漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

2012年04月

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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種桑 謝霊運<19>  詩集 385

種桑 謝霊運<19>  詩集 385


すなおち、この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははな
はだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、鄭白の渠とは鄭渠と白渠の朧漑により人民は衣食が満ち足りたという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌う。いかにも地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かぶ。
 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。この詩が、いつ、どこで作られたかは不明であるが、政治家謝霊運の一面を語る資料として挙げてみる。

種桑
詩人陳條柯、亦有美攘剔。
(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。
前修爲誰故、後事資紡績。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。
媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。
曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
俾比將長成、慰我海外役。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は海外での役割、戦いをすることで慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。



桑を種える。
詩人は(桑の)條柯【じょうか】を陳【なら】べるに、また攘【はら】い剔【き】って美しくする有り。
前修は誰の故に為す、後の事は紡績に資るのみ。
媿微【きび】は富の教え益ますなり、浮陽は嘉日を騖【はせ】る
桑を蓺えて間隙に迨【およ】ぶ、疎らな欄は近くの郛に発し、長行して広場に達す。
曠【とお】き流れも毖泉【ひせん】に始まり、湎塗【めんと】 猶 跬跡【けいせき】のごとし。
此 長成し、「我を慰むるに海外の役」をもって俾めん

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現代語訳と訳註
(本文) 
種桑
詩人陳條柯、亦有美攘剔。
前修爲誰故、後事資紡績。
媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
俾比將長成、慰我海外役。


(下し文)
桑を種える。
詩人は(桑の)條柯【じょうか】を陳【なら】べるに、また攘【はら】い剔【き】って美しくする有り。
前修は誰の故に為す、後の事は紡績に資るのみ。
媿微【きび】は富の教え益ますなり、浮陽は嘉目を騖【はせ】る
桑を蓺えて間隙に迨【およ】ぶ、疎らな欄は近くの郛に発し、長行して広場に達す。
曠【とお】き流れも毖泉【ひせん】に始まり、湎塗【めんと】 猶 跬跡【けいせき】のごとし。
此 長成し、「我を慰むるに海外の役」をもって俾めん。

(現代語訳)
(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は海外での役割、戦いをすることで慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。


(訳注)
詩人陳條柯、亦有美攘剔。

(植え方)詩人は枝を揃えて並べていく、あるいはまた、枝を選定して美しくするものだ。


前修爲誰故、後事資紡績。
(加工)昔この作業を修業した人は誰のためにしたのであろうか、木が成長した後に、紡績を助けるためにしたのである。


媿微富敎益、浮陽騖嘉日。
(生産性)少しずつでも富となっていくように利益が増えるよう植え方を教えてきたことは大したことではなく、ほんの少し恥ずかしいと思う。日当たりについては、よろしい日々を重ねることである。
媿微 ほんの少し、恥ずかしいと思う。○浮陽 水上に浮かび日光に近づくこと。日光。


蓺桑迨閒隙、疏欄發近郛、長行達廣場。
(手入)桑の木はその間隔を整えることである、粗くていいので、城郭の近くから手すりを設置しなかにいれない、長く広場所まで達するものにするのである。


曠流始毖泉、湎塗猶跬跡。
(灌漑の水)遠くから流れ込むささやかな泉から始まり。なお流れていきその足跡を残して筋を残して沈み込んでいく。
曠流 遥かな遠いさま。○毖泉 『詩経』毖泉篇「毖彼泉水、亦流于淇」(毖【ささや】かなる彼の泉の水も、亦た淇のかわに流【そそ】ぐなり。)大意は泲(せい)・禰(でい)という土地は衛という国から嫁入りした時に経由したところであるという。また干(かん)・言(げん)は衛に里帰りをするならばその地を経由するのである。この2章の語意はもともと同じであるが、その解釈は異なっている。そして干(かん)・言(げん)を衛に里帰りをする時の経由地であるとするならば、「車を旋(かえ)す」は特に適切でないと思われる。「諸姫(しょき)は姪娣(ていてつ)を謂う。姪娣の中に乃ち諸姑伯姊あり」とは、意味が通らない。○ しずみ、のめりこむ。塗 ぬりふさぐ。すじみちとする。○跬跡 かたあしのあと。


俾比將長成、慰我海外役。
(土地を守る)これらのことをこれからとこしえに成功するためには、「我々は辺境の土地での役割、仕事、戦いをすることでまもられ、慰められるものである」ということをしめしておくことなのだ。
 しめる。せしめる。○長成、とこしえにうまくいくように。○海外役 辺境の土地での役割、仕事。


この詩は、治政者として謝霊運が懸命に人民の致治を考え、実践したことを示す。都から離れていても、国を富国強兵で、継続性のあるものにするには、その生産基盤をしっかりとし、生産性を高めなければいけないとしている。そしてそれを末代まで継続する必要があるということで、農耕法をしにしている。根っからの政治家であった。人民のための謝霊運のまじめな努力と一方では、美しい山水の詩人である。この地方で抜群の指示を受けたのも理解できることである。
しかし出るくぎは打たれるというものである謝霊運の仁徳の政治実践は権力者によっては目障りなものとして映るかもしれない。

白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384

白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) #2

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(下し文)#2
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。

(現代語訳)#2
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(訳注)#2
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
涓澮 ちいさいながれ。小さいものの形容。合。連統 連続した筋.○塍埒 堤防。塍はあぜ、埒はつつみ。


雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
荒闕【こうけつ】かって宮殿のあった宮城の門の左右の横にある台が荒れ果てている。○黎萌【れいぼう】。芽吹く前のつぼみの黒い部分。芽吹いていることをいう。


雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
鄭白の渠 中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ。


天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。
天鑒 鑒は人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅・白銅・鉄などの表面に水銀に錫(すず)をまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円・八つ花形などがある。現在のものは、ガラス板の裏面に水銀を塗ってある。○來茲[読み]まさに~すべし;応(應)~ [意味]おそらく(きっと)~だろう。○微誠 わずかな真心。


この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははなはだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、「鄭白の渠」とは鄭渠と白渠の灌漑により人民は衣食が満ち足りるようになったという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌っているのだ。謝霊運が地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かんでくる。

 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。地方の政治家謝霊運の一面を語る資料としてつぎに挙げてみる。

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383

白石巌下径行田詩 #1 謝霊運<18>  詩集 383
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

秋に左遷という謝霊運にとっては何倍もの悲哀を強く感じるものであった。故郷を遠く離れ、知る人もな句、そして、隠棲したい気持ちを持っている謝霊運にとって、放郷への回顧ははなはだしく強かった。それに加え、悲しみからくる食欲不振、混然としたものから生じた白髪をみて、いっそうの寂しさを感じさせたのである。
この気も狂わんばかりの悲しみを、わずかに救ってくれるものは琴を弾ずることであった。この琴を弾ずることは、当時のイソテリの等しく行なうストレス解消法であった。そして、満ちあふれるばかりの美しい山や川を心ゆくまで観賞することも、さらに心の憂いを消すのに大きな功、があった。
 郡守として永嘉に着任した謝霊運は、まだ治者として誇りもあり、その意識も強烈であった。治者としての自覚が強かったのを物語る資料として、「白石巖下徑行田詩」(白石巌下行田を経ふ)の作がある。この「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
小邑居易貧。災年民無生。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
饑饉不可久。甘心務經營。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) 白石巖下徑行田詩 #1
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』

(下し文)
(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。


(現代語訳)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。
古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。


(訳注)
白石巖下徑行田詩

(白石巌下行田を経ふ)
白石山の岩石のもとの田んぼに行きすぎるときの詩


小邑居易貧。災年民無生。
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
ここの小さな村里では住むには貧しくなりやすい、災害の歳には村人は生きていけないのだ。
小邑【しょうゆう】小さい村里。


知淺懼不周。愛深憂在情。」
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
学問、知識はあさくそれが邑全体でなければよいのだが、人の触れ合い、愛情は深く情を以て心配している。


舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
旧業は海の外に横たわり、蕪【あれ】と穢【けがれ】 頹齢【たいれい】を積む。

古くからの生業は海に出て行っている、賤しいことばかりしていて応募れていっているのだ。
○蕪穢 土地が荒れて雑草が生い茂る。転じて賤しいこと。○頹齡 老年。ものが廃れ衰えるように、老いぼれる年齢。


饑饉不可久。甘心務經營。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
飢饉のようなことは久しくあってはならない、何にも考えないで為すがままに生活を営んでいる。


千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
大地は広く遠い所に堤が帯のように横たわっており、万里の長く続く波打ち際は続いている。
千頃 田畑の広いことの形容。○長汀 長い渚。長く続く波打ち際。

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。


 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。


晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
含情尚勞愛,如何離賞心?
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)#2

羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(下し文)#2
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


(現代語訳)#2
旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。


(訳注)#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。

旅の客人はメス鳥のようなもので長く一緒になっている伴侶を恋しく思う、行く先のない迷い鳥は生れ育った古巣の林を懐かしむ。
羈雌 旅の客人はメス鳥


含情尚勞愛,如何離賞心
それに情を含んでいるとすればなおさらねぎらい愛おしむものだ、それなのにどうして科の景色を鑑賞する気持ち、隠棲したい気持ちをすてさることができようか。


撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
鏡を磨きなおしてみてみると黒々としていた髪の毛に白髪が花が咲いたようだ。食欲減退のせいか帯が緩んで襟を整えるのもゆるみが出てきた。
撫鏡 なでる。とる。みがく。みる。文選、宋玉『神女賦序』「於是撫心定氣。」○攬帶 帯が動く。食欲がなく痩せたことで帯が締まらない。


安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』
ただ気ままに程よく詩を詠い、空言をならべている、一人で過ごすわび住いには琴を弾き鳴らすことだけが頼りである。
安排【あんぱい】あるがままに安んじる。具合よく並べる。程よく加減する。


切々として、永嘉城外の秋景を巧みに歌う。特に、秋はとかく物思いに沈むとは、宋玉以降「悲愁」という感覚が歌われた。夏の終わりに、葉が色づき落ち始めるが、同じ時期に、辺境に兵士を送り、男女の別れがあった。秋は、渡り鳥もわたってゆき、空しさを歌うようになった。謝霊運は、左遷で南に来たのだ。

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381
晩出西射堂詩 謝霊運(晩に西射堂を出ず)


 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

 さて、旅路はるかに南の永嘉の郡守に着任した霊運は、その土地の豪族や部下から盛大な出迎えを受け、かつ儀礼的な歓迎の宴会に日々を送ったことと思う。が、そのときには詩人である霊運はいくつかの詩も創作したことであろうけれど、今は伝わっていない。
 永嘉に落ち着いた霊運は、仮住まいとして、永嘉郡の西南の射堂に住いした。
射堂とは弓を射る建物を意味するが、それに付属する建物に住んでいたのである。
そこから美しい山を望んで歌ったものが「晩に西射堂を出ず」の一首である。

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晚出西射堂 謝靈運
《昭明文選•卷二十二》


晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
節往慼不淺,感來念已深。』

秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
#2
羈雌戀舊侶,迷鳥懷故林。
含情尚勞愛,如何離賞心?
撫鏡華緇鬢,攬帶緩促衿。
安排徒空言,幽獨賴鳴琴。』

(晩に西射堂を出ず)
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。
#2 
羈雌【きし】は旧き侶【とも】を恋い、迷鳥は故【もと】の林を懐う。
情を含んで尚お勞【ねぎ】らい愛【いとおし】み、
如何んぞ 賞する心を離れんや。
鏡を撫【と】れば緇【くろ】き鬢【かみ】も華【しろ】く、帯を攬【と】れば促【し】まれる衿も緩【ゆる】し。
安排【あんぱい】 徒【いたず】らに空言【そらごと】をいい、幽独【ゆうどく】 鳴琴【めいきん】に頼るのみ。


現代語訳と訳註
(本文)
#1

晚出西射堂
步出西城門,遙望城西岑。
連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
節往慼不淺,感來念已深。』

(下し文) #1
歩して出で城門に西す、遙かに城の西の岑【みね】を望む。
連なれる障【しきり】は巘崿【けんがく】を畳み、青翠【せいすい】は沓【かさ】なりて深沈【しんしん】たり。
暁霜【あかつきのしも】に楓葉【ふうよう】は丹【あか】く、夕の曛【かげり】に嵐気【らんき】は陰【くも】れり。
節は往きて慼【うれ】いは浅からず、感は来たりて念い已に深し。


(現代語訳)
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。

(訳注)
晚出西射堂

日暮れになって永嘉の西にある射堂を出る。
射堂 弓場。弓を射る建物を意味する。それに付属する建物に住んでいたのであろう。現在その場所に西山寺があるので、寺にある建物ではないか。


步出西城門,遙望城西岑。
徒歩で家を出て永嘉の城門へ西にむかった。城郭の西の向こうに峻険な嶺を眺めている
西 西にする。西に向かう。城門を出て西にむかう。東には太平洋が広がり、半隠遁者の気分になっている謝霊運は、西の方角に興味をひかれたのであろう。この地は温州蜜柑の産地である。○城西岑 城郭の西の向こうにとがった山を見る。


連鄣疊巘崿,青翠杳深沈。
連峰を遮る崖は畳のようにかさなっている、山の緑は茂り重なってうっそうとしている。
巘崿【けんがく】がけ。崖の別名。・巘は大山から別れた小山。○ たたむ。ちじむ。かさなる。詩の作品で重ねて前の韻を用いること。この詩の前半八句にはこれを意識している。「門、岑。崿、沈。丹、陰。淺,深。西、西。」とまさしく畳んでいる。


曉霜楓葉丹,夕曛嵐氣陰。
早朝の霜には楓の葉は赤く色づいている、夕暮れ黄昏時山影の景色は暗くなる。
曉霜楓葉丹 温州は緯度が28度で、陰暦八月の初旬に明け方の霜があるだろうか、山の高い所であっても紅葉するというのは疑いたくなるところである。いずれにしても対句を意識しての詩人的表現である。

節往慼不淺,感來念已深。』
秋の季節は深まっていくと悲愁により涙を流すことはない、ただ、隠棲して谷あいの農村に住みたいと思う気持ちはさらに深くなっていく。
慼不淺 慼は秋の愁い、左遷のみの愁いにより涙を流すことはない。○感來 隠棲して谷あいの農村に住みたいと思いがくる。

七里瀬 #2 謝霊運<16> 詩集 377

七里瀬 #2 謝霊運<16> 377


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

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七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰謂古今殊,異代可同調。

誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。
#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。

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現代語訳と訳註
(本文)
#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

(下し文)#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


(現代語訳)
この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
既に上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。


