杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

行次昭陵

行次昭陵 2/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 204

行次昭陵 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700 - 204

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晩行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒歩歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。
   


(行くゆく昭陵に次る)
鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。昭陵は唐の太宗の陵で、陝西省西安府醴泉県の西北六十里九嵕山に在り、封内は周囲百二十里、陪葬せられるものは諾王七、公主二十一、妃嬪八、宰相十二、丞郎三品五十三人、功臣大将軍等六十四人。太宗の乗った六駿の石像は陵後にあったが今は持ち出されている。又、陵そのものは「唐会要」に「昭陵は九嵕の層峰に因りて山の南面を穿ち、深さ七十五丈、玄宮を為る。巌に傍い梁を架して桟道を為る、懸絶すること百仞、繞回すること二百三十歩にして始めて玄宮の門に達す。頂上にも亦遊殿を起す。」とあるのによって大略をうかがうことを得る。又、李商隠の『行次西郊作 一百韻』は杜甫のこの詩と『北征』を手本にして詠われているので参考になる。


行次昭陵

#1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。風雲隨絕足,日月繼高衢。
文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』
#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
寂寥開國日,流恨滿山隅。

太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。


#1
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
#2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』


現代語訳と訳註
(本文)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。寂寥開國日,流恨滿山隅。

(下し文) #2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』

(現代語訳)
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
 

(訳注)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
往者 それ以前の、隋から唐の初め頃のこと。隋の大運河建設は人民を疲弊させたが、長期的には江南の物資を長安に大量に運ぶことができるようになって貞観の治の礎になったのである、しかし、隋末から貞観の初年に大水と干ばつがあり餓者が野にみちた。富がなかったため、自然災害に耐えうる力が備わっていなかったことをいう。○災猶降 国家的な財政が出来上がっていないから、災害に弱い大した鵜であったことをいう。前の句の繰り返しである。○蒼生 人民。○ よみがえる。


指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
指麾 はたでさしまねく、ここでは太宗が臣下を御することをいう。○率土 租庸調の租の部分で、均田法の基礎になるもので、今の住民票というものと考える。○蕩滌 うごかしそそぐ、きたないものをふりうごかしてあらう。○撫洪爐 洪爐のごとく撫すること。洪爐は大なる火をもやすいろり、造化自然をたとえていう。撫は愛してなでさすること。 


壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
○壮士 昭陵を守る武士をいう。○陵邑 九嵕山に太宗が築いた昭陵の地をいう。○幽人 隠遁者、幽静な人、杜甫自身の行在所から山中に向うことから隠遁者といった。○ 礼拝する。○鼎湖 黄帝は首山の銅で、鼎を荊山で鋳た。鼎が出来上がったとき、天から竜が下って帝を迎え、昇天した。その跡を鼎湖という。黄帝が天に昇った地、昭陵をたとえていぅ。


玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
玉衣晨自舉 玉衣は葬儀用玉の中の最高等級で、前漢の時期には、皇帝、皇后、王侯だけが金縷玉衣を使うことができるとされた。玉を金糸でつづった衣。○鐵馬汗常趨 鉄馬は鎧で武装した馬。哥舒翰が率いて大敗した潼関の戦いの際、この御陵の霊宮の前の石人石馬が、汗を流していたと。「玉衣」「鉄馬」などの語は太宗の霊が王朝軍が敗れ去ることを悲しんでいるということをいわんとしているのである。


松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
松柏 陵樹。〇 あおぎみる。○虚殿 叛乱軍による国が騒乱状態にあるため管理体制がなされていない状態で人のいない御殿。○塵沙 砂埃のなか。冬の風は北の砂漠地帯の砂塵を含んで吹き付ける。○瞑途 くらがりのみち。


寂寥開國日,流恨滿山隅。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
寂蓼 心が満ち足りず、もの寂しいこと。ひっそりとしてもの寂しいさま。長安が叛乱軍に落ちて、鳳翔に行在所として存在していることをいう。○開国日 開国は太宗が唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開いたことをいう。大宗の威厳が浸透していた日々をいう。それは遠く去って今はひっそりとしている。朝廷とこの御陵がかけ離れていることをいう。○流恨 叛乱軍に対して、叛乱軍を生み出していった玄宗のふがいなさ、小さい人物で叛乱軍を討つのに胡の軍に頼っている粛宗に対してただよえるうらみの念。○山隅 山陵の四隅。



昭陵
昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓。李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位した。翌年、貞観と年号を改め、在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」といわれる。
太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築いた。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」は中間官僚の質を高めたことによるものであった。
 昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にある。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれている。
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唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
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行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晩行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒歩歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。 
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。
   


(行くゆく昭陵に次る)
鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。昭陵は唐の太宗の陵で、陝西省西安府醴泉県の西北六十里九嗅山に在り、封内は周囲百二十里、陪葬せられるものは諾王七、公主二十一、妃嬪八、宰相十二、丞郎三品五十三人、功臣大将軍等六十四人。太宗の乗った六駿の石像は陵後にあったが今は持ち出されている。又、陵そのものは「唐会要」に「昭陵は九埠の層峰に因りて山の南面を整ち、深さ七十五丈、玄宮を為る。巌に傍い梁を架して桟道を為る、懸絶すること百仞、繞回すること二百三十歩にして始めて玄宮の門に達す。頂上にも亦遊殿を起す。」とあるのによって大略をうかがうことを得るであろう。又、李商隠の『行次西郊作 一百韻』は杜甫のこの詩と『北征』を手本にして詠われているので参考になる。
長安の近郊


