漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

2011年05月

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

金陵酒肆留別  李白 7

 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着く。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡である。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いている。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあり、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があ。そして酒旗高楼が林立している。


李白 7

金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし  酒場は香ばしい匂いで満ちる
          呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
金陵の若者たちは  集まって別れの宴を開いてくれ
       行こうとするが立ち去りがたく  心ゆくまで杯を重ね合う
請君試問東流水、別意与之誰長短。

どうか諸君  東に流れる水に尋ねてくれ
           別れのつらさとこの水は  どちらが深く長いかと


風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし  酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは  集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく  心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君  東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は  どちらが深く長いかと


 李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流した。半年近く滞在した後、726年開元十四年、暮春に舟を出し、さらに東へ進む。詩は金陵を立つ時の別れの詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれる。


韻は、香、送、觴。/嘗、短。

金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短


(下し文)
金陵の酒肆にて留別す
風は柳花(りゅうか)を吹きて  満店香(かん)ばし
呉姫(ごき)は酒を圧して  客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵の子弟(してい)  来りて相い送り
行かんと欲して行かず  各々觴(さかずき)を尽くす
請う君  試みに問え  東流(とうりゅう)の水に
別意(べつい)と之(これ)と  誰か長短なるやと


李白の詩 連載中 7/12現在 75首

2011・6・30 3000首掲載
漢文委員会 ホームページ それぞれ個性があります。
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李商隠の女詞特集ブログ連載中

漢文委員会のブログとHP

1. ここ十日間程度PCの調子が悪くレジスタでの修正と削除などで数日かかって本日夕方からやっとホームページの作成ができるようになりました。現在、サイト全体で500ページ、まだ、ドーム球場のホームベース盤くらいしかできていません。希望を大きく持ってサイトつくりをやっています。目標漢詩ページ100万ページ!。一生かかると思います。(2011.6/30 3000首を超えました)
いま、公開しているサイトは以下の通りです。
(1) 漢詩総合サイト 漢文委員会 漢詩ZERO          http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/
(2) 漢詩倶楽部 ショパンやモーツワルト、ヴィバルディを聞きながら、漢詩を読むページ
            ジオシティーズ漢詩倶楽部           http://3rd.geocities.jp/miz910yh/
(3) 漢詩総合サイト 漢文委員会kanbun-iinkai           http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/       
(4) 漢詩サイト 漢文委員会kanbun-iinkai  fc2倶楽部   http://kanbuniinkai.web.fc2.com/
(5) 漢詩総合サイト 漢文委員会kanbun-iinkai        http://www47.atwiki.jp/kanbuniinkai11/

 昔書かかれた漢詩は、たくさん残っています。ただ訳して紹介するだけでなく。その背景とか、傾向、影響・・・・総合的にとらえていきたいと考えています。

2.  今日は漢文委員会のサイトを紹介しましたが、基本的な考え方について整理します。
 中国唐時代宋時代、漢詩は最大の発展をしました。杜甫、李白、王維、孟浩然は同時期の詩人ですが一つの街で同時期に過ごしているのです。お互いの良さをたたえあい、尊敬しあって、偉大な詩が多く作られ、残されたのです。漢詩は、諸々の決まりで作られていますが、漢詩のいいところは決まり事ではありません。中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する・・・・・・・理想を述べているのです。素敵な詩をたくさん載せます。今までの漢詩のページとちょっと違っています。きっと楽しくなると思います。そして、漢詩はたくさん残されていますが、紹介されているのは少しだけです。昔の時代に作られたものをこの漢詩のサイトに一つ一つ積み上げるように紹介していきます。

 新しい感覚で、古い時代の詩歌を解釈していきます。

 その詩歌の作られた背景を考え、解説をしていきます。

 その詩が理解できたら、あるいは好きになったら、誰かに出す、「お手紙」「メール」などの季節の言葉に変えて、書き込まれたら、相手の方のあなたに対しての好感度は高くなるし、手紙を書く楽しさが増します。心豊かになると思います。

 漢詩を学校で、勉強で習った時に、好きになった人は少ないと思います。問題は文法のとらえ方、教え方にあり、読み方にあるのです。英語の学習に文法ほどつまらないものはありませんでした。