(訳注)
遭物悼遷斥,存期得要妙。

この時節の風物に遭って、官を左遷され、しりぞけられている身を傷ましくおもっている、だからかねての望みの隠棲の心を大事に持ち続け、道理の大切な不可思議な働きを会得するのである。
遭物 時節の風物に遭って。 ○悼遷斥 官を遷し退けられたことを傷み悲しむ。○存期 かねての期望を忘れずに。隠退の望みを保つ。○得要妙 道の緊要玄妙な処を会得する。道理の大切な不可思議な働きを会得する。


既秉上皇心,豈屑末代誚。
既に上上古の三皇五帝の素朴純粋な精神をしっかりと持っているのだから、どうして末の代の人々のそしりなどを顧みることがあろうか。
上皇心 上古の三皇五帝の素朴な心。詩譜序の疏に「上皇とは伏羲を謂ふ。三皇の般も先なる者」とある。三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされた皇帝をいう。○ 顧る。


目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
私は目のあたり後漢の厳光が隠棲して釣を垂れた厳陵瀬の上流であるこの早瀬を見ている、昔、任公子が東海の大魚か釣ってこの浙江以東、蒼梧以北の地の人々がその魚肉に飽いたと荘子にあるが、その大道を以て民を養ったことを喩えた釣の話に想いをかけて慕うのである。
嚴子瀨 後漢書に「厳光、字は子陵、木姓は荘、明帝の降を避けて、姓を政と改む。光武(帝)諌大夫に拝せんと欲するも受けず。乃ち富春山に耕釣せり」と。富春山を厳陵山といい、七里瀬を厳子瀬というのはこれによる。○任公釣 『荘子』任公子「愿隨任公子。欲釣吞舟魚。」任公子の故事。子明は会稽山の山頂から沖に届くくらいの竿を作り、餌も去勢牛五十頭ほど用意し、一年かけて釣り上げた。それを村人に食べ物を配った。浙江以東、蒼梧以北の民はこの魚に飽いたという。大道を以て衆を救う比喩。


誰謂古今殊,異代可同調。
誰が古と今とは違うというのか。時代がちがっても隠棲して道を求める清潔の士とみさおを同じくすることはできるものである。
同調 みさおを同じくする。調とは、生きかた。


a謝霊運永嘉ルート02

 謝霊運はかくて桐江をさかのぼり、蘭江に入り、蘭鈴を経て、その支流の娶江に入り、金華に至りて下船。それから陸路を駕で山越えして麗水に至り、ここから再び船にて甌江を下り、永嘉に至った。
(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)都建康を出発して1か月かけて永嘉に到着する。

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376


 この桐廬の付近の厳陵山の西には有名なる七里瀬の険があった。ここは両巌が約七里(中国里)にわたって、高い山がそびえ、その間に激洸が岩をtむという。日本でいえば天竜峡のそれである。上下する船にとっては非常に危険な場所であって、船をあやつる船頭も、乗客も、すこしも気の安まらざるものがあった。それだけに、景色も美しく、印象に強い場所でもあった。特に、生まれてはじめてここを通過した霊運にとっては、いかばかりであったろうか。心に重い憂いをいだきながらも、その美にいたく心を打たれたらしく、ここで「七里瀬」と題する詩を残しており、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用されている。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)


七里瀨 #1
嚴陵山の西の七里灘
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。

荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。

#2
遭物悼遷斥,存期得要妙。
既秉上皇心,豈屑末代誚。
目睹嚴子瀨,想屬任公釣。
誰謂古今殊,異代可同調。

#1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。

#2
物に遭いて遷斥を悼【いた】み、期を存し要妙【ようにょう】を得たり。
既に上皇の心を秉【と】り、豈 末代の誚【そし】りを屑【いさぎよし】とせんや。
目のあたり厳子が瀬【らい】を睹【み】て、想いは任公の釣に属【ぞく】す。
誰か謂う古今【きんこ】殊【こと】なると、異代【いだい】も調べを同じくす可し。


現代語訳と訳註
(本文)
七里瀨 #1
羈心積秋晨,晨積展遊眺。
孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
石淺水潺湲,日落山照曜。
荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。


(下し文) #1
羈心【きしん】は秋晨【しゅうしん】に積り、晨に積りて遊眺【ゆうちょう】を展ばさんとす。
孤客は逝湍【せいたん】を傷み、徒旅は奔峭【ほんしょう】に苦しむ。
石浅くして水は潺湲【せんたん】たり、日落ちて山は照曜【しょうよう】す。
荒林【こうりん】紛として沃若【ようじゃく】たり、哀禽【あいきん】相い 叫嘯【きょうしょう】す。


(現代語訳)
嚴陵山の西の七里灘
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。


(訳注)七里瀨
七里瀬 一名七里灘。浙江省桐廬県、嚴陵山の西にあり、水流矢の如く、諺に、風有れば七里、風無ければ七十里と。舟を挽き上る困難をいう。


羈心積秋晨,晨積展遊眺。
旅情は秋の朝目覚めると心に積もるものであり、朝に愁いが積もっているとそぞろに眺めを遠く故郷にはせる。
羈心 旅情。 


孤客傷逝湍,徒旅苦奔峭。
孤独な旅人の私は、論語の于罕篇に見える「逝く川の早瀬の過ぎて返らぬ」のを見てすぎゆく時を悲しみ、旅人達は峭しい路に苦しむのであった。
傷逝湍 逝く水を悲しむ。湍は急流。論語于罕篇に「子在川上曰、逝者如斯夫。不舍晝夜。」(子川上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず)と。川の流れと時の推移とはよく対比させられる。○徒旅 旅人なかま。徒は人数。 


石淺水潺湲,日落山照曜。
石の多い浅瀬に水音が響いている、日が落ちかかると山が照りかがやいている。
潺湲 水流の音。


荒林紛沃若,哀禽相叫嘯。
荒れて寂しい林は入りみだれて茂っている、物悲しい鳥の声が叫び鳴き歌い競い合っている。
紛沃若 入りみだれて茂っている。沃若は茂盛のさま。 

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

422年謝霊運38歳 船旅をつづけ、桐渓水を通過の際の詩。


(初めて新安の桐盧口に往く)

船旅を続けつつ、銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。この近くに来てほっとしたのか、一首が口ずさまれている。それが「初めて新安の桐盧口に往く」の詩である。


初往新安桐盧口
初めて新安の桐盧口に往く。
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


現代語訳と訳註
(本文)

初往新安桐盧口
絺綌雖凄其、授衣尚未至。
感節自己深、懐古亦云思。
不有千里棹、孰申百代意。
遠協尚子心、遙得許生計。
既及冷風善、又即秋水駛。
江山共開曠、雲日相照媚。
景夕羣物清、封玩咸可憙。


(下し文)
(初めて新安の桐盧口に往く)
絺綌【ちげき】は凄其【せいき】と雄ども、衣を授けしに尚お未だ至らず。
節に感じて自から己に探し、古えを懐い 亦た思いを云う。
千里の棹 有らずんば、孰【たれ】か百代の意を申べん。
遠く尚子の心に協【かな】い、遙かに許生の計を得たり。
既に冷風の善なるに及び、又た秋水の駛するに即す。
江山 共に曠を開き、雲日は相い照らして媚ぶ。
景夕 群物 清し、玩に対し咸【み】な憙ぶ可し。


(現代語訳)
初めて新安の桐盧口に往く。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。


(訳注)
初往新安桐盧口

初めて新安の桐盧口に往く
銭塘江をさかのぼること富陽から南西約五〇キロ、北西より流れ来る桐江、桐渓水との合流点に桐盧県がある。ここの渡し場で泊まったのである。


絺綌雖凄其、授衣尚未至。
少し寒くなってきて、出発したときの服装が薄い葛の服であったので少し気になる。といっても冬用の着物にするというほどにはまだなっていない。
絺綌(チゲキ)を作る。 細糸とあら糸の葛布。 縫為絶國衣 縫ひて絶国の衣となし。薄い葛の服。○凄其 さむい。ひややか。すごい。其は語調を整えるための助辞。訓音ではよまないことがおおい。


感節自己深、懐古亦云思。
季節の変わりにはいろんなことが浮かんでくる。行く秋を思うことは昔の人が詩に歌っているし、自分も同じように思うことなのだ。


不有千里棹、孰申百代意。
一気に千里進んでくれる舟棹などありはしないし、(この景色をみると)百の世代に受け継がれていく心を語ることもできはしない
○千里棹 千里ひとかきの棹。○ 誰。○百代意 代々受け継ぐ一族の家訓・志。


遠協尚子心、遙得許生計。
遠い昔の後漢の隠者、向長のことは私の助けになることだし、許詢のように隠遁してはかりごとをして過ごすということもあるかもしれない。
○尚子 後漢の隠者、向長のこと。前漢末・後漢初の他人から食物を分けてもらいようやっと食いつなぎそれでも働かず好きな本を読んでいる生活をしていた人物。人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。○許生 許詢のこと。 字は玄度。河間高陽(河北省保定市)の人。魏の中領軍許允の玄孫。父の許帰が司馬睿に従って南渡し、会稽内史とされて山陰に居した。外祖父の華軼は魏の華歆の曾孫で、西晋の江州刺史とされていたが、元帝への帰順を拒んで殺された。 許詢は会稽に隠棲して許徴士と称され、孫綽・支遁・謝安・王羲之らと親交して司馬昱とも交流があり、風情簡素・高情遠致と評された。清談・玄言詩の名手として孫綽と並称され、その五言詩は簡文帝に「時人に妙絶す」と絶賛されたが、玄言詩の域を出なかったことで後世の評も“道家に傾く”と概ね辛く、逆説的に当時の玄学の盛行を示している。『詩品』下。


既及冷風善、又即秋水駛。
もうすっかり風が冷たくなってきて心地いいものだ。また同じように水の流れも秋を感じさせるものとなっている。
秋水駛 はやくながれる。急流。


江山共開曠、雲日相照媚。
銭塘江の山々は色づき始めて広がってきている。雲や太陽の輝きはこれらのことに同調している。
 銭塘江。○ こびる。随う。同調する。


景夕羣物清、封玩咸可憙。
夕方の景色はモノトーンになって万物を清らかなものにしてゆく、この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。
景夕 夕方の景色。○羣物清 万物を清らかなものにしてゆく○封玩咸可憙 この自然の事象にもてあそばれることは誰も皆よろこぶべきことなのだ。

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377


故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。


(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)

a謝霊運永嘉ルート02

富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
平生協幽期。淪躓困微弱。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
久露干祿請。始果遠遊諾。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註
(本文)  #2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

(下し文) #2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。


(現代語訳)
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。


(訳注)
洊至宜便習。兼山貴止托。

洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
水があちこちから集まってくるこの場所は船の扱いを熟練することになる。そして山が連なっているので、ここからは船をおりて歩いていくことになる。
洊至 水があちこちから集まってくること。洊は仍なり。水の相よりていたり、かねて山嶮ありという。別の意味として、しきりに至る(災害・事件などが)つぎつぎにおこる。○便習 なれる。熟練する。○兼山 山が連なり、船で行けない。分水嶺。○止托 船に、船頭に託すことを止める。


平生協幽期。淪躓困微弱。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
いつもは、心ひそかに期してかなえたいと思っている、しかし途中でつまづき止めてしまう心の弱さを持っていることに困っている。
幽期 心ひそかに期すること。淪躓 淪はさざなみ、しずむ、おちいる、ひきこむ。はつまずく、たおれる、さわる、しくじる。とどまる。


久露干祿請。始果遠遊諾。
久しく禄を干【もと】むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
長い間、官職に仕えて俸禄を受けることをしている、このたび初めて遠い彼の地に赴任することを承諾したのである。


宿心漸申寫。萬事俱零落。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
かねてよりこころにおもっていることがしばらくのあいだ、鬱積したものが払われて心が伸びやかになるようにおもえる。まあすべてのことが草木が枯れ落ちるようになってしまうというのだろう。
宿心 かねてよりこころにおもっていること。○申寫 鬱積したものが払われて心が伸びやかになること。○零落 おちぶれること。草木が枯れ落ちること。


懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。
心に思い描くのは明らかで広いことなのだ、もう、自分の名誉や、名刹というものに対して、これから伸ばしていこうなんて思わず、縮んでいていいのである。
懷抱 懐に抱く。見識。思い考えること。○昭曠 あきらかでひろい。○外物 富貴名刹。○龍蠖 龍と尺取虫。伸び様としてちぢこまること。
ishibashi00

富春渚 #1 謝霊運<14> 詩集 376

富春渚 #1 謝霊運<14> 376

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽であるこの旅とてもけっして安楽な船旅ではなく、危険を冒してのものであったと、詩人は強調する巻二十六の「行旅」に引用される「富春の渚」の詩である。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽→桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
 
富春渚詩 #1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。

私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

#2
洊至宜便習。兼山貴止托。
平生協幽期。淪躓困微弱。
久露干祿請。始果遠遊諾。
宿心漸申寫。萬事俱零落。
懷抱既昭曠。外物徒龍蠖。

富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。

#2
洊りに至るは便習に宜しく、兼れる山には止託を貴ぶ。
平生 幽期を協げんとするも、淪躓けて微弱に困しめり。
久しく禄を干むるの請に露わせるに、始めて遠遊の諾を果たす。
宿心 漸く申ばし写しえて、万事 供に零落れぬ。
懐抱は既に昭曠として、外物は徒らに龍蠖【りょうかく】せり。

富春渚
現代語訳と訳註 #1
(本文)
富春渚詩
#1
宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
亮乏伯昏分。險過呂梁壑。


(下し文) 富春の渚#1
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。


(現代語訳)
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。


(訳注)
富春渚
 
銭塘江の河口より40~50km上流の街。前221年、秦朝は現在の富陽、建徳、桐廬を含む地域に富春県を設置した。9年(始建国元年)、新朝を建てた王莽により誅歳県と改称されたが、後漢になると再び富春県に戻されている。225年(黄武4年)、呉は富春県の一部に建徳県、新昌県を、翌年には新登県を設置している。394年(太元19年)、東晋は簡文帝の生母宣太后の諱が鄭阿春であったことより、同字を避けるべく富陽県と改称している。

(謝霊運のルートを現在の地名で示す)
杭州→蕭山→富陽桐盧→建徳→壽昌→蘭渓→金華→永康→(ここまで銭塘江、支流の婺江【ぶこう】を登ってきた。<分水嶺>ここから甌江【おうこう】になる)→石柱→縉雲→麗水→青田→永嘉(温州)
a謝霊運永嘉ルート02

宵濟漁浦潭。旦及富春郭。
宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。
わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。


定山緬雲霧。赤亭無淹薄。
定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。
分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。
定山 浙江省温州に入る際の当面の目標の分水嶺の山


