杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会

士族の子で、のほほんとしていた杜甫を変えたのは、三十代李白にあって、強いカルチャーショックを受けたことである。その後十年、就活に励んだ。同時に極限に近い貧困になり、家族を妻の実家に送り届けるときの詩は、そして、子供の死は、杜甫の詩を格段に向上させた。安史の乱直前から、捕縛され、長安での軟禁は、詩にすごみと分かりやすさのすぐれたしにかえてゆき、長安を脱出し、鳳翔の行在所にたどり着き、朝廷に仕えたことは、人間関係の複雑さを体験して、詩に深みが出ることになった。そして、朝廷における疎外感は詩人として数段高めさせてくれた。特に、杜甫の先生に当たる房琯関連の出来事、二十数首の詩は内容のあるものである。  一年朝廷で死に直面し、そして、疎外され、人間的にも成長し、これ以降の詩は多くの人に読まれる。  ◍  華州、秦州、同谷  ◍  成都 春満喫  ◍  蜀州、巴州、転々。 ◍  再び成都 幕府に。 それから、かねてから江陵にむかい、暖かいところで養生して、長安、朝廷に上がるため、蜀を発し、 ◍  忠州、雲州   ◍  夔州   ◍  公安  そして、長安に向かうことなく船上で逝くのである。  本ブログは、上記を完璧に整理し、解説した仇兆鰲の《杜詩詳注》に従い、改めて進めていく。

杜甫の詩、全詩、約1500首。それをきちんと整理したのが、清、仇兆鰲注解 杜詩詳注である。その後今日に至るまで、すべてこの杜詩詳注に基づいて書かれている。筆者も足掛け四年癌と戦い、いったんこれを征することができた。思えば奇跡が何度も起きた。
このブログで、1200首以上掲載したけれど、ブログ開始時は不慣れで誤字脱字も多く、そして、ブログの統一性も不十分である。また、訳注解説にも、手抜き感、不十分さもあり、心機一転、杜詩詳注に完全忠実に初めからやり直すことにした。
・そして、全唐詩と連携して、どちらからでも杜詩の検索ができるようにした。
・杜甫サイトには語順検索、作時編年表からも検索できるようにした。
杜甫詩の4サイト
● http://2019kanbun.turukusa.com/
● http://kanbunkenkyu.webcrow.jp
● http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/
● http://kanbuniinka15.yu-nagi.com

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喜聞官軍已臨賊寇 二十韻 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 224

喜聞官軍已臨賊寇 二十韻 #2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 224


杜甫が羌村の家族のもとで日を過ごしているあいだに、唐の王朝軍は回紇(ウイグル)の援軍を加えて連合軍とし、長安への進攻を開始していた。すなわち757年9月中旬、粛宗の皇子である広平王李俶(のちの代宗)を総司令官とし、朔方軍で功勲のあった郭子儀を副司令官とし、十五万の連合軍は、鳳翔を出発して東に向かったのである。
9月27日には長安の西郊に着いて陣を布き、安守忠・李帰仁の率いる十万の安史軍(この時史忠明の軍本体は幽州に帰っていた。)と戦って翌28日には長安に入城したのである。長安が安禄山の叛乱軍に落ちてから一年三か月ぶりのことであった。史忠明軍のいない安史軍はひとまず正面衝突を回避して、10月18日には洛陽も奪還され、安慶緒は北方の鄴城(河南省安陽)に逃れた。粛宗は、洛陽奪還の翌日、十月十九日には鳳翔を出発し、十月二十三日に長安に帰った。
杜甫は鄜州の羌村で、王朝軍の長安進攻を知り「官軍の己に賊寇に臨むを聞くを喜ぶ二十韻」をつくり、入城を知って、「京を収む三首」を作って、その歓喜の情を表わしている。


<#1の要旨>
唐王朝軍の連合軍が長安に迫って、長安城の郊外を制圧した。鳳翔の行在所にはウイグルの兵士が警護をしている。状況だが、間もなく天子、粛宗が長安の都に入城されるであろう。



喜聞官軍已臨賊寇 二十韻
#1
胡虜潛京縣,官軍擁賊壕。鼎魚猶假息,穴蟻欲何逃。」
帳殿羅玄冕,轅門照白袍。秦山當警蹕,漢苑入旌旄。
#2
路失羊腸險,雲橫雉尾高。
さしてゆく路には羊腸のような険阻もなくなって平な道がひらかれていて、天子の御行列にはただ雑尾扇の雲が高く横わるである。
五原空壁壘,八水散風濤。
攻防を極めた五原もいたずらに壁塁が残っている、八水はも風光明美な涛波がすっかりなくなっている。
今日看天意,遊魂貸爾曹。
長安を開城できた今となって天はしばらくの間は様子を見ておられるのだろう、この戦いでしばらくの間、天子のかもし出す佳気と魂を浮遊させたておいたのは、叛乱軍たちにつかの間貸してあっただけのことなのである。
乞降那更得,尚詐莫徒勞。」

あっさりと退いたということは、いまさら降参したかのようにして、なにか詐りごとをしてこちらをだまそうとしてもそれはむだ骨折ではなかろうか。』

#3
元帥歸龍種,司空握豹韜。前軍蘇武節,左將呂虔刀。
兵氣回飛鳥,威聲沒巨鰲。戈鋌開雪色,弓矢向秋毫。
天步艱方盡,時和運更遭。誰雲遺毒螫,已是沃腥臊。」
#4
睿想丹墀近,神行羽衛牢。花門騰絕漠,拓羯渡臨洮。
此輩感恩至,羸浮何足操。鋒先衣染血,騎突劍吹毛。
喜覺都城動,悲連子女號。家家賣釵釧,只待獻春醪。」


喜聞官軍己臨賊寇二十韻
(官軍己に賊寇に臨むと聞くを喜ぶ 二十韻)
#1
胡騎京県に潜み、官軍賊壕を擁す。
鼎魚(ていぎょ)猶息を仮す、穴蟻何に逃れんと欲する。」
帳殿玄冤(げんべん)羅(つらな)り、轅門(えんもん)白袍照る。
秦山警蹕(けいひつ)に当る 漢苑旌旄(せいぼう)に入る。
#2
路は羊腸の険を失す、雲横わりて雉尾(ちび)高し。
五原空しく壁塁(へきるい)、八水風涛(ふうとう)散ず。
今日天意を看るに、遊魂(ゆうこん)爾が曹に貸す。』
降を乞うも那(なん)ぞ更に得ん 詐を尚(たっと)ぶは徒に労する莫らんや。

#3
元帥竜種(りょうしゅ)に帰し、司空豹韜(ひょうとう)を握る。
前軍 蘇武が節、左将 呂虔(りょけん)が刀。
兵気 飛鳥(ひちょう)を回(か)えす、威声(いせい) 巨鰲を没せしむ。
戈鋌(かせん) 雪色開き、弓矢 秋毫(しゅうごう)に向う。
天歩(てんぽ) 艱 方(まさ)に尽く、時和 運 更に遭う。
誰か云う毒螫を遺すと、己に是れ 腥臊(せいそう)に沃(そそ)ぐ。」
#4
睿想 丹墀(たんち)近く、神行 羽衛(うえい)牢(かた)し。
花門 絶漠に騰(あが)り、拓羯(たくけつ)臨洮(りんとう)を渡る。
此の輩恩に感じて至る、羸浮(るいふ)何ぞ操るに足らん。
鋒 先(さきだ)ちて 衣血に染む、騎 突きて 剣毛(けんけ)を吹く。
喜びは覺ゆ 都城の動くを、悲みは連(ともな)う 子女の號(さけ)ぶを。
家家 釵釧を売り 只だ待つ春醪を献ずるを』


現代語訳と訳註
(本文) #2

路失羊腸險,雲橫雉尾高。
五原空壁壘,八水散風濤。
今日看天意,遊魂貸爾曹。
乞降那更得,尚詐莫徒勞。」


(下し文) #2
路は羊腸の険を失す、雲横わりて雉尾(ちび)高し。
五原空しく壁塁(へきるい)、八水風涛(ふうとう)散ず。
今日天意を看るに、遊魂(ゆうこん)爾が曹に貸す。』
降を乞うも那(なん)ぞ更に得ん 詐を尚(たっと)ぶは徒に労する莫らんや。


(現代語訳)
さしてゆく路には羊腸のような険阻もなくなって平な道がひらかれていて、天子の御行列にはただ雑尾扇の雲が高く横わるである。
攻防を極めた五原もいたずらに壁塁が残っている、八水はも風光明美な涛波がすっかりなくなっている。
長安を開城できた今となって天はしばらくの間は様子を見ておられるのだろう、この戦いでしばらくの間、天子のかもし出す佳気と魂を浮遊させたておいたのは、叛乱軍たちにつかの間貸してあっただけのことなのである。
あっさりと退いたということは、いまさら降参したかのようにして、なにか詐りごとをしてこちらをだまそうとしてもそれはむだ骨折ではなかろうか。』