 文法が要らないというわけではなく、高度に正しく理解するために必要なのであり、漢詩を読むのに好きになるのに必要ではないのです。

 日本人は漢字を見て、意味が分かります。読むことができるのです。だから、江戸時代の人は、江戸時代の言葉で呼んだのです。江戸や明治ではないので、21世紀の漢詩の読み方、感じ方でページを作っていきます。

3. 詩人は、生きていく力が強い人、困難な状況を経験すればするほど、心に残る詩を残しています。画家も、音楽家も、その世界を革新し、打ち勝っていく力を芸術にぶつけています。人まねをした詩もたくさんありますが、心を打たれることはありまません。また、貧乏こそが、その芸術性を高めてくれる栄養素化もしてません。

4. ホームページ作成ソフトは ソースネクストの HP ZERO を使い始めました。まさに目から鱗がとれた感じで作成できます。HPビルダーも使用しています。このブログで、時々 HPZERO、HPビルダーなどにも触れていきたいと思っています。



李白の詩 連載中 7/12現在 75首

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 李白の漢詩特集 連載中
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望天門山  李白 6

望天門山 李白 6

 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着く。岳州の州治は岳陽にあり、南に洞庭湖が広がっている。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあったので、まるで海だ。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩く。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行った。

望天門山          

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
天門山を割って楚江はひらけ、紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

両岸の山が   相対してそば立つなか、帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた


天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸の山が   相対してそば立つなか
帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた


 夏の終わりに、呉指南が湖上で急死。李白は旅の友を失い悲しみに打ちひしがれる。友の遺体を湖畔に埋葬して旅を続ける。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着く。鄂州の江夏県城は大きな街だ。ここで暫く体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かった。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がある。
 長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆく。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆく。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であった。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆく。
 この詩を詠った時の李白は、帆舟が一艘、天の彼方から進むように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っている。


韻は、開、回、来。

望天門山
天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。


(下し文)天門山を望む
天門(てんもん)  中断して楚江(そこう)開き
碧水(へきすい)  東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸の青山(せいざん)  相対して出で
孤帆(こはん)  一片  日返(にっぺん)より来(きた)る

渡荊門送別 李白 5

渡荊門送別 李白 5

 湖北地方に出た李白らが、足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)だ。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分された大城である。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であった。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流して翌年の春までを過ごす。


李白 5 
渡荊門送別       

荊門を渡って送別す
渡遠荊門外、来従楚国遊。
遠く荊門に外までやってきた、はるばると楚の国へ旅をする
山随平野尽、江入大荒流。
平野が広がるにつれ  山は消え去り、広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月下飛天鏡、雲生結海楼。
月が傾けば  天空の鏡が飛ぶかとみえ、雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
仍憐故郷水、万里送行舟。

だがしかし   しみじみと心に沁みる舟の旅、故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ



荊門を渡って送別す
遠く荊門に外までやってきた、はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ  山は消え去り、広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月が傾けば  天空の鏡が飛ぶかとみえ、雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
だがしかし   しみじみと心に沁みる舟の旅、故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ


 李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。
725年 開元十三年の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩。
 李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせ、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませる。


韻は、遊、流、楼、舟。

渡荊門送別       
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。


(下し文)渡荊門送別 李白 5
渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来りて従う  楚国(そこく)の遊(ゆう)
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月は下りて  天鏡(てんきょう)飛び
雲は生じて  海楼(かいろう)を結ぶ
仍お憐れむ  故郷の水
万里  行舟(こうしゅう)を送るを


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李白の詩 連載中 7/25現在 100首

2011・6・30 3000首掲載
漢文委員会 ホームページ それぞれ個性があります。
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李商隠の女詞特集ブログ連載中
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 李白の漢詩特集 連載中
kanshiblog460李白 毎日書いています。

秋下荊門 李白 4

秋下荊門 李白 4
七言絶句
 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができた。あたりははや晩秋の気配。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といった趣き。蜀の東方、湖北・湖南地方への出口ということになる。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた、帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。


こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない、名山を愛し  剡渓の奥へ分け入るのだ

霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し  剡渓の奥へ分け入るのだ


 李白はここで、ひとつの決意を口にしている。これからの旅は名高い寺を訪ねて勉強をし、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んだ。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名であった。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいのが李白のおもいであった。

韻は、空、風、中。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。


(下し文)秋 荊門を下る
霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆(ふはん) 恙(つつが)無く  秋風に挂(か)く
此の行(こう)  鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自ら名山を愛して剡中(せんちゅう)に入る