行次昭陵  #1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
風雲隨絕足,日月繼高衢。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
文物多師古,朝廷半老儒。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いられる人々は半以上は老儒者であった。
直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』

その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』
#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。寂寥開國日,流恨滿山隅。
#1
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
#2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』

杜甫乱前後の図003鳳翔


現代語訳と訳註
(本文)#1

舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。
風雲隨絕足,日月繼高衢。
文物多師古,朝廷半老儒。
直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』


(下し文)
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』


(現代語訳)
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いられる人々は半以上は老儒者であった。
その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』


(訳注)#1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。

旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
これまでの歴代の愚な君主がつづいたため在来の民意俗風はつかれやぶれ嫌気をおこした。そこで多くの英雄たちが起って帝徳を失い一私人とも見なすべき隋の煬帝に対してその罪を問うたのである。
旧俗 唐以前の歴代の民意風俗をいう。○疲庸主 庸主とは凡庸の君主、六朝以来の愚かな天子をさす。疲とは凋倣すること、つかれてやぶれ嫌気をおこした。或は庸主、独夫ともに隋の煬帝をさすという。○群雄 多くの英雄、隋末に天下を一統せんとして起った李密・賓建徳等をさす。○問独夫 問とはその罪を問うこと。独夫とは天子たる資格のない単独のおとこ、独裁者、隋の煬帝をさす。
 
讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
そうした中で天子として期待できるという予言は竜鳳の資質をそなえた我が唐の太宗に帰しているとした、太宗の武威は虎狼の国ともいうべきの都、長安を平定せられた。』
 予言の辞、唐の太宗が四歳のとき、ある書生が彼を見ていうのに「竜鳳ノ姿、天日ノ表、年将二二十ナラントスレバ、必ズ能ク世ヲ済イ民ヲ安ンゼン。」と。書生は、太宗の未来について予言したのである。○竜鳳質 上の書生の言にみえる、太宗の美質をいう。○ 太宗の武威。○虎狼都 秦の都長安をいう。「史記」蘇秦伝の「秦ハ虎狼ノ国ナリ」。

天屬尊堯典,神功協禹謨。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
太宗は高祖に対しては血属は父子であってしかも「堯典」の趣旨を尊んで賢者の血縁に位をゆずるという仕方をとられたし、太宗の人力以上の功は「大禹謨」にしるされている禹の功にも則っているのである。
天属 天よりの血属をいう、父子の関係をさす。これは唐の高祖と太宗の間がら、父たる高祖が子たる太宗に帝位を譲られたことをさす。三皇五帝の堯帝より世襲により譲位されるようになった。○尊堯典 「尚書」の堯典欝では帝堯が賢人たる舜に位を禅ったことを書いている。太宗は長子ではなく弟であったが賢であったので高祖より位をゆずられたというのである。これは堯典の趣旨を尊ぶことである。○神功 太宗の人力以上の功。○協禹謨 「尚書」の大南護に、南の功をのべて、「九功惟レ叙ス」という。太宗の舞楽にも七徳丸功舞がある。これは禹謨にかなうものである。
 
風雲隨絕足,日月繼高衢。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
駿馬のように逸足ともいうべき太宗がたちあがられると風雲に乗じて起ったように支えるいろいろの賢臣のものが之に付き随ったのである。そうして太宗は天の筋道にかがやく日月の光を受け継ぎ、煬帝で暗黒であった此の世を照らされた。
風雲随絶足 絶足は逸足に同じ、駿馬、六駿のことで、太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬をいう。したがって、これも太宗をたとえていう。風雲は諸臣をたとえていう。諸臣みな風雲の会に乗じて太宗にしたがう。六駿は当時は昭陵の後方にたてられていた。現在は西安市の碑林博物館にある。〇日月経高衢 これは日月の光を高衢において継ぐ意である。高衢は天上の筋道であり、太宗が高祖の徳光をつぐことをいう。


文物多師古,朝廷半老儒。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
太宗はこの国を豊かな国家として為され、文物律令制度とし、そして多く古代の良法を模範とすることを基本とし、朝廷に用いらるる人々は半以上は老儒者であった。
文物 唐の国家の制度文物、雅楽を製し、律令を定め、封建を議する等は、みな文物である。○師古 古代の良い制度法律を模範とすること。○半老儒 半分以上は熟知し年老いた儒者である。これは虞世南等の十八学士等をさす。


直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
その時にはいくら直言をして諌めても刑罰にされたり、辱めをうけるということはなく、賢人が仕進する路は開かれ、けわしいものではなくとおることができたのだ。』
直詞 直言して諌めること、王珪・魏徴の諌めたことをさす。○戮辱 刑せられ、はずかしめられる。○賢路 賢人の進む路。○不崎嘔 崎嘔は道路のけわしいさま。崎嘔たらずとはけわしくないこと、太宗は馬周・劉子巽等を挙げ用いた。

行次西郊作 一百韻 #5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 151


太宗の貞観の治について詠っているの部分である。
「例以賢牧伯,徵入司陶鈞。」
通例として、そのうちから、治績いちじるしかった偉い地方の太守を選抜して中央の大臣として召還されることとされたのだ。かくて、地方官はその地の民を恵しむことに励み、国政の大綱も輝かしい文治の方針にそって、その繁栄の道を歩んだのだった。


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