杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

杜甫

喜聞官軍已臨賊寇 二十韻 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 223

喜聞官軍已臨賊寇 二十韻 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 223

杜甫が羌村の家族のもとで日を過ごしているあいだに、唐の王朝軍は回紇(ウイグル)の援軍を加えて連合軍とし、長安への進攻を開始していた。すなわち757年9月中旬、粛宗の皇子である広平王李俶(のちの代宗)を総司令官とし、朔方軍で功勲のあった郭子儀を副司令官とし、十五万の連合軍は、鳳翔を出発して東に向かったのである。
9月27日には長安の西郊に着いて陣を布き、安守忠・李帰仁の率いる十万の安史軍(この時史忠明の軍本体は幽州に帰っていた。)と戦って翌28日には長安に入城したのである。長安が安禄山の叛乱軍に落ちてから一年三か月ぶりのことであった。史忠明軍のいない安史軍はひとまず正面衝突を回避して、10月18日には洛陽も奪還され、安慶緒は北方の鄴城(河南省安陽)に逃れた。粛宗は、洛陽奪還の翌日、十月十九日には鳳翔を出発し、十月二十三日に長安に帰った。
杜甫は鄜州の羌村で、王朝軍の長安進攻を知り「官軍の己に賊寇に臨むを聞くを喜ぶ二十韻」をつくり、入城を知って、「京を収む三首」を作って、その歓喜の情を表わしている。



喜聞官軍已臨賊寇 二十韻
#1
胡虜潛京縣,官軍擁賊壕。
叛乱軍の異民族の騎隊等は長安の都近くの県に逃れ潜り込み、王朝連合軍は塑壕(はり)を唐王朝軍の物と仕替え護る。
鼎魚猶假息,穴蟻欲何逃。」
叛乱軍はまるで鼎のなかに煮られかけていいて魚が息木次をわずかにするだけの猶予をあたえられている様である、また穴のなかの蟻でどこへ逃げようとおもっているのか、とてもどこにも逃げられないのだ。』
帳殿羅玄冕,轅門照白袍。
いま鳳翔の行在所の仮御殿では玄冤をつけた公卿たちがずらり並んでいる、軍門から入ると援軍の回紇の白衣がまぶしいほど照っている。
秦山當警蹕,漢苑入旌旄。

都、長安附近の山々は我が君の行幸の御警蹕あるべき筋道に当っているし、いまや都の御苑も王朝軍の旌のたてられる範囲内に入ろうとしている。

#2
路失羊腸險,雲橫雉尾高。五原空壁壘,八水散風濤。
今日看天意,遊魂貸爾曹。乞降那更得,尚詐莫徒勞。」
#3
元帥歸龍種,司空握豹韜。前軍蘇武節,左將呂虔刀。
兵氣回飛鳥,威聲沒巨鰲。戈鋌開雪色,弓矢向秋毫。
天步艱方盡,時和運更遭。誰雲遺毒螫,已是沃腥臊。」
#4
睿想丹墀近,神行羽衛牢。花門騰絕漠,拓羯渡臨洮。
此輩感恩至,羸浮何足操。鋒先衣染血,騎突劍吹毛。
喜覺都城動,悲連子女號。家家賣釵釧,只待獻春醪。」


喜聞官軍己臨賊寇二十韻
(官軍己に賊寇に臨むと聞くを喜ぶ 二十韻)
#1
胡騎京県に潜み、官軍賊壕を擁す。
鼎魚(ていぎょ)猶息を仮す、穴蟻何に逃れんと欲する。」
帳殿玄冤(げんべん)羅(つらな)り、轅門(えんもん)白袍照る。
秦山警蹕(けいひつ)に当る 漢苑旌旄(せいぼう)に入る。

#2
路は羊腸の険を失す、雲横わりて雉尾(ちび)高し。
五原空しく壁塁(へきるい)、八水風涛(ふうとう)散ず。
今日天意を看るに、遊魂(ゆうこん)爾が曹に貸す。』
#3
降を乞うも那(なん)ぞ更に得ん 詐を尚(たっと)ぶは徒に労する莫らんや。
元帥竜種(りょうしゅ)に帰し、司空豹韜(ひょうとう)を握る。
前軍 蘇武が節、左将 呂虔(りょけん)が刀。
兵気 飛鳥(ひちょう)を回(か)えす、威声(いせい) 巨鰲を没せしむ。
戈鋌(かせん) 雪色開き、弓矢 秋毫(しゅうごう)に向う。
天歩(てんぽ) 艱 方(まさ)に尽く、時和 運 更に遭う。
誰か云う毒螫を遺すと、己に是れ 腥臊(せいそう)に沃(そそ)ぐ。」
#4
睿想 丹墀(たんち)近く、神行 羽衛(うえい)牢(かた)し。
花門 絶漠に騰(あが)り、拓羯(たくけつ)臨洮(りんとう)を渡る。
此の輩恩に感じて至る、羸浮(るいふ)何ぞ操るに足らん。
鋒 先(さきだ)ちて 衣血に染む、騎 突きて 剣毛(けんけ)を吹く。
喜びは覺ゆ 都城の動くを、悲みは連(ともな)う 子女の號(さけ)ぶを。
家家 釵釧を売り 只だ待つ春醪を献ずるを』


natsusora01


現代語訳と訳註
(本文) #1

胡虜潛京縣,官軍擁賊壕。
鼎魚猶假息,穴蟻欲何逃。」
帳殿羅玄冕,轅門照白袍。
秦山當警蹕,漢苑入旌旄。


(下し文) #1
胡騎京県に潜み、官軍賊壕を擁す。
鼎魚(ていぎょ)猶息を仮す、穴蟻何に逃れんと欲する。」
帳殿玄冤(げんべん)羅(つらな)り、轅門(えんもん)白袍照る。
秦山警蹕(けいひつ)に当る 漢苑旌旄(せいぼう)に入る。


(現代語訳)
叛乱軍の異民族の騎隊等は長安の都近くの県に逃れ潜り込み、王朝連合軍は塑壕(はり)を唐王朝軍の物と仕替え護る。
叛乱軍はまるで鼎のなかに煮られかけていいて魚が息木次をわずかにするだけの猶予をあたえられている様である、また穴のなかの蟻でどこへ逃げようとおもっているのか、とてもどこにも逃げられないのだ。』
いま鳳翔の行在所の仮御殿では玄冤をつけた公卿たちがずらり並んでいる、軍門から入ると援軍の回紇の白衣がまぶしいほど照っている。
都、長安附近の山々は我が君の行幸の御警蹕あるべき筋道に当っているし、いまや都の御苑も王朝軍の旌のたてられる範囲内に入ろうとしている。


(訳注)
胡虜潛京縣,官軍擁賊壕。

叛乱軍の異民族の騎隊等は長安の都近くの県に逃れ潜り込み、王朝連合軍は塑壕(はり)を唐王朝軍の物と仕替え護る。
胡虜 異民族の騎兵。異民族は騎馬民族であり、騎兵戦法をとる。農耕民族は歩兵、兵車戦法をとる。異民族の騎兵軍隊には騎士の数より2倍以上の駿馬を用意している。○ のがれかくれる。○京県 都近くの県。○官軍 広平王の率いる連合軍をさす。この時ウイグル軍は駿馬を一万五千頭揃えたといわれている。その引き起こす砂塵で叛乱軍は退いたといわれる。○擁賊壕 叛乱軍の拠った塑壕(はり)を唐王朝軍の物と仕替え護る。


鼎魚猶假息,穴蟻欲何逃。」
叛乱軍はまるで鼎のなかに煮られかけていいて魚が息木次をわずかにするだけの猶予をあたえられている様である、また穴のなかの蟻でどこへ逃げようとおもっているのか、とてもどこにも逃げられないのだ。』
鼎魚 かなえの中で煮られる魚、賊の危いことをたとえていう。○仮息 いきふくことをかし与えてある、しばし生命をあずけておくこと。○穴蟻 穴のなかのあり、これも賊の危さをたとえていう。○何逃 何は何処の意。


帳殿羅玄冕,轅門照白袍。
いま鳳翔の行在所の仮御殿では玄冤をつけた公卿たちがずらり並んでいる、軍門から入ると援軍の回紇の白衣がまぶしいほど照っている。
帳殿 本殿の周りにテント張りで守りをつくる御殿、皇帝の旅の仮のお住まいという意味。鳳翔の行在所をいう。○ ならぶこと。○玄冕(げんべん) くろいかんむり、公卿の礼冠。○轅門 軍門、軍中の門は轅(くるまのながえ)を以てつくる。○ でりかがやく。〇白袍 白いうわざ、これは援助に来た回紇のきる衣。イスラム地域の服装。
 

秦山當警蹕,漢苑入旌旄。
都、長安附近の山々は我が君の行幸の御警蹕あるべき筋道に当っているし、いまや都の御苑も王朝軍の旌のたてられる範囲内に入ろうとしている。
泰山 長安附近の山をいう。○当警蹕(けいひつ) 当(あたる)とは警蹕すべき地位にあることをいう、警蹕は天子の出入に道路上の人払いをすること、出る時には警といい、入る時は蹕と称する。○漢苑 長安にある唐の御苑をいう。〇入旌旄(せいぼう) 旌旄は王朝軍のはた。入るとは、皇帝の行軍にはおびただしい数のはたのたてられる範囲内にはいることをいう。


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北征 #11(全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 218

北征 #11(全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 218
北徵 11回目(全12回)


#10までの要旨
757年粛宗の至徳二載の秋。特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許された。今、天下はどこでも治安が悪く、無政府状態のところ多くなっているのだ、だからわたしの胸中の心配は増えつづけていったい何時終わるのだろうか。
心配を胸に、最初は徒歩ですすんでいくと、わたしがこの路で出会うこの里の人々の多くは傷をうけていた。そしてやっと馬を駆ることができ、鳳翔の方を振り返るとはるか遠くの山々が重なっていた。少量を過ぎ、邠州を過ぎていた。彌満和深くなり猛虎の声が大空を破りそうな声で唸っているのだ。少し行くと菊が今年の秋の花を変わりなく咲かせていた。山中の果物が多く、橡の実や栗などがあり、「桃源」の伯郷のようだ。自分の処世のまずさと世の移ろいがうまくいっていないことをなげかわしくおもう。そのうちに秦の文公の祭壇を過ぎ、夜更けに戦場跡を通り過ぎた。たくさんの戦死者がそのままにされ、白骨が月明かりに照らされていた。
叛乱軍に掴まって長安に送られ、そこから鳳翔の行在所に逃げ、一年たって、戻ってきた。妻も子供も憐れな恰好であった。
嚢中の帛がないことで寒がってふるえている。それでもおしろいや眉墨をいれた包みものをひろげたので痩せた妻もその顔面に光があるようになった。
家へ帰ったばかりなのでわたしはこんな子供によって自分のこころを慰めている。
その頃、粛宗はウイグルに再度の援軍を要請した。五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。精鋭部隊であり、おかげで傾性は次第に回復してきた。しかし、世論はウイグルに援軍を出すことが高い代償を払うことになるのではないかと心配しているのだ。
王朝連合軍は官軍となり進んで叛乱軍の本拠地まで深く攻め入ろうと請け負ってくれている。この軍事同盟による回紇軍との連合を云い洛陽地方までを攻めおとすことは青州・徐州の方面を開くことになるのである。また五嶽の一つ恒山や碣石の門の両の精神的支柱をも略取することになるのである。叛乱軍、異民族らの命運はながつづきできるというものではない、天子の皇道は断絶してはならないはずのものである。』


10
伊洛指掌收,西京不足拔。官軍請深入,蓄銳可俱發。
此舉開青徐,旋瞻略恆碣。昊天積霜露,正氣有肅殺。
禍轉亡胡歲,勢成擒胡月。胡命其能久?皇綱未宜絕。』
11
憶昨狼狽初,事與古先別。
昨年のことを思い出してみる、前年6月4日圧倒的に有利と見られていた王朝軍を率いる哥舒翰が潼関でが大敗した。都において慌てふためいて出奔の事変が起ったとき、朝廷でとられた御処置は昔の施策とはちがっていた。
奸臣竟菹醢,同惡隨蕩析。
我が朝では奸臣の代表する楊国忠は刑罰に処せられ、そのなかまの悪党らも追っ払い散らされてしまった。
不聞夏殷衰,中自誅褒妲。
諸君は夏殷の衰えたときのことを聞いたことはないか、宮廷の中で天子御自身で褒娰・妲己の悪女を誅されたのである。(楊貴妃は玄宗御自身が誅せられたということ。)
周漢獲再興,宣光果明哲。
そうして周の宣王と後漢の光武帝は皆が期待した通り、聡明で事理に明るい君主であったので周や後漢は再興することができた。(新天子に即位した粛宗は明哲であるので唐は再興していくのだ。)
桓桓陳將軍,仗鉞奮忠烈。
まことに桓々と勇武である、左竜武大将軍の陳将軍は。彼は天子から授けられた鉞をついて忠義な功しをふるわれたのである。
微爾人盡非,於今國猶活。』

あの時もし左竜武大将軍の陳将軍が居なかったならば唐の人民はみんな今見るような安泰なものであることができなかったであろう、あなたのおかげで今も我が唐の国はいきることができるのである。』
12
淒涼大同殿,寂寞白獸闥。都人望翠華,佳氣向金闕。
園陵固有神,灑掃數不缺。煌煌太宗業,樹立甚宏達!』

#10
伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん、西京(せいけい)も抜くに足らざらん。
官軍  深く入らんことを請(こ)う、鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可し。
此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん、旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん。
昊天(こうてん) 霜露を積み,正氣 肅殺(しゅくさつ)たる有り。
禍は轉ぜん 胡を亡ぼさん歲(とし),勢は成らん 胡を擒(とりこ)にせん月。
胡の命 其れ能く久しからんや?皇綱(こうこう)未だ宜しく絕つべからず。』

#11
憶う昨(さく) 狼狽(ろうばい)の初め,事は古先と別なり。
奸臣 竟に菹醢(そかい)せられ,同惡(どうあく)隨って蕩析(とうせき)す。
聞かず  夏殷(かいん)の衰えしとき、中(うち)の自ら褒妲(ほうだつ)を誅(ちゅう)せしを。
周漢(しゅうかん) 再興するを獲(え)しは、宣光(せんこう)  果たして明哲(めいてつ)なればなり。
桓桓(かんかん)たり  陳(ちん)将軍、鉞(えつ)に仗(よ)りて忠烈を奮(ふる)う。
爾(なんじ)微(な)かりせば人は尽(ことごと)く非(ひ)ならん、今に於(お)いて国は猶(な)お活(い)く。

#12
淒涼(せいりょう)たり  大同殿(だいどうでん)、寂寞(せきばく)たり 白獣闥(はくじゅうたつ)。
都人(とじん) 翠華(すいか)を望み、佳気(かき)   金闕(きんけつ)に向こう。
園陵(えんりょう) 固(もと)より神(しん)有り、掃灑(そうさい)  数(すう)欠けざらん。
煌煌(こうこう)たり 太宗の業(ぎょう)、樹立 甚(はなは)だ宏達(こうたつ)なり。


現代語訳と訳註
(本文) 11

憶昨狼狽初,事與古先別。
奸臣竟菹醢,同惡隨蕩析。
不聞夏殷衰,中自誅褒妲。
周漢獲再興,宣光果明哲。
桓桓陳將軍,仗鉞奮忠烈。
微爾人盡非,於今國猶活。』

(下し文) #11
憶う昨(さく) 狼狽(ろうばい)の初め,事は古先と別なり。
奸臣 竟に菹醢(そかい)せられ,同惡(どうあく)隨って蕩析(とうせき)す。
聞かず  夏殷(かいん)の衰えしとき、中(うち)の自ら褒妲(ほうだつ)を誅(ちゅう)せしを。
周漢(しゅうかん) 再興するを獲(え)しは、宣光(せんこう)  果たして明哲(めいてつ)なればなり。
桓桓(かんかん)たり  陳(ちん)将軍、鉞(えつ)に仗(よ)りて忠烈を奮(ふる)う。
爾(なんじ)微(な)かりせば人は尽(ことごと)く非(ひ)ならん、今に於(お)いて国は猶(な)お活(い)く。


(現代語訳)⑪
昨年のことを思い出してみる、前年6月4日圧倒的に有利と見られていた王朝軍を率いる哥舒翰が潼関でが大敗した。都において慌てふためいて出奔の事変が起ったとき、朝廷でとられた御処置は昔の施策とはちがっていた。
我が朝では奸臣の代表する楊国忠は刑罰に処せられ、そのなかまの悪党らも追っ払い散らされてしまった。
諸君は夏殷の衰えたときのことを聞いたことはないか、宮廷の中で天子御自身で褒娰・妲己の悪女を誅されたのである。(楊貴妃は玄宗御自身が誅せられたということ。)
そうして周の宣王と後漢の光武帝は皆が期待した通り、聡明で事理に明るい君主であったので周や後漢は再興することができた。(新天子に即位した粛宗は明哲であるので唐は再興していくのだ。)
まことに桓々と勇武である、左竜武大将軍の陳将軍は。彼は天子から授けられた鉞をついて忠義な功しをふるわれたのである。
あの時もし左竜武大将軍の陳将軍が居なかったならば唐の人民はみんな今見るような安泰なものであることができなかったであろう、あなたのおかげで今も我が唐の国はいきることができるのである。』


(訳注)11
憶昨狼狽初,事與古先別。

昨年のことを思い出してみる、前年6月4日圧倒的に有利と見られていた王朝軍を率いる哥舒翰が潼関でが大敗した。都において慌てふためいて出奔の事変が起ったとき、朝廷でとられた御処置は昔の施策とはちがっていた。
億咋 咋とは玄宗の逃出の時をさす。756年6月13日夜明け前長安を逃げ出した。玄宗は貴妃姉妹、皇子、皇孫、楊国忠および側近の者だけを連れ、陳玄礼の率いる近衛兵に衛られて西に向かったことを示す。○狼狽 前日の会議に出席するものが少なく、朝廷はうろたえる、多くのものがにわかの出奔をいう。○ 朝廷のなした処置。施政をいう。○古先 むかし。○ ちがう。


奸臣竟菹醢,同惡隨蕩析。
我が朝では奸臣の代表する楊国忠は刑罰に処せられ、そのなかまの悪党らも追っ払い散らされてしまった。
○奸臣 楊国忠を代表としている。楊国忠のことは麗人行  杜甫漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 65に詳しい。

安禄山の乱と杜甫

菹醢 菹は野菜の町づけ。醢は肉をこうじ、しお、さけをまぜたものにつけたもの。これは国忠が刑罰に処せられその肉が潰けものにされたことをいう。○同悪 悪いことをともにしたものども、国忠の党類をいう。○蕩析 蕩ははらいのける、析はばらばらに離す。


不聞夏殷衰,中自誅褒妲。
諸君は夏殷の衰えたときのことを聞いたことはないか、宮廷の中で天子御自身で褒娰・妲己の悪女を誅されたのである。(楊貴妃は玄宗御自身が誅せられたということ。)
不聞 君不に聞乎の意、積極的に「聞かず」というのではなく、「聞かざるや」ともちかけていうのである。○夏殷、褒娰 妲己蜘は周の幽王の寵姫、妲己は殷の紂王の寵妃、王朝が滅亡する原因となった美女である。夏殷では時代が合わぬとて夏を周とすべしとの説があるが、拘わる必要はないであろう。褒姐は楊貴妃をあてていう。○ 宮中をいう。


周漢獲再興,宣光果明哲。
そうして周の宣王と後漢の光武帝は皆が期待した通り、聡明で事理に明るい君主であったので周や後漢は再興することができた。(新天子に即位した粛宗は明哲であるので唐は再興していくのだ。)
宜光 周の宜王、後漢の光武帝、これは粛宗にあてていう。○明哲 才智明かなこと。聡明で事理に明るいこと。この二句も倒句として解釈する。


桓桓陳將軍,仗鉞奮忠烈。
まことに桓々と勇武である、左竜武大将軍の陳将軍は。彼は天子から授けられた鉞をついて忠義な功しをふるわれたのである。
桓桓 勇武なさま。『詩経』周頌の桓に「桓桓たる武王」に基づく。○陳将軍 左竜武大将軍陳玄礼をいう。○仗鉞 ほことまさかりによる、武力を用いたこと。○奮忠烈 忠義な功しを奮うた。次の事実がある。玄宗が長安より逃れて興平県の馬嵬駅に至ったとき陳玄礼は将軍として従ったが、楊国忠を誅しようとして、吐蕃の使者に命じ国忠の馬を遮って食の無いことを訴えさせた。国忠がまだこれに答えぬうちに軍士等は呼ばわっていうのに国忠は反を謀ったと。遂に国忠を殺し槍を以て其の首を揚げた。玄宗は駅門に出て軍士を慰労し隊を収めさせたが、軍士は応じなかった。玄宗は高力士をしてそのわけを問わせたところ、玄礼が対えて曰うのに、国忠が反を謀った上は貴妃は供奉すべきではない、願わくは陛下よ、恩を割き法を正さんことを、と。玄宗は力士をして貴妃を仏堂にみちびかせて、彼女を絞殺させた。


微爾人盡非,於今國猶活。』
あの時もし左竜武大将軍の陳将軍が居なかったならば唐の人民はみんな今見るような安泰なものであることができなかったであろう、あなたのおかげで今も我が唐の国はいきることができるのである。』
○徴 無かったとするならば。○ 諌玄礼をさす。O人尽非 非とは今日見る所の如き人ではないことをいう。○国 唐の国家。

北征 #9(全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 216

北征 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 216

北徵 #9

#8までの要旨
757年粛宗の至徳二載の秋。特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許された。今、天下はどこでも治安が悪く、無政府状態のところ多くなっているのだ、だからわたしの胸中の心配は増えつづけていったい何時終わるのだろうか。
心配を胸に、最初は徒歩ですすんでいくと、わたしがこの路で出会うこの里の人々の多くは傷をうけていた。そしてやっと馬を駆ることができ、鳳翔の方を振り返るとはるか遠くの山々が重なっていた。少量を過ぎ、邠州を過ぎていた。彌満和深くなり猛虎の声が大空を破りそうな声で唸っているのだ。少し行くと菊が今年の秋の花を変わりなく咲かせていた。山中の果物が多く、橡の実や栗などがあり、「桃源」の伯郷のようだ。自分の処世のまずさと世の移ろいがうまくいっていないことをなげかわしくおもう。そのうちに秦の文公の祭壇を過ぎ、夜更けに戦場跡を通り過ぎた。たくさんの戦死者がそのままにされ、白骨が月明かりに照らされていた。
叛乱軍に掴まって長安に送られ、そこから鳳翔の行在所に逃げ、一年たって、戻ってきた。妻も子供も憐れな恰好であった。
嚢中の帛がないことで寒がってふるえている。それでもおしろいや眉墨をいれた包みものをひろげたので痩せた妻もその顔面に光があるようになった。
家へ帰ったばかりなのでわたしはこんな子供によって自分のこころを慰めている。
(全12回)


北徵(北征) 8
學母無不為,曉妝隨手抹。移時施朱鉛,狼籍畫眉闊。
生還對童稚,似欲忘饑渴。問事競挽須,誰能即嗔喝?
翻思在賊愁,甘受雜亂聒。新婦且慰意,生理焉得說?』
9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?
我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
陰風西北來,慘澹隨回紇。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
其王願助順,其俗善馳突。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
送兵五千人,驅馬一萬匹。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。
此輩少為貴,四方服勇決。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』

世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』10
伊洛指掌收,西京不足拔。官軍請深入,蓄銳可俱發。
此舉開青徐,旋瞻略恆碣。昊天積霜露,正氣有肅殺。
禍轉亡胡歲,勢成擒胡月。胡命其能久?皇綱未宜絕。』

#8
母を学(まね)びて為(な)さざるは無く、曉妝(ぎょうしょう)  手に随(したが)いて抹す。
時(とき)を移して朱鉛(しゅえん)を施(ほどこ)せば、狼藉(ろうぜき)として画眉(がび)闊(ひろ)し。
生還して童稚(どうち)に対すれば、飢渇(きかつ)を忘れんと欲(ほっ)するに似たり。
事を問うて競(きそ)うて鬚(ひげ)を挽(ひ)くも、誰か能(よ)く即ち嗔喝(しんかつ)せん。
翻(ひるがえ)って賊に在りし愁いを思いて、甘んじて雑乱(ざつらん)の聒(かまびす)しきを受く。
新たに帰りて且(か)つ意を慰(なぐさ)む、生理(せいり)  焉(いずく)んぞ説くことを得ん。

#9
至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す、幾の日か卒(そつ)を練るを休(や)めん。
仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)、坐(そぞろ)に妖氛(ようふん)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ。
陰風(いんぷう)  西北より来たり、惨澹(さんたん)として回紇(かいこつ)に随う。
其の王は助順(じょじゅん)を願い、其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす。
兵を送る  五千人、馬を駆(か)る  一万匹。
此の輩(はい) 少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し、四方(しほう) 勇決(ゆうけつ)に服す。
用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り、敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ。
聖心は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)し、時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す。』

#10
伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん、西京(せいけい)も抜くに足らざらん。
官軍  深く入らんことを請(こ)う、鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可し。
此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん、旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん。
昊天(こうてん) 霜露を積み,正氣 肅殺(しゅくさつ)たる有り。
禍は轉ぜん 胡を亡ぼさん歲(とし),勢は成らん 胡を擒(とりこ)にせん月。
胡の命 其れ能く久しからんや?皇綱(こうこう)未だ宜しく絕つべからず。』

現代語訳と訳註
(本文) 9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?
仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
陰風西北來,慘澹隨回紇。
其王願助順,其俗善馳突。
送兵五千人,驅馬一萬匹。
此輩少為貴,四方服勇決。
所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』


(下し文) #9
至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す、幾の日か卒(そつ)を練るを休(や)めん。
仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)、坐(そぞろ)に妖氛(ようふん)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ。
陰風(いんぷう)  西北より来たり、惨澹(さんたん)として回紇(かいこつ)に随う。
其の王は助順(じょじゅん)を願い、其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす。
兵を送る  五千人、馬を駆(か)る  一万匹。
此の輩(はい) 少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し、四方(しほう) 勇決(ゆうけつ)に服す。
用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り、敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ。
聖心は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)し、時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す。』


(現代語訳) ⑨
我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』


(訳注)北征9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?

我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
至尊 天子。鳳翔に粛宗が行在所を置き。成都に玄宗が上皇としていた。○蒙塵 叛乱軍の勢いを示すものとして、蒙塵ということを叛乱軍の中にいた杜甫は感じていた。その兵乱をさけて外に出ておられるというやわらかい表現をしている。○幾日 何日と同じ。○練卒 兵卒を訓練すること。


仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
天色改 そらの色がかわる。○妖氛 兵乱の悪気。叛乱軍の異民族の生活習慣が異なっていること、特に当時の中国に来ているイスラムの白い帽子は、北方の騎馬民族の毛の帽子など怖がられた。○ ひろがり散ずること。


陰風西北來,慘澹隨回紇。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
陰風 陰気な風。○西北 回紇の方位。○慘澹 ものがなしく。○回紇 ウイグルの異民族の軍隊。


其王願助順,其俗善馳突。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
其王 其は回紇をさす。王は第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)のこと○願助順 叛乱軍は道に逆らうものであり、王朝軍は理に順うものである。順とは唐の王朝のつながり順、王朝軍をさす、回紇は唐王朝軍を助けようと願いでた。(実際には回紇は当初は両方に軍を出兵させる状態であった。) 史によると至徳元載10月に回紇は其の太子葉護を遺わし、兵四干を率いて唐を助けて賊を討った。可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた.。○其俗 回紇ウイグルの習俗。○善馳突 馬を馳せて突出するにじょうずである。ウイグルは大宛国であり名馬の産地であり、騎馬民族の兵術。

送兵五千人,驅馬一萬匹。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。


此輩少為貴,四方服勇決。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
此輩 回紇の兵をさす。○少為貴 少壮なものを貴しとする。「漢書」の匈奴伝に「壮者ハ肥美ヲ食シ老者ハ其ノ余ヲ飲食シ、壮健ヲ貴ビ老弱ヲ賤ム。」とみえる。回紇はそれと同じ。騎馬民族であるため、騎兵船は個人技を重視する。○四方 回紇の四面の国々。宗教的なことを意味するもの。○ 服従する。○勇決 回紇の勇敢、果決。


所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
所用 回紇の使用する兵戎。○鷹騰 鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましいことをいう。○過箭疾 矢のはやく疾風騎馬軍がまさる。


聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』
世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』
○聖心頗虚佇、時議気欲奪 此の二句は倒句でよむ。時議は当時の議論、即ち世論をいう。気奪われんと欲すはこちらの意気が先方に奪われようとする。回乾の援兵をかりては後のたたりが恐ろしいということで気が気でなくおもうことをいう。・聖心は太子の御意。虚佇とは自己をむなしくして、即ち平気で、回紇が助けるというなら助けてもらおうとまちかまえられることをいう。(757年15万にふくれあがった唐軍は,広平王・淑 を総帥とし,鳳翔を出発.扶風で ウイグル軍を出迎 えた郭子儀は,3日 間の大宴会で接待.以 後,ウイグル軍には食料として毎日,羊200匹,牛20頭,米40石 が支給さるなど、戦いの後を予感させるものであった。1年前の霊武に行在所を置いている段階で朔方軍の郭子儀だけでウイグルの援軍がなかったら唐王朝は滅亡したかもしれないのだ。その早い段階でウイグルに応援を求めたことが滅亡を防いだのだ。しかしどの段階でも王朝軍の方が兵力的には勝っていた。杜甫は、天子が詩土砂をリードする力量にかけていたと思っていたようだ。.ここまでの分を見ても粛宗は杜甫に嫌悪を抱いたであろうと思われる。)

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行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晩行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒歩歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。 
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。
   


(行くゆく昭陵に次る)
鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。昭陵は唐の太宗の陵で、陝西省西安府醴泉県の西北六十里九嗅山に在り、封内は周囲百二十里、陪葬せられるものは諾王七、公主二十一、妃嬪八、宰相十二、丞郎三品五十三人、功臣大将軍等六十四人。太宗の乗った六駿の石像は陵後にあったが今は持ち出されている。又、陵そのものは「唐会要」に「昭陵は九埠の層峰に因りて山の南面を整ち、深さ七十五丈、玄宮を為る。巌に傍い梁を架して桟道を為る、懸絶すること百仞、繞回すること二百三十歩にして始めて玄宮の門に達す。頂上にも亦遊殿を起す。」とあるのによって大略をうかがうことを得るであろう。又、李商隠の『行次西郊作 一百韻』は杜甫のこの詩と『北征』を手本にして詠われているので参考になる。
長安の近郊


行次昭陵  #1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
風雲隨絕足,日月繼高衢。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
文物多師古,朝廷半老儒。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いられる人々は半以上は老儒者であった。
直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』

その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』
#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。寂寥開國日,流恨滿山隅。
#1
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
#2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』

杜甫乱前後の図003鳳翔


現代語訳と訳註
(本文)#1

舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。
風雲隨絕足,日月繼高衢。
文物多師古,朝廷半老儒。
直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』


(下し文)
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』


(現代語訳)
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いられる人々は半以上は老儒者であった。
その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』


(訳注)#1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。

旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
旧俗 唐以前の歴代の民意風俗をいう。○疲庸主 庸主とは凡庸の君主、六朝以来の愚かな天子をさす。疲とは凋倣すること、つかれてやぶれ嫌気をおこした。或は庸主、独夫ともに隋の煬帝をさすという。○群雄 多くの英雄、隋末に天下を一統せんとして起った李密・賓建徳等をさす。○問独夫 問とはその罪を問うこと。独夫とは天子たる資格のない単独のおとこ、独裁者、隋の煬帝をさす。
 
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
 予言の辞、唐の太宗が四歳のとき、ある書生が彼を見ていうのに「竜鳳ノ姿、天日ノ表、年将二二十ナラントスレバ、必ズ能ク世ヲ済イ民ヲ安ンゼン。」と。書生は、太宗の未来について予言したのである。○竜鳳質 上の書生の言にみえる、太宗の美質をいう。○ 太宗の武威。○虎狼都 秦の都長安をいう。「史記」蘇秦伝の「秦ハ虎狼ノ国ナリ」。

天屬尊堯典,神功協禹謨。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
天属 天よりの血属をいう、父子の関係をさす。これは唐の高祖と太宗の間がら、父たる高祖が子たる太宗に帝位を譲られたことをさす。三皇五帝の堯帝より世襲により譲位されるようになった。○尊堯典 「尚書」の堯典欝では帝堯が賢人たる舜に位を禅ったことを書いている。太宗は長子ではなく弟であったが賢であったので高祖より位をゆずられたというのである。これは堯典の趣旨を尊ぶことである。○神功 太宗の人力以上の功。○協禹謨 「尚書」の大南護に、南の功をのべて、「九功惟レ叙ス」という。太宗の舞楽にも七徳丸功舞がある。これは禹謨にかなうものである。
 
風雲隨絕足,日月繼高衢。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
風雲随絶足 絶足は逸足に同じ、駿馬、六駿のことで、太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬をいう。したがって、これも太宗をたとえていう。風雲は諸臣をたとえていう。諸臣みな風雲の会に乗じて太宗にしたがう。六駿は当時は昭陵の後方にたてられていた。現在は西安市の碑林博物館にある。〇日月経高衢 これは日月の光を高衢において継ぐ意である。高衢は天上の筋道であり、太宗が高祖の徳光をつぐことをいう。


文物多師古,朝廷半老儒。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いらるる人々は半以上は老儒者であった。
文物 唐の国家の制度文物、雅楽を製し、律令を定め、封建を議する等は、みな文物である。○師古 古代の良い制度法律を模範とすること。○半老儒 半分以上は熟知し年老いた儒者である。これは虞世南等の十八学士等をさす。


直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』
直詞 直言して諌めること、王珪・魏徴の諌めたことをさす。○戮辱 刑せられ、はずかしめられる。○賢路 賢人の進む路。○不崎嘔 崎嘔は道路のけわしいさま。崎嘔たらずとはけわしくないこと、太宗は馬周・劉子巽等を挙げ用いた。

行次西郊作 一百韻 #5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 151


太宗の貞観の治について詠っているの部分である。
「例以賢牧伯,徵入司陶鈞。」
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。


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得家書 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 181

得家書 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 181

(家書を得たり)

鄜州方面へゆく人に書信を託して家族の安否を調べたが、三川県羌村からの返事はなかなか返ってこず、聞こえてくるのは鄜州方面は兵禍に遭って、鶏や子犬までが殺されてしまったという悲惨な噂だけ。杜甫の心配はつのり、家族は死に絶えてしまったのではないかと思う。
七月に鄜州の妻から返事が届き、家族全員が無事であるとわかる。
「述懷」は安禄山の叛乱軍に拘束され、そこから鳳翔の行在所に逃げ帰ったことなど、杜甫の周りの出来事、心境を述べたものであった。

「得家書」の詩は、安否問いあわせの手紙を出したのち、家族の方より返事を得て作った詩である。杜甫は鳳翔に逃げてきて3か月たっていた。製作時は至徳二載の秋七月、757年 46歳である。

DCF00196


得家書
去憑遊客寄,來為附家書。
わたしは鄜州の方へ商用でで出かける旅人があったから、その方にたのんで家族への手紙を送り届けさせたのだが、その同じ人がまた家族からの手紙をわたしへとどけてくれるために鳳翔へ来てくれた。
今日知消息,他鄉且舊居;
その手紙に由って今日は家族の消息を知ることができた。その消息によると、家族は他郷とはいえやっぱりもとの住居にそのまま居るそうだ。
熊兒幸無恙,驥子最憐渠。
またそれによると、長男の熊児は幸にも無事であり、次男の驥子、わたしはまだ小さい彼を最もかわいそうにおもうのだ。
臨老羈孤極,傷時會合疏。』
#1
わたしは年よりはじめてきて鳳翔は初めての土地で、仮住まいで旅客人でのひとりぼっち、朝廷内でも孤独感をもっている、時世のことを考えると王朝軍は劣勢で気にやむばかりで家族たちとはめったにあえずにいる。
二毛趨帳殿,一命待鸞輿。北闕妖氛滿,西郊白露初。
涼風新過雁,秋雨欲生魚。農事空山裡,眷言終荷鋤。』#2


(家書を得たり)#1
去るは遊客に憑りて寄す来るは家書を附するが為なり
今日消息を知る 他郷なるも且つ旧居なり
熊児は幸に恙無し 驥子最も渠を憐む
老に臨みて羈孤極まる 時を傷みて会合疎なり』

#2
二毛帳殿に趨し  一命鸞輿に侍す
北闕妖気満つ   西郊白露の初
涼風新に過雁   秋雨魚を生ぜんと欲す
農事空山の裡   眷みて言に終に鋤を荷わん』


 現代語訳と訳註
(本文) #1

去憑遊客寄,來為附家書。今日知消息,他鄉且舊居;
熊兒幸無恙,驥子最憐渠。臨老羈孤極,傷時會合疏。』


(下し文)
去るは遊客に憑りて寄す、来るは家書を附するが為なり。
今日消息を知る、他郷なるも且つ旧居なり。
熊児は幸に恙無し 驥子最も渠を憐む
老に臨みて羈孤極まる 時を傷みて会合疎なり


(現代語訳)
わたしは鄜州の方へ商用でで出かける旅人があったから、その方にたのんで家族への手紙を送り届けさせたのだが、その同じ人がまた家族からの手紙をわたしへとどけてくれるために鳳翔へ来てくれた。
その手紙に由って今日は家族の消息を知ることができた。その消息によると、家族は他郷とはいえやっぱりもとの住居にそのまま居るそうだ。
またそれによると、長男の熊児は幸にも無事であり、次男の驥子、わたしはまだ小さい彼を最もかわいそうにおもうのだ。
わたしは年よりはじめてきて鳳翔は初めての土地で、仮住まいで旅客人でのひとりぼっち、朝廷内でも孤独感をもっている、時世のことを考えると王朝軍は劣勢で気にやむばかりで家族たちとはめったにあえずにいる。』


(訳注)#1
去憑遊客寄,來為附家書。

わたしは鄜州の方へ商用でで出かける旅人があったから、その方にたのんで家族への手紙を送り届けさせたのだが、その同じ人がまた家族からの手紙をわたしへとどけてくれるために鳳翔へ来てくれた。
 此の「去」の字は人にかけて見るべきか書にかけて見るべきかは不明であるが、下旬の「来」が人にかかっている以上それに対するならば人にかけてみるべきである。しかし「寄去」の二字を分用したものとし、書にかけてみるのも亦た義を為す。予は後の解を取る。即ち去とは書を寄せさったことをいう。○憑遊客 鄜州の方へ往遊する客をたのんで。・ 人に頼みごとをする。よりどころ。憑衣:たより。○ 書を家族によせたこと。○来 さきに書を依頼してやった同じ遊客が鳳翔へもどって来たことをいう。○附家書 附とはこちらへ附与し、わたすこと。家書は鄜州の家族からの返事のてがみ。


今日知消息,他鄉且舊居;
その手紙に由って今日は家族の消息を知ることができた。その消息によると、家族は他郷とはいえやっぱりもとの住居にそのまま居るそうだ。
消息 たより、様子。○他郷 此の句以下三句は書中の言葉と杜甫自身の思いを一緒にのべている。他郷とは鄜州をさす。○且旧居 且はまあやっぱりという意味。旧居とは羌村の以前の住居をいう、他処へ移転、略奪にも会っていないことを言う。。


熊兒幸無恙,驥子最憐渠。
またそれによると、長男の熊児は幸にも無事であり、次男の驥子、わたしはまだ小さい彼を最もかわいそうにおもうのだ。
熊児 長子宗文の幼名。○無恙 恙は毒虫の名、恙無しとは無事であること。○驥子 次子宗武の幼名。○ 俗語、駿子をさす。憶幼子 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 156「驥子春猶隔,鶯歌暖正繁。」(驥子 春 猶隔たる、鶯 歌 暖くして正に繁し。)と可愛くて仕方なかったようだ。


臨老羈孤極,傷時會合疏。』
わたしは年よりはじめてきて鳳翔は初めての土地で、仮住まいで旅客人でのひとりぼっち、朝廷内でも孤独感をもっている、時世のことを考えると王朝軍は劣勢で気にやむばかりで家族たちとはめったにあえずにいる。』
臨老 年よりはじめてきて。○羈孤極 鳳翔は初めての土地で、仮住まいで旅客人でのひとりぼっち、朝廷内でも孤独感をもっている。○傷時 時世のことを考えると王朝軍は劣勢で気にやむばかり。○会合疎 家族たちとの会合がめったにできない。

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喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 159

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 159
雨つづきのあとに晴れとなったことを喜んだ詩である。
製作時は至徳二載三月癸亥(756.3/7)より大雨があり、甲戌の日(756.3/11)に至って止んだ後の作である。
長詩のため3分割して掲載その3回目

(1)喜晴  157 (2)喜晴  158 (3)喜晴  159

喜晴
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
其人骨已朽,此道誰疵瑕?
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
顧慚味所適,回手白日斜。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3

なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。


皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり。
郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す。
青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花。
春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや。』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も。
甘沢猶愈らずや 且耕今未だ賒ならず。
丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り。
力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得。』

千載商山の芝 往者東門の瓜。
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん。
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る。
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり。
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り。
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん。』


喜晴 現代語訳と訳註
(本文) #3
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』


(下し文)
千載商山の芝 往者東門の瓜
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん』

(現代語訳)
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。


(訳注)
千載商山芝,往者東門瓜。
千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
千載 遠い昔をいう。○商山芝 商山は長安の東商商州にある山の名、漢の高祖の時四人の老人があり秦の乱をさけでその山に隠れ芝を採ってくらした。中国秦代末期、乱世を避けて陝西(せんせい)省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・里(ろくり)先生の四人の隠士。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったのでいう。○往者 さきには、これも昔時をさす。○東門瓜 漢の初め、卲平というものが長安の城の東門外で五色の瓜を作って売っていた、彼はもと秦の東陵侯であったという。
李白『古風其九』「青門種瓜人。 舊日東陵侯。」 ・種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。
東陵の瓜 召平は、広陵の人である。世襲の秦の東陵侯であった。秦末期、陳渉呉広に呼応して東陵の街を斬り従えようとしたが失敗した。後すぐに陳渉が敗死し、秦軍の脅威に脅かされた。長江の対岸の項梁勢力に目をつけ、陳渉の使者に成り済まし項梁を楚の上柱国に任命すると偽り、項梁を秦討伐に引きずり出した。後しばらくしてあっさり引退し平民となり、瓜を作って悠々と暮らしていた。貧困ではあったが苦にする様子も無く、実った瓜を近所の農夫に分けたりしていた。その瓜は特別旨かったので人々は『東陵瓜』と呼んだ。召平は、かつて秦政府から東陵侯の爵位を貰っていたからである。後、彼は漢丞相の蕭何の相談役となり、適切な助言・計略を蕭何に与えた。蕭何は、何度も彼のあばら家を訪ねたという。蕭何が蒲団の上で死ねたのも彼のおかげである。

其人骨已朽,此道誰疵瑕?
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
○其人 商山の四人の老人(四時)と卲平とをさす。○此道 隠遁の道。○疵瑕 きず、欠点。

英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
英賢 秀でた賢さを持った人。○轗軻 車の平かでないさまから、人の不遇のさま境遇をいう。ここでは叛乱軍との不利な戦況をいう。○遠引 遠く退引すること。戦況が悪いので戦力を整えるということ。○蟠泥沙 これは竜の動かぬさま、泥や沙のなかにわだかまっている。 この句は戦力を整える、一喜一憂の作戦をとることを批判し、「角を矯めて牛を殺す」様な作戦上の誤りを言う。 

顧慚味所適,回手白日斜。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
昧所適 自分の往くべき所をはっきり知らぬ、世の中へ出でてあらわれもせず、山中に入って隠遁もできないことをいう。○白日斜 人生の晩碁に近づいたことをいう。

漢陰有鹿門,滄海有靈查。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
漢陰 漢水の南。○鹿門山の名、湖北省襄陽府にある。後漢の龐徳公が妻子を携えて隠れた処。鹿門山は旧名を蘇嶺山という。建武年間(二五~五六)、襄陽侯の習郁が山中に祠を建立し、神の出入り口を挟んで鹿の石像を二つ彫った。それを俗に「鹿門廟」と呼び、廟のあることから山の名が付けられたのである。○滄海 ひろうみ。仙界につつく遙かな海。蓬莱山などの東海の三山にまでの海を示す。○霊查 ふしぎないかだ。查は槎と同じ、張華の「博物志」に天の河と海とは通じており、或る人が不思議な槎にのってついに天の河にいたったことを載せる。 
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
儒教思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。

焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。
學眾口 凡衆の口まねをする。○咄咄  中国、晉の殷浩が左遷されて、家に居り空中にその怨みを言葉には出さないで、ただ「咄咄怪事」という四字を空に書いたという「晉書‐殷浩伝」に見える故事による)驚くほどあやしいできごと。意外なことに驚いて発する声。舌打ちする音。おやおや。 ○咨嗟 ため息をつく。高貴な人のすばらしさを敬慕しつつ、ため息をついてうらやむ意味。
杜甫「対雪」愁坐正書空。
戦哭多新鬼、愁吟独老翁。
乱雲低薄暮、急雪舞廻風。
瓢棄樽無淥、炉存火似紅。
数州消息断、愁坐正書空。

 

喜晴
皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。
青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1
干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未賒。
丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2
千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?
英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。
漢陰有鹿門,滄海有靈查。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3

雨,佳。華。花。涯。/蛇。賒。家。麻。/瓜。瑕。沙。斜。查。嗟。

皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり
郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す
青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花
春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も
甘沢猶愈らずや 且耕今未だ賒ならず
丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り
力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』

千載商山の芝 往者東門の瓜
其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん
英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る
顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり
漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り
焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく咨嗟せん』

(現代語訳)
好天がつづいて久しく雨ふらなかった。降りだして長雨になると晴れたのがよかったと思うものである。
晴れたので長安城郭からでかけて四方の野外をながめたのだ、もう、整斉と春の景色すっかりととのっていて春めく華やかさを増してきているのだ。
丘陵や土陂、堤の上に生えている麦は青々としてかがやいている、桃や李の花が色うつくしく咲いている。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。
このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。
男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。
女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』

千年昔の漢の高祖の時四人の老人が商山で芝を採った、またそのむかし、東門で「東陵の瓜」と 召平は五色の瓜つくりをした。
彼等はその骨はすでに朽ちてしまった、彼等の取った隠遁の道はだれがそれを欠点がありとすることができようか?
秀でた賢さを持った人々は戦況不利で戦いに倣い状況なら、いったんは遠く自己の身を退け引いて竜のように泥沙の間にいて、戦力を整え、蓄えるものだ。
自分自身のことでいうならば、自己の往くべき方向に明かでなかったことをはじる。今気がついたが首を回らしてみればもはや太陽は西の方へ傾きつつある。それは自分は晩年に近づきつつある、しかしまだ遅くはないはずだ。
漢水の南には鹿門山があり、蒼海の上には不思議な槎がある。(自己の決意によってはその山にかくれることも、その海の槎に浮んで去ることもできる。)
なんで多くの凡衆(ひと)の口まねをして咄々などということでいたずらにため息ついてはおれない。

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
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喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 158

喜晴 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 158

雨つづきのあとに晴れとなったことを喜んだ詩である。

製作時は至徳二載三月癸亥(756.3/7)より大雨があり、甲戌の日(756.3/11)に至って止んだ後の作である。

長詩のため3分割して掲載その2回目

(1)喜晴  157 (2)喜晴  158 (3)喜晴  159


喜晴

皇天久不雨,既雨晴亦佳。出郭眺四郊,蕭蕭增春華。

青熒陵陂麥,窈窕桃李花。春夏各有實,我饑豈無涯。』#1

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

甘澤不猶愈,且耕今未

このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。

丈夫則帶甲,婦女終在家。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

力難及黍稷,得種菜與麻。』#2

女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』


千載商山芝,往者東門瓜。其人骨已朽,此道誰疵瑕?