(訳注)#2
路失羊腸險,雲橫雉尾高。
さしてゆく路には羊腸のような険阻もなくなって平な道がひらかれていて、天子の御行列にはただ雑尾扇の雲が高く横わるである。
路失 失はこれまで有ったが今はなくなること。○羊腸険 羊のはらわたのようにうねうねと曲った路のある山険。○雲横 この雲は実物ではなく雉尾扇のむらがるのをたとえていう辞。天上と朝廷、仙人・天上の神は天子、であり、時には天子は雲に乗った龍なのである。○雉尾高 天子の大駕の歯簿には雉尾障扇・小団雉尾扇・方雑尾扇・小雉尾扇等のたぐいがある。雉尾とは雉の尾で作ったうちわ。天子の行くところは、天上と同じということを示すもの。天子の神聖化、カリスマ化のための雰囲気づくりの一貫。


五原空壁壘,八水散風濤。
攻防を極めた五原もいたずらに壁塁が残っている、八水はも風光明美な涛波がすっかりなくなっている。
五原 長安附近の五つの原(高地)をいう、畢原(ひつげん)・白鹿原・少陵原・高陽原・細柳原のこと。○空壁墨 とりでだけがいたずらに存する、無用となり役に立たぬこと。〇八水 涇水・滻水・㶚水・澇水・滈水・灃水・潏水の八つを関内八水と称する。○散風涛 散とは集の反対、今までは風涛が多く集まっていたが今は散らばってなくなった。

長安 五原八水00

今日看天意,遊魂貸爾曹。
長安を開城できた今となって天はしばらくの間は様子を見ておられるのだろう、この戦いでしばらくの間、天子のかもし出す佳気と魂を浮遊させたておいたのは、叛乱軍たちにつかの間貸してあっただけのことなのである。
天意 天のこころ。○遊魂 ふらふらしたたましい。○貸爾曹 爾菅は汝等、汝等とは賊軍をさす、貸はかしあたえる。


乞降那更得,尚詐莫徒勞。」
あっさりと退いたということは、いまさら降参したかのようにして、なにか詐りごとをしてこちらをだまそうとしてもそれはむだ骨折ではなかろうか。』
乞降 降参をたのむ。○那更得 どうしてできようぞ、降参もできぬとは必ず誅殺されるべきことをいう。○尚詐いつわりをとうとぶ、官軍に対し詐略を用いること。○莫徒労 莫は反語、徒労はむだばねをおること。


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北征 #10(全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 217

北征 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 217
北徵 10回目(全12回)


#9までの要旨
757年粛宗の至徳二載の秋。特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許された。今、天下はどこでも治安が悪く、無政府状態のところ多くなっているのだ、だからわたしの胸中の心配は増えつづけていったい何時終わるのだろうか。
心配を胸に、最初は徒歩ですすんでいくと、わたしがこの路で出会うこの里の人々の多くは傷をうけていた。そしてやっと馬を駆ることができ、鳳翔の方を振り返るとはるか遠くの山々が重なっていた。少量を過ぎ、邠州を過ぎていた。彌満和深くなり猛虎の声が大空を破りそうな声で唸っているのだ。少し行くと菊が今年の秋の花を変わりなく咲かせていた。山中の果物が多く、橡の実や栗などがあり、「桃源」の伯郷のようだ。自分の処世のまずさと世の移ろいがうまくいっていないことをなげかわしくおもう。そのうちに秦の文公の祭壇を過ぎ、夜更けに戦場跡を通り過ぎた。たくさんの戦死者がそのままにされ、白骨が月明かりに照らされていた。
叛乱軍に掴まって長安に送られ、そこから鳳翔の行在所に逃げ、一年たって、戻ってきた。妻も子供も憐れな恰好であった。
嚢中の帛がないことで寒がってふるえている。それでもおしろいや眉墨をいれた包みものをひろげたので痩せた妻もその顔面に光があるようになった。
家へ帰ったばかりなのでわたしはこんな子供によって自分のこころを慰めている。
その頃、粛宗はウイグルに再度の援軍を要請した。五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。精鋭部隊であり、おかげで傾性は次第に回復してきた。しかし、世論はウイグルに援軍を出すことが高い代償を払うことになるのではないかと心配しているのだ。


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9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
陰風西北來,慘澹隨回紇。其王願助順,其俗善馳突。
送兵五千人,驅馬一萬匹。此輩少為貴,四方服勇決。
所用皆鷹騰,破敵過箭疾。聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』
10
伊洛指掌收,西京不足拔。
今後は伊水と洛水の地方、東都の洛陽は掌中の物を指す様にたやすく奪回することができるのだ。だから、長安になるとこれといった優れた大将がいないのでもっと簡単に抜き取れるというものだ。
官軍請深入,蓄銳可俱發。
王朝連合軍は官軍となり進んで叛乱軍の本拠地まで深く攻め入ろうと請け負ってくれている、鋭気を蓄えて回紇一緒に出発する連合軍とすることが良いのである。
此舉開青徐,旋瞻略恆碣。
この軍事同盟による回紇軍との連合を云い洛陽地方までを攻めおとすことは青州・徐州の方面を開くことになるのである。また五嶽の一つ恒山や碣石の門の両の精神的支柱をも略取することになるのである。
昊天積霜露,正氣有肅殺。
大いなる空には霜露が積もっているのだ、天地には正義、正道なる気配はひきしまり悪いものを枯らし、新しい準備をしているのだ。
禍轉亡胡歲,勢成擒胡月。
叛乱軍が皇帝を名乗り、年号を定めていることを滅亡させるときには今の禍は転じるのである。叛乱軍を檎にするときには王朝連合軍の攻める勢もできあがるであろう。
胡命其能久?皇綱未宜絕。』

叛乱軍、異民族らの命運はながつづきできるというものではない、天子の皇道は断絶してはならないはずのものである。』
11
憶昨狼狽初,事與古先別。奸臣竟菹醢,同惡隨蕩析。
不聞夏殷衰,中自誅褒妲。周漢獲再興,宣光果明哲。
桓桓陳將軍,仗鉞奮忠烈。微爾人盡非,於今國猶活。』

#9
至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す、幾の日か卒(そつ)を練るを休(や)めん。
仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)、坐(そぞろ)に妖氛(ようふん)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ。
陰風(いんぷう)  西北より来たり、惨澹(さんたん)として回紇(かいこつ)に随う。
其の王は助順(じょじゅん)を願い、其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす。
兵を送る  五千人、馬を駆(か)る  一万匹。
此の輩(はい) 少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し、四方(しほう) 勇決(ゆうけつ)に服す。
用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り、敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ。
聖心は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)し、時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す。』

#10
伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん、西京(せいけい)も抜くに足らざらん。
官軍  深く入らんことを請(こ)う、鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可し。
此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん、旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん。
昊天(こうてん) 霜露を積み,正氣 肅殺(しゅくさつ)たる有り。
禍は轉ぜん 胡を亡ぼさん歲(とし),勢は成らん 胡を擒(とりこ)にせん月。
胡の命 其れ能く久しからんや?皇綱(こうこう)未だ宜しく絕つべからず。』

#11
憶う昨(さく) 狼狽(ろうばい)の初め,事は古先と別なり。
奸臣 竟に菹醢(そかい)せられ,同惡(どうあく)隨って蕩析(とうせき)す。
聞かず  夏殷(かいん)の衰えしとき、中(うち)の自ら褒妲(ほうだつ)を誅(ちゅう)せしを。
周漢(しゅうかん) 再興するを獲(え)しは、宣光(せんこう)  果たして明哲(めいてつ)なればなり。
桓桓(かんかん)たり  陳(ちん)将軍、鉞(えつ)に仗(よ)りて忠烈を奮(ふる)う。
爾(なんじ)微(な)かりせば人は尽(ことごと)く非(ひ)ならん、今に於(お)いて国は猶(な)お活(い)く。


現代語訳と訳註
(本文) 10
伊洛指掌收,西京不足拔。
官軍請深入,蓄銳可俱發。
此舉開青徐,旋瞻略恆碣。
昊天積霜露,正氣有肅殺。
禍轉亡胡歲,勢成擒胡月。
胡命其能久?皇綱未宜絕。』


(下し文) #10
伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん、西京(せいけい)も抜くに足らざらん。
官軍  深く入らんことを請(こ)う、鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可し。
此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん、旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん。
昊天(こうてん) 霜露を積み,正氣 肅殺(しゅくさつ)たる有り。
禍は轉ぜん 胡を亡ぼさん歲(とし),勢は成らん 胡を擒(とりこ)にせん月。
胡の命 其れ能く久しからんや?皇綱(こうこう)未だ宜しく絕つべからず。』