溯流觸驚急。臨圻阻參錯。
流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。
流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。
 へり、きし。碕は曲岸頭なりと。碕は圻と通ず。


亮乏伯昏分。險過呂梁壑。
亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。
私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375

過始寧墅 謝霊運<13> #2 詩集 375
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳


過始寧墅
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。違志似如昨、二紀及玆年。
 緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。拙疾相倚薄、還得静者便。
 剖竹守滄海、枉帆過舊山。
#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。


(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)


現代語訳と訳註
(本文) #2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
葺宇臨迴江、築観基曾巓。
揮手告郷曲、三載期歸旋。
且爲樹枌檟、無令孤願言。


(下し文) (始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。



(現代語訳)
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。

宮島(5)

(訳注)#2
山行窮登頓、水渉盡洄沿。
山路というものは、登り降りの限りをきわめめかくごして行くものだ、大川を渡るということは、その流れの上り下り川のかがりくねりを知りつく行くものである。
登頓 登り降り。○削沿 さかのぼるを駆、順い下るを沿という。沈徳潜はいう「登頓回沿は山水に遊ぶに老れたる者に非ずんば知らず」と。
 

巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
巌は険しく、嶺は幾重にも繁って重なり、川の中洲を回りめぐって長くなぎさは続いている。
巌峭 巌はそそりたち険しい。○稠疊 しげくかさなる。


白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
白雲は物さびて静かな石を抱いているようであり、緑の篠竹が清らかな漣に媚びるように揺れなびいている。まことに美しい景色である。
 ささ。小竹。 ○清漣 清らかなさざなみ。 


葺宇臨迴江、築観基曾巓。
私の別荘は、曲がりこんだ川の入り江に臨んで屋根を葺き、重なる山の頂を土台として見晴らしの楼台を築き、眺望を楽しむによい建物である。
葺宇 家の屋根を葺く。○築観 見晴らしのきく高殿を築く。○基層轍 重なる高嶺を土台にする。


揮手告郷曲、三載期歸旋。
しかし今は赴任の途中であるため、まもなく近所の里人に手をあげて別れを告げ、三年たてば帰って来ると約束したのである。
揮手。てを挙げ。○郷曲 片田舎。曲はかたよったところ。近所の里人。三載 足かけ三年。○期歸旋 帰ってくるとい約束。

且爲樹枌檟、無令孤願言。
とりあえず私のために、枌(にれ)と檟(ひさぎ)の木を墳墓に樹えて、私のやがてこの地に帰って生涯を終えたいという願いにそむかないで、必ずかなえさせてほしいのである。
○樹枌檟 枌(にれ・白楡:『詩経』「楡白枌」)と檟(ひさぎ)両方とも覆い被さるように茂る。墳墓を守るという意味。「始め季孫己のために六檟を東門の外に樹う」と。檟は自ら棺と為らんと欲するなり」と。○孤朗言 願いにそむく。孤はそむく。言は肋字。 




minamo008

巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
白雲抱幽石、緑篠媚清漣。

永嘉に行く前に寸暇を得て故郷に立ち寄ったときの美しきを感慨をこめて歌う。すなわち、登った山、過ぎた川、遠くに望んだ山、見た水辺、空に浮かぶ雲、川辺の篠、進かなる民家、まさに平和につつまれた風景であり、一幅の絵のようである。この部分が後世、謝霊運の山水詩といわれるものである。しかし洒落運はこの詩において、この部分がその主体としたのではない。謝霊運の湧き出ずる感情を歌うための添えものであるからいいのである。この美しい故郷に、三年したら帰って来るよ、とその句末で歌っている。

故郷の始寧で充分に精神的に、肉体的に休息した謝霊運は、未知の土地永嘉へと気重く出発する。永嘉に至るには海沿いに行くことも可能ではあるが、当時としては陸路を行くのがより安全であった。おそらく、永嘉から杭州に出て、富春へと旅をしたのであろう。喜寿は今の桐江のほとりにある富陽『富春渚』である。

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

過始寧墅 謝霊運<13> #1 詩集 374

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場までおくりだしてくれた。
謝霊運は建康から船に乗り、無量の感慨にふけりつつ、みなれた長江を下り、永嘉への道からすこしく離れた故郷の始牢に、しばしの別れを告げるために立ち寄った。ここは、前述のごとく、霊運の生まれた土地であり、父祖を葬った地であり、名族謝氏の棍拠地であった。今、寂しく流されてゆく者にとっては、盛んであった昔を思い、感慨無量のものがあったことであろう。
その気持を歌ったのが『過始寧墅』(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)で、『文選』の巻二十六の「行旅」に撰ばれてる。38歳

haru008

過始寧墅#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
剖竹守滄海、枉帆過舊山。

竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


#2
 山行窮登頓、水渉盡洄沿。
 巌峭嶺稠疊、洲縈渚連綿。
 白雲抱幽石、緑篠媚清漣。
 葺宇臨迴江、築観基曾巓。
 揮手告郷曲、三載期歸旋。
 且爲樹枌檟、無令孤願言。

(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。

山行し 登頓【とうとん】を窮め、水渉【すいしょう】は洄沿【かいえん】を尽くせり。
巌【いわお】は峭【けわ】しく嶺は稠疊【ちゅうじゅう】し、洲【しま】は縈【めぐ】りて渚は連綿たり。
白き雲は幽石【ゆうせき】を抱き、縁篠【りょくじょう】清漣【せいれん】に媚【こび】びたり。
字【う】を葺【ふ】き廻江【かいこう】に臨み、観【かん】を築き曾巓【そうてん】に基づく。
手を揮い郷曲【きょうきょく】に告げ、三載にして帰旋【きせん】を期す。
且く為に枌檟【ふんか】とを樹えよ、願言【がんげん】に孤【そむ】か令むる無かれ。

keikoku00

過始寧墅
現代語訳と訳註
(本文)
#1
束髪懷耿介、逐物遂推遷。
違志似如昨、二紀及玆年。
緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
拙疾相倚薄、還得静者便。
剖竹守滄海、枉帆過舊山。


(下し文)
(始寧【しねい】の墅【しょ】に過【よぎ】る)
束髪【そくはつ】より耿介【こうかい】を懐【いだ】けるも、物を逐【お】い遂に推し遷【うつ】る。
志に違うこと昨の如きに似たるも、二紀【にき】茲【こ】の年に及ぶ。
緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。
拙と疾と相い倚薄【いはく】して、還【かえ】って静者の便を得たり。
竹を剖【さ】いて滄海に守たり、帆を枉げて旧山を過【よぎ】る。


(現代語訳)
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。


(訳注)
過始寧墅 
#1
過姶寧墅 浙江省上虞県の別墅に立ち寄る。謝霊運の父祖の墓や故宅がある。墅は田野の中の居所。別業。


束髪懷耿介、逐物遂推遷。
髪を結い元服して朝廷に仕える身となって以來、潔白で堅い節操を守ってきたつもりであった、自分以外の物に引かれてしまうとか、物事にかこつけて引き延ばしてしまうということで過ぎてしまった。
束髪 髪を結い元服して朝廷に仕える。成人。 ○耿介 ①かたく志を守ること。 ②徳が光り輝いて偉大なさま。 裏表なく節燥の固いこと。○逐物 自分以外の物に引かれる。志を枉げることがない。○推遷 物事にかこつけて引き延ばす。推し遷る。38歳の時の作


違志似如昨、二紀及玆年。
心ならずも、このような生活に入ったのは、つい昨日のように思えるのに、二十四年も過ぎてこの年になった。
違志 平素の志にそむく。○二紀二十四年。一紀は十二年。二十歳で成人して24歳を単純にプラスすると44歳になるが、二回目の紀を迎えている。詩的表現では一紀12年、38歳-20歳-12歳=6歳 一紀12年の半分を超えていれば二紀と表現する。


緇磷謝清曠、疲薾慙貞堅。
本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。
緇磷【しりん】 黒くなることと、薄くなること。世俗のためにその節操を誤ること。『諭語、陽賈』「ふ曰堅乎、磨而不磷。不曰白乎、涅而不緇。」(堅きを曰はずや、磨すれども磷【うすろ】がざる。白きを曰はずや、涅すれども緇【くろ】まざる。)と。○謝清啖 心が清く物にこだわらず広くむなしい人に、謝まり、中し訳なく思う。○疲薾【ひでつ】 疲れ切って心も弱くなったこと。○貞堅【ていけん】 みさおを正しく堅く守る人。


拙疾相倚薄、還得静者便。
それでも世渡りの下手なことと病気とが相寄り一緒になって、閑職に任ぜられたことが、かえってそのために静かに人間の本性を求めるための方使を得るという結果になったのである。 
拙疾椙倚薄 役人としての世渡りが下手なのと病気とが相寄り一緒になり、閑職にある。薄はくっつく。 


剖竹守滄海、枉帆過舊山。
竹の割符を剖き与えられ、海岸の地方の永嘉の太守に任ぜられて赴任する途中で、舟の帆の行く手を枉げて、私は故郷に立ち寄ることにした。
剖竹 郡守どなること。漢の制度では、竹の節を割って片方を使いに持たせて証拠とした。○滄海 永嘉郡、海に臨む地方。自分が隠棲したいと思っているところ。○柱帆 舟路をまげる。○過旧山 故郷に立ち寄る。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<12> 鄰里相送至方山 詩集 373

(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

鄰里相送至方山
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)
役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。



現代語訳と訳註
(本文)

祗役出皇邑,相期憩甌越。
解纜及流潮,懷舊不能發。
析析就衰林,皎皎明秋月。
含情易為盈,遇物難可歇。
積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
資此永幽棲,豈伊年歲別。
各勉日新志,音塵慰寂蔑。

(下し文) (鄰里相【あい】送って方山【ほうざん】に至る)

役を祗【つつ】みて皇邑【こういう】を出で、相い期して甌越【おうrつ】に憩【いこ】う。
濃を解いて流れる潮に及ばんとするも、旧を懐いて発する能わず。
析折【せきせき】として衰林【すいりん】に就【つ】き、皎皎【こうこう】として秋月【しゅうげつ】明かなり。
情を含んで盈つるを為し易く、物に遇いて歇む可きこと難し。
積疴【せきあ】もて生慮【せいりょ】を謝【しゃ】し、寡欲【かよく】闕【か】くる所 罕【まれ】なり。
此に資【よ】りて永く幽棲【ゆうせい】せん、豈に伊【こ】れ年歳の別れならんや。
各々日新の志に勉【つと】め、音塵【おんじん】寂蔑【せきべつ】を慰めよ。


(現代語訳)
近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。


(訳注)
鄰里相送至方山

近所の人が自分を送ってくれて方山の渡し場に至る。
方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。 ○鄰里相送 近所の人が自分を送る。


祗役出皇邑,相期憩甌越。
わたしは遠国を守る役目をつつしみ帝都建業を出て、甌越の永嘉郡に行って休息しようと心にきめていた。
祗役 役をつつしむ。遠国を守る役目を大切に思う。○皇邑 帝都建業。(後、南京)○相期 心にきめる。 ○甌越 永嘉郡。古の東越の都。越の別名。 


解纜及流潮,懷舊不能發。
船の艫綱を解いて、長江の流れる潮に及んでも、旧知の人々を懐って出発することができない。


析析就衰林,皎皎明秋月。
木樹の間をサアッと吹き鳴る風が枯れた林をとおりぬけ、こうこうと白く輝いて秋の月が明るくてらす。
析析 風が木を吹く音。○皎皎 白く輝くさま。


含情易為盈,遇物難可歇。
別離の悲しい心の内を口には出さないが胸に一杯になりやすくなっている、この風物に遇っては言わずにやめることは出来にくい。
含情 別れの心情を口に出さず心に思う。


積痾謝生慮,寡欲罕所闕。
積る病気のためにとか、生存のためとかいって、こいねがう気持ちをも捨てている、もともと欲望はもとからないので、不足を覚えることはほとんどない。
○叙絢 久しい病気。 ○謝生慮 生存のための顧慮。○所闘 不満足なこと。 


資此永幽棲,豈伊年歲別。
これを力にして永久に世を捨てて静かに隠居しようと思う。どうしてまた会うこともあろうというのに、これが千歳の長い別れであろうか。
千歳別 千歳の長い別れ。


各勉日新志,音塵慰寂蔑。
各人日々に新たに進歩するように道に努めて志し、時には音信をして、寂しく孤独な私を尉さめて欲しい。
日新志 日々に徳を新たに修養する志。周易に「日々に其の徳を新たにす」と。
音塵 音信。消息。 ○寂蔑 寂しい孤独。蔑は無。一に「寂滅」に作る。


この詩は、悲しげに別れの歌を歌う。孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370、晩夏には都を出発しようと準備をしていたが、なかなか去りがたく、ぐずぐずしているうちに秋となってしまったが、それでも別れがたいと、別離の情を実に巧みに歌う。そして、「積痾」とは持病のことで、謝霊運は若いときからあまりじょうぶではなかったことをいう。それゆえ、すでに長生きのできないことを意識していたらしい。
しかし、欲望も少ないので、心に不満も少ないと唱うのは、彼の行為からみると、他人にははなはだしく理解しがたい。心のの奥底に隠棲の気持ちを持ちつづけることが、野心、謙信さの薄さを感じさせ、当時の高級官僚に理解のできないことであったのであろう。

単に、金持の気ままなわがままな謝霊運という説もあるが、そうではないとおもっている。ここにも彼に不幸を生じさせた原因の一つがあったと思う。何年いっていなければならないかもしれぬ永嘉での生活の寂しさと不安を、悲しげに親友たちに告げている。永嘉は瘴癘の地なのである。そして、この悲しみを慰めるために手紙ぐらいはください、と結んでいる。が、謝霊運の左遷されてゆく苦しさ、悲しさを、実に巧みに歌っている。中国の知識人はこのようなことを多く経験しているのである。上が変われば、それまでのものはすべて左遷されるものである。
門閥貴族政治には明日には左遷というものがついて回った。しかし謝霊運は詩文にすることで多くの人々に理解をされたのである。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)

