将はひきいる。
○魚麥 さかなとむぎ。水の物とやまのもの、耕作物。。
「敗退示官吏」は、中央の官僚を対象に作られたものではなくで、直接には元結の身近にいた州県の官吏を対象にしたものであろうと思われる。身近にいる官吏に向けての発言であったからこそ、徴税の役人を盗賊に比較しても劣るとするような激しい憤りの表現が可能だったのである。
西原蠻の賊と対峙する一方で、州民を収奪するかのごとき厳しい徴税が引き続き行なわれているという状況の中から生じた、中央の政策に対する憤りをもって、周囲にいる、やはり無自覚で民を憂えることを知らず、民に酷く追ってやまぬ官吏たちに対峙したとき、この数篇の詩は成立したのである。一方で 「舂陵行」を書き、周到に自らの態度を中央に表明し、その一方で自らの憤りを周囲の官吏に明らかにすることにあった。ここに杜甫が自らも華州参軍において、《乾元元年華州試進士策問五首》において示した手法と同じものを元結の一聯の楽府に見たのである。
757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首
(23) 全体》 杜甫<1509-T> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500/2500
これらを踏まえて、杜甫 《1939同元使君舂陵行》【5分割】について見てゆく。