(現代語訳) ⑩
今後は伊水と洛水の地方、東都の洛陽は掌中の物を指す様にたやすく奪回することができるのだ。だから、長安になるとこれといった優れた大将がいないのでもっと簡単に抜き取れるというものだ。
王朝連合軍は官軍となり進んで叛乱軍の本拠地まで深く攻め入ろうと請け負ってくれている、鋭気を蓄えて回紇一緒に出発する連合軍とすることが良いのである。
この軍事同盟による回紇軍との連合を云い洛陽地方までを攻めおとすことは青州・徐州の方面を開くことになるのである。また五嶽の一つ恒山や碣石の門の両の精神的支柱をも略取することになるのである。
大いなる空には霜露が積もっているのだ、天地には正義、正道なる気配はひきしまり悪いものを枯らし、新しい準備をしているのだ。
叛乱軍が皇帝を名乗り、年号を定めていることを滅亡させるときには今の禍は転じるのである。叛乱軍を檎にするときには王朝連合軍の攻める勢もできあがるであろう。
叛乱軍、異民族らの命運はながつづきできるというものではない、天子の皇道は断絶してはならないはずのものである。』


(訳注)10
伊洛指掌收,西京不足拔。

今後は伊水と洛水の地方、東都の洛陽は掌中の物を指す様にたやすく奪回することができるのだ。だから、長安になるとこれといった優れた大将がいないのでもっと簡単に抜き取れるというものだ。
伊洛 伊水・洛水、共に洛陽付近を流れ、黄河に灌ぐ。○指掌収 手のひらにあるものを指さす如く容易に奪回する。○西京 長安。東都が洛陽であり、共に天子の在所がある。この時叛乱軍の都を洛陽としていて、両方の都がともに、抑えられていた。○不足抜 抜きとるほどのものがない、容易に抜くことができることをいう。


官軍請深入,蓄銳可俱發。
王朝連合軍は官軍となり進んで叛乱軍の本拠地まで深く攻め入ろうと請け負ってくれている、鋭気を蓄えて回紇一緒に出発する連合軍とすることが良いのである。
深入 叛乱軍の本拠地までふかく攻め入る。○蓄鋭 鋭気をたくわえる。○可倶発 倶発とは回紇の援兵といっしょに出発すること。


此舉開青徐,旋瞻略恆碣。
この軍事同盟による回紇軍との連合を云い洛陽地方までを攻めおとすことは青州・徐州の方面を開くことになるのである。また五嶽の一つ恒山や碣石の門の両の精神的支柱をも略取することになるのである。
此挙 この軍事同盟による回紇軍との連合を云い洛陽地方までを攻めおとすこと。○青徐 禹王の定めた天下の九州のうちの二州の名、青州・徐州は水陸の要衝であり、共に山東にある。O旋瞻 みるであろう。○略 取ること。○恆碣 恒山・碣石。恒山は山西省にあり、碣石は河北省の東北部境の海中にあったという石門。両方とも古来より精神的支柱になるもの。


昊天積霜露,正氣有肅殺。
大いなる空には霜露が積もっているのだ、天地には正義、正道なる気配はひきしまり悪いものを枯らし、新しい準備をしているのだ。
昊天 大いなる空、夏のそらを昊天といい、秋のそらを曼天という。○正気 正義、正道なる気。○粛殺 ひきしまり物を枯らす。


轉亡胡歲,勢成擒胡月。
叛乱軍が皇帝を名乗り、年号を定めていることを滅亡させるときには今の禍は転じるのである。叛乱軍を檎にするときには王朝連合軍の攻める勢もできあがるであろう。
禍転 禍が転じて福となることをいう。○ 叛乱軍をいう。○ 叛乱軍が皇帝を名乗り、年号を定めていること。 叛乱軍が宮殿をのっとっていること。ただ時のこと。○ 王朝連合軍の攻める勢。


胡命其能久?皇綱未宜絕。』
叛乱軍、異民族らの命運はながつづきできるというものではない、天子の皇道は断絶してはならないはずのものである。』
胡命 叛乱軍の運命。異民族の命運。○皇綱 天子の皇道をいう。叛乱軍の大義が決起の当初は一定程度あったのだが、安禄山が皇帝を名乗り、個利個略の争いをしたのである。その都度、政略の強いものが政権を担い殺し合ったのだ。このような叛乱軍が世の中を治めていく力はないといっているのだ。

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北征 #9(全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 216

北征 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 216

北徵 #9

#8までの要旨
757年粛宗の至徳二載の秋。特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許された。今、天下はどこでも治安が悪く、無政府状態のところ多くなっているのだ、だからわたしの胸中の心配は増えつづけていったい何時終わるのだろうか。
心配を胸に、最初は徒歩ですすんでいくと、わたしがこの路で出会うこの里の人々の多くは傷をうけていた。そしてやっと馬を駆ることができ、鳳翔の方を振り返るとはるか遠くの山々が重なっていた。少量を過ぎ、邠州を過ぎていた。彌満和深くなり猛虎の声が大空を破りそうな声で唸っているのだ。少し行くと菊が今年の秋の花を変わりなく咲かせていた。山中の果物が多く、橡の実や栗などがあり、「桃源」の伯郷のようだ。自分の処世のまずさと世の移ろいがうまくいっていないことをなげかわしくおもう。そのうちに秦の文公の祭壇を過ぎ、夜更けに戦場跡を通り過ぎた。たくさんの戦死者がそのままにされ、白骨が月明かりに照らされていた。
叛乱軍に掴まって長安に送られ、そこから鳳翔の行在所に逃げ、一年たって、戻ってきた。妻も子供も憐れな恰好であった。
嚢中の帛がないことで寒がってふるえている。それでもおしろいや眉墨をいれた包みものをひろげたので痩せた妻もその顔面に光があるようになった。
家へ帰ったばかりなのでわたしはこんな子供によって自分のこころを慰めている。
(全12回)


北徵(北征) 8
學母無不為,曉妝隨手抹。移時施朱鉛,狼籍畫眉闊。
生還對童稚,似欲忘饑渴。問事競挽須,誰能即嗔喝?
翻思在賊愁,甘受雜亂聒。新婦且慰意,生理焉得說?』
9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?
我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
陰風西北來,慘澹隨回紇。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
其王願助順,其俗善馳突。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
送兵五千人,驅馬一萬匹。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。
此輩少為貴,四方服勇決。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』

世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』10
伊洛指掌收,西京不足拔。官軍請深入,蓄銳可俱發。
此舉開青徐,旋瞻略恆碣。昊天積霜露,正氣有肅殺。
禍轉亡胡歲,勢成擒胡月。胡命其能久?皇綱未宜絕。』

#8
母を学(まね)びて為(な)さざるは無く、曉妝(ぎょうしょう)  手に随(したが)いて抹す。
時(とき)を移して朱鉛(しゅえん)を施(ほどこ)せば、狼藉(ろうぜき)として画眉(がび)闊(ひろ)し。
生還して童稚(どうち)に対すれば、飢渇(きかつ)を忘れんと欲(ほっ)するに似たり。
事を問うて競(きそ)うて鬚(ひげ)を挽(ひ)くも、誰か能(よ)く即ち嗔喝(しんかつ)せん。
翻(ひるがえ)って賊に在りし愁いを思いて、甘んじて雑乱(ざつらん)の聒(かまびす)しきを受く。
新たに帰りて且(か)つ意を慰(なぐさ)む、生理(せいり)  焉(いずく)んぞ説くことを得ん。

#9
至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す、幾の日か卒(そつ)を練るを休(や)めん。
仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)、坐(そぞろ)に妖氛(ようふん)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ。
陰風(いんぷう)  西北より来たり、惨澹(さんたん)として回紇(かいこつ)に随う。
其の王は助順(じょじゅん)を願い、其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす。
兵を送る  五千人、馬を駆(か)る  一万匹。
此の輩(はい) 少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し、四方(しほう) 勇決(ゆうけつ)に服す。
用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り、敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ。
聖心は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)し、時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す。』

#10
伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん、西京(せいけい)も抜くに足らざらん。
官軍  深く入らんことを請(こ)う、鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可し。
此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん、旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん。
昊天(こうてん) 霜露を積み,正氣 肅殺(しゅくさつ)たる有り。
禍は轉ぜん 胡を亡ぼさん歲(とし),勢は成らん 胡を擒(とりこ)にせん月。
胡の命 其れ能く久しからんや?皇綱(こうこう)未だ宜しく絕つべからず。』

現代語訳と訳註
(本文) 9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?
仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
陰風西北來,慘澹隨回紇。
其王願助順,其俗善馳突。
送兵五千人,驅馬一萬匹。
此輩少為貴,四方服勇決。
所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』


(下し文) #9
至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す、幾の日か卒(そつ)を練るを休(や)めん。
仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)、坐(そぞろ)に妖氛(ようふん)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ。
陰風(いんぷう)  西北より来たり、惨澹(さんたん)として回紇(かいこつ)に随う。
其の王は助順(じょじゅん)を願い、其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす。
兵を送る  五千人、馬を駆(か)る  一万匹。
此の輩(はい) 少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し、四方(しほう) 勇決(ゆうけつ)に服す。
用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り、敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ。
聖心は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)し、時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す。』


(現代語訳) ⑨
我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』


(訳注)北征9
至尊尚蒙塵,幾日休練卒?