英賢遇轗軻,遠引蟠泥沙。顧慚味所適,回手白日斜。

漢陰有鹿門,滄海有靈。焉能學眾口,咄咄空咨嗟!』#3


皇天久しく雨ふらず 既に雨ふれは晴も亦佳なり

郭を出でて四郊を眺す,蕭蕭として春華を增す

青熒たり陵陂の麥 窈窕たり桃李の花

春夏各々実有り 我が饑 豈に無涯ならんや』

干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も

甘沢猶愈らずや 且耕今未だならず

丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り

力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』

千載商山の芝 往者東門の瓜

其の人骨己に朽つ 此の道誰か疵瑕とせん

英賢轗軻に遇えば 遠く引いて泥沙に蟠る

顧みて慚ず適く所に昧きを 首を回らせば白日斜なり

漢陰に鹿門有り 滄海に霊査有り

焉ぞ能く衆口を学んで 咄咄空しく嗟せん』



喜晴  現代語訳と訳註
(本文)

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。甘澤不猶愈,且耕今未

丈夫則帶甲,婦女終在家。力難及黍稷,得種菜與麻。』#2


(
下し文)
干戈横放して 惨澹として竜蛇闘うと雖も

甘沢猶愈らずや 且耕今未だならず

丈夫は則ち甲を帯ぶるも 婦女は終に家に在り

力黍稷に及び難きも 菜と麻とを種うるを得』


(
現代語訳)
今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』




(訳注)

干戈雖橫放,慘澹鬥龍蛇。

今は戦乱で千の盾、戈(ほこ)が縦横に走っている、凄惨残虐な叛乱軍とすごくたたかっているのだ。

千曳たて、ほこ。○横放かってほうだいにはびこる、安禄山の乱をさす。○惨澹 ものすごく。○闘竜蛇 竜(天子)と蛇(禄山)とが相いたたかう。



甘澤不猶愈,且耕今未
このたびの甘露の恵みの雨は先の日照りよりかよほどましではないか、今から、土地を鋤いたり、耕したりとりかかりさえすれば決しておそまきではないのだ。
甘沢 甘露の恵みの雨、種の植え時の前の大雨の好都合なしめりをいう。○不猶愈 この雨は耕作をする前の雨であるから日照りに比較していう。雨の方がまだ日照りよりまさっている。○且耕 且は鉏、鉏は田地をすくこと、耕はたがやすこと。○今乗除絵は遠いこと。適当時期にまだ近い、おそすぎぬということ。


丈夫則帶甲,婦女終在家。

男どもはよろいをきて戦争に出ていくものだ、婦女子は結局、家で留守をしていることになるのだ。

丈夫 男子、夫をさす。○帯甲よろいを身につける、戦場へでていること。○婦女妻をいう。



力難及黍稷,得種菜與麻。』
女のカはきび、あわの世話することまで手がとどかないのだ、そうはいっても、野菜や麻は種えることはできるのだ。』
黍稷 きび、あわ。


春望  杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 155

春望  杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 155
 至徳二載 757年 46歳

長安の春にあい、ながめつつ感じをのべる。製作時は至徳二載の三月。ここに至るまでを杜甫の詩を振り返ってみる。

755年 秋に長雨があった。米の値が高騰した。

秋雨嘆三首 其一 杜甫 86

755年 冬11月に家族に会いに奉先に行った。子どもが。餓死していた。

自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 106 

755年 11月家族を白水へ避難させる逃避行。

三川觀水漲二十韻 杜甫 130 

755年 12月家族を羌村へ避難させる逃避行。王砅に助けられる。

彭衙行 杜甫 132 

756年 8月家族を羌村に残して、霊州の粛宗皇帝のもとへ参じる途中叛乱軍に掴まる。長安に護送される。9月長安で逃亡中の王家の孫に会う。

哀王孫 杜甫140

75610月妻、家族を思って作る不朽の名作。杜甫につぃては珍しい、閨情詩。

月夜 杜甫 - 144

この頃の季節区分  春:1.2.3月 夏:4.5.6月  秋:7.8.9月  冬:10.11.12

75611,12月妻、家族を思って作る。王朝軍大敗に落胆する。

遣興 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 151

悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152

悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153

対雪 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 154


中國の中心であった、東都洛陽、世界最大の国際都市であった長安、幽州(現在の北京)から反旗を立て、2年で主要な都市をほとんど陥落させ、略奪の限りを尽くし、大量の殺戮を行った叛乱軍は、唐王朝に嫌気を向けていた民衆の支持をすぐに失うのである。そして、内部分裂を起こすため、唐王朝に、奪回のチャンスが生まれてきていた。


 春望     
國破山河在,城春草木深。
天下の唐王朝の都が破壊されたが、とりまく山河自然は存在を示している。破壊された長安の街に春の息吹がよみがえる、草木が茂って来たではないか。 
感時花濺涙,恨別鳥驚心。
自然というものは時節の変転、春の息吹を感じ、させて花を開いているのだが、叛乱軍に破壊尽くされた唐王朝に春はこないので花を見ても涙を流すだけなのだ。自分にとっても、家族との別離をうらめしく思い、鳥が自由に飛び交い、一族群れを為している姿を見るにつけても、心を痛めているのだ。
烽火連三月,家書抵萬金。
長安郊外での戦火は三ヶ月も続いたが、期待を裏切り、無駄なものであった。こんなとき、もし家族からの手紙があったとしたら、それは万金にあたいするもので極めて貴重なのである。
白頭掻更短,渾欲不勝簪。
白髪頭を掻けば、苦労で老けた髪は一層短く、少なくなった。 こんなに髪が少なくなってほとんど、まげを止めるカンザシを挿すにもたえないような状態になってしまった。



春望       

國 破れて  山河 在り,城 春にして  草木 深し。

時に 感じては  花にも 涙を 濺(そそ)ぎ,別れを恨んでは  鳥にも 心を驚かす。

烽火  三月(さんげつ)に 連なり,家書  萬金に 抵(あ)たる。

白頭  掻けば 更に 短く,渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す。



(757) 全く期待を裏切る戦いで 、落胆していた。(三月三首さんげつさんしゅ悲陳陶 - 152   悲青坂 - 153    対雪 - 154明けて至徳二年(757)の春も、杜甫は城内にあって囚われのままである。
 五言律詩「春望」(しゅんぼう)は杜甫の名作である。
詩中の「簪」は冠(かんむり)をとめるピンのことで、冠は成人男子であることを示す被り物である。「渾て簪に勝えざらんと欲す」は心配で髪が薄くなり、冠も留めて置けなくなったと解される。
わざわざこの詩結句でいう、裏の気持ちとしては、自分が仕官をするため10年余りも長安で過ごした。その間、威張り腐っていた役人が、安禄山らの叛乱軍に圧倒的な戦力があったにもかかわらず簡単に(半年で東都と、長安が)敗れ、さらに、その後、なめきって油断してきている状況下でも、陳陶 、 青坂  で敗れ去っている。中国人の表現方法の特徴で自分の白髪頭をいうのは「自分の髪が少なくて恥ずかしいよ」であり、「おまえはどうなんだ、恥ずかしくないのか」といっているのである。「「月夜」の背景  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 143 では、相手を思いやる表現法につぃて述べた。ここは相手を批判する表現法の一つである。もう一つの意味合いは、この後、多くの詩に出てくる「白髪頭」であるが、杜甫は、これから、元気出して頑張るぞという時にもちるのである。
この「春望」詩は、そういったことを前提に読んでほしい。


現代語訳と訳註
(本文)

國破山河在,城春草木深。
感時花濺涙,恨別鳥驚心。
烽火連三月,家書抵萬金。
白頭掻更短,渾欲不勝簪。

(下し文)
國 破れて  山河 在り,城 春にして  草木 深し。
時に 感じては  花にも 涙を 濺(そそ)ぎ,別れを 恨んでは  鳥にも 心を驚かす。
烽火  三月(さんげつ)に 連なり,家書  萬金に 抵(あ)たる。
白頭  掻けば 更に 短く,渾(すべ)て簪(しん)に勝(た)へざらんと欲す。

(現代語訳)
春の眺め
天下の唐王朝の都が破壊されたが、とりまく山河自然は存在を示している。破壊された長安の街に春の息吹がよみがえる、草木が茂って来たではないか。 
自然というものは時節の変転、春の息吹を感じ、させて花を開いているのだが、叛乱軍に破壊尽くされた唐王朝に春はこないので花を見ても涙を流すだけなのだ。自分にとっても、家族との別離をうらめしく思い、鳥が自由に飛び交い、一族群れを為している姿を見るにつけても、心を痛めているのだ。
長安郊外での戦火は三ヶ月も続いたが、期待を裏切り、無駄なものであった。こんなとき、もし家族からの手紙があったとしたら、それは万金にあたいするもので極めて貴重なのである。
白髪頭を掻けば、苦労で老けた髪は一層短く、少なくなった。 こんなに髪が少なくなってほとんど、まげを止めるカンザシを挿すにもたえないような状態になってしまった。


(訳注)

春望
春の眺め。杜甫は『野望』と野の眺めの歌も作っている。ここは、『野望』ならぬ「堂屋が消失し、雑草の茂る首都、春の長安の都の光景」を詠う。
五言律詩「野望」 秦州での作。759年乾元2年 48歳
清秋望不極,迢遞起層陰。
遠水兼天淨,孤城隱霧深。
葉稀風更落,山迥日初沈。
獨鶴歸何晚?昏鴉已滿林。
すみきった秋の遠望ははてしがないが、高低の地勢には幾重かの夕曇りが起こり始めた。それで遠方の水面とともに天もすっきりしているが、この一つ城はだんだん隠れて霧が深く立ち込めた。それからたださえ稀になった木の葉が風のために一層振るわれて落ち、遥かなる山のかなたには太陽がやっと沈んでしまった。このとき日暮れの烏は、もはや林に一杯留まったのに、どうして一匹の鶴だけは、こんなに遅く帰るのであろうか。鶴は自己を比していうのであろう。)

秦州抒情詩(20) 野望 杜甫 <305> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1382 杜甫詩 700- 425

國破山河在、城春草木深。
天下の唐王朝の都が破壊されたが、とりまく山河自然は存在を示している。破壊された長安の街に春の息吹がよみがえる、草木が茂って来たではないか。 
國破 下の句に城とあり、城は長安を示す。対句なのでこの国を長安と解すものも多いが、国は、唐王朝を示すとしたほうが杜甫の意図を組んでわかりやすい。 
こわれる。やぶれる。安禄山に因る756年6月至徳元年の潼関を破られ、12日玄宗は蜀へ逃行し譲位、霊武に逃避した粛宗が討伐を始める。 ・山河在:国都長安は破壊されてしまったが、自然の)山河(残って存在し。 
存在している。そこにある。ここでは、ただそれだけが残ってそこにあるの意。
荊叔(生歿未詳)の『唐詩選』「題慈恩塔」には(慈恩塔と御陵を詠うので740年ごろの作品で、杜甫に先行するものではなかろうか)
漢國山河在,秦陵草樹深。
この詩でいう「漢國」とは、国都長安のことになる。
城春 都長安が破壊されたが街は春になった。 
城郭都市であったので現代語ではまち、都市。城市。ここでは、長安の街。
草木深 (街中の光景なのに)草木が生い茂って、荒れ果ててしまった。

暮雲千里色,無處不傷心。
国都長安は、山は緑が豊かで、河は青々と流れている。秦・始皇の陵には、草木が生い茂っている。夕暮れ時の美しい空の色は遥か彼方まで続いている。長安の自然の景色は、昔と少しも変わらず心をいためないところはない。)


時花濺涙、恨別鳥驚心。
自然というものは時節の変転、春の息吹を感じ、させて花を開いているのだが、叛乱軍に破壊尽くされた唐王朝に春はこないので花を見ても涙を流すだけなのだ。自分にとっても、家族との別離をうらめしく思い、鳥が自由に飛び交い、一族群れを為している姿を見るにつけても、心を痛めているのだ。
感時 時世時節の変異に感じる。それは自然の息吹、国家の運命、家族への思い、に感じるところがある。 
花濺涙 こんな事節でありながら、大自然は春を与えてくださる。大殺戮の冬、暗雲立ち込めていることしか思わなかったこの時期、花を咲かせて、前向きに生きることを自然が教えてくれる、その象徴としての花である。しかし現実は、涙することばかりなのだ。このギャップを、見事にこの五文字に詠いあげ、杜甫はこれだけの意味、味わい深さを詠っているのである。 
恨別 家族との別離をうらめしく思う。戦乱のため、杜甫の家族は羌村に居て、自身は長安にいるという別居生活になっていることをいう。 
鳥驚心 杜甫が、花や鳥を見るにつけ、心を痛めると言う意である。


烽火連三月、家書抵萬金。
長安郊外での戦火は三ヶ月も続いたが、期待を裏切り、無駄なものであった。こんなとき、もし家族からの手紙があったとしたら、それは万金にあたいするもので極めて貴重なのである。
烽火 のろし火。兵乱、戦争。ここでは、ここは、後者の戦火の意。 
続く。つながる。或いは、亘る。 
三月 〔さんげつ〕三箇月。戦火が九十日も続いたため、家書が「抵萬金」という値打ちに感じられるということ。至徳元年(756年)末、悲陳陶 - 152   悲青坂 - 153    対雪 - 154(この三月を採って三月三首と名付ける)などの至徳二年初までの戦乱を指す。
家書 家族からの手紙。 ・抵:あたる。 
萬金 大金。かけがえが無く貴重であることをいう。


白頭掻更短、渾欲不勝簪。
白髪頭を掻けば、苦労で老けた髪は一層短く、少なくなった。 こんなに髪が少なくなってほとんど、まげを止めるカンザシを挿すにもたえないような状態になってしまった。
白頭 白髪頭。 
(痒くて)かく。かきむしる。戦乱のために一家離散し、今後の方策も立たなくて悩むようす。 
更短 一層短くなった。一層短く、少なくなった。苦労で老けたことをいう。耳よりも下まで、髪の毛が垂れていたのだ。 
すっかり、まるで、ほとんど。すべて、まったく。  
不勝 〔ふしょう〕…に堪えない。…できない。 
カンザシを挿すこと。男子の頭髪を束ねるためのもの。冠を止める簪。


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月夜 と家族を詠う詩について 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 150



月夜」と家族の考え方の考察(研究)
 1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維
 3. 除夜作  高適
 4.八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
 5. 夜雨寄北 李商隠
 6.李白の詩
 7.杜甫の彭衙行(ほうがこう)自京赴奉先縣詠懷五百字遺興
 8. 「月夜」子供に対する「北征」の詩に、淋前の南中女





月夜 と家族を詠う詩について 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 150

この時期杜甫の詩に家族がよく出るの出る。月夜をはじめとして多くの詩をだした。


月夜
今夜鄜州月、閨中只独看。今夜  鄜州(ふしゅう)の月、
           閨中(けいちゅう)  只だ独り看(み)るらん。
遥憐小児女、未解憶長安遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、
           未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、
           清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り、
           双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん。


2.「閨中 只だ独り看るらん。」「閏」妻、婦人の部屋を指す。
また「只獨」の「只」は、ひとえに、いちずにの意であって、月を「獨看る」という事態は、長安にいる杜甫にはわからない。まして、子供がそばにくっついているのである。妻の見るところではない。見ていてほしいとのあこがれを詠っているということなのだ。

3.続いて第二聯はこどもについていう。
遥憐小児女、未解憶長安。
遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。

この二句は、二句で一意を完成する。月を見て遠き人を憶うのは、もとより大人のことであり、おさない稚女のできることではない。妻とともに、閨にいる子供たちは、まだ「長安を憶う」心はもたないということなのである。

この時、杜甫には、「兒」すなわち男の子は、二人あった。長男を熊児といい、次男を驥子という。そのことは、翌年家族の消息がわかってからの作、
「得家書」(家書を得たり)に、
得家書
去憑遊客寄,來為附家書。今日知消息,他鄉且舊居;
熊兒幸無恙,驥子最憐渠。臨老羈孤極,傷時會合疏。』#1
二毛趨帳殿,一命待鸞輿。北闕妖氛滿,西郊白露初。
涼風新過雁,秋雨欲生魚。農事空山裡,眷言終荷鋤。』#2
今日は家族の消息を知ることができた。その消息によると、家族は他郷とはいえやっぱりもとの住居にそのまま居るそうだ。長男の熊児は幸にも無事であり、次男の驥子、は最も渠を憐おしむ
というのによって知られる。ことに末っ子の驥子についてはこの「月夜」の詩につづく「遣興」の詩にはいう、
ふと興にふれて作った詩。やはり長安にあって驥子をおもって作ったものである。製作時、至徳二載。757年46歳

遣興
驥子好男兒,前年學語時:問知人客姓,誦得老夫詩。
世亂憐渠小,家貧仰母慈。鹿門攜不遂,雁足系難期。
天地軍麾滿,山河戰角悲。儻歸免相失,見日敢辭遲。


遣興
驥子は好男兒なり,前年、語を學びし時:
問知す 人客の姓、誦し得たり 老夫の詩
世乱れて 渠が小なるを憐む 家 貧にして母の慈を仰ぐ
鹿門 携うること遂げず 雁足 繋くること期し難し
天地 軍麾 満つ 山河 戰角 悲しむ
儻くは 帰りて相失うことを免れれば 見る日敢て遅きを辞せんや
遣興 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 151


また明年の春、やはり城中の作「憶幼子」で、
憶幼子 (幼子を憶う)
長安にあって鄜州の羌村に在る幼子を憶って作る。この幼子は作者の第二子宗武であり、宗武の幼名を驥子という。製作時は757年、至徳二載の春。

憶幼子
驥子春猶隔,鶯歌暖正繁。
別離驚節換,聰慧與誰論。
澗水空山道,柴門老樹村。
憶渠愁只睡,炙背俯晴軒。

驥子 春 猶隔たる、鶯 歌 暖くして正に繁し。
別離 節の換るに驚く、聡慧 誰とか論ぜん。
澗水 空山の道、柴門 老樹の村。
渠を憶うて愁えて只だ睡る、背を炙りて 晴軒に俯す。

うち「澗水空山道」というのは、逃避中の困難を追憶したもの
憶幼子 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 156


鳳翔において粛宗皇帝に謁見し、左拾遺の官を拝命して以後、鄜州の家族の安否を問い、消息がなお来なかったときのおもいをのべた作。製作時は至徳二載の夏。757年 46歳
鄜州方面へゆく人に書信を託して家族の安否を調べたが、三川県羌村からの返事はなかなか返ってこず、聞こえてくるのは鄜州方面は兵禍に遭って、鶏や子犬までが殺されてしまったという悲惨な噂だけ。杜甫の心配はつのり、家族は死に絶えてしまったのではないかと思う。
 書信を出してから三か月後の七月には鄜州の妻から返事が届き、家族全員が無事であるとわかる。
「述懷」は安禄山の叛乱軍に拘束され、そこから鳳翔の行在所に逃げ帰ったことなど、杜甫の周りの出来事、心境を述べたものである。

述懷
去年潼關破,妻子隔絕久。今夏草木長,脫身得西走。
麻鞋見天子,衣袖露兩肘。朝廷敏生還,親故傷老醜。
涕淚授拾遺,流離主恩厚。柴門雖得去,未忍即開口。』#1
寄書問三川,不知家在否?比聞同罹禍,殺戮到雞狗。
山中漏茅屋,誰複依戶牖。摧頹蒼松根,地冷骨未朽。
幾人全性命?盡室豈相偶?嶔岑猛虎場,鬱結回我首。』#2
自寄一封書,今已十月後。反畏消息來,寸心亦何有?
漢連初中興,生平老耽酒。沈思歡會處,恐作窮獨叟。』#3
#1
去年  潼関(どうかん)破れ、妻子  隔絶(かくぜつ)すること久し。
今夏(こんか)  草木(くさき)長じ、身を脱して西に走るを得たり。
麻鞋(まあい)  天子に見(まみ)え、衣袖(いしゅう)  両肘(りょうちゅう)を露(あらわ)す。
朝廷  生還(せいかん)を愍(あわれ)み、親故(しんこ)   老醜(ろうしゅう)を傷(いた)む。
涕涙(ているい) 拾遺(じゅうい)を授けらる、流離(りゅうり)  主恩(しゅおん)厚し。
柴門(さいもん)  去(ゆ)くを得(う)と雖(いえど)も、未だ即ち口を開くに忍(しの)びず。
#2
書を寄せて三川(さんせん)に問うも家の在るや否(いな)やを知らず
此(このご)ろ聞く 同じく禍(わざわい)に罹(かか)りて殺戮 鶏狗(けいく)に到ると
山中の漏茅屋(ろうぼうおく)誰(たれ)か復(ま)た戸牖(こゆう)に依(よ)らん
蒼松(そうしょう)の根に摧頽(さいたい)すとも地(ち)冷やかにして 骨未だ朽ちざらん
幾人か性命(せいめい)を全うする室(しつ)を尽くして 豈(あに)相偶(あいぐう)せんや
嶔岑(きんしん)たる猛虎の場(じょう)鬱結(うつけつ)して我が首(こうべ)を廻(めぐ)らす
#3
一封の書を寄せし自(よ)り、今は已(すで)に十月の後(のち)なり。
反(かえ)って畏(おそ)る  消息の来たらんことを、寸心(すんしん)  亦(ま)た何か有らん。
漢運(かんうん)  初めて中興し、生平(せいへい)  老いて酒に耽(ふけ)る。
歓会(かんかい)の処(ところ)を沈思(ちんし)し、窮独(きゅうどく)の叟(そう)と作(な)らんことを恐る。


「彭衙行」
至徳二載秋)鄜州の家を見舞うにあたって白水の西を過ぎてしかも孫を訪ることができなかったので往事を追懐して此の篇を作った。幼児らを連れて夜の山道を徒歩でゆく逃避行は困難を極めた。

#1
憶昔避賊初,北走經險艱。夜深彭衙道,月照白水山。』
盡室久徒步,逢人多厚顏。參差穀鳥吟,不見遊子還。
癡女饑咬我,啼畏虎狼聞。懷中掩其口,反側聲愈嗔。
小兒強解事,故索苦李餐。』
#2
一旬半雷雨,泥濘相牽攀。既無禦雨備,徑滑衣又寒。
有時經契闊,竟日數裡間。野果充 ?糧,卑枝成屋椽。
早行石上水,暮宿天邊煙。』
#3
少留同家窪,欲出蘆子關。故人有孫宰,高義薄曾雲。
延客已曛黑,張燈啟重門。暖湯濯我足,剪紙招我魂。』
#4
從此出妻孥,相視涕闌幹。眾雛爛熳睡,喚起沾盤飧。
誓將與夫子,永結為弟昆。遂空所坐堂,安居奉我歡。
誰肯艱難際,豁達露心肝。』
別來歲月周,胡羯仍構患。何時有翅翎,飛去墮爾前?』

#1
憶(おも)う  昔  賊を避けし初め、北に走って険難(けんなん)を経(へ)たり。
夜は深し  彭衙(ほうが)の道、月は照る  白水(はくすい)の山。
室(しつ)を尽くして久しく徒歩す、人に逢えば厚顔(こうがん)多し。
参差(しんし)として谷鳥(こくちょう)鳴き、遊子(ゆうし)還(かえ)るを見ず。
痴女(ちじょ)は飢(う)えて我れを咬(か)み、啼(な)いて畏(おそ)る  虎狼(ころう)の聞ゆるを。
中(うち)に懐(いだ)いて其の口を掩(おお)えば、反側(はんそく)して声愈々(いよいよ)嗔(いか)る。
小児(しょうに)は強(し)いて事を解し、故(ことさ)らに苦李(くり)を索(もと)めて餐(くら)う。』
#2
一旬(いちじゅん)  半(なか)ばは雷雨、泥濘(でいねい)   相(あい)攀牽(はんけん)す。
既に雨を禦(ふせ)ぐ備え無く、径(みち)滑かにして衣(い)又寒し。
時(とき)有りて契闊(けつかつ)たるを経(ふ)、竟日(きょうじつ)  数里の間(かん)。
野果(やか)を餱糧(こうりょう)に充(あ)て、卑枝(ひし)を屋椽(おくてん)と成(な)す。
早(あした)には行く  石上(せきじょう)の水、暮(くれ)には宿る   天辺(てんぺん)の煙。』
#3
少(しば)らく同家窪(どうかあ)に留(とど)まり、蘆子関(ろしかん)に出でんと欲す。
故人(こじん)  孫宰(そんさい)有り、高義(こうぎ)  曾雲(そううん)に薄(せま)る。
客を延(ひ)くとき己に曛黒(くんこく)なり 燈を張りて重門(ちょうもん)を啓(ひら)く。
湯を暖めて我が足を濯(あら)わしめ 紙を剪(き)って我が魂を招(まね)く』
#4
此(これ)従(より)妻孥(さいど)を出す 相視て涕(なみだ)闌幹(らんかん)たり。
衆雛(しゅうすう) 爛漫(らんまん)として睡(ねむ)る、喚び 起して 盤飧(ばんそん)に 沾(うるお)わしむ。
誓って将に夫子(ふうし)と、永く結び て 弟昆(ていこん)と為らんと す と。
遂に坐する所の堂を空(むな)しくして、居を安(あんじ)て 我が歓(よろこび)を奉ず。
誰か 肯(あえ)て 艱難(かんなん)の際、豁達(かつたつ) 心肝(しんかん)を露(あら)わさん。』
別来(べつらい) 歳月周(めぐ)る 胡羯(こけつ)  仍(なお) 患(うれい)を構(かも)う
何時(いつ)か 翅翎(しれい)有って 飛び去って爾(なんじ)が前に堕(おつ)べき。』
かつて、白水県から三州県へ出たときに、大いにお父さんを手古摺らせた「小さき児」も、おそらくはこの次男であったのだろう。
彭衙行 杜甫 132 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132 -#1
彭衙行 #2 杜甫 133 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132#2
彭衙行 #3 杜甫 134 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132#3
彭衙行 #4 杜甫 130 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 135


5.「北征」の詩に、
床前の兩小女
というのによれば、まだそのほかに、もう一人いた。なお熊児といい、次男を驥子というのは、おさな名であって、熊見はのちに宗文と名乗り、驥子は宗武と名乗る。

 

#6
況我墮胡塵,及歸盡華發。經年至茅屋,妻子衣百結。
慟哭松聲回,悲泉共幽咽。平生所嬌兒,顏色白勝雪。
見耶背面啼,垢膩腳不襪。
床前兩小女補綴才過膝。
#7
海圖拆波濤,舊繡移曲折。天吳及紫鳳,顛倒在短褐。
老夫情懷惡,數日臥嘔泄。那無囊中帛,救汝寒凜栗?
粉黛亦解苞,衾裯稍羅列。瘦妻面複光,癡女頭自櫛
#8
學母無不為,曉妝隨手抹。移時施朱鉛,狼籍畫眉闊。
生還對童稚,似欲忘饑渴。問事競挽須,誰能即嗔喝?
翻思在賊愁,甘受雜亂聒。新婦且慰意,生理焉得說?』

床前の両小女
というのによれば、まだそのほかに、もう一人いた。なお熊児といい、次男を驥子というのは、おさな名であって、熊見はのちに宗文と名乗り、驥子は宗武と名乗る。
ところでかく「末だ長安を憶うことを解せざる」ものたちを思いやったのは、子供たちばかりを思いやったのでは、もとよりない。最も思いやるのは、閨中に濁り月を見て、大いに「長安を憶うことを解する」妻楊氏である。「長安を憶うを解する」妻にとって、「禾まだ長安を憶うを解せざる」ものたち、はね廻り、とび廻り、遊びつかれては寝てしまうものたちは、時にはうとましく感ぜられることもあったことだろう。「遥かに憐れむ小児女の」という気持ちであらわしている。


6.何れにしても、はじめの聯で思いやられた「閨中に只えに月を看る」人はしばらく第二聯では、言葉の蔭にかくれる。しかし、やがて、満身の月光を浴びつつ恍惚として、浮かびあがる。それが第三の聯である。

羌村三首其一
崢嶸赤雲西、日脚下平地。
柴門鳥雀噪、帰客千里至。』
妻孥怪我在、驚定還拭涙。
世乱遭飄蕩、生還偶然遂。
隣人満牆頭、感歎亦歔欷。
夜闌更秉燭、相対如夢寐。』

羌村 三首  其の一
崢嶸(そうこう)たる赤雲(せきうん)の西、日脚(にっきゃく) 平地に下る。
柴門(さいもん)  鳥雀(ちょうじゃく)噪(さわ)ぎ、帰客(きかく)    千里より至る。
妻孥(さいど)は我(われ)の在るを怪しみ、驚き定まって還(ま)た涙を拭う。
世乱れて飄蕩(ひょうとう)に遭(あ)い、生還  偶然に遂げたり。
隣人  牆頭(しょうとう)に満ち、感歎して亦(ま)た歔欷(きょき)す。
夜(よる)闌(たけなわ)にして更に燭(しょく)を秉(と)り、相対(あいたい)すれば夢寐(むび)の如し。

我が家の粗末な柴の戸では帰りを知らせる鳥や雀ともいえる子供らがうるさく騒いでいる、そこへ突然旅姿の私が千里の遠くからかえりついたのである。』
妻と子らはわたしがここに存在していたことを不思議に思ったようで、はじめはびっくりしていたが、驚いていたのがおちつくとこんどは泣きじゃくり、あふれる涙を拭うのである。


また、その妻については次のような表現もある。
自京赴奉先縣詠懷五百字 #9  
老妻寄異県、十口隔風雪。 老妻【ろうさい】は異県【いけん】に寄【あず】け、十口【じつこう】は風雪【ふうせつ】を隔【へだ】つ。
誰能久不顧、庶往共饑渇。 誰か能【よ】く久しく顧【かえり】みざらん、庶【こいねが】わくは往【ゆ)いて饑渇【きかつ】を共にせん。
入門聞号咷、幼子飢已卒。 門に入れば号咷【ごうとう】を聞く、幼子【ようし】の飢えて已【すで】に卒【しゅつ】す。
吾寧捨一哀、里巷亦鳴咽。 吾【われ】寧【なん】ぞ一哀【いちあい】を捨【おし】まんや、里巷【りこう】も亦【ま】た鳴咽【おえつ】す。
所愧為人父、無食到夭折。 愧【は】ずる所は人の父と為【な】り、食【しょく】無くして夭折【ようせつ】を到【いた】せしを。
豈知秋禾登、貧窶有倉卒。 豈に秋禾【しゅうか】登【みの】るを知らんや、貧窶【ひんく】倉卒【そうそつ】たる有り。
 
自京赴奉先縣詠懷五百字 #10  
生常免租税、名不隸征伐。 生【せい】は常に租税を免【まぬ】かれ、名は征伐に隸【れい】せず。
撫迹猶酸辛、平人固騒屑。 迹【あと】を撫【ぶ】すれば猶【な】お酸辛【さんしん】たり、平人【へいじん】は固【もと】より騒屑【そうせつ】たらん。
默思失業徒、因念遠戍卒。 默【もく】して失業の徒【と】を思い、因【よ】りて遠戍【えんじゅ】の卒【そつ】を念【おも】う。
憂端斉終南、鴻洞不可掇。 憂端【ゆうたん】は終南【しゅうなん】に斉【ひと】しく、鴻洞【こうどう】として掇【ひろ】う可【べ】からず。


7.そして、李白のような表現で締め括ったのである。
「香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。」
香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。

香霧といい、清輝という、共に月光である。雲なす鬟の周蓮にそそぐ月光、美しいうなじにを照らす月光、それが清輝で表現されている。この時代の夫婦の関係を示すものとして他の詩人では見られない。この「月夜」を境にして、詩の趣きが変化していくのである。

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月夜 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 144


月夜」と家族の考え方の考察(研究)
 1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維

 1.なぜ「長安の月」ではなく「鄜州の月」なのか
月夜 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 144
 2. 九月九日憶山東兄弟  王維
    ー 杜甫『月夜』の理解を深めるために ー
2.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145 九月九日憶山東兄弟  王維

3. 除夜作  高適
3.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 146 除夜作 高適
 4.八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易
4.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 146 八月十五日夜禁中独直対月憶元九 白居易

 5. 夜雨寄北 李商隠
5.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 148 夜雨寄北

 6.李白の詩
6.kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 149家族の詩(6)

 7.杜甫の彭衙行(ほうがこう)自京赴奉先縣詠懷五百字遺興
7.月夜 と家族を詠う詩について 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 150


 8. 「月夜」子供に対する「北征」の詩に、淋前の南中女

9.763年 蜀の乱を避けて「蜀中転々」の時期に、江南の地に移住しようと思っていたころ、自分と家族のことを考えている中で旅の空のもと自然を詠う秀作。

695 《倦夜〔倦秋夜〕》 蜀中転々 杜甫 <602  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3320 杜甫詩1000-602-858/1500



月夜 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 144

月夜
今夜鄜州月、閨中只独看。
今夜も月が出ている鄜州での月は、閏の中で我が妻がただひとりみているだろう。
遥憐小児女、未解憶長安。
私からはこんなはるかなところからいたいけない子供たちのことを思いを遣っている、しかしその子どもたちはこの私のいる長安を憶うことなどは知らないのである。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
二人で過ごした室には香霧がこめ、雲の髪型もうるおいが生じる、清々しい月のひかり輝いて妻のうなじに、影を落としている、美しい姿もつめたく感じていることであろう。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。
いつになったらゆめまぼろしにある妻との閨ととばりの生活、二人そろって月光に照らされて涙のあとなど全くない暮らしができるのだろうか。


今夜  鄜州(ふしゅう)の月、閨中(けいちゅう)  只だ独り看(み)るらん。
遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。
香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。
何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り、双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん。

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月夜 現代語訳と訳註
(本文)
今夜鄜州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。

(下し文)
今夜  鄜州(ふしゅう)の月、閨中(けいちゅう)  只だ独り看(み)るらん。
遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の、未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを。
香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。
何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り、双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん。

(現代語訳)
今夜も月が出ている鄜州での月は、閏の中で我が妻がただひとりみているだろう。
私からはこんなはるかなところからいたいけない子供たちのことを思いを遣っている、しかしその子どもたちはこの私のいる長安を憶うことなどは知らないのである。
二人で過ごした室には香霧がこめ、雲の髪型もうるおいが生じる、清々しい月のひかり輝いて妻のうなじに、影を落としている、美しい姿もつめたく感じていることであろう。
いつになったらゆめまぼろしにある妻との閨ととばりの生活、二人そろって月光に照らされて涙のあとなど全くない暮らしができるのだろうか。

(訳注)
今夜鄜州月、閨中只独看。
今夜も月が出ている鄜州での月は、閏の中で我が妻がただひとりみているだろう。
鄜州 西安府の直北に位する、妻子のいる所。○閏中 夫人のねやのうち。○ 夫人がみる。

遥憐小児女、未解憶長安。
私からはこんなはるかなところからいたいけない子供たちのことを思いを遣っている、しかしその子どもたちはこの私のいる長安を憶うことなどは知らないのである。
○憐 杜甫があわれむこと。○児女 こどもたち。○未解 解は人を思いやることをいう、幼小なので知識がとどかない。〇憶長安 長安におる父である自分をおもう。中国人にとっては自分がおうっていることより自分のことを思ってくれるというのが基本的な考えである。白居易「八月十五夜禁中獨直月夜憶元九」、高適「除夜作」、王維「九月九日憶山東弟」など多くある。

香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
二人で過ごした室には香霧がこめ、雲の髪型もうるおいが生じる、清々しい月のひかり輝いて妻のうなじに、影を落としている、美しい姿もつめたく感じていることであろう。
香霧 秋の夜のきり、夫人の室であるから香という。これまでの秋に閨から月を香を焚いて夫婦で眺めていたのだろう。これまでのことを踏まえて、予測するのである。○雲鬟 雲形の髪型。○清輝 すがすがしい月のぴかり照らすさま。○玉臂 夫人のうつくしいくびすじ、うなじ。うつくしい肢体のこと。

何時倚虚幌、双照涙痕乾。
いつになったらゆめまぼろしにある妻との閨ととばりの生活、二人そろって月光に照らされて涙のあとなど全くない暮らしができるのだろうか。
 よりそう。○虚幌 虚はゆめまぼろしにある妻との生活をいう。幌は閨のとばり、うす絹のこと。○双照 夫婦二人で照らされる。○涙痕乾 乾は湿の反対。


「月夜」 解説編につづく。

彭衙行 #3 杜甫 134 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132#3

彭衙行 #3 杜甫 134 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 132#3 (ほうがこう)


必死の思いで避難を続ける杜甫とその家族は(王触一家もいっしょだったであろうが)、三川県の周家窪という村にやっとたどり着いたが、その村で杜甫は思いもかけず、知り合いの孫宰に出会い、手厚いもてなしを受けることになった。


#1
憶昔避賊初,北走經險艱。夜深彭衙道,月照白水山。』
盡室久徒步,逢人多厚顏。參差穀鳥吟,不見遊子還。
癡女饑咬我,啼畏虎狼聞。懷中掩其口,反側聲愈嗔。
小兒強解事,故索苦李餐。』
#2
一旬半雷雨,泥濘相牽攀。既無禦雨備,徑滑衣又寒。
有時經契闊,竟日數裡間。野果充 ?糧,卑枝成屋椽。
早行石上水,暮宿天邊煙。』
#3
少留同家窪,欲出蘆子關。
故人有孫宰,高義薄曾雲。
延客已曛黑,張燈啟重門。
暖湯濯我足,剪紙招我魂。』

自分たちはしばらく同家窪で滞在してそれから蘆子関を出て北進しようと思っている。
同家窪にはふるなじみの孫辛というものがいて義理を重んじ人格のたかいことは雲にせまるほどであった。
彼が自分たちを案内してくれたときはもうすでにうすくらがりであり、あかりをつけて幾重かの門をあけてくれたのである。
そうしてお湯をわかして我々に足をあらわせ、紙をきって我々の元気の力、生き霊をよびかえらせてくれた。』

#4
從此出妻孥,相視涕闌幹。眾雛爛熳睡,喚起沾盤飧。
誓將與夫子,永結為弟昆。遂空所坐堂,安居奉我歡。
誰肯艱難際,豁達露心肝。』
別來歲月周,胡羯仍構患。何時有翅翎,飛去墮爾前?』


#3
少(しば)らく同家窪(どうかあ)に留(とど)まり、蘆子関(ろしかん)に出でんと欲す。
故人(こじん)  孫宰(そんさい)有り、高義(こうぎ)  曾雲(そううん)に薄(せま)る。
客を延(ひ)くとき己に曛黒(くんこく)なり 燈を張りて重門(ちょうもん)を啓(ひら)く。
湯を暖めて我が足を濯(あら)わしめ 紙を剪(き)って我が魂を招(まね)く』


#3 現代語訳と訳註
(本文)

少留同家窪,欲出蘆子關。故人有孫宰,高義薄曾雲。
延客已曛黑,張燈啟重門。暖湯濯我足,剪紙招我魂。』

(下し文)
少(しば)らく同家窪(どうかあ)に留(とど)まり、蘆子関(ろしかん)に出でんと欲す。
故人(こじん)  孫宰(そんさい)有り、高義(こうぎ)  曾雲(そううん)に薄(せま)る。
客を延(ひ)くとき己に曛黒(くんこく)なり 燈を張りて重門(ちょうもん)を啓(ひら)く。
湯を暖めて我が足を濯(あら)わしめ 紙を剪(き)って我が魂を招(まね)く』

(現代語訳)
自分たちはしばらく同家窪で滞在してそれから蘆子関を出て北進しようと思っている。
同家窪にはふるなじみの孫辛というものがいて義理を重んじ人格のたかいことは雲にせまるほどであった。
彼が自分たちを案内してくれたときはもうすでにうすくらがりであり、あかりをつけて幾重かの門をあけてくれたのである。
そうしてお湯をわかして我々に足をあらわせ、紙をきって我々の元気の力、生き霊をよびかえらせてくれた。』


(訳注)#3
少留同家窪,欲出蘆子關。
自分たちはしばらく同家窪で滞在してそれから蘆子関を出て北進しようと思っている。
少留 しばらく滞在する。○同家窪 白水県の郷村の名とおもわれる。孫宰の居る所。○蘆子關 関の名、延安府安塞県にある。鄜州よりさらに北にあり、霊武(地図の左側最上部)へ達する路。蘆子關は地図の中ほど最上部にある。杜甫のこの時地図の真ん中にある三川から鄜州にたどり着くのに艱難辛苦していたのだ
杜甫乱前後の図003鳳翔

  

故人有孫宰,高義薄曾雲。
同家窪にはふるなじみの孫辛というものがいて義理を重んじ人格のたかいことは雲にせまるほどであった。
故人 ふるなじみの人。○孫宰 姓は孫、宰は名とみる。○高義 義理を重んじ人格のたかいこと。○曾雲 かさなれるくも、骨は層に同じ。


延客已曛黑,張燈啟重門。
彼が自分たちを案内してくれたときはもうすでにうすくらがりであり、あかりをつけて幾重かの門をあけてくれたのである。
延客 お客をこちらへとひく、客は杜甫。○曛黑 うすくらがり。○張燈 あかりを設ける。○啟重門 幾重にもなっている門をひらく。


暖湯濯我足,剪紙招我魂。』
そうしてお湯をわかして我々に足をあらわせ、紙をきって我々の元気の力、生き霊をよびかえらせてくれた。』
暖湯 おゆをわかす。○濯我足 杜甫の足をあらわせる。○剪紙 紙をはさみできり、はたをつくり魂をまねく式に用いる。旅の間に落としていった元気の魂をかき集める儀式をする。○招我魂 くたびれ果てて自分ではないような感じになっている。我とは作者をさす。杜詩には往々にして招魂をいうが、これは生き霊をまねくことをいう、生者の魂が散じて四方にあるのによってこれをよびかえすこと。

三川觀水漲二十韻 杜甫 130 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 127-#4

三川觀水漲二十韻 杜甫 130 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 127-#4

危険の迫った白水県を去り、多くの避難民に混じって洛河ぞいに華原を経てさらに北に進んだ。
「三川觀水漲二十韻」(三川にて水の漲るを観る)には、その途中の様子を次のように記す。「華原を過ぎてからは、もはや平らな土地は見られない。北に向かってゆくが、ただ土山が続いているばかり。来る日も来る日も、せばまった深い谷間を通ってゆく。空には赤くやけた雲が時となくわき立ち、電光がきらめく。山が深いために雨がよく降り、道は川になって激流がぶつかりあう」。その中を杜甫の一行は手を引きあって進んでゆく。

このとき、杜甫の遠い親戚にあたる王砅一家もいっしょに避難したが、のちに770年大暦五年、といえは、杜甫が亡くなる年に浮州で、南海に使者として赴く王砅を送る際に作った「送重表姪王秋評事便南海」(重表姪の王秋評事の南海に使いするを送る)には、避難の途中における危難のさまが詠われている。131 王砅「送重表姪王秋評事便南海」