永初三年七月十六日之郡初発都#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。

#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。



永初三年七月十六日之郡初発都 現代語訳と訳註
(本文) #3

生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。


(下し文) #3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。


(現代語訳)
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。


(訳注)
生幸休明世、親蒙英達顧。
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。


空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ
趙氏  趙の恵文王。在位前298~前266。○ 連城璧のこと。趙の恵文王の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たという故事。『史記』廉頗藺相如列伝に見える。○魏王瓠 荘子『逍遥遊第一』「惠子謂莊子曰: 魏王貽我大瓠之種,我樹之成而實五石。」(恵子、荘子に謂いて曰く、魏王、我に大瓠の種を貽る。
 我之を樹うるに成りて五石を実る。以て水漿を盛れば、其の堅きこと自ら挙ぐる能わず。之を剖きて以て瓢と為さば、則ち瓠落して容る所無し。)
恵子が親友の荘子(荘周)に言う。「魏王が僕に『ひょうたんの種』をくれた。僕がこれを植えたら、成長して『五石も入るでっかいひょうたん』が実った。でも、その『ひょうたん』は水を入れても堅くないから中身が漏れ、持ち上げたら壊れてしまう。『ひょうたん』を切って『ひしゃく』にしてもボロボロに欠け、多くの水は汲めない。素晴らしい『大きなひょうたん』でも役に立たなかった。だから、打ち砕いた」とし、最後には、水を入れることばかり考えないで、水に浮べば浮き輪として役立つものだ、という教えである。


従来漸二紀、姶得傍歸路。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。


將窮山海迹、永絶賞心唔。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし、永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない

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その心情は左遷の不幸を嘆きつつも、未知の地でこれから山水の美をのみ求めて、大いに人生を楽しもうという希望を述べている。謝霊運は山水詩を詠うことによって人々の心をとらえ、後世に影響を残すことになった。謝霊運、詩人がこの大きな精神的苦痛からの逃避を山水の美に求めたのは、人生における苦を浄土に求めた慧遠の教えにきわめてかなうものであった。しかし、その不幸のなかでも、盟主盧陵王への思慕が強調されていることは注目すべきである。
 謝霊運がいよいよ都を出発するにあたり、左遭であるから、感情の鋭い霊運は見送りの人々の心の冷たさを強く感じた。

名族謝氏ともなれば、こんな不幸の場合でも、盛大な見送りがあったそのときのお別れパーティーで謝霊運が作った詩が、『文選』の巻二十の「祖餞」に引用されている「鄰里相送至方山」(隣里のひと相い送りて方山に至る)の詩である。「方山」とは江蘇省の江寧にあって湖の渡し場のあったところである。


○方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。江寧区(こうねい-く)は中華人民共和国江蘇省南京市に位置する市轄区。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。
唐代になると620年(武徳8年)に帰化県、625年(武徳8年)に金陵県、626年(武徳9年)に白下県、635年(貞観9年)に江寧県、761年(上元2年)に上元県と改称されている。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)

永初三年七月十六日之郡初発都#2
如何懐土心、持此謝遠度。
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
良時不見遺、醜状不成悪。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。
曰余亦支離、依方早有慕。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている
#2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。


現代語訳と訳註
(本文) #2

如何懐土心、持此謝遠度。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
良時不見遺、醜状不成悪。
曰余亦支離、依方早有慕。


(下し文) #2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。


(現代語訳)
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている。


(訳注)
如何懐土心、持此謝遠度。
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
どんなにこの国の土地のことを心の中で思っていることか、この気持ちをもってこのたびの遠地へ旅立つことを許されたい。平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。


李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
戦国時代の李牧は守ることばかりで、ちょうど手が短いのに長い袖を笑われた、戦国時代の晉の郤克は和平の会談で足の悪いことを笑いものにされた。
李 牧(り ぼく、生年不明 - 紀元前229年)は中国春秋戦国時代の趙国の武将。『史記』"廉頗蘭相如列伝"において司馬遷は李牧を、「守戦の名将」と位置づけている。匈奴の執拗な攻撃に対しては、徹底的な防衛・篭城の戦法を取ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。しかし、そのやり方が匈奴だけでなく趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。 趙王さえも李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので任を解かれてしまった。
郤克 春秋時代の晋の政治家、将軍。紀元前592年の春に郤克は、斉に断道(山西省)で行われる諸侯会議への参加を求めるために外交の使者として赴いたが、斉(頃公)とその母の蕭同叔子に自分の怪異な風貌を笑われるという大恥辱を受けてしまう。


良時不見遺、醜状不成悪。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
平穏な時代であれば、誰も問題にしないし見もしないものだ、醜いことは悪いことにつながりはしない。


曰余亦支離、依方早有慕。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。
此の日、この時、ここでお別れする、自分の向う目標の隠遁への道にとにかく慕う気持ちは続いている。

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #1 詩集 370
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)


永嘉の太守
 このような状態であったので『宋書』の本伝によると、

出でて永嘉の太守と為る。郡に名山水有り。霊運の愛好する所。

守に出でて既に志を得ず。遂に意を肆ままにして遊遨し、諸県を偏歴し、動もすれば旬朔を瞳ゆ。民間の聴訟復た懐いに関せず。

至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。


至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。

と記されている。つまり、永嘉の太守にされたのは彼の軽率なる行動に対する処罰であって、華やかな中央官庁から、地方官庁への左遷であった。時に、親友の顔延之も遠く広西の始安(今の桂林)の太守に流されている。この永嘉郡とは現在の浙江省の温州地帯で、謝霊運の育った会稽の真南にあたり、直線で約250kmも離れた土地である。その中心が温州で、甌江の下流の南岸に発達した町である。海までも約三〇キロで、気侯も温暖で、日本では温州蜜柑の故郷として知られている。したがって、植物もよく繁茂した美しい町であった。『温州府志』によれば、付近には相当高い山も多く、いろいろと名勝や山水にはなはだしく恵まれたところであった。
a謝霊運011
 
 謝霊運が左遷されて都の建康を出たのは、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用された彼の詩によると、413年永初三年、霊運三十八歳の七月十六日であった。これは劉裕つまり宋の武帝の葬儀のあった七月八日から八日目のことである。おそらく、追われるごとく、秋の初めに都を去って行かねばならぬ謝霊運にとっては、寂しさも加えて、心はさぞかし煮えたつものがあったろう。
特に、謝霊運は当時の中国ではもう若くもなく、希望に燃えた青春は過ぎ、老齢であった。そのうえの左遷、精神的に相当がっくりしていたであろう。その悲しみ、苦しみを歌ったのが、「永初三年七月十六日之郡初発」(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)の詩である。


永初三年七月十六日之郡初発#1
述職期闌暑、理棹變金素。
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。

他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
#2
如何懐土心、持此謝遠度。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
良時不見遺、醜状不成悪。
曰余亦支離、依方早有慕。
#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)
#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。

#2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。
#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす


永初三年七月十六日之郡初発
現代語訳と訳註

(本文) #1
述職期闌暑、理棹變金素。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。


(下し文)#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。


(現代語訳)#1
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。


(訳注)
永初三年七月十六日之郡初発
述職期闌暑、理棹變金素。
(述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。)
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。


秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
(秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。)
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。


辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
(辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。)
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。


愛似莊詩昔、久敬曾存故。
(似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。)
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
愛似 孟子『盡心下』「孔子く悪似而非者。」(孔子曰く似て而して非なる者を悪む。)○ 敬長 孟子『盡心上』「親親仁也。敬長羲也。」(親を親しむるは仁なり。長を敬するは羲なり。)○曾子(そう し 紀元前506年 - ?)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子與(しよ)。父は曾皙、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。「曾参、人を殺す」と言う言葉の中に姿を残している。この話は「ある時に曾参の親類が人を殺し、誰かが誤って曾参の母に『曾参が人を殺した』と報告した。母は曾参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、二度・三度と報告が来ると終いにはこれを信じて大慌てしたと言う。」『戦国策』に載っている説話で、あまりに信じがたい嘘であっても何度も言われると人は信じてしまうと言う意味の言葉だが、このような説話に使われる事は逆に曾参の人柄と母との間の深い信頼関係が当時の人にとって常識であったと言うことを示している。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<10> 隴西行 詩集 369

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<10> 隴西行 詩集 369


隴西行 
昔在老子、至理成篇。
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
柱小傾大、綆短絶泉。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
鳥之棲遊、林檀是閑。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
韶楽牢膳、豈伊攸便。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
胡爲乖枉、従表方圓。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
耿耿僚志、慊慊丘園。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
善謌以詠、言理成篇。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。


(隴西行)
昔 老子在り、至理 篇を成す。
柱は小 傾は大、梗【つるべのなわ】は短く絶えたる泉に。
鳥は之れ棲み遊ぶ、林せる檀【せんだん】は是れ閑【しずか】。
韶【しょう】の楽は牢膳【ろうぜん】、豈伊【こ】れ便【くつろぎ】を攸【おさ】む。
胡【なん】すれぞ 乖枉【かいおう】を為せる、方円を表わすに従う。
耿耿【やすらか】なる僚志、慊慊【けんけん】たる丘園。
善く謌【うた】い以って詠ず、理を言いて篇を成す。



現代語訳と訳註
(本文)
  隴西行
昔在老子、至理成篇。
柱小傾大、綆短絶泉。
鳥之棲遊、林檀是閑。
韶楽牢膳、豈伊攸便。
胡爲乖枉、従表方圓。
耿耿僚志、慊慊丘園。
善謌以詠、言理成篇。

(下し文) (隴西行)
昔 老子在り、至理 篇を成す。
柱は小 傾は大、梗【つるべのなわ】は短く絶えたる泉に。
鳥は之れ棲み遊ぶ、林せる檀【せんだん】は是れ閑【しずか】。
韶【しょう】の楽は牢膳【ろうぜん】、豈伊【こ】れ便【くつろぎ】を攸【おさ】む。
胡【なん】すれぞ 乖枉【かいおう】を為せる、方円を表わすに従う。
耿耿【やすらか】なる僚志、慊慊【けんけん】たる丘園。
善く謌【うた】い以って詠ず、理を言いて篇を成す。

(現代語訳)
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。


(訳注)
昔在老子、至理成篇。
むかし、老子がいらっしゃいました。まことにもっともな道理をまとめられた。
至理 まことにもっともな道理。至極 (しごく) の道理。


柱小傾大、綆短絶泉。
能力の小さいものに大きな責任を持たせる時危険は増大する。井戸にある釣瓶が短ければ水をくむことに事欠く。
柱小傾大 喻指能力小者承擔重任必出危險。


鳥之棲遊、林檀是閑。
鳥が棲み遊んでいるとしても檀の木で森ができているなら鳥は木が固くにおいのために棲むことができず静かなものであろう。
 固い木で、巣作りが難しく、エサになる虫が巣くっていない。


韶楽牢膳、豈伊攸便。
舜帝が作ったといわれる音楽を麗しく奏で、太牢の大御馳走があるならば、どうしてこれでくつろぎ安らぎのきもちにならずにおられようか。
牢膳:「以太牢為膳食」以って太牢 膳食と為す。太牢:まつりに牛・羊・豚の三性が備わること。大御馳走。『老子、二十』「衆人は熙熙として、如く享たるが太牢を如し春登るが臺に、」(衆人は熙熙として、太牢を享たるが如く、春臺に登るが如し。)


胡爲乖枉、従表方圓。
どういうわけか無実の罪に貶められたとしても、天子の天と地の法則にはしたがわざるを得ないだろう。
乖枉 そむきわかれる。乖そむく。よこしまな枉枉げる。まがった人。無実の罪。方円 天と地。『孟子、離婁上』「離婁之明、公輸子之功、不以規矩、不能成方円。孟子曰:規矩方円之至也。」(離婁之明、公輸子之功も、規矩を以ってせざれば方円を成す能はざる。孟子曰く規矩は方円之至り也。)


耿耿僚志、慊慊丘園。
役所の仕事というもの官僚について心が安らかではない。思うところは不満なことが多い、できることなら、隠棲したいものだ。
耿耿 光が明るく輝くさま。気にかかることがあって、心が安らかでないさま。○僚志 同僚。下役。志を同じくするもの。○慊慊 あきたらず思うさま。不満足なさま。○丘園 山野。小高い丘にある花畑。転じて、隠棲の場所をいう。


善謌以詠、言理成篇。
そんなことで、気に入った詩歌でもって吟じていたい。真理をいうことによって詩篇を編成したいのだ。



射霊運のこの詩は、老荘への煩斜の一つとして、楽府の「階西行」でる。実によく『老子』の哲理を簡にして要領よくとらえて歌っているのは、字句を老子を引用して構成され、よほど『老子』を熟読していたのであろうと思う。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 #2 詩集 368

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 #2 詩集 368


(3)述祖徳詩 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙圮。萬邦咸震懾,橫流賴君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」
#2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。


中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


現代語訳と訳註
(本文)  述祖徳詩 二首
 其二 #2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」


(下し文) #2
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


(現代語訳)
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。

miyajima 681

(訳注)
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。

泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
○秦趙欣来蘇 秦や起の国では、祖父謝玄か来て暴君を討てぱ、生き返るであろうと欣ぶ。『書経仲虺之誥』「予が后を俟つ、后来らば其れ蘇らん」と。夏の民が殷の湯王を欣び迎えた語。○遲文軌 周の文王の車のわだちが及ぶのを待つ。文王か救済に来るのを待つ。


賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
賢相 謝安李白『憶東山二首其二』「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。欲報東山客。 開關掃白云。」(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。)晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。時期が来るまで、待っている賢者というものは、一喜一憂しない。敵を油断させる方法にも幾通りもある。ここに言う「芸妓を携えて」というのは、国外のみならず国内にも敵がおり、国を建てなおすにも相手の状況の分析を行い、時機が到来して立ち上がったのであるが、東山に白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所といわれ、妓女と酒を飲んで時期を待っていたことを言う。謝安について李白『送裴十八図南歸嵩山其二』「謝公終一起、相與済蒼生。」とあり、送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164。○謝世運 時世の進展から去る。世を去る。


高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
七州 中国全土九州うち七州。○高揖 高く超越して俗世を謝絶する。揖は両手を胸に組んでする会釈。
払衣五湖裏 五湖は太瑚の別名。茫蟸 のように、太湖の中に衣の俗塵を振って帰隠する。


隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
濬潭 深い淵。○枌梓 にれとあずさ。墳墓に植える。


遺情捨塵物,貞觀丘壑美。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。
塵物 汚れた物。役人の衣冠等。○ 正。



このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。

この時代、どこで生まれたのか、どんな血族に生まれたかによって、人生は決められるのである。謝霊運は、この偉大な祖父を背負うのであるからスタート地点が、誰よりも良い所にある。よいものは、心の誇りであり、手本にするというより、先祖の築き上げたものを崩壊させなければ、絶対に失敗はないのである。謝霊運はちがった。祖父を凌ぐ働きがしたかったのである。そして、たぐいまれなその要素を備えていたということなのである。難をいえば、良すぎたのである。これが、政治家でなく、学問、詩文の部分だけなら、どんなに卓越していても、全く問題はないが、政治、権力、統治ということになるとバランス感覚がないといけない。いわゆる腹芸も必要になってくる。