我が君にはまだ兵塵をさけて地方においでになる、いつになったら兵卒を訓練することをやめることができるだろう。
至尊 天子。鳳翔に粛宗が行在所を置き。成都に玄宗が上皇としていた。○蒙塵 叛乱軍の勢いを示すものとして、蒙塵ということを叛乱軍の中にいた杜甫は感じていた。その兵乱をさけて外に出ておられるというやわらかい表現をしている。○幾日 何日と同じ。○練卒 兵卒を訓練すること。


仰觀天色改,坐覺妖氛豁。
それでも上を仰いでみると天の色もいつも見るものとはかわった様子だ。そぞろになんだか兵乱の悪気が散らばりひろがる様な気がする。
天色改 そらの色がかわる。○妖氛 兵乱の悪気。叛乱軍の異民族の生活習慣が異なっていること、特に当時の中国に来ているイスラムの白い帽子は、北方の騎馬民族の毛の帽子など怖がられた。○ ひろがり散ずること。


陰風西北來,慘澹隨回紇。
西北の方から陰気な風が吹いてきた。その風はものがなしく回絃にくっついてきたのである。
陰風 陰気な風。○西北 回紇の方位。○慘澹 ものがなしく。○回紇 ウイグルの異民族の軍隊。


其王願助順,其俗善馳突。
回紇の王は唐王朝軍を助けたいと願いでてくれた。回乾の習俗は馳突の騎兵船がうまい。
其王 其は回紇をさす。王は第2代 可汗・磨延畷(葛 勒可汗)のこと○願助順 叛乱軍は道に逆らうものであり、王朝軍は理に順うものである。順とは唐の王朝のつながり順、王朝軍をさす、回紇は唐王朝軍を助けようと願いでた。(実際には回紇は当初は両方に軍を出兵させる状態であった。) 史によると至徳元載10月に回紇は其の太子葉護を遺わし、兵四干を率いて唐を助けて賊を討った。可敦(カトン;可汗の正妻)の妹を妾(めあわ)自分の娘とした上で、これを承粟に嬰す。さらにウイグルの首領を答礼の使者として派遣してきたので、粛宗はこれを彭原に出迎え、ウ イグル王女を砒伽公主 に封じた.。○其俗 回紇ウイグルの習俗。○善馳突 馬を馳せて突出するにじょうずである。ウイグルは大宛国であり名馬の産地であり、騎馬民族の兵術。

送兵五千人,驅馬一萬匹。
それが我が唐へ五干人の兵を送り、馬一万匹を駆ってよこした。


此輩少為貴,四方服勇決。
彼等は少壮なものを貴ぶ習慣で、彼の国の四方の者はその勇決に服従している。
此輩 回紇の兵をさす。○少為貴 少壮なものを貴しとする。「漢書」の匈奴伝に「壮者ハ肥美ヲ食シ老者ハ其ノ余ヲ飲食シ、壮健ヲ貴ビ老弱ヲ賤ム。」とみえる。回紇はそれと同じ。騎馬民族であるため、騎兵船は個人技を重視する。○四方 回紇の四面の国々。宗教的なことを意味するもの。○ 服従する。○勇決 回紇の勇敢、果決。


所用皆鷹騰,破敵過箭疾。
彼等の用うる兵戎はみな鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましく敵軍をうち破ることは矢のはやさよりもはやい。
所用 回紇の使用する兵戎。○鷹騰 鷹のように猛々しく獲物を狙う、いさましいことをいう。○過箭疾 矢のはやく疾風騎馬軍がまさる。


聖心頗虛佇,時議氣欲奪。』
世論は回紇などを援軍に使ってはと後難をおそれて気を奪われようとしているが、我が天子のお考えでは平気で彼等の援助をまっておられるのだ。』
○聖心頗虚佇、時議気欲奪 此の二句は倒句でよむ。時議は当時の議論、即ち世論をいう。気奪われんと欲すはこちらの意気が先方に奪われようとする。回乾の援兵をかりては後のたたりが恐ろしいということで気が気でなくおもうことをいう。・聖心は太子の御意。虚佇とは自己をむなしくして、即ち平気で、回紇が助けるというなら助けてもらおうとまちかまえられることをいう。(757年15万にふくれあがった唐軍は,広平王・淑 を総帥とし,鳳翔を出発.扶風で ウイグル軍を出迎 えた郭子儀は,3日 間の大宴会で接待.以 後,ウイグル軍には食料として毎日,羊200匹,牛20頭,米40石 が支給さるなど、戦いの後を予感させるものであった。1年前の霊武に行在所を置いている段階で朔方軍の郭子儀だけでウイグルの援軍がなかったら唐王朝は滅亡したかもしれないのだ。その早い段階でウイグルに応援を求めたことが滅亡を防いだのだ。しかしどの段階でも王朝軍の方が兵力的には勝っていた。杜甫は、天子が詩土砂をリードする力量にかけていたと思っていたようだ。.ここまでの分を見ても粛宗は杜甫に嫌悪を抱いたであろうと思われる。)

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北征 #1(北征全12回) 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 208

北征 #1 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 208

(12回の1回目)

「北征」の詩の内容は四つの段に分けられる。すなわち第一段はこのたびの帰省のことと現在の時勢について、第二段は旅中の見聞、第三段は妻子との再会、第四段は胡賊撃退へと動き出した状況の説明と大乱平定の願い、となっている。

北征
皇帝二載秋,閏八月初吉。
粛宗皇帝の至徳二載の秋の閑八月一日。
杜子將北徵,蒼茫問家室。」
自分は北方にでかけて、家族の様子がはっきりしていないので預けている妻子の様子をたずねようとするものだ。』
維時遭艱虞,朝野少暇日。
この時は叛乱軍の長安を制覇されたことによる奪還のための心配に出くわした頃で、朝廷の者も民間の者もせわしくて暇がないのである。
顧慚恩私被,詔許歸蓬蓽。
それに自分はこのたび、どうしたことか特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許されたのは誠に恥じ入ったことである。
拜辭詣闕下,怵惕久未出。
おいとま乞の御挨拶に行在所の御門近くにまかり出たが、恐縮して心に憂いおそれをいだきおるためにいつまでも退出できないでいたのである。
雖乏諫諍姿,恐君有遺失。
自分は左拾遺の官職をいただいているとはいえ、天子の君をお諌めするという程の資質も無いのではあるが万一天子の為されることに失政がありはせぬかと恐れるのである。


皇帝二載の秋 閏八月初吉。
杜子将に北征して、蒼茫 家室を問わんとす。』
維(こ)れ時 艱虞(かんぐ)に遭う、朝野(ちょうや)暇日(かじつ)少(すくな)し。
顧(かえり)みて恩私(おんし)の被るを慚ず、詔して蓬蓽(ほうか)に帰るを許さる。
拝辞して闕下(けつか)に詣(いた)り、怵惕(じゅつてき)久しうして未だ出でず。
諫諍(かんそう)の姿に乏しと雖も、恐らくは君に遺失有らんことを。


現代語訳と訳註
(本文)

皇帝二載秋,閏八月初吉。
杜子將北徵,蒼茫問家室。」
維時遭艱虞,朝野少暇日。
顧慚恩私被,詔許歸蓬蓽。
拜辭詣闕下,怵惕久未出。
雖乏諫諍姿,恐君有遺失。


(下し文)
皇帝二載の秋 閏八月初吉。
杜子将に北征して、蒼茫 家室を問わんとす。』
維(こ)れ時 艱虞(かんぐ)に遭う、朝野(ちょうや)暇日(かじつ)少(すくな)し。
顧(かえり)みて恩私(おんし)の被るを慚ず、詔して蓬蓽(ほうか)に帰るを許さる。
拝辞して闕下(けつか)に詣(いた)り、怵惕(じゅつてき)久しうして未だ出でず。
諫諍(かんそう)の姿に乏しと雖も、恐らくは君に遺失有らんことを。


(現代語訳)
粛宗皇帝の至徳二載の秋の閑八月一日。
自分は北方にでかけて、家族の様子がはっきりしていないので預けている妻子の様子をたずねようとするものだ。』
この時は叛乱軍の長安を制覇されたことによる奪還のための心配に出くわした頃で、朝廷の者も民間の者もせわしくて暇がないのである。
それに自分はこのたび、どうしたことか特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許されたのは誠に恥じ入ったことである。
おいとま乞の御挨拶に行在所の御門近くにまかり出たが、恐縮して心に憂いおそれをいだきおるためにいつまでも退出できないでいたのである。
自分は左拾遺の官職をいただいているとはいえ、天子の君をお諌めするという程の資質も無いのではあるが万一天子の為されることに失政がありはせぬかと恐れるのである。