#3
及觀泉源漲,反懼江海覆。
漂沙坼岸去,漱壑松柏禿。
乘陵破山門,回斡裂地軸。
交洛赴洪河,及關豈信宿。
應沉數州沒,如聽萬室哭。
穢濁殊未清,風濤怒猶蓄。
何時通舟車?陰氣不黲黷。』
#4
浮生有蕩汨,吾道正羈束。
浮き草のような生活は水の早き流れに漂うようなものである、わたしの生きる道はこのように他からしばられているのだ。
人寰難容身,石壁滑側足。
世渡りの上手い世界には身を容れおくことがむずかしい、それでいて、このような山中へはいってくればここではまた石壁の路がすべるようなので足の指先、足の外側に力を入れて歩くのだ。
雲雷屯不已,艱險路更跼。』
雲雷の雨水の難儀は止みそうにない、山行の急坂はその路はさらに進みづらくなってきた。』
普天無川梁,欲濟願水縮。
見渡すにかぎりどこにも舟橋は無い、川を渡ることができるためには水量の減ずるのを願うばかりである。
因悲中林士,未脫眾魚腹。
それにつけて悲しむのはこの山林に居る人々のことだ、彼等はまだ魚の腹からのがれることはできずにいるのだ。
舉頭向蒼天,安得騎鴻鵠?』

わたしは頭をあげて天をむかってみている、どうしたならば鴻や鵠などの鳥にのって空へ駆け上がってこの水災(叛乱軍の戦火)からのがれることができるであろうかと。


束。足。跼。縮。腹。鵠。
#3
泉源の漲るを観るに及んで 反って江海の覆(くつが)えるを懼る。
沙を漂わして坼岸(きんがん)去り、壑(がく)に漱(そそ)ぎて松柏禿(とく)す。
乗陵(じょうりょう)山門破れ、廻斡(かいあつ) 地軸 裂く。
洛に交りて洪河(こうか)に赴く、関に及ぶ豈に信宿ならんや。
応に数州を沈めて没せしむるなるべし、万室の哭するを聴くが如し。
穢濁(あいだく)殊に未だ清からず、風涛怒り 猶 蓄(たくお)う。
何の時か 舟車を通じて、陰気 黲黷(しんとく)ならざらん。』

4

浮生 蕩汨(とういつ)有り、吾が道正に羈束(きそく)せらる。

人寰 身を容れ難く、石壁滑かにして足を側(そばだ)つ。

雲雷 屯(ちゅん)己まず 艱險(かんけん) 路更に跼(きょく)す。』

普天 川梁 無し、済(わた)らんと欲して水の縮(ちじ)まんことを願う。

因って悲しむ中林の士 未だ衆魚の腹より脱せず。

頭を挙げて蒼天に向う、安んぞ鴻鵠(こうこく)に騎()ることを得ん。』



三川觀水漲二十韻 現代語訳と訳註
(本文) #4

浮生有蕩汨,吾道正羈束。
人寰難容身,石壁滑側足。
雲雷屯不已,艱險路更跼。』
普天無川梁,欲濟願水縮。
因悲中林士,未脫眾魚腹。
舉頭向蒼天,安得騎鴻鵠?』

(下し文) #4
浮生 蕩汨(とういつ)有り、吾が道正に羈束(きそく)せらる。
人寰 身を容れ難く、石壁滑かにして足を側(そばだ)つ。
雲雷 屯(ちゅん)己まず 艱險(かんけん) 路更に跼(きょく)す。』
普天 川梁 無し、済(わた)らんと欲して水の縮(ちじ)まんことを願う。
因って悲しむ中林の士 未だ衆魚の腹より脱せず。
頭を挙げて蒼天に向う、安んぞ鴻鵠(こうこく)に騎(の)ることを得ん。』


(現代語訳)
浮き草のような生活は水の早き流れに漂うようなものである、わたしの生きる道はこのように他からしばられているのだ。
世渡りの上手い世界には身を容れおくことがむずかしい、それでいて、このような山中へはいってくればここではまた石壁の路がすべるようなので足の指先、足の外側に力を入れて歩くのだ。
雲雷の雨水の難儀は止みそうにない、山行の急坂はその路はさらに進みづらくなってきた。』
見渡すにかぎりどこにも舟橋は無い、川を渡ることができるためには水量の減ずるのを願うばかりである。
それにつけて悲しむのはこの山林に居る人々のことだ、彼等はまだ魚の腹からのがれることはできずにいるのだ。
わたしは頭をあげて天をむかってみている、どうしたならば鴻や鵠などの鳥にのって空へ駆け上がってこの水災(叛乱軍の戦火)からのがれることができるであろうかと。


(訳注) #4

浮生有蕩汨,吾道正羈束。
浮き草のような生活は水の早き流れに漂うようなものである、わたしの生きる道はこのように他からしばられているのだ。
浮生 浮き草のような生活。○蕩汨 蕩はうごく、汨は水のはやく流れるさま。○羈束 きずなをつけ、しばられる。

人寰難容身,石壁滑側足。
世渡りの上手い世界には身を容れおくことがむずかしい、それでいて、このような山中へはいってくればここではまた石壁の路がすべるようなので足の指先、足の外側に力を入れて歩くのだ。
人寰 人の存在する区域、世界。こびへつらいの世界。世渡りの上手い世界。○容身 わがからだをいれておく。○側足 足をそばだてる。足の指先、足の外側に力を入れて歩くことを言う。

雲雷屯不已,艱險路更跼。』
雲雷の雨水の難儀は止みそうにない、山行の急坂はその路はさらに進みづらくなってきた。』
 なやみ、難儀。○ せぐくまる。ちじこまる。馬が進まない。


普天無川梁,欲濟願水縮。
見渡すにかぎりどこにも舟橋は無い、川を渡ることができるためには水量の減ずるのを願うばかりである。
普天 天下じゅう。○川梁 梁はふなはし。○水縮 縮はちぢむ、量の減ずること。水嵩が減ること。

因悲中林士,未脫眾魚腹。
それにつけて悲しむのはこの山林に居る人々のことだ、彼等はまだ魚の腹からのがれることはできずにいるのだ。
中林士 林中土と同じ、山林のなかの集落の者。○衆魚腹 衆は集落、多くの魚の腹、山崩れが起きれば飲み込まれる。叛乱軍に襲撃されれば、殺されてしまう。盆地の集落が魚の腹の中という表現をしたのだ。
前#3にでている
漂沙坼岸去,漱壑松柏禿。
乘陵破山門,回斡裂地軸。
『大雨でで手が決壊し、山の木々や土砂崩れが起きそうだ』ということを受けている。杜甫たちが少し高い所に来て盆地状の集落を見ていること。


舉頭向蒼天,安得騎鴻鵠?』
わたしは頭をあげて天をむかってみている、どうしたならば鴻や鵠などの鳥にのって空へ駆け上がってこの水災(叛乱軍の戦火)からのがれることができるであろうかと。
○安得 希望の辞。○騎鴻鵠 この鳥にのって水災(叛乱軍の戦火)より離脱するのである。


○押韻 束。足。跼。縮。腹。鵠。




三川觀水漲二十韻
#1
我經華原來,不複見平陸。北上惟土山,連天走窮穀。
火雲無時出,飛電常在目。』
#2
自多窮岫雨,行潦相豗蹙。蓊匒川氣黃,群流會空曲。
清晨望高浪,忽謂陰崖踣。恐泥竄蛟龍,登危聚麋鹿。
枯查卷拔樹,礧磈共沖塞。聲吹鬼神下,勢閱人代速。
不有萬穴歸,何以尊四瀆。』

#3
及觀泉源漲,反懼江海覆。漂沙坼岸去,漱壑松柏禿。
乘陵破山門,回斡裂地軸。交洛赴洪河,及關豈信宿。
應沉數州沒,如聽萬室哭。穢濁殊未清,風濤怒猶蓄。
何時通舟車?陰氣不黲黷。』
#4
浮生有蕩汨,吾道正羈束。人寰難容身,石壁滑側足。
雲雷屯不已,艱險路更跼。』
普天無川梁,欲濟願水縮。因悲中林士,未脫眾魚腹。
舉頭向蒼天,安得騎鴻鵠?』

#1
我 華原を経て来る、復た平陸を見ず。
北上すれば惟 土山、連天窮谷に走る。
火雲出づるや時無し、飛電 常に目に在り。』
#2
自ら窮岫(きゅうしゅう)の雨多し、行潦(こうろう) 相 豗蹙(かいしゅく)す。
蓊匒(おうこう)として川気(せんき) 黄なり、羣流 空曲に会す。
清晨 高浪を望む、忽ち謂う陰崖 踣(たお)れるかと。
泥(なず)まんことを恐れて蛟龍(こうりゅう) 竄(かく)れ、 危きに登りて 麋鹿(びろく) 聚(あつ)まる。
枯査 抜樹を巻き、礧磈(らいかい)として共に充塞(じゅうそく)す。
声は鬼神を吹きて下す、勢は人代(じんだい)の速かなることを閱(けみ)す。
万穴の帰する有らずんば、何を以ってか 四瀆(しとく)を尊(たっとし)とせん』
#3
泉源の漲るを観るに及んで 反って江海の覆(くつが)えるを懼る。
沙を漂わして坼岸(きんがん)去り、壑(がく)に漱(そそ)ぎて松柏禿(とく)す。
乗陵(じょうりょう)山門破れ、廻斡(かいあつ) 地軸 裂く。
洛に交りて洪河(こうか)に赴く、関に及ぶ豈に信宿ならんや。
応に数州を沈めて没せしむるなるべし、万室の哭するを聴くが如し。
穢濁(あいだく)殊に未だ清からず、風涛怒り 猶 蓄(たくお)う。
何の時か 舟車を通じて、陰気 黲黷(しんとく)ならざらん。』
#4
浮生 蕩汨(とういつ)有り、吾が道正に羈束(きそく)せらる。
人寰 身を容れ難く、石壁滑かにして足を側(そばだ)つ。
雲雷 屯(ちゅん)己まず 艱險(かんけん) 路更に跼(きょく)す。』
普天 川梁 無し、済(わた)らんと欲して水の縮(ちじ)まんことを願う。
因って悲しむ中林の士 未だ衆魚の腹より脱せず。
頭を挙げて蒼天に向う、安んぞ鴻鵠(こうこく)に騎(の)ることを得ん。』

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自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 105 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700-105-1

自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫 105 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700-105-1


 任官ということになった杜甫は、そのことを家族に知らせ、長安へ連れて帰るため、十一月に入って奉先県に出かけた。それは、安禄山が君側の紆臣「楊国忠」を除くことを名目に挙兵した十一月九日に先だつ5日である。このときの旅行を詠んだのが「自京赴奉先縣詠懷五百字」(京より奉先県に赴き、懐いを詠ずる五百字)は五言古詩、百句五十韻に及ぶ長篇で、のちの「北征」の詩、五言古詩 百四十句と並ぶ雄篇と称されている。この長い詩を一気に掲載すると雑になるので、10分割(区切りは””で示す)して掲載することになる。その後、本来の詩の三段にまとめて解説する。(これまでの長編は、就職活動の詩なので、資料として一括で掲載する方が良いと考えて行った。これからは、「魂の叫び」ともいえるもの丁寧に見ていきたい。)
杜甫乱前後の図001奉先


詩の概要を示す。すなわち第一段は、若いころから持ちつづけている自己の抱負と、それがなかなかかなえられないこと。#1~#3
第二段は旅中の見聞で、君臣ともに歓楽にふけっている驪山のふもとを通りすぎるときの感懐が中心。#4~#8
第三段は、家族と再会して幼子の餓死を知らされての深い嘆きと、世人への思いを詠う。#9~10




第一段(#1~#3)
杜陵有布衣,老大意轉拙。許身一何愚?竊比稷與契。
居然成
濩落,白手甘契闊。蓋棺事則已,此誌常覬豁。』

窮年憂黎元,嘆息腸內熱。取笑同學翁,浩歌彌激烈。
非無江海誌,蕭灑送日月。生逢堯舜君,不忍便永訣。
當今廊廟具,構廈豈雲缺?葵藿傾太陽,物性固莫奪。』
顧惟螻蟻輩,但自求其穴。胡為慕大鯨,輒擬偃溟渤?
以茲誤生理,獨恥事幹謁。兀兀遂至今,忍為塵埃沒。
終愧巢與由,未能易其節。沉飲聊自遣,放歌破愁絕。』
第二段(#4~#8)
歲暮百草零,疾風高岡裂。天衢陰崢嶸,客子中夜發。
霜嚴衣帶斷,指直不得結。淩晨過驪山,禦榻在嵽嵲。』
蚩尤塞寒空,蹴蹋崖谷滑。瑤池氣鬱律,羽林相摩戛。
君臣留歡娛,樂動殷膠葛。賜浴皆長纓,與宴非短褐。』

彤庭所分帛,本自寒女出。鞭撻其夫家,聚斂貢城闕。
聖人筐篚恩,實欲邦國活。臣如忽至理。君豈棄此物?
多士盈朝廷,仁者宜戰慄。』
況聞內金盤,盡在衛霍室。中堂有神仙,煙霧蒙玉質。
暖客貂鼠裘,悲管逐清瑟。勸客駝蹄羹,霜橙壓香橘。
朱門酒肉臭,路有凍死骨。榮枯咫尺異,惆悵難再述
。』
北轅就涇渭,官渡又改轍。群水從西下,極目高崒兀。
疑是崆峒來,恐觸天柱折。河梁幸未坼,枝撐聲窸窣。
行旅相攀援,川廣不可越。』
第三段(#9~10)
老妻寄異縣,十口隔風雪。誰能久不顧?庶往共饑渴。
入門聞號啕,幼子餓已卒。吾寧舍一哀?裡巷亦嗚咽。
所愧為人父,無食致夭折。豈知秋禾登,貧窶有蒼卒。』
生常免租稅,名不隸徵伐。撫跡猶酸辛,平人固騷屑。
默思失業徒,因念遠戍卒。憂端齊終南,澒洞不可掇。』



 天宝十四載(755)冬十一月の初め、杜甫は馬車で真夜中に長安を発った。奉先県への路は、冷たい風が北の砂漠地帯から吹きつけてくる。杜甫は四十四歳を過ぎて、やっと官職につけた。詩は、まず、現況から始まる。

白京赴奉先牒詠懐 五百字 1/10 1段目の#1
杜陵有布衣,老大意轉拙。
杜陵のあたりに一人の官についていない普段着の男が居る、年を取ってはいるがその抱いている志と意識はかたくなで処世術は実にうまくない。
許身一何愚?竊比稷與契。
そうした志と意識について自己に妥協して許すことができない愚者というのはいったいどうしてなのであろうか。それは心に秘めていることは自分を論語で示された賢臣、稷との契たちに匹敵すると思っているからなのだ。
居然成
濩落,白手甘契闊。
そんな大きな志をもっているうちにそのまま滴り落してしまうのであるが、もとより白髪にいたるまで甘んじて艱難辛苦に耐えているのである。
蓋棺事則已,此誌常覬豁。』

自己の価値は棺に蓋をした後に其の人の行為や事の評価が決定するとおもっている、このように心がけていることは、広々とした気持ちでいたいと願ってはいるということなのだ。』


自京赴奉先縣詠懷五百字 杜甫特集700-105-1 現代語訳と訳註

(本文)
杜陵有布衣,老大意轉拙。
許身一何愚?竊比稷與契。
居然成濩落,白手甘契闊。
蓋棺事則已,此誌常覬豁。』

(下し文)
杜陵(とりょう)に布衣(ふい)有り
老大(ろうだい)にして意(い)転(うた)た拙(せつ)なり
身(み)を許すこと一(いつ)に何ぞ愚(ぐ)なる
窃(ひそ)かに稷(しょく)と契(せつ)とに比す
居然(きょぜん)  濩落(かくらく)を成(な)し
白首(はくしゅ)  契闊(けいかつ)に甘んず
棺(かん)を蓋(おお)えば事は則ち已(や)むも
此の志  常に豁(ひら)けむことを覬(ねが)う

(現代語訳)
杜陵のあたりに一人の官についていない普段着の男が居る、年を取ってはいるがその抱いている志と意識はかたくなで処世術は実にうまくない。
そうした志と意識について自己に妥協して許すことができない愚者というのはいったいどうしてなのであろうか。それは心に秘めていることは自分を論語で示された賢臣、稷との契たちに匹敵すると思っているからなのだ。
そんな大きな志をもっているうちにそのまま滴り落してしまうのであるが、もとより白髪にいたるまで甘んじて艱難辛苦に耐えているのである。
自己の価値は棺に蓋をした後に其の人の行為や事の評価が決定するとおもっている、このように心がけていることは、広々とした気持ちでいたいと願ってはいるということなのだ。』


(訳註)
杜陵有布衣,老大意轉拙。
杜陵のあたりに一人の官についていない普段着の男が居る、年を取ってはいるがその抱いている志と意識はかたくなで処世術は実にうまくない。
杜陵 作者の住地。長安城の東に薪陵(漢の文帝の陵)があり、その南五里に楽遊原がある、漠の宜帝の葬られた処で、これを杜院という。杜陵の東南十余里に又一陵があり、宜帝の皇后許氏の葬られた処であり、これを少陵という。少陵の東は杜曲であり、西は杜甫が宅した地である。作者は自己の居を称するのに、杜陵、少陵、杜曲、下杜などというのは皆少陵を本としてその近地についていったものである。この年かいた詩の中でで杜甫の杜曲の住まいを覗わせるものである

曲江三章 章五句 杜甫特集 52 

陪鄭広文遊何将軍山林十首 詩人杜甫特集 55

陂行 杜甫特集 66

重過何氏五首 杜甫特集 68

陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨二首杜甫特集 73

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秋雨嘆三首 杜甫特集 86

長安・杜曲韋曲
 
布衣 仕官せぬものをいう。○意転拙 その抱く所の意識、意見、物の見方がかたくなで世間向きでなく、処世術がへたである。


許身一何愚?竊比稷與契。
そうした志と意識について自己に妥協して許すことができない愚者というのはいったいどうしてなのであろうか。それは心に秘めていることは自分を論語で示された賢臣、稷との契たちに匹敵すると思っているからなのだ。
許身 我と我が身はかくかくの資格ありとゆるす。○ 二人とも儒教でいう賢臣で舜の賢臣。稷は官の名、本名は棄、農事を掌る、契は教育の事を掌る。『論語』・泰伯篇  「舜には五人の臣(瑀・稷・契・咎陶・伯益)がいて、天下が治まった。武王はいった、「わたしには賢臣が十人いる」 孔子はいった、「才能ある人物は得がたいものだ。そうではないか。尭が舜に禅譲してからは、周の初めにおいて盛んであった。(武王の賢臣のうち、)婦人が一人いるので、賢臣は九人のみであった。文王が西伯となって、天下を三分してその二を保ち、それで殷に服事した。周の徳こそは至徳というべきである」 *周が賢臣を得て国を治めたことを讃えた。


居然成濩落,白手甘契闊。
そんな大きな志をもっているうちにそのまま滴り落してしまうのであるが、もとより白髪にいたるまで甘んじて艱難辛苦に耐えているのである。
居然 そのままの意。○濩落 濩は雨だれがしたたり落ちること。○契闊 苦労すること。逢うことと離れること。慕う。約束する。ここでは艱難辛苦をいう。
 
蓋棺事則已,此誌常覬豁。』
自己の価値は棺に蓋をした後に其の人の行為や事の評価が決定するとおもっている、このように心がけていることは、広々とした気持ちでいたいと願ってはいるということなのだ。』
蓋棺 棺の蓋をする。人が死ぬことを指す。人は死後に其の行いや事の評価が決定することをいう。○此志 自己の志意をいう。○ 冀と同じ、こいねがう。○ 寛裕にする、ひろびろとする。



 

驄馬行  杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 102

驄馬行  杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 102
もと天子から太常寺卿梁某に賜わったもので、現在は李鄧公が自分の所有として愛している驄馬について、杜甫が鄧公の命をうけて作った詩である。製作時は天宝十四載。
* 〔原注〕太常梁卿敢賜馬也。李鄧公。愛而有之。命甫製詩
755年天宝14載44歳



驄馬行
鄧公馬癖人共知,初得花驄大宛種。
李鄧公が愛馬の癖あることは人がみな知っているが、鄧公は初めて大宛の種である花紋様ある驄馬.を得られたのだ。
夙昔傳聞思一見,牽來左右神皆竦。
自分はその話を前々から聞いていたから一度見たいと思っていたのだ。この馬をひきだしてくると左右にいるもの皆びっくりして神々しさを持って見上げている。
雄姿逸態何崷崒,顧影驕嘶自衿寵。
その雄々しいすがた、すぐれた風格はどうしてあんなに堂々としているか。そのわが身の影をふりかりながら誇らしく嘶く様子は主人の寵愛をうけておることを顕示するのである。
隅目青熒夾鏡懸,肉鬃碨礧連錢動。』
その目は菱型形で青くひかりかがいて、左右からはさんだ明鏡がぶらさがっている様である、身をふるわせて突起したたてがみの肉がゆれて銭がたの模様を動かしている。』
朝來少試華軒下,未覺千金滿高價。
主人は朝からかけて少しくこの馬をうつくしい車をひかせてみたが、この馬の様子は千金を出したのも高すぎるとは考えられないものなのだ。
赤汗微生白雪毛,銀鞍卻覆香羅帕。
試乗後は白雪の様な毛に赤い汗がすこし出たが、銀の鞍にはかえって香わしき薄絹の腹かけをかけて馬をいたわっている。
卿家舊賜公取之,天廄真龍此其亞。
この馬は太常寺卿梁氏の家の拝領物であったのを李郭公が得られたのだが、この馬こそ天厩の竜馬に次ぐものであるのだ。
晝洗須騰涇渭深,夕趨可刷幽並夜。』

この馬こそ千里馬である、昼は涇水と渭水の深き水に騰りあがってわたり、夕にはずいぶん進み、夜には幽州・井州に達して、毛を刷う事ができるであろう馬なのだ。』
吾聞良驥老始成,此馬數年人更驚。
私は聞き及んでいる、よい千里馬は年をとっても成熟するということを。したがって、この馬も数年経たならば一層人が驚歎するものになるであろう。
豈有四蹄疾於鳥,不與八駿俱先鳴。
鳥よりはやい四足をもちながら天子の御馬の八頭の駿馬といっしょに先ず鳴かぬということがどうしてあるというのか。
時俗造次那得致,雲霧晦冥方降精。
此の種類の馬は世俗の人がほしいからとしてあわただしく得ようとしてできるものか、このような馬は、雲や霧がとざして真っ暗という様な時はじめて天が精気を降してこの馬を下界へ送りくださるものである。
近聞下詔喧都邑,肯使騏驎地上行。』

ちかごろきくとお上から詔を下されて都も地方もかましく騒ぎ立てて良馬を求められるということだ、まさか誰もが麒麟のような馬を地面の上に歩かせるというのではないのだろう。


郭公の馬癖は人共に知る、初めて得たり花膿大宛の種を

夙昔より伝聞して一たび見んことを思う、牽き来れば左右神皆錬る

雄姿逸態何ぞ酋拳たる、影を顧みて騎噺し自ら寵に治る

隅目青焚として爽鏡懸り、肉駿埠欄として連銭動く』


朝来少しく試む華軒の下、未だ覚えず千金の高価に満つるを

赤汗微しく生ず白雪の毛、銀鞍彿って覆う香羅帖

卿家の旧賜公之を取る、天厩の真竜此其の亜なり

昼洗須らく騰るぺし浬洞の深きに、夕趨刷く可し幽井の夜』


吾聞く良駿は老いて始めて成ると、此の馬数年人更に驚かん

豈 四蹄の鳥より疾くして、八駿と供に先ず鳴かざる有らんや

時俗造次に郵ぞ致すことを得ん、雲霧晦冥にして方に精を降す

近ろ聞く詔を下して都邑に喧しと、肯て麒麟をして地上に行かしめんや』




驄馬行  現代語訳と訳註 -#1

(本文)
鄧公馬癖人共知,初得花驄大宛種。
夙昔傳聞思一見,牽來左右神皆竦。
雄姿逸態何崷崒,顧影驕嘶自衿寵。
隅目青熒夾鏡懸,肉鬃碨礧連錢動。』


(下し文)
郭公の馬癖は人共に知る、初めて得たり花膿大宛の種を
夙昔より伝聞して一たび見んことを思う、牽き来れば左右神皆錬る
雄姿逸態何ぞ酋拳たる、影を顧みて騎噺し自ら寵に治る
隅目青焚として爽鏡懸り、肉駿埠欄として連銭動く』


(現代語訳)
李鄧公が愛馬の癖あることは人がみな知っているが、鄧公は初めて大宛の種である花紋様ある驄馬.を得られたのだ。
自分はその話を前々から聞いていたから一度見たいと思っていたのだ。この馬をひきだしてくると左右にいるもの皆びっくりして神々しさを持って見上げている。
その雄々しいすがた、すぐれた風格はどうしてあんなに堂々としているか。そのわが身の影をふりかりながら誇らしく嘶く様子は主人の寵愛をうけておることを顕示するのである。
その目は菱型形で青くひかりかがいて、左右からはさんだ明鏡がぶらさがっている様である、身をふるわせて突起したたてがみの肉がゆれて銭がたの模様を動かしている。』





驄馬行(訳註)
* 〔原注〕太常梁卿敢賜馬也。李鄧公。愛而有之。命甫製詩
青白色の馬のうた。*太常梁卿に敢え賜し馬なのだ。李鄧公はこの馬を愛し、そしてこの馬を手に入れた。それから杜甫に命じてこの詩をつらせた
○驄馬 青白色の馬。○太常梁卿太常寺の卿という官の梁氏、名は詳かでない。○李郭公 郭は封地の名、其の人の宗室であろう、名は詳かでない。○有之 自分のものにした。


鄧公馬癖人共知,初得花驄大宛種。

李鄧公が愛馬の癖あることは人がみな知っているが、鄧公は初めて大宛の種である花紋様ある驄馬を得られたのだ。
馬癖 馬を愛するというくせ。○花随 随馬にして花紋があるもの。後に連銭というのがそれである。○大宛種 
大宛国の名馬の種。


夙昔傳聞思一見,牽來左右神皆竦。

自分はその話を前々から聞いていたから一度見たいと思っていたのだ。この馬をひきだしてくると左右にいるもの皆びっくりして神々しさを持って見上げている。
夙昔 はやき以前。○牽乗馬をひいてくる。○左右 左右の傍観の人々。○神皆竦 いい馬と理解すること。神々しく見上げる。又聾とも通じ、毛髪のそばだつ様をいう。



雄姿逸態何崷崒,顧影驕嘶自衿寵。
その雄々しいすがた、すぐれた風格はどうしてあんなに堂々としているか。そのわが身の影をふりかりながら誇らしく嘶く様子は主人の寵愛をうけておることを顕示するのである。
雄姿逸 態雄々しいすがた、すぐれたようす。○崷崒 たかく聾えるさま。○顧影馬が自己のかげをかえりみる。○驕嘶 いばっていななく。誇らしく嘶く。○衿寵 寵愛をうけておることを顕示する。



隅目青熒夾鏡懸,肉鬃碨礧連錢動。』 
その目は菱型形で青くひかりかがいて、左右からはさんだ明鏡がぶらさがっている様である、身をふるわせて突起したたてがみの肉がゆれて銭がたの模様を動かしている。』
隅目 眼の輪郭の菱形であるのをいう。○青焚 青くして光りかがやく。○爽鏡 左右よりはさむかがみ、両眼をたとえていう、顔延年の「赭白馬賦」に「雙瞳爽鏡」の語がある。○肉鬃 鬃は鬣(たてがみ)。肉鬃はたてがみの辺に肉の多いことをいう。○碨礧 突起しているさま。○連銭 ぜにがたのもよう。○少試 すこしためしに乗る。





驄馬行  現代語訳と訳註 -#2
(本文)
朝來少試華軒下,未覺千金滿高價。
赤汗微生白雪毛,銀鞍卻覆香羅帕。
卿家舊賜公取之,天廄真龍此其亞。
晝洗須騰涇渭深,夕趨可刷幽並夜。』

(下し文)
朝来少しく試む華軒の下、未だ覚えず千金の高価に満つるを
赤汗微しく生ず白雪の毛、銀鞍彿って覆う香羅帖
卿家の旧賜公之を取る、天厩の真竜此其の亜なり
昼洗須らく騰るぺし浬洞の深きに、夕趨刷く可し幽井の夜』


(現代語訳)
主人は朝からかけて少しくこの馬をうつくしい車をひかせてみたが、この馬の様子は千金を出したのも高すぎるとは考えられないものなのだ。
試乗後は白雪の様な毛に赤い汗がすこし出たが、銀の鞍にはかえって香わしき薄絹の腹かけをかけて馬をいたわっている。
この馬は太常寺卿梁氏の家の拝領物であったのを李郭公が得られたのだが、この馬こそ天厩の竜馬に次ぐものであるのだ。
この馬こそ千里馬である、昼は涇水と渭水の深き水に騰りあがってわたり、夕にはずいぶん進み、夜には幽州・井州に達して、毛を刷う事ができるであろう馬なのだ。』


(訳註)

朝來少試華軒下,未覺千金滿高價。
主人は朝からかけて少しくこの馬をうつくしい車をひかせてみたが、この馬の様子は千金を出したのも高すぎるとは考えられないものなのだ。
華軒 軒は車。うつくしい車をひかせてみる。



赤汗微生白雪毛,銀鞍卻覆香羅帕。
試乗後は白雪の様な毛に赤い汗がすこし出たが、銀の鞍にはかえって香わしき薄絹の腹かけをかけて馬をいたわっている。
卻覆 卻ってとは汗ばんでいるので何かをかぶせなくてもよいのに、それに却ってかぶせるというのであり、これというのは主人の寵愛をあらわすものである。○香羅帕 帕は腹かけ、かんばしきうすぎぬのはらかけ。



卿家舊賜公取之,天廄真龍此其亞。

この馬は太常寺卿梁氏の家の拝領物であったのを李郭公が得られたのだが、この馬こそ天厩の竜馬に次ぐものであるのだ。
卿家 太常寺卿棄民の家。○旧賜 もと天子よりの拝領物。○公 李郭公。○天厩真竜 天子のおうまやのまことの竜馬。○ 李郭公のこの驄馬をさす。○ 上の兵竜をさす。○亜 それにつぐもの、次位にあるもの。



晝洗須騰涇渭深,夕趨可刷幽並夜。』
この馬こそ千里馬である、昼は涇水と渭水の深き水に騰りあがってわたり、夕にはずいぶん進み、夜には幽州・井州に達して、毛を刷う事ができるであろう馬なのだ。』
昼洗(二句)これは顔延年の「満目馬賊」の「且ハ幽燕二刷キ、昼ハ剤越二株り」とある意を活用したもの。洗とは体や足を水で洗うこと。○ おどりあがる。○涇渭深 涇渭は川の名、深は水の深いことをいう。○夕趨 ゆうべにはしる。○ はらう、よごれた毛をはらいおとす、毛なみをきれいにする。○幽並夜 幽州・井州の夜。幽は大体において河北省北部、並は山西省の地。



驄馬行  現代語訳と訳註 -#3
(本文)

吾聞良驥老始成,此馬數年人更驚。
豈有四蹄疾於鳥,不與八駿俱先鳴。
時俗造次那得致,雲霧晦冥方降精。
近聞下詔喧都邑,肯使騏驎地上行。』

(下し文)
吾聞く良駿は老いて始めて成ると、此の馬数年人更に驚かん
豊に四蹄の鳥より疾くして、八駿と供に先ず鳴かざる有らんや
時俗造次に郵ぞ致すことを得ん、雲霧晦冥にして方に精を降す
近ろ聞く詔を下して都邑に喧しと、肯て麒麟をして地上に行かしめんや』

(現代語訳)
私は聞き及んでいる、よい千里馬は年をとっても成熟するということを。したがって、この馬も数年経たならば一層人が驚歎するものになるであろう。
鳥よりはやい四足をもちながら天子の御馬の八頭の駿馬といっしょに先ず鳴かぬということがどうしてあるというのか。
此の種類の馬は世俗の人がほしいからとしてあわただしく得ようとしてできるものか、このような馬は、雲や霧がとざして真っ暗という様な時はじめて天が精気を降してこの馬を下界へ送りくださるものである。
ちかごろきくとお上から詔を下されて都も地方もかましく騒ぎ立てて良馬を求められるということだ、まさか誰もが麒麟のような馬を地面の上に歩かせるというのではないのだろう。


(訳註)

吾聞良驥老始成,此馬數年人更驚。
私は聞き及んでいる、よい千里馬は年をとっても成熟するということを。したがって、この馬も数年経たならば一層人が驚歎するものになるであろう。
艮驥 よい千里馬。○老姶成 年をとっても成熟する。



豈有四蹄疾於鳥,不與八駿俱先鳴。
鳥よりはやい四足をもちながら天子の御馬の八頭の駿馬といっしょに先ず鳴かぬということがどうしてあるというのか。
豈有 この二字は下句までかかる。う。〇四蹄疾於鳥四本のびづめが鳥よりはやく走る。〇八駿 周の穆王の八匹の駿馬、その名は赤旗・盗驪・白義・踰輸・山子・渠黄・驊騮・騄耳。○先鳴 他の凡馬に先だちて声をあげる、先ず用いられることをいう。



時俗造次那得致,雲霧晦冥方降精。
此の種類の馬は世俗の人がほしいからとしてあわただしく得ようとしてできるものか、このような馬は、雲や霧がとざして真っ暗という様な時はじめて天が精気を降してこの馬を下界へ送りくださるものである。
時俗 世俗の人。○造次 急遽のさま、あわただしいさま。○我が手もとへまねきいたすことをいう。○晦冥 まっくら。○降精 馬は月の精であるといい、河水の精であるといい、房星の精であるという。大宛の天馬も其の国の高山の上にいて得ることができないので、五色の母馬を其の下に置いて交らせて駒を生ませると言い伝えられているが、それは山上の馬を天より下った馬とみたものなのであろう。いい種馬といい雌馬、それに天の精が加わってこのような馬が生まれる。



近聞下詔喧都邑,肯使騏驎地上行。』
ちかごろきくとお上から詔を下されて都も地方もかましく騒ぎ立てて良馬を求められるということだ、まさか誰もが麒麟のような馬を地面の上に歩かせるというのではないのだろう。
喧都邑 喧とはやかましくさわざで善馬を求めること。○肯使反語。○麒麟 善く走る馬をいう。○地上行 地面の上をあるく。



巷では、国内で戦の様相を呈してきたということを述べている。穀物の値段が数十倍になり、それでも、尚買えないという状況になっている。飢饉があり、運河航行が天候不良で難しい。
 世界の歴史で、大変化のおこる兆候である飢饉、天候不良がまさにおこったのだ。 良馬を求めるのも戦の前兆である。





驄馬行
鄧公馬癖人共知,初得花驄大宛種。
夙昔傳聞思一見,牽來左右神皆竦。
雄姿逸態何崷崒,顧影驕嘶自衿寵。
隅目青熒夾鏡懸,肉鬃碨礧連錢動。』

朝來少試華軒下,未覺千金滿高價。
赤汗微生白雪毛,銀鞍卻覆香羅帕。
卿家舊賜公取之,天廄真龍此其亞。
晝洗須騰涇渭深,夕趨可刷幽並夜。』

吾聞良驥老始成,此馬數年人更驚。
豈有四蹄疾於鳥,不與八駿俱先鳴。
時俗造次那得致,雲霧晦冥方降精。
近聞下詔喧都邑,肯使騏驎地上行。』


郭公の馬癖は人共に知る、初めて得たり花膿大宛の種を
夙昔より伝聞して一たび見んことを思う、牽き来れば左右神皆錬る
雄姿逸態何ぞ酋拳たる、影を顧みて騎噺し自ら寵に治る
隅目青焚として爽鏡懸り、肉駿埠欄として連銭動く』

朝来少しく試む華軒の下、未だ覚えず千金の高価に満つるを
赤汗微しく生ず白雪の毛、銀鞍彿って覆う香羅帖
卿家の旧賜公之を取る、天厩の真竜此其の亜なり
昼洗須らく騰るぺし浬洞の深きに、夕趨刷く可し幽井の夜』

吾聞く良駿は老いて始めて成ると、此の馬数年人更に驚かん
豈 四蹄の鳥より疾くして、八駿と供に先ず鳴かざる有らんや
時俗造次に郵ぞ致すことを得ん、雲霧晦冥にして方に精を降す
近ろ聞く詔を下して都邑に喧しと、肯て麒麟をして地上に行かしめんや』

 

 

夜聽許十一誦詩愛而有作 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 101

夜聽許十一誦詩愛而有作 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 101
許十一が夜、その詩を朗吟したのをきいて、それをめでてこの詩を作った。許十一を或は許十、或は許十損に作る。製作時は755年 天宝十四載、44歳長安での作。

 
夜聽許十一誦詩愛而有作
許生五台賓,業白出石壁。
許生は五台山の賓客として仏教を学んだことがあったが、その業は己に白く善なるものとなって山中の石壁から俗界、長安の都にへ出て来たのだ。
餘亦師粲可,身猶縛禪寂。
私はこれまで粲と可を師として禅の流れをまなんでみたが自分の修業は浅いもので身はなお禅寂というものに縛られているのだ。
何階子方便,謬引為匹敵。
それにどうした許生君のてだてによったものであるからして、修行足らずのものがまちがって君に引っぱられてその相手にしたのだ。
離索晚相逢,包蒙欣有擊。』
今は親友と離れて心ぼそかったのだがずいぶん時がたったが君と逢うことができた、君にこの蒙昧なものを受け入れられ、君からこの蒙昧なものを啓発されることをよろこぶのである。』
誦詩渾遊衍,四座皆闢易。
君が詩を誦するのをきくとすべてゆったりとくつろいでいる、満座のものみなあと素樽をして開いた。
應手看捶鉤,清心聽鳴鏑。
きみの手にこたえて鉤を撞ちきたえるのをみ、心をすましてかぶら矢のひびくような音をきいている。
精微穿溟涬,飛動摧霹靂。
君の誦声の微妙な処は大自然の奥そこまでもつらぬくかとおもわれる、飛動するときはいなずまがくだけたかとおもわれるほどである。
陶謝不枝梧,風騷共推激。』
君の詩の趣は古の陶淵明と謝霊運にくいちがってはいない、詩経の「国風」や屈原の「離騒」やと共に激賞するに足るものである。』
紫燕自超詣,翠駁誰翦剔?
紫燕の名馬はおのずから凡馬から超越していることである。翠駁の馬の毛並みはいったいだれがきったりしたのであるかというように、人しれず苦心している結果に成るものであるのだ。
君意人莫知,人間夜寥闃。』

きみの心持は一般の他の人は知るものがないのだ。ただ夜がふけて人間界がひっそりしているばかりだ。


(夜許十一が詩を詞するを聴き、愛して作有り)

許生は五台の賓なり 業白くして石壁より出づ

余も亦た粂可を師とす 身猶お禅寂に縛せらる

何ぞ子が方便に階せらるるや 謬って引かれて匹敵と為る

離索晩に相逢う 包蒙撃つ有るを欣ぶ』

詩を詞する揮て遊行なり 四座皆蹄易す

手に応じて睡釣を看 心を清くして鳴鏑を聴く

精微瞑梓を穿ち 飛動霹靂堆く

陶謝枝梧せず 風騒共に推激す』

紫燕自ら超詣 翠駁誰か勇別せん

君が意人知る莫し 人間夜宴閲たり』




夜聽許十一誦詩愛而有作  訳註

(本文)
許生五台賓,業白出石壁。
餘亦師粲可,身猶縛禪寂。
何階子方便,謬引為匹敵。
離索晚相逢,包蒙欣有擊。』

(下し文)
許生は五台の賓なり 業白くして石壁より出づ
余も亦た粂可を師とす 身猶お禅寂に縛せらる
何ぞ子が方便に階せらるるや 謬って引かれて匹敵と為る
離索晩に相逢う 包蒙撃つ有るを欣ぶ』

(現代語訳)
許生は五台山の賓客として仏教を学んだことがあったが、その業は己に白く善なるものとなって山中の石壁から俗界、長安の都にへ出て来たのだ。
私はこれまで粲と可を師として禅の流れをまなんでみたが自分の修業は浅いもので身はなお禅寂というものに縛られているのだ。
それにどうした許生君のてだてによったものであるからして、修行足らずのものがまちがって君に引っぱられてその相手にしたのだ。
今は親友と離れて心ぼそかったのだがずいぶん時がたったが君と逢うことができた、君にこの蒙昧なものを受け入れられ、君からこの蒙昧なものを啓発されることをよろこぶのである。』



許生五台賓,業白出石壁。
許生は五台山の賓客として仏教を学んだことがあったが、その業は己に白く善なるものとなって山中の石壁から俗界、長安の都にへ出て来たのだ。
〇五台賓 五台は山の名、山西省代州五台県の東北にあり、仏教の霊地とされる。賓とは客分のこと。許生がここで仏教を学んだことをいう。○業白 ごうびゃく仏語。よい果報を受けるよい行い。善業(ぜんごう)。⇔黒業。業白とはその業が白即ち善に属することをいう。○出石壁 山中の石壁の修行の場所から俗世界へ出て来ることをいう、この場合長安に来たことをいう。



餘亦師粲可,身猶縛禪寂。
私はこれまで粲と可を師として禅の流れをまなんでみたが自分の修業は浅いもので身はなお禅寂というものに縛られているのだ。
粲可 地に禅の高僧、粲は即ち璨、可は慧可をいう。達磨は慧可に伝え、慧可は璨に伝え、璨は道信に、道信は弘忍に伝えた。○縛禅寂 仏経に方便があれば慧解、方便がなければ慧縛とある。慧縛は知識がじゃまになり、却ってそれにしぼられることをいう。いま真の禅の悟りを得ぬゆえ禅寂に縛せられるこという。



何階子方便,謬引為匹敵。
それにどうした許生君のてだてによったものであるからして、修行足らずのものががまちがって君に引っぱられてその相手にしたのだ。
何階 階はそれを階梯にすることをいう、何階はどうしたいうがことである。○ 許生をさす。○方便 権宜のてだて。○謬引 謬(あやま)ってとは謙遜の辞であり、引はひきよせられること。○匹敵 あいて。



離索晚相逢,包蒙欣有擊。』
今は親友と離れて心ぼそかったのだがずいぶん時がたったが君と逢うことができた、君にこの蒙昧なものを受け入れられ、君からこの蒙昧なものを啓発されることをよろこぶのである。』
離索 離羣索居を略していう、朋友と別れ散じていること。○晩 晩年をいう。○包蒙、有撃 「易」蒙卦の九二に包蒙、上九に撃蒙の語がある。包蒙とは蒙昧なものを包容することをいい、撃蒙とは蒙昧なものを撃って其の蒙を発くことをいう。此の句は許生が自分(作者)の蒙を包容し、また啓蒙することをいぅ。



(本文)
誦詩渾遊衍,四座皆闢易。
應手看捶鉤,清心聽鳴鏑。
精微穿溟涬,飛動摧霹靂。
陶謝不枝梧,風騷共推激。』
紫燕自超詣,翠駁誰翦剔?
君意人莫知,人間夜寥闃。』

(下し文)
詩を詞する揮て遊行なり 四座皆蹄易す
手に応じて睡釣を看 心を清くして鳴鏑を聴く
精微瞑梓を穿ち 飛動霹靂堆く
陶謝枝梧せず 風騒共に推激す』
紫燕自ら超詣 翠駁誰か勇別せん
君が意人知る莫し 人間夜宴閲たり』

(現代語訳)
君が詩を誦するのをきくとすべてゆったりとくつろいでいる、満座のものみなあと素樽をして開いた。
きみの手にこたえて鉤を撞ちきたえるのをみ、心をすましてかぶら矢のひびくような音をきいている。
君の誦声の微妙な処は大自然の奥そこまでもつらぬくかとおもわれる、飛動するときはいなずまがくだけたかとおもわれるほどである。
君の詩の趣は古の陶淵明と謝霊運にくいちがってはいない、詩経の「国風」や屈原の「離騒」やと共に激賞するに足るものである。』
紫燕の名馬はおのずから凡馬から超越していることである。翠駁の馬の毛並みはいったいだれがきったりしたのであるかというように、人しれず苦心している結果に成るものであるのだ。
きみの心持は一般の他の人は知るものがないのだ。ただ夜がふけて人間界がひっそりしているばかりだ。



誦詩渾遊衍,四座皆闢易。
君が詩を誦するのをきくとすべてゆったりとくつろいでいる、満座のものみなあと素樽をして開いた。
詞詩 許生が自作の詩を朗吟すること。○遊衍 ゆったりとくつろぐさま。〇四座 満座の人々。○闢易 ひらいて所をかえる。



應手看捶鉤,清心聽鳴鏑。
きみの手にこたえて鉤を撞ちきたえるのをみ、心をすましてかぶら矢のひびくような音をきいている。
応手 手をはたらかすにつれて。此の二字は捶鉤へかかる。○捶鉤 「荘子」知北遊に「大鳥ノ鈎ヲ睡ツ者、年八十、両シテ豪だヲ失ワズ」とみえる。大馬は大司馬、錘とはうってきたえること、鉤は剣の種類でかぎのようにまがっているものをいう。この八十の老人が剣をうつのに妙を得てうった鉤の軽重がどれもこれも同一であるというのである。ここの用法は「看二極釣ことあるけれども看るばかりではなく聞くことであろう、鉤をうつ音をきくのに似ているというのである。○清心 上旬の手は許生の手であるが此の句の心は作者の心である、清とは他の妄念をのぞくことをいう。○鳴鏑 かぷら矢、これも上の捷釣とひとしく詞詩の声についていう。



精微穿溟涬,飛動摧霹靂。
君の誦声の微妙な処は大自然の奥そこまでもつらぬくかとおもわれる、飛動するときはいなずまがくだけたかとおもわれるほどである。
精微 誦詩の精密微妙。○穿溟涬 溟涬は「荘子」には涬演という。自然の気をいう、溟涬を穿つとは大自然の奥底まで貫通することをいう。○飛動 声の飛動。○推霹靂 いなずまのくだけるよう。



