漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2012年07月

秋胡詩 (6) 顔延之(延年) 詩<8>Ⅱ李白に影響を与えた詩477 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1248

秋胡詩 (6) 顔延之(延年) 詩<8>Ⅱ李白に影響を与えた詩477 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1248


魯国の秋胡子の妾なる潔婦について述べた詩。
列女伝

魯秋潔婦. 潔婦者,魯秋胡子妻也。既納之五日,去而宦於陳,五年乃歸。未至家,見路旁婦人採桑,秋胡子悅之,下車謂曰:若曝採桑,吾行道,願託桑蔭下,下齎休焉。婦人採桑不輟,秋胡子謂曰:力田不如逢豐年,力桑不如見國卿。吾有金,願以與夫人。婦人曰:『採桑力作,紡績織紝以供衣食,奉二親養。夫子已矣,不願人之金。秋胡遂去。歸至家,奉金遺母,使人呼其婦。婦至,乃嚮採桑者也,秋胡子慚。婦曰:子束髮脩身,辭親往仕,五年乃還,當所悅馳驟,揚塵疾至。今也乃悅路傍婦人,下子之糧,以金予之,是忘母也。忘母不孝,好色淫泆,是污行也,污行不義。夫事親不孝, 則事君不忠。處家不義,則治官不理。孝義並亡,必不遂矣。妾不忍見,子改娶矣,妾亦不嫁。遂去而東走,投河而死。


秋胡子は、潔婦を納れ、五日にして、去りて陳に宦す。五年にして帰る。末だ其の家に至らざるとき、路傍に美しき婦人の方に桑を採るもの有るを見る。秋胡子は車より下り、謂うげて日く、いま吾に金あり、願はくは以て夫人に与へんと。婦人日く、嘻、妾は桑を採りて二親に奉ず。人の金を願わずと。秋湖子遂に去り、帰って家に至り金を奉じて其の母に遣る。その母、人をして其の婦を呼ばしむ。婦至る、乃ち向に桑を採りしものなり。秋湖は之を見て慙(は)づ。婦人日く、髪を束ね身む修め、親を辞し往いて仕ふ。五年にして乃ち還るを得たり。まさに親戚を見るべきなるに、今や乃ち路傍の婦人を悦びて、子の装を下し、金を以て之に与へんとす。これ母を忘るるの不孝なり。妾は不孝の人を見るに忍びずと。遂に去りて走り、自ら河に投じて裾す」(列女伝 秋胡子)


魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。

顔延年はこの説話を詠んだ詩。


秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。
(2)
燕居未及好,良人顧有違。
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。
(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲哉遊宦子,勞此山川路。

悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

 (4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。
はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
良時爲此別,日月方向除。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
歲暮臨空房,涼風起坐隅。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
寢興日已寒,白露生庭蕪。
寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。
超遙【ちょうよう】として行人【こうじん】は遠く,宛轉【えんてん】年運は徂【ゆ】く。
良時【りょうじ】此の別れを爲せしとき,日月は方【まさ】に除に向【なん】なんとす。
孰【たれ】か知らん寒暑【かんしょ】の積りて,僶俛【びんべん】榮枯【えいこ】を見るを!
歲暮に空房【くうぼう】に臨むに,涼風【りょうふう】坐隅【ざぐう】に起る。
寢興【しんこう】日ごとに已に寒く,白露は庭蕪【ていぶ】生ず。
(5)  
勤役從歸願,反路遵山河。
役所勤めのうちにも帰省の願いが聞き入れられ、帰り道は山や河に沿って帰って行く。
昔辭秋未素,今也歲載華。
昔、いとま乞いをしたときは秋もまだ深くない落葉のない時期であったが、今は歳も新たに春の花が咲いている。
蠶月觀時暇,桑野多經過。
春の蚕を飼う月にちょうどよい休暇をもらったのだ、帰り道は先々さかりの桑畑を通った。
佳人從所務,窈窕援高柯。
そこには美しい女が務めの桑摘みをしていた、見目麗しい様子で高い枝をひきよせて桑の葉を摘んでいた。
傾城誰不顧,弭節停中阿。
世にもまれなその美人は一たび顧みれば人の城を傾けるといわれる魅力あるその美貌を、誰が振り向かないということがあるだろうか。秋湖も車の速度をとめて路の曲がり角に立ちどまって見とれてしまったのである。
勤役【きんえき】歸願【きがん】に從い,反路【はんろ】山河に遵【したが】う。
昔 辭せしとき秋未だ素ならず,今や歲は載【すなわ】ち華【はな】さく。
蠶月【さんげつ】時暇【じか】を觀,桑野【そうや】經過すること多し。
佳人【かじん】は務むる所に從う,窈窕【ようちょう】として高柯【こうか】を援【ひ】く。
傾城【けいじょう】誰か顧みざらん,節を弭【おさ】えて中阿【ちゅうあ】に停【とど】まる。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。
年はすぎ往き、誠意や思慕の心は疲れてしまい維持しなかった、それに路は遠く隔たって声も姿も久しく見聞きしていない。
雖爲五載別,相與昧平生。
五年もの別れをしていたのだけれども、お互いに平生の様子をなにもわからなかったものだ。
舍車遵往路,凫藻馳目成。
秋湖は車をおりて今来た道にしたがって戻った、秋湖は鴨が水草を得て喜んで踊り進むようにして、桑畑に美人に目くばせして「今夜の情交」の約束をしようとした。
南金豈不重?聊自意所輕。
秋湖が贈ろうとした南国産の金はどうして重い値打ちがないであろうか、しかし、秋湖の妻はとにかく自分の心でそれを軽いつまらないものと思ったのである。
義心多苦調,密比金玉聲。
彼女は貞節を重しとするためにお金を拒んだのである。その節義の心は秋湖にとって多くの苦い響きの言葉で語られたが、その声は全く金玉の美しく清い音にも似ていていた。
年往きて誠に思は勞するも、事遠くして音形は闊【とお】し。
五載の別を爲すと雖も、相與に平生に昧し。
車を捨てて往路に遵【したが】ひ、凫藻【ふそう】して目成【もくせい】を馳す。
南金壹重からざらんや。聊【いささか】か自ら意に握んずる所なり。
義心に苦調【くちょう】多し。密に金玉【きんぎょく】の聲に比す。