(訳注)北徵 ①
皇帝二載秋,閏八月初吉。
粛宗皇帝の至徳二載の秋の閑八月一日。
○皇帝 粛宗。○二載 至徳二載。○初吉 朔日二日)。


杜子將北徵,蒼茫問家室。」
自分は北方にでかけて、家族の様子がはっきりしていないので預けている妻子の様子をたずねようとするものだ。』
杜子 作者自身であるが、孔子、孟子などと同様に公式文書において自分の名を記す場合に使われるものである。官職を意識してのものである。 ○北征 北の方鄭州へゆく。○蒼茫 ぼんやりしてはっきりせぬさま。家族の様子の知れぬこと。蒼茫を急濾のさまとするのは不可、荒寂のさまとするのは可。○問家室 間はたずねにゆく、家室は妻子をいう。


維時遭艱虞,朝野少暇日。
この時は叛乱軍の長安を制覇されたことによる奪還のための心配に出くわした頃で、朝廷の者も民間の者もせわしくて暇がないのである。
維時 維はただ辞であり、時にということ。○艱虞 なんぎ、しんぱい、叛乱軍の長安を制覇されたこと。○朝野 在朝の入々も、在野の人々も。朝は朝廷、野は民間。○少暇日 いそがしくひまなし。


顧慚恩私被,詔許歸蓬蓽。
それに自分はこのたび、どうしたことか特別に天子の御恩寵を被って仰せにより、鄜州のあばら家へ帰ることを許されたのは誠に恥じ入ったことである。
顧慚 かえりみてはじる。○恩私被 恩私とは天子の自分へたまわる特別の恩寵、私は自分一己へのごひいき、被とはこうむる、こちらがそれをうけること。○詔許 詔を以てお許しになる。○蓬蓽 蓽は箪と通ずる、荊(いばら)のこと、いばらや竹で門をつくる。蓬はよもぎの草。二字で自已の粗末な家屋をさす。


拜辭詣闕下,怵惕久未出。
おいとま乞の御挨拶に行在所の御門近くにまかり出たが、恐縮して心に憂いおそれをいだきおるためにいつまでも退出できないでいたのである。
拝辞 おいとまごいのあいさつ。○ まかりでる。○闘下 行在所の御殿の小門のそば。○悼惧 心に憂いおそれをいだく。○ 退出する。


雖乏諫諍姿,恐君有遺失。
自分は左拾遺の官職をいただいているとはいえ、天子の君をお諌めするという程の資質も無いのではあるが万一天子の為されることに失政がありはせぬかと恐れるのである。
諫諍姿 君をおいさめするすがた、これは作者は左拾遺であるということ。諌官の職にあるということ。○ 粛宗。○遺失 おておち、あやまち。

述懐  杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 177
ID詩 題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晚行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒步歸行鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃。八月初めに鳳翔より出発し,鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。 
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩 題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。

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玉華宮 ② 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 206

玉華宮 ② 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 206
杜甫詩、杜甫の人生を語る「北征」期の重要な作品。

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晚行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒步歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。

977
978
979

羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
・村の長老たちと帰還の祝い。
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれる。
朝廷におけるいきさつについては下のブログ参照。

述懐 #1 杜甫 杜甫特集700- 178

述懐 #2 杜甫 杜甫特集700- 179

述懐 #3 杜甫 杜甫特集700- 180




鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。唐の太宗の647年貞観二十一年七月、玉華宮を作る、務めて倹制に従い、正殿のみは瓦をふき、其の余は茅をふかせた。その清涼なことは九成宮にまさると称せられる。宮の位置は下図の中央付近、長安の真北、40kmくらうにあった。杜甫は鳳翔を当初、徒歩で出発している。裏街道を通り、九成宮への導入道路を抜け。邠州まで歩いている。ここで馬を借りて、銅川を抜けて、宜君にむかう。この詩は、この間のことをである。

玉華宮(ぎょくかきゅう)は高宗の651年永徽二年にこれを廃して玉華寺と為した。宜君県は今、鄜州の中部県(即ち唐の坊州)の南にある。杜甫が此の地を経過したときは玉華寺であるはずであるが、旧名によって玉華宮と題したものである。 


玉華宮
溪回松風長,蒼鼠竄古瓦。不知何王殿,遺構絕壁下。
陰房鬼火青,壞道哀湍瀉。萬籟真笙竽,秋色正蕭灑。』
#2
美人為黃土,況乃粉黛假。
あの楊貴妃は今は黄土となっている。しかし、いくら、最高に化粧し、うつくしく着飾っていたとしても死んでしまったのだ。
當時侍金輿,故物獨石馬。
絶世の美女といわれ、天子の寵愛を受けて金輿の傍に何時も同席していた。眼前に存在して見るものはただひとり立っている石刻の馬だけなのだ。
憂來藉草坐,浩歌淚盈把。
先のことを考えると心配が湧いて来るばかりだ、私はここで、草を下敷きにして坐り、大声に歌いだしてみたら一握りに余るほどの涙が流れでてくるのである。
冉冉徵途間,誰是長年者?』

わたしはこうした旅をするあいがに次第次第に年老いてゆくのはであるしかたのないことであるが、誰が果して不老長寿の幸せを保ち得る者であろうか。そんな者はいないのだ。


(玉華宮)#1
渓廻りて松風長し 蒼鼠古瓦に竄る
知らず何の王殿ぞ 遺構絶壁の下
陰房鬼火青く 壊道哀湍瀉ぐ
萬籟真に笙竽 秋色正に蕭灑たり』
#2
美人も黄土と為る 況や乃ち粉黛の仮なるをや
当時金輿に侍せしに 故物独り石馬あり
憂え来って草を藉きて坐す 浩歌涙把に盈つ
冉冉たり征途の間 誰か是れ長年の者ぞ』

現代語訳と訳註
(本文)

美人為黃土,況乃粉黛假。
當時侍金輿,故物獨石馬。
憂來藉草坐,浩歌淚盈把。
冉冉徵途間,誰是長年者?』

(下し文) #2
美人も黄土と為る 況や乃ち粉黛の仮なるをや
当時金輿に侍せしに 故物独り石馬あり
憂え来って草を藉きて坐す 浩歌涙把に盈つ
冉冉たり征途の間 誰か是れ長年の者ぞ』


(現代語訳)
あの楊貴妃は今は黄土となっている。しかし、いくら、最高に化粧し、うつくしく着飾っていたとしても死んでしまったのだ。
絶世の美女といわれ、天子の寵愛を受けて金輿の傍に何時も同席していた。眼前に存在して見るものはただひとり立っている石刻の馬だけなのだ。
先のことを考えると心配が湧いて来るばかりだ、私はここで、草を下敷きにして坐り、大声に歌いだしてみたら一握りに余るほどの涙が流れでてくるのである。
わたしはこうした旅をするあいがに次第次第に年老いてゆくのはであるしかたのないことであるが、誰が果して不老長寿の幸せを保ち得る者であろうか。そんな者はいないのだ。


(訳注)#2
美人為黃土,況乃粉黛假。

あの楊貴妃は今は黄土となっている。しかし、いくら、最高に化粧し、うつくしく着飾っていたとしても死んで消滅してしまったのだ。
美人 宮女。ほんの数か月前衝撃の殺され方をした楊貴妃のことをいっている。杜甫は、粛宗より、玄宗に随う気持ちが強かった。玄宗の悲劇を前面に出さず、ここではさりげなく振れている。○為黄土 死して土に化すことをいう。○粉黛仮 粉はおしろい、黛は眉をえがくのに用いる青色のすみ。仮とは仮借のものの意。


當時侍金輿,故物獨石馬。
絶世の美女といわれ、天子の寵愛を受けて金輿の傍に何時も同席していた。眼前に存在して見るものはただひとり立っている石刻の馬だけなのだ。
当時 太宗の時をさす。○侍金輿 金輿は黄金をもってかざったのりもの、天子の乗るもの、侍とは美人が生前そのそば近くはべったこと。「金輿に侍せしは」云々と訓ず可らず。「侍せしは」云々といえば下旬の放物が侍した様になって不都合である。「侍金輿」と「放物」との句の中間には「その美人は己に存在せず」の意を含む、略していわないまでである。○故物 在来からあるふるもの、太宗の頃に建てられたものであるから放物であるが、その後、玄宗と連れだってここに来ていた。○石馬石を刻してつくった馬。当時、大宗に対して悪い感情はないし、玄宗は楊貴妃がいけないのであって、皇帝は美人を好むものという当たり前のことなのである。


憂來藉草坐,浩歌淚盈把。
先のことを考えると心配が湧いて来るばかりだ、私はここで、草を下敷きにして坐り、大声に歌いだしてみたら一握りに余るほどの涙が流れでてくるのである。
 この憂いは将来に対するもので、杜甫自身、爽籟計画も夢も失いつつある時である。まだ、粛宗に認めてもらえ役立ちたいという希望を捨ててはいないのである。○浩歌 大きな声でうたう。○盈把  ひとにぎりに満つ。○杜甫は別に本当に泣いているわけではない、憂いの大きさを涙の量で表現しているのである。憂いたり、嘆いたりしていても決して悲観しているのではないのである。