江行寄遠 李白 3

江行寄遠 李白 3

江行寄遠        

江行して遠くに寄す
刳木出呉楚、危槎百余尺。
小舟を準備し呉楚の地へ旅立つ、危ないと思うほど大きくてぼろ舟。。
疾風吹片帆、日暮千里隔。
疾風は帆をはらんでくれる、一日で千里、進ませる
別時酒猶在、已為異郷客。
別れの時の酒がまだ残っているほどなのに、こころはすでに異郷の旅人となる
思君不可得、愁見江水碧。

君を思うが会うことはできない、愁い心でみるのは江水の碧(みどり)だ


江行して遠くに寄す、
小舟を準備し呉楚の地へ旅立つ、危ないと思うほど大きくてぼろ舟。
疾風は帆をはらんでくれる、一日で千里、進ませる
別れの時の酒がま残っているほどなのに、ころはすでに異郷の旅人となる
君を思うが会うことはできない、愁い心でみるのは江水の碧(みどり)だ


 この詩は嘉州を過ぎて戎州(四川省宜賓市)へ向かうあたりでの作。題に「寄遠」(遠くに寄す)とある。故郷の家族に送ったのだ。
 自信をもっとぃる詩を武器とはいえ当てもない旅なのだ。普通、官吏の場合は一日に一駅亭が設けられている。

以上を http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/  >   李白詩 01と李白02 で見ることができる。
   又 http://3rd.geocities.jp/miz910yh/  > 李白詩 01で見れる
 両サイト趣が違うので時々見てください。

 李白は遊学が目的。一般人には駅亭の利用は認められていないので、中国では「抱被」(ほうひ:旅をするのに、寝具、着替えや炊飯用具まで持っていくのが当たり前とはいえ、荷物は相当な量になる。
 李白は更に愛用の琴と剣を持参している。長江を利用しての船旅になる。

 初句に「刳木」(こぼく)とあるのは、「刳り舟を造ること」から、唐代では船旅の準備をする意味である。李白は父親から長さ30mの小舟を用意してもらったのだ。「危槎 百余尺」と言っていますので30m余の舟ということになる。長江の流れと、風を受けて一日千里も進んだ。故郷に美人の彼女を残している。「君を思うけど逢えない」と書いて送ったのだ。
 男は立身出世をして、故郷に錦を飾るのが仕事、女は、それをじっと耐えて待つのが美徳とされていた。千三百年前の話だ。人間扱いされる1割か2割階級の話だが、残りの人は律令体制だから、均田制で農地を与えられ、農作物の半分以上と別に府兵制で一家に一人の兵役をさせられる。したがって、一般の家庭でも働き頭は女性だったのだ。


韻は、尺、隔、客、碧。

刳木出呉楚、危槎百余尺。
疾風吹片帆、日暮千里隔。
別時酒猶在、已為異郷客。
思君不可得、愁見江水碧。


(下し文)
刳木(こぼく)して呉楚(ごそ)に出(い)づ
危槎(きさ)  百余尺
疾風  片帆(へんぱん)を吹き
日暮(にちぼ)  千里を隔(へだ)つ
別時(べつじ)の酒  猶お在り
已に異郷の客と為(な)る
君を思えども得(う)可からず
愁(うれ)えて見る  江水の碧(へき)


 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができた。あたりははや晩秋の気配。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といった趣き。蜀の東方、湖北・湖南地方への出口ということになる。

李白4

4.秋下荊門
     216 李白 
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。

霜は荊門に降り岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し  剡渓の奥へ分け入るのだ

 李白はここで、ひとつの決意を口にしている。これからの旅は名高い寺を訪ねて勉強をし、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んだ。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名であった。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいのが李白のおもいであった。

韻は、空、風、中。

秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入剡中。

秋 荊門を下る
霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆(ふはん) 恙(つつが)無く  秋風に挂(か)く
此の行(こう)  鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自ら名山を愛して剡中(せんちゅう)に入る


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 湖北地方に出た李白らが、足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)だ。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分された大城である。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であった。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流して翌年の春までを過ごす。