恵まれた家に生まれ、抜群の才能を持っていることでうまくいかないのである。貴族の中に無能力の権力者が大半なのである。

この詩に見るように、家系、先祖の功績は、何かにつけて謝霊運に影響を与えた。謝霊運の母の家系も祖父が王羲之であった。女性の文盲率が九割を超える時代にあって、母が知識人であったことは、謝霊運の詩人としての能力は、両方の地を受けついだものであった。
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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 詩集 367

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 詩集 367

謝霊運にとって、祖父は偉大な人で、心の誇りであり、手本であった。子孫は、その偉大さに萎縮するか、これを凌ぐことを夢見るかであるが、はたして、謝霊運の行動から祖父を凌ぐ功績をあげたかったということである。


(3)述祖徳詩 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。
天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
崩騰永嘉末,逼迫太元始。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
河外無反正,江介有蹙圮。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
萬邦咸震懾,橫流賴君子。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
拯溺由道情,龕暴資神理。」
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである

秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」

中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」



現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩
 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。
崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙圮。
萬邦咸震懾,橫流賴君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」

(下し文)
中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」

(現代語訳)
天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである。


(訳注)
中原昔喪亂,喪亂豈解已。

天下の中央の地、洛陽地域は昔、戦乱と滅亡していたが、その戦乱と滅亡はどうして治まり、終わることがあったろうか。
中原 中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになった。 ○喪亂 死亡と戦乱。土地を失い人民が離散すること。戦乱と滅亡。『詩経、小雅、常様』「喪亂既平、既安且寧。」(喪亂既に平ぎ、既に安く且つ寧し。)○解已 治まりやむこと。


崩騰永嘉末,逼迫太元始。
永嘉の年号の末に崩れ乱れ、太元の始めに北方異民族に押し迫られた。
崩騰 崩れ乱れる。○永嘉 西晋の懐帝の時の年号。307―313年○逼迫 北方(・西方)の異民族による侵略、戦乱。○太元 孝武帝の年号。東晉385-396の年

晋265-420

河外無反正,江介有蹙圮。
黄河の南に、河南地方は正常に立ちかえることなく、長江の流域まで敵に迫られ、打ち破られた晉国かあった。
河外 黄河の南、河南地方。○反正 たちかえる。○江介 長江の流域、介は界に同じ。楚辞に「江介の遺風をかなしむ。」と。○蹙圮。蹙は迫られる。圮は破れる。迫られ破られた国。ここでは晉国をいう。


萬邦咸震懾,橫流賴君子。
あらゆる国、皆が震い恐れていて、天下は洪水の道なく溢れ流れるような禍を、成徳の人であるわか祖父のカによって免れようと願った。
萬邦 あらゆる国。万国。『書経、堯典』「百姓昭明、協和萬邦。」(百姓昭明にして、萬邦を協和す。)橫流 ○君子 祖父を指す。


拯溺由道情,龕暴資神理。」
祖父は世の禍乱に溺れる民を道理にかなった真実の心によって救い、乱暴な異民族の賊軍に打ち勝つのに、不可思議にもすぐれた条理を取り用いたのである。
拯溺 溺乱に溺れ萱しむ民を救う。 ○道情 道は万象の奥にある良実の道。情は偽りない眞實の心。荘子に「道に情有り、信有り」と。○龕暴 異民族による侵略に打ち勝つ。○ よりどころ。たすける。もたらす。とる。もちいる。○神理 不思議な働きのある真理。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一#2 詩集 366

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<8> 述祖徳詩 二首(2)其一#2 詩集 366

(祖の徳を述べる詩 二首 其の一 の2回目)


(2)述祖徳詩 二首 其一#2

述祖徳詩 二首 其一#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。
弦高犒晋師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。
これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた
委講輟道論、改服康世屯。
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
屯難既云康、尊主隆斯民。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。

#1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。
#2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。


現代語訳と訳註
(本文)
(第一首#2)
恵物辭所賞、勵志故絶人。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

(下し文) #2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。


(現代語訳)
これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。


訳注)#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。

これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
恵物 物に恩恵をあたえる○辭 辞退○所賞、そのことを賞せられるところ。○勵志 志をつとめはげむ。○ 知人、衆人○絶人 自分のために人との関係を絶つ。


苕苕歴千載、遙遙播清塵。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
苕苕 高いさま。超然。○清座 清らかな行為。墜は(車の土埃)。影響感化。・明哲 明らかにさとい人。


清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた。
垂経綸 国を治める才能を世に示す。垂は示す。


委講綴道論、改服康世屯。
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
委講 書物勉学のみを全てとする講義研究をすてる。○綴道論 道理についてのみの教条的な議論をやめる。実践の伴わない、掛け離れた「道」の実の議論を辞める。○改服 九品位、身分制度の確立、納税の公平性、府兵制の導入、などの様々な改革。○世屯 世運の滞り、国がうまく行かないこと。国難。


屯難既云康、尊主隆斯民。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。 


このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。

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(謝霊運 祖の徳を述べる詩 二首 其の一 の1回目)

(2)述祖徳詩 二首 其一 


述祖徳詩 二首 其一#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
段生藩魏國、展季救魯人。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
弦高犒晋師、仲連却秦軍。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。

彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。
苕苕歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

#1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。

#2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
苕苕【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。



現代語訳と訳註
(本文) 述祖徳詩 二首 其一
#1
達人貴自我、高情蜀天雲。
兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。
弦高犒晉師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。

(下し文) #1
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。


(現代語訳)
物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。


(訳注)
達人貴自我、高情屬天雲。

物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。


兼抱済物性、而不纓垢氛。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
垢氛【こうふん】 俗の汚れた空気、俗気。 


段生蕃魏國、展季救魯人。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
段生 段干木。戦国魏の賢者。生没年不明。段干は魏の地名で,それを姓とした。田子方,呉起らとともに,孔門十哲の一人子夏に師事したが,同門の諸士と異なり仕官を好まず,仕官を勧めに訪れた魏の文侯(在位,前445‐前396)を避けて牆(かきね)を乗り越えて逃れたという逸話がある。文侯は終始その賢者なる徳をたたえ,彼の住む村の門前を通り過ぎる際には必ず車上に身を伏せて敬意を表したという。一説に,彼は仲買を生業としていた,ともある。○ まがき。藩に同じ。魏国を守る大垣根。・展季 柳下恵。柳下恵の用語解説 - 中国、周代の魯(ろ)の賢者。本名、展禽。字(あざな)は季。柳下に住み、恵と諡(おくりな)されたことによる名。魯の大夫・裁判官となり、直道を守って君に仕えたことで知られる。生没年未詳。


弦高犒晋師、仲連却秦軍。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。
弦高 春秋の鄭の商人。道で来襲する秦兵に遭遇、詐りねぎらって、急を鄭に知らせて備えさせた(左伝逍公三十三年)。 春秋鄭國商人弦高。 秦師將侵鄭, 適高入周經商, 遇秦師於滑。 高以牛十二, 謂奉鄭君之命犒師。 秦師以為鄭國有備, 滅滑而還。 事見《左傳‧僖公三十三年。○仲連 魯仲連。戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。秦が趙を囲んだ時、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いた。仲連時に趙にいて、使いを責めて帰し、秦軍をして恐れて十五里退かせた。田単が斉の王に申し上げて爵を賜わろうとしたが、仲連は海辺の地に逃がれた。戦国時代の斉の国の人で、義侠の士として有名である。伝記は「史記」の列伝に見える。つね日ごろ、人とはちがった大志を抱き、仕官せず職にもつかなかった。たまたま趙の国に遊んでいた時、紀元前二四七年、秦の軍隊が趙の邯鄲(いまの河北省にある)を包囲した。魯仲連は、秦に降伏することに断乎反対して、題の平原君を助けた。同時に、魏の国の王子信陵君もまた、兵を率いて秦を攻撃したので、秦は退却し、趙は救われた。郡部の包囲が解かれたのち、平原君は魯仲連に領地を与えようとした。魯仲連は辞退した。平原君はそこで千金をおくろうとした。魯仲連は笑って言った。「天下に貴ばれる士たる者は、人のために患を排し、難をとき、紛乱を解して、しかも何も受取らないものです。もしも報酬を受取るなら、それは商人です。」何も受け取らないで立去り、生涯ふたたび現われなかった。李白『古風五十九首 其十』


臨組乍不緤、對珪寧肯分。
彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。
臨組 官職の印綬のくみひもを目前に見る。○乍不練 そんな時でもその組紐につながれない。官職に束縛されない。○対珪 珪(角ある玉)印に面しても。珪は爵封の印章。○寧肯分 どうして封土を分ち賜うのを受けようか。


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(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))350
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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

(祖の徳を述べる詩 二首 序文 )

述祖徳詩 二首(1)序
謝霊運の先祖は『南史、謝霊運傳』「謝霊運は安西将軍奕の曾孫にして、方明の従子なり」と記されいる。「奕の曾孫」つまりひまごに当たり、「方明の従子」とは彼の甥に当たることになる。この奕については『晋書』の四十九に略伝があり、当時、政治家として活躍していた人で、経済的にも、知識的にもすぐれた要素をもっていた。当時の社会の最も重要な血縁、門閥について謝霊運は最も恵まれていた。そして、誇り高い人であった。


沈約は『宋書』の本伝で、「祖の玄は晋の車騎将軍」と、その祖父より筆を起こしている。「車騎将軍」とは、各地に反乱があったとき、その征伐を司る将軍で、漢の文帝がこの役を定めて以後あったものである。この玄の伝記については『晋書』の本伝に詳しい。特に「少くして薪悟、従兄の期と供に叔父安の器重する所と為る」と記されているのをみると、非常に頭脳明噺であったらしい。

謝霊運はよほど、この祖父、玄について自慢であったらしく、「山居賦」の自注でも、また、「祖徳を述ぶる詩」でも、その徳をたたえてはばからない。

沈約(しんやく)441年 - 513年 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。

述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
負荷世業、尊主隆人。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
逮賢相徂謝、君子道消、
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
拂衣蕃岳、考ト東山、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。

miyajima 709330


現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩 二首
序曰、
太元中、王父龕定淮南。
負荷世業、尊主隆人。
逮賢相徂謝、君子道消、
拂衣蕃岳、考ト東山、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。


(下し文)
序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。


(現代語訳)
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。


(訳注)
序曰、太元中、王父龕定淮南。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
○述祖徳 祖父謝玄の徳か述べる詩。○太元 東晋の武帝の年号(376-396)。 ○王父 租父。父の亡父。王は尊称。 ○ 勝つの意味。○淮南 淮水がの南。淝水の戦(383)。


負荷世業、尊主隆人。
世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
負荷 任を引きうける。○隆人 人民を栄えさせる。 


逮賢相徂謝、君子道消、
賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づいている。


拂衣蕃岳、考ト東山
衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、

払衣 衣の俗塵を払い故郷に帰り隠居すること。 ○蕃岳 藩岳、潘岳(はんがく) 247年 - 300年西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。"諸侯。藩屏。ここでは次句の東山に対して任地の山岳、会稽山の意味も兼ねる。○考ト 亀の甲を焼いて割れ目で古凶を考えて、居を定める。卜居のこと。○東山 始寧の東山。会稽郡上虞県にある。謝安が隠居していたところ。
李白は謝安を詠う詩が多くある。
李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
「攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
( 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り。妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)
李白『憶東山二首其二』
「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。
欲報東山客。 開關掃白云。」
(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。 東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。) 

事同樂生之時、志期范蟸之擧。
事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。
楽生 楽毅。楽 毅(がく き、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺。)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。燕の昭工の卿、紀元前284年に趙・楚・韓・魏・燕五国の兵を率いて斉を伐ち、斉の七十余城を下した。 ○范蟸【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范蟸は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。
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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #2 詩集 362

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #2 詩集 362

従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。
#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
工拙各所宜、終以返林巣。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。


(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す


謝霊運 285―433、陳郡(河所)陽夏の人。謝玄の孫。晋の時に祖父康楽公の封か襲【つ】いだか、宋に仕えて侯に降された。後に侍中となったが、性質は傲慢、所遇に不満で、それを慰めるために山水に遊んだ。元嘉十年に罪を得て広州比消死し、市にさらされた。年四十九。霊運の詩はやや細工が過ぎるが、山水を写してすぐれている。当時笛一流の詩人で、陶淵明と並び陶謝と称される。

従遊京口北固應詔

現代語訳と訳註
(本文) 
#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。
顧己枉維縶、撫志慙場苗。
工拙各所宜、終以返林巣。
曾是縈舊想、覽物奏長謡。

(下し文) #2
遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す。

(現代語訳)
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。



(訳注)#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。
遠い岩は蘭の繁みに映え、輝く日光は大川の岸にうららかに射している。
蘭薄 蘭の叢。蘭の花が薄暗く繁みとなっている。○江皐 江岸。 


原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
低くひろがった湿原と草原に緑の柳が芽ぶいている、御苑のような庭園跡には紅の挑がちらほらと咲いている。
 きざす。つぼみが芽吹く。墟囿 庭園の迹。墟は丘。は庭、庭園。御苑のような庭園。


皇心美陽澤、萬象咸光昭。
天子は御心に春の陽気の恵みゆたかなのを愛でられ、万物のすがたはことごとく光り輝いている。
皇心 天子は御心。 ○萬象 万物のかたち。宇宙に存在する、ありとあらゆるもの。


顧己枉維縶、撫志慙場苗。
私自身を顧みるにその任ではないのに枉げて用いられて官職に繋がれている、辞任したい志が抑えてなだめながらも、『詩経、小雅、白駒篇』にある白い駒が、農場の苗を喰らって繋がれているように、賢者でもない私が俸禄をはむのがはずかしい。
枉維繋 「維繋」二宇とも繋ぐ。官位に引き繋ぐことを枉げてする。その任でもないのに別の官職に用いられ、留められることの意。○撫志 平素の志をおさえなだめて。○慙場苗 馬が農場の苗を食うように官禄をはむのを慙じる。『詩経、小雅、白駒篇』に「皎皎たる白馬、我が場苗を食まば、之か繋ぎ之を維【つな】ぎて、以て今朝を永うせん」と。白馬がわが畑の苗を食ってくれるならば、繋いで今朝だかでも永く止めておきたい。賢人の留まるのを願う詩。二君にまみえることを恥じてみせる。
『詩経、小雅、白駒篇』
大夫刺宣王也.
皎皎白駒.食我場苗.縶之維之.以永今朝.所謂伊人.於焉逍遙。
皎皎白駒.食我場藿.縶之維之.以永今夕.所謂伊人.於焉嘉客。
皎皎白駒.賁然來思.爾公爾侯.逸豫無期.慎爾優游.勉爾遁思。
皎皎白駒.在彼空谷.生芻一束.其人如玉.毋金玉爾音.而有遐心。