冉冉徵途間,誰是長年者?』
わたしはこうした旅をするあいがに次第次第に年老いてゆくのはであるしかたのないことであるが、誰が果して不老長寿の幸せを保ち得る者であろうか。そんな者はいないのだ。
冉冉 漸漸と同義、次第に時日の進行するさま、時間の経過をいい、道路についていうのではない。○征途 征、往復の往の意味を持った旅という意味と、天子の許しを得て旅立つのであるから、北を征する意味を込めているともいえる。○長年 不老長寿の幸せ。唐の皇帝は、特に玄宗は道教に入信し、国教にまでした人物、金丹の不老伝説を信じていたものである。そんなもので長寿が叶えるはずはないというのであろうか。実際に道教と宦官によって、皇帝の中毒死は多数あったのだ。。


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行次昭陵 2/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 204

行次昭陵 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700 - 204

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晩行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒歩歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。大宗の施政が仁徳のあるものであったと賛美し、暗に粛宗の愚帝ぶりを批判している。秀作。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。旅の報告と上奏文であり、ウイグルに救援を求める粛宗批判といえる内容のものである。一番の秀作。
977羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
978・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
979・村の長老たちと帰還の祝い。
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれるものである。が、一方、この時期の作品は左拾位としての役目をしようとする杜甫の誠実さを浮き彫りにするものでもある。秀作ぞろいである。ウイグル援軍要請批判は安禄山軍に拘束された時期、「黄河二首」「送楊六判官使西蕃」から一貫している。
   


(行くゆく昭陵に次る)
鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。昭陵は唐の太宗の陵で、陝西省西安府醴泉県の西北六十里九嵕山に在り、封内は周囲百二十里、陪葬せられるものは諾王七、公主二十一、妃嬪八、宰相十二、丞郎三品五十三人、功臣大将軍等六十四人。太宗の乗った六駿の石像は陵後にあったが今は持ち出されている。又、陵そのものは「唐会要」に「昭陵は九嵕の層峰に因りて山の南面を穿ち、深さ七十五丈、玄宮を為る。巌に傍い梁を架して桟道を為る、懸絶すること百仞、繞回すること二百三十歩にして始めて玄宮の門に達す。頂上にも亦遊殿を起す。」とあるのによって大略をうかがうことを得る。又、李商隠の『行次西郊作 一百韻』は杜甫のこの詩と『北征』を手本にして詠われているので参考になる。


行次昭陵

#1
舊俗疲庸主,羣雄問獨夫。讖歸龍鳳質,威定虎狼都。』
天屬尊堯典,神功協禹謨。風雲隨絕足,日月繼高衢。
文物多師古,朝廷半老儒。直辭寧戮辱,賢路不崎嶇。』
#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
寂寥開國日,流恨滿山隅。

太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。


#1
旧俗庸主に疲る、羣雄独夫を問う。
讖は帰す竜鳳の質、威は定む虎狼の都。
天属堯典を尊び、神功兎謨に協う。
風雲絶足に随い、日月高衢に継ぐ。
文物多く古を師とす、朝廷半老儒。
直詞寧ぞ戮辱せられん、賢路崎嶇足らず。』
#2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』


現代語訳と訳註
(本文)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。寂寥開國日,流恨滿山隅。

(下し文) #2
往者災猶降る、蒼生喘ぎて未だ蘇せず。
指危麾率土を安んじ、盪滌洪鑪のごとく撫す。
壮士陵邑に悲しみ、幽人鼎湖に拝す。
玉衣晨に自ら挙る、鉄馬汗して常に趨す。
松柏に虚殿を瞻、塵抄に瞑途に立つ。
寂蓼たり開国の日、流恨山隅に満つ。』

(現代語訳)
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
 

(訳注)#2
往者災猶降,蒼生喘未蘇。
隋時代に人民は土木工事に疲弊してしまったところへ、洪水と干ばつという自然災害が起こってしまった。人民は、あえぎ、苦しんで再生することが容易ではなかったのだ。
往者 それ以前の、隋から唐の初め頃のこと。隋の大運河建設は人民を疲弊させたが、長期的には江南の物資を長安に大量に運ぶことができるようになって貞観の治の礎になったのである、しかし、隋末から貞観の初年に大水と干ばつがあり餓者が野にみちた。富がなかったため、自然災害に耐えうる力が備わっていなかったことをいう。○災猶降 国家的な財政が出来上がっていないから、災害に弱い大した鵜であったことをいう。前の句の繰り返しである。○蒼生 人民。○ よみがえる。


指麾安率土,蕩滌撫洪爐。
太宗が世を治められると賢臣を全国にうまく配置され、全天下を安定したものにされ人民は夜戸締りをしないほど落ち着いてきた。地方の官僚も収奪をしない民にやさしいものが出世するという、従前の汚職構造をあらいきよめて、仁徳のあるあたたかい大なる囲炉裏の様に愛撫せられた。』
指麾 はたでさしまねく、ここでは太宗が臣下を御することをいう。○率土 租庸調の租の部分で、均田法の基礎になるもので、今の住民票というものと考える。○蕩滌 うごかしそそぐ、きたないものをふりうごかしてあらう。○撫洪爐 洪爐のごとく撫すること。洪爐は大なる火をもやすいろり、造化自然をたとえていう。撫は愛してなでさすること。 


壯士悲陵邑,幽人拜鼎湖。
今わたしはこの九嵕山の太宗御陵にさしかかった、昭陵を守る武士番兵は悲しそうにしているのである、この時期ここを通るものとしては隠遁者ぐらいであるから天から龍が降りてきたというこの御陵に対してつつしんで礼拝をささげるのである。
○壮士 昭陵を守る武士をいう。○陵邑 九嵕山に太宗が築いた昭陵の地をいう。○幽人 隠遁者、幽静な人、杜甫自身の行在所から山中に向うことから隠遁者といった。○ 礼拝する。○鼎湖 黄帝は首山の銅で、鼎を荊山で鋳た。鼎が出来上がったとき、天から竜が下って帝を迎え、昇天した。その跡を鼎湖という。黄帝が天に昇った地、昭陵をたとえていぅ。


玉衣晨自舉,鐵馬汗常趨。
太宗の神霊は天上におわすが寝殿に蔵してある玉衣はひとりでに毎朝になるたびに舞いあがり、武装した石刻の馬も活きていて汗をながしていつも走って居るのである。
玉衣晨自舉 玉衣は葬儀用玉の中の最高等級で、前漢の時期には、皇帝、皇后、王侯だけが金縷玉衣を使うことができるとされた。玉を金糸でつづった衣。○鐵馬汗常趨 鉄馬は鎧で武装した馬。哥舒翰が率いて大敗した潼関の戦いの際、この御陵の霊宮の前の石人石馬が、汗を流していたと。「玉衣」「鉄馬」などの語は太宗の霊が王朝軍が敗れ去ることを悲しんでいるということをいわんとしているのである。


松柏瞻虛殿,塵沙立暝途。
昔を偲ぶ松柏の立ち並んでいるあたりにあがめる人がいない御殿をみあげている、沙ほこりの舞うなかに夕ぐれに差し掛かっていくただ佇んでいるのである。
松柏 陵樹。〇 あおぎみる。○虚殿 叛乱軍による国が騒乱状態にあるため管理体制がなされていない状態で人のいない御殿。○塵沙 砂埃のなか。冬の風は北の砂漠地帯の砂塵を含んで吹き付ける。○瞑途 くらがりのみち。


寂寥開國日,流恨滿山隅。
太宗の唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開き、大宗の威厳が浸透していた日々は遠き過去となってさびしく、ただあふれる恨の念というものがこの山陵の四隅にいっぱいにひろがっているばかりだ。
寂蓼 心が満ち足りず、もの寂しいこと。ひっそりとしてもの寂しいさま。長安が叛乱軍に落ちて、鳳翔に行在所として存在していることをいう。○開国日 開国は太宗が唐の国家をはじめて安定さ大帝国に開いたことをいう。大宗の威厳が浸透していた日々をいう。それは遠く去って今はひっそりとしている。朝廷とこの御陵がかけ離れていることをいう。○流恨 叛乱軍に対して、叛乱軍を生み出していった玄宗のふがいなさ、小さい人物で叛乱軍を討つのに胡の軍に頼っている粛宗に対してただよえるうらみの念。○山隅 山陵の四隅。



昭陵
昭陵は唐の第二代皇帝李世民の陵墓。李世民は父の高祖李淵に譲位され、626年に即位した。翌年、貞観と年号を改め、在位23年は中国の歴史上での極めて繁栄した時代で「貞観の治」といわれる。
太宗李世民はモラルの確立を重視し、儒教道徳政治の理想社会を築いた。「民、道に落ちたる物を拾わず、外出戸を閉じず」と言われたほどの平和な「貞観の治」は中間官僚の質を高めたことによるものであった。
 昭陵は当時の都長安から80キロくらい離れた九峻山の頂上にある。九峻山とは9つの険しい峰があることからそう呼ばれている。
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「九成宮」#2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 202

「九成宮」#2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 202


杜甫詩、杜甫の人生を語る「北征」期の重要な作品。

ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晚行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒步歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。
975北征五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。