陶謝不枝梧,風騷共推激。』
君の詩の趣は古の陶淵明と謝霊運にくいちがってはいない、詩経の「国風」や屈原の「離騒」やと共に激賞するに足るものである。』
陶謝 陶淵明・謝霊運、曹宋間の大詩人。○枝桔 くいちがう、不枝棺は詩趣がそれと一致することをいう。○風騒 「詩経」の国風の詩篇や、屈原の作った騒体の韻文。○ 許生の作がこれと共にということ。○推激 激字の用法は少し無理であるかと考える。意は激賞するに足るということであろう。「陶謝」二句は許生の詩の性質についてのべる。



紫燕自超詣,翠駁誰翦剔?
紫燕の名馬はおのずから凡馬から超越していることである。翠駁の馬の毛並みはいったいだれがきったりしたのであるかというように、人しれず苦心している結果に成るものであるのだ。 
紫燕 漢の文帝の良馬九匹、其の一つを紫燕騮という、許生の詩能を比較する。○超詣 遠くにこえていく。超とは高くこえること、詣とは遠くにまでいたること。○翠駁 翠は馬については紫色をいう。駁は色の不純なことをいう。紫色でぶちであるのが翠駁であり、そのような馬をいう。○翦剔 翦はたてがみの毛をきること、剔は毛を刷くことをいう。翦剔とは毛なみをうるわしく整えることをいう。



君意人莫知,人間夜寥闃。』
きみの心持は一般の他の人は知るものがないのだ。ただ夜がふけて人間界がひっそりしているばかりだ。
 他の人。○寥闃 闃はおとのないことを


○詩型 五言古詩。
○押韻 壁、寂、敵、擊。/易、鏑、靂、激。/剔、闃。


官定後戲贈 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 100

官定後戲贈 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 100

 

755年天宝十四載、秋になり、杜甫は奉先県の妻子を訪ねている。女児が無事に育っているのを確認し、それから奉先県の北45kmのところにある白水県まで足をのばしている。
 白水県には母方の崔明府と崔少府がいる。明府は県令、少府は県尉のこと、親族が同じ県の長と次長をしていたことになるのである。杜甫は、帰途に奉先県に寄って秋の終わりに長安にもどってきた。
杜甫乱前後の図001
 十月のはじめに「河西の尉」という赴任地が示されてきた。河西の尉は河西節度判官の尉。当時、涼州(甘粛省武威県)にあった河西節度使の節度判官の尉(副官)の地位のことは友人の高適から聞いていて、高適もこの職についてすぐ退任している。

封丘県(河南省開封の北)の尉となって、やがてやめてしまった友人の高適から、県尉の仕事の実情を聞かされていたのかもしれない。高適が封丘の尉をやめた理由は、

「封丘の作」 高適、

只言小邑無所爲  只だ 小邑ほ為す所無しと言うも

公門百事皆有期  公門の百事は皆な期有り

拝迎官長心欲砕  官長を拝迎しては心砕けんと欲

鞭捷黎庶令人悲  黎庶を鞭撞するは人をして悲しましむ


小さな町だから何もすることなどないということだったが、役所の仕事はすべて期限つきで忙しい。官長の出迎え見送りをするたびに、いやでいやで心も砕けそうになり、租税の督促などで人民をむち打つのは、つらくてやりきれない」と詠っているごとくであったらしい。
その昔、陶淵明が、せっかく就いた彰沢県の知事を、「吾、五斗米の為に腰を折る能わず。拳拳として郷里の小人に事えんや」(『晋書』陶淵明伝)といってわずか三か月で辞任して故郷に帰っていった、それと同じ気持ちであったようである。


 杜甫も辞退した。



官定後戯贈(官定まりて後戯に贈る)
河西の尉という空名の任官を免ぜられて太子右衛率府兵曹参軍事に任ぜられることにきまったあとで戯に自分自身に贈った詩である。製作時は755年天宝十四載。 * 〔原注〕時免河西尉烏右衛率府兵曹。


官定後戯贈         
不作河西尉、淒涼為折腰。
自分が河西の尉にならないのは官職の先輩や上官に腰を折るというかなしさがあるためなのだ。
老父怕趨走、率府且逍遥。
老父になっているものとしては尉などに使い走りすることになるのはまさかのことと思っている、この右衛率府に置いていただけるということは最初の任官としてはのんびりできるのでしばらくはゆっくりしていようと思う。
耽酒須微禄、狂歌託聖朝。
酒にふけることもしたいが少しばかりの俸禄を頂戴してからだ、もっぱら歌をうたい続け、ありがたい朝廷にこの身を託していくことになる。
故山帰興尽、囘首向風飇

官につけば故郷へ帰りたいという思いがさめてくる、ただ風にむかって遠く故郷の方向をふりむいてみるぐらいのことはするのである。


官定まりて後 戯れに贈る

河西(かせい)の尉()と作()らざるは

淒涼(せいりょう)  腰を折るが為なり

老父(ろうふ)  趨走(すうそう)を怕(おそ)

率府(そっぷ)に且()つ逍遥(しょうよう)

酒に耽(ふけ)るには微禄(びろく)を須()

狂歌して聖朝(せいちょう)に託(たく)

故山(こざん)  帰興(ききょう)()

(こうべ)を囘(めぐ)らして風(ふうひょう)に向かう



官定まりて後 戯れに贈る  訳註と解説

(本文)

官定後戯贈         
不作河西尉、淒涼為折腰。
老父怕趨走、率府且逍遥。
耽酒須微禄、狂歌託聖朝。
故山帰興尽、囘首向風飇。



(下し文)

官定まりて後 戯れに贈る

河西(かせい)の尉()と作()らざるは

淒涼(せいりょう) 腰を折るが為なり

老父(ろうふ) 趨走(すうそう)を怕(おそ)

率府(そっぷ)に且()つ逍遥(しょうよう)

酒に耽(ふけ)るには微禄(びろく)を須()

狂歌して聖朝(せいちょう)に託(たく)

故山(こざん) 帰興(ききょう)()

(こうべ)を囘(めぐ)らして風(ふうひょう)に向かう


(現代語訳)
自分が河西の尉にならないのは官職の先輩や上官に腰を折るというかなしさがあるためなのだ。
老父になっているものとしては尉などに使い走りすることになるのはまさかのことと思っている、この右衛率府に置いていただけるということは最初の任官としてはのんびりできるのでしばらくはゆっくりしていようと思う。
酒にふけることもしたいが少しばかりの俸禄を頂戴してからだ、もっぱら歌をうたい続け、ありがたい朝廷にこの身を託していくことになる。
官につけば故郷へ帰りたいという思いがさめてくる、ただ風にむかって遠く故郷の方向をふりむいてみるぐらいのことはするのである。



(訳註)
官定後戯贈

* 〔原注〕時免河西尉烏右衛率府兵曹。
官定任官が一定したこと。作者にとってこれが最初の任官である。○戯贈贈とは自己に贈ること。○免河西尉免というのからすればすでにその官になって後に免ぜられたもののようである。其の名義ばかりで実務には就くに至らなかったものと見える。河西尉は河西節度使の管下の尉官である。○右衛率府兵曹こ。太子右衛率府兵曹参軍事の官をいい、従八品下という卑い官である。元積の「杜君墓係」の右衛率府宵曹、「旧唐書」本伝の京兆府兵曹参軍、「新唐書」本伝の右衛率府胃曹参軍、とあるのは皆作者のこの詩の自注によって訂正されるべきものである。

不作河西尉、淒涼為折腰。
自分が河西の尉にならないのは官職の先輩や上官に腰を折るというかなしさがあるためなのだ。
淒涼 ものがなしいさま、二字は折腰にかけてみる。○折腰 陶淵明の故事、淵明は五斗米のために腰を折って長官につかえることをいとった。

老父怕趨走、率府且逍遥。
老父になっているものとしては尉などに使い走りすることになるのはまさかのことと思っている、この右衛率府に置いていただけるということは最初の任官としてはのんびりできるのでしばらくはゆっくりしていようと思う。
老父 自ずからいう。○怕趨走 趨走とは事務のためあちらこちらと奔走することをいう。尉官となるときはかかる煩累があることをおそれる。○率府 東宮(皇太子)に属する諸率府の事務官(従八品下)で、太子禁衛軍の兵員の管理をする事務職。 ○しばらく。○逍遥ぶらぶらしているさま。

耽酒須微禄、狂歌託聖朝。
酒にふけることもしたいが少しばかりの俸禄を頂戴してからだ、もっぱら歌をうたい続け、ありがたい朝廷にこの身を託していくことになる。
須微 禄わずかな俸禄がいりようである。○狂歌他もっぱら歌をうたい続ける、詩歌だけをつくったりすることをさす。○託聖朝 聖明の朝廷におのがからだを託す。



故山帰興尽、囘首向風飇。
官につけば故郷へ帰りたいという思いがさめてくる、ただ風にむかって遠く故郷の方向をふりむいてみるぐらいのことはするのである。
故山 故郷の山。○帰興尽 今まで故郷にかえりたいかえりたいというたが官が定まってみるとかえりたいとの興もなくなった、という。これは本心から官を慕って故郷を思わなくなったのではなく、ちょっとそんな気がすることをいう。○向風飇 飇とは下より吹きまくる暴風。必しも暴風をいうのではなく、ただ風の義に使ったもの。




(解説)
吹きつける「風飇」とは、役所での風当たりのことであろうか。時は晩秋で西風の強い日が多くなることも併せているが、十数年士官の道を求めてきた杜甫にとってはこれから先の希望の方が多かったのかもしれない。
官につけることが定まった杜甫は、家族に知らせ、そして長安へ連れて帰る支度をするため、十一月に入ると率先県に出かけた。それは、安禄山が挙兵した十一月九日に先だつ幾日かまえのことだった。このときの旅の様子は「京より奉先県に赴き、懐いを詠ずる五百字」は五言百句に及ぶ長篇である。のちの「北征」の詩五言百四十句と並ぶ雄篇と称されている。




 

後出塞五首 其五 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 99

後出塞五首 其五 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 99




後出塞五首 其五
我本良家子,出師亦多門。
自分はあたりまえの家からでた人間である、従軍するにいろいろの師団長の門をくぐったりしたのだ。
將驕益愁思,身貴不足論。
この安禄山大将はすごく驕っているのでなにかするのではと内心心配している、立身出世して高いくらいについたので何事も論議することもしない横暴さである。
躍馬二十年,恐孤明主恩。
この大将に二十年も軍馬を躍らせて戦ってきた、ただ、唐の明主、天子のご恩にそむきはすまいかとおそれているのだ。
坐見幽州騎,長驅河洛昏。
毎日同じように見ている(異常に気が付く)、幽州の騎兵がうごきだしたのだ、黄河、洛陽の方まで遠みちをかけ、あたりが暗くなるほどほこりをたたせている。
中夜間道歸,故裡但空村。
真夜中になってこっそり抜け道でかえったのだ、ふるさとはみんな逃げたあととみえてだれもいないあきむらになっておる。
惡名幸脫兔,窮老無兒孫。

謀叛人の仲間という悪名からのがれることはできたが、かんがえてみると子も孫もない守るものを持っていない貧乏な年よりの身なのだ。


我は本良家の子なり  出師亦た悶多し

将縞りて益主愁思す  身の貴きは論ずるに足らず

馬を躍らすこと二十年 明主の恩に孤かんことを恐る

坐ろに見る幽州の騎  長駆河洛昏し

中夜間道より帰れば  故里但空郁なり

悪名は幸に脱免せるも 窮老にして児孫無し




後出塞五首 其五  訳註と解説

(本文)
我本良家子,出師亦多門。
將驕益愁思,身貴不足論。
躍馬二十年,恐孤明主恩。
坐見幽州騎,長驅河洛昏。
中夜間道歸,故裡但空村。
惡名幸脫兔,窮老無兒孫。


(下し文)
我は本良家の子なり  出師亦た悶多し
将縞りて益主愁思す  身の貴きは論ずるに足らず
馬を躍らすこと二十年 明主の恩に孤かんことを恐る
坐ろに見る幽州の騎  長駆河洛昏し
中夜間道より帰れば  故里但空郁なり
悪名は幸に脱免せるも 窮老にして児孫無し

(現代語訳)
自分はあたりまえの家からでた人間である、従軍するにいろいろの師団長の門をくぐったりしたのだ。
この安禄山大将はすごく驕っているのでなにかするのではと内心心配している、立身出世して高いくらいについたので何事も論議することもしない横暴さである。
この大将に二十年も軍馬を躍らせて戦ってきた、ただ、唐の明主、天子のご恩にそむきはすまいかとおそれているのだ。
毎日同じように見ている(異常に気が付く)、幽州の騎兵がうごきだしたのだ、黄河、洛陽の方まで遠みちをかけ、あたりが暗くなるほどほこりをたたせている。
真夜中になってこっそり抜け道でかえったのだ、ふるさとはみんな逃げたあととみえてだれもいないあきむらになっておる。
謀叛人の仲間という悪名からのがれることはできたが、かんがえてみると子も孫もない守るものを持っていない貧乏な年よりの身なのだ。


(語訳と訳註)
我本良家子,出師亦多門。

自分はあたりまえの家からでた人間である、従軍するにいろいろの師団長の門をくぐったりしたのだ。
良家子 良家とは普通のよい人家をいう。北方辺境の部隊には素性のわからない傭兵もいた。この詩の主人公は無頼の餞民、若しくは罪人などの出身ではないことをいっている。○出師 師をだすのは大将がだすのであり、ここはそのだす師に従ってでることをいう。従レ征多レ門と同様に用いる。○多門 門は将門をいう。いろいろな大将の門。


將驕益愁思,身貴不足論。
この安禄山大将はすごく驕っているのでなにかするのではと内心心配している、立身出世して高いくらいについたので何事も論議することもしない横暴さである。
愁息 謀叛でもしそうな様子ゆえしんはいする。○身貴 自分のからだが貴位にのぼって出世する。○不足論 そんなことはどうでもよい、とりあげていうほどのことはない。



躍馬二十年,恐孤明主恩。
この大将に二十年も軍馬を躍らせて戦ってきた、ただ、唐の明主、天子のご恩にそむきはすまいかとおそれているのだ。
明主 唐の明主、天子、玄宗をさす。



坐見幽州騎,長驅河洛昏。
毎日同じように見ている(異常に気が付く)、幽州の騎兵がうごきだしたのだ、黄河、洛陽の方まで遠みちをかけ、あたりが暗くなるほどほこりをたたせている。
坐見 毎日同じように見ていると。(異常に気が付く。)○幽州騎 漁陽は幽州に属している、幽州の騎とは禄山部下の騎兵をいう。○長駆 遠のりする。○河洛昏 河は黄河、格は洛水、洛陽にせまることをいう。昏とは兵馬のため塵攻が起って暗くなること。


中夜間道歸,故裡但空村。
真夜中になってこっそり抜け道でかえったのだ、ふるさとはみんな逃げたあととみえてだれもいないあきむらになっている。
間道 ぬけみち。○故裡 ふるさと。○空村 住民たちがさり、だれもいない村。



惡名幸脫兔,窮老無兒孫。
謀叛人の仲間という悪名からのがれることはできたが、かんがえてみると子も孫もない守るものを持っていない貧乏な年よりの身なのだ。
悪名 天下に対しての悪い名称。謀叛人の仲間という。○脱免 そのなかからのがれでる。○窮老 貧乏な年より。○無児孫 子も孫もない。守るものがない。軍隊に二十年青春をささげたのである。


 
(解説)
 謀反を起こす前の安禄山はかなり横暴になり、庶民的な目からもそれがわかるようになっていた。
李林逋宰相、前の張九齢との権力闘争、その後18年李林逋の圧制が続きます。その間に軍事的功績を積み重ねた節度使の安禄山。楊貴妃一族の台頭、李林逋の死(752)、と10年間で、特に叛乱の前五年の間にめまぐるしく権力構図が塗り替えられます。其の中で、はっきりしていることは、①皇帝の権威が著しく低下した、②朝廷は楊貴妃一族による腐敗したものとなる、③軍事的には安禄山を抑えようがないというのが750年代の情勢分析である。

 杜甫が述べているようにひとつの村が空っぽに為ったというのは戦になると予想されて逃げたのである。もし安禄山の側が、統制が取れた軍隊であったのなら庶民対策を万全にしたでしょうから支持を得た。叛乱か革命かの分岐点は、民衆の動向である。古今東西、すべて民衆の支持に後押しされたものでないと続くものではないのだ。権力は握れても大儀がなかった安禄山は翌年息子に殺される。
そして、この乱は10年近くも続く。

後出塞五首 其四 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 98

後出塞五首 其四 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 98


後出塞五首其四
獻凱日繼踵,兩蕃靜無虞。
勝った、勝ったとの報知が毎日、毎日漁陽の方から長安へ入ってくるたびに凱楽を奏ねられた、奚と契丹の兩蕃はしずかでなんにも心配はないといわれるほどに落ち着いた。
漁陽豪俠地,擊鼓吹笙竽。
漁陽はむかしから侠客風の土地がらである、軍師団中では激しく太鼓をうったり、笙や竽を吹きならしたりさわいでいる。
雲帆轉遼海,粳稻來東吳。
江南地方から船団になったので運河から海路遼海へと変更され、軍の食料米も東魯や呉の地方からくるのである。
越羅與楚練,照耀輿台軀。
また越の地方産のうす絹や楚の練絹がおくられ、賎しい身分の兵士らの躯体をてりかがやかしているのだ。
主將位益崇,氣驕淩上都。
ここの軍師団の主大将は一段と位がたかくなっていく、その横柄な態度と威張る気性は都の権威をもしのぐようになってきているのだ。
邊人不敢議,議者死路衢。

ここの群にいる兵士、この辺境の里にいる人たちは詮議や話題すらできないのだ、それを書面どこか口にしただけで殺され路傍に捨てられるのである。


凱を献ずること日々に踵を継ぐ 両蕃静にして虞無しと

漁陽は豪快の地なり 鼓を撃って生竿を吹く

雲帆遼海に転ず 硬稲東呉より来る

越羅と楚練と 輿台の姫に照耀す

主将位益主崇く 気騎りて上都を凌ぐ

辺人敢て議せず 議する者は路衛に死す




後出塞五首 其四  訳註と解説

(本文)
獻凱日繼踵,兩蕃靜無虞。
漁陽豪俠地,擊鼓吹笙竽。
雲帆轉遼海,粳稻來東吳。
越羅與楚練,照耀輿台軀。
主將位益崇,氣驕淩上都。
邊人不敢議,議者死路衢。

(下し文)
凱を献ずること日々に踵を継ぐ 両蕃静にして虞無しと
漁陽は豪快の地なり 鼓を撃って生竿を吹く
雲帆遼海に転ず 硬稲東呉より来る
越羅と楚練と 輿台の姫に照耀す
主将位益主崇く 気騎りて上都を凌ぐ
辺人敢て議せず 議する者は路衛に死す

(現代語訳)
勝った、勝ったとの報知が毎日、毎日漁陽の方から長安へ入ってくるたびに凱楽を奏ねられた、奚と契丹の兩蕃はしずかでなんにも心配はないといわれるほどに落ち着いた。
漁陽はむかしから侠客風の土地がらである、軍師団中では激しく太鼓をうったり、笙や竽を吹きならしたりさわいでいる。
江南地方から船団になったので運河から海路遼海へと変更され、軍の食料米も東魯や呉の地方からくるのである。
また越の地方産のうす絹や楚の練絹がおくられ、賎しい身分の兵士らの躯体をてりかがやかしているのだ。
ここの軍師団の主大将は一段と位がたかくなっていく、その横柄な態度と威張る気性は都の権威をもしのぐようになってきているのだ。
ここの群にいる兵士、この辺境の里にいる人たちは詮議や話題すらできないのだ、それを書面どこか口にしただけで殺され路傍に捨てられるのである。



(語訳と訳註)

獻凱日繼踵,兩蕃靜無虞。
勝った、勝ったとの報知が毎日、毎日漁陽の方から長安へ入ってくるたびに凱楽を奏ねられた、奚と契丹の兩蕃はしずかでなんにも心配はないといわれるほどに落ち着いた。
献凱 「周礼」大司楽に王の師が大いに勝ったときは凱楽を奏させたとある。凱は或は愷に作る、やわらぐこと、かちいくさにはやわらいだ音楽を奏してかえってくる、この献凱は捷報を奉ることをいう。○継踵 使者の足があとからあとからつづくことをいう。禄山は754年天宝十三載の二月、四月、755年十四載の四月にみな奚・契丹を破ったことを奏上したのだ。〇両蕃 奚・契丹の二蕃。○ しんばい。


漁陽豪俠地,擊鼓吹笙竽。
漁陽はむかしから侠客風の土地がらである、軍師団中では激しく太鼓をうったり、笙や竽を吹きならしたりさわいでいる。
漁陽 今の河北省順天府の地方をいう、唐のときは、幽州といい、苑陽郡といい、又そのうちに前州を分かって、漁陽郡といった。○豪快 おとこだての気風。○鼓、笙、竽 みな軍中の宴楽に用いる。


雲帆轉遼海,粳稻來東吳。
江南地方から船団になったので運河から海路遼海へと変更され、軍の食料米も東魯や呉の地方からくるのである。
雲帆 雲を帯びた帆、船団をいう。○ 船団を組んだので、運河での航行が難しく、領海にうつってゆく。○遼海 遼東方面の海。唐の時は揚州(江蘇省)に倉を置き水運によって貨物を東北に輸送した。禄山が苑陽に居るのによって南方より船が赴くのである。〇校稲 うるしね。○東呉 山東地方と江蘇省地方。



越羅與楚練,照耀輿台軀。
また越の地方産のうす絹や楚の練絹がおくられ、賎しい身分の兵士らの躯体をてりかがやかしているのだ。
越羅 漸江省地方でできるうすぎぬ。○楚練 湖南・湖北辺でできるねりぎぬ。○照耀 てりかがやかす。○輿台 「左伝」昭公七年に士以下の臣を順に臭、輿、隷、僚、僕、台とかぞえあげている。いやしきもの、ここは現に兵士となっておるものをさす。○ み、からだ。



主將位益崇,氣驕淩上都。
ここの軍師団の主大将は一段と位がたかくなっていく、その横柄な態度と威張る気性は都の権威をもしのぐようになってきているのだ。
主将 主人である大将、安禄山。○氣驕 威張る気性と横柄な態度。○上都 天子の都をいう。



邊人不敢議,議者死路衢。

ここの群にいる兵士、この辺境の里にいる人たちは詮議や話題すらできないのだ、それを書面どこか口にしただけで殺され路傍に捨てられるのである。
辺入国の辺都の地に居るもの、禄山の管内のものをさす。0 かれこれうわさする。○ 殺されてしぬ。○路衝 衝はちまた。



(解説)
 もともと、身分賎しい者が、貴族内の問題、府兵制度の崩壊、忠誠心の欠如、傭兵性の開始など様々な事柄の場当たり的解決策として、軍隊内の均衡化策をとり、異民族系のものを重用した。また、潘鎮の2極分化により、勢力の強くなるものを抑えるためと、地方の税徴収が上手くいかなくなったことにより、節度使を置いた。東の幽州を拠点にした安禄山、西の安西を拠点にした哥舒翰という構図になっていた。長安の朝廷には、楊国忠が宰相で、そこに宦官勢力も5,6000名に膨れ上がり、軍隊化していた。これ以外にも地方の潘鎮は君王化していた。

 玄宗は裸の大さま状態であったと思われる。忠義な家臣を味方に改革が必要であったが、ここまでの20年近く李林保と楊国忠によって徹底的な粛清がなされていて、忠義な家臣は遠ざけられていたのである。
かくして、誰が、クーデター、叛乱を起してもおかしくない状況になったのである。これに火をつけたのは、3年続きの干ばつ、長雨による物価高騰であった。国民のフラストレーションは最高潮に達していた。

杜甫の詩、750年頃から755年のものに彼らのことはすべて指摘している。罪にならない、当たり障りのない程度に詩を作ったのだ。

後出塞五首 其一 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 95

後出塞五首 其一 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 95

後出塞五首の背景 概要
755年天宝十四年、杜甫は前年、山東から国子監司業(国立大学教授)として長安に帰ってきた蘇源明や、広文館博士の鄭度と、酒を都合しては文学論をたたかわせている。
安禄山は北方にあって着々と反乱の準備をととのえており、二月には、配下にいる漢人の将軍三十二名をすべて蕃将に代えたいと請い、朝廷の許可を得ている。また七月には、蕃将二十二人に兵六千人を率いさせ、馬三千頭を献上したいと玄宗に願い出た。北方で兵を挙げたときに都で内応させようという計画であったものだが、安禄山を信用しきっていた玄宗も、これだけは許可せずに冬まで延期させた。

杜甫は、このような事態を背景にして、「後出塞」五首を作っている。それは、この年の三月、村人に見送られて薊門(幽州の花陽)に出征した一兵士が、将軍(安禄山)の軍に従って奚・契丹の軍と戦うが、戦いに勝った将軍の位はますます高くなってくこと、その驕りは天子を軽んじることが目立ち始め、ついにこの兵士は脱走して故郷に帰ってくるが、わが里は荒れ果てて人一人いない空村になっていた、という筋である。その中で作者杜甫は、「後出塞」五首其四で
主將位益崇、気騎凌上都。
邊人不敢議、議者死路衢。
主将 位は益ます崇く、気は驕りて上都を凌ぐ。
辺人 敢えて議せず、議する者は路衢に死なん

にあるように、安禄山の目に余る行為は、誰もが知るところであった。しかし、玄宗は安禄山にかぎらず、誰れであってもその権威で、圧倒することはできない位弱体化し、頽廃していたのである。したがって、だれが反乱を企ててもおかしくない状況になっていたのである。朝廷内は楊貴妃一族と高力士を筆頭に宦官が大きな力を持ってきており、皇帝自身は楊貴妃に骨抜きにされていたので、正論が通る時代では全くなくなっていたのである。




後出塞五首 其一
男兒生世間。及壯當封侯。
男児はこの世に生れた以上は、壮年になるころには侯の位に命じられるべきである。
戰伐有功業。焉能守舊丘?
戦で相手を征伐をすれば勲功となる。勲功は侯に封ぜられるのだからどうして故郷の丘を守ってじっとしていいものか。
召募赴薊門,軍動不可留。』
募集に応じて将兵され薊門の方へと赴いた、しかし、軍が動くものであり、一つ所に留まっているわけにはゆかないのだ。』

千金買馬鞍,百金裝刀頭。
思い起こせば、自分も千金を費して馬の鞍など馬具を装備し、百金をだして刀具の装備をしてこれから出掛けたのだ。
閭裡送我行,親戚擁道周。
このとき集村や邑人たちは自分の出征するのを見送ってくれ、親戚の者どもは道の曲ったあたりまで自分を取り囲んでくれた。
斑白居上列,酒酣進庶羞。
その中で斑白の老人が上席にいた、その人から酒宴たけなわになるころ、自分にさまざまのご馳走を進めてくれたのだ。
少年別有贈,含笑看吳鉤。』

青年のわかき人はこの出征に対し贈り物をしてくれた。にっこりとして貰った吳鉤の剣の贈りものをまことに嬉しく思い、見つめるのであった。

 

男児世間に生る 壮なるに及びては当に侯に封ぜらるべし

戦伐すれば功業有り 焉ぞ能く旧丘を守らん

召募せられて前門に赴く 軍動いて留まる可らず』


千金馬鞭(鞍)を装い 百金刀頭を装う

閭裡我が行を送り 親戚道周を擁す

斑白なるは上列に居る 酒酣にして庶羞を進む

少年は別に贈有り 笑を含みて呉を看る』





後出塞五首  訳註と解説


(本文)
男兒生世間。及壯當封侯。
戰伐有功業。焉能守舊丘?
召募赴薊門,軍動不可留。』

千金買馬鞍,百金裝刀頭。
閭裡送我行,親戚擁道周。
斑白居上列,酒酣進庶羞。
少年別有贈,含笑看吳鉤。』

(下し文)
男児世間に生る 壮なるに及びては当に侯に封ぜらるべし。
戦伐すれば功業有り 焉ぞ能く旧丘を守らん。
召募せられて前門に赴く 軍動いて留まる可らず。』

千金馬鞍(鞭)を装い 百金刀頭を装う。
閭裡我が行を送り 親戚道周を擁す。
斑白なるは上列に居る 酒酣にして庶羞を進む。
少年は別に贈有り 笑を含みて呉鉤を看る。』

(現代語訳)
男児はこの世に生れた以上は、壮年になるころには侯の位に命じられるべきである。
戦で相手を征伐をすれば勲功となる。勲功は侯に封ぜられるのだからどうして故郷の丘を守ってじっとしていいものか。
募集に応じて将兵され薊門の方へと赴いた、しかし、軍が動くものであり、一つ所に留まっているわけにはゆかないのだ。

思い起こせば、自分も千金を費して馬の鞍など馬具を装備し、百金をだして刀具の装備をしてこれから出掛けたのだ。
このとき集村や邑人たちは自分の出征するのを見送ってくれ、親戚の者どもは道の曲ったあたりまで自分を取り囲んでくれた。
その中で斑白の老人が上席にいた、その人から酒宴たけなわになるころ、自分にさまざまのご馳走を進めてくれたのだ。
青年のわかき人はこの出征に対し贈り物をしてくれた。にっこりとして貰った吳鉤の剣の贈りものをまことに嬉しく思い、見つめるのであった。


(訳註)
男兒生世間。及壯當封侯。
男児はこの世に生れた以上は、壮年になるころには侯の位に命じられるべきである。
及壮封侯 後漢の班超・梁辣、などが述べている。

戰伐有功業。焉能守舊丘?
戦で相手を征伐をすれば勲功となる。勲功は侯に封ぜられるのだからどうして故郷の丘を守ってじっとしていいものか。
旧丘 故郷のおかをいう。○召募 上から召されつのられる。



召募赴薊門,軍動不可留。』
募集に応じて将兵され薊門の方へと赴いた、しかし、軍が動くものであり、一つ所に留まっているわけにはゆかないのだ。』
薊門 関の名、今河北省順天府薊州にある。安禄山の根拠地の方面である。



千金買馬鞍,百金裝刀頭。
自分も千金を費して馬の鞍など馬具を装備し、百金をだして刀具の装備をしてこれから出掛けるのだ。
 装飾する。○馬鞭 鞭を鞍に作る本があるが、鞍の方がよろしいであろう。○刀頭 刀具、馬の環。



閭裡送我行,親戚擁道周。
このとき集村や邑人たちは自分の出征するのを見送ってくれ、親戚の者どもは道の曲ったあたりまで自分を取り囲んでくれた。
閭裡 閭も裡も二十五家をさす。ここは自分の村をいう。○ だきかかえる、包囲状をなすこと。○道周 周とは道の曲りめをいう。

 
斑白居上列,酒酣進庶羞。
その中で斑白の老人が上席にいた、その人から酒宴たけなわになるころ、自分にさまざまのご馳走を進めてくれたのだ。
斑白 ごましおあたまの老人。○上列 上席。○進庶羞 進とは行者の前へもちだすこと、庶羞はもろもろのすすめもの、御馳走の品々。

少年別有贈,含笑看吳鉤。』
青年のわかき人はこの出征に対し贈り物をしてくれた。にっこりとして貰った吳鉤の剣の贈りものをまことに嬉しく思い、見つめるのであった。』
少年 青年のわかき人。○ 行者に対する贈りもの、即ち次句の吳鉤。○含笑 行者がにっこりする、吳鉤を贈られたのがうれしいのである。○吳鉤 呉の地方でできる攣曲したつるぎ。



韻  侯/丘、留、/頭、周、羞、鉤。



後出塞五首其一
男兒生世間,及壯當封侯。戰伐有功業,焉能守舊丘?
召募赴薊門,軍動不可留。千金買馬鞍,百金裝刀頭。
閭裡送我行,親戚擁道周。斑白居上列,酒酣進庶羞。
少年別有贈,含笑看吳鉤。

男児世間に生る 壮なるに及びては当に侯に封ぜらるべし。
戦伐すれば功業有り 焉ぞ能く旧丘を守らん。
召募せられて前門に赴く 軍動いて留まる可らず。
千金馬鞍(鞭)を装い 百金刀頭を装う。
閭裡我が行を送り 親戚道周を擁す。
斑白なるは上列に居る 酒酣にして庶羞を進む。
少年は別に贈有り 笑を含みて呉鉤を看る。



其二
朝進東門營,暮上河陽橋。落日照大旗,馬鳴風蕭蕭。
平沙列萬幕,部伍各見招。中天懸明月,令嚴夜寂寥。
悲笳數聲動,壯士慘不驕。借問大將誰,恐是霍嫖姚。

其三
古人重守邊,今人重高勛。豈知英雄主,出師亙長雲。
六合已一家,四夷且孤軍。遂使貔虎士,奮身勇所聞。
拔劍擊大荒,日收胡馬群。誓開玄冥北,持以奉吾君。

其四
獻凱日繼踵,兩蕃靜無虞。漁陽豪俠地,擊鼓吹笙竽。
雲帆轉遼海,粳稻來東吳。越羅與楚練,照耀輿台軀。
主將位益崇,氣驕淩上都。邊人不敢議,議者死路衢。

其五
我本良家子,出師亦多門。將驕益愁思,身貴不足論。
躍馬二十年,恐孤明主恩。坐見幽州騎,長驅河洛昏。
中夜問道歸,故裡但空村。惡名幸脫兔,窮老無兒孫。

醉歌行 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 94

醉歌行 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 94

醉歌行
いとこの子杜勤が落第して故郷へ帰るのを送り、別れの宴で酔って作ったうたである。製作時は天宝十四載の春、長安での作。    


酔歌行  * 〔原注〕別従姪勤落第歸。
陸機二十作文賦,汝更小年能綴文。
陸機は年二十にして檄文や賦を作ったというが、君はそれよりも若くて能く詩文をつづるではないか。
總角草書又神速,世上兒子徒紛紛。
角髪の少年時代から草書を不思議なほど早く書いていた、世間の子供等は君に比べると徒らに多くいるというだけなのだ。
驊騮作駒已汗血,鷙鳥舉翮連青雲。
驊騮の駿馬はわか駒のときからすでに血を汗にするだけの素質はあり、強い鳥は翮を挙げればただちに青雲につらなる能力を持っている。
詞源倒流三峽水,筆陣獨掃千人軍。』

君の文章の力は詞源濠々としてあふれるほどであり、三峡の水を傾倒しておしながすようである、筆陣にたてば一人を以て千人の軍を掃却することができる。』

只今年才十六七,射策君門期第一。
しかし今やっと十六七歳の少年であって、朝廷において試験問題にお答えして第一の成績を得ようとするのだ。
舊穿楊葉真自知,暫蹶霜蹄未為失。
かねて柳葉を射て百発百中の技能あることは君自身が知っている。ちょっと霜蹄がつまずいた(落第した)ぐらいでは過失とするにはあたらぬ。
偶然擢秀非難取,會是排風有毛質。
大勢いたとしてもたまたま抜擢されるの運命にありつけぬわけではなく、きっときみは風を排して上るだけの猛鳥の本質はもっているのだ。
汝身已見唾成珠,汝伯何由發如漆?』

わたしは君がすでに荘子が言う「唾さえ珠を成す」ということをみとめているが、君のおじのわたしがどうしたらふたたび髪が漆のように黒くなることができるだろうか。(唾を玉にするようにうまく表現するのはできても、歳を若くすることはできない。)』

春光潭沱秦東亭,渚蒲牙白水荇青。
さて汝を見送ろうとすると、長安城東の亭では春の光り、かげろうが動いて、なぎさの蒲の芽は白くめぐみ、あさざの葉は青く水面にういている。
風吹客衣日杲杲,樹攪離思花冥冥。
風は頬を撫で君の旅衣を吹き払い、太陽は燦々とかがやいている。樹上の花は暗くなるほど覆いかぶさって咲きてこのわかれを離れがたいものに思わせる。
酒盡沙頭雙玉瓶,眾賓皆醉我獨醒。
水辺の砂浜にころがっている二つの玉の酒瓶には酒がなくなってしまった。他のお客たちはみな酔われたがわたしだけは別離の悲しさのため酔うことができない。
乃知貧賤別更苦,吞聲躑躅涕淚零。』

ここに至って貧乏生活のなかでの別れというものが特別にさらに苦しいものであることがよくわかった。言うべき言葉を飲み込んでしまうほどに嗚咽して泣き、足のあゆみもすすまず、ただなみだがおつるばかりである。


(酔歌行)

陸機二十にして文の賊を作る、汝更に少年にして能く文を綴る

総角にして草書又た神速、世上の児子徒に紛紛たり

醇騒駒と作って己に汗血なり、鷲鳥副を挙げて青雲に連なる

詞源倒に流す三昧の水、筆陣独り掃う千人の軍』


只今年綾に十六七、射策君門に第一を期す

旧楊葉を穿つは兵に自ら知る、暫く粛蹄蕨く未だ失えりと為さず

偶然擢秀取り難きに非ず、会ず是れ排風毛賀有り

汝が身己に見る唾珠を成すを、汝が伯何に由ってか髪漆の如くならん』


春光渾陀たり秦の東亭、渚蒲芽白くして水芹青し

風は客衣を吹いて日呆呆たり、樹は離息を摸して花冥冥たり

酒は尽く沙頭の双玉瓶、衆賓皆酔うも我独り醒めたり

乃ち知る貧餞の別るること更に苦しきを、声を呑んで衡燭沸涙零つ』





訳註と解説


(本文)
陸機二十作文賦,汝更小年能綴文。
總角草書又神速,世上兒子徒紛紛。
驊騮作駒已汗血,鷙鳥舉翮連青雲。
詞源倒流三峽水,筆陣獨掃千人軍。』

(下し文)
陸機二十にして文の賊を作る、汝更に少年にして能く文を綴る
総角にして草書又た神速、世上の児子徒に紛紛たり
醇騒駒と作って己に汗血なり、鷲鳥副を挙げて青雲に連なる
詞源倒に流す三昧の水、筆陣独り掃う千人の軍』


(現代語訳)


酔歌行 酔うての歌を詩に作る。○従姪 いとこの子をいう。○ 其の人の名、一に勤を勧に作る。*〔原注〕別従姪勤落第歸。-

陸機は年二十にして檄文や賦を作ったというが、君はそれよりも若くて能く詩文をつづるではないか。
角髪の少年時代から草書を不思議なほど早く書いていた、世間の子供等は君に比べると徒らに多くいるというだけなのだ。
驊騮の駿馬はわか駒のときからすでに血を汗にするだけの素質はあり、強い鳥は翮を挙げればただちに青雲につらなる能力を持っている。
汝の文章の力は詞源濠々としてあふれるほどであり、三峡の水を傾倒しておしながすようである、筆陣にたてば一人を以て千人の軍を掃却することができる。』

文、粉、、雲、軍。


酔歌行

陸機二十作文賦,汝更小年能綴文。
陸機は年二十にして檄文や賦を作ったというが、君はそれよりも若くて能く詩文をつづるではないか。
陸機 西晋の大鹿・元康時代の文学者。陸機(りくき261年 - 303年)呉・西晋の文学者・政治家・武将。七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘のように響きわたったという。儒学の教養を身につけ、礼に外れることは行なわなかった。同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二陸」とも呼ばれる。六朝時代を代表する文学者の一人であり、同時代に活躍した潘岳と共に、「潘陸」と並び称されている。特に「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の代表的著作として名高い。〇二十 二十歳。○文賦 文学を論じた賦である。○ 勤をさす。○更少年 後に十六七とあるのからすれば、勤は機よりも年わかである。〇校文 詩文をつづりつくる。

總角草書又神速,世上兒子徒紛紛。
角髪の少年時代から草書を不思議なほど早く書いていた、世間の子供等は君に比べると徒らに多くいるというだけなのだ。
総角 角髪の二つを一つにくくったものをいう、少年の姿。○草書 書体の名、走りがき。○神速 ふしぎに筆をはこぶことがはやい。○世上児子 世間の少年。○徒紛紛 いたずらに多い。

驊騮作駒已汗血,鷙鳥舉翮連青雲。
驊騮の駿馬はわか駒のときからすでに血を汗にするだけの素質はあり、強い鳥は翮を挙げればただちに青雲につらなる能力を持っている。
驊騮 くり毛の馬、周の穆王の八匹の駿馬の一つ。○作駒 わかごまであるときから。○汗血 大宛国の天馬の如く血を汗にだす。○鷙鳥 強い鳥。○ たちばね。○連青雲 たかく飛ぶことをいう。

詞源倒流三峽水,筆陣獨掃千人軍。』
汝の文章の力は詞源濠々としてあふれるほどであり、三峡の水を傾倒しておしながすようである、筆陣にたてば一人を以て千人の軍を掃却することができる。』
詞源倒流 文章の力を江水を以てたとえる。詞源は文章の湧きでる源をいう、倒流とはさかさまにぶんながすこと、必しも逆流とは解さぬ。〇三峡水 瞿塘峡(くとうきょう、8km)、巫峡(ふきょう、45km)、西陵峡(せいりょうきょう、66km)が連続する景勝地である。○筆陣 文学の世界を戦場を以てたとえる。○独掃 ひとりでなぎはらう。〇千人軍 多くの軍勢をいう。





(本文)
只今年才十六七,射策君門期第一。
舊穿楊葉真自知,暫蹶霜蹄未為失。
偶然擢秀非難取,會是排風有毛質。
汝身已見唾成珠,汝伯何由發如漆?』

(下し文)
只今年綾に十六七、射策君門に第一を期す
旧楊葉を穿つは兵に自ら知る、暫く粛蹄蕨く未だ失えりと為さず
偶然擢秀取り難きに非ず、会ず是れ排風毛賀有り
汝が身己に見る唾珠を成すを、汝が伯何に由ってか髪漆の如くならん』

(現代語訳)
しかし今やっと十六七歳の少年であって、朝廷において試験問題にお答えして第一の成績を得ようとするのだ。
かねて柳葉を射て百発百中の技能あることは君自身が知っている。ちょっと霜蹄がつまずいた(落第した)ぐらいでは過失とするにはあたらぬ。
大勢いたとしてもたまたま抜擢されるの運命にありつけぬわけではなく、きっときみは風を排して上るだけの猛鳥の本質はもっているのだ。
わたしは君がすでに荘子が言う「唾さえ珠を成す」ということをみとめているが、君のおじのわたしがどうしたらふたたび髪が漆のように黒くなることができるだろうか。(唾を玉にするようにうまく表現するのはできても、歳を若くすることはできない。)』


文、粉、雲、軍。

只今年才十六七,射策君門期第一。
しかし今やっと十六七歳の少年であって、朝廷において試験問題にお答えして第一の成績を得ようとするのだ。
十六七 勤の年齢をいう。○射策 漢の時試験に対策と射策とがあり、対策は経義を以て顕わに問い、射策は難問疑義を甲乙の策(ふだ)に書き、問題をくじびきでとって答えさせた。○君門 天子のごもん、朝廷をいう。



舊穿楊葉真自知,暫蹶霜蹄未為失。
かねて柳葉を射て百発百中の技能あることは君自身が知っている。ちょっと霜蹄がつまずいた(落第した)ぐらいでは過失とするにはあたらぬ。
 在来、従来の義。かねて。○穿楊葉 「戦国策」に見える楚の養由基の故事、養由基は柳葉を去ること百歩にしてこれを射、百発百中であったといわれる弓の名人、勤が文学におけるや養由基の弓におけるほどの技能があるというのである。作者は柳を場と改めて用いている。〇自知 自分自身が知っている。○暫蹶霜蹄 これは人を馬を以てたとえていう。上の「驊騮」の語を承ける。勤が落第したのは馬の霜をふむひづめがちょっとつまずいたようなものである。○ 過失、失策。


偶然擢秀非難取,會是排風有毛質。
大勢いたとしてもたまたま抜擢されるの運命にありつけぬわけではなく、きっときみは風を排して上るだけの猛鳥の本質はもっているのだ。
擢秀 秀でているものを擢く、及第することをいう。○取擢秀ということを取り得ることをいう。○俗語。○排風風をおしわけてとぶ、上の「鷲鳥」の語を承ける。○毛質羽毛のつよい本質。

汝身已見唾成珠,汝伯何由發如漆?』
わたしは君がすでに荘子が言う「唾さえ珠を成す」ということをみとめているが、君のおじのわたしがどうしたらふたたび髪が漆のように黒くなることができるだろうか。(唾を玉にするようにうまく表現するのはできても、歳を若くすることはできない。)』
汝身己見 己見汝身と同じ、見るとは作者が見ることをいう。○唾成珠 「荘子」に本づく、つばを吐いてもそれがみな珠玉になる、片言たりとも美であることをいう。○汝伯 伯とは叔父伯父の伯、杜甫は勤の伯父の尊属にあたる人になる。汝伯とは杜甫をさす。○何由 いかにして。○髪如漆 わかがえって白髪がうるしのように黒くなる。




(本文)
春光潭沱秦東亭,渚蒲牙白水荇青。
風吹客衣日杲杲,樹攪離思花冥冥。
酒盡沙頭雙玉瓶,眾賓皆醉我獨醒。
乃知貧賤別更苦,吞聲躑躅涕淚零。』

(下し文)
春光渾陀たり秦の東亭、渚蒲芽白くして水芹青し
風は客衣を吹いて日呆呆たり、樹は離息を摸して花冥冥たり
酒は尽く沙頭の双玉瓶、衆賓皆酔うも我独り醒めたり
乃ち知る貧餞の別るること更に苦しきを、声を呑んで衡燭沸涙零つ』