工拙各所宜、終以返林巣。
ひとは事を処するのに上手と下手があるもので、各々に適する所があるのである。私の決めていることは、究極の道は世俗と離れた山林のすまいに帰りたい。
工拙 上手と下手。巧拙。○返林巣 山林の居に帰りたい。


曾是縈舊想、覽物奏長謡。
さればこそ、まえまえから隠棲したいと思っていることが心にまとわりついてはなれず、ここの佳気漂う万物を覧ると声を長くしてこの詩を謡って天子に申しあげるのである。
 纏と同じ。めぐる。○舊想 まえまえから隠棲したいと思っていること。


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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6>  従遊京口北固應詔 #1 詩集 362

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<6> 従遊京口北固應詔 #1 詩集 362
(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)

418年34歳の作 内容から判断すると「三月三日侍宴西池 詩」と同じころの作であろう。前の年九月、十二月、そしてこの三月のこの詩、謝霊運の一生をみて、劉裕に従遊できる可能性はこのころの一年しかないのである。


従遊京口北固應詔 #1
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固山に遊んで、詔に答えて作った詩。
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
事為名教用、道以神理超。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。

#2
遠巌映蘭薄、白日麗江皐。原濕荑縁柳、墟囿散紅桃。
皇心美陽澤、萬象咸光昭。顧己枉維縶、撫志慙場苗。
工拙各所宜、終以返林巣。曾是縈舊想、覽物奏長謡。


(京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。

#2
遠巌【えんがん】は蘭薄【らんはく】に映【えい】じ、白日は江皐【えこう】に麗【うるわ】し。
原濕【げんしゅう】に緑柳【りょくりゅう】荑【きざ】し、墟囿【きょゆう】に紅桃【こうとう】散ず。
皇心【こうしん】陽澤【ようたく】を美とし、萬象【ばんしょう】咸【みな】光昭【こうしょう】す。
己を顧みるに維縶【いちゅう】を枉【ま】げ、志を撫して場苗【じょうびょう】に慙【は】づ。
工拙【こうせつ】は各々宜しき所、終【つい】に以て林巣【りんそう】に返らん。
曾ち是【ここ】に旧想【きゅうそう】に縈【まと】はれ、物を覧て長謡を奏す。


謝霊運(385-433)は、その文名は存命中においてははなはだしく著名で、彼が一詩を作ると、都じゅうにただちに知られ、人々の口から口へと愛唱されたと、彼の死後八年たって生まれた宋の沈約(441-513)は、生々しい伝承を、尊敬をこめて『朱書』の本伝に生き生きと記載している。のちに伝記文学の代表的なものとして、『文選』に選ばれ、多くの後世の知識人に愛読された。彼の生涯が奇に満ち、不幸の連続であったこが、恵まれた家柄であったことと悲運な障害というギャップにこそ偉大な文学の生まれた要素である。当時の権力者、支配者にとって、謝霊運の詩文の影響力の大きさは扱いにくいものであった。それだけに謝霊運の評価を下げることに懸命であった。

宮島(3)

現代語訳と訳註
(本文)
従遊京口北固應詔 #1
玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
事為名教用、道以神理超。
昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
張組眺倒景、列筵矚歸潮。


(下し文) (京口の北固【ほくこ】に従遊【じゅうゆう】す、詔に應ず)#1
玉璽【ぎょくじ】もて誠信【せいしん】を誡【いまし】め、黄屋【こうおく】もて崇高【すいこう】を示す。
事は名教【めいきょう】の為に用ひ、道は神理【しんり】を以て超ゆ。
昔は汾水【ふんすい】の遊を聞ぎ、今は塵外【じんがい】の鑣【ひょう】を見る。
茄を鳴らして春渚【しゅんしょ】を發し、鑾を税【と】いて山椒【さんしょう】に登る。
組を張りて倒景【とうえい】を眺め、筵を列ねて歸潮【きちょう】を矚【み】る。


(現代語訳)
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固山に遊んで、詔に答えて作った詩。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。

従遊京口北固應詔

(訳注)
従遊京口北固應詔 

(従遊京口の北固に従遊す、應詔に應ず)
高祖劉裕に従って京口(丹徒県)の北固に遊んで、詔に答えて作った詩。
従遊 宋の高祖劉裕に従って遊ぶ。・京口 江蘇省丹徒県。 ・北固 山名。丹徒県の北一里。長江に入り、三面水に臨む。 ・應詔 詔に答えた作。
 

玉璽誡誠信、黄屋示崇高。
天子は佳気の白玉の印をもって人民に誠心誠意と信頼あり約束を守ることを誡め教えられる、天中の黄の練絹の笠蓋を車にかざしては身分崇高で貴いことを示される。
玉璽 天子の佳気白玉の印。○誡誠信 人を戒しめて誠実と信頼ならしめる。○黄屋 黄色の練絹の傘をかけた、天子の車。


事為名教用、道以神理超。
世を治める基本原則としてこれらの事は世の道徳上の教化のために用いられている、王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。
事為名教用 ・事為は世を治める基本原則をしめす。・名教は、名分と教化の二事は、道徳教化のために行なう.○道以神理超 王が国を治められる筋道は、ふしぎな神の力のある道理をもって、はるか遠くこの世にすぐれて存在する。 
 

昔聞汾水遊、今見塵外鑣。
昔は堯帝が汾水の北、藐姑射【ほこや】の山に遊んで四人の仙人と遊んだことを聞いているが、今は天子が塵界を離れ、浮世から離れたこの山に清遊される馬のくつわを目の当たりに見るのである。
汾水遊 堯帝は汾水の陽【北】、藐姑射【ほこや】の山に遊んで、四人の仙人会った『荘子誼辺遊篇』。汾水は山西省の黄河の支流。○塵外鑣 塵界を離れた清遊、武帝の行幸を指す。鑣は銜(くつわ)。馬車に乗って遊行すること。


鳴笳發春渚、税鑾登山椒。
従者は胡笳の笛を鳴らして行列の先導をして春の猪を出発し、鴬の聲に似た響きの鈴を懸けた御車を止め、山頂に登られる。
 蘆の葉を巻いた笛。後には木で作る。晋以後は天予の行列にも用いた。もと胡人が吹いたので、胡笳という。李白『春夜洛城聞笛』 ○税鑾 鴬の形で、響きもその鳥の声に似た鈴のついた車、鑾輿【らんよ】、すなわち天子の車を休息する。・は解く。放つ。○山椒 山頂。淑は丘。 


張組眺倒景、列筵矚歸潮。
色糸の組紐の飾りある幕を張り、山の上で日月の光が下から射し、影が倒【さかさ】に映る天空を眺め、宴席を敷き列ねて海に帰りゆく潮を見るのである。
張組 組みひもの飾りのある幕を張る。○倒景 倒影に同じ。極めて高い空に日月の光が下からさして、影がさかさに映ること。水面に映る山の倒影とも解する。○帰潮 退潮。 

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #3 詩集 361

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #3 詩集 361

 貴族文化とも称される南朝文化は、老荘思想が哲学的に特化した玄学と、華美な修辞と対句を特徴とする四六駢儷体をその代表的なものとし、陶淵明・謝霊運らの中国を代表する文化人を輩出した。『文心雕竜』『詩品』『文選』などの評論書も編集され、韻律や修辞の追究は、後代に律詩や絶句の近体詩を成立させた。 又た南北朝ともに仏教が隆盛し、北魏では太武帝の廃仏はあったものの曇曜の再興運動や雲崗・竜門石窟の開削、曇鸞の浄土教創始などがあり、南朝でも格義仏教の盛行や梁武帝の信仰などが知られるが、北朝に於いては護国宗教、南朝に於いてもその哲学性やサンスクリット語の発音・建築様式などの異国情緒が喜ばれた側面が強い。

廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
理感深情慟,定非識所將。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
脆促良可哀,夭枉特兼常。
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
一隨往化滅,安用空名揚?
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
舉聲泣已灑,長歎不成章。

声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)

(廬陵王の墓下の作)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。
延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。


doteiko012

現代語訳と訳註
(本文)

平生疑若人,通蔽互相妨。
理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。
一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

(下し文) #3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。


(現代語訳)
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)


(訳注)
平生疑若人,通蔽互相妨。

かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。
平生 日ごろ、かつては。○通蔽 理に通じているということ。蔽は理が通じていないこと。○互相妨 理性と感情が互いに反することで、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからなかったという意味。


理感深情慟,定非識所將。
理に通じているからこそ、理を感じ、理不尽なことに情は深く痛む。それは知識の支配するところのものではない。(理と識とは違う。)
 筋道、条理。○ 痛と同じで、心を上下に突き抜けるほど激しく動かされること。○ 知識、認識。


脆促良可哀,夭枉特兼常。
生きる肉体のもろさは本当に悲しいものである、まして無実の罪で若くして殺されたというのであれば尋常の二倍の悲しみとなる。
○脆 もろい、こわれやすい。盧陵王のことを指す。○ 足を縮めることから、短くする、せかす、うながすとなる。「脆促【ぜいそく】」は生きる肉体の脆さをさらに促すこと。○夭枉 夭折とおなじ。若くして死ぬこと。天命を全うしないでころされること。『後漢書、蔡邕傳』「夭夭是加。」〔注〕〔上の夭はまさに天に作るにあたり、下の夭は殺す也。〕枉は曲げるという所から、道理をゆがめた、罪を押し付けられた無実の死を表す。○兼常 通常の二倍ということ。
 

一隨往化滅,安用空名揚?
ひとたび死んで、この世を去ってしまえば、何に生まれ変わろうともう戻ってこないことには変わりない。名前だけが残っても帰ってくるわけではない。
往化 往はまた、行く、逝くという意味で、死を表し、仏教では、往生するという。化は『荘子』「已化而生、又化而死。(すでに化して生まれ、また化して死す。)」とあるように、死んで転生することをいう。その転生が滅することとなる。


舉聲泣已灑,長歎不成章。
声を上げて、涙は既にとめどなく流れ落ち、あとは長くため息をつくばかりで、この詩も一章として完結することはない。(最初の船に乗って御陵を眺めて涙を流すことにもどるので章が終わらないというのである。)




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劉義真 406~424
 廬陵王。武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。東晋末の劉裕の北伐後は関中鎮守に残され、翌418年には内訌と夏軍の来攻で長安を失陥した。劉裕の即位で廬陵王とされ、後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運・顔延之・慧林らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺された。

少帝 404?~422~424
 第二代君主。諱は義苻。武帝の長子。膂力に勝れて騎射を善くし、音律も解したという。不行跡を理由に徐羨之・檀道済ら託孤の重臣に廃弑され、常陽王と追尊された。


文帝 407~424~453
 第三代君主、太祖。諱は義隆。武帝の第3子。少帝の実弟。少帝が廃されると宜都王から迎立された。徐羨之ら託孤の宿臣を粛清する一方で王曇首・殷景仁ら文人貴族を挙用し、又た従来の経学偏重の官学制を改めて儒・玄・史・文の四学館を建てて学術を奨励し、442年には国子学を復興させた。その治世では文芸・仏教も盛んで、元嘉暦を作成した何承天の他、朝野に謝霊運・陶潜、黒衣宰相と称された僧慧琳などがあり、“元嘉の治”と称される盛世を実現した。南朝仏教は既に貴族社会との癒着が著しく、435年には僧尼の綱紀粛正が行なわれ、同時に寺院建立にも公許が必要とされた。
 当時、北魏は華北統一と柔然対策を急務とし、宋も林邑遠征など南方経略と国内安定を優先させ、河南・淮北の四鎮を争った後は大規模な会戦はなく、約20年間に淮南の開発が飛躍的に進展した。450年に北伐に失敗して“瓜歩の難”を惹起し、淮南を失っただけでなく建康の国子学が廃止されるなど国力に甚大な影響を及ぼし、文帝自身もまもなく巫蠱の露見を懼れる太子劭に殺された。



廬陵王墓下作 #1
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。


暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。

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孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #2 詩集 360

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #2 詩集 360


 南北朝時代の特色とされる貴族制度は南朝と北朝とでは背景や運用が異なり、西晋から続く南朝の貴族制度は九品官人制によって強化され、社会身分の階層化と固定化が進行したが、北防の必要から、貴族の支持を得た寒門武人による易姓革命が肯定された。このため皇帝権力の安定には貴族勢力の協力が不可欠となり、貴族勢力には一種の治外法権が生じ、貴族の家門の興廃と王朝の興亡とは必ずしも連動しなかった。貴族・豪族は多くの佃客・衣食客・部曲を擁する大土地所有者でもあり、広大な山林水沢の利を独占して荘園を経営したが、荘園の閉鎖的な自給性は貨幣経済を停滞させ、貴族や商人による貨幣退蔵と山沢封固は、自営農の没落と商人層の抬頭を促進させた。

 歴朝天子の寒門・寒人重用は、門地二品に偏重した貴族主義に対する一種の抵抗でもあった。、梁武帝の官制改革もその一環に数えられるが、実効まではいかなかった。南朝の貴族社会は侯景の乱と承聖の江陵陥落でほぼ壊滅し、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となっていく。


廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。

平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

(廬陵王の墓下の作)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。

#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。

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現代語訳と訳註
(本文)#2

神期恆若在,德音初不忘。
徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
解劍竟何及,撫墳徒自傷。

(下し文)#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。


(現代語訳)#2
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。


李白の足跡55

(訳注)#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
神期 神の心、神の意志。廬陵王の御霊。○ 『易経』「雷風恆」にある。天地自然は変転を繰り返しながらも、その根本は変わらない。廬陵王は運命に翻弄されてしまったが、王の価値は不易であり、その徳のある人の言葉(徳音)はもとより忘れられない。謝霊運は、廬陵王に掛けていたのである。


徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
徂謝 徂、謝、どちらも去ってゆく、逝くという意味がある。世を去ってしまえば、徂は歩みを重ねてゆくことで、あの世へ行くことや、世代を重ねてゆくことをいう。謝は弓の弦を緩めることで、緊張を解くところから「あやまる」「ことわる」「礼を言う」という意味にもなる一方、生命がなくなるという意味で死ぬ、萎むという意味をも持つ。○ ヒノキ、コノテガシワ、栢などの常緑樹をいう。陵墓には木を植え、庭園のようにする習慣があり、天子は松、諸侯は柏、大夫はおおち、庶人は楊柳を植えた。長安の五陵などがある。李白、雜言古詩『王昭君』「漢家秦地月、流影照明妃。一上玉関道、天涯去不帰。漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。」にみえる「青塚」が松柏である。