 (7)  
高節難久淹,朅來⑼空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜⒀。[1]


現代語訳と訳註
(本文) (6)  

年往誠思勞,事遠闊音形。
雖爲五載別,相與昧平生。
舍車遵往路,凫藻馳目成。
南金豈不重?聊自意所輕。
義心多苦調,密比金玉聲。


(下し文)
年往きて誠に思は勞するも、事遠くして音形は闊【とお】し。
五載の別を爲すと雖も、相與に平生に昧し。
車を捨てて往路に遵【したが】ひ、凫藻【ふそう】して目成【もくせい】を馳す。
南金壹重からざらんや。聊【いささか】か自ら意に握んずる所なり。
義心に苦調【くちょう】多し。密に金玉【きんぎょく】の聲に比す。


(現代語訳)
年はすぎ往き、誠意や思慕の心は疲れてしまい維持しなかった、それに路は遠く隔たって声も姿も久しく見聞きしていない。
五年もの別れをしていたのだけれども、お互いに平生の様子をなにもわからなかったものだ。
秋湖は車をおりて今来た道にしたがって戻った、秋湖は鴨が水草を得て喜んで踊り進むようにして、桑畑に美人に目くばせして「今夜の情交」の約束をしようとした。
秋湖が贈ろうとした南国産の金はどうして重い値打ちがないであろうか、しかし、秋湖の妻はとにかく自分の心でそれを軽いつまらないものと思ったのである。
彼女は貞節を重しとするためにお金を拒んだのである。その節義の心は秋湖にとって多くの苦い響きの言葉で語られたが、その声は全く金玉の美しく清い音にも似ていていた。


(訳注)
年往誠思勞,事遠闊音形。

はすぎ往き、誠意や思慕の心は疲れてしまい維持しなかった、それに路は遠く隔たって声も姿も久しく見聞きしていない。
闊音形 声も姿も見聞きせず久しくなった。○ 遠く、うとい。通ぜぬこと。


雖爲五載別,相與昧平生。
五年もの別れをしていたのだけれども、お互いに平生の様子をなにもわからなかったものだ。
相與 ここは「たがいに」ではない。○昧平生 平素のようすがよくわからない。 ○平生 ここは、その昔、かつて。


舍車遵往路,凫藻馳目成。
秋湖は車をおりて今来た道にしたがって戻った、秋湖は鴨が水草を得て喜んで踊り進むようにして、桑畑に美人に目くばせして「今夜の情交」の約束をしようとした。
遵往路 すぎて来た路に引きかえす。・凫藻馳目成 凫はかも。かもが水藻を得て喜び躍るように、進んで美女と目くばせして情交を約束する。目成は目で約束する。楚辞九歌に「满堂兮美人,忽独与余兮目成」堂に满ちて美人あるに,忽ち独だ与に余と目成す。
凫藻 呂延済は「秋胡が共の妻を望み匹肋(怠むこと、殆鳥の水草を俳で、猷び尿りて言むがごとし)という。○目成 自分の思いを成しとぐべく目くばせすること。ここは「いどむ」ため。