李白 5 
渡荊門送別       

渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。

荊門を渡って送別す
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ  山は消え去り
広大な天地の間へと  江は流れてゆく
月が傾けば  天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと   蜃気楼が出現したようだ
だがしかし   しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が  万里のかなたへ送るのだ

 李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。
725年 開元十三年の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩。
 李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせ、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませる。

韻は、遊、流、楼、舟。

渡荊門送別       
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。

渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来りて従う  楚国(そこく)の遊(ゆう)
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月は下りて  天鏡(てんきょう)飛び
雲は生じて  海楼(かいろう)を結ぶ
仍お憐れむ  故郷の水
万里  行舟(こうしゅう)を送るを


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 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着く。岳州の州治は岳陽にあり、南に洞庭湖が広がっている。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあったので、まるで海だ。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩く。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行った。

李白 6

望天門山          

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ  北へ向かって曲がる
両岸の山が   相対してそば立つなか
帆舟がぽつり  かなたの天から進んできた

 夏の終わりに、呉指南が湖上で急死。李白は旅の友を失い悲しみに打ちひしがれる。友の遺体を湖畔に埋葬して旅を続ける。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着く。鄂州の江夏県城は大きな街だ。ここで暫く体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かった。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がある。
 長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆく。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆく。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であった。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆく。
 この詩を詠った時の李白は、帆舟が一艘、天の彼方から進むように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っている。

韻は、開、回、来。

天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。

天門山を望む
天門(てんもん)  中断して楚江(そこう)開き
碧水(へきすい)  東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸の青山(せいざん)  相対して出で
孤帆(こはん)  一片  日返(にっぺん)より来(きた)る

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 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着く。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡である。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いている。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあり、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があ。そして酒旗高楼が林立している。


李白 7金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短。

風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし  酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは  集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく  心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君  東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は  どちらが深く長いかと

 李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流した。半年近く滞在した後、726年開元十四年、暮春に舟を出し、さらに東へ進む。詩は金陵を立つ時の別れの詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれる。

韻は、香、送、觴。/嘗、短。

金陵酒肆留別          
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短

金陵の酒肆にて留別す
風は柳花(りゅうか)を吹きて  満店香(かん)ばし
呉姫(ごき)は酒を圧して  客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵の子弟(してい)  来りて相い送り
行かんと欲して行かず  各々觴(さかずき)を尽くす
請う君  試みに問え  東流(とうりゅう)の水に
別意(べつい)と之(これ)と  誰か長短なるやと

 
李白の詩 連載中 7/12現在 75首

2011・6・30 3000首掲載
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峨眉山月歌 李白 2

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李白は一定の学問を終えると、山を降りて地元の知識人や道士と交わり、蜀地を遊歴して見聞を広める。
 721年 李白が二十歳になったとき、礼部尚書(正三品)をしていた蘇頲(そてい)が左遷され、成都にあった益州大都督府の長史(次官)になって綿州のあたりを通りかかる。李白は自作の詩を蘇頲に披露して文才を認めてもらおうと試みますが、蘇頲は李白の才能を認めた。
 723年 二十三歳のころには、広漢(四川省梓橦県)の太守(刺史)が李白を貢挙の有道科に推薦しようとしましたが、李白は断っています。李白には貢挙を受けられない事情があった。したがって詩文の才能で官に就くことを目指していた。
 724年 開元十二年秋、二十四歳の李白が蜀を離れて江南に向かったのも、官途につく早道と考えたものである。


 成都の壁下を錦江が流れ、錦江が成都の西を流れる岷江(みんこう)に合流してすぐ、清渓(地名)という渡津(としん)がある。詩はその渡し場を船出した時の作品で、峨眉山(がびさん)に半月がかかっているのを見ながら、故郷との別れの感慨を詠うものだ。
 「三峡」は有名な長江の大三峡ではなく、嘉州(四川省楽山市)にあった小三峡のようだ。「平羌江」と岷江の一部で別の川ではない。最後の句の「君」については、恋人と、月とに掛けている。
 なお、船出の地ははっきりしていない。成都の錦江にある渡津だ。船出してすこし落ち着いたころ清渓を通過し、詩を作る。船出して最初の旅の目的地は、渝州(重慶市)だ。

李白 2
  
峨眉山月歌         

峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流。
峨眉山にかかる秋の半輪の月、  月のひかりは平羌江に映ってきらきらと流れゆく
夜発清渓向三峡、思君不見下渝州。
 