(現代語訳)

さて汝を見送ろうとすると、長安城東の亭では春の光り、かげろうが動いて、なぎさの蒲の芽は白くめぐみ、あさざの葉は青く水面にういている。
風は頬を撫で君の旅衣を吹き払い、太陽は燦々とかがやいている。樹上の花は暗くなるほど覆いかぶさって咲きてこのわかれを離れがたいものに思わせる。
水辺の砂浜にころがっている二つの玉の酒瓶には酒がなくなってしまった。他のお客たちはみな酔われたがわたしだけは別離の悲しさのため酔うことができない。

ここに至って貧乏生活のなかでの別れというものが特別にさらに苦しいものであることがよくわかった。言うべき言葉を飲み込んでしまうほどに嗚咽して泣き、足のあゆみもすすまず、ただなみだがおつるばかりである。

春光潭沱秦東亭,渚蒲牙白水荇青。
さて君を見送ろうとすると、長安城東の亭では春の光り、かげろうが動いて、なぎさの蒲の芽は白くめぐみ、あさざの葉は青く水面にういている。
潭沱 「江賦」にみえる。かげろう淡蕩、また駄蕩に同じ。○ 長安をさす。○東亭 城外の東亭。覇陵橋のたもとにあった亭。○渚蒲 なぎさに生えた蒲。○水荇 あさざ。

風吹客衣日杲杲,樹攪離思花冥冥。
風は頬を撫で君の旅衣を吹き払い、太陽は燦々とかがやいている。樹上の花は暗くなるほど覆いかぶさって咲きてこのわかれを離れがたいものに思わせる。
客衣 客とは勤をさす。○杲杲 太陽の樹上に燦々とかがやくさま。○ かきみだす。○離思わかれのこころ。○花冥冥 冥冥とは咲きさかっておおいかぶさりくらいことをいう、花は即ち樹上の花。
 

酒盡沙頭雙玉瓶,眾賓皆醉我獨醒。
水辺の砂浜にころがっている二つの玉の酒瓶には酒がなくなってしまった。他のお客たちはみな酔われたがわたしだけは別離の悲しさのため酔うことができない。
 なくなる。○沙頭 水辺の砂浜をいう。○玉瓶一対の玉の酒瓶(さかがめ)。○衆賓 屈原の「漁父辞」の「衆人ハ皆酔エルニ我ハ独り醒ム」というのを用いる。それは比喩であるが、これは実際別離の悲しさのため他人は酔っても自己は酔わぬことをいう。


乃知貧賤別更苦,吞聲躑躅涕淚零。』
ここに至って貧乏生活のなかでの別れというものが特別にさらに苦しいものであることがよくわかった。言うべき言葉を飲み込んでしまうほどに嗚咽して泣き、足のあゆみもすすまず、ただなみだがおつるばかりである。
貧賤別 貧乏生活のなかのわかれ。〇吞聲 しのびねになく。○躑躅 行きて進まざるさま。○涕淚 はなみずとなみだ。○ 落ちる。


(解説)
○詩型 七言歌行。
○押韻 文、粉、雲、軍。/七、一、失、質、漆。/亭、青、冥、醒、零。



落第して帰る甥に贈った詩ということであるが、長安の東の門から東へ二つ目の橋のたもとに㶚陵亭があった。李白の「灞陵行送別」など、主に洛陽に向かう長安から地方へ向かう旅人との別れの場所であった。堤には柳が植えられており、「折柳」して別れたところである。
 普通なら、この㶚陵亭で宴席ということであろう。また、落第をして帰るから、そっと帰してやるものかもしれない。しかし、酒ビン2つ空にして、亭でなく砂浜である。持たせてやるものがなく、この詩を懐に入れて帰ったのであろう。
 しかし杜甫の本音、誠実なところが、最後の聯にある。
 「乃ち知る貧餞の別るること更に苦しきを」。
 これが誠実な杜甫の一面をよく表している。落第して帰る側からすれば、帰ろうとすると、引き留められを繰り返しているようだ。「もういいよ、おじさん!」と、言ったとか、言わないとか・・・・・・・。

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送蔡希魯都尉還隴右,因寄高三十五書記 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 93

送蔡希魯都尉還隴右,因寄高三十五書記 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 93
 

送蔡希魯都尉還隴右,因寄高三十五書記 
陳右の節度使である哥舒翰の部下である都尉の官の蔡希魯が陳右へかえるのを送り、すでに隣右に居る親友高適に寄せた詩である。製作時は755年天宝十四載春の作。44歳


送蔡希魯都尉還隴右,
    因寄高三十五書記

     * 〔原注〕時哥舒人奏。勘察子先蹄

蔡希魯都尉君が隴右にかえるのを送り、これをもって高三十五書記に寄せるものである。*原文に注あり、この時、哥舒翰将軍は軍事報告で朝廷にいた。そのため高適察子を先に西寧府の就かせた。
蔡子勇成癖,彎弓西射胡。
蔡希魯は平生勇壮なことをするのが習癖になっていて、弓をひいて西の方胡の弓を構えているえびすを射ることがある。
健兒寧闘死,壯士恥為儒。
彼は健児であり壮士であって、むしろたたかって死ぬのをよしとするので、儒者などになることを恥とかんがえている。
官是先鋒得,才緣挑戰須。
いま都尉という官位にあるのは、戦で先鋒となってはたらいたために得たものである。彼の戦に対する才能は敵に対して戦を挑むのに大切なことなのである。
身輕一鳥過,槍急萬人呼!』

彼の身の軽やかなことは一羽の鳥より過ぎているのであり、彼が槍を急につきだす時には驚き万人が呼ぶのだ。』
雲幕隨開府,春城赴上都。
天下の幕府のなかで哥舒開府に随っているのだが、春の長安城に赴くことになったのである。
馬頭金匼匝,駝背錦糢糊。』
そのときは馬頭には黄金の路頭(おもがい)を匼匝とぐるりと囲んでいる、駱駝の背には錦の帕(はらかけ)を糢糊とたらして来る。』
咫尺雪山路,歸飛青海隅。

任地にかえるにおよんで、彼の意気は遠い雪山の路でも咫尺ほどまぢかとかんがえられるほど盛んで、青海のかたすみへとぶように帰ってゆくのである。
上公猶寵錫,突將且前驅。』
主人開府公はまだ天子より恩寵を蒙って物をたまわることにはなっていない、馳突の将といわれる彼がとにかく前駆となって一足さきにゆくのである。』
漢水黃河遠,涼州白麥枯。
漢の天子の使者ともいうべき貴君は遠く黄河の奥までゆくが、涼州のあたりはその頃は白麦が熟して夏になっているだろう。
因君問消息,好在阮元瑜?』

貴君がゆくついでに自分は友人の消息をたずねたい、あの阮元瑜(高適)は達者でいるのかどうか、と。



(蔡希魯都尉が陳右に還るを送り、因って高三十五書記に寄す)

蔡子勇 癖を成す 弓を彎きて西胡を射る

健児寧ろ闘って死せん 壮士儒為るを恥ず

官は是れ先鋒にて得 才は挑戦に縁りて須つ

身軽くして一鳥過ぎ 槍急にして万人呼ぶ』

 

雲幕開府に随い 春城上都に赴く

馬頭金匝たり 駄背錦糢糊たり』

咫尺雪山の路 帰り飛ぶ青海の隅

上公猶お寵錫 突将且つ前駆す』

漢使黄河遠く 涼州白麦枯る

君に因りて消息を問う 好在なりや阮元瑜。




送蔡希魯都尉還隴右,因寄高三十五書記 訳註と解説
*原注 時哥舒人奏。勘察子先蹄

(下し文)
蔡希魯都尉が隴右に還るを送り、因って高三十五書記に寄す*原文に注あり、時に哥舒翰 人奏せり。勘いて察子を先蹄す。
(現代語訳)

蔡希魯都尉君が隴右にかえるのを送り、これをもって高三十五書記に寄せるものである。*原文に注あり、この時、哥舒翰将軍は軍事報告で朝廷にいた。そのため高適察子を先に西寧府の就かせた。

察希魯 人名。○都尉 唐の時、諸府には折衝都尉・左右果毅都尉があった。○隴右 道の名、今の甘粛地方、哥舒翰はそこの節度使で甘粛省西寧府に駐在した。○高三十五書記 高適、適はすでに翰の幕僚であった。○哥舒 哥舒翰。〇人奏 京師(長安)に入り天子に軍務の事を上奏する、事節は754年天宝十四載春である。○勘 強いて命ずる。○蔡子 希魯をいう。○先蹄 この時哥舒翰は途中で糖尿病で動けなく京師(長安)に留どまった。因って希魯を先に陳右へかえらせたのである。



 

(本文)
蔡子勇成癖,彎弓西射胡。
健兒寧闘死,壯士恥為儒。
官是先鋒得,才緣挑戰須。
身輕一鳥過,槍急萬人呼!』

(下し文)
蔡子勇 癖を成す 弓を彎きて西胡を射る
健児寧ろ闘って死せん 壮士儒為るを恥ず
官は是れ先鋒にて得 才は挑戦に縁りて須つ
身軽くして一鳥過ぎ 槍急にして万人呼ぶ』

(現代語訳)
蔡希魯は平生勇壮なことをするのが習癖になっていて、弓をひいて西の方胡の弓を構えているえびすを射ることがある。
彼は健児であり壮士であって、むしろたたかって死ぬのをよしとするので、儒者などになることを恥とかんがえている。
いま都尉という官位にあるのは、戦で先鋒となってはたらいたために得たものである。彼の戦に対する才能は敵に対して戦を挑むのに大切なことなのである。
彼の身の軽やかなことは一羽の鳥より過ぎているのであり、彼が槍を急につきだす時には驚き万人が呼ぶのだ。』



蔡子勇成癖,彎弓西射胡。
蔡希魯は平生勇壮なことをするのが習癖になっていて、弓をひいて西の方胡の弓を構えているえびすを射ることがある。
勇成癖 勇壮なことをするのが平生の習癖となっている。○彎弓 弓をひく。○西射胡 胡はえびす、吐蕃をさす。騎馬民族・遊牧民族であるため、弓の合戦が主となる。

健兒寧闘死,壯士恥為儒。
彼は健児であり壮士であって、むしろたたかって死ぬのをよしとするので、儒者などになることを恥とかんがえている。
健児 壮士のこと、軍人であることをいう。○寧闘死 いっそたたかって死ぬのがましじゃ。○壮士 上の健児と同じ、軍人であることをいう。○恥為儒 儒者になることは恥とおもう。



官是先鋒得,才緣挑戰須。
いま都尉という官位にあるのは、戦で先鋒となってはたらいたために得たものである。彼の戦に対する才能は敵に対して戦を挑むのに大切なことなのである。
 都尉の官をさす。○先鋒得 戦場で先鋒をつとめたために得たのである。〇才 或は材に作る。材器、伎価をいう。○挑戦 敵に対して戦を求めること、挑はいどむ。○ そのいりようなことをいう。



身輕一鳥過,槍急萬人呼!』
彼の身の軽やかなことは一羽の鳥より過ぎているのであり、彼が槍を急につきだす時には驚き万人が呼ぶのだ。』
身軽 身体のはたらきの軽捷なこと。〇一鳥過一つの鳥が飛びすぎるよう。○槍急 槍を急につきだす。〇万人呼 多くの人がそのわざに驚きさけぶ。




(本文)
雲幕隨開府,春城赴上都。
馬頭金匼匝,駝背錦糢糊。』

(下し文)
雲幕開府に随い 春城上都に赴く
馬頭金匼匝たり 駝背錦糢糊たり』

 (現代語訳)
天下の幕府のなかで哥舒開府に随っているのだが、春の長安城に赴くことになったのである。
そのときは馬頭には黄金の路頭(おもがい)を匼匝とぐるりと囲んでいる、駱駝の背には錦の帕(はらかけ)を糢糊とたらして来る。』



雲幕隨開府,春城赴上都。
天下の幕府のなかで哥舒開府に随っているのだが、春の長安城に赴くことになったのである。
雲幕 この雲幕は雲の横たわっている幕ということであろう。幕府の幕をいう、軍中にあっては幕を以て府となす。○随開府 開府は開府儀同三司の位、哥舒翰をさす。○春城 春時の長安城。○上都 長安をさす。



馬頭金匼匝,駝背錦糢糊。』
そのときは馬頭には黄金の路頭(おもがい)を匼匝とぐるりと囲んでいる、駱駝の背には錦の帕(はらかけ)を糢糊とたらして来る。』
○金匼匝 匼匝(こうそう)はぐるりと囲むさま、金とは黄金でかざった路頭(馬面をからめるつな)をいう。○駝背 らくだのせなか。哥舒翰は朝廷へ使者をだすときいつも自駱駝に乗って一日に五百里を馳せしめたと小う。○錦糢糊 模糊はおぼろなさま。錦とは錦でつくった馬の腹かけをいう。
 


(本文)
咫尺雪山路,歸飛青海隅。
上公猶寵錫,突將且前驅。』
漢水黃河遠,涼州白麥枯。
因君問消息,好在阮元瑜?』


 (下し文)
咫尺(ししゃく)雪山の路 帰り飛ぶ青海の隅
上公猶お寵錫(ちょうしゃく) 突将且つ前駆す』
漢使黄河遠く 涼州白麦枯る
君に因りて消息を問う 好在なりや阮元瑜。』


(現代語訳)
任地にかえるにおよんで、彼の意気は遠い雪山の路でも咫尺ほどまぢかとかんがえられるほど盛んで、青海のかたすみへとぶように帰ってゆくのである。
主人開府公はまだ天子より恩寵を蒙って物をたまわることにはなっていない、馳突の将といわれる彼がとにかく前駆となって一足さきにゆくのである。』

漢の天子の使者ともいうべき貴君は遠く黄河の奥までゆくが、涼州のあたりはその頃は白麦が熟して夏になっているだろう。
貴君がゆくついでに自分は友人の消息をたずねたい、あの阮元瑜(高適)は達者でいるのかどうか、と。



咫尺雪山路,歸飛青海隅。
任地にかえるにおよんで、彼の意気は遠い雪山の路でも咫尺ほどまぢかとかんがえられるほど盛んで、青海のかたすみへとぶように帰ってゆくのである。
咫尺 咫は八寸、尺は一尺。咫尺とはまぢかとみなすことをいう。○雪山 天山をいう、此の句は蓋し「班超伝賛」の「坦歩葱雪、咫尺竜沙」の句意を用いる。陳右はそこからは実は遠いところにあるが遠からずとかんがえているというのである。一説に雪山は武威の南にある山をいうという、其の説によれば咫尺とは実際に近いことをいう。○帰飛 飛とは、はやくかえるをいう。○青海隅 青海は陳右の近西にある、隅はかたすみ。青を或は西に作る。



上公猶寵錫,突將且前驅。』
主人開府公はまだ天子より恩寵を蒙って物をたまわることにはなっていない、馳突の将といわれる彼がとにかく前駆となって一足さきにゆくのである。』
上公 公の上位にあるもの、哥舒翰は開府の待遇をうける故に上公という。○猶寵錫 寵錫とは天子より恩寵を蒙って物をたまわることをいう。実は病のために滞留しているのをかく辞をかざっていったもの。猶とはいまだにの意。○突将 馳突を能くする将、察都尉をさす。○ しばらく。○前駆 さきがけをする。



漢使黃河遠,涼州白麥枯。
漢の天子の使者ともいうべき貴君は遠く黄河の奥までゆくが、涼州のあたりはその頃は白麦が熟して夏になっているだろう。
漢使 漢の張鶱(ちょうけん)は武帝のために西域に使いした、それらをおもいあわせてかくいう。張鶱が唐の天子の使者となってゆくことをいう。○黄河遠 隴右は黄河の上流にある。○涼州 甘粛省涼州府武威県治、即ち河西節度使の駐在所。〇白麦枯 白麦は涼州地方の産物、用いて酒を醸すという。枯とは成熟して稈(わら)の枯死することをいう、それにより夏になったことをいう。



因君問消息,好在阮元瑜?』
貴君がゆくついでに自分は友人の消息をたずねたい、あの阮元瑜(高適)は達者でいるのかどうか、と。
蔡をさす。○消息 たより。○好在 お達者でしょうか。○阮元瑜 魏の阮籍の父瑀、字は元瑜、書檄の文章をよくした。作者はつねに瑀を以て高適にたとえてよんでいる、他の詩にも多くの例がある。


上韋左相二十韻 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 92

上韋左相二十韻 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 92

韋左相にたてまつった詩。天宝14載 755年 44歳 初春 

以前、李白と別れ、洛陽から長安に登って初めのころ詩をたてまつっている。
奉贈韋左丞丈二十二韻 32(五言古詩747年36歳)

士官活動をしている杜甫が自分の才能を示そうとかなり焦っている様子がよくでている。現在残っている就職活動の詩は、基本的に、長詩である。
この詩について、訳注と解説は割愛する。


上韋左相二十韻
鳳歷軒轅紀,龍飛四十春。八荒開壽域,一氣轉洪釣。』

霖雨思賢佐,丹青憶老臣。應圖求駿馬,驚代得麒麟。
沙汰江河濁,調和鼎鼐新。韋賢初相漢,範叔巳歸秦。
盛業今如此,傳經固絕倫。豫章深出地,滄海闊無津。』

北斗司喉舌,東方領縉紳。持衡留藻鑒,聽履上星辰。
獨步才超古,餘波德照鄰。聰明過管輅,尺牘倒陳遵。
豈是池中物?由來席上珍。廟堂知至理,風俗盡還淳。』

才傑俱登用,愚蒙但隱淪。長卿多病久,子夏索居頻。
回首驅流俗,生涯似眾人。巫鹹不可問,鄒魯莫容身。
感激時將晚,蒼茫興有神。為公歌此曲,涕淚在衣巾。』

(韋左相に上る 二十韻)
鳳暦(ほうれき)軒轅(けんえき)紀す 竜飛ぶこと四十春、八荒 壽域を開,一氣 洪釣(こうきん)転ず』

霖雨賢佐を思い,丹青老臣を憶う。
圖に應じて駿馬を求め,驚代(きょうだい) 麒麟を得たり。
江河の濁れるを沙汰し 鼎鼐(ていだい)の新なるを調和す。
韋賢初めて漢に相たり 范叔 己に秦に帰る。
盛業今此の如し、経を伝うる固と絶倫なり。
予樟(よしょう)深く地を出づ、蒼海(そうかい)闊(ひろ)くして津無し。』

北斗喉舌を司り、東方縉紳(しんしん)を領す。
持衡(きこう)藻鑒(そうかん)を留め、聴履(ちょうり)星辰に上る。
独歩才古に超え、余波 徳 隣を照らす。
聡明管路に過ぎ、尺牘(せきとく) 陳遵(ちんじゅん)を倒す。
豈 走れ地中の物ならんや 由来席上の珍なり
廟堂(びょうどう)至理を知らば 風俗尽く淳に還らん』

才傑供に登用せらる 愚蒙但だ隠淪す
長卿多病久しく 子夏 索居 頻(しき)りなり
首を回らせば流俗に駆らる 生涯衆人に似たり
巫鹹(ふかん)問う可からず 鄒魯(しゅうろ)身を容るる莫し
感激時将に晩からんとす 蒼茫興神有り
公の為めに此の曲を歌う 涕淚衣巾に在り』



(現代語訳)
むかし黄帝軒壊氏が紀(き)したという鳳暦がつづいている、今の天子が君臨されて四十度目の春が来た。
天下太平、八方のはてまで人々長寿を保つの世界が開かれている、造化の大自然はなめらかに宇宙間の元気に転じた。』

我が君(玄宗)は殿の高宗の如く大草の霧雨にも充つべき賢き輔佐の臣を思われ、漢の成帝の如く赤と青の系統図によって旧臣(あなたの父)を憶われた。
また駿馬を絵にかいてその絵にてらして駿馬を求められたが果して世を驚かすような隣鱗というべきあなたを得られた。
これまでの江河の濁れる水をふるいだすように陳希烈を罷め、鼎の中の美味を新しく調和せしめられように貴君を相に任じることにせられた。
今や韋賢は初めて漢延に宰相となった。范叔は己に秦に帰ってまた宰相になった。
あなたの家は経学を伝えられて他にたぐいなき家すじであるが今やまた盛んに業務をされることはこのような状況である。
あなたの材器度量はたとえば予章樹が深く地からぬけでたようなもの、またはてしない大海原に出てたどりつく港もないようなものである。』

あなたはこれまで兵部尚書としてゆるぎない北極星のように喉舌をつかさどり、東方の縉紳を領卒された。
また吏部侍郎としては均衡をとられ、裁判、鑑定のあり方を決められ書きとめられた、天子の親信を得て下々の声までききわけられるほどになり宮廷内の高い地位にまでのぼられた。
あなたの独特の能力というものは古昔からのものをこえ、そのなごりの徳の光りは近隣までを照らしているのだ。
あなたの聡明な事は管路よりすぎるものであり、尺槙の書のうまいことは陳遵を圧倒する。
あなたはどうして池中にくすぶっているものでなく、必ず雲雨を巻き起して天へのぼる蚊竜である。
元来が儒者が席上においておくという珪璋のような珍らしい宝玉である。
あなたのような人が廟堂(朝廷)にあって天下政治を極点にする術を知っておられるならば天下の風俗は必ずことごとく淳横にたちもどることであろう。』

(以下は自己についてのべる。)
このような時世なので人傑たるものは皆官吏として登用せられているが、自分のような愚な者はただ世間からかくれて沈倫している、漢の司馬相如長卿のような人物は久しく多病であるし、格子の弟子の子夏はしきりと朋友からはなれてくらしている(自分はその長卿子夏である)。
首をめぐらして考えてみるに自分は流俗のものに流されて自己の生涯はまるで世間並である。
自己の運命如何は巫咸という予言者に問うことはできない、自己のからだは自己の生れ育った国にさえ容れられない。
感激の心情は十分持っているがだんだん老衰の境に近づいてきているが、或る種の不思議な感興がわきおこるのを感じている。
それで此の詩を作ってあなたのために此の曲を歌うと、ただなにとなく涕淚が流れあふれて着物や手巾におちているのである。

贈獻納使起居田舍人澄 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 90 

贈獻納使起居田舍人澄 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 
居舎人にして献納使である田澄に贈った詩。作時は天宝十三載冬「封西岳賦」を献ずる以前であろう。

贈獻納使起居田舍人澄
献納使で起居舎人の田澄に贈る
獻納司存雨露邊,地分清切任才賢。
献納使の職は本来外部にあるのだが今は天子の雨露のめぐみのふりかかるおそばちかくにあるというのだが。地位身分が天子のお声掛かりで、起居舎人と献納使を兼ねる才賢の任に就かれている。
舍人退食收封事,宮女開函近禦筵。
舎人・献納使は、ほかの官を退席させて後、匭から投書のあった封事を収め、宮女に函からそれを出させそして天子の御座にささげるのである。
曉漏追趨青瑣闥,晴窗檢點白雲篇。
暁の漏刻には起居舎人として青塗彫刻の小門に他の官僚に一緒に追随される、献納使としては晴窓の下で一般よりたてまつられた「白雲の詩篇」を点検される。
揚雄更有河東賦,唯待吹噓送上天。

揚雄が更に「河東賦」があったようにて(自分も更に「封西岳賦」たてまつる)、それをただ、君の吹嘘によって天まで送ってのぼらせてもらいたいと待ち望んでいます。



(贈獻納使起居田舍人澄 注釈と解説)
(本文)
獻納司存雨露邊,地分清切任才賢。
舍人退食收封事,宮女開函近禦筵。
曉漏追趨青瑣闥,晴窗檢點白雲篇。
揚雄更有河東賦,唯待吹噓送上天。

(献納使・起居田舎人澄に贈る)

献納司は存す雨露の辺、地清切を分ちて才賢に任す。

舎人過食封事を収め、官女函を開きて禦筵に捧ぐ。

暁漏 迫趨す 青瑣の闥。晴窓点検す白雲の篇。

揚雄更に河東の賦有り、唯だ待つ吹嘘送りて天に上すを。


(現代訳)
献納使で起居舎人の田澄に贈る
献納使の職は本来外部にあるのだが今は天子の雨露のめぐみのふりかかるおそばちかくにあるというのだが。地位身分が天子のお声掛かりで、起居舎人と献納使を兼ねる才賢の任に就かれている。
舎人・献納使は、ほかの官を退席させて後、匭から投書のあった封事を収め、宮女に函からそれを出させそして天子の御座にささげるのである。
暁の漏刻には起居舎人として青塗彫刻の小門に他の官僚に一緒に追随される、献納使としては晴窓の下で一般よりたてまつられた「白雲の詩篇」を点検される。
揚雄が更に「河東賦」があったようにて(自分も更に「封西岳賦」たてまつる)、それをただ、君の吹嘘によって天まで送ってのぼらせてもらいたいと待ち望んでいます。



贈獻納使起居田舍人澄
献納使で起居舎人の田澄に贈る
献納使 官名、唐に延恩匭という投書函の設けがあり、一般人の上書、詩賦文章等をうけつけた。則武天の垂拱中よりこれを置き、諌議大夫・補闕・拾遺一人を以て匭に関することを掌らせた。天宝九載にその官名を献納使と為した。○起居田舎人澄 「起居舎人田澄」ということをかくわけて書きなしたもの。起居舎人は天子の左右にあり、天子の起居注(日記)、政事に関する臣下の議論などを筆記する。田澄は姓名、澄は起居舎人にして献納使を兼ねていたとみられる。


獻納司存雨露邊,地分清切任才賢。
献納使の職は本来外部にあるのだが今は天子の雨露のめぐみのふりかかるおそばちかくにあるというのだが。地位身分が天子のお声掛かりで、起居舎人と献納使を兼ねる才賢の任に就かれている。
○献納司 献納使の職司をいう。○雨露辺 雨露とは天子の恩沢をいう。その恩沢の露のかかるにちかきあたりを雨露辺という。献納の司は外部にあるが舎人がこれをかねているので舎人の地位より雨露という。○地分清切 清切とは清要切近の意。職務が繁雑でなくて高く天子の側近にあることをいう。清切とは雨露の語をうけ、舎人の地位についていう。天子に直接口上できること。〇才賢 才は起居舎人、賢は献納使,両職を兼ねることを指す。田澄のこと。



舍人退食收封事,宮女開函近禦筵。
舎人・献納使は、ほかの官を退席させて後、匭から投書のあった封事を収め、宮女に函からそれを出させそして天子の御座にささげるのである。
退食 「詩経」に「過食公ヨリス」の語があり、公庁より退いて食をとることをいう。ここは必しも食事することをいうのではなく、公務を終えて退庁することをいう。ほかの官を退席させて後という意。○収封事 封事とは他人にみられぬように封じてある上書、収めるとほとりかたづけること。ここは献納伐としてのしごとをなすことをいう。○宮女 宮中につかえる女官をいう。○開函 函ははこ、即ち匪(投書びつ)の函をいう。○禦筵 天子の御座。



曉漏追趨青瑣闥,晴窗檢點白雲篇。
暁の漏刻には起居舎人として青塗彫刻の小門に他の官僚に一緒に追随される、献納使としては晴窓の下で一般よりたてまつられた「白雲の詩篇」を点検される。
暁漏 漏は水時計。暁漏とは朝の出仕の時刻をいう。夜明けのこと。○迫趨 ひとといっし上にこぼしりしてでむく。○青瑣闥 闥は小門、青瑣とはくさりをつらねたような離刻に青い絵具をぬったものをいう。○晴窓 天気のよいおりのまど。○点検 点をつけてしらべる、その天子のお手もとへ出す価値があるか香かをしらべること。○白雲篇 一般人が、白雲の夢をもって奉られた詩篇。短冊篇が重ねられると白雲のように見えた。



揚雄更有河東賦,唯待吹噓送上天。
揚雄が更に「河東賦」があったようにて(自分も更に「封西岳賦」たてまつる)、それをただ、君の吹嘘によって天まで送ってのぼらせてもらいたいと待ち望んでいます。
河東賦 漢の揚雄の作。杜甫はすでに三賦を献じ、天宝十三載更に「封西岳賦」を奏した。これはその作があって田澄によってこれを献じようとすることしめす。○吹嘘 吹も嘘もいきをふきかけること。○送上天 送って天へのぼす、天子に達せしめることをいう。


楊雄(ようゆう) B53~A18  蜀郡成都の出身。字は子雲。40余歳で上京して大司馬王音に文才を認められ、成帝に招されて黄門侍郎とされた。司馬相如の賦を尊崇して自身も名手と謳われたが、やがて文学を捨てて修学して多くの著作を行ない、『楊子法言』は『論語』に、『太玄経』は『易経』に倣って作られた。好学博識だが吃音で論・議を好まず、言説に対する批判には著述で応じた。王莽の簒奪後、門弟が符命の禁を破ったために自殺を図って果たせず、不問とされて大夫に直された。

奉贈太常張卿洎(キ)二十韻 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 89

奉贈太常張卿洎(キ)二十韻 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 89
太常卿張洎に送った詩である。製作時は天宝十三載。



 

奉贈太常張卿洎(キ)二十韻
方丈三韓外,崑崙萬國西。
方丈という山は三韓の外にあり、崑崙の山は万国の西にある。
建標天地闊,詣絶古今迷。
天地の広潤なる間にたかい所に目印をたてているのだ、しかしそのような仙山へは実際行けることはないので、昔も今もそれがどこにあるのか迷っているのである。
氣得神仙迥,恩承雨露低。
貴君は天子の姫ぎみのお婿なのですでに俗界を遠く離れた神仙の気を得ておられるし、また天子の雨露の恩沢のそそぎかかるのを受けておられる。
相門清議眾,儒術大名齊。』
それから宰相たる君の御家門に向っては天下の清議が多くあつまり、父君(張説)殿の子ですから儒教に秀でておられるという点に於ては大名としてもお二人が同等であられるのだ。』

軒冕羅天闕,琳瑯識介圭。
軒車に乗り冤を戴く高位高官の人々は宮廷の門にたくさんつらなっているが、その多く高官、琳瑯ともいうべき玉の中で天子は大珪の玉を認識して君を任用されるに至った。
伶官詩必誦,夔樂典猶稽。
音楽の役人は必ず詩を朗詞するものである。(その詩や楽をつかさどる太常卿長官を任命するには軽々しくはしていない。)舜王の時、夔に音楽をつかさどらせるのに慎重であったように今の天子も古昔の例を十分かんがえて貴君を任命されたのである。
健筆淩鸚鵡,銛鋒瑩鷿鵜。
君は文筆がたっしゃで禰衡の「鸚鵡賦」を即座に作った以上であり、そのするどい筆さきは鷿鵜からとったあぶらでみがきをかけられたようにかがやいている。
友於皆挺拔,公望各端倪。
貴君の兄弟はなかまからずばぬけており、世評に三公の位につかれてもよいといわれるほどの世間の声望があるがそれもとうぜんのことといわれている。
通籍逾青瑣,亨衢照紫泥。
これまで貴君は宮中へ仕籍を通じて青瑣の門をこえて奥まではいり、宮中の道路を貴君が掌る紫泥の光りを以て照らした。(天子の制誥を起草する職に居た。)
靈虬傳夕箭,歸馬散霜蹄。
そうして漏刻が夕の刻をつたえる頃には馬に霜をふむひづめを散らさせながら家路の途へついたのだ。
能事聞重譯,嘉謨及遠黎。
最近には貴君の文学の才あることは通訳を重ねる遠方の胡地までも聞こえており、貴君の政治上のよいはかりごとはその遠地の人民にまで及んだ。
弼諧方一展,班序更何躋。』

それがこんどは太常卿になったので天子をして弼諧をなさしめ奉る志を、やっと一度のべることができるようになった。かく高い地位についた以上はこの上もはやのぼるべき官階はないかのようにみえる。』


適越空顛躓,游梁竟慘淒。
自分は宋人の如く越にいっても空しくつまずき、司馬相如の如く梁に遊んでもものがなしい心地が残るだけだった。
謬知終畫虎,微分是醯雞。
自分は貴君から謬って知遇を受けたが、結局、真の虎ではないことになった。自分の如きものの本分は「うんか」虫ぐらいのところである。
萍泛無休日,桃陰想舊蹊。
年中浮き草のように漂うており、休止する日などない、故郷の桃の木の下の昔ながらの小路がなつかしく想われる。
吹噓人所羨,騰躍事仍睽。
前に貴君から推薦してもらったときは他人から羨まれたが、抜擢されることはなく、思ったこととは反対の結果であった。
碧海真難涉,青雲不可梯。
碧海へでも逃れようとおもうが海の水はわたることができないし、上天したいとおもうが青雲には梯がかけられないのでのぼられないのだ。
顧深慙鍛煉,才小辱提攜。
貴君の恩顧が深いのに自分の鍛錬の足らないというのははずかしい、自分の才が小さいのに貴君が提携してくださるのはかたじけない。
檻束哀猿叫,枝驚夜鵲棲。
自分はたとえば手摺にしばられて猿が叫んでいるかのようであり、枝の上で驚きながら、それは夜のかささぎが木にとまっているようなものなのだ。
幾時陪羽獵,應指釣璜溪。』

いつになったら漢の揚雄のように天子の羽猟をなされるときのおともをすることができるのか、それはまさに天子が釣璜渓で太公望にされたように指さして人を求められるときであろうとおもう。』


奉贈太常張卿洎(キ)二十韻
方丈三韓外,崑崙萬國西。建標天地闊,詣絶古今迷。
氣得神仙迥,恩承雨露低。相門清議眾,儒術大名齊。』
軒冕羅天闕,琳瑯識介圭。伶官詩必誦,夔樂典猶稽。
健筆淩鸚鵡,銛鋒瑩鷿鵜。友於皆挺拔,公望各端倪。
通籍逾青瑣,亨衢照紫泥。靈虬傳夕箭,歸馬散霜蹄。
能事聞重譯,嘉謨及遠黎。弼諧方一展,班序更何躋。』
適越空顛躓,游梁竟慘淒。謬知終畫虎,微分是醯雞。
萍泛無休日,桃陰想舊蹊。吹噓人所羨,騰躍事仍睽。
碧海真難涉,青雲不可梯。顧深慙鍛煉,才小辱提攜。
檻束哀猿叫,枝驚夜鵲棲。幾時陪羽獵,應指釣璜溪。』


方丈三韓の外 崑崙萬國の西
標を建つ天地の迥なるに 詣ること絶えて古今迷う
気は神仙の過なるを得 恩は雨露の低れたるを承く
相門精議眾く  儒術大名斉し』


軒冕天闕になる 琳瑯に介珪を識る
伶官詩必ず詞す 夔楽典猶お稽う
健筆鸚鵡を凌ぎ 銛鋒鷿鵜に瑩たり
友子皆な挺抜  公望各々端倪倪あり
通籍青瑣を逾え 亨衢紫泥に照らさる
霊虬夕箭を伝え 帰馬霜蹄散す
能事重訳に聞え 嘉謀遠黎に及ぶ
弼譜方に一たび展ぶ 班序更に何くにか躋らん』


越に適くも空しく顛躓す 梁に遊ぶも竟に慘淒なり
謬知終に画虎 微分是れ醯雞
萍泛休する日無く 桃陰旧蹊を想う
吹嘘人の羨む所 騰躍事仍お睽く
碧海兵に捗り難く 青雲梯す可からず
顧深くして鍛錬を慙ず 才小にして提携を辱うす
檻に束ねられて哀猿叫び 枝に驚きて夜鵲棲む
幾時か羽猟に陪せん 応に項を釣るの渓を指すなるべし。』




奉贈太常張卿洎二十韻  訳註と解説
太常張卿娼太常卿の官である張洎をいう、太常の張洎卿という意である。前に八三頁に「贈翰林張四學士 杜甫36」詩がある。張洎は張説の子で、天宝十三載に出されて磻渓司馬とされたが、年内に召還され太常卿に遷された。詩は彼に贈ったものである。


方丈三韓外,崑崙萬國西。建標天地闊,詣絶古今迷。
氣得神仙迥,恩承雨露低。相門清議眾,儒術大名齊。』
方丈三韓の外 崑崙萬國の西
標を建つ天地の迥なるに 詣ること絶えて古今迷う
気は神仙の過なるを得 恩は雨露の低れたるを承く
相門精議眾く  儒術大名斉し』

方丈という山は三韓の外にあり、崑崙の山は万国の西にある。
天地の広潤なる間にたかい所に目印をたてているのだ、しかしそのような仙山へは実際行けることはないので、昔も今もそれがどこにあるのか迷っているのである。
貴君は天子の姫ぎみのお婿なのですでに俗界を遠く離れた神仙の気を得ておられるし、また天子の雨露の恩沢のそそぎかかるのを受けておられる。
それから宰相たる君の御家門に向っては天下の清議が多くあつまり、父君(張説)殿の子ですから儒教に秀でておられるという点に於ては大名としてもお二人が同等であられるのだ。』


方丈三韓外,崑崙萬國西。
方丈という山は三韓の外にあり、崑崙の山は万国の西にある。
○方丈 秦時の道教方士が東海中にあると考えた三神山の一、ほかに蓬莱山、瀛州山。〇三韓 馬韓・辰韓・弁韓の三韓、今の朝鮮。○崑崙 山の名、西王母の女仙人が住むと考えられた処。


建標天地闊,詣絶古今迷。
天地の広潤なる間にたかい所に目印をたてているのだ、しかしそのような仙山へは実際行けることはないので、昔も今もそれがどこにあるのか迷っているのである。
○建標 めじるしをたてる。これは山のそばだっていることをいう、方丈と崑崙とをあわせていう。○詣絶 詣ることたゆるととく。○古今迷 古人今人ともに迷う。方丈以下の四句は次の神仙の句を言わんがための序である。


氣得神仙迥,恩承雨露低。
貴君は天子の姫ぎみのお婿なのですでに俗界を遠く離れた神仙の気を得ておられるし、また天子の雨露の恩沢のそそぎかかるのを受けておられる。
○気 気象、意気。○神仙 通過は凡俗と遠く超越しておることをいう。この神仙というのは張洎が玄宗の女寧親公主の婿であるのによってかくいった、天子の女は仙女であり、その仙女の婿であるから神仙の気を得たものとみるのである。○恩 天子の恩寵。○雨露低 雨露は即ち恩沢、低とはこちらへむけてくだされることをいう。婿であるから恩寵も従ってあつい。


相門清議眾,儒術大名齊。』
それから宰相たる君の御家門に向っては天下の清議が多くあつまり、父君(張説)殿の子ですから儒教に秀でておられるという点に於ては大名としてもお二人が同等であられるのだ。』
○相門宰相の家門。頭の父張説は玄宗の宰相である。○精義衆清議とは正人君子の議論をいう、衆とは多くこの相門にあつまることをいう。○儒術 借のみちをいう。○大名斉世間の議に於て説、洎父子の大名が同等であるという意。



軒冕羅天闕,琳瑯識介圭。伶官詩必誦,夔樂典猶稽。
健筆淩鸚鵡,銛鋒瑩鷿鵜。友於皆挺拔,公望各端倪。
通籍逾青瑣,亨衢照紫泥。靈虬傳夕箭,歸馬散霜蹄。
能事聞重譯,嘉謨及遠黎。弼諧方一展,班序更何躋。』

軒冕天闕になる 琳瑯に介珪を識る
伶官詩必ず詞す 夔楽典猶お稽う
健筆鸚鵡を凌ぎ 銛鋒鷿鵜に瑩たり
友子皆な挺抜  公望各々端倪倪あり
通籍青瑣を逾え 亨衢紫泥に照らさる
霊虬夕箭を伝え 帰馬霜蹄散す
能事重訳に聞え 嘉謀遠黎に及ぶ
弼譜方に一たび展ぶ 班序更に何くにか躋らん』

 
軒車に乗り冤を戴く高位高官の人々は宮廷の門にたくさんつらなっているが、その多く高官、琳瑯ともいうべき玉の中で天子は大珪の玉を認識して君を任用されるに至った。
音楽の役人は必ず詩を朗詞するものである。(その詩や楽をつかさどる太常卿長官を任命するには軽々しくはしていない。)舜王の時、夔に音楽をつかさどらせるのに慎重であったように今の天子も古昔の例を十分かんがえて貴君を任命されたのである。
君は文筆がたっしゃで禰衡の「鸚鵡賦」を即座に作った以上であり、そのするどい筆さきは鷿鵜からとったあぶらでみがきをかけられたようにかがやいている。
貴君の兄弟はなかまからずばぬけており、世評に三公の位につかれてもよいといわれるほどの世間の声望があるがそれもとうぜんのことといわれている。
これまで貴君は宮中へ仕籍を通じて青瑣の門をこえて奥まではいり、宮中の道路を貴君が掌る紫泥の光りを以て照らした。(天子の制誥を起草する職に居た。)
そうして漏刻が夕の刻をつたえる頃には馬に霜をふむひづめを散らさせながら家路の途へついたのだ。
最近には貴君の文学の才あることは通訳を重ねる遠方の胡地までも聞こえており、貴君の政治上のよいはかりごとはその遠地の人民にまで及んだ。
それがこんどは太常卿になったので天子をして弼諧をなさしめ奉る志を、やっと一度のべることができるようになった。かく高い地位についた以上はこの上もはやのぼるべき官階はないかのようにみえる。』


軒冕羅天闕,琳瑯識介圭。
軒車に乗り冤を戴く高位高官の人々は宮廷の門にたくさんつらなっているが、その多く高官、琳瑯ともいうべき玉の中で天子は大珪の玉を認識して君を任用されるに至った。
○軒冕 (けんべん)馬車とかんむり、高官の用いるもの。○天闕 宮廷の門。○琳瑯 (りんろう)美玉。○識 しりわける。認識する。○介圭 長さ一尺二寸の大きな圭玉、珪の尖端は将棋のこまの状をなしている。これは頭をたとえていう。張洎の美質をしっていたので彼を太常卿に任ずるとの意。



伶官詩必誦,夔樂典猶稽。
音楽の役人は必ず詩を朗詞するものである。(その詩や楽をつかさどる太常卿長官を任命するには軽々しくはしていない。)舜王の時、夔に音楽をつかさどらせるのに慎重であったように今の天子も古昔の例を十分かんがえて貴君を任命されたのである。
○伶官 音楽を掌る役人。○夔楽 夔は舜の臣で、舜は夔に命じて音楽を掌らせたことが「書経」にみえる。○典 つかさどること。「書経」舜典に「夔、汝二命ジ楽ヲ典ラシム、冑子ヲ教エヨ」とある。○稽とは古の経典をかんがえることをいう。張洎を太常卿に任ずるについて慎重にしたことをいう。



健筆淩鸚鵡,銛鋒瑩鷿鵜。
君は文筆がたっしゃで禰衡の「鸚鵡賦」を即座に作った以上であり、そのするどい筆さきは鷿鵜からとったあぶらでみがきをかけられたようにかがやいている。
○健筆 たっしヤな文筆、洎の文才をいう。○淩鸚鵡 魏の禰衛は「鸚鵡賦」を即座に作り一字を改めなかったという。凌とはそれを凌駕することをいう。○銛鋒 するどい切尖き、これは詞銛を剣鉾を以てたとえていう。○瑩 光潔なさま。○鷿鵜 鳧(かも)のたぐい、そのあぶらは刀剣をみがくのに適している、ここはあぶらの義に用いる。鳥をいうのではない。



友於皆挺拔,公望各端倪。
貴君の兄弟はなかまからずばぬけており、世評に三公の位につかれてもよいといわれるほどの世間の声望があるがそれもとうぜんのことといわれている。
○友 子兄弟のこと。「書経」に「孝乎推孝、友二子兄弟」とあり、友子の二字を切りとって兄弟の義に用いる。洎の兄均も刑部尚書となった。○挺抜 なかまからずっとぬきんでる。○公望 三公の位であってもおかしくないという世間の声がある。○端倪 端は緒、倪は畔のことと注する。いとぐち、境目という意。世評がとりとめないことではなく当然のことであることをいう。



通籍逾青瑣,亨衢照紫泥。
これまで貴君は宮中へ仕籍を通じて青瑣の門をこえて奥まではいり、宮中の道路を貴君が掌る紫泥の光りを以て照らした。(天子の制誥を起草する職に居た。)
○通籍 籍とは二尺の竹ふだ、それに本人の年齢・名字・容貌・風体などかきつけ宮門に掛けておき、本人が宮廷に入ろうとするときは札と照らしあわせて中に入ることを許された。この札を官署へさしだして置くことによって通籍という。○逾青瑣 青瑣は門の戸に青色のくさりがたの模様を染めてあるため名づけられた。青瑣門は多く黄門侍邸のことに用いるが、ここは洎が翰林学士として制誥を掌ったときのことをいう。○亨衢 通達の跡の義で宮内のみちをさす。○照紫泥 天子の制誥はこれを封ずるのに紫色の泥を用いてそのうえに印を捺す、学士は制誥の起草を掌るゆえ紫泥をも使用する。その紫泥の色が宮路をてらすというのである。



靈虬傳夕箭,歸馬散霜蹄。
そうして漏刻が夕の刻をつたえる頃には馬に霜をふむひづめを散らさせながら家路の途へついたのだ。
○霊虬 霊威あるみずち、これは漏刻の体をいう。○夕箭箭は漏刻の刻を示すもので、今の時計の針のようなもの。夕方を報ずる箭が夕箭である。○帰馬 家へとかえるうま。○散霜蹄 霜蹄は霜をふむひづめ、此の句より上四句は翰林学士時代をいぅ。
 


能事聞重譯,嘉謨及遠黎。
最近には貴君の文学の才あることは通訳を重ねる遠方の胡地までも聞こえており、貴君の政治上のよいはかりごとはその遠地の人民にまで及んだ。
○能事 文筆の材能をいう。○聞重譯 重譯は言葉の通訳を幾度も量ねる遠方の国をいう、これ及び次句は虞渓司馬となったことをいう。○嘉諜 よいはかりごと、遠地を治めるについてのはかりごとである。○速黎 遠方の人民。