南金豈不重?聊自意所輕。
秋湖が贈ろうとした南国産の金はどうして重い値打ちがないであろうか、しかし、秋湖の妻はとにかく自分の心でそれを軽いつまらないものと思ったのである。
南金 詩経 魯頌 泮水篇に「元龜象齒,大賂南金。」(元亀象俳、大南金を賂(おく)る」。南方の荊州・揚州に産する黄金。・聊自穿所輯 とにかく自分では心に輕んじた。 秋湖の妻の思い:


義心多苦調,密比金玉聲。
彼女は貞節を重しとするためにお金を拒んだのである。その節義の心は秋湖にとって多くの苦い響きの言葉で語られたが、その声は全く金玉の美しく清い音にも似ていていた。
○義心 義とは、夫蛸の道をさす。○多苦調 聞く者の心に苦しい響きの言葉が多い。○ ひそかに、ひそめる。○金玉声 ここは秋胡自身の聲。毛詩の小雅、白駒篇に「爾の音を金玉にして、遐心有る毋かれ」という。音は声。金玉にすとは、愛惜(おしむ)。出すことを、おしむ。

秋胡詩 (5) 顔延之(延年) 詩<7>Ⅱ李白に影響を与えた詩476 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1245

秋胡詩 (5) 顔延之(延年) 詩<7>Ⅱ李白に影響を与えた詩476 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1245



魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。

顔延年はこの説話を詠んだ詩。


秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。
(2)
燕居未及好,良人顧有違。
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。
(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲哉遊宦子,勞此山川路。

悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

(4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。
はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
良時爲此別,日月方向除。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
歲暮臨空房,涼風起坐隅。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
寢興日已寒,白露生庭蕪。
寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。
超遙【ちょうよう】として行人【こうじん】は遠く,宛轉【えんてん】年運は徂【ゆ】く。
良時【りょうじ】此の別れを爲せしとき,日月は方【まさ】に除に向【なん】なんとす。
孰【たれ】か知らん寒暑【かんしょ】の積りて,僶俛【びんべん】榮枯【えいこ】を見るを!
歲暮に空房【くうぼう】に臨むに,涼風【りょうふう】坐隅【ざぐう】に起る。
寢興【しんこう】日ごとに已に寒く,白露は庭蕪【ていぶ】生ず。
(5)  
勤役從歸願,反路遵山河。
役所勤めのうちにも帰省の願いが聞き入れられ、帰り道は山や河に沿って帰って行く。
昔辭秋未素,今也歲載華。
昔、いとま乞いをしたときは秋もまだ深くない落葉のない時期であったが、今は歳も新たに春の花が咲いている。
蠶月觀時暇,桑野多經過。
春の蚕を飼う月にちょうどよい休暇をもらったのだ、帰り道は先々さかりの桑畑を通った。
佳人從所務,窈窕援高柯。
そこには美しい女が務めの桑摘みをしていた、見目麗しい様子で高い枝をひきよせて桑の葉を摘んでいた。
傾城誰不顧,弭節停中阿。
世にもまれなその美人は一たび顧みれば人の城を傾けるといわれる魅力あるその美貌を、誰が振り向かないということがあるだろうか。秋湖も車の速度をとめて路の曲がり角に立ちどまって見とれてしまったのである。
勤役【きんえき】歸願【きがん】に從い,反路【はんろ】山河に遵【したが】う。
昔 辭せしとき秋未だ素ならず,今や歲は載【すなわ】ち華【はな】さく。
蠶月【さんげつ】時暇【じか】を觀,桑野【そうや】經過すること多し。
佳人【かじん】は務むる所に從う,窈窕【ようちょう】として高柯【こうか】を援【ひ】く。
傾城【けいじょう】誰か顧みざらん,節を弭【おさ】えて中阿【ちゅうあ】に停【とど】まる。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。雖爲五載別,相與昧平生。舍車遵往路,凫藻馳目成。南金豈不重?聊自意所輕。義心多苦調,密比金玉聲。
(7)  
高節難久淹,朅來⑼空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜⒀。[1]

(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。

ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲哉遊宦子,勞此山川路。
悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

(4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。

はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
良時爲此別,日月方向除。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
歲暮臨空房,涼風起坐隅。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
寢興日已寒,白露生庭蕪。
寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。


現代語訳と訳註
(本文) (5)
  