夜中に清渓を船出して三峡にむかう
この美しい月をもっと見続けていたいと思うが(船が下ると山の端に隠れ)船は渝州にくだる


峨眉山にかかる秋の半輪の月
  月のひかりは平羌江に映ってきらきらと流れゆく
夜中に清渓を船出して三峡にむかう
この美しい月をもっと見続けていたいと思うが(船が下ると山の端に隠れ)船は渝州にくだる


韻は、秋、流、州。

峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流。
夜発清渓向三峡、思君不見下渝州。 

峨眉山月の歌
峨眉 山月  半輪(はんりん)の秋
影は平羌(へいきょう)の江水(こうすい)に入って流る
夜  清渓(せいけい)を発して三峡に向かう
君を思えども見えず  渝州(ゆしゅう)に下る

(1)漁父辞 屈原 李白に影響を与えた詩

(1)漁父辞 屈原 李白に影響を与えた詩
 屈原 紀元前343年-紀元前277年 戦国時代に楚の懐王に仕えて、内政、外交に手腕を発揮した。
楚、斉は秦の脅威にさらされていたので、屈原は楚、斉が同盟して秦に対抗する策を推進した。他方、秦の保護下に入って安全を図る連衡を主張する勢力も強く、国論は二分していました。
 このとき、秦は楚を孤立させ、屈原を追放させ、楚斉同盟を破棄させ、はては、楚は滅亡することになる。
 懐王は屈原を再起用して態勢挽回を図るが、秦は懐柔策に出、懐王を呼び寄せ、屈原を再び追放される。屈原は、滅び行く祖国の前途を見るに忍びず、泪羅(ベキラ)の淵に入水自殺することになる。
 屈原は優れた政治家であったばかりでなく、大詩人でもありました。「楚辞」と呼ばれる詩は彼の創始によるもので、後世の詩に絶大な影響を与えた。
 屈原の詩の代表作は「離騒」「九歌」「天問」「九章」がある。



漁父辞
屈原既放  游於江潭
行吟澤畔  顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與 何故至於斯

屈原曰
與世皆濁  我独清
衆人皆酔  我独醒
是以見放  

漁父曰
聖人不凝滞於物  而能與世推移
世人皆濁  何不乱其泥
而揚其波  衆人皆酔
何啜其汁  何故深思高挙
自令放為

屈原曰
吾聞之  新沐者必弾冠
新浴者必振衣  安能以身之察察
受物之紋紋者乎  寧赴湘流
葬於江魚之腹中  安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎  漁父莞爾而笑
鼓枻而去

乃歌曰
滄浪之水清兮  可以濯吾纓
滄浪之水濁兮  可以濯吾足

 屈原は放逐されて江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。

「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」

 屈原は言った。

「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ」

 漁夫は言った。

「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろうとなされませぬ。なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」

 屈原は言った。

「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」

 漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。

「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」

 そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。

訪載天山道士不遇 李白1

訪載天山道士不遇 李白1
■ 李白の父親の身分・職業については何もわかっていない。一般的に、李白の家は異民族の出で、西域から蜀に移り住んできたということになっている。本当に異民族なのか、身分的な問題のある出自なのかわかるものは残っていないようだ。
 しかし、李白には兄と弟がいたが、李白だけが教育を受けてけている。教育を受けることは、官吏を目指すことだ。
 李白は幼いときから頭がよく、父親にこの子に教育をさずけて官吏にしようという気持ちと必要な資金があった。知識人になるためには字を学び書を読む必要がある。学問をするためには寺院にこもって、その蔵書を読む必要があった。


李白 1
訪載天山道士不遇   
載天山の道士を訪ねて遇わず
犬吠水声中、桃花帯露濃。
犬の吠え声は谷川の流れる音にまじって静かである。桃の花びらは  露に濡れてより鮮やかになる。
樹深時見鹿、渓午不聞鐘。
木立は深いのでときおり鹿の姿を見かける、谷川には  正午になっても鐘の音が聞こえない。
野竹分青靄、飛泉挂碧峰。
野竹の林は青い靄を分かつように立っている。滝の飛沫(しぶき)が緑の峰にかかっている。
無人知所去、愁倚両三松。
道士は行く先を知る人はいない、悲しい思いで二、三本集まった松の木に寄りかかった。