977
978
979

羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
・村の長老たちと帰還の祝い。
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれる。
朝廷におけるいきさつについては下のブログ参照。

述懐 #1 杜甫 杜甫特集700- 178

述懐 #2 杜甫 杜甫特集700- 179

述懐 #3 杜甫 杜甫特集700- 180




九成宮
#1
蒼山八百裡,崖斷如杵臼。曾宮憑風迥,岌嶪土嚢口。』
立神扶棟梁,鑿翠開戶牖。其陽產靈芝,其陰宿牛鬥。
紛披長松倒,揭櫱怪石走。哀猿啼一聲,客淚迸林叢。』1
#2
荒哉隋家帝,製此今頹朽。
隋国の天子(煬帝)は土木(どぼく)運河に懸命になりすぎ、心が荒んだのだ、むかしこんな立派な宮殿をこしらえたのであるが今はこんなに禿げ、崩れ、朽ちてしまった。
向使國不亡,焉為巨唐有。
もしさきにその国を滅亡させない様にしたのであれば、どうしてこれが我が大唐王朝の所有物となることになったのであろうか。
雖無新增修,尚置官居守。
我が唐では、玄宗になってからは新しく宮殿増修はしていないが、しかしそれでも管理の官を置いて留守番をさせているのだ。
巡非瑤水遠,跡是雕牆後。』
時々天子も御巡幸になるが、それが穆王が西王母に会うために遠方へおでかけになるということではないということであっても、この離宮の史蹟、隋がやった雕牆の奢侈の後をうけてやっているだけなのだ。
我行屬時危,仰望嗟嘆久。
自分のこの旅をしているちょうど今は、時世の危急な時なのである、この宮殿を仰ぎ望んで長い溜息をつき、この不安な世の中を嘆くのである。
天王狩太白,駐馬更搔首。』
2
今、天子の粛宗は太白山のある地方に巡狩されるように魚在所におわす。そんなことを考えて自分の乗っている馬の足を留めて、首をかきつつ立ち去りがたい気持ちでいるのだ。


九成宮
蒼山(そうざん)入ること百里、崖(がけ)断(た)えて杵臼(しょきゅう)の如し。
曾宮(そうきゅう)風に憑(よ)りて迥(はるか)に、岌嶪(きゅうぎょう)たり土嚢(どのう)の口。
神(しん)を立てて棟梁(とうりょう)を扶(たす)け、翠を鑿(うが)ちて戸牖(こゆう)を開く。
其の陽(みなみ)には霊芝(れいし)を産し、其の陰(きた)には牛斗(ぎゅうと)宿す。
紛披(ふんぴ)として長松(ちょうしょう()倒れ、揭櫱(けつげつ)として怪石(かいせき)走(はし)る。
哀猿(あいえん)啼くこと一声(いっせい)、客涙(かくるい)林叢(りんそう)に迸(ほとばし)る。』
#2

荒(こう)なる哉(かな) 隋家(ずいか)の帝(てい)、 此を製(せい)して今頹朽(たいきゅう)せり。
向(さき)に国をして亡びざら使(し)めば 焉(いずくんぞ)ぞ巨唐(きょとう)の有(ゆう)と為(な)らん。
新(あらた)に増修(ぞうしゅう)する無しと雖(いえど)も 尚(なお)官を置きて居守(きょしゅ)せしむ。
巡は瑤水の遠きに非ず、 跡は 是 雕牆(ちょうしょう)の後(のち)なり。』
我行きて時の危(あやう)きに属す、仰望(ぎょうぼう)して嗟嘆(さたん)すること久し。
天王(てんのう)太白(たいはく)に狩(かり)す、馬を駐(とど)めて更に首を掻く。』

 
 

「九成宮」 現代語訳と訳註
(本文)
#2
荒哉隋家帝,製此今頹朽。
向使國不亡,焉為巨唐有。
雖無新增修,尚置官居守。
巡非瑤水遠,跡是雕牆後。』
我行屬時危,仰望嗟嘆久。
天王狩太白,駐馬更搔首。』2


(下し文)
荒(こう)なる哉(かな) 隋家(ずいか)の帝(てい)、 此を製(せい)して今頹朽(たいきゅう)せり。
向(さき)に国をして亡びざら使(し)めば 焉(いずくんぞ)ぞ巨唐(きょとう)の有(ゆう)と為(な)らん。
新(あらた)に増修(ぞうしゅう)する無しと雖(いえど)も 尚(なお)官を置きて居守(きょしゅ)せしむ。
巡は瑤水の遠きに非ず、 跡は 是 雕牆(ちょうしょう)の後(のち)なり。』
我行きて時の危(あやう)きに属す、仰望(ぎょうぼう)して嗟嘆(さたん)すること久し。
天王(てんのう)太白(たいはく)に狩(かり)す、馬を駐(とど)めて更に首を掻く。』


(現代語訳)
隋国の天子(煬帝)は土木(どぼく)運河に懸命になりすぎ、心が荒んだのだ、むかしこんな立派な宮殿をこしらえたのであるが今はこんなに禿げ、崩れ、朽ちてしまった。
もしさきにその国を滅亡させない様にしたのであれば、どうしてこれが我が大唐王朝の所有物となることになったのであろうか。
我が唐では、玄宗になってからは新しく宮殿増修はしていないが、しかしそれでも管理の官を置いて留守番をさせているのだ。
時々天子も御巡幸になるが、それが穆王が西王母に会うために遠方へおでかけになるということではないということであっても、この離宮の史蹟、隋がやった雕牆の奢侈の後をうけてやっているだけなのだ。
自分のこの旅をしているちょうど今は、時世の危急な時なのである、この宮殿を仰ぎ望んで長い溜息をつき、この不安な世の中を嘆くのである。
今、天子の粛宗は太白山のある地方に巡狩されるように魚在所におわす。そんなことを考えて自分の乗っている馬の足を留めて、首をかきつつ立ち去りがたい気持ちでいるのだ。


(訳注)
荒哉隋家帝、製此今頹朽。

荒(こう)なる哉(かな) 隋家(ずいか)の帝(てい)、 此を製(せい)して今頹朽(たいきゅう)せり。
隋国の天子(煬帝)は土木(どぼく)運河に懸命になりすぎ、心が荒んだのだ、むかしこんな立派な宮殿をこしらえたのであるが今はこんなに禿げ、崩れ、朽ちてしまった。   
 「尚書」五子之歌に色荒、禽荒の文字がある、荒とはその事に耽って精神の迷い乱れることをいう。・隋家帝 隋の腸帝をいう。604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された。即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感(煬帝を擁立した楊素の息子)は九族に至るまで処刑されている。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。・ この離宮をさす。 ・頹朽 漆がはげ、くずれ、くちる。実際にはこの離宮に飲み水が不足しており、利用しなかったのだ。


向使國不亡,焉為巨唐有。
向(さき)に国をして亡びざら使(し)めば 焉(いずくんぞ)ぞ巨唐(きょとう)の有(ゆう)と為(な)らん。  
もしさきにその国を滅亡させない様にしたのであれば、どうしてこれが我が大唐王朝の所有物となることになったのであろうか
 衛と同じ ・巨唐 大唐、大は自ずから尊ぶ辞。 ・ もちもの。


雖無新增修、尚置官居守。
新(あらた)に増修(ぞうしゅう)する無しと雖(いえど)も 尚(なお)官を置きて居守(きょしゅ)せしむ。
我が唐では、玄宗になってからは新しく宮殿増修はしていないが、しかしそれでも管理の官を置いて留守番をさせているのだ。
新増修 唐になってからの増築、修理 ・置官 詔官を設け置く。総監一人、副監一人、丞・簿・録事各々一人があった。○居守 ここにいて番をする。
 
巡非瑤水遠、跡是雕牆後。
巡は瑤水の遠きに非ず、跡は是雕牆(ちょうしょう)の後なり。
時々天子も御巡幸になるが、それが穆王が西王母に会うために遠方へおでかけになるということではないということであっても、この離宮の史蹟、隋がやった雕牆の奢侈の後をうけてやっているだけなのだ。
 巡幸、天子がここへこられること。 ・瑤水遠 瑤水は瑤池、西王母の国に在り、周の穆王が天下をめぐって西王母と瑤池に会した。・ 古跡。 ・雕牆後 雕牆とは土塀をうつくしく飾り画くこと。この離宮は避暑のためとはいえ使用されないものであり、隋王朝のおごりの象徴であった。後とは唐は隋の雕牆のおごりのあとをうけたことをいう。


我行屬時危,仰望嗟嘆久。
我行きて時の危(あやう)きに属す、仰望(ぎょうぼう)して嗟嘆(さたん)すること久し。
自分のこの旅をしているちょうど今は、時世の危急な時なのである、この宮殿を仰ぎ望んで長い溜息をつき、この不安な世の中を嘆くのである。
 つく、であうこと。