勤役從歸願,反路遵山河。
昔辭秋未素,今也歲載華。
蠶月觀時暇,桑野多經過。
佳人從所務,窈窕援高柯。
傾城誰不顧,弭節停中阿。


(下し文)
勤役【きんえき】歸願【きがん】に從い,反路【はんろ】山河に遵【したが】う。
昔 辭せしとき秋未だ素ならず,今や歲は載【すなわ】ち華【はな】さく。
蠶月【さんげつ】時暇【じか】を觀,桑野【そうや】經過すること多し。
佳人【かじん】は務むる所に從う,窈窕【ようちょう】として高柯【こうか】を援【ひ】く。
傾城【けいじょう】誰か顧みざらん,節を弭【おさ】えて中阿【ちゅうあ】に停【とど】まる。


(現代語訳) (第五首)
役所勤めのうちにも帰省の願いが聞き入れられ、帰り道は山や河に沿って帰って行く。
昔、いとま乞いをしたときは秋もまだ深くない落葉のない時期であったが、今は歳も新たに春の花が咲いている。
春の蚕を飼う月にちょうどよい休暇をもらったのだ、帰り道は先々さかりの桑畑を通った。
そこには美しい女が務めの桑摘みをしていた、見目麗しい様子で高い枝をひきよせて桑の葉を摘んでいた。
世にもまれなその美人は一たび顧みれば人の城を傾けるといわれる魅力あるその美貌を、誰が振り向かないということがあるだろうか。秋湖も車の速度をとめて路の曲がり角に立ちどまって見とれてしまったのである。


(訳注)
勤役從歸願,反路遵山河。

役所勤めのうちにも帰省の願いが聞き入れられ、帰り道は山や河に沿って帰って行く。
勤役 役所のつとめ。 ・従帰願 帰郷の願どおりになる。 ・反路遵山河 帰りの路は山川に沿って続く。 


昔辭秋未素,今也歲載華。
昔、いとま乞いをしたときは秋もまだ深くない落葉のない時期であったが、今は歳も新たに春の花が咲いている。
 木の葉が落ちること。 ・載華 草木がもう花が咲いている。載は「すなはち」。


蠶月觀時暇,桑野多經過。
春の蚕を飼う月にちょうどよい休暇をもらったのだ、帰り道は先々さかりの桑畑を通った。
蠶月 養蚕の月。養蚕をいう。・歓時暇 ちょうどよい晦に当たった休暇か餓ぶ。 


佳人從所務,窈窕援高柯。
そこには美しい女が務めの桑摘みをしていた、見目麗しい様子で高い枝をひきよせて桑の葉を摘んでいた。
佳人 美人。秋湖の妻。この時は自分の妻とは思っていない。・従所務「所」は文選に「此」に作る。・窈窕 たおやか。美人の形容。 ・援高柯 高い桑の枝を引き寄せて葉を摘む。


傾城誰不顧,弭節停中阿。
世にもまれなその美人は一たび顧みれば人の城を傾けるといわれる魅力あるその美貌を、誰が振り向かないということがあるだろうか。秋湖も車の速度をとめて路の曲がり角に立ちどまって見とれてしまったのである。
傾城 漢の李延年が妹を歌った佳人歌に。「北方に佳人有り、絶世にして独立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く。寧んぞ傾と城傾国とを知らざらん。佳人は再び得難し」と。美人。・弭節 車の速度を止める。 ・中阿 出路の曲がりかど。阿は山の中腹。

秋胡詩 (4) 顔延之(延年) 詩<6>Ⅱ李白に影響を与えた詩475 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1242

秋胡詩 (4) 顔延之(延年) 詩<6>Ⅱ李白に影響を与えた詩475 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1242


秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。
(2)
燕居未及好,良人顧有違。
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。

(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。

ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲哉遊宦子,勞此山川路。
悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

 (4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。
はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
良時爲此別,日月方向除。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
歲暮臨空房,涼風起坐隅。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
寢興日已寒,白露生庭蕪。

寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。
超遙【ちょうよう】として行人【こうじん】は遠く,宛轉【えんてん】年運は徂【ゆ】く。
良時【りょうじ】此の別れを爲せしとき,日月は方【まさ】に除に向【なん】なんとす。
孰【たれ】か知らん寒暑【かんしょ】の積りて,僶俛【びんべん】榮枯【えいこ】を見るを!
歲暮に空房【くうぼう】に臨むに,涼風【りょうふう】坐隅【ざぐう】に起る。
寢興【しんこう】日ごとに已に寒く,白露は庭蕪【ていぶ】生ず。

 (5)  
勤役從歸願,反路遵⑹山河。昔辭秋未素,今也歲載華。蠶月觀時暇,桑野多經過。佳人從所務,窈窕援高柯。傾城誰不顧,弭節⑺停中阿⑻。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。雖爲五載別,相與昧平生。舍車遵往路,凫藻馳目成。南金豈不重?聊自意所輕。義心多苦調,密比金玉聲。
(7)  
高節難久淹,朅來⑼空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜⒀。[1]