弼諧方一展,班序更何躋。』
それがこんどは太常卿になったので天子をして弼諧をなさしめ奉る志を、やっと一度のべることができるようになった。かく高い地位についた以上はこの上もはやのぼるべき官階はないかのようにみえる。』
○弼譜 人君たるものが古人の徳をふみ行い、自己の聡明を謀り広くして、自己の政事を輔け整えることとする。即ち、弼諧を 「政事を輔弼和諧すること」ととく、これは人君の事に属する。〇万一展 展とは志をのべることをいう。天子をして弼譜をなさしめることを得ることをいう。○班序 班爵之序をいう、位をわける順序次第、官位の階級。○更何躋 何は何処にかの意。官位がすでに高いのでそれ以外にのぼるべき場所がないという意、実際にはそうではないが高いことを誇張していったもの。
 


適越空顛躓,游梁竟慘淒。謬知終畫虎,微分是醯雞。
萍泛無休日,桃陰想舊蹊。吹噓人所羨,騰躍事仍睽。
碧海真難涉,青雲不可梯。顧深慙鍛煉,才小辱提攜。
檻束哀猿叫,枝驚夜鵲棲。幾時陪羽獵,應指釣璜溪。』

越に適くも空しく顛躓す 梁に遊ぶも竟に慘淒なり
謬知終に画虎 微分是れ醯雞
萍泛休する日無く 桃陰旧蹊を想う
吹嘘人の羨む所 騰躍事仍お睽く
碧海兵に捗り難く 青雲梯す可からず
顧深くして鍛錬を慙ず 才小にして提携を辱うす
檻に束ねられて哀猿叫び 枝に驚きて夜鵲棲む
幾時か羽猟に陪せん 応に項を釣るの渓を指すなるべし。』


自分は宋人の如く越にいっても空しくつまずき、司馬相如の如く梁に遊んでもものがなしい心地が残るだけだった。
自分は貴君から謬って知遇を受けたが、結局、真の虎ではないことになった。自分の如きものの本分は「うんか」虫ぐらいのところである。
年中浮き草のように漂うており、休止する日などない、故郷の桃の木の下の昔ながらの小路がなつかしく想われる。
前に貴君から推薦してもらったときは他人から羨まれたが、抜擢されることはなく、思ったこととは反対の結果であった。
碧海へでも逃れようとおもうが海の水はわたることができないし、上天したいとおもうが青雲には梯がかけられないのでのぼられないのだ。
貴君の恩顧が深いのに自分の鍛錬の足らないというのははずかしい、自分の才が小さいのに貴君が提携してくださるのはかたじけない。
自分はたとえば手摺にしばられて猿が叫んでいるかのようであり、枝の上で驚きながら、それは夜のかささぎが木にとまっているようなものなのだ。
いつになったら漢の揚雄のように天子の羽猟をなされるときのおともをすることができるのか、それはまさに天子が釣璜渓で太公望にされたように指さして人を求められるときであろうとおもう。』


適越空顛躓,游梁竟慘淒。
自分は宋人の如く越にいっても空しくつまずき、司馬相如の如く梁に遊んでもものがなしい心地が残るだけだった。
○適越、杜甫が壮年時代に越(今の浙江地方)にも梁(河南地方)にも遊歴した。又司馬相如は病身のために官をやめ梁に客遊した。○顛躓 ひっくりかえる、つまずく。○顛躓 ものがなし。
 


謬知終畫虎,微分是醯雞。
自分は貴君から謬って知遇を受けたが、結局、真の虎ではないことになった。自分の如きものの本分は「うんか」虫ぐらいのところである。
○謬知 知は洎が自己を知ってくれたこと、謬とは謙遜の辞。それほどの材器ではないのに先方が材器だとして知ってくれたのは謬って知ってくれたのだという意。○画虎 後漢の馬援の語に「虎ヲ画イテ成ラズンバ反ッテ狗二顆ス」という、自己が狗の如く真の虎となり得ないことをいう。○微分 分は本分、分限などの分。徴は細小をいう、謙蓮の辞。○醯雞(けいけい) うんかという虫の類、「荘子」に孔子が顔回に向かって自己の道は醯雞のごときか、といったとの話があるが、この虫は嚢の中にわき、要の外のひろい世界を知らぬものである。孔子の道の小さいことをいう。



萍泛無休日,桃陰想舊蹊。
年中浮き草のように漂うており、休止する日などない、故郷の桃の木の下の昔ながらの小路がなつかしく想われる。
○萍泛 うきくさの如く水にうかぶ、漂泊生活をたとえていう。○桃陰 桃の木のかげ、これは武陵桃源の故事を用いてしかも故郷の事に用いている。○旧蹊 むかしながらの小みち。

 

吹噓人所羨,騰躍事仍睽。
前に貴君から推薦してもらったときは他人から羨まれたが、抜擢されることはなく、思ったこととは反対の結果であった。
○吹嘘 いきをふきかける、自己を後援してくれること。此の語によれば張洎は作者の人材であることを知って、従来彼を推薦しくれたものであることを知っていたことをいう。○騰躍 馬のおどる如く高くおどりあがる、地位の急進することをいう。○睽 意に思ったこととは反対の結果となることをいう。



碧海真難涉,青雲不可梯。
碧海へでも逃れようとおもうが海の水はわたることができないし、上天したいとおもうが青雲には梯がかけられないのでのぼられないのだ。
○碧海 碧色の水をたたえたうみ、これは海中に逃れ去るという意である。海中に仙人の里があるといわれていた。○青雲 青大空の中の高い雲。○梯 はしごをかけてのぼる、これは仙人となって上天することをいう。



顧深慙鍛煉,才小辱提攜。
貴君の恩顧が深いのに自分の鍛錬の足らないというのははずかしい、自分の才が小さいのに貴君が提携してくださるのはかたじけない。
 張洎の自己に対して目をかけてくれることをいう。○慙 鍛錬の足らないのをほじること。○鍛錬 刀をきたえる、自己の才力を発達させること。○ 先方をはずかしめる。謙遜の辞。○提攜 洎が杜甫と手をひきあうこと。



檻束哀猿叫,枝驚夜鵲棲。
自分はたとえば手摺にしばられて猿が叫んでいるかのようであり、枝の上で驚きながら、それは夜のかささぎが木にとまっているようなものなのだ。
檻束 檻はてすり、束は束縛。○枝驚 木の枝上にて驚くこと。○ かささぎ。



幾時陪羽獵,應指釣璜溪。』
いつになったら漢の揚雄のように天子の羽猟をなされるときのおともをすることができるのか、それはまさに天子が釣璜渓で太公望にされたように指さして人を求められるときであろうとおもう。』
(天子をして磻渓を指ささしめるのには張洎の力を要するのである。此の末段は主として自己を叙している。)
幾時 何時に同じ。○陪羽猟 漢末の揚雄の故事、雄は成帝の羽猟に陪従して、「羽猟賦」をつくる。○応指 応(まさに云々するなるべし)は推測の辞であり、指はゆびざす。○釣璜渓 太公望の璜渓をいう。周の文王が璜渓(太公望の釣りを垂れた処)に至って太公望を見たとき、望は文王に答えて「望、釣シテ玉璜ヲ得、刻二日ク、姫命ヲ受ケ、呂検ヲ佐ク」といった。璜は佩び玉、釣璜渓とは璜を釣りし得た渓、即ち璜渓をいう、此の句は自己を太公望として、自己の釣りを垂れる処に之を求めて薦めよとの意を寓している。即ち洎の推薦を求めているのである。○磻渓 張洎の前の役職。

秋雨嘆三首 其三 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 88

秋雨嘆三首 其三 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 88(就職活動中 杜曲の家)
天宝13載 754年 43歳
杜甫42 
754年 秋の長雨が、六十日間も雨が降りつづき、前年の日照りと今年は長雨、水害と交互に関中を襲い食糧不足に陥った。城内では米の値段が高騰した。
城内では米の値段が高騰し、米一斗と夜具を取り換えるほどです。

秋雨嘆三首  其一
雨中百草秋爛死、階下決明顏色鮮。
著葉滿枝翠羽蓋、開花無數黃金錢。
涼風蕭蕭吹汝急、恐汝後時難獨立。
堂上書生空白頭、臨風三嗅馨香泣。

秋雨嘆三首  其二 
闌風伏雨秋紛紛、四海八荒同一雲。
去馬来牛不復弁、濁涇清渭何当分。
禾頭生耳黍穂黒、農夫田父無消息。
城中斗米換衾裯、相許寧論両相直。

秋雨嘆三首  其三
長安布衣誰比數,反鎖衡門守環堵。
老夫不出長蓬蒿,稚子無憂走風雨。
雨聲颼颼催早寒,胡雁翅濕高飛難。
秋來未曾見白日,泥汙後土何時乾?


秋雨嘆三首  其三
長安布衣誰比數,反鎖衡門守環堵。
私はだれからも相手にされない長安の一市民。門を閉ざし、土塀で囲まれた家の中でじっとしている。
老夫不出長蓬蒿,稚子無憂走風雨。
おやじが外に出ぬままに雑草は生い茂り、子供は親の苦労も知らぬげに、風雨の中を走りまわっている。
雨聲颼颼催早寒,胡雁翅濕高飛難。
雨はザアザアと、早い冬をせき立て、胡雁は翼が湿って高く飛べない。
秋來未曾見白日,泥汙後土何時乾?

秋になってからこれまで、お日さまを見たことがなく、大地は泥に汚されてしまい、いつになったら乾くのか。




秋雨嘆三首  其三
長安布衣誰比數,反鎖衡門守環堵。
老夫不出長蓬蒿,稚子無憂走風雨。
雨聲颼颼催早寒,胡雁翅濕高飛難。
秋來未曾見白日,泥汙後土何時乾?


長安の布衣の比數するは誰ぞ,反(しか)るに衡門を鎖じて環堵を守る。

老いたる夫(われ)は出でずして蓬蒿を長(しげ) らせ,稚なき子は憂い無くして風雨に走る。

雨聲は颼颼(そうそう)として早(あさ)の寒さを催し,胡の雁は翅(つばさ) を濕いて高く飛ぶに難し。

秋と來りて未だ曾つて白日を見ず,泥は後土を(けが)して何の時か乾かん?


私はだれからも相手にされない長安の一市民。門を閉ざし、土塀で囲まれた家の中でじっとしている。
おやじが外に出ぬままに雑草は生い茂り、子供は親の苦労も知らぬげに、風雨の中を走りまわっている。
雨はザアザアと、早い冬をせき立て、胡雁は翼が湿って高く飛べない。
秋になってからこれまで、お日さまを見たことがなく、大地は泥に汚されてしまい、いつになったら乾くのか。


長安布衣誰比數,反鎖衡門守環堵。
私はだれからも相手にされない長安の一市民。門を閉ざし、土塀で囲まれた家の中でじっとしている。
布衣 粗末な着物。冠位のない人。○比數 取るに足らない。 ○衡門 木を横にした粗末な門。隠者の門。○環堵  家の周囲を取り巻いている垣根。  小さな家。狭い部屋。また、貧しい家。この聯のイメージは杜甫の「貧交行 」を参照。


老夫不出長蓬蒿,稚子無憂走風雨。
おやじが外に出ぬままに雑草は生い茂り、子供は親の苦労も知らぬげに、風雨の中を走りまわっている。
老夫 老爺(ろうや). 翁(おう) 翁(おきな) 老翁(ろうおう). [共通する意味年をとった男性。○蓬蒿 草ぼうぼうの野原。○無憂 むじゃき。憂いを認識しない。  



雨聲颼颼催早寒,胡雁翅濕高飛難。
雨はザアザアと、早い冬をせき立て、胡雁は翼が湿って高く飛べない。
雨聲 雨音 ○颼颼 風雨の音○胡雁 胡に帰る雁。 ○翅濕 羽を濡らせての奥までを湿らせる。   



秋來未曾見白日,泥汙後土何時乾?
秋になってからこれまで、お日さまを見たことがなく、大地は泥に汚されてしまい、いつになったら乾くのか。
泥汙 汙は汚。泥に汚される ○何時乾  乾くのはいつ。




貧困者を救済するために、政府は官の大倉を開いて米を放出し、長安市民に日に五升(日本の二升あまり)ずつ、安価に分け与えた。杜甫も毎日、大倉に出かけていって米の配給を受け、その日その日をやっと食いつないでいた。しかし、それも長くは続かず、彼は仕方なく家族を長安から奉先県に移すことにした。奉先県は長安の東北約一〇〇キロメートルの所にあり、当時そこには妻楊氏の親戚の者が県令として赴任していた。家族を奉先県に送っていった杜甫は、一人で長安に引き返し、あてのない採用通知を待ちつづける。(この時の様子は曲江三章 章五句の第三章にあらわされてる)

長安・杜曲韋曲
杜甫乱前後の図001


曲江三章 章五句 
曲江三章 第一章五句
曲江蕭條秋氣高,菱荷枯折隨風濤。
遊子空嗟垂二毛,白石素沙亦相蕩,哀鴻獨叫求其曹。

(曲江蕭条として 秋氣高く。菱荷(菱と蓮)枯折して 風濤に随ふ。
游子空しく嗟す 二毛(白髪交じり)に垂(なんなん)とするを。
白石素沙 亦た相い蕩(うごか)す。哀鴻(あいこう、哀れなヒシクイ)独り叫び 其の曹(ともがら)を求む)。


曲江三章 第二章五句
即事非今亦非古,長歌激夜梢林莽,比屋豪華固難數。
吾人甘作心似灰,弟侄何傷淚如雨?

(即事 今に非ず 亦た古(いにしへ)に非ず。長歌夜激しくして 林莽(りんぼう、林やくさむら)を捎(はら)ふ。比屋 豪華にして 固より数え難し。吾人 甘んじて 心 灰に似たるを作さん。弟姪 何をか傷みて 泪(なみだ)雨の如くなる。)

曲江三章 第三章五句
自斷此生休問天,杜曲幸有桑麻田,故將移住南山邊。
短衣匹馬隨李廣,看射猛虎終殘年。

(自ら此の生を断つ天に問うを休めよ。杜曲幸に桑麻の田有り。故に将に南山の辺に移住す。短衣匹馬李広に随い。猛虎を射るを看て残年を終えんとす。)


貧交行     杜甫 
翻手作雲覆手雨,紛紛輕薄何須數。
君不見管鮑貧時交,此道今人棄如土。

(手を翻(ひるがへ)せば雲と 作(な)り 手を覆(くつがへ)せば 雨となる。紛紛たる輕薄  何ぞ 數ふるを 須(もち)ゐん。
君見ずや  管鮑(くゎんんぱう) 貧時の交はりを,此(こ)の道  今人(こんじん) 棄つること 土の如し。)

陪鄭広文遊何将軍山林十首 其十 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 64

陪鄭広文遊何将軍山林十首 其十 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 64

753年天宝12載 42歳  五言律詩
この篇は帰途につくことと将来の希望とをのぺている。


陪鄭広文遊何将軍山林十首 其十
幽意忽不愜,歸期無奈何。
心静かに自然にひたっていた楽しい思いがふいにかなわなくなって、帰らなければいけない約束の期がどうしようもないこととしてやってきた。
出門流水住,回首白雲多。
門を出たとこで流水が停止し、もっと留まれといっている、ふりかえってみると白雲がたくさん湧き立って行く先をふせいでいる。
自笑燈前舞,誰憐醉後歌。
思い出し笑いをしてしまう、山荘にあって灯火の前で舞ったことだ、家にかえって酒に酔っての歌うのをだれがいとおしんでくれるというのか。
祗應與朋好,風雨亦來過。
ただまさに仲のよい友人と共にいたいと云いたい、風雨の日であっても、もう一度やって来るのだ。

心静かに自然にひたっていた楽しい思いがふいにかなわなくなって、帰らなければいけない約束の期がどうしようもないこととしてやってきた。
門を出た流水が停止し、もっと留まれといっている、ふりかえってみると白雲がたくさん湧き立って行く先をふせいでいる。
思い出し笑いをしてしまう、山荘にあって灯火の前で舞ったことだ、家にかえって酒に酔っての歌うのをだれがいとおしんでくれるというのか。
ただまさに仲のよい友人と共にいたいと云いたい、風雨の日であっても、もう一度やって来るのだ。


幽意ゆういたちまち愜かなわず  歸期奈何いかんともする無し
門を出でで流水に住まる 首を回らせば白雲多し
自ら笑う燈前の舞 誰か憐あわれまん酔後の歌
祗應ただまさに朋好ほうこうともに 風雨にも亦た来り過るぺし



幽意忽不愜,歸期無奈何。
心静かに自然にひたっていた楽しい思いがふいにかなわなくなって、帰らなければいけない約束の期がどうしようもないこととしてやってきた
幽意 こころ静に自然の中にふけるおもい。○ こころの欲するとおりになること。欲するとおりにならないのはかなわないとする。○帰期 我が家にかえるべき時期。○無奈何 どうすることもできぬ、どうしてもかえらねばならぬことをいう。


出門流水住,回首白雲多。
門を出た流水が停止し、もっと留まれといっている、ふりかえってみると白雲がたくさん湧き立って行く先をふせいでいる。
出門 何氏の門からでる。○流水住 住とは自分がたちどまること、水の流れるところでちょっとたちどまる。〇回首 何氏の園の方へと首をふりかえってみる。


自笑燈前舞,誰憐醉後歌。
思い出し笑いをしてしまう、山荘にあって灯火の前で舞ったことだ、家にかえって酒に酔っての歌うのをだれがいとおしんでくれるというのか
自笑 この二句は園中での前日のことを追憶していう。○燈前舞 夜、燈火の前で舞をしたこと。○誰憐 何氏の園に在っては何氏が憐んでくれたが、今は園を去った後であるからだれが憐んでくれようか。○酔後歌 これも自己の園中で歌ったことをいう。


祗應與朋好,風雨亦來過。
ただまさに仲のよい友人と共にいたいと云いたい、風雨の日であっても、もう一度やって来るのだ。
祗應 ただまさに~いいたいのだ。○朋好 なかのよいともだち、暗に鄭虔を意味する。○来過 この何氏の園へたずねてくる。

○韻 何・多・歌・過。

陪鄭広文遊何将軍山林十首 其一 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 55

陪鄭広文遊何将軍山林十首 其一 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 55

天宝12載 753年 42歳  五言律詩
紀頌之の漢詩ブログは取り上げたシリーズ、たとえば、この十首すべて取り上げていく。

廣文館博士の鄭虔とともに何将軍の山荘に遊んでの詩。

其一の詩は長安の南郊外、詩中「南塘」街道にそってある何将軍の山荘に赴くところから始まる。




陪鄭広文遊何将軍山林十首 其一
不識南塘路,今知第五橋。
これまで南塘の路がどこにあるのか知らずにいた、今はそこを経過してさらに第五橋までも知ることになった。
名園依綠水,野竹上青霄。
来てみると何氏の名園が緑水に添って広がっており、野生の竹が空を凌ぐばかり茂っている。
穀口舊相得,濠梁同見招。
漢の谷口の鄭子真といわれる鄭虔先生とわたしはふるくから心を許した仲なので、今回の何氏園へ荘子の濠梁の遊びのように一緒に招かれたのだ。
平生為幽興,未惜馬蹄遙。

平生からひとり幽閑に興じている、そのためなら路程がはるか遠くても愛馬で出かけることを惜しみはしないのだ

これまで南塘の路がどこにあるのか知らずにいた、今はそこを経過してさらに第五橋までも知ることになった。
来てみると何氏の名園が緑水に添って広がっており、野生の竹が空を凌ぐばかり茂っている。
漢の谷口の鄭子真といわれる鄭虔先生とわたしはふるくから心を許した仲なので、今回の何氏園へ荘子の濠梁の遊びのように一緒に招かれたのだ。
平生からひとり幽閑に興じている、そのためなら路程がはるか遠くても愛馬で出かけることを惜しみはしないのだ。


識らず  南塘の路  今は知る 第五橋
名園は緑水に依り  野竹は青霄を上(さ)す
谷口とは旧より相得 濠梁に同じく招かれぬ
平生幽興の為には  未だ馬蹄の遥かなるを惜しまず


○鄭広文 鄭虔。虔は天宝九載広文館の博士となった。作者の親友である。鄭廣文  唐の鄭虔のこと。玄宗その才を愛し、特に「廣文館」を置きて 鄭虔を博士とせしことによる。詩書畫に巧みにして「鄭虔三絶」にて知らる。李白、杜甫らと交際す。何将軍の山荘にともに遊んだ廣文先生こと鄭虔は、杜甫が心を許した友であった。当時の杜甫は、科挙に落ちて前途の望みを絶たれ、就職活動もうまくゆかず、鬱々たる毎日を過ごしていた、鄭虔はそんな杜甫にとって、自分の境遇に似たものを感じさせた。鄭虔は廣文館博士という官職についていたが、単に名誉職的なものだったようだ。○何将軍 何は姓、名は未詳。○山林 園林。林中に山がある故に山林という。杜甫の住居は少陵原に在り、何将軍の山林は少陵原の西南にあった。
 長安と何将軍
長安洛陽鳳翔Map



不識南塘路,今知第五橋。
これまで南塘の路がどこにあるのか知らずにいた、今はそこを経過してさらに第五橋までも知ることになった。
南塘 地名、所在は未詳。ただ韋曲(少陵原の南に流れる欒川の隈曲の名)の附近にあると思われる。塘はため池、堤、土手ということで長安の南の土手の道ということか。〇第五橋 橋名。第五は姓、姓によって橋の名となる。韋曲の西にあったという。塘と橋、共に山林に至る途中経過の処である。地図上第五橋と詩の内容から何将軍の山林を橙色で示した。



名園依綠水,野竹上青霄。
来てみると何氏の名園が緑水に添って広がっており、野生の竹が空を凌ぐばかり茂っている。
名園 有名な園、何氏の園をさす。○ よりそうこと。○野竹 野生の竹。○青零 あおぞら。



穀口舊相得,濠梁同見招。
漢の谷口の鄭子真といわれる鄭虔先生とわたしはふるくから心を許した仲なので、今回の何氏園へ荘子の濠梁の遊びのように一緒に招かれたのだ。
谷口 漢の鄭子真は賢人にして長安の南の子牛谷の口にかくれて鄭、道を楽しみひっそりと暮らし、世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた。その名は長安にまで著われた。ここは同姓の故事を借りて鄭虔をさす。○ ふるくよりの義。○相得 心を許した仲の意、交際の親しいことをいう。○濠梁 濠は水の名、梁は石橋。「荘子」秋水欝に荘子が恵子と濠梁の上に遊んだ問答がある、この園で遊ぶことを意味する。

平生為幽興,未惜馬蹄遙。
平生からひとり幽閑に興じている、そのためなら路程がはるか遠くても愛馬で出かけることを惜しみはしないのだ。
幽興 幽静の興趣。○未惜 情は愛惜すること、おしむ。○馬蹄進 とおく馬足をはこぶこと。

奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 53

奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 53

長安の市長に任ぜられて間もないころに京兆尹、鮮于仲通に贈った詩。752年天宝11載41歳十二月の作。

奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫

王國稱多士,賢良複幾人?
異才應間出,爽氣必殊倫。
始見張京兆,宜居漢近臣。
驊騮開道路,雕鶚離風塵。』
侯伯知何算,文章實致身。
奮飛超等級,容易失沈淪。
脫略磻溪釣,操持郢匠斤。
雲霄今巳逼,台袞更誰親?』
鳳穴鄒皆好,龍門客又新。
義聲紛感激,敗績自逡巡。』
途遠欲何向,天高難重陳。
學詩猶孺子,鄉賦忝嘉賓。
不得同晁錯,籲嗟後郤詵。
計疏疑翰墨,時過憶松筠。』
獻納紆皇眷,中間謁紫宸。
且隨諸彥集,方覬薄才伸。
破膽遭前政,陰謀獨秉鈞。
微生霑忌刻,萬事益酸辛。』
交合丹青地,恩傾雨露辰。
有儒愁餓死,早晚報平津。』


王國稱多士,賢良複幾人?
我が唐王朝は天子のお声がかりで一芸に秀でた人物が多いといわれているが、賢良な人は幾人いるだろうかといえばさほど多くはないだろう。

異才應間出,爽氣必殊倫。
特別非凡の人才も時折出る、そういう人はさわやかな雰囲気でいい影響を与えるだろう。

始見張京兆,宜居漢近臣。
こんどはじめて漢の京兆尹張敞殿がでたが、漢の天子のおそば近くつかえるのにはふさわしいことである。
驊騮開道路,雕鶚離風塵。』
千里の馬にとって前に進むべき道路が開けられた様なもの、又下界の風塵をはなれて雕鶚の猛鳥が空高く飛び立つ様なものなのだ。』

侯伯知何算,文章實致身。
節度使は多くいることは周知のことである。あなたは自己の文章のカを以て高位になられたのである。

奮飛超等級,容易失沈淪。
自己を奮い立たせ飛び上がり超等級の方である、たやすく下位に沈んだりということはないお方である。

脫略磻溪釣,操持郢匠斤。
太公望のような行為は眼中におかないことである、今の地位に居るあなたは公平な文の取り扱いをすること、郢匠が斤を取って寸分の狂いもなかったものを手にしている。

雲霄今巳逼,台袞更誰親?』
君は今雲霄の高位には既にせまっておられる。宰相公に対して他に誰が親しいものがあるというのか。』

鳳穴鄒皆好,龍門客又新。
丹穴の鳳雛ともいうべき貴家の公子等は皆よい方々であり、竜門にもあたいする黄門において新に自分のようなものまで賓客としていただいている。

義聲紛感激,敗績自逡巡。』
諸公子の義侠の精神の評判には自分は心もから感激しているが、受験において落第し続けており、あつかましくも進みでて身辺の事についてお願いしづらくて逡巡しております。』

途遠欲何向,天高難重陳。
めざす前途がなかなか遠く違うようでありどちらに向かうべきかご指導願いたい。天は高くして叫ぶ声もとどき重ねて陳述したのだがそれが届かぬようなのです。

學詩猶孺子,鄉賦忝嘉賓。
こどものときから家庭で詩を学んで、やっと地方試験に及第して喜ばしいことにも賓客のとりあっかいをうけてかたじけなくおもっております。

不得同晁錯,籲嗟後郤詵。
不幸にして晃錯と同じように及第することもできず、またなげかわしく思うことは郤詵よりもおくれてしまった。

計疏疑翰墨,時過憶松筠。』
自分の計画に手抜かりがあるために自分の文辞にさえ疑いはじめたのです、落第つづきで時機を逸したのかもしれないので仕進をやめて、ただ松竹の如く晩節を保とうかと思っている。』

獻納紆皇眷,中間謁紫宸。
そのうちに、三大礼において賦を献上したために天子からお目をかけられて紫宸殿で謁見を仰せつけられた。

且隨諸彥集,方覬薄才伸。
しばらく他の英才の人々の集りに随伴したのです、やっとこれでいささかの才能をのばすことができるかとこいねがっております。

破膽遭前政,陰謀獨秉鈞。
ところが驚いたことには前宰相(李林甫)というものに遭遇したのです。陰謀をし、ただひとり国権を握っていたのです。

微生霑忌刻,萬事益酸辛。』
自分の徴少な生活もこの人の猜忌で残忍なやりかたで水をかけられたのです。一事が万事ますますつらいことになってきたところです。』

交合丹青地,恩傾雨露辰。
あなたは袞竜衣を身につける地位の人と交際親密であられ、人に対しては時に従い雨露のように恩恵を注ぎかけられるお方である。

有儒愁餓死,早晚報平津。』
今ここに自分の様な儒者がおり、餓えて死にはしないかと心配しています。はやければありがたいのですが、この有様を平津侯である宰相におしらせしてくださいますか。




鮮京兆尹に二十韻をお贈りもうしあげます 杜甫

我が唐王朝は天子のお声がかりで一芸に秀でた人物が多いといわれているが、賢良な人は幾人いるだろうかといえばさほど多くはないだろう。
特別非凡の人才も時折出る、そういう人はさわやかな雰囲気でいい影響を与えるだろう。
こんどはじめて漢の京兆尹張敞殿がでたが、漢の天子のおそば近くつかえるのにはふさわしいことである。
千里の馬にとって前に進むべき道路が開けられた様なもの、又下界の風塵をはなれて雕鶚の猛鳥が空高く飛び立つ様なものなのだ。』

節度使は多くいることは周知のことである。あなたは自己の文章のカを以て高位になられたのである。
自己を奮い立たせ飛び上がり超等級の方である、たやすく下位に沈んだりということはないお方である。
太公望のような行為は眼中におかないことである、今の地位に居るあなたは公平な文の取り扱いをすること、郢匠が斤を取って寸分の狂いもなかったものを手にしている。
君は今雲霄の高位には既にせまっておられる。宰相公に対して他に誰が親しいものがあるというのか。』
丹穴の鳳雛ともいうべき貴家の公子等は皆よい方々であり、竜門にもあたいする黄門において新に自分のようなものまで賓客としていただいている。
諸公子の義侠の精神の評判には自分は心もから感激しているが、受験において落第し続けており、あつかましくも進みでて身辺の事についてお願いしづらくて逡巡しております。』

めざす前途がなかなか遠く違うようでありどちらに向かうべきかご指導願いたい。天は高くして叫ぶ声もとどき重ねて陳述したのだがそれが届かぬようなのです。
こどものときから家庭で詩を学んで、やっと地方試験に及第して喜ばしいことにも賓客のとりあっかいをうけてかたじけなくおもっております。
不幸にして晃錯と同じように及第することもできず、またなげかわしく思うことは郤詵よりもおくれてしまった。
自分の計画に手抜かりがあるために自分の文辞にさえ疑いはじめたのです、落第つづきで時機を逸したのかもしれないので仕進をやめて、ただ松竹の如く晩節を保とうかと思っている。』

そのうちに、三大礼において賦を献上したために天子からお目をかけられて紫宸殿で謁見を仰せつけられた。
しばらく他の英才の人々の集りに随伴したのです、やっとこれでいささかの才能をのばすことができるかとこいねがっております。
ところが驚いたことには前宰相(李林甫)というものに遭遇したのです。陰謀をし、ただひとり国権を握っていたのです。
自分の徴少な生活もこの人の猜忌で残忍なやりかたで水をかけられたのです。一事が万事ますますつらいことになってきたところです。』

あなたは袞竜衣を身につける地位の人と交際親密であられ、人に対しては時に従い雨露のように恩恵を注ぎかけられるお方である。
今ここに自分の様な儒者がおり、餓えて死にはしないかと心配しています。はやければありがたいのですが、この有様を平津侯である宰相におしらせしてくださいますか。』


鮮於京兆に二十韻を贈り奉る 杜甫

王国士多しと称せらる 賢艮復た幾人ぞ
異才応に間出すぺし 爽気必ず殊倫なり
始めて見る張京兆 宜しく漢の近臣に居るべし
驊騮道路開く 雕鶚風塵を離る』
侯伯知る何算 文章実に身を致せり
奮飛等級を超え 容易沈淪を失す
磻渓の釣を脱略して 郢匠の斤を操持す
雲霄今巳に逼る 台袞 更に誰か親しまん』
鳳穴 鄒 皆好し 竜門 客 又 新なり
義声 紛として感激す 敗績 自ら逡巡たり』
途遠くして何くに向わんと欲する 天高くして重ねて陳べ難し
詩を学ぶは猶お孺子なりき 郷賦嘉賓を黍くす
晁錯に同じきを得ず 呼嗟郤詵に後れたり
計疎にして翰墨を疑い 時過ぎて松筠を憶う』
献納皇眷を紆らす 中間紫宸に謁す
且く随う諸彦の集るに 万に覬う薄才の伸びんことを
破胆前政の 陰謀独り鈞を秉るに遭う
徴生忌刻に霑う 万事益々酸辛なり』
交りは合す丹青の地 恩は雨露を傾くる辰
儒有り餓死せんことを愁う 早晩平津に報ぜん』



鮮于 鮮于は姓、名は仲通。蜀の富豪で楊国忠に資金を提供したために、国忠に後に引き上げられた。仲通は天宝九載に剣南節度副大使となり、十一載に至って京兆尹に拝した。楊国忠が相となったのは、十一載十一月であるから仲通が京兆尹となったのは其の後のことであろう。○京兆 京兆尹(長安の市長)。




奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫


王國稱多士,賢良複幾人?
我が唐王朝は天子のお声がかりで一芸に秀でた人物が多いといわれているが、賢良な人は幾人いるだろうかといえばさほど多くはないだろう。
○王国 天子の国、唐王朝をいう。○多士 人物の多いこと。○賢艮 かしこくよき人物。○復幾 人幾人ぞとは幾人かある、あまり多くはあるまいということ。
 
異才應間出,爽氣必殊倫。
特別非凡の人才も時折出る、そういう人はさわやかな雰囲気でいい影響を与えるだろう。
○異才 特別非凡の才。○間出 時折出る。まじわりいでる。○爽気 雰囲気のさっぱりしたこと。○殊倫 特殊の傑出せるたぐい。
 
始見張京兆,宜居漢近臣。
こんどはじめて漢の京兆尹張敞殿がでたが、漢の天子のおそば近くつかえるのにはふさわしいことである。
○張京兆 漢の京兆戸張敞をいう。名官であったので仲通にたとえる。京兆尹は長安の市長。。○漢近臣 漢は唐を意味し、近臣は天子のおそぼちかくつかえる臣。

驊騮開道路,雕鶚離風塵。』
千里の馬にとって前に進むべき道路が開けられた様なもの、又下界の風塵をはなれて雕鶚の猛鳥が空高く飛び立つ様なものなのだ。』
○驊騮 千里の馬。○開 そのゆくべき道が前にあらわれることをいう。○雕鶚 たかのたぐい、鶚は雕より大きい。○離風塵 下界をはなれて空高くとぶ。
 


侯伯知何算,文章實致身。
節度使は多くいることは周知のことである。あなたは自己の文章のカを以て高位になられたのである。
○侯伯 諸侯をいうのであるが、唐の時代には諸侯はないので、地方の節度使をさしている。○何算 いかに算するをしる。多くあって算できない。○致身 身を高位に致す。
 
奮飛超等級,容易失沈淪。
自己を奮い立たせ飛び上がり超等級の方である、たやすく下位に沈んだりということはないお方である。
○失沈倫 上の超等殻と同じことを反面より言ったまでである。
 
脫略磻溪釣,操持郢匠斤。
太公望のような行為は眼中におかないことである、今の地位に居るあなたは公平な文の取り扱いをすること、郢匠が斤を取って寸分の狂いもなかったものを手にしている。
○脱略 眼中におかないこと。○磻溪釣 周の呂尚(太公望)の故事、『佩文韻府』引『水経注』「渭水之右、磻渓水注之、東南隅有石室、蓋太公所居也」。大公は渭水の右、磻渓水の注ぐ処に釣を垂れていて文王に迎えられた。○操持 手にとる。○郢匠斤 文章が間違いのない正しいものと評価されること。○郢匠の事は「荘子」に見える。郢(楚の都)の人体像に鼻のあたまに漆喰をぬっているものがあり、邦の匠(大工)石というものが斤(まさかり)をふりまわしてその漆喰をけずりとったところ少しも鼻を傷つけなかったという。削りにおいて寸分の狂いがないことをいう。
 
雲霄今巳逼,台袞更誰親?』
君は今雲霄の高位には既にせまっておられる。宰相公に対して他に誰が親しいものがあるというのか。』
○雲霄 そら、くものうえのおおぞら、高い地位をいう。〇台袞 三台、兗衣のこと。三公は天の三台星に対し、又三公は袞(竜のついている衣)をきる。暗に楊国忠をさしている。三公は袞(竜のついている衣)赤の服は天子の最も信任の篤い臣下に贈られるもので、これを袞竜衣(こんりょうい)という。 .赤地の服の両袖に竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につけ、頭には冕(べん)と呼ばれる(玉すだれの)冠を被っている。○更誰親 仲通ほど親しいものはだれもない。


■ここから鮮于に対してとお願いの前段。
鳳穴鄒皆好,龍門客又新。
丹穴の鳳雛ともいうべき貴家の公子等は皆よい方々であり、竜門にもあたいする黄門において新に自分のようなものまで賓客としていただいている。
○鳳穴 鳳穴とは鳳凰の住居をいい、ここは鮮于氏の家門をさす。○鄒 ひな。鳳凰の児をいい、仲通の子供をさす。○竜門 黄河にある懸瀑の名、陝西省同州府韓城県にある。鯉魚がこの滝をのぼるり竜となるということから竜門という。ここでは鮮于氏に竜門をあてていう。○客 賓客、杜甫自ずからをいう。

義聲紛感激,敗績自逡巡。』
諸公子の義侠の精神の評判には自分は心もから感激しているが、受験において落第し続けており、あつかましくも進みでて身辺の事についてお願いしづらくて逡巡しております。』
○義声 義侠なりとの評判、これは鮮于氏の諸子についていう、この句によれば作者は蓋し諸公子と交際があったものと思われる。○感激 作者がはげしく感動する。○敗績 「左伝」に大いに崩れることを敗績というとみえる、戦に大負けすること。ここ者が試験に失敗したことに用いる。○逡巡 ためらって前へ進みでぬこと。
 


■ここからは開元中の落第について。
途遠欲何向,天高難重陳。
めざす前途がなかなか遠く違うようでありどちらに向かうべきかご指導願いたい。天は高くして叫ぶ声もとどき重ねて陳述したのだがそれが届かぬようなのです。
○途遠 目的とする処まで距離が遠い。○天高 天は有形の天をいうが裏面には天子の居をさす。○重陳 かさねて陳述する、言いのべる。


學詩猶孺子,鄉賦忝嘉賓。
こどものときから家庭で詩を学んで、やっと地方試験に及第して喜ばしいことにも賓客のとりあっかいをうけてかたじけなくおもっております。
○学詩 家庭にて詩をまなぶことをいう。○孺子 童子。○郷賦 地方にて詩賦の試験をうけることをいう。〇番嘉賓 黍は辱くする、謙遜の辞。嘉賓とはよき賓客。唐の制度では地方の試験に及第すると、地方官がこ賓客として招き要し、「詩経」小雅の「鹿鳴」の詩をうたって京師へ送った。


不得同晁錯,籲嗟後郤詵。
不幸にして晃錯と同じように及第することもできず、またなげかわしく思うことは郤詵よりもおくれてしまった。
○晁錯 ちょうそ 漢の文帝の時、高等で及第し中大夫に選ばれた。文帝の治世にその命により、秦の時代の焚書坑儒により廃れてしまった尚書(書経)を、当時90余歳の伏生のもとに派遣されて学んだ。そこから文帝より信任を得て政治に参加し始め、匈奴対策などを立案していた。また同じく太子の劉啓(のちの景帝の教育係にもなった。○呼嗟 ああ、の辞。○郤詵 げきしん 郤詵(生没年不詳)は字を広基といい、済陰郡単父県の人である。尚書左丞の郤晞の子。博学多才で、並はずれて優れていて、細かいことにはとらわれない性格であった。晋の郤詵(げきしん)が進士に合格したとき、「桂林の一枝を得たにすぎない」と帝に言ったという「晋書」郤詵伝の故事
 
計疏疑翰墨,時過憶松筠。』
自分の計画に手抜かりがあるために自分の文辞にさえ疑いはじめたのです、落第つづきで時機を逸したのかもしれないので仕進をやめて、ただ松竹の如く晩節を保とうかと思っている。』
○計疎分の計りごとに手ぬかりのあること。○疑翰墨 翰墨は筆墨、文辞のことをさす。疑とはその価値についぅこと。文辞のすぐれている者は及第すべきはずであるのに及第を得なかったので疑いが生じたのである。時機を逸したこと。○松筠 筠は竹色をいうことばであるが竹を意味する。松竹とはその歳晩になっも変易しない青線の色についていう、不変の色はこれを人の節操をあらわす。


ここからは、賦を献じたため玄宗より召し試みられたことをのべる。
獻納紆皇眷,中間謁紫宸。
そのうちに、三大礼において賦を献上したために天子からお目をかけられて紫宸殿で謁見を仰せつけられた。
○献納 三大礼の賦を献じたをいう。○紆 紆回の紆、わざわざこちらへむけてくださる、敬語となる。○皇眷皇は天子(玄宗)をさす。眷はめをかけてくださること、ふりむきもしないというのは愛する念のないことであり、ふりむ寵愛の念のあることである。○中間 そのうちに。○紫宸 正殿の名。

且隨諸彥集,方覬薄才伸。
しばらく他の英才の人々の集りに随伴したのです、やっとこれでいささかの才能をのばすことができるかとこいねがっております。
○諸彥 もろもろのひいでた人々。その時作者と同じく召しだされたものをさす。○覬 冀(こいねがう)と同じ。○薄才伸 薄我が才能、謙透していう。

破膽遭前政,陰謀獨秉鈞。
ところが驚いたことには前宰相(李林甫)というものに遭遇したのです。陰謀をし、ただひとり国権を握っていたのです。
○破膽 驚くこと。○前政 前の政権をとった人、即ち前宰相李林甫をいう、作は前の京師の試験にも、この天子の召試にもみな李林甫の妨害によって及第することを得なかった。○かげのたくらみ。○秉鈞 宰相たる者は一国の公平を手にするものであるということを独りで独占する。


微生霑忌刻,萬事益酸辛。』
自分の徴少な生活もこの人の猜忌で残忍なやりかたで水をかけられたのです。一事が万事ますますつらいことになってきたところです。』
○徴生 あるかなきかの生活、自己の徴少な生活をいう。○霑 希望に対して水をかけ、その余波をうけたことをいう。○忌刻 猜忌で残忍なこと。○万事 一事が万事。○酸辛 つらいこと。


■以下は鮮于に援助のお願い
交合丹青地,恩傾雨露辰。
あなたは袞竜衣を身につける地位の人と交際親密であられ、人に対しては時に従い雨露のように恩恵を注ぎかけられるお方である。
○交合 合とは一致すること、交際がくいちがいにならずぴったりあうこと。○丹青地 公卿の地位をいう。.赤地の服の両袖に青の竜の刺繍をつけた袞竜衣を身につける地位の人。○恩 鮮于から作者に対する恩恵。○傾雨露 雨露は恩恵をたとえていう、傾くとは我が方へぶちまけること。○辰 時と同じ。

有儒愁餓死,早晚報平津。』
今ここに自分の様な儒者がおり、餓えて死にはしないかと心配しています。はやければありがたいのですが、この有様を平津侯である宰相におしらせしてくださいますか。
○有儒 儒とは時に染まらず節操を曲げない自分を指す。○早晩 はやければありがたい。○報 我が境遇についてつげしらせる。○平津 漢の公孫弘をいう。弘は丞相となり、平津侯に封ぜられ、東閣を開いて賢士を招いた。ここは時の宰相楊国忠をさす。



奉贈鮮於京兆二十韻 杜甫

王國稱多士,賢良複幾人?
異才應間出,爽氣必殊倫。
始見張京兆,宜居漢近臣。
驊騮開道路,雕鶚離風塵。』

王国士多しと称せらる 賢艮復た幾人ぞ
異才応に間出すぺし 爽気必ず殊倫なり
始めて見る張京兆 宜しく漢の近臣に居るべし
驊騮道路開く 雕鶚風塵を離る』


侯伯知何算,文章實致身。
奮飛超等級,容易失沈淪。
脫略磻溪釣,操持郢匠斤。
雲霄今巳逼,台袞更誰親?』

侯伯知る何算 文章実に身を致せり
奮飛等級を超え 容易沈淪を失す
磻渓の釣を脱略して 郢匠の斤を操持す
雲霄今巳に逼る 台袞 更に誰か親しまん』


鳳穴鄒皆好,龍門客又新。
義聲紛感激,敗績自逡巡。』

鳳穴 鄒 皆好し 竜門 客 又 新なり
義声 紛として感激す 敗績 自ら逡巡たり』


途遠欲何向,天高難重陳。
學詩猶孺子,鄉賦忝嘉賓。
不得同晁錯,籲嗟後郤詵。
計疏疑翰墨,時過憶松筠。』

途遠くして何くに向わんと欲する 天高くして重ねて陳べ難し
詩を学ぶは猶お孺子なりき 郷賦嘉賓を黍くす
晁錯に同じきを得ず 呼嗟郤詵に後れたり
計疎にして翰墨を疑い 時過ぎて松筠を憶う』


獻納紆皇眷,中間謁紫宸。
且隨諸彥集,方覬薄才伸。
破膽遭前政,陰謀獨秉鈞。
微生霑忌刻,萬事益酸辛。』

献納皇眷を紆らす 中間紫宸に謁す
且く随う諸彦の集るに 万に覬う薄才の伸びんことを
破胆前政の 陰謀独り鈞を秉るに遭う
徴生忌刻に霑う 万事益々酸辛なり』


交合丹青地,恩傾雨露辰。
有儒愁餓死,早晚報平津。』

交りは合す丹青の地 恩は雨露を傾くる辰
儒有り餓死せんことを愁う 早晩平津に報ぜん』

玄都壇歌寄元逸人 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 51

玄都壇歌寄元逸人 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 51

玄都壇のさまを述べて元逸人に寄せた詩。752天宝十一載の作。この詩は、李白の「西岳云台歌送丹邱子」と雰囲気を同じくしている。
元都壇歌寄元逸人 杜甫 51

この年の出来事。
752天宝 11載・11月宰相李林甫(65歳位)が病死、楊国忠、右相となる。18年間の圧制も今度は楊貴妃一族に取って代わる。 
杜甫:・752 41歳 長安にあり。召されて文章を試み、有司に送り隷して選序に参列することができた。暮春、しばらく洛陽に帰る。冬、長安にて岑参、高適、儲光羲と交わる。就職活動をやみくもに進める。 「 同諸公登慈恩寺塔」 「麗人行」
王維:・752 王維54歳 文部郎中(従五品上)に任ぜられる 王維 「送秘書晁監還日本国」
岑参:38歳 長安に帰る。秋、杜甫高適と慈恩寺塔に登る。