行次昭陵1/2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 203

重經昭陵 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 230


 漢の仲長統の『昌言』には、「古之葬者、松柏梧桐以識墳也(古の葬は、松柏梧桐を以て墳を識るなり。)」」とある。『文選』の古詩の「去るものは日々に疎く」の詩にある「松柏催為薪(松柏くだかれて薪と為る)」一般には、長寿で貞節を象徴する常緑の松柏も、伐って薪にされている、と解釈され、死者がいかに早く忘れ去られてゆくかを詠んだもので、墓所に植えられた松柏も伐られて薪になる。王朝が続けば、管理者が入るので、薪にはならないが、王朝が滅べば薪になる。杜甫の「北征紀行」の詩に出て來るものである。



延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
延州 春秋戦国時代の呉の王、寿夢の末子、季札のことで、延陵の季子と呼ばれている。寿夢は季札に王位を継がせようとするのだが、季札はこれを頑なに固辞しつづけた。○ 多くのものが一つに合わさる所から、一致する、かなうという意味になる。「叶」も同じで、十人の口(意見)があることをいう。○心許 心許せる全幅の信頼を持つ家臣。○楚老 楚老は、『漢書』に記されている、龔勝【きょうしょう】という前漢末の忠臣の死を嘆いた老人のこと。○蘭芳 蘭のか詳しい香り。転じて、美徳のたとえ。



解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
○解劍 季札は徐王が死んで後に欲しがっていた剣を徐陵の松にかざした故事を踏まえる。○撫墳徒自傷 前漢末の忠臣龔勝が天子が死んでもなお嘆いたことに基づく。



《参考》この時代の人。
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劉裕 356~420~422
 高祖、武帝。彭城(江蘇省徐州市)出身。字は徳興。寒門出身の北府軍人で、孫恩鎮圧で認められ、桓玄討滅を主導して北府軍を掌握した。410年に南燕を滅ぼして斉魯を回復し、嶺南の盧循を鎮圧して武威を示す一方で、尚書僕射謝混・江州刺史劉毅ら反対派を粛清して大権を掌握した。417年に後秦を滅ぼして洛陽・長安を回復すると、翌年には世論の支持を背景に相国・宋公となり、安帝を殺して恭帝を立てると宋王に進み、420年に禅譲を行なって宋朝を樹立した。
 刁氏・虞氏などの京畿の大荘園を没収して貧民に分配し、又た僑郡僑県の併省や、土断法の全国的な実施で財政を好転させ、短期間で宋朝の基盤を確立した。土断法の徹底や質倹の率先などは、東晋朝廷の奢侈放縦や過度の名族偏重の体制に批判的な輿論の主潮に配慮したものだったが、即位直後には名族の白籍化を認めるなど僑姓との妥協を余儀なくされ、北府・西府など軍府の統帥を宗室に限定することで、簒奪の防止を図った。


徐羨之 364~426
 東海郡郯県(山東省郯城)の出身。字は宗文。劉裕の幕僚として信任され、416年の北伐では建康に鎮し、尚書僕射に進んで劉裕の禅譲を準備した。禅譲後は司空・録尚書事・揚州刺史とされ、劉裕の死後は託孤六傅の筆頭として傅亮らとともに少帝を後見したが、424年に不行跡を理由に傅亮らと少帝を廃弑して文帝を迎立し、司徒に昇った。後に専権を忌まれ、弑逆を理由に自殺を命じられた。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #1 詩集 359

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 詩集 359


廬陵王墓下作 #1
曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

 高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。
 中書侍郎に転ず。

とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった謝霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事の相談をうけるものである。やがて、中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるものであった。
「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。

高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。そうし、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを患い、五月にはついに死亡してしまうのである。

直情的な謝霊運は政治家としては疎外され、文人として尊重された。謝霊運が当時超一流の文人で、その詩は広く待ち望まれており、発表されると一気にひろまったという。
 劉裕が死亡すると、ただちに長男の義符が裕の跡をつぎ、これが少帝である。『宋書』の「霊運伝」では。

  少帝即位し権は大臣に在り、霊運異同を構扇し執政を非毀す。
  司徒の徐茨之等之を患う。


少帝はとかく素行が修まらなかった。したがって、取り巻きの奸臣の大臣たちがそれを利用し、権力をほしいままにしていた。これに対して、謝霊運は、世間をはばからず、批判を繰り返したようだ。「患之」の二宇によく表現されている。

 この時代は、力のある貴族の上に祭り上げられた皇帝がいるのであり、皇帝の権威は形成されてはいなかった。謝霊運の崇拝した義真は、王の位を奪われ、新安郡(浙江省淳安県)にうつされ、景平二年〈424〉の六月に、その道中で徐羨之グループの手によってわずか十八歳の若さで殺されてしまった。
後日、聡明だけど不幸な盟主義真の墓を訪ねて作ったのが「廬陵王の墓下の作」で、名作の一つとして、『文選』の巻二十三に引用されている。便宜上3分割して掲載する。


(廬陵王の墓下の作)#1
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。



現代語訳と訳註
(本文)

廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
道消結憤懣,運開申悲涼。


(下し文)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。


(現代語訳)
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。


(訳注) 廬陵王墓下作
廬陵王【ろりょうおう】の墓の下で作る
廬陵王 劉義真406~424武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。東晋末の劉裕の北伐後は関中鎮守に残され、翌418年には内訌と夏軍の来攻で長安を失陥した。劉裕の即位で廬陵王とされ、後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運・顔延之・慧林らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺されたのである。


曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
雲陽 江蘇省丹陽市(鎮江市のすぐ南)曲阿のこと。
 宿の意味、「二」に通じるため、「つぎ」という意味。 杜甫『行次昭陵』 李商隠『行次西郊作 一百韻』
朱方 今の江蘇省鎮江市の丹徒のこと。廬陵王の墓参りのために、明け方に雲陽を発ち、夕方に朱方に着いたという意味になる。

漢の時代に確立された五行思想の世界観が反映されていて、主な事項は以下である。
五行       木  ―火  ―土  ―金  ―水
五色      青(緑) 紅   黄    白   玄(黒)
五方      東    南   中    西   北
五時      春    夏   土用   秋   冬
五節句    人日   上巳  端午  七夕  重陽
(旧暦の日)  (1/1)  (3/3)  (5/5)  (7/7)  (9/9)
             
このことと、十二支による日付の表し方を理解する必要がある。この表現法は、中国社会では切り離せないものである。年号との組み合わせで日付が明確に示されている。何月の何番目の日とか。


含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
 凄と同様で「切」に通じる言葉で、身を切られるような悲しい思いを意味する。○ 水面を覆うように浮く。○ 本来、水を流して洗い流すことだが、涙をたれ流す際にも用いる。○ 左右を広く見渡すこと。


眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
君子 廬陵王のこと。○沈痛 心の底に沈殿してゆくような深い痛みをいう。○中腸 胸の痛み。断腸は下腹。
 目をぐるっと回す所から来た言葉で、振り返る、世話をする、目をかけることをいう。眷属というのは、世話をしている配下の者のこと。○ 『詩経』「我ここに」という意味で用いられることがある。小雅の「大東」という詩に「睠言顧之 潸焉出涕(睠かえりみて我ここに之れを顧み、潸焉として涕を出す。)」とあるが、「睠」と「眷」は同じ。


道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づき対句にしている。○憤懣 憤は噴出すもので、懣はいっぱいになることをいう。○ 糸で口を縛り付けることをいい、「慣懣を結ぶ」とは噴出してくる憤りが溜まりに溜まって、その出口もなくわだかまっていることをいう。○ 道の上を廻るものをいう。○ 心が裂けること。○ 高い所にある水のような凍てつく冷たさをいう。○ 手を前に伸ばすこと。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<4> 三月三日侍宴西池 詩 詩集 358

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<4> 三月三日侍宴西池 詩 詩集 358
南朝宋謝靈運 三月三日侍宴西池 詩(三月三日侍して西池に宴す)


三月三日侍宴西池 詩
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
降及雲鳥,日聖則天。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞承唐命,周典商期。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
江之永美,皇心惟苔。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
矧乃暮春,時物芳街。
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
禧備朝容,楽関タ宴。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。

(三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む


宋国への転身
 『宋書』の本伝によると、

  (宋国の黄門侍郎に除せられ、相国の従事中郎、世子の左衛率に遊る。)


この時代これは謝霊運にとっては非常な変動をしめすものである。謝霊運がどうして、東晋から禅譲を受けて間もない劉裕に仕えるようになったか、その理由が示されたものはないが、詩文力は認められていたことから、王朝発足まもない劉裕から強い希望で迎えられたものであろう。劉裕に直接仕えたこと、『晋書』の「謝玄伝」には「元煕中〈419〉劉裕の世子の左衛率となる」と記されている。元煕は一年しかなく、すぐ永初〈420〉となる。謝霊運三十五歳のときに当たる。この時代の年齢としては決して若いことを期待されたというものではない。
 別に、『宋書』の本伝では「輒【みだ】りに門生を殺して官を免ぜらる」と記されている。当時の権力者にはよくあったことであるが、「みだりに門生を殺す」ということは、どうみても感情の激しい部分を持った人格であったようだ。これはやがて自分も殺されるという遅命の兆しであったというのか、おそらく、そういう人物に書き上げられたものであろうと思う。歴史書はその時の権力者の都合で敗者はよく書かれるわけはない。いや、悪く書かれることは悪く書かないといけないほどの影響力があったとみるべきであろう。敗者謝霊運のことについては『宋書』の「王弘伝」には詳しく述べられている。すなわち、義煕十四年六月、劉裕が宋公となるや、王弘は尚書僕射となり、謝霊運の罪状をあばいているが、その文によると。

(世子の左衛率、康楽県公の謝霊運 力人(カ士)の桂興其の嬖妾【そばめヘイショウ】に淫【おぼ】れしため、興を江の挨【ほとり】に殺し、屍を洪流【おおかわ】に棄つ。事は京畿に発【わか】り遐邇【おちこち】に播【つた】わり聞こゆ。宜しく重劾【じゅうがい】を加え、朝風を粛正すべし。案ずるに世子の左衛率康楽県公謝霊運は過【はなは】だご恩奨を蒙りヽ頻りに栄授を叨【かたじけな】くす。礼を聞き 禁を知ること日を為すこと已に久し。而るに、閫闈【かきね】を防閑すること能わずして、茲の紛穢【ふんわい】を致す。憲軌を顧みること罔【な】く、忿殺【ふんさつ】は自由なり。此にして治【ただ】す勿【な】くば、典刑将に替【す】たれんとす。請う事を以って霊運の居る所の官を免ぜしめ、上台は爵土を削り、大理(司法官)に収付して罪を治せしめんことを。)


と奏上したと記されている。この奏上文によって、謝霊運はただちに官職を免ぜられた。これは明らかに謝霊運の異常な出世を妬んで、わずかな失敗により、寝首をかかれたためであろう。
 やがて、劉裕は元煕二年〈420〉六月に建康(今の南京)で即位し、国を宋とし、年号を永初と改めた。そして、曹からの王朝創設の例により、論功行賞を行なったが、『宋書』の武帝紀によると、

(晋氏の封爵は咸【ことごと】く運に随って改めよ。徳 徴官に参【まじ】わり、勲 蒼生【そうせい】を済うに至っては、人を愛し、樹を懐い、猶お或いは翦【ほろぼ】すこと勿かれ。異代に在りと雖ども、義は絶【ひんぜつ】すること無く、降殺の儀、一に前典に依れ。(中略)康楽公を即ち県侯に封ず可し。各おの五百戸。)


とある。すなわち、謝霊運はこの慶祝で、罪も減ぜられ、そのうえ、県侯に新しく封ぜられたのである。本当に貴公子としての傍若無人な振る舞いに問題があるようだと、救われはしまい。
『宋書』の本伝では、

(高祖命を受くるや公爵を降【くだして侯と為す。食邑五百戸。起こして散騎常侍と為し、太子左衛率に転ず。)


と記す。この王朝の禅譲が詩人の鋭い感情に大きな影響を与えた。同世代の、謝霊運より二十歳年長であった陶淵明のような下級の身分のものだと、晋王朝が亡びても、宋王朝の年号は用いなかったと『宋書』の「隠逸伝」に記されているけれど、それは当時の人間に影響力が及ばないものである。謝霊運の態度は影響力があるのである。陶淵明のごとく隠者を自称した小地主と、謝霊運のように名族の者との相違は現代では計り知れないほど違いのものであった。後世の儒者の見方からすれば謝霊運の行為は、二朝に仕えた人間としてあまり尊敬を受けないものであるが、それは時代の変化により評価は変わるものであり、時の権力者はその権力の維持のために利用するのか、切り捨てるのかを選択したのである。

謝霊運は、利用価値があったということなのだ。半分は、隠遁生活にあこがれを抱く謝霊運から見れば、これらのことは、重なる不幸ということになるであろう。おそらく、その心に煮えたぎるものを抱きながら二君に仕えたのである。その激動は詩人の心を大いに詩作へと走らせるはずであるが、不平不満を詩にすることはできない。それは、死を意味することであるからである。詩文による影響力のけた違いに大きい時代である。その感情をあらわに述べたら、その生命の危険は自分のみならず、謝氏の一族にも及ぶのである。
しかし、からくも命だけは救われ、県侯に封ぜられた。その気持を奏上したのが、『芸文類聚』巻五十一にある。
 このような憤りに満ちていた霊運は、そのストレスのはけ口として、『宋書』の本伝に、

  (廬陵王義真少くして文籍を好み、霊運と情款 常と異なる。)


といったほうに傾いていった。すなわち、「廬陵王義真」とは劉裕の次子で、『宋書』の「武三王伝」には「聡明にして文義を愛し、軽く動いて徳業なし」と、利ロではあるがはなはだしく軽率であったと記されている。時に義真は十四歳であり、霊運は三十六歳の油ののりきった年齢であった。
「義真伝」によると、
「陳郡の謝霊運、琅邪【ろうや】の顔延之、慧琳道人並びに周旋【まじわり】は常に異なる」とあり、
なお、義真の言葉として、
「志を得る日、霊運 延之を以って宰相と為し、慧琳を西豫州の都督と為さん」といったと記してあるのをみると、義真はクーデターを考えていたとして、つぶされたものと考えられる。詩文は表に出やすいものであり、妬みは影で動くものである。十四歳の子供とはいえ詩文のわかる聡明な次男はその標的にされたのである。謝霊運『廬陵王墓下作』は次に掲載する。
父劉裕の亡きあとは宋国を背負って国王になれる可能性もあった。反劉裕グループに巧みに利用されたものである。謝霊運がこのころ作ったらしいものに四言古詩「三月三日侍宴西池」(三月三日侍して西池に宴す)がある。この詩の制作年代は明らかでないが、前の年九月、十二月、そしてこの三月のこの詩、謝霊運の一生をみて、侍宴できる可能性はこのころの一年しかないのである。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 九日従宋公戯馬台集送孔令詩#1 詩集 356