現代語訳と訳註
(本文) (4) 
 
超遙行人遠,宛轉年運徂。
良時爲此別,日月方向除。
孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
歲暮臨空房,涼風起坐隅。
寢興日已寒,白露生庭蕪。


(下し文) (4)  
超遙【ちょうよう】として行人【こうじん】は遠く,宛轉【えんてん】年運は徂【ゆ】く。
良時【りょうじ】此の別れを爲せしとき,日月は方【まさ】に除に向【なん】なんとす。
孰【たれ】か知らん寒暑【かんしょ】の積りて,僶俛【びんべん】榮枯【えいこ】を見るを!
歲暮に空房【くうぼう】に臨むに,涼風【りょうふう】坐隅【ざぐう】に起る。
寢興【しんこう】日ごとに已に寒く,白露は庭蕪【ていぶ】生ず。


(現代語訳)
はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。


(訳注) (4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。
はるかにも旅ゆく人、夫、秋湖は遠ざかり、めぐりめぐって年はうつりゆく。
超遙 遙かに遠い。〇行人 旅人。〇宛転 次々に変化すること。顔の形の美しいさま。白居易『長恨歌』。「六軍不發無奈何、宛轉蛾眉馬前死。」やたら寝返りを打つさま。めぐりまわる変化すること。『荘子、天下』「椎拍輐斷、與物宛轉。」〇年運 年のめぐり。


良時爲此別,日月方向除。
あの新婚の良い時に別れてから月日はちょうど年が改たまろうとしている。
良時 新婚のよい時。〇向除 歳末、年が尽き去ろうとする。


孰知寒暑積,僶俛見榮枯!
誰も知らないうちに、寒いときがあり、暑さがやってきて歳を重ねている、それはつとめて速かに花を咲かせ、そして枯れてゆくのを見るのである。
僶俛 つとめて速いこと。光陰矢のごとし。


歲暮臨空房,涼風起坐隅。
こうして月日が過ぎ、はからずも年の暮れに夫のいないさびしい部屋に入って見る、寒い風が坐席のかたわらから吹きおこる。(そばには夫の温か味があったのに)
空房 主人のいない室。


寢興日已寒,白露生庭蕪。
寝て起ききて日一日と日を重ね、としをかさねて、もう既に寒い季節になっている、私の操である白露の玉は庭の真ん中で輝くほどであったがしげみの陰に置くころとなった。
白露 草木などにおく露が白く見えることからいう。茶の一種。二十四節季の一つ、陰暦七月半ば過ぎ。秋の夜露は月に輝く貞操を示す。〇庭蕪 蕪:あれ草、廡:庭の軒先。庭の真ん中で輝くほどであったが今はしげみの陰に置くということ。貞婦

秋胡詩 (3) 顔延之(延年) 詩<5>Ⅱ李白に影響を与えた詩474 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1239

秋胡詩 (3) 顔延之(延年) 詩<5>Ⅱ李白に影響を与えた詩474 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1239


魯国の秋胡子の妾なる潔婦についてのべた。
列女伝
魯秋潔婦. 潔婦者,魯秋胡子妻也。既納之五日,去而宦於陳,五年乃歸。未至家,見路旁婦人採桑,秋胡子悅之,下車謂曰:若曝採桑,吾行道,願託桑蔭下,下齎休焉。婦人採桑不輟,秋胡子謂曰:力田不如逢豐年,力桑不如見國卿。吾有金,願以與夫人。婦人曰:『採桑力作,紡績織紝以供衣食,奉二親養。夫子已矣,不願人之金。秋胡遂去。歸至家,奉金遺母,使人呼其婦。婦至,乃嚮採桑者也,秋胡子慚。婦曰:子束髮脩身,辭親往仕,五年乃還,當所悅馳驟,揚塵疾至。今也乃悅路傍婦人,下子之糧,以金予之,是忘母也。忘母不孝,好色淫泆,是污行也,污行不義。夫事親不孝, 則事君不忠。處家不義,則治官不理。孝義並亡,必不遂矣。妾不忍見,子改娶矣,妾亦不嫁。遂去而東走,投河而死。
(列女伝 秋胡子)