玄都壇歌寄元逸人
故人昔隱東蒙峰,已佩含景蒼精龍。
我が旧友たる君は昔東蒙峰にかくれていた頃から己に姿隠しの御守り札などを佩びた人のようであった。
故人今居子午穀,獨在陰崖結茅屋。』
君は、今、子牛谷に住んでいて、ただひとり北向きの崖に茅屋の庵を結んでいる。』
屋前太古元都壇,青石漠漠常風寒。
その茅屋の前には太古からあるらしい玄都壇があって、青色の石が平べったく横わり、吹きくる風はいつもつめたい。
子規夜啼山竹裂,王母晝下雲旗翻。』
夜にはほととぎすが啼いて山の竹が裂ける様な声をだし、昼は西王母の道士、仙人が雲旗をひるがえして天から下ってくる。』
知君此計誠長往,芝草瑯玕日應長。
君は世間に認知された、かかる山中の修行を計っては永久に自然界と一体化されているのである。そこでは気を吸い、霞をたべ、芝草や瑯玕の仙草が日々生長していることであろう。
鐵鎖高垂不可攀,致身福地何蕭爽。』

そこへ行くには懸崖絶壁で鉄のくさりが高く垂れていてよじのぼることもできない。さような道教の福地というべきところに身を置くというはなんと「蕭爽な気」を身に吸い込んで一体化していくのであろう。』



我が旧友たる君は昔東蒙峰にかくれていた頃から己に姿隠しの御守り札などを佩びた人のようであった。
君は、今、子牛谷に住んでいて、ただひとり北向きの崖に茅屋の庵を結んでいる。』

その茅屋の前には太古からあるらしい玄都壇があって、青色の石が平べったく横わり、吹きくる風はいつもつめたい。
夜にはほととぎすが啼いて山の竹が裂ける様な声をだし、昼は西王母の道士、仙人が雲旗をひるがえして天から下ってくる。』

君は世間に認知された、かかる山中の修行を計っては永久に自然界と一体化されているのである。そこでは気を吸い、霞をたべ、芝草や瑯玕の仙草が日々生長していることであろう。
そこへ行くには懸崖絶壁で鉄のくさりが高く垂れていてよじのぼることもできない。さような道教の福地というべきところに身を置くというはなんと「蕭爽な気」を身に吸い込んで一体化していくのであろう。』


玄都壇の歌元逸人に寄す
故人昔隠る東蒙峰、己に佩ぶ含景の蒼精竜。
故人今居る子牛谷、独り陰崖に在って茅屋を結ぶ。』
屋前太古の玄都壇、青石漠漠として常に風寒し。
子規夜啼いて山竹裂け、王母昼下りて雲旗翻る。』
知る君が此の計長往を成すを、芝草瑯玕日に応に長ずるなるべし。
鐵鎖高く垂れて攣す可からず、身を福地に致す何ぞ粛爽なる。』




玄都壇歌寄元逸人
○玄都壇 玄都とは道家のかんがえた一つの仙郷。「十洲記」に「玄洲ハ北海二在り、岸ヲ去ルコト三十六万里、上二大玄都有り、仙伯真公ノ治ムル所ナリ」とある。玄都壇は漢の武帝の築く所で長安の南山の子牛谷の中に在る。元逸人はここに隠れていたのである。
①--- 
東海 祖州・・・方円五百里にして中國東方七万里という。不死の草あり。死者の上にその草を置くだけでよみがえるのである。
②東方大海中 瀛州・・・方円四千里。揚子江口から七十万里という。神芝仙草というのが生えている。また、玉石ありて高さ一千丈という。酒の味がする玉醴泉がある。これを飲むと長生するといい、神仙の家が多い。
③北海 玄州・・・中國の北西の間の方向に、三十六万里離れて在り。方円七千二百里。崑崙山のかなたにある。山々にかこまれ太玄都がある。神仙である真君が支配しているという。しかし、その太玄都近くに風山がある。この山には大いなる風が吹き止むことなく、また雷電の音と光が絶えるときがない。この山の上に天地の西北の門があるの。その門から、時に多数の大きな仙人たちの住居が見える。
④南海 炎州・・・中國から南へ九万里、方円二千里。この世界には不思議なドウブツがいるので名高い。
⑤南海 長州・・・中國の南東二十万里、方円五千里。山川が多く、森に覆われている。森には巨木多く、二千人で抱えてようやく一回りできるような大きなものもある。森が多いことから「青丘」とも言われる。仙草、霊薬、甘液、玉英を産する。
この大陸にも風山があり、その山はつねに震動し、轟々とうなっている。
⑥北海 元州・・・中國の北方十万里、方円三千里。この大陸には五芝玄澗と名づけられる谷があって、そこの水は蜜のように甘く、長生の効能がある。またこの谷に生えている五芝の方にも長生の効能があるのである。
⑦西海 流州・・・中國の西方十九万里、方円三千里。多くの山と川があるのであるが、特に大きな石の嶺があり「崑吾」と名づけられている。この露頭から掘削される鉄鉱を用いて製せられた剣は光かがやいてしかも透き通りまるで水晶のごとしという。この剣を以って玉を斬ればまるで泥を斬るようだとのこと。
⑧東海 生州・・・中國の東北方二十三万里、方円二千五百里。(蓬莱を離れること七十万里、ともいうのですが、蓬莱とチュウゴクと、この生洲との位置関係がよくわからない。)数万の神仙が住むといい、天気は常に晴朗で温暖、寒暑なく、万物がいつも生長しやすい環境にある。もちろん長生に資する霊芝や仙草もどんどこ成長する。飲み水もとても甘いという。
⑨西海 鳳鱗州・・・方円一千五百里。四方を波風の無い海の囲まれているゆえ人間には渡ることができないらしい。ここには鳳凰・麒麟が何万と住んでいる。もちろん神仙も多く住んでおられるのだ。鳳凰のくちばしと麒麟の角を煮て作ったにかわがあり、切断した弓の弦や刀をつなぎあわせることができるという。
⑩西海 集窟州・・・中國の西南、崑崙を離れること南に二十六万里、中國を離れること西に二十四万里という。神仙が多く住んで数え尽くせない。この大陸には獅子、避邪、サク歯、天鹿、長牙、銅頭、鉄額といった動物、人間の頭を持つ鳥がいる。この鳥の住む山を人鳥山というが、人鳥山には楓に似た樹木あり、還魂樹とよばれ、この木は香りがよい。
元逸人 李太白の集に元丹邸という人がみえるが元丹邱については12首ある。逸人と同一人であろう。
李白は、元丹邱との関係が深い。その関係を表す詩だけでも、以下の12首もある。
1.西岳云台歌送丹邱子
2.元丹邱歌                         
3.潁陽元丹邱別准陽之
4.詩以代書答元丹邱
5.酬岑勛見尋就元丹邱對酒相待以詩見招
6.尋高鳳石門山中元丹邱
 7.觀元丹邱坐巫山屏風
 8.題元丹邱山居
 9.題元丹邱潁陽山居 并序
10.題嵩山逸人元丹邱山居 并序
11.聞丹邱子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡、
12.與元丹邱方城寺談玄作、




故人昔隱東蒙峰,已佩含景蒼精龍。
我が旧友たる君は昔東蒙峰にかくれていた頃から己に姿隠しの御守り札などを佩びた人のようであった。
故人 旧知の人、元逸人をさす。作者と逸人とは山東時代(開元二十三四年頃)よりの知己であり、
與李十二白同尋范十隱居  杜甫
李侯有佳句,往往似陰鏗。
余亦東蒙客,憐君如弟兄。』
醉眠秋共被,攜手日同行。
更想幽期處,還尋北郭生。』
入門高興發,侍立小童清。
落景聞寒杵,屯雲對古城。』
向來吟橘頌,誰欲討蓴羹。
不願論簪笏,悠悠滄海情。』

「同二太白一訪二苑隠居こ詩の「余モ亦東蒙ノ客、君ヲ憐ムコト弟兄ノ如シ」、東蒙時代に関する句である。○東蒙峰 蒙山をいう。蒙山は山東省折州府蒙陰県の西南にあり、魯(究州曲阜県)よりすれば東にあたるので東蒙という。
含景蒼精竜 景は影と同じ、隴山には、蒼精竜が棲むとされた、杜甫「前出塞九首」李商隠「桂林」
城窄山將壓、江寛地共浮。
東南通絶域、西北有高樓。
紳護青楓岸、龍移白石湫。
殊郷竟何禱、簫鼓不曾体。
姿を隠すための蒼精竜の御札を示す。




故人今居子午穀,獨在陰崖結茅屋。』
君は、今、子牛谷に住んでいて、ただひとり北向きの崖に茅屋の庵を結んでいる。』
 作詩の時。○子牛谷 長安県南の山中にあり、長さ六百六十里、北の口を子という、西安府の南百里にあり、南の口を午という、漢中府洋県の東百六十里にある。終南山に元丹邱の庵があった。○陰崖 北むきのがけ。長安側。



屋前太古元都壇,青石漠漠常風寒。
その茅屋の前には太古からあるらしい玄都壇があって、青色の石が平べったく横わり、吹きくる風はいつもつめたい。
○漠漠 広く平かなさま。○ いつも、或は常を松に作る。



規夜啼山竹裂,王母晝下雲旗翻。』
夜にはほととぎすが啼いて山の竹が裂ける様な声をだし、昼は西王母の道士、仙人が雲旗をひるがえして天から下ってくる。』
子規 ほととぎす。○山竹裂 裂帛、裂竹はみな声の形容。○王母 西王母をいい、ここでは、道を開いた女道士を指す。ものとおもう。○雲旗 くものはた、道士、元丹邱など仙人の行列をいう。
 

知君此計誠長往,芝草瑯玕日應長。
君は世間に認知された、かかる山中の修行を計っては永久に自然界と一体化されているのである。そこでは気を吸い、霞をたべ、芝草や瑯玕の仙草が日々生長していることであろう。
此計 此の山中生活のはかりごと。○誠長往 長往とは自然界と一体化のことをいう。○芝草瑯玕 芝草、瑯玕共に仙薬。○ 不老になる。



鐵鎖高垂不可攀,致身福地何蕭爽。』
そこへ行くには懸崖絶壁で鉄のくさりが高く垂れていてよじのぼることもできない。さような道教の福地というべきところに身を置くというはなんと「蕭爽な気」を身に吸い込んで一体化していくのであろう。
鐵鎖 鎖に同じ、くさり。岩場に上から鉄の鎖が設置されている。○高垂 高い処からたれる、これは壇の所在の地の高いことをいうが、高いところに登るため、鐵鎖を伝って攀じ登るのである。道教の修行場は、ほとんど同様なものであった。その麓に道観(寺院のこと、道教の場合寺を観という)がある。○致身 道教は万物の一体化が基本である、身をそこに置くことを重視する。○福地 壇の在る所は道教でいう福地であるとの意。洞天福地説があり、「神山訣録」に「天仙・地仙・三十六洞天・八十一福地有り、地仙由り功行ヲ積累シ、遂二天仙二超昇ス」という。○粛爽 しずかにさわやか。


 

道教--この詩のための要旨--
 仁義・礼節によって修身冶平天下を計る儒教への反動として、虚静、人為的な工作を避け天地の常道に則った生活によって、理想社会の出現を期待する。特に神仙説は、より具体的な形、東方の海上に存在する三神山(瀛州、方壷、蓬莱)ならびに西方極遠の地に存在する西王母の国を現在する理想国とした。ここには神仙が居住し、耕さず努めず、気を吸ひ、霞を食べ、仙薬を服し、金丹を煉(ね)って、身を養って不老長生である、闘争もなければ犯法者もない。かかる神仙との交通によって、同じく神仙と化し延寿を計り得るのであって、これ以外には施すべき手段はなく、これ以外の地上の営みはすべて徒為(むだ)であるとなすに至る。

貧交行 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 48 

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貧交行 
貧賎であったときには交りがあったものが富貴となってのちはその交りを棄てて省みないこと嘆いて作った詩。作者は賦を献じて後久しく長安に寓居していたが、時代は最悪の状態。李林甫の横暴はすさまじいもので、皇帝の近親者までも捕縛される始末で宦官の陰湿な動きも時代を暗くしていったのである。その状態の中で此の作を作った。752年、天宝十一載の作。

天宝10載  751年 40歳


貧交行     杜甫 
翻手作雲覆手雨,紛紛輕薄何須數。
手をひるがえせば雲となり、手をくつがえせば雨となる、入り乱れる(数多くの)軽薄なさまは、数える必要もない。
君不見管鮑貧時交,此道今人棄如土。
ご存じでしょう、管仲と鮑叔牙の貧しい時代の交わりを。この交友の精神は、現在の人々は土くれのように棄ててしまった。 


貧交行    
手を翻(ひるがへ)せば雲と 作(な)り 手を覆(くつがへ)せば 雨となる。
紛紛たる輕薄  何ぞ 數ふるを 須(もち)ゐん。
君見ずや  管鮑(くゎんんぱう) 貧時の交はりを,
此(こ)の道  今人(こんじん) 棄つること 土の如し。



貧しい時代の交友の歌。
手をひるがえせば雲となり、手をくつがえせば雨となる、入り乱れる(数多くの)軽薄なさまは、数える必要もない。
ご存じでしょう、管仲と鮑叔牙の貧しい時代の交わりを。この交友の精神は、現在の人々は土くれのように棄ててしまった。 



貧交行:貧しい時代の交友の歌。 ・行:歌。

翻手作雲覆手雨,紛紛輕薄何須數
手をひるがえせば雲となり、手をくつがえせば雨となる。入り乱れる(数多くの)軽薄なさまは、数える必要もない。 

翻手作雲覆手雨:手をひるがえせば雲となり、手をくつがえせば雨となる。  ・翻手:掌(たなごころ)をひるがえす。掌(てのひら)を上に向ける 。・作雲:雲になる。雲となる。 ・覆手:掌(たなごころ)をくつがえす。掌(てのひら)を下に向ける。 ・:〔名詞〕雨。〔動詞〕雨ふる。
紛紛輕薄何須數:入り乱れる(数多くの)軽薄なさまは、数える必要もない。 ・紛紛:乱れ散るさま。混じり乱れるさま。

杜甫「陪鄭廣文游何將軍山林十首」其九
牀上書連屋,階前樹拂雲。將軍不好武,稚子總能文。
醒酒微風入,聽詩靜夜分。絺衣掛蘿薜,涼月白紛紛。

杜甫「孤雁」
孤雁不飲啄,飛鳴聲念群。誰憐一片影,相失萬重雲。
望盡似猶見,哀多如更聞。野鴉無意緒,鳴噪自紛紛。

李白「牛泊牛渚懐古」
牛渚西江夜、青天無片雲。
登舟望秋月、空憶謝勝軍。
余亦能高詠、斯人不可聞。
明朝挂帆席、楓葉落紛紛。
中唐・白居易「送春」
三月三十日,春歸日復暮。
惆悵問春風,明朝應不住。
送春曲江上,拳拳東西顧。
但見撲水花,紛紛不知數。
人生似行客,兩足無停歩。
日日進前程,前程幾多路。
兵刃與水火,盡可違之去。
唯有老到來,人間無避處。
感時良爲已,獨倚池南樹。
今日送春心,心如別親故。

杜牧の「淸明」
淸明時節雨紛紛,路上行人欲斷魂。
借問酒家何處有,牧童遙指杏花村。
輕薄:うわすべりで、真心がない。 ・何須:…する必要はない。 ・數:数える。


君不見管鮑貧時交,此道今人棄如土。
ご存じでしょう、管仲と鮑叔牙の貧しい時代の交わりを。
この交友の精神は、現在の人々は土くれのように棄ててしまった。
君不見管鮑貧時交:ご存じでしょう、管仲と鮑叔牙の貧しい時代の交わりを。 ・君不見:諸君、見たことがありませんか。詩を読んでいる人(聞いている人)に対する呼びかけ、強調。樂府体に使われる。「君不聞」もあり、そこでは強調するためなので、詩のリズムが大きく変化する。

紀頌之漢詩ブログ 李白48『襄陽歌』君不見晉朝羊公一片石。龜頭剝落生莓苔。

紀頌之漢詩ブログ 李白89『將進酒』
君不見黄河之水天上來,奔流到海不復迴。
君不見高堂明鏡悲白髮,朝如青絲暮成雪。
人生得意須盡歡,莫使金樽空對月。

紀頌之漢詩ブログ 杜甫37『兵車行』
君不見青海頭,古來白骨無人收。
新鬼煩冤舊鬼哭,天陰雨濕聲啾啾。

白居易『新豐折臂翁』
君不聞開元宰相宋開府,不賞邊功防黷武。
又不聞天寶宰相楊國忠,欲求恩幸立邊功。
邊功未立生人怨,請問新豐折臂翁。

白居易「杏爲梁」君不見馬家宅尚猶存

白居易「馴犀」君不見貞元末
白居易「太行路」、「上陽白髪人」、「澗底松」、「李夫人」、「天可度」、「采詩官」

岑参「胡笳曲送顔真卿使赴隴西」
君不聞胡笳聲最悲,紫髯綠眼胡人吹。
管鮑:かんぽう〕春秋時代の管仲と鮑叔牙のことで、「管鮑の交わり」をいう。深く理解し合った親密な交わり、仲むつまじい交際で、とりわけ鮑叔牙が管仲を深く理解していた。管仲は斉の宰相。安徽省の人。親友鮑叔牙の勧めで桓公に仕え、斉を強国とした人物。鮑叔は、欠点の多い管仲の好き理解者。・貧時:管仲と鮑叔が成功をまだ収めていない時期。貧しい時期。 ・:交際。交わり。

此道今人棄如土:この交友の精神は、現在の人々は土くれのように棄ててしまった。 ・此道:この道。交友を指す。管鮑の交わりのような交友。「管鮑之交」。 ・今人:現在の人。作者と同時代人を指す。ここでは、作者の周りの軽薄な人々のことになる。 ・:すてる。廃棄する。 ・:…のよう。 ・:つちくれ。ここでは、価値の無い物をいう。



■管鮑の交わり
 管仲は若い頃に鮑叔と親しく交わっていた。ある時、金を出し合って商売をしたが、失敗して大きな損失を出した。しかし鮑叔は管仲を無能だとは思わなかった。商売には時勢がある事を知っていたからである。また商売で利益が出た時、管仲は利益のほとんどを独占したが、鮑叔は管仲が強欲だとは思わなかった。管仲の家が貧しい事を知っていたからである。 このような鮑叔の好意に管仲は感じ入り、「私を生んだのは父母だが、私を知る者は鮑叔である」と言った。二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ



■貧交行のころの杜甫
 この頃の杜甫は、任官の機会を得られないまま四十一歳になった。父、杜閑が死んでしまってからの収入は杜甫の手にかかっていた。どうしても官職を得ないといけないのだが、特別試験にも落第して、なりふり構わず、大臣の屋敷に頭を下げて出入りし、書家、画家、楽士の文士となって生活費にしていたのだ。また、薬草の知識を生かして、山野から採取し、副収を得るようにもしている。
天宝十載(751)正月に、杜甫は延恩匭(えんおんき)に「三大礼の賦」とそれに付した表(上書)を投函した。延恩匭というのは、大明宮の東西南北、四つの門に設けられた投書箱で、一般の民が天子に意見を述べられるもので、杜甫は直接天子に訴えたのだ。
甲斐あって、集賢院待制(しゅうけんいんたいせい)に任じられたのだが、待制というのは御用掛り待機候補といったものである。順番が来れば選考・登用の機会が与えられるという程度のものだ。それでも、期待していても呼び出しはなかった。この辛さが詩人を成長させていく。

前出塞九首 其六 杜甫 :紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 45

前出塞九首 其六 杜甫 :紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 45
天宝10載751年 40歳
前出塞九首 其六 杜甫45


前出塞九首 其六
挽弓當挽強,用箭當用長;
弓をひくなら強い弓をひく方が良い。箭を用いるなら長い箭を用いないといけない。
射人先射馬,擒賊先擒王。
意中の人を射るなら先ず馬を射たおすのである、敵どもをいけどりにするなら先ず王さまをいけどりにして大義、戦意をなくことだ。
殺人亦有限,列國自有疆。
攻め込んだとしても人を殺すことについては限界をもうけ、みなは殺しをしてはいけない。国同士の戦争でもおなじはずだ。国にはおのずからそれぞれの間で自然とと国疆というものがあるのであり、範囲はきまっているのだ。
苟能製侵陵,豈在多殺傷?

いやしくもそれはただ、敵が侵してくるのを抑制することができればよいのであって、敵を多く殺傷することに目的があってはいけない。



弓をひくなら強い弓をひく方が良い。箭を用いるなら長い箭を用いないといけない。意中の人を射るなら先ず馬を射たおすのである、敵どもをいけどりにするなら先ず王さまをいけどりにして大義、戦意をなくことだ。
攻め込んだとしても人を殺すことについては限界をもうけ、みなは殺しをしてはいけない。国同士の戦争でもおなじはずだ。国にはおのずからそれぞれの間で自然とと国疆というものがあるのであり、範囲はきまっているのだ。
いやしくもそれはただ、敵が侵してくるのを抑制することができればよいのであって、敵を多く殺傷することに目的があってはいけない。


弓を挽(ひ)かば当に強きを挽くべし、箭(や)を用いは当に長きを用うべし、人を射ば先ず馬を射よ。敵を擒(とりこ)にせば先ず王を檎にせよ
人を殺すも亦た限り有り、国を立つるに自ら疆(きょう)有り。
苛も能く侵陵(しんりょう)を制せば、豈多く殺傷するに在らんや。



挽弓當挽強,用箭當用長;射人先射馬,擒賊先擒王。
弓をひくなら強い弓をひく方が良い。箭を用いるなら長い箭を用いないといけない。意中の人を射るなら先ず馬を射たおすのである、敵どもをいけどりにするなら先ず王さまをいけどりにして大義、戦意をなくことだ。
 つよい弓。○長 ながいや。○ いけとりにする、初めの四句においでは「檎王」の句が主であり、前三句はこれを言うためのまえおきである。



殺人亦有限,列國自有疆。
攻め込んだとしても人を殺すことについては限界をもうけ、みなは殺しをしてはいけない。国同士の戦争でもおなじはずだ。国にはおのずからそれぞれの間で自然とと国疆というものがあるのであり、範囲はきまっているのだ。
殺人 戦争による殺戮。 ○有限 一定の限界がある、人はことごとく殺しつくせるわけのものでない。 ○ くにざかい。○ 抑制する、制限する。



苟能製侵陵,豈在多殺傷?
いやしくもそれはただ、敵が侵してくるのを抑制することができればよいのであって、敵を多く殺傷することに目的があってはいけない。
侵陵 陵は濠に通じ、しのぐ。敵国からの侵略をしのぐ。○豈在 在とは戦争の目的がそこに存在するということ。



出塞兵士の物語 6
 防衛のための戦争にとどめるべきで、侵略し、略奪、殺戮が目的化してはいけない。最新兵器、戦略練って、その戦力を圧倒して、守るのであれば、おおきな血は流されないで済むのではないか。
 将を射んと欲すればまず馬を射よ。生け捕りをするなら王を生け捕れ。セオリーを守れ、と杜甫は述べたのではない。個々の兵士たちに家族がある。守るための戦いにとどめたら少しでも、死ぬ人間が少ないものにとどめるべきだといっている。


唐の体制について
 均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であったが、685年ごろ武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増した。事前通告しない土地の売買を解禁したため、売買が急激にがふえたのだ。戸籍の正確な把握が困難になっていった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の嫌気が増大していった。かくして735年均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。
 
辺境において実施された藩鎮・募兵制は、府兵制は徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。710年に安西四鎮(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の藩鎮を設置している。当初は辺境地域にしか置かれていない。ここに節度使の権力、資力の集約が始まるのである。

前出塞九首 其五 杜甫 :紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 44

前出塞九首 其五 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 44
天宝10載751年 40歳



前出塞九首其五
迢迢萬裡餘,領我赴三軍。
はるばると万里あまりもはなれた地へ部隊長は我々をひきつれて本隊にむけて赴いた。
軍中異苦樂,主將寧盡聞?
軍中では所属の部隊長次第で苦楽の程度が違うようだ、苦しい方の自分たちのこと、総司令官は聞き及んでいるのであろうか。
隔河見胡騎,倏忽數百群。
河を隔てた前岸に異民族の騎兵が見える、たちまちのうちに幾百人と羣をなしたのである。
我始為奴樸,幾時樹功勛?

これがいくさのしはじめなので自分は今やっと奴僕の身分なのだ、いつになったら勲功をたてて上の地位に出世することができるのだろうか。



はるばると万里あまりもはなれた地へ部隊長は我々をひきつれて本隊にむけて赴いた。
軍中では所属の部隊長次第で苦楽の程度が違うようだ、苦しい方の自分たちのこと、総司令官は聞き及んでいるのであろうか。
河を隔てた前岸に異民族の騎兵が見える、たちまちのうちに幾百人と羣をなしたのである。
これがいくさのしはじめなので自分は今やっと奴僕の身分なのだ、いつになったら勲功をたてて上の地位に出世することができるのだろうか。


迢迢万里余、我を領して三軍に赴く。
軍中苦楽異なり、主将寧ぞ尽(ことごと)く聞かんや
河を隔てて胡騎を見る、倏忽(しゅくこつ)数百羣。
我始めて奴僕たり 幾時か功勲を樹てん




迢迢萬裡餘,領我赴三軍。
はるばると万里あまりもも地へ部隊長は我々をひきつれて本隊にむけて赴いた。
迢迢 はるばる。○領我 自分をひきつれて。〇三軍 軍制は上・中・下の三軍に分れて構成されていた。ここは主将の居る本隊をさす。



軍中異苦樂,主將寧盡聞?
軍中では所属の部隊長次第で苦楽の程度が違うようだ、苦しい方の自分たちのこと、総司令官は聞き及んでいるのであろうか。
異苦楽 兵卒たる者はその部隊長の人物如何によって苦と楽とのちがいがあるが、この句から判断するとこの戍卒の属していた人は主将・隊長としていい人物ではなかったので苦労の多かったということだろう。○主将 総司令官。○ 苦楽の状を聞きしる。



隔河見胡騎,倏忽數百群。
河を隔てた前岸に異民族の騎兵が見える、たちまちのうちに幾百人と羣をなしたのである。
隔河 河は交河、土魯番の西にある。○胡騎 えびす、吐蕃の騎兵。○ たちまち。



我始為奴樸,幾時樹功勛?
これがいくさのしはじめなので自分は今やっと奴僕の身分なのだ、いつになったら勲功をたてて上の地位に出世することができるのだろうか。
 やっと今。○為奴僕 「漢書」の公孫弘伝賛に「衛青奴僕より奮う」とあり、武帝の大将軍衛青は奴僕の賤しい身分からふるいおこって栄達したといっている。○幾時 何時と同じ。○功勲 手柄を立てる。いさおし。
 


出塞兵士の物語 5

 出征した兵士たちの部隊によって、扱いが違ったようだ。部隊長の力関係が大きく影響する。すべての基本が弱肉強食の時代である。違いは極端なものであってもおかしくなかったであろう。違いがあるほどコントロールしやすいからである。
 抜け駆けしてでも手柄を立てたいと競い合わせたのある。生活様式の違う異民族との戦い。別の表現では、農耕民族と、遊牧民族・騎馬民族の戦いである。農耕民族はだらだらと隊を集結させるが、騎馬民族は、「瞬く間に群をなした」としているが、初めて、騎馬民族の戦い方を見たものは、その様相だけでも震え上がったとされる。

唐の税制・兵制
 税制は北周時代から均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制であった。この両制度は車の両輪で相互不可分な制度なのである。
均田制は労働に耐えうる青年男性一人につき、相続が許されるな土地が20畝まで認められ、割り当ての口分田は死亡や定年60歳になると国家に返却する土地を可能な範囲最大80畝まで支給された。また職分田(これは辞職した時に返却する)。丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められていた。そこから生産されるものに対して、租庸調と呼ばれる税を納めるのである。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収め、年間20日の労役の義務があり、免除して貰うためには、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収めることになっていた。
 田地を貸し与えるために戸籍制度が出来上がった。府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。

前出塞九首 其四 杜甫

前出塞九首 其四 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 43
天宝10載 751年 40歳

其四
送徒既有長,遠戍亦有身。
我々戍卒を送ってゆくには隊長というものがあるが、千里の遠方へ守りに出かける我々にはまた我々のたいせつな身体というものがある。
生死向前去,不勞吏怒嗔。
我々は自分の意志で生死にかかわらず前に向って進むのである。隊長の吏からおこりつけられることなどいらぬことである。
路逢相識人,附書與六親。
たまたま路で知りあいのものに出遭った、その知り合いに家族への手紙をあずけたのだ。
哀哉兩決絕,不複同苦辛!

ああ哀しことである、これで両方の間のつながりがきれてしまうことになるのだ、もう一度一緒に艱難辛苦をともにしようとしてもできないのだ。


我々戍卒を送ってゆくには隊長というものがあるが、千里の遠方へ守りに出かける我々にはまた我々のたいせつな身体というものがある。
我々は自分の意志で生死にかかわらず前に向って進むのである。隊長の吏からおこりつけられることなどいらぬことである。
たまたま路で知りあいのものに出遭った、その知り合いに家族への手紙をあずけたのだ。
ああ哀しことである、これで両方の間のつながりがきれてしまうことになるのだ、もう一度一緒に艱難辛苦をともにしようとしてもできないのだ。



徒を送るに既に長あり 遠く戍まもるに亦た身あり
生死前に向って去る  吏の怒噴することを労せず
路に相識の人に逢う  書を附して六親に与う
哀い哉両ふたつながら決絶す   復た苦辛を同じくせず



送徒既有長,遠戍亦有身。
我々戍卒を送ってゆくには隊長というものがあるが、千里の遠方へ守りに出かける我々にはまた我々のたいせつな身体というものがある。
送徒 徒は徒旅の徒、戍卒をいう。送とはこれを引きつれて吐蕃の方へ送りとどけること。○長 かしら、引率者。○遠戍 遠地のまもりにゆく。○ 身体、自己の身体をいう。遠隔地の守りにつくための引率の隊長に対して不平不満が爆発する寸前になる、奴隷のようにやたらに鞭などあてられてはならないというのである。
 

生死向前去,不勞吏怒嗔。
我々は自分の意志で生死にかかわらず前に向って進むのである。隊長の吏からおこりつけられることなどいらぬことである。
生死 生死にかかわらずの意。○向前 前方へと。○不労 労はわずらわす、苦労をかける。○ 軍吏、即ち上句の「長」と同じ人。 杜甫に吏につぃてに三首がある。「石壕吏」石壕の村で役人が河陽へゆくべき人夫を徴発するとき、こどもを二人まで戦死させた老婦人が乳のみの愛孫を家にのこし、その夫の老翁に代って出かけることをのべた詩。製作時は前詩に同じ乾元2年759年48歳、「新安吏」乾元元年冬末、華州をはなれて洛陽に至り、二年に洛陽より華州にかえるとき、途上において新安の吏と問答の詩。「潼関吏」官軍は相州を囲んで敗れたために、潼関を修理、防禦築城の場所をすぎ、役人と問答の詩。○ 気を盛んにしていかる。吏がいかるのは途中で立ち話をしたり手紙をたのんだりするのについてであろう。
 

路逢相識人,附書與六親。
たまたま路で知りあいのものに出遭った、その知り合いに家族への手紙をあずけたのだ。
相識人 ふだん知りあいの人。○附書 附は附託、書はてがみ。〇六親 父母兄弟妻子をいう。′



哀哉兩決絕,不複同苦辛!
ああ哀しことである、これで両方の間のつながりがきれてしまうことになるのだ、もう一度一緒に艱難辛苦をともにしようとしてもできないのだ。
 六親の方と彼によるつながりの両方。○決絕 わかれきる。完全に切れること。○ ふたたび。○同苦辛  艱難辛苦をともにする。



出塞兵士の物語 4
武器、兵車と生活物資のすべてを運ぶのである。兵士は隊列を組んで行進するわけではない。イメージとしては避難民の行列の方が近いかもしれない。勝手な動きをされては困るので隊長の吏は鞭をもって指図するわけである。それは、長安の街の中でも見たことであった。
 家族と離れ、国に命を預けて出征するものでも奴隷のように鞭で追われるように指図を受けて不満もないというわけにはいかない。
 隊長の吏としては、日程通りに進んでくれないといけないし、勝手に休憩するし、知り合いと出会えば長話をする。怒鳴るように指示をしても鞭を振り上げないと云うことを聞かない。異民族からの侵略に対して守りにつくのであり、もう一つはシルクロードの守りにあるのである。長安は国際都市であった。

前出塞九首 其三 杜甫

前出塞九首 其三 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ誠実な詩人杜甫特集 42
五言律詩

其三
磨刀嗚咽水,水赤刃傷手。
隴山までくるとむせび泣いている水が流れている、その水で刀をみがく。水の色がさっと赤くなる、刀の刃が自分の手を傷つけたのだ。
欲輕腸斷聲,心緒亂已久。
自分はこんな腸はらわたを断たせるという水の音などはたいしたことはないつもりなのだが、家と国とのことを考えると以前からさまざま思っていて心がみだれているのだ。
丈夫誓許國,憤惋複何有?
大丈夫たるものが心に誓って国のために心身をささげる以上は、憤りうらむべき理由などありはしない。
功名圖麒麟,戰骨當速朽。

麒麟閣に勲功者が画かれている。すぐにでも奮って戦場へでかけて朽ち果てようではないか。



隴山までくるとむせび泣いている水が流れている、その水で刀をみがく。水の色がさっと赤くなる、刀の刃が自分の手を傷つけたのだ。
自分はこんな腸はらわたを断たせるという水の音などはたいしたことはないつもりなのだが、家と国とのことを考えると以前からさまざま思っていて心がみだれているのだ。
大丈夫たるものが心に誓って国のために心身をささげる以上は、憤りうらむべき理由などありはしない。
麒麟閣に勲功者が画かれている。すぐにでも奮って戦場へでかけて朽ち果てようではないか。



刀を嗚咽の水に磨けばけば、水赤くして刃手を傷く。
腸断の声を軽んぜんと欲するも、心緒乱るること己に久し。
丈夫誓って国に許す、憤惋復た何ぞ有らん。
功名麒麟に図せられん、戦骨当に速に朽つべし。

 
陝西甘粛出塞 杜甫65


磨刀嗚咽水,水赤刃傷手。
隴山までくるとむせび泣いている水が流れている、その水で刀をみがく。水の色がさっと赤くなる、刀の刃が自分の手を傷つけたのだ。
鳴咽水、腸断声 「三秦記」にいう「隴山の頂に泉有りて、清水四に注ぐ、東のかた秦川を望めば四五里なるが如し。俗歌に『陣頭の流水、鳴声幽咽す。遙かに秦川を望めば、肝腸断絶す』という」と。隴山は今の陝西省鳳翔府隴州の北西にあって、ここを経て甘粛省の方へ赴くが、長安地方の眺望がこれよりみえなくなる様子を詠った歌である。鳴咽の水とはむせびなくような水流をいう。腸断声とは水自身に人をして腸をたたしめるような声のあることをいう。○水赤刃傷手 事実は刃が手をきずつけるから血が染まって水が赤くなるのであるが、我々がであう経験からすれば水が赤いのではっとおどろいてみると刃が手をきずつけていることが知られるということになる。



欲輕腸斷聲,心緒亂已久。
自分はこんな腸はらわたを断たせるという水の音などはたいしたことはないつもりなのだが、家と国とのことを考えると以前からさまざま思っていて心がみだれているのだ。(それがつい誤って手をきずつけさせたのだ。)
○軽 軽く視る、なんでもないものと見なそうとすること。○心緒 さまざまのものおもい。このものおもいのみだれが手をきずつけたわけである。



丈夫誓許國,憤惋複何有?
大丈夫たるものが心に誓って国のために心身をささげる以上は、憤りうらむべき理由などありはしない。
丈夫 ますらお、自ずからをいう。○許国 心身をささげることを国に対して許す。よいとする。○憤椀 いきどおり、おどろきうらむ。


功名圖麒麟,戰骨當速朽。
麒麟閣に勲功者が画かれている。すぐにでも奮って戦場へでかけて朽ち果てようではないか。
功名 自己の戦功をたでた名。○図 画かれること。○戰骨當速朽 戦死したあとの骨など速にくちはつるがいい、骨はくちても芳名が千歳にのこるのだ。
麒麟 宮殿閣の名。漢の宜帝の甘露三年に大将軍容光ら十二人を麒麟閣にえがいた。


長安洛陽鳳翔Map


出塞兵士の物語 3
 戦場で骨は朽ち果て土に帰るが、手柄を立てれば、その名はいつまでも残る。国のために心身を捧げものは、女々しくするものではない。
 詩の場所は、長安からスタートしたシルクロードを西に進む。河川が急激に急流になる。滝のような場所もたくさんある。轟音を立てて流れる。標高2000mを超える峠まで、両岸は切り立っている。
 出征した兵士のほとんどは、こんな嶮しいところは初めてである。それでなくても都から離れていくし、さびしくなるうえにむせび泣く声の水流の音、はらわたを断ち切るような水流の音などにより、かなり追い詰められていく様子を詠いあげている。

前出塞九首 其二 杜甫

前出塞九首 其二 杜甫紀頌之の漢詩ブログ誠実な詩人杜甫特集 41
五言律詩



前出塞九首 其二
出門日已遠,不受徒旅欺。
我が家の門を出てから日に日に距離が遠くなってきた、陣中の仕事も仲間のあなどりをも受けぬようになる。
骨肉恩豈斷?男兒死無時。
親子兄弟の恩愛の情はどんなときでも断ちきれるものではないのであるが、戦に出た男児は死ぬ時をえらばないものである。
走馬脫轡頭,手中挑青絲。
自分は馬を走らせておもづらのはなかわをはずして青糸の手綱を手中に手繰り上げた。
捷下萬仞岡,俯身試搴旗。

すばやく万仞の高い岡からかけくだり、地面に身を俯せながら旗を抜き取る稽古をしてみる。


我が家の門を出てから日に日に距離が遠くなってきた、陣中の仕事も仲間のあなどりをも受けぬようになる。
親子兄弟の恩愛の情はどんなときでも断ちきれるものではないのであるが、戦に出た男児は死ぬ時をえらばないものである。
自分は馬を走らせておもづらのはなかわをはずして青糸の手綱を手中に手繰り上げた。
すばやく万仞の高い岡からかけくだり、地面に身を俯せながら旗を抜き取る稽古をしてみる。

門を出でて日に己に遠し、 徒旅の欺(あなどり)を受けず。
骨肉恩豈に断えんや、 男児死するに時無し。
馬を走らせて轡頭(ひとう)を脫し、手中に青糸を挑(かか)げ。
捷(と)く万仞(ばんじん)の岡より下り、身を俯して試に旗を搴(むきと)る。



出門日已遠,不受徒旅欺。
我が家の門を出てから日に日に距離が遠くなってきた、陣中の仕事も仲間のあなどりをも受けぬようになる。
出門:門は家の門。 徒旅:徒は成卒、旅とは衆。衆卒を徒旅という、なかまのもの。 :だますことではなく、あなどること。こばかにされる。 

骨肉恩豈斷?男兒死無時。
親子兄弟の恩愛の情はどんなときでも断ちきれるものではないのであるが、戦に出た男児は死ぬ時をえらばないものである。
骨肉:親子兄弟。 恩豊断:ふりきろうとしても実はたちきれぬことをいう。 無時:一定の時のないことをいう、いつでも死すべき時には死なねばならぬの意。 
 

走馬脫轡頭,手中挑青絲。
自分は馬を走らせておもづらのはなかわをはずして青糸の手綱を手中に手繰り上げた。
脱轡頭:轡頭とは馬韁(ばきゅう馬のはなかわ、おもづら)のこと。脱とは蓋しかけてある鐶から馬韁をはずすことであろう。 青糸:これは轡頭からつづく手綱をいう。 



捷下萬仞岡,俯身試搴旗。
すばやく万仞の高い岡からかけくだり、地面に身を俯せながら旗を抜き取る稽古をしてみる。
:はやく。仞:八尺。 :身からだを地面へむけてうつむく。



出塞兵士の物語 2
 この当時の唐の国は、世界一の領土を誇った強大な国であった。国の制度も、律令国家として、最も進んだくにであった。租庸調の人民への負担と貿易など国力は周辺諸国を圧倒していた。しかし、北方と、西方については、生活様式の違いが大きく唐への帰属(漢化)はなかなかできないものであり、周辺の局地戦は、季節が巡るように繰り返された。広大な領土を守るため、常時兵力補充が行われた。
 戦で勲功をあげれば、出身がなんであろうと出世した。徴兵によって狩出されたものが勲功をあげることはなく、異民族、騎馬民族出身者が、手柄を立てのし上がっていったのである。哥舒翰、安禄山など異民族出身者である。
 杜甫の出塞九首は、その名もない兵士の物語なのだ。第二話は、訓練をしてやっと仲間の兵士から小ばかにされなくなったところまでである。

高都護驄行 杜甫

高都護驄行 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集 34

安西都護高仙芝の騎る駿馬の歌。
749年天宝8載 38歳 朝廷は李林甫に動かされ、後宮は宦官により、占められていた。長安での作。



高都護驄行
安西都護胡青驄 ,聲價欻然來向東。
安西都護高仙芝の乗馬される西方産の葦毛の駿馬、その評判ともども東の方長安の方へむかって来た。
此馬臨陣久無敵,與人一心成大功。』
この馬は戦陣に臨んでは久しい、前から敵するものがなく、のり手と心を同一にして大功を成した馬である。』
功成惠養隨所致,飄飄遠自流沙至。
この馬が諷々とかけて遠く流抄の地方からやってきた、すでに大功を成した馬だからどんな手あつい飼養の方法でも馬がしたいとおもうままにしている。
雄姿未受伏櫪恩,猛氣猶思戰場利。』
この馬はまだ雄々しい姿をしていて老馬が受ける様なへたばって物を貰うようなことはしない、その猛烈な元気はいまだに戦場の勝利の事をかんがえているのである。』
腕促蹄高如踣鐵,交河幾蹴會冰裂。
この馬は腕の長さがつまり蹄はあつく之をふみとどろかすときは堅くて鉄をふむようである、この蹄でいく度か交河のあたりで、かさなった泳を蹴ってくだいた。
五花散作雲滿身,萬裡方看汗流血。』
からだは五色の梅の花がたが散らばって雲が一ぱいにひろがっているようだ。我々は眼前この馬が万里の道中をして来て血の汗を流すのをみるのである。』
長安壯兒不敢騎,走過掣電傾城知。
長安の若者もこの馬にのりこなすことはできない。この馬が走りさるときは電光をひくようにはやいことは長安城中のものだれも知らぬものはない。
青絲絡頭為君老,何由卻出橫門道。

この馬が主君の意のまま丁重に飼われ、頭には青糸をまきつけて飾られて為す事なくしてそのまま老いてゆく、馬の心ではどうしたら今の無為の状況を脱して横門の道から外へでられるだろうかとかんがえている。



安西都護高仙芝の乗馬される西方産の葦毛の駿馬、その評判ともども東の方長安の方へむかって来た。
この馬は戦陣に臨んでは久しい、前から敵するものがなく、のり手と心を同一にして大功を成した馬である。』
この馬が諷々とかけて遠く流抄の地方からやってきた、すでに大功を成した馬だからどんな手あつい飼養の方法でも馬がしたいとおもうままにしている。
この馬はまだ雄々しい姿をしていて老馬が受ける様なへたばって物を貰うようなことはしない、その猛烈な元気はいまだに戦場の勝利の事をかんがえているのである。』
この馬は腕の長さがつまり蹄はあつく之をふみとどろかすときは堅くて鉄をふむようである、この蹄でいく度か交河のあたりで、かさなった泳を蹴ってくだいた。
からだは五色の梅の花がたが散らばって雲が一ぱいにひろがっているようだ。我々は眼前この馬が万里の道中をして来て血の汗を流すのをみるのである。』
長安の若者もこの馬にのりこなすことはできない。この馬が走りさるときは電光をひくようにはやいことは長安城中のものだれも知らぬものはない。
この馬が主君の意のまま丁重に飼われ、頭には青糸をまきつけて飾られて為す事なくしてそのまま老いてゆく、馬の心ではどうしたら今の無為の状況を脱して横門の道から外へでられるだろうかとかんがえている。


(都護の驄馬の行)
安西都護の胡の青驄、声価あって欻然としで来って東に向う。
此の馬陣に臨みて久しく敵無し、人と一心大功を成す。』
功成りて恵養致す所に随う、飄飄として遠く流沙より至れり。
雄姿未だ伏櫪の恩を受けず、猛気猶お思う戦場の利。』
腕促まり蹄高くして鉄を踣むが如し、交河幾びか曾氷を蹴って裂く。
五花散じて作す雲満身、万里方に看る汗血を流すを。』
長安の壮児敢て騎らず、走過掣電傾城知る。
青糸頭に絡いて君が為ため老ゆ、何に由ってか 卻って出でん橫門の道。