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 彭城宮中直感暮 詩集 357



現代語訳と訳註
(本文)
三月三日侍宴西池 詩
詳観記牒,鴻荒莫博。
降及雲鳥,日聖則天。
虞承唐命,周襲商艱。
江之永矣,皇心惟眷。
矧乃暮春,時物芳衍。
濫觴逶迤,周流蘭殿。
禧備朝容,楽関タ宴。


(下し文) (三月三日侍して西池に宴す)
詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。
降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。
虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。
江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。
矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物 芳衍【はびこ】り。
濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。
礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む



(現代語訳)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。



(訳注) 三月三日侍宴西池 詩
(三月三日侍して西池に宴す)
三月三日の西池「臨水の会」に参列しての詩
三月三日 いわゆる行楽の季節である。謝霊運の時代をさかのぼること100年、三国時代の魏および西晋の襄陽の刺史であった山簡が、襄陽の高陽池で行楽を行った。字は季倫。父親は竹林の七賢の一人、山濤。別名「山翁」「山公」。李白『襄陽歌』『襄陽曲四首』『秋浦の詩十七首』また、漢の時代より前、古代から、3月最初の巳の日に行われていた伝統行事に「曲水の会」がある。水辺の大祓い行事として雪解け水が流れ始め、水量を増す川、池、湖、川が雪解けで水量を増す頃には、水辺の掃除をするというものである。渡水(着物の裾をちょっとだけ水に濡らす)、酒を川に流す、といったような形になって伝わっていくのである。また、棗や卵を川に投げ込んで神に捧げる風習もあったと記載されている。つまり、禊と水神を祭るということ。それが魏の時代に3月3日に行われるようになったとされるが、謝霊運の時代には書物での確認はできなかったのである。
 そして王朝の宮中では、「臨水の会」、「曲水の会」と形を変えていく。水辺で行う春の禊祓い祭事が陽気さそわれ、酒宴となった。唐の時代には帷を張り巡らせて、行われるようになる。


詳観記牒,鴻荒莫博。
(詳しく記牒【きろく】を観るに、鴻荒【むかし】は伝うる莫【な】し。)
詳しく調べてみたが、その記録に三月三日と特定されたものはない。大昔からこの日ということで伝えられたわけではないが、奇数日が重なっているので縁起のいいものなのでやり始めたのだろう。
鴻荒 大昔。太古。


降及雲鳥,日聖則天。
(降【くだ】りて雲と鳥とに及び、曰【い】わく聖は天に則ると。)
この日には雲竜や鳳凰が降りてくるに及び、聖心は天子の心に法則としている。


虞承唐命,周襲商艱。
(虞【ぐ】は唐の命を承け、周は商の艱【かん】を襲う。)
虞(舜)王は唐(堯)王の命を承け、周というくには商という国の艱難を引き継いだ。
虞唐 中国の伝説上の聖天子である陶氏((ぎょう))と有氏(舜(しゅん))を併せてよぶ名。また、その二人の治めた時代。○ 余分にあまる。余計な。「衍字・衍文」 2 延び広がる。押し広げる。○商は、紀元前1100年頃に、西の諸侯であった、武王こと、姫発率いるに滅ぼされます。有名な小説「封神演義」の舞台で、周の軍師・太公望(呂望 異民族の羌族の出身)などが活躍します。三皇五帝、聖人として黄帝・堯・舜。


江之永美,皇心惟眷。
(江は之れ永し、皇心 惟【こ】れ眷【いつく】しむ。)
長江の流れはこれは永遠に美しい、天子のみこころは苔むすほどのうるおいを与えている


矧乃暮春,時物芳衍。
(矧【いわ】んや迺【すなわ】ち 暮春、時物芳衍【はびこ】り)
ましてや春の盛りを過ぎているこの時、時も萬物、すべてが香しい香りに包まれる。


濫觴逶迤,周流蘭殿。
(濫觴【らんしょう】逶迤【ななめ】に、蘭殿に周流し。)
長江のような大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないものでうねっている。周の国の勢いは商の国を流し立派な宮殿とし今日の禊ぎとして流れた。
濫觴 《揚子江のような大河も源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流にすぎないという「荀子」子道にみえる孔子の言葉から》物事の起こり。始まり。起源。○逶迤 (道路,山脈,河川が)うねうねと続く,曲がりくねった。


禮備朝容,楽闋タ宴。
(礼は朝容に備わり、楽は夕宴に闋【や】む)
この例祭に、禊と水神を祭ることは備わっている、やがて夕方の宴に変わっていき音楽も終わってゆく。


 
この詩は、詩経のような古風な四言古詩で、宴会の楽しさを荘厳に賛えるものである。

『宋書』の本伝では、
 高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。中書侍郎に転ず。
とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事を相談することである。やがて、これから中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるのであった。すなわち、霊運は劉裕に随って武功をたてることはできなかった。ただ、「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。当時は中軍将軍であって硫騎将軍ではなかった。高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。ところが、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを得、五月にはついに死亡してしまった。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<3> 彭城宮中直感歲暮 詩集 357

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<3> 彭城宮中直感歲暮 詩集 357(彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)

418年 34歳の作 五言古詩

その年の九月九日、重陽の日、宋公すなわち劉裕と戯馬台(彭城=今の江蘇省銅山県の南にあった)所で、孔令つまり孔靖を送る宴会が盛大に開かれ、そのとき、「九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る」の作が生まれた。
晩秋になって、寒さが日毎に厳しくなって、自然が急にその美しい姿を変えてゆくのを草木や鳥を用いて巧みに歌い、そして、宋公が孔靖の送別の宴を開いたその様子を詳しく述べ、別れの悲しみをいうのであろうが、謝霊運は隠棲した願望をおたった者であった。
この年の暮れは彰城で暮らしていて、年の暮れに朝廷に宿直した時、「彭城の宮中にて直し歳暮に感ず」の作がある。
miyajima 697


彭城宮中直感歲暮
彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
草草眷物徂、契契矜歳殫。
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。

日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか

(彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)
草草 物の徂【ゆ】くを眷【み】、契契 歳の殫【つ】くるを矜【お】しむ
楚艶【そえん】に行【たび】の戚【かな】しみを起こし、呉趨【ごすう】に帰る懽びを絶つ。
修帯も旧裳に緩【ゆる】やかに、素髪に朱顔も改まりぬ。
晩暮に独り坐するを悲しむ、鳴く鶗【たか】 春蘭を歇【しぼ】ます。


現代語訳と訳註
(本文)
 彭城宮中直感歲暮
草草眷物徂、契契矜歳殫。
楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。

(下し文) (彭城の宮中にて直【とのい】し歳暮【さいぼ】に感ず)
草草 物の徂【ゆ】くを眷【み】、契契 歳の殫【つ】くるを矜【お】しむ
楚艶【そえん】に行【たび】の戚【かな】しみを起こし、呉趨【ごすう】に帰る懽びを絶つ。
修帯も旧裳に緩【ゆる】やかに、素髪に朱顔も改まりぬ。
晩暮に独り坐するを悲しむ、鳴く鶗【たか】 春蘭を歇【しぼ】ます。


(現代語訳)
彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか


(訳注)
彭城宮中直感歲暮

彭城の宮中に宿直した年の暮れに感じた詩
南朝宋は420年に劉裕(高祖・武帝)が、東晋の恭帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれ、国政は安定したが、文帝の治世の末期には北魏の侵攻に苦しむようになった。


草草眷物徂、契契矜歳殫。
辛く苦しいおもいをしたままでいて物が行くのを見る、先のことを考えて愁いに悩んでいる儘年の暮れを迎えて感じることがある。
草草 心配する様子。辛く苦しいおもいをする様子。草木が生い茂るさま。○契契 憂えるさま。憂苦の急迫するさま。


楚艶起行戚、呉趨絶帰懽。
長江下流域、昔楚の国であった頃からの艶歌は隠棲しようとする旅人を威光を強くした、呉の国のことは「呉趨行」という詩にもあらわされたように風光明美なところであり、ここに何時かは帰るのであるから今帰ることをしないことを喜ばないといけない。
楚艶 楚の国の艶歌。玉臺新詠に代表される宮中文化。長江下流域、湖南省、湖北省にあたる。○呉趨 陸機の呉という国の素晴らしさを歌った「呉趨行」という詩がある。呉の国には、慶雲が穏やかに漂い、涼やかな風が吹いている。山や沢には、芽生え伸び育っていくものが豊かにあり、土地の気風は、清らかで優れてもいるという内容のもの。


修帯緩舊裳、素髪改朱顔。
何度も古い衣裳を緩め、帯を直してきたことか、いつのまにか、若さあふれる顔から、白髪に変わっている
修帯 帯を直す。時間の経過を示す。○緩舊裳 衣装によって時の経過を示す。○素髪 白髪のことである。34歳ですべてが白髪になったというのではなく、自分の思う時の過ごし方をしていないうちに年を取っていってしまうことをいう。○改朱顔 紅顔の美少年からいつの間にか年を取った顔になる。時の経過を強調しているのではなく、自分の希望した人生を生きてきてはいないということをいっている。


晩暮悲濁坐、嗚鶗歇春蘭。
日暮れて哀しくしてひとりすわっている。ああこの鷹といわれた男も春のあでやかな蘭の花も萎れてしまうのか
○年の暮れと日の暮れ、気持ちの整理として作ったものであろう。この歌に表われた霊運の感情は年の暮れに、宮中で家族と離れて宿直している寂しさといった単純なものではないことは当然のことである。この国が約60年(420年 - 479年)の王朝であったこと、王朝の変遷はあっても旧態の貴族が支えているのであり、不安定な王朝でしかなかったものである。一方では建安文学の流れで、隠棲生活についての強いあこがれがあったのだ。


孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩 #2 詩集 356

 
 謝靈運index謝靈運詩古詩index漢の無名氏  
孟浩然index孟浩然の詩韓愈詩index韓愈詩集
杜甫詩index杜甫詩 李商隠index李商隠詩
李白詩index 李白350首女性詩index女性詩人 
 上代~隋南北朝・隋の詩人初唐・盛唐・中唐・晩唐 
 
孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<2> 九日従宋公戯馬台集送孔令詩 #2 詩集 356

(九日宋公の戯馬台の集に従って孔令を送る)


九日、従宋公戯馬台集、送孔令詩
季秋邊朔苦、旅鴈違霜雪。凄凄陽卉腓、皎皎寒潬洯。
良辰感聖心、雲旗興暮節。鳴葭戻朱宮、蘭巵獻時哲。
餞宴光有孚、和樂隆所缺。
#2
在宥天下理、吹萬羣方悦。
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。
弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
渚の湾になったところで小舟の棹をとめて待っている。宴の風景は最後の音楽が終わるのを待っている。
河流有急瀾、浮驂無緩轍。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてすすむ。
豈伊川途念、宿心愧將別。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。
彼美丘園道、喟焉傷薄劣。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。

宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
豈に伊れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。

謝霊運は、山水詩人といわれた王維(699-759)に、情熱の詩人李白(701-762)に、愛国の詩人杜甫(712-770)に、孟浩然(689―740)に愛され、消化されて、それぞれに大きな影を静かに落としている。特に李白は、強く霊運文学を意識し、これに大きな目標をおいていたらしいことは、注目すべきところである。宋以後、明から清にかけても多くの文人に霊運は山水詩文学の元祖として愛され、その名句が口ずさまれてきた。それは、幾多の人々によって、その詩に、また、詩に関する随筆である詩話に、いろいろな形で述べられている。
偉大な財力と才能をもちながら、不安な政治のなかに、後半の人生は不幸にも失意に満ちつつ、熱心に自然の美を求めて生き続けた霊運の詩は、おかれた環境、あたえられた試練が詩人を作り上げたのであろう。
この求美の精神と美しい調べは、今なお、現代にも生きているし、未来にも消滅しないであろう。

a謝霊運011

現代語訳と訳註
(本文)

在宥天下理、吹萬羣方悦。
歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
河流有急瀾、浮驂無緩轍。
豈伊川途念、宿心愧將別。
彼美丘園道、喟焉傷薄劣。

(下し文)
宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
豈に伊れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。

(現代語訳)
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてすすむ。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。


(訳注)
在宥天下理、吹萬羣方悦。

宥【ゆる】うする在りて天下 埋【おさ】まり、吹万【あたたか】くすれば群方 悦【よろこ】ぶ。
天子は天下の筋道として酒宴のおくり物をたまわったのである、万物の根本の気がやしなわれ、集まった人々は、皆喜びを持つことができる。
○宥 客をもてなす酒宴の贈り物。おおめにみる。○ 天下の筋道。原理、法理。○吹萬 もろもろの風。万物の根本の気がやしなわれること。


歸客遂海隅、脱冠謝朝列。
帰客は海隅に遂【ゆ】かんとし、冠を脱し朝列を謝す。
かえる客は岸辺を歩いていく、型ぐるしい冠を脱ぎ去って朝の参列をお許しいただくことになる。

弭棹薄枉渚、指景待樂闋。
棹【さお】を弭【とど】め枉がれる渚に薄【いた】り、景【ひ】を指し楽の闋【お】わるを待つ。

渚の湾になったところで小舟の棹をとめて待っている。宴の風景は最後の音楽が終わるのを待っている。
枉渚 曲渚。入り江。辰州の東にある地名。 ○指景 日射しを指し、時を待つ。○樂闋 膳を撤去するときの奏楽の終わること。

河流有急瀾、浮驂無緩轍。
河流 急なる瀾【なみ】有り、浮驂【ゆくそえうま】は緩【ゆる】き轍【わだち】なし。
江川は波立てながら速く流れている、はね浮いている添え馬が幅広に進み轍をなくしてゆっくりとすすむ。

浮驂  浮くように軽るくかけてゆく添え馬  ○緩轍 ゆるやかなわだち。速度の遅い車。

豈伊川途念、宿心愧將別。
豈に伊【こ】れ川途の念いのみならんや、宿心ありて将に別れんとするに愧ず。
どうしてこのようにまだやり遂げるべき仕事が中途のように思えるのだが、旅の志というものをもっていることは別れということに対して恥じ入るものである。


彼美丘園道、喟焉傷薄劣。
彼の美しき丘園の道、喟焉【なげきて】薄劣【おとれる】を傷む。
あこがれているのは美しい丘や田園へ隠棲していくことであるが、それもできずに自分の覚悟のなさを嘆くのである。
喟焉  ため息をついて嘆く。○薄劣 徳が薄く、才能が劣っていること。謙譲の語。 

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