秋胡子は、潔婦を納れ、五日にして、去りて陳に宦す。五年にして帰る。末だ其の家に至らざるとき、路傍に美しき婦人の方に桑を採るもの有るを見る。秋胡子は車より下り、謂うげて日く、いま吾に金あり、願はくは以て夫人に与へんと。婦人日く、嘻、妾は桑を採りて二親に奉ず。人の金を願わずと。秋湖子遂に去り、帰って家に至り金を奉じて其の母に遣る。その母、人をして其の婦を呼ばしむ。婦至る、乃ち向に桑を採りしものなり。秋湖は之を見て慙(は)づ。婦人日く、髪を束ね身む修め、親を辞し往いて仕ふ。五年にして乃ち還るを得たり。まさに親戚を見るべきなるに、今や乃ち路傍の婦人を悦びて、子の装を下し、金を以て之に与へんとす。これ母を忘るるの不孝なり。妾は不孝の人を見るに忍びずと。遂に去りて走り、自ら河に投じて裾す


魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。

顔延年はこの説話を詠んだ詩。
本讃には九百とあるが、文選ではすべてを一首としているのがよい。



秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。
(2)
燕居未及好,良人顧有違。
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。

(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲哉遊宦子,勞此山川路。

悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

 (4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。良時爲此別,日月方向除。孰知寒暑積,僶俛⑸見榮枯!歲暮臨空房,涼風起坐隅。寢興日已寒,白露生庭蕪。
(5)  
勤役從歸願,反路遵⑹山河。昔辭秋未素,今也歲載華。蠶月觀時暇,桑野多經過。佳人從所務,窈窕援高柯。傾城誰不顧,弭節⑺停中阿⑻。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。雖爲五載別,相與昧平生。舍車遵往路,凫藻馳目成。南金豈不重?聊自意所輕。義心多苦調,密比金玉聲。
(7)  
高節難久淹,朅來⑼空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜⒀。

tsuki0882


現代語訳と訳註
(本文)(3) 
 
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
悲哉遊宦子,勞此山川路。


(下し文)
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。


(現代語訳)
ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。
悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。


(訳注) (3) 
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
ああわれ秋胡は役目のための旅を悲しみながら、詩経の巻耳や陟岵の篇にしばしは険阻な山路をのぼると歌ってある、ように、朝から夜おそくまで旅を続ける。
〇行役・三陟 骨身を惜しまず朝も夕も行役する。『詩経国風:魏風・陟岵篇』「陟彼岵兮・・・行役夙夜・・・」詩経の周南篇・巻耳、魏風・陟岵篇に外交の旅に出た夫が故郷にいる妻の身になって自分のことをこんな風に思ってくれているというもので、旅の苦しみ疲れをいう。『詩経、周南篇・巻耳』 「陟彼崔嵬」「陟彼高岡、我馬玄黃。」「陟彼砠矣、我馬瘏矣。」〇窮晨暮 朝早くから夜おそくまで。


嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
車を厳重に整えて、風の寒い山を越え、鞍を解き馬を休めて、霜露を蒙って野宿する。
嚴駕 馬車の装備を戒しめ、用心する。〇解鞍 鞍を解いて休む。〇犯鋸露 霜露を蒙って野宿する。


原隰多悲涼,回飙卷高樹。
低い湿地の草原には悲しみやさびしさがみちて、つむじ風は高い木を吹き巻いている。
原隰 湿地の草原。〇悲涼 哀しみ、愁い。〇回飙 吹き巻くつむじ風。


離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
群れを離れたけものが草深い小道に飛び出し、物に驚いた鳥が散乱して去って行く。


悲哉遊宦子,勞此山川路。
悲しいことだ、役目のために他国に旅する私は、この山川の路に苦労しているのである。
遊宦子 他国に仕官する人。宦は仕官。


『詩経国風:魏風・陟岵篇』
陟彼岵兮 瞻望父兮 父曰嗟予子 行役夙夜無已 上慎旃哉 猶來無止 陟彼屺兮 瞻望母兮 母曰嗟予季 行役夙夜無寐 上慎旃哉 猶來無棄 陟彼岡兮 瞻望兄兮 兄曰嗟予弟 行役夙夜必偕 上慎旃哉 猶來無死


『詩経、周南篇・巻耳』
采采卷耳、不盈頃筐。嗟我懷人、寘彼周行。   
陟彼崔嵬、我馬虺隤。我姑酌彼金罍、維以不永懷。
陟彼高岡、我馬玄黃。我姑酌彼兕觥、維以不永傷。
陟彼砠矣、我馬瘏矣。我僕痡矣、云何吁矣。
卷耳を采り采る、頃筐に盈たず。
嗟(ああ)我 人を懷ひて、彼の周行に寘(お)く。
彼の崔嵬に陟(のぼ)れば、我が馬虺隤(かいたい)たり。
我姑(しば)らく彼の金罍に酌み、維れを以て永く懷はざらん。
彼の高岡に陟れば、我が馬玄黃たり
我姑らく彼の兕觥(じこう)に酌み、維れを以て不永く傷まざらん
彼の砠に陟れば、我が馬は瘏(や)む
我が僕は痡む、云何(いかん)せん 吁(ああ)


