宮中行樂詞八首其一 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白143
宮中行楽詞 其一
小小生金屋、盈盈在紫微。
小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
山花插寶髻、石竹繡羅衣。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
每出深宮里、常隨步輦歸。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
只愁歌舞散、化作彩云飛。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。
小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。
宮中行楽詞一其の一
小小にして 金屋に生れ、盈盈として 紫微に在り。
山花 宝撃に挿しはさみ、石竹 羅衣を繡う。
深宮の裏每び出ず、常に歩を肇めて歸るに従う。
只だ愁う 歌舞の散じては、化して綜雲と作りて飛ばんことを
○宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。唐代の逸話集である孟棨の「本事詩」には、次のような話がある。
玄宗皇帝があるとき、宮中での行楽のおり、側近の高力士にむかって言った。「こんなに良い季節、うるわしい景色を前にしながら、単に歌手の歌をきいてたのしむだけでは物足りぬ。天才の詩人が来て、この行楽を詩にうたえば、後の世までも誇りかがやかすことであろう」と。そこで、李白が召されたのだ。李白はちょうど皇帝の兄の寧王にまねかれて酒をのみ、泥酔していたが、天子の前にまかり出ても、ぐったりとなっていた。玄宗は、この奔放な詩人に、律詩を十首つくるよう命じた。五言律詩は、対句が基本、最も定型的な詩形である。李白はあまり得意としない詩形であった。玄宗は知っていて、酔っているので命じたのである。そし二、三人の側近に命じて、李白を抱きおこさせ、墨をすらせ、筆にたっぷり警ふくませて李白に持たせ、朱の糸で罫をひいた絹幅を李白の前に張らせた。李白は筆とると、少しもためらわず、十篇の詩を、たちまち書きあげた。しかも、完璧なもので、筆跡もしっかりし、律詩の規則も整っていた。現在は八首のこっている。
小小生金屋、盈盈在紫微。
小さい子供のときから、黄金で飾った家でそだてられ、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。
○小小 年のおさないこと。○金屋 漢の武帝の故事。鷺は幼少のころ、いとこにあたる阿矯(のちの陳皇后)を見そめ、「もし阿舵をお嫁さんにもらえるなら、慧づくりの家(金星)の中へ入れてあげる」と言った。吉川幸次郎「漠の武帝」(岩波誓)にくわしい物語がある。○盈盈 みずみずしくうつくしいさま。古詩十九首の第二首に「盈盈たり楼上の女」という句がある。○紫微 がんらいは草の名。紫微殿があるため皇居にたとえる。
山花插寶髻、石竹繡羅衣。
なでしこの花一輪を、宝で飾った髪のもとどりに挿しはさみ、セキチクの模様のうすぎぬの上衣に刺繍してある。
○寶髻 髻はもとどり、髪を頂に束ねた所。宝で飾りたてたもとどり。○石竹 草の名。和名セキチク。別称からなでしこ。葉は細く、花は紅・自または琶音ごろ開く。中国原産であって、唐代の人もこの花の模様を刺繍して、衣裳の飾りとした。○羅衣 うすぎねのうわぎ。
每出深宮里、常隨步輦歸。
奥の御殿の中から出るごとに、いつも手車のあとについて歩いてゆく。
○歩輩 手車。人がひく車。人力車。
只愁歌舞散、化作彩云飛。
すこし心配になることがある。美女たちが歌をうたい舞いおわってしまったら、そのまま美しい色の雲となって、飛んでゆくのではないかと。
○彩云 いろどり模様の美しい雲。
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