高都護驄行:  ・高都護 安西都護高仙芝。唐の貞観十七年に安西都護府を西州に置いたが、顕慶三年には治を亀立国城(今の新嬉省の庫車)に移し、手腕以西・波斯以東の十六都護府をこれに隷せしめた。
747年天宝6載()、高仙芝は配下の封常清・李嗣業・監軍の辺令誠ら歩騎一万を率いて討伐に出た。歩兵も全て馬を持ち、安西(クチャ)を出発し、カシュガルを通り、パミール高原に入り、五識匿国(シュグナン地方)に着いた。その後、軍を三分して、趙崇玼と賈崇カンに別働隊を率いさせ、本隊は護密国を通って、後に合流することにした。高仙芝たちはパミール高原を越え、合流に成功し、急流のパンジャ川の渡河にも成功する。この地で吐蕃軍が守る連雲堡(サルハッド?)を落とし、5千人を殺し、千人を捕らえた。ここで、進軍に同意しなかった辺令誠と3千人の兵を守備において、さらに行軍した。
峻険な20kmもほぼ垂直な状態が続くと伝えられるダルコット峠を下り、将軍・席元慶に千人をつけ、「大勃律へ行くために道を借りるだけだ」と呼ばわらせた。自身の小勃律の本拠地・阿弩越城への到着後、吐蕃派の大臣を斬り、小勃律王を捕らえ、パンジャ河にかかった吐蕃へ通じる藤橋を切った。その後、小勃律王とその后である吐蕃王の娘を連れ、帰還する。西域72国は唐に降伏し、その威が西アジアにまで及んだ。九載には仙芝は石国を討って其の王を仔にして献じている。この詩は天宝八載の作である。


安西都護胡青驄 ,聲價欻然來向東。
安西都護高仙芝の乗馬される西方産の葦毛の駿馬、その評判ともども東の方長安の方へむかって来た。
安西都護 今の新疆ウィグル自治区南部におかれた唐朝西方およびチベットの守りのためにおかれた幕府   ○胡青驄 胡地に産した葦毛の駿馬。○鍬然 にわかに。○東 長安地方をさす。


此馬臨陣久無敵,與人一心成大功。』
この馬は戦陣に臨んでは久しい、前から敵するものがなく、のり手と心を同一にして大功を成した馬である。』
恵養 人の恵みをうけ飼養されること。文字は顔延之の「粛白馬ノ賦」に見える。


功成惠養隨所致,飄飄遠自流沙至。
この馬が諷々とかけて遠く流抄の地方からやってきた、すでに大功を成した馬だからどんな手あつい飼養の方法でも馬がしたいとおもうままにしている。
随所致 致は招致の意、随は意のままにする。馬のそうしたいとおもうままにという意。○諷諷 馬のかけるさま。○流沙 新彊省ロブノル湖の地方。安西より来るのにはここを経過する。


雄姿未受伏櫪恩,猛氣猶思戰場利。
この馬はまだ雄々しい姿をしていて老馬が受ける様なへたばって物を貰うようなことはしない、その猛烈な元気はいまだに戦場の勝利の事をかんがえているのである。』
雄姿 馬のおおしいすがた。○未受 受けることをいさざよしとしないこと。○伏棲恩 「老駿健に伏すも、志は千里に在り」は曹操の句。えさはうまやの踏み板、馬が年とるとかいばおけに伏してものをたべる。○猛気 馬の猛烈な元気。○ 勝利。


腕促蹄高如踣鐵,交河幾蹴會冰裂。
この馬は腕の長さがつまり蹄はあつく之をふみとどろかすときは堅くて鉄をふむようである、この蹄でいく度か交河のあたりで、かさなった泳を蹴ってくだいた。
 寸法のつまっていること。馬は腕の短いのをよしとする。健康なこと。○蹄高 高とは厚いことをいう、険に耐える。○如躇鉄 蹄の堅いことをいう。○交河 今の新疆ウィグル自治区吐魯蕃県を流れる川の名。交河があるので又県の名とする。ここは河をさす。○ 幾回。○曾泳 曾は層に同じ。積み重なった氷。氷河のようなものであろう。


五花散作雲滿身,萬裡方看汗流血。』
からだは五色の梅の花がたが散らばって雲が一ぱいにひろがっているようだ。我々は眼前この馬が万里の道中をして来て血の汗を流すのをみるのである。』
五花 梅の花がたの毛の紋様。○雲満身 全身に雲がみちているよう。○万里 安西と長安とのおおよその距離。〇万看 眼前実際に見ることをいう。単に馬の能力を説くのではない。○汗流血 漢の時大宛国の天馬は石をふみ血を汗にしたと伝える。この馬もそれと似ている。


長安壯兒不敢騎,走過掣電傾城知。
長安の若者もこの馬にのりこなすことはできない。この馬が走りさるときは電光をひくようにはやいことは長安城中のものだれも知らぬものはない。
不敢騎 のりきらぬ。○掣電 撃は「ひく」。馬の走るとき快速非常にして電光をひくがごとくである。○傾城 城中の人はことごとく。


青絲絡頭為君老,何由卻出橫門道。
この馬が主君の意のまま丁重に飼われ、頭には青糸をまきつけて飾られて為す事なくしてそのまま老いてゆく、馬の心ではどうしたら今の無為の状況を脱して横門の道から外へでられるだろうかとかんがえている。
青糸 馬の面づらの縄に用いる青色の絹いと。○ 高仙芝をさす。○ 外へでる。○横門 金光門、長安の西北の第一門の名、この門を出て西域の方へ向かうのである。結尾の二句は直接に馬の心をいう。
長安城郭015

飲中八仙歌 杜甫

飲中八仙歌 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  28

長安にあったときの作。当時長安では愛酒家として名の高い人物として八人が知られていた。杜甫はそれらの一人一人について、伝え聞きも交えてこの作品を作った。これを描いたとき、賀知章、李左相、蘇晉はすでに死んでいたし、李白は長安にいなかった。これらの八人のうち、李白に最も多くの字をあてているのは、杜甫の李白への敬愛振りの表れだろう。
竹林の七賢、竟陵の八友、初唐の四傑、竹渓の六逸、唐宋八大家などとこの飲中八仙とは異なったものである。


飲中八仙歌
知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。』

賀知章は何時も酔っていて、馬に乗っても船に乗っているように揺れている、くるくると回る目が井戸に落ちて水底に眠る。』

汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,
恨不移封向酒泉。』

汝陽は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

左相日興費萬錢,飲如長鯨吸百川,
銜杯樂聖稱避賢。』

左相は日々の興に万銭を費やす、飲みっぷりは長鯨が百川を飲み干す勢いだ、酒を楽しんで賢者を遠ざけるのだと嘯く。』

宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,
皎如玉樹臨風前。』

崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。』

蘇晉長齋繡佛前,醉中往往愛逃禪。』

蘇晉は仏教信者でぬいとりした仏像をかかげてその前で年中喪の忌をしているが、酔いのなかでもときどき禅定に入ることを好む。』

李白一鬥詩百篇,長安市上酒家眠,

天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙。』
李白は酒を一斗のむうちに詩百篇もつくる豪のもので、長安の市街へでかけて酒家で眠る。天子から呼びよせられても酔っぱらって船にものぼりきらず、自分は酒中の仙人だなどと気楽な事をいっている。』

張旭三杯草聖傳,脫帽露頂王公前,
揮毫落紙如雲煙。』

張旭は三杯の酒を飲んで見事な草書を披露する、王侯の前で脱帽して頭を向け、筆を振るえば雲のように自在な字が現れる。』

焦遂五斗方卓然,高談雄辨驚四筵。』

焦速は五斗の酒を傾けてやっと意気があがってきて、その高談雄弁はあたりを驚かすのである。』

賀知章は何時も酔っていて、馬に乗っても船に乗っているように揺れている、くるくると回る目が井戸に落ちて水底に眠る。』

汝陽は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

左相は日々の興に万銭を費やす、飲みっぷりは長鯨が百川を飲み干す勢いだ、酒を楽しんで賢者を遠ざけるのだと嘯く。』

崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。』

蘇晉は仏教信者でぬいとりした仏像をかかげてその前で年中喪の忌をしているが、酔いのなかでもときどき禅定に入ることを好む。』

李白は酒を一斗のむうちに詩百篇もつくる豪のもので、長安の市街へでかけて酒家で眠る。天子から呼びよせられても酔っぱらって船にものぼりきらず、自分は酒中の仙人だなどと気楽な事をいっている。』

張旭は三杯の酒を飲んで見事な草書を披露する、王侯の前で脱帽して頭を向け、筆を振るえば雲のように自在な字が現れる。』

焦速は五斗の酒を傾けてやっと意気があがってきて、その高談雄弁はあたりを驚かすのである。』


(下し文)飲中八仙歌
知章 馬に騎ること船に乘るに似たり、眼は花さき井に落ちて水底に眠る。』 
汝陽 三斗 始めて天に朝す、道に曲車に逢ひ 口涎を流す、恨むらくは封を移して酒泉に向はざるを。』
左相 日興 万錢を費す、飲むこと長鯨の百川を吸ふが如し、杯を銜み聖を樂しみ賢を避くと稱す。』

宗之 瀟洒たる美少年,觴を舉げ 白眼青天を望む、皎として玉樹の風前に臨むが如し。』
蘇晉 長齋す繡佛の前、醉中 往往 逃禪を愛す』

李白 一斗 詩百篇、長安市上酒家に眠る。
天子呼び來れど船に上らず、自ら稱す 臣は是酒中の仙なりと。』

張旭 三杯 草聖傳ふ、脱帽して頂を露す王公の前、毫を揮って紙に落とせば云煙の如し。』
焦遂 五斗 方に卓然、高談雄辨 四筵を驚かす。』


飲中八仙歌
○飲中八仙 酒飲み仲間の八人の仙とよばれるもの、即ち
・蘇晉 735年(開元二十二年卒)
・賀知章744年(天宝三載卒)
・李適之746年(天宝五載卒)
・李璡  750年(天宝九載卒)
・崔宗之 崔日用の子齊國公に世襲して封ぜられる。侍御史でもあった。
・張旭
・焦遂
・李白   763年(宝応元年卒)らをいう。



知章騎馬似乘船,眼花落井水底眠。
賀知章は何時も酔っていて、馬に乗っても船に乗っているように揺れている、くるくると回る目が井戸に落ちて水底に眠る。』
知章 賀知章。会稽永興の人、自から四明狂客と号し、太子賓客・秘書監となった。天宝三載、疏を上って郷に帰るとき、玄宗は詩を賦して彼を送った。○乗船 ゆらゆらする酔態をいう。知章は出身が商人で、商人は船に乗るので、騎馬にまたがった状態をいったのだ。○眼花 酔眼でみるとき現象のちらつくことをいう。



汝陽三鬥始朝天,道逢曲車口流涎,恨不移封向酒泉。』
汝陽王李礎は朝から三斗酒を飲みそれから出勤する、途中麹を積んだ車に出会うと口からよだれを垂らす始末、転勤先が酒泉でなかったのが残念だ。』

汝陽 ブログ贈特進汝陽王二十韻  杜甫27
三斗 飲む酒の量をいう。○朝天 朝廷へ参内すること。○麹車 こうじを載せた車。○移封 封は領地をいう、移は場所をかえる。汝陽よりほかの地へうつしてもらうこと。○酒泉 漢の時の郡名、今の甘粛省粛州。これは地名を活用したもの。



左相日興費萬錢,飲如長鯨吸百川,銜杯樂聖稱避賢。』
左相は日々の興に万銭を費やす、飲みっぷりは長鯨が百川を飲み干す勢いだ、酒を楽しんで賢者を遠ざけるのだと嘯く。』
左相 李適之。天宝元年、牛仙客に代って左丞相となったが、天宝五載にやめ、七月歿した。○日興 毎日の酒興。○費万銭 唐時代の酒価は一斗三百銭、万銭を以ては三石三斗余りを買うことができた。○長鯨 身のたけのながいくじら。〇百川 多くの川水。○銜杯 銜とは口にくわえること、含とは異なる。含むは口の中へいれておくこと。○楽聖称避賢 適之が相をやめたとき、親交を招き詩を賦して、「賢を避けて初めて相を辞め、聖を楽しみて且つ盃を銜む、為に問う門前の客、今朝幾個から来ると」といった。此の聖・賢の文字には両義を帯用させたものであろう。魏の時酒を禁じたところが酔客の間では清酒を聖人といい濁酒を賢人といったが、前詩は表には通常の聖人・賢人の表現を、裏には清酒・濁酒の表現をもたせたものである。竹林の七賢参照。



宗之瀟灑美少年,舉觴白眼望青天,皎如玉樹臨風前。
崔宗之は垢抜けた美少年、杯を挙げては白眼で晴天を望む、輝くようなその姿は風前の玉樹のようだ。』
宗之 崔宗之。宗之は崔日用の子、斉国公に襲ぎ封ぜられる。また侍御史となったことがある。○瀟灑 さっぱりしたさま。○腸 さかずき。○白眼 魏の阮籍の故事、籍は俗人を見るときには白眼をむきだした。○ しろいさま。○玉樹 うつくしい樹。魏の夏侯玄が嘗て毛骨と並び坐ったところが、時の人はそれを「葉餞玉樹二倍ル」といったという、玄のうつくしいさまをいったもの。○臨風前 風の前に立っている。


蘇晉長齋繡佛前,醉中往往愛逃禪。
蘇晉は仏教信者でぬいとりした仏像をかかげてその前で年中喪の忌をしているが、酔いのなかでもときどき禅定に入ることを好む。』
蘇曹 蘇珦の子、先の皇帝のときに中書舎人であった。玄宗が監国であったときの別命は蘇晋と賈曾との筆によったものだ。吏部・戸部の侍郎を歴て太子庶子に終った。○長斎 一年中喪の忌をしている。○繍仏 ぬいとりしてつくった仏像、これは六朝以来あったもの。○逃禅 これは酒を飲むことは破戒であるから教外へにげだすこと。居眠りでもしていること。



李白一鬥詩百篇,長安市上酒家眠,
天子呼來不上船,自稱臣是酒中仙。
李白は酒を一斗のむうちに詩百篇もつくる豪のもので、長安の市街へでかけて酒家で眠る。天子から呼びよせられても酔っぱらって船にものぼりきらず、自分は酒中の仙人だなどと気楽な事をいっている。』
酒家眠 玄宗が嘗て沈香華に坐して、翰林供奉の李白をして楽章をつくらせようとして李白を召して入らせたところ、李白はすでに酔っていた。左右のものは水をその面にそそいでようやく酔いを解いたという。○不上船 玄宗が白蓮池に遊んだとき、李白を召して序をつくらせようとしたところ、李白はすでに翰苑にあって酒を被っており、高力士に命じて李白をかかえて舟に登らせた。


張旭三杯草聖傳,脫帽露頂王公前,揮毫落紙如雲煙。
張旭は三杯の酒を飲んで見事な草書を披露する、王侯の前で脱帽して頭を向け、筆を振るえば雲のように自在な字が現れる。』
張旭 呉郡の人、右率府長史となる。草書を善くし、酒を好み、酔えば号呼狂走しつつ筆をもとめて渾灑し、又或は大叫しながら頭髪を以て水墨の中をかきまわして書き、さめて後自ずから視て神異となしたという。○草聖伝 後漢の張芝は草書の聖人とよばれたが、旭が酔うと草聖の書法が、彼に伝わるが如くであった。○脱帽露頂 帽をいただくのが礼であり、帽をぬいで頂きをあらわすのは礼儀を無視するさま。○王公 地位高き人々。○揮毫 毫は「け」、筆をいう。○雲煙 草書のさま。


焦遂五斗方卓然,高談雄辨驚四筵。』
焦速は五斗の酒を傾けてやっと意気があがってきて、その高談雄弁はあたりを驚かすのである。』
焦遂 この人物は未詳。○卓然 意気の高くあがるさま。○高談 高声でかたる。○雄弁 カづよい弁舌。〇四筵 満座、一座。

贈特進汝陽王二十韻  杜甫

贈特進汝陽王二十韻  杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  27

天宝5載 746年 35歳
特進汝陽王十韻(特進汝陽王に贈る二十韻)
特進の位にある汝陽王李礎に贈った詩である。

贈特進汝陽王二十韻
特進のくらいにある汝陽王李璡に贈る
特進羣公表,天人夙德升。
特進李璡公は多くの王公のあるなかにもそのめじるしとなる人で、天下の人としてつとに出きあがった徳は諸公の上に高く出でていた。
霜蹄千裡駿,風翮九霄鵬。』
これをたとえていうと、秋の霜に蹄でもって踏みとどろかす千里駿馬か、九重の天に風にはばたきする鵬鳥のようなものである。』
服禮求毫髪,推思忘寢興。
汝陽王はよく礼儀にしたがい、その些細な点までをも求められ筋を通される。忠誠心もしっかりしていて寝たり起きたりすることさえ忘れられる程である
聖情常有眷,朝退若無憑。
だから聖天子のみこころからいつもお目をかけて御寵愛になり、王が朝廷より退出せられると
仙醴來浮蟻,奇毛或賜鷹。
浮蟻の如き甘酒が王の処へは天子から来る、又時としては奇特な毛色を有する鷹を賜わることもある。
清關塵不雜,中使日相乘。』
邸の門は清掃が行き届き、塵がたまることなくその上閑静である、宮中からのお使いが毎日馬にのってくる。』
晚節嬉游簡,平居孝義稱。
王は中年後になって他人との交遊に礼儀を至って簡略にされたが、平生は孝義ある人物として世間からいわれている。
自多親棣萼,誰敢問山陵。
王は嘗て玄宗が寧王の生前に、之と血筋をわけた兄弟がむつまじくせられたということだけで己に十分満足されておられた、その父の死後、優礼を以て葬られる時に、わざわざ山陵までいかなくてよいと謙遜されていた。
學業醇儒富,詞華哲匠能。
王の学業の富めることは道の正しき儒者の如く、その文辞の華やかなことはすぐれた名人ぐらいの技能がある。
筆飛鸞聳立,章罷鳳騫騰。
文字をかくために筆を飛ばせば鸞鳥がそびえ立ち、一章をかきおわれば鳳凰がとびたつ勢がある。
精理通談笑,忘形向友朋。
談笑の際にもいつも精微な道理が存在しており、朋友には精神を以て交るようにされる。
寸長堪繾綣,一諾豈驕矜。』

その人物に一寸の長所があればそれと親密にし、いか そうとされる情合いがある、なにか人に頼みごとをしてやっても、それでいばったりする様なことはない。』

巳忝歸曹植,何知對李膺。

私は昔の王粲のようなもので、己にかたじけなくも曹植ともいうべきあなたに身を託するようになりましたが、杜密でもない私がどうして李贋ともいうべきあなたに対することができましょう。
招要恩屢至,崇重力難勝。
私を招いてくださる御恩命がしばしば私の処へきます、私を尊重してくださるので、私の力はそれに勝るの難しいほどです。
披霧初歡夕,高秋爽氣澄。
あの雲霧をおしのけて青天をながめるような心地した初めてお会いした夕べには、秋の天高く爽な気がすみわたっていた。
尊罍臨極浦,鳧雁宿張燈。
泉池の一番奥まった浦畔に臨んで酒樽を設け、燈をかかげたそばにはカモや雁がとまっていた。
花月窮遊宴,炎天避鬱蒸。
冬を超えて春は花月の下で遊宴をきわめられ、夏は炎天のむしあつさを避けられる。
硯寒金井水,簷動玉壺冰。』
秋は金井から汲んだ水を硯に寒く滴たらせ、冬は玉壺中の氷かと見間違えるような氷柱が軒端にかかりはじめた。』
瓢飲唯三徑,岩棲在百層。
私は許由の如く瓢で水を飲み、蒋詔の如くただ三径を開いて遁棲していますが、あなたは巌穴に隠棲をされて三径が百層にまでの修行をされている。
謬持蠡測海,況挹酒如澠。
あなたの胸中をおしはかるということ螺杯で海水を測るようなものである、王の饗応に預りその恩のあつさにいたみいっているのです。
鴻寶寧全秘,丹梯庶可淩。
あなたは鴻宝である全ての秘籍を私にかくされない、私はあかい梯をよじ登ってあなたの高きお住居へちかづけると希望している。
淮王門有客,終不愧孫登。』

准南王に匹敵するあなたの門には賓客があるものである。私は嵆康のような半隠半仕で、孫登に塊ずるようなことはしない信念があるのである。



特進のくらいにある汝陽王李璡に贈る
特進李璡公は多くの王公のあるなかにもそのめじるしとなる人で、天下の人としてつとに出きあがった徳は諸公の上に高く出でていた。
これをたとえていうと、秋の霜に蹄でもって踏みとどろかす千里駿馬か、九重の天に風にはばたきする鵬鳥のようなものである。』

汝陽王はよく礼儀にしたがい、その些細な点までをも求められ筋を通される。忠誠心もしっかりしていて寝たり起きたりすることさえ忘れられる程である
だから聖天子のみこころからいつもお目をかけて御寵愛になり、王が朝廷より退出せられると、天子はたよりを失うたようにおぼしめされたし、地位をたのんでいばるようなことは無い様であった。
浮蟻の如き甘酒が王の処へは天子から来る、又時としては奇特な毛色を有する鷹を賜わることもある。
邸の門は清掃が行き届き、塵がたまることなくその上閑静である、宮中からのお使いが毎日馬にのってくる。』

王は中年後になって他人との交遊に礼儀を至って簡略にされたが、平生は孝義ある人物として世間からいわれている。
王は嘗て玄宗が寧王の生前に、之と血筋をわけた兄弟がむつまじくせられたということだけで己に十分満足されておられた、その父の死後、優礼を以て葬られる時に、わざわざ山陵までいかなくてよいと謙遜されていた。
王邸の門は清掃が行き届き、塵がたまることなくその上閑静である、宮中からのお使いが毎日馬にのってくる。』


王の学業の富めることは道の正しき儒者の如く、その文辞の華やかなことはすぐれた名人ぐらいの技能がある。
文字をかくために筆を飛ばせば鸞鳥がそびえ立ち、一章をかきおわれば鳳凰がとびたつ勢がある。
談笑の際にもいつも精微な道理が存在しており、朋友には精神を以て交るようにされる。
その人物に一寸の長所があればそれと親密にし、いか そうとされる情合いがある、なにか人に頼みごとをしてやっても、それでいばったりする様なことはない。』


私は昔の王粲のようなもので、己にかたじけなくも曹植ともいうべきあなたに身を託するようになりましたが、杜密でもない私がどうして李贋ともいうべきあなたに対することができましょう。
私を招いてくださる御恩命がしばしば私の処へきます、私を尊重してくださるので、私の力はそれに勝るの難しいほどです。
あの雲霧をおしのけて青天をながめるような心地した初めてお会いした夕べには、秋の天高く爽な気がすみわたっていた。
泉池の一番奥まった浦畔に臨んで酒樽を設け、燈をかかげたそばにはカモや雁がとまっていた。
冬を超えて春は花月の下で遊宴をきわめられ、夏は炎天のむしあつさを避けられる。
秋は金井から汲んだ水を硯に寒く滴たらせ、冬は玉壺中の氷かと見間違えるような氷柱が軒端にかかりはじめた。』

私は許由の如く瓢で水を飲み、蒋詔の如くただ三径を開いて遁棲していますが、あなたは巌穴に隠棲をされて三径が百層にまでの修行をされている。
あなたの胸中をおしはかるということ螺杯で海水を測るようなものである、王の饗応に預りその恩のあつさにいたみいっているのです。
あなたは鴻宝である全ての秘籍を私にかくされない、私はあかい梯をよじ登ってあなたの高きお住居へちかづけると希望している。
准南王に匹敵するあなたの門には賓客があるものである。私は嵆康のような半隠半仕で、孫登に塊ずるようなことはしない信念があるのである。



(下し文)贈特進汝陽王二十韻
特進のくらいにある汝陽王李璡に贈る

特進は羣公の表 天人 夙德(しゅくとく) 升(のぼ)る
霜蹄(そうてい) 千里の駿 風翮(ふうかく) 九霄(きゅうしょう)の鵬』
礼に服して毫髪を求む 惟れ忠にして寝興を忘る
聖情常に眷(かえりみ)ることあり 朝より退けば憑(よ)る無きが若(ごと)し
仙醴 浮蟻 来る 奇毛 或は 鷹を賜う
清関 塵 雑ならず 中使 日に相乗ず』

晩節 嬉遊 簡なり 平居(へいきょ) 孝義 称せらる
自ら多とす 棣萼に親みしを 誰か敢て 山陵を問わん
学業 醇儒 富み 辞華哲匠の能あり
筆飛べば 鸞聾 立し 章 罷めば 鳳騫 騰す
精理 談笑に通ず 形を忘れて友朋に向う
寸長繾綣に堪えたり 一諾 豈に驕矜せんや』

己に曹植に帰するを忝くす 何如ぞ李膺に対せん
招要恩 屢々(しばしば)至る 崇重 力 勝(た)え難し
霧を披(ひら)く 初歓の夕 高秋 爽気(そうき)澄めり
樽罍(そんらい)  極浦に臨む 鳧雁(ふがん)張燈(ちょうとう)に宿す
花月 遊宴を窮め 炎天 鬱蒸を避く
硯には寒し金井(きんせい) の水 簷には動く玉壷の冰』

瓢飲 惟だ三径 巌棲百層に在り
謬って持す蠡(れい)の海を測るを 況んや挹む酒の澠の如くなるを
鴻宝寧(なん)ぞ全く秘せん 丹梯 庶(こいねがわ)くは凌ぐ可けん
准王門に客有り 終に孫登に愧(は)じず』

 
贈特進汝陽王二十韻
特進のくらいにある汝陽王李璡に贈る
特進 文官の散階正二晶を特進という。元二十九年十一月菜、年六十三)があり、○汝陽王 李璡。容宗と粛明皇后との間に寧主意(初名は成器、開憲の子が進である。進は天宝三載に特進を加えられ、九載に卒した。


特進羣公表,天人夙德升。
特進李璡公は多くの王公のあるなかにもそのめじるしとなる人で、天下の人としてつとに出きあがった徳は諸公の上に高く出でていた。
特進 李璡其の人をさす。○羣公 多くの王公。○ 儀表、めじるしとなっていること。○天人 天上界の人、進は皇族なるゆえかくいう。 ○ 羣公の上にのぼること。 ○夙徳 夙は早に同じ、夙徳とは若くして早くすでにできあがった徳をいう。

霜蹄千裡駿,風翮九霄鵬。
これをたとえていうと、秋の霜に蹄でもって踏みとどろかす千里駿馬か、九重の天に風にはばたきする鵬鳥のようなものである。』
霜蹄 霜を踏むひづめ、馬にたとえる。○風翮 風にうつたちばね、鳥にたとえる。〇九霄 九重のそら。多くの王公。○ おおとり。
 
服禮求毫髪,推思忘寢興。
汝陽王はよく礼儀にしたがい、その些細な点までをも求められ筋を通される。忠誠心もしっかりしていて寝たり起きたりすることさえ忘れられる程である。
服礼 服とは身につけること、従うこと。○毫髪 毫とは髪の十分の一、共にすこしばかりの量をいう。○惟忠 惟は語助辞、忠は君に対する誠心。
 
聖情常有眷,朝退若無憑。
だから聖天子のみこころからいつもお目をかけて御寵愛になり、王が朝廷より退出せられると、天子はたよりを失うたようにおぼしめされたし、地位をたのんでいばるようなことは無い様であった」。
聖情 天子(玄宗)のこころ。○ かえりみる、めをかけて愛する。○朝退 朝廷よりさがる。〇着無憑 天子の側よりみる説と汝陽王の側よりみる説とがある。前説によれば天子がたよりなしとされるとみる。後説によれはたのむ所がない、貴位を挟んで威張ったりせぬこととみる。

仙醴來浮蟻,奇毛或賜鷹。
浮蟻の如き甘酒が王の処へは天子から来る、又時としては奇特な毛色を有する鷹を賜わることもある。
仙醴 仙は飾りの語、醴は甘酒、王室よりくださる甘酒を仙醴という。漢の世に楚の元王が申公・穆生という学者を敬礼し、醴を設けたとの故事がある。○浮蟻 酒の名、けだし泡立てるありさまより名づける。○奇毛 奇特な毛色。

清關塵不雜,中使日相乘。』
王邸の門は清掃が行き届き、塵がたまることなくその上閑静である、宮中からのお使いが毎日馬にのってくる。』
清關 関とは門をいう。○塵不雜 ほこりがごたごたせぬ、俗客と交らぬことをいう。○中便 楚中よりの御使い。○ 馬にのってくる。


晚節嬉游簡,平居孝義稱。
王は中年後になって他人との交遊に礼儀を至って簡略にされたが、平生は孝義ある人物として世間からいわれている。
晩節 中年以後をさす。○嬉游 他賓客とのあそび。○ 礼儀を簡略にすること。又案ずるに、「南斉書」文恵太子伝の「宮内に在り、遨遊玩弄より簡す」の簡と同じく、選択する義か。○平居 平生。○孝義 孝は父に対する道、義は兄弟に対する道についていう。

自多親棣萼,誰敢問山陵。
王は嘗て玄宗が寧王の生前に、之と血筋をわけた兄弟がむつまじくせられたということだけで己に十分満足されておられた、その父の死後、優礼を以て葬られる時に、わざわざ山陵までいかなくてよいと謙遜されていた。
自多 みずから多とする。自ずからとは汝陽王についていう。多とすとはその点を十分だとして満足すること。○親棣萼 棣萼は兄弟の義に用いる。「棠棣」とうていの詩に「棠棣の華、萼不韡韡イイたり」とある。不は跗と同じ、「ざいふり」の花は花に花のあしがうるわしくついているので兄弟のむつまじきことにたとえる。親とは玄宗が寧王に対し親しまれたことをいう。○問山陵 汝陽王の父の寧王が粟ずるや認して譲皇帝といい、橋陵の傍に葬り、恵陵と号したが、王は表を上って′懇辞した。寧王は容宗の太子として帝位に即くべき人であったが玄宗に譲られたのである。山陵を問わぬというのは汝陽王が父を重く葬ることを辞退することである。


學業醇儒富,詞華哲匠能。
王の学業の富めることは道の正しき儒者の如く、その文辞の華やかなことはすぐれた名人ぐらいの技能がある。
醇儒 道の正しき儒者。○哲匠 すぐれた名人。
 
筆飛鸞聳立,章罷鳳騫騰。
文字をかくために筆を飛ばせば鸞鳥がそびえ立ち、一章をかきおわれば鳳凰がとびたつ勢がある。
筆飛 文字を書することをいう。○、鳳 奴に字形の形容。○ あがりとぶ。
 
精理通談笑,忘形向友朋。
談笑の際にもいつも精微な道理が存在しており、朋友には精神を以て交るようにされる。
○精理 精微なる道理。○通談笑 通とは共に存在することをいう。○忘形 形骸のうわべを忘れ、精神を以て交る。
 
寸長堪繾綣,一諾豈驕矜。』
その人物に一寸の長所があればそれと親密にし、いか そうとされる情合いがある、なにか人に頼みごとをしてやっても、それでいばったりする様なことはない。』
寸長 わずかな長所。○繾綣 糸のもつれる貌(親交の情についていう)。〇一諾 漢の季布の故事、季布は侠客であり、その一諸を得ることは黄金百斤を得ることよりもまさるといわれた。王が他人のたのみをひきうけられることをいう。○驕矜 おごり、ほこる。

巳忝歸曹植,何知對李膺。 
私は昔の王粲のようなもので、己にかたじけなくも曹植ともいうべきあなたに身を託するようになりましたが、杜密でもない私がどうして李贋ともいうべきあなたに対することができましょう。
 かたじけなくおもう、謙遜していう。○帰曹植 曹植は魏の曹操の次子、文辞に長じ、文士王粲の徒はこれに帰した。ここは曹植を以て汝陽王に比し、王粲を自己にたとえる。○李贋 後漢の賢人。杜密と親交があり、李杜と称せられる。ここは李贋を王に此し、杜密を自己に比する。

招要恩屢至,崇重力難勝。 
私を招いてくださる御恩命がしばしば私の処へきます、私を尊重してくださるので、私の力はそれに勝るの難しいほどです。
招要 要は邀(むかえる)に同じ、王が作者をむかえること。○恩、力 王の恩、自己の力。○崇重 王が作者を尊重してくれること。

披霧初歡夕,高秋爽氣澄。
あの雲霧をおしのけて青天をながめるような心地した初めてお会いした夕べには、秋の天高く爽な気がすみわたっていた。
披霧 初対面をいう、晋の衛瓘という者が楽広を見たとき、「此の人を見るは、雲霧を披きて青天を覩るが若し」と言ったという。○初歓 初めて王とうちとけて語る。 ○高秋 天高き秋。○爽気 さわやかな気。


尊罍臨極浦,鳧雁宿張燈。
泉池の一番奥まった浦畔に臨んで酒樽を設け、燈をかかげたそばにはカモや雁がとまっていた。
 ○ 大きな酒つぼ。○極浦 一番奥まった浦畔。○宿張燈 燈を張った傍に宿す。按ずるに「披霧」以下の四句は前年の秋について叙する。

花月窮遊宴,炎天避鬱蒸。 
冬を超えて春は花月の下で遊宴をきわめられ、夏は炎天のむしあつさを避けられる。
花月 此の句は春をいう。○炎天 此の句は夏をいう。○鬱蒸 むっとしてむしあつい。

硯寒金井水,簷動玉壺冰。』
秋は金井から汲んだ水を硯に寒く滴たらせ、冬は玉壺中の氷かと見間違えるような氷柱が軒端にかかりはじめた。』
硯寒 秋をいう。○金井 銅の井戸がわを用いた井。○簷 軒端。○ 懸かりはじめること。○玉壺冰 玉壺中にあるが如き美しい氷ということ、氷柱をいう。


瓢飲唯三徑,岩棲在百層。
私は許由の如く瓢で水を飲み、蒋詔の如くただ三径を開いて遁棲していますが、あなたは巌穴に隠棲をされて三径が百層にまでの修行をされている。
瓢飲 許由の故事、むかし許由が手で水を飲んでいると、ある人がこれに一瓢をおくってくれた。由は飲みおわって木の上に掛けたところ風が吹くときひょうひょうと鳴ったので、由はうるさいとして瓢をすてた。ここは許由の遁棲に似ていることをいう。〇三径 後漢の蒋詞というものが隠居して門を塞ぎ舎中にただ三すじの径を開いたとの故事。隠者を学ぶことをいう、此の句は自己をいう。○巌棲在百層 隠棲をされて三径が百層にまでの修行をされている。
 

謬持蠡測海,況挹酒如澠。
あなたの胸中をおしはかるということ螺杯で海水を測るようなものである、王の饗応に預りその恩のあつさにいたみいっているのです。
謬持 謬とは謙辞、持とは抱きもつことをいう。○蠡測海 「漢書」東方朔伝にみえる。蠡は螺、螺貝にてつくった杯を以て海の水の多少をはかる。海とは王の識見度量の深いことをたとえる。○酒如澠 「左伝」昭公十二年にみえる、澠は川の名、澠の如しとは多いことをいう、王の饗応に預りその恩のあついことをいう。

鴻寶寧全秘,丹梯庶可淩。
あなたは鴻宝である全ての秘籍を私にかくされない、私はあかい梯をよじ登ってあなたの高きお住居へちかづけると希望している。
鴻宝 秘籍の名。劉安に「枕中鴻宝苑秘書」があったという、蓋し神仙・黄白(錬金術)の事をかいたもの。○丹梯 梯ははしご、これは赤色の土の山路をさしていう。此の句は上の巌棲百層の句と応ずる。○ おかしてのぼること。

淮王門有客,終不愧孫登。
准南王に匹敵するあなたの門には賓客があるものである。私は嵆康のような半隠半仕で、孫登に塊ずるようなことはしない信念があるのである。
准王 漢の准南王劉安、汝陽王に此する。○ 自己をいう。○愧孫登 魏末に孫登が汲郡の北山に居たとき、嵆康は之に従って遊ぶこと三年、別れんとするとき登は嵆康に謂って「子は才多きも識寡し、今の世に於て禍よリ免るること難し」といった。嵆康は後、非命に死んだが、死に臨み「幽憤詩」を作って、「昔は柳下に慙じ、今は孫登に愧ず」といった。柳下は柳下恵、柳下恵は治世にも乱世にも出でて仕え、孫登は乱世と知って隠遁して仕えなかった。嵆康は二人の如くであることができなかったので二人に対して慙愧するというのである。

嵆康(けいこう) (223~262) 字は叔夜。譙郡の人。嵆昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。
『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。 ・幽憤詩 ・贈秀才入軍五首 ・呉謡 ・呂安題鳳
 7/10 ブログ 阮籍 詠懐詩、 白眼視  嵆康 幽憤詩 7/10 ブログ 幽憤詩  嵆康 訳注篇(詳細) 
孫登 竹林の七賢などと絡み、司馬昭が興味を示した魏末の隠逸の士、仙人のような逸話も残る汲郡の孫登も三国時代の人と言える。

春日憶李白 杜甫

春日憶李白 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  25

春の日に李白をおもって作った詩である。
746年天宝5載35歳の春杜甫がすでに李白と別れ、長安に帰ってからの作で、この時。李白は時に江南にいた。

春日憶李白
春の日に李白をおもう
白也詩無敵,飄然思不羣。
李白よ、君は詩に於てだれも匹敵するものがない、凡俗を超越しているその思想は世間なみの衆人と並べることはできない。
清新庚開府,俊逸鮑參軍。
清新なる君の詩風は、北周の庚信のようであり、それと俊逸な詩風は宋の飽照のようである。
渭北春天樹,江東日暮雲。
今わたしは渭北の春の大空に立つ大樹を仰ぎ見ている、あなたははるか江東の日暮の雲をみている。
何時一尊酒,重與細論文。

いつかまた一樽の酒を酌みかわそう、ふたたびあなたとくわしく詩文、作物について論じあうことができるだろうか。


李白よ、君は詩に於てだれも匹敵するものがない、凡俗を超越しているその思想は世間なみの衆人と並べることはできない。
清新なる君の詩風は、北周の庚信のようであり、それと俊逸な詩風は宋の飽照のようである。
今わたしは渭北の春の大空に立つ大樹を仰ぎ見ている、あなたははるか江東の日暮の雲をみている。
いつかまた一樽の酒を酌みかわそう、ふたたびあなたとくわしく詩文、作物について論じあうことができるだろうか。

(下し文)春日李白を憶う
白や詩敵なし 諷然として思羣ならず
清新は庚開府 俊速は飽参軍
洞北春天の樹 江東日暮の雲
何の時か一得の酒 重ねて与に細かに文を論ぜん



白也詩無敵,飄然思不羣。
李白よ、君は詩に於てだれも匹敵するものがない、凡俗を超越しているその思想は世間なみの衆人と並べることはできない。
〇白也 白は李白の名。名をよびかけたのは親しむ意があるのと、次の無敵を強調している。呼び捨てにしてもそのあとにくる語を最大級の褒め言葉にする子どで非礼はないのである。○ 匹敵するもの。○諷然 凡俗を超脱し拘束されぬさまをいう。「謫仙人」と称されていたのを意識している。○ 詩の思想。○不羣 羣は羣衆、世間なみの衆人、不羣とは羣に超えることをいう。


清新庚開府,俊逸鮑參軍。
清新なる君の詩風は、北周の庚信のようであり、それと俊逸な詩風は宋の飽照のようである。
清新 清らかにあたらし、さっぱりとして陳腐でない。○庚開府 北周の庚信。信の官位は牒騎大将軍・開府儀同三司。庾信(ゆしん)513年- 581年 は、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。庾肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。○俊逸 気象のすぐれていること。○飽参軍 劉米の飽照。照は臨海王の前軍参軍となる。鮑照(ほうしょう)412 頃-466 六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。 擬行路難 , 代出自薊北門行


渭北春天樹,江東日暮雲。
今わたしは渭北の春の大空に立つ大樹を仰ぎ見ている、あなたははるか江東の日暮の雲をみている。
渭北 北にある渭水のあたり。渭水の附近をさしていう。渭水は長安の北に在り、丘陵地で陵墓が多くある。杜甫が居ることを示している処。次の句の江東と対している。 ○江東 江南と同じ、長江下流の東南、これは李白の居る地方をいう。


何時一尊酒,重與細論文。
いつかまた一樽の酒を酌みかわそう、ふたたびあなたとくわしく詩文、作物について論じあうことができるだろうか。
 こまかに、くわしく。○論文 文学上の製作物について語りあう。
長安洛陽鳳翔Map上下の真ん中左から右へ渭水が流れる。
choan9ryo渭北:渭水は長安の北に在り、丘陵地で陵墓が多くある。杜甫は横門橋を渡ったあたりに居た。

鄭駙馬宅宴洞中 杜甫

鄭駙馬宅宴洞中 杜甫 紀頌之の漢詩ブログ杜甫詩 特集  23

鮒馬都尉鄭潜曜の宅にて、洞穴の中で宴をしたことをのべる。
杜甫は仕官活動の一環であった。
745年天宝4載34歳

鄭駙馬宅宴洞中
主家陰洞細煙霧,留客夏簟青瑯玕。
春酒杯濃琥珀薄,冰漿碗碧瑪瑙寒。
悞疑茅屋過江麓,已入風磴霾雲端。
自是秦樓壓鄭穀,時聞雜佩聲珊珊。

公主のお宅には日陰の洞穴に靄や霧の冷気が細かに湧き出ている、そこへ賓客を夏のたかむしろとして筵を編んだ竹むしろをしいてくれていた。
濃い春酒が薄い琥珀の盃にそそがれ、氷の飲料は寒そぅな色をした瑪瑙の椀のなかでつめたさで碧の宝玉のようにみえる。
洞辺の茅堂を過ぎたら、あたかも江辺の山麓をとおっているのではないかと間違うくらいの涼しさがある、すでに風通しの良い石段の路では雲の端から土粉が降りかかってきた。
元来ここには(洞宅といえば鄭谷であるが)それを圧倒するように秦楼が高くそびえていたのだ、時々仙女の雜佩の音がジャラジャラとにきこえてきた。


(鄭鮒馬が宅にて洞中に宴をする)
主家の陰洞(いんどう)  煙霧 細やかなり
客を留める夏簟(かてん)は  青瑯玕(せいろうかん)
春酒 盃 濃(こまやか)にして 琥珀 薄く
冰漿(ひょうしょう) 碗 碧にして 瑪瑙(めのう) 寒い
誤って疑う 茅堂(ぼうどう) 江麓に過ぎたかと
己に風磴(ふうとう)に入れば 雲端に霾(つちふる)
自ら是 秦楼(しんろう)  鄭谷(ていこく)を圧す
時に聞く 雑佩の声珊珊たるを

鄭駙馬宅宴洞中
○鄭鮒馬 齢馬都尉鄭潜曜をいう。潜曜は杜南の親友鄭処のおいで、玄宗と皇甫淑妃との間に生まれた臨晋公主という姫宮を娶った。潜曜の父は鄭万釣、母は睿宗の姫宮代国長公主(名は華、字は華婉)。○宅、洞 前の「重ネテ鄭氏ノ東亭二題ス」の詩と同じく新安に在る邸潜曜の宅をさす。
天宝四載夏洛陽の時の作である。○洞中 夏時はあっいために洞穴の中に宴した。

 

主家陰洞細煙霧,留客夏簟青瑯玕。
公主のお宅には日陰の洞穴に靄や霧の冷気が細かに湧き出ている、そこへ賓客を夏のたかむしろとして筵を編んだ竹むしろをしいてくれていた。
○主家 公主の家。○陰洞 日光のあたらぬ洞穴。○留客 客とは杜甫自身をさす。○簟 たかむしろ。○青瑯玕 青いくだ だま。これは筵を編んだ竹の色をたとえていう。

春酒杯濃琥珀薄,冰漿碗碧瑪瑙寒。
濃い春酒が薄い琥珀の盃にそそがれ、氷の飲料は寒そぅな色をした瑪瑙の椀のなかでつめたさで碧の宝玉のようにみえる。
○春酒 春できの酒。○濃 酒の濃いことをいう。○琥珀薄 琥珀は盃の材料。○冰漿 氷をいれた飲料。○瑪瑙 瑪瑙は椀の材料。
 
悞疑茅屋過江麓,已入風磴霾雲端。
洞辺の茅堂を過ぎたら、あたかも江辺の山麓をとおっているのではないかと間違うくらいの涼しさがある、すでに風通しの良い石段の路では雲の端から土粉が降りかかってきた。
○悞 誤りに同じ。○過江麓 江麓とは江辺の山麓をいう。○風磴 風磴は石段の路、磴とは磴が高くて風をうけることをいう。けだし洞を出て一層高い丘上に向かうのであろう。○霾 土ふる。灰の如く細かい土粉が風にあおられて雨の如くふりそそぐこと。○雲端 高い処をさす。

自是秦樓壓鄭穀,時聞雜佩聲珊珊。
元来ここには(洞宅といえば鄭谷であるが)それを圧倒するように秦楼が高くそびえていたのだ、時々仙女の雜佩の音がジャラジャラとにきこえてきた。
○自走 もとより。○秦楼 秦の穆公に女があり弄玉といったが、弄玉は簫の名人の蕭史を愛した。穆公は之を妻わしたところ、二人は日々楼上に於て簫を吹き鳳の鳴くが如くであったが、ある日鳳がやって来てその屋に止まり、夫妻はともにその鳳に随って飛び去った。秦楼とは弄玉のすむ楼をいい、臨晋公主の居楼に比する。○圧  高くそびえ下方を圧するが如くであることをいう。○鄭谷 漢の鄭撲、字は子兵。長安の谷口に耕し、賢を以て聞こえた。鄭潜曜のこの洞宅に此する。○雜佩 ぞうはい さまざまの古詩に付けた飾り玉。○珊珊 玉などの鳴るおと。

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