秋胡詩(3)  
嗟余怨行役,三陟窮晨暮。
嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。
原隰多悲涼,回飙卷高樹。
離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。
悲哉遊宦子,勞此山川路。
嗟【ああ】余【われ】は行役【こうえき】を怨む,三び陟【のぼ】りて晨暮【しんぼ】を窮む。
駕【が】を嚴【いま】しめて風寒【ふうかん】を越え,鞍【くら】を解いて霜露【そうろ】を犯す。
原隰【げんしゅう】に悲涼【ひりょう】多く,回飙【かいひょう】は高樹【こうじゅ】を卷く。
離獸【りじゅう】は荒蹊【こうけい】に起り,驚鳥【きょうちょう】は縦横に去る。
悲しい哉、遊宦【ゆうかん】の子、此の山川【さんせん】の路に勞【つか】る。

秋胡詩 (2) 顔延之(延年) 詩<4>Ⅱ李白に影響を与えた詩473 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1236

秋胡詩 (2) 顔延之(延年) 詩<4>Ⅱ李白に影響を与えた詩473 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1236



秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。

空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。

(2)
燕居未及好,良人顧有違。
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。

(3)  
嗟余怨行役,三陟⑷窮晨暮。嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。原隰多悲涼,回飙卷高樹。離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。悲哉遊宦子,勞此山川路。
(4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。良時爲此別,日月方向除。孰知寒暑積,僶俛⑸見榮枯!歲暮臨空房,涼風起坐隅。寢興日已寒,白露生庭蕪。
(5)  
勤役從歸願,反路遵⑹山河。昔辭秋未素,今也歲載華。蠶月觀時暇,桑野多經過。佳人從所務,窈窕援高柯。傾城誰不顧,弭節⑺停中阿⑻。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。雖爲五載別,相與昧平生。舍車遵往路,凫藻馳目成。南金豈不重?聊自意所輕。義心多苦調,密比金玉聲。
(7)  
高節難久淹,朅來空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜。[1]


現代語訳と訳註
(本文) (2)

燕居未及好,良人顧有違。
脫巾千裏外,結绶登王畿。
戒徒在昧旦,左右來相依。
驅車出郊郭,行路正威遲。
存爲久離別,沒爲長不歸。

(下し文)
燕居【えんきょ】未だ好するに及ばざる,良人顧って違【さ】る有り。
巾【きん】を千裏の外に脫して,綬を結んで王畿【おうき】に登る。
徒を戒しむること昧旦【まいたん】に在り,左右來って相依る。
車を驅りて郊郭【こうかく】を出で,行路正に威遲【いち】たり。
存して久しき離別を爲し,沒して長き不歸を爲さん。

(現代語訳)
夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。


(訳注)
燕居未及好,良人顧有違。

夫婦が和らいで暮らし、また仲睦まじくなるまでになっていないのに、夫はそれとは違って遠くへ別れることになった。
・燕居 和らいでおる。家でのんびりすること。 『論語、述而』「子之燕居。申申如也。夭夭如也。」(子の燕居するや、申申如たり。夭夭如たり。)・好 仲良くする。 ・良人 夫。


脫巾千裏外,結绶登王畿。
平民の頭巾を脱いで官僚の冠をつけ、千里の彼方に仕官して、官印の綬を腰に結んで王の治められる都、陳である「王畿」に上るのであった。
・脱巾 頭巾をぬいで衣冠をつけて仕官する。布衣すなわち平民のかぶる、づきんのこと。・綬 印綬、官印のひも。・王畿 みやこ。王の直接治める地域。王城の郭外になる五百里四方の地。ここは「陳は、王者の起こるところなれば、陳をいう」(詩緯に見える)。


戒徒在昧旦,左右來相依。
しもべの者を戒めて朝まだきに出発の準備を整える。そうして、左右の従者も夫の傍に来て寄り添う。
昧旦 まだ暗い朝。朝まだき。


驅車出郊郭,行路正威遲。
やがて車を駆って城外の野に出ると、行く路はまさに遙か先までうねうねと続いている。
威遲 道が遠く続くうねりさま。遠海に同じ。


存爲久離別,沒爲長不歸。
これから後、生存しても久しい別離となり、死ねば永遠に帰ってこられない、哀しいことである。

秋胡詩 (1) 顔延之(延年) 詩<2>Ⅱ李白に影響を与えた詩471 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1230

秋胡詩 (1) 顔延之(延年) 詩<2>Ⅱ李白に影響を与えた詩471 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1230