天王狩太白,駐馬更搔首。
天王(てんのう)太白(たいはく)に狩(かり)す、馬を駐(とど)めて更に首を掻く。
今、天子の粛宗は太白山のある地方に巡狩されるように魚在所におわす。そんなことを考えて自分の乗っている馬の足を留めて、首をかきつつ立ち去りがたい気持ちでいるのだ。
天王狩太白 天王は粛宗をさす。太白は武功県にある山の名。狩とは実際に狩りをするのではなく、借りて粛宗が鳳翔の行在所におわすことをいう。・掻首 首をかく、この掻首は蜘厨(ためらうさま)の意として用いている。
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徒步歸行 杜甫 雑言古詩
至徳二載 757年 46歳


杜甫詩、杜甫の人生を語る「北征」期の重要な作品。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言古詩)
970晚行口號 鄜州へ赴く途中で、日ぐれにあるきながら口ずさんだ詩。
971徒步歸行 鄜州へ赴く出発の詩
972九成宮  鄜州へ赴く途中、九成宮のほとりを経過して作った詩である。
973玉華宮  鄜州へ赴く途次其の地をすぎて作る。
974行次昭陵鄜州へ帰る途すがら昭陵のほとりにやどって作る。
975北征 五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鄜州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鄜州に到著して以後に作ったもの。

977
978
979

羌村三首・黄土高原の雄大な夕景色。夕刻に到着。
・家族全員無事、秋の装い、豊作であった。
・村の長老たちと帰還の祝い。 
981重經昭陵帰り道、第二回に昭陵の地を経過したとき作る。
ID詩題摘要  (至徳二載 秋~冬 757年 杜甫46歳 五言律詩)
980收京三首王朝軍の手に長安を奪回したことを聞きつけてにつけて作る。製作時は至徳二載十月末~十一月初めの作。
粛宗に徹底して嫌われ、居場所がなく、家族を向かえに山中の道を行く。疎外された朝廷を後にするがすさまじい孤独感が詩全体にあふれる。
朝廷におけるいきさつについては下のブログ参照。

述懐 #1 杜甫 杜甫特集700- 178

述懐 #2 杜甫 杜甫特集700- 179

述懐 #3 杜甫 杜甫特集700- 180




徒步歸行
五言明公壯年值時危,經濟實藉英雄姿。
五言の仁義の言葉をいうべき玄宗皇帝も盛んなる年齢になってからこんなに危機を迎えてしまった。国の財政は実に上手にやっていた、その姿は英雄のようであった。
國之社稷今若是,武定禍亂非公誰。
この国、唐の天下はかくのようになっている、武力で平定されるところがこんな禍のある乱がおこってしまって天子をだれかわからないことになっている。
鳳翔千官且飽飯,衣馬不復能輕肥。」
鳳翔の行在所にあまたの官僚がいるのだが、自分の職に対して馴れ飽きてきている、文人も軍人も普段の生活のことばかりで国の財政体制が軽減されたり、強化されたりかいかくしていくことをしてこなかった
青袍朝士最困者,白頭拾遺徒步歸。
下級官僚のこの制服を着て このもっとも貧窮しているものがいる白髪の頭をして左拾位の職をもっているが 歩いて家族を迎えに帰っているのである。
人生交契無老少,論交何必先同調。
人生は約束をして交わりをしている老人と少年はいないのだ。自分の意見を交わらせてどうして必ずまず同調しないといけないのか
妻子山中哭向天,須公櫪上追風驃。」

妻子は奥まった山の中にいる、天に向かって泣き叫ぶのだ。そうすればなり立ての粛宗は元気いっぱいで、羽囘馬のように風に追われているのである。

五言 明公 壯年にして時危きに值する,經濟 實藉英雄の姿。
國 之を社稷し今是の若し,武定 禍亂し 公 誰あらざらん。
鳳翔千官 且 飯に飽く,衣馬 復 能く輕肥せざる。
青袍の朝士 最も困する者,白頭の拾遺 徒步にて歸る。
人生 交契し 老少無し,論交 何んぞ必ず 先ず同調するや。
妻子 山中 天に向いて哭す,須公 櫪上 驃風に追う。
五言 明公 壯年にして時危きに值する,經濟 實藉英雄の姿。


DCF00218


現代語訳と訳註
(本文)

五言明公壯年值時危,經濟實藉英雄姿。
國之社稷今若是,武定禍亂非公誰。
鳳翔千官且飽飯,衣馬不復能輕肥。」
青袍朝士最困者,白頭拾遺徒步歸。
人生交契無老少,論交何必先同調。
妻子山中哭向天,須公櫪上追風驃。」


(下し文)
五言 明公 壯年にして時危きに值する,經濟 實藉英雄の姿。
國 之を社稷し今是の若し,武定 禍亂し 公 誰あらざらん。
鳳翔千官 且 飯に飽く,衣馬 復 能く輕肥せざる。
青袍の朝士 最も困する者,白頭の拾遺 徒步にて歸る。
人生 交契し 老少無し,論交 何んぞ必ず 先ず同調するや。
妻子 山中 天に向いて哭す,須公 櫪上 驃風に追う。


(現代語訳)
五言の仁義の言葉をいうべき玄宗皇帝も盛んなる年齢になってからこんなに危機を迎えてしまった。国の財政は実に上手にやっていた、その姿は英雄のようであった。
鳳翔の行在所にあまたの官僚がいるのだが、自分の職に対して馴れ飽きてきている、文人も軍人も普段の生活のことばかりで国の財政体制が軽減されたり、強化されたりかいかくしていくことをしてこなかった
この国、唐の天下はこのようになっている、武力で平定されるところがこんな禍のある乱がおこってしまって天子をだれかわからないことになっている。
下級官僚のこの制服を着て このもっとも貧窮しているものがいる 白髪の頭をして左拾位の職をもっているが歩いて家族を迎えに帰っているのである。
人生は約束をして交わりをしている老人と少年はいないのだ。自分の意見を交わらせてどうして必ずまず同調しないといけないのか。
妻子は奥まった山の中にいる、天に向かって泣き叫ぶのだ。そうすればなり立ての粛宗は元気いっぱいで、羽囘馬のように風に追われているのである。

banri11

(訳注)
五言明公壯年值時危,經濟實藉英雄姿。
五言 明公 壯年にして時危きに值する,經濟 實藉英雄の姿。
五言の仁義の言葉をいうべき玄宗皇帝も盛んなる年齢になってからこんなに危機を迎えてしまった。国の財政は実に上手にやっていた、その姿は英雄のようであった。
五言 仁、義、礼、知、信にかなった言葉。五言でなる詩、五言絶句、五言律詩、五言古詩。語でわかるような表現。古詩の場合、同じ調子が繰り返される。○明公 あなた様。身分の高い人を指す。值(値). 名詞. 1.値段; 2.〈数〉値. 動詞. 1.値する; 2.意義がある; 3.…に当たる; 4.順番に仕事に当たる.○實藉 実に経済上の供給をうまくやる


國之社稷今若是,武定禍亂非公誰。
國 之を社稷し今是の若し,武定 禍亂し 公 誰あらざらん。
この国、唐の天下はかくのようになっている、武力で平定されるところがこんな禍のある乱がおこってしまって天子をだれかわからないことになっている。
社稷 唐の天下をいう。○禍亂 反乱軍の禍


鳳翔千官且飽飯,衣馬不復能輕肥。」
鳳翔千官 且 飯に飽く,衣馬 復 能く輕肥せざる。
鳳翔の行在所にあまたの官僚がいるのだが、自分の職に対して馴れ飽きてきている、文人も軍人も普段の生活のことばかりで国の財政体制が軽減されたり、強化されたりかいかくしていくことをしてこなかった


青袍朝士最困者,白頭拾遺徒步歸。
青袍の朝士 最も困する者,白頭の拾遺 徒步にて歸る。
下級官僚のこの制服を着たこのもっとも貧窮しているものがいる 白髪の頭をして左拾位の職をもっているが歩いて家族を迎えに帰っているのである。
青袍 書生乃至は下級の官にいる者の服。○朝士 朝廷の下級官僚。○白頭 白髪頭。このころの杜甫が白髪の語を使う場合、心の中に反発心を持っている場合が多い。ここでは、いかに白髪とはいえ、年寄扱いをするなという意。○拾遺 杜甫の職名。


人生交契無老少,論交何必先同調。
人生 交契し 老少無し,論交 何んぞ必ず 先ず同調するや。
人生は約束をして交わりをしている老人と少年はいないのだ。自分の意見を交わらせてどうして必ずまず同調しないといけないのか

妻子山中哭向天,須公櫪上追風驃。」
妻子 山中 天に向いて哭す,須公 櫪上 驃風に追う。
妻子は奥まった山の中にいる、天に向かって泣き叫ぶのだ。そうすればなり立ての粛宗は元気いっぱいで、羽囘馬のように風に追われているのである。
須公 しばらくの間の皇帝。なり立ての天子。○櫪上 元気のある馬を意味する。・はうまやのふみ板。○伏櫪 魏の曹操の詩に「老僕伏櫪」とみえる。櫪に伏すとは老馬をいう。


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