奉節-4杜甫《縛雞行》(鶏に喰われる蟲、売られて人に喰われる鶏、鶏を縛る奴僕、それを見ている自分、それを見下ろす巫山、そこを流れる大河長江を対比させ慈愛の念を詠う)蟲と鶏とにとって、人はどうすれば厚情であり、どうすれば薄情ということになるのだろう、私からすれば、市場に持って行く、奴僕をしかりつけてその縛り付けを解いてやるといいのだろうか。
766年大暦元年55歲-12奉節-4《縛雞行》 杜甫index-15 杜甫<881> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5215
杜甫詩1500-881-1214/2500766年大暦元年55歲-12
作年:766年大暦元年55歲
卷別: 卷二二一 文體: 樂府
詩題: 縛雞行
作地點: 奉節(山南東道 / 夔州 / 奉節)
縛雞行
(鶏に喰われる蟲、売られて人に喰われる鶏、鶏を縛る奴僕、それを見ている自分、それを見下ろす巫山、そこを流れる大河長江を対比させ慈愛の念を詠う)
小奴縛雞向市賣,雞被縛急相喧爭。
奴僕のものが三鶏を縛って朝市で売ろうとして向う、鶏には災難が降る掛る、急に追いかけられ縛られるのであるから喧嘩のように大騒ぎしている。
家中厭雞食蟲蟻,不知雞賣還遭烹。
ところがその鶏が蟲とか蟻とかを食べるというので、それを見ている家中の者は見たくないと嫌がる。その嫌がられた鳥は、人に売られて、今度は煮たりして料理されるということは分かっていない。
蟲雞與人何厚薄,吾叱奴人解其縛。
蟲と鶏とにとって、人はどうすれば厚情であり、どうすれば薄情ということになるのだろう、私からすれば、市場に持って行く、奴僕をしかりつけてその縛り付けを解いてやるといいのだろうか。
雞蟲得失無了時,注目寒江倚山閣。
鶏と蟲の関係からすると蟲を鷄が、鶏を奴僕がしばり売り、そして料理される。奴僕は主人の私に叱られる。というように完了する事は無いというものであるが、注目すべきことは、それらすべては、未だ寒い長江のほとりの山懐の二階からただみているだけということだ。
(縛雞の行)
小奴 雞を縛りて 市向うて賣らんとし,雞は 縛らるること急しくして 相い喧爭す。
家中は雞の蟲蟻を食うを厭い,雞の賣らるれば 還た烹らるるに遭うを知らず。
蟲雞と人とは何が厚く なんぞ薄きか,吾は奴人を叱って其の縛れるを解かしむ。
雞と蟲は 得失 了の時無し,注目す 寒江 山閣に倚るを。
『縛雞行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
縛雞行
小奴縛雞向市賣,雞被縛急相喧爭。
家中厭雞食蟲蟻,不知雞賣還遭烹。
蟲雞與人何厚薄,吾叱奴人解其縛。
雞蟲得失無了時,注目寒江倚山閣。
(下し文)
(縛雞の行)
小奴 雞を縛りて 市向うて賣らんとし,雞は 縛らるること急しくして 相い喧爭す。
家中は雞の蟲蟻を食うを厭い,雞の賣らるれば 還た烹らるるに遭うを知らず。
蟲雞と人とは何が厚く なんぞ薄きか,吾は奴人を叱って其の縛れるを解かしむ。
雞と蟲は 得失 了の時無し,注目す 寒江 山閣に倚るを。
(現代語訳)
(鶏に喰われる蟲、売られて人に喰われる鶏、鶏を縛る奴僕、それを見ている自分、それを見下ろす巫山、そこを流れる大河長江を対比させ慈愛の念を詠う)
奴僕のものが三鶏を縛って朝市で売ろうとして向う、鶏には災難が降る掛る、急に追いかけられ縛られるのであるから喧嘩のように大騒ぎしている。
ところがその鶏が蟲とか蟻とかを食べるというので、それを見ている家中の者は見たくないと嫌がる。その嫌がられた鳥は、人に売られて、今度は煮たりして料理されるということは分かっていない。
蟲と鶏とにとって、人はどうすれば厚情であり、どうすれば薄情ということになるのだろう、私からすれば、市場に持って行く、奴僕をしかりつけてその縛り付けを解いてやるといいのだろうか。
鶏と蟲の関係からすると蟲を鷄が、鶏を奴僕がしばり売り、そして料理される。奴僕は主人の私に叱られる。というように完了する事は無いというものであるが、注目すべきことは、それらすべては、未だ寒い長江のほとりの山懐の二階からただみているだけということだ。
(訳注)
縛雞行
(鶏に喰われる蟲、売られて人に喰われる鶏、鶏を縛る奴僕、それを見ている自分、それを見下ろす巫山、そこを流れる大河長江を対比させ慈愛の念を詠う)
輪廻転生の仏教的精神科、博愛的儒教精神の表れということであるが、私に叱られる奴僕、鶏に喰われる蟲、売られて人に喰われる鶏を対比させ慈愛の念を述べるが、それらの出来事も、神霊から巫山までの大きな山の連なり、前には長江の豊かな流れを前にして、小さき出来事であろうか。杜甫が「泰山に昇って孔子の小山を見下ろす」《望嶽》詩の様に儒学的に詠ったものである。《望嶽》 杜甫「會當凌絶頂,一覽衆山小。」このような心境になれたからにはいつか必ずやこの山の最頂上によじのぼり、足もとにみえる山々のよう「我も我もと往きたるは小人の常」の気持ちを見下していく。
『孟子』尽心上、「揚子法言」学行篇に、孔子が泰山に登って天下を小としたとある。
望嶽 杜甫 <7> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ98 杜甫詩 700- 7
小奴縛雞向市賣,雞被縛急相喧爭。
奴僕のものが三鶏を縛って朝市で売ろうとして向う、鶏には災難が降る掛る、急に追いかけられ縛られるのであるから喧嘩のように大騒ぎしている。
家中厭雞食蟲蟻,不知雞賣還遭烹。
ところがその鶏が蟲とか蟻とかを食べるというので、それを見ている家中の者は見たくないと嫌がる。その嫌がられた鳥は、人に売られて、今度は煮たりして料理されるということは分かっていない。
蟲雞與人何厚薄,吾叱奴人解其縛。
蟲と鶏とにとって、人はどうすれば厚情であり、どうすれば薄情ということになるのだろう、私からすれば、市場に持って行く、奴僕をしかりつけてその縛り付けを解いてやるといいのだろうか。
雞蟲得失無了時,注目寒江倚山閣。
鶏と蟲の関係からすると蟲を鷄が、鶏を奴僕がしばり売り、そして料理される。奴僕は主人の私に叱られる。というように完了する事は無いというものであるが、注目すべきことは、それらすべては、未だ寒い長江のほとりの山懐の二階からただみているだけということだ。
寒江 長江。



































