●載天山の道士を訪ねて遇わず
犬の吠え声は谷川の流れる音にまじって静かである。桃の花びらは  露に濡れてより鮮やかになる。
木立は深いのでときおり鹿の姿を見かける、谷川には  正午になっても鐘の音が聞こえない。
野竹の林は青い靄を分かつように立っている。滝の飛沫(しぶき)が緑の峰にかかっている。
道士は行く先を知る人はいない、悲しい思いで二、三本集まった松の木に寄りかかった。

訪載天山道士不遇
○載天山 四川省彰明県の北にある山。別名として、大康山、康山、大匤山、とある。李白が少年時代、読書をしたところ。○道士 道教の修行につとめ、その祭儀を執り行う専門家。道家。 ・神仙の術を行う人。仙人。方士。 ○不遇 隠遁者の生活環境は「閑」であり、「静」である。会えないのが基本。 *陶淵明の詩のイメージを借りている。

犬吠水声中、桃花帯露濃。
犬の吠え声は谷川の流れる音にまじって静かである。桃の花びらは  露に濡れてより鮮やかになる。
犬吠 静寂を示す。猿が鳴くのは、愁いを示す。鳥が鳴くのはうるさいことを示す。 

樹深時見鹿、渓午不聞鐘。
木立は深いのでときおり鹿の姿を見かける、谷川には  正午になっても鐘の音が聞こえない


野竹分青靄、飛泉挂碧峰。
野竹の林は青い靄を分かつように立っている。滝の飛沫(しぶき)が緑の峰にかかっている。

無人知所去、愁倚両三松。
道士は行く先を知る人はいない、悲しい思いで二、三本集まった松の木に寄りかかった。

●載天山の道士を訪ねて遇わず
犬は吠(ほ)ゆ  水声(すいせい)の中(うち)
桃花(とうか)は露を帯びて濃(こま)やかなり
樹(き)は深くして  時に鹿を見(み)
渓(たに)は午(ご)にして  鐘(かね)を聞かず
野竹(やちく)は青靄(せいあい)を分け
飛泉(ひせん)は碧峰(へきほう)に挂(か)かる
人の去(ゆ)く所を知る無し
愁(うれ)えて倚(よ)る  両三松(りょうさんしょう)


 李白は十八歳のころには郷里の近くにあった載天山の大明寺に下宿して読書に励んでいる。
詩は載天山に道士を訪ねていって会えなかったときのもので、十六、七歳で本格的に学問をはじめたころの作品。こまやかな観察と少年のころの李白の淳朴な姿が写し出されていて、初期の習作のなかでは佳作に属する微笑ましい詩だ。しかし、厳密にいえば詩才は十分に感じられるが、他の詩人の若き頃の作品と比較すると技巧的には抜群で、レベルは非常に高いところにあるが若さに欠ける感じを受けるのは私だけだろうか。もう一つ「隠者を訪ねて隠者に会えず」という設定はやはり若者の発想ではないような感じがしてならない。

韻は、中、濃、鐘、峰、松。

犬吠水声中、桃花帯露濃。
樹深時見鹿、渓午不聞鐘。
野竹分青靄、飛泉挂碧峰。
無人知所去、愁倚両三松。

犬は吠(ほ)ゆ  水声(すいせい)の中(うち)
桃花(とうか)は露を帯びて濃(こま)やかなり
樹(き)は深くして  時に鹿を見(み)
渓(たに)は午(ご)にして  鐘(かね)を聞かず
野竹(やちく)は青靄(せいあい)を分け
飛泉(ひせん)は碧峰(へきほう)に挂(か)かる
人の去(ゆ)く所を知る無し
愁(うれ)えて倚(よ)る  両三松(りょうさんしょう)

717年 開元5年 17歳 載天山に隠れる。
718年 開元6年 18歳 
719年 開元7年 19歳 ・李白 豪放で恬淡な生活。任侠徒に加わり殺傷させる。
720年 開元8年 20歳 蘇頲に認められる。
721年 開元9年 21歳 成都、峨眉山に遊ぶ。
722年 開元10年 22歳 2 岷山に隠れる。
723年 開元11年 23歳 
724年 開元12年 24歳  ・李白 蜀を発。江陵、洞庭湖など巡る。「峨眉山月歌」


李白の詩 連載中 7/12現在 75首

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