顔延年はこの説話を詠んだ詩。
本讃には九首とあるが、文選ではすべてを一首としている。

魯国の秋胡子の妾なる潔婦についてのべた。
列女伝
魯秋潔婦. 潔婦者,魯秋胡子妻也。既納之五日,去而宦於陳,五年乃歸。未至家,見路旁婦人採桑,秋胡子悅之,下車謂曰:若曝採桑,吾行道,願託桑蔭下,下齎休焉。婦人採桑不輟,秋胡子謂曰:力田不如逢豐年,力桑不如見國卿。吾有金,願以與夫人。婦人曰:『採桑力作,紡績織紝以供衣食,奉二親養。夫子已矣,不願人之金。秋胡遂去。歸至家,奉金遺母,使人呼其婦。婦至,乃嚮採桑者也,秋胡子慚。婦曰:子束髮脩身,辭親往仕,五年乃還,當所悅馳驟,揚塵疾至。今也乃悅路傍婦人,下子之糧,以金予之,是忘母也。忘母不孝,好色淫泆,是污行也,污行不義。夫事親不孝, 則事君不忠。處家不義,則治官不理。孝義並亡,必不遂矣。妾不忍見,子改娶矣,妾亦不嫁。遂去而東走,投河而死。

秋胡子は、潔婦を納れ、五日にして、去りて陳に宦す。五年にして帰る。末だ其の家に至らざるとき、路傍に美しき婦人の方に桑を採るもの有るを見る。秋胡子は車より下り、謂うげて日く、いま吾に金あり、願はくは以て夫人に与へんと。婦人日く、嘻、妾は桑を採りて二親に奉ず。人の金を願わずと。秋湖子遂に去り、帰って家に至り金を奉じて其の母に遣る。その母、人をして其の婦を呼ばしむ。婦至る、乃ち向に桑を採りしものなり。秋湖は之を見て慙(は)づ。婦人日く、髪を束ね身む修め、親を辞し往いて仕ふ。五年にして乃ち還るを得たり。まさに親戚を見るべきなるに、今や乃ち路傍の婦人を悦びて、子の装を下し、金を以て之に与へんとす。これ母を忘るるの不孝なり。妾は不孝の人を見るに忍びずと。遂に去りて走り、自ら河に投じて裾す」(列女伝 秋胡子)

魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。



秋胡詩 顔延之(延年)
(1)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
嘉運既我從,欣願自此畢。

良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。

(2)
燕居未及好,良人顧有違。脫巾千裏外,結绶登王畿⑵。戒徒在昧旦,左右來相依。驅車出郊郭,行路正威遲⑶。存爲久離別,沒爲長不歸。
(3)  
嗟余怨行役,三陟⑷窮晨暮。嚴駕越風寒,解鞍犯霜露。原隰多悲涼,回飙卷高樹。離獸起荒蹊,驚鳥縱橫去。悲哉遊宦子,勞此山川路。
(4)  
超遙行人遠,宛轉年運徂。良時爲此別,日月方向除。孰知寒暑積,僶俛⑸見榮枯!歲暮臨空房,涼風起坐隅。寢興日已寒,白露生庭蕪。
(5)  
勤役從歸願,反路遵⑹山河。昔辭秋未素,今也歲載華。蠶月觀時暇,桑野多經過。佳人從所務,窈窕援高柯。傾城誰不顧,弭節⑺停中阿⑻。
(6)  
年往誠思勞,事遠闊音形。雖爲五載別,相與昧平生。舍車遵往路,凫藻馳目成。南金豈不重?聊自意所輕。義心多苦調,密比金玉聲。
(7)  
高節難久淹,朅來⑼空複辭。遲遲前途盡,依依造門基。上堂拜嘉慶,入室問何之。日暮行采歸,物色桑榆時。美人望昏至,慚歎前相持。
(8)  
有懷誰能已?聊用申苦難。離居殊年載,一別阻河關。春來無時豫,秋至恒早寒。明發⑽動愁心,閨中起長歎。慘淒歲方晏,日落遊子顔。
(9)  
高張生絕弦,聲急由調起。自昔枉光塵,結言固終始。如何久爲別,百行諐⑾諸己。君子失明義,誰與偕沒齒!愧彼《行露》詩⑿,甘之長川汜⒀。[1]


現代語訳と訳註
(本文) (1)

椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律⑴。
影響豈不懷?自遠每相匹。
婉彼幽閑女,作嫔君子室。
峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
嘉運既我從,欣願自此畢。


(下し文)
椅梧【いご】は高鳳【こうほう】に傾き、寒谷【かんこく】は鳴律【めいりつ】を待つ。
影響豈懐はざらんや、遠きより毎に相匹【ひつ】す。
婉たる彼の幽閑【ゆうかん】の女、君子の室に嫔【ひん】と作【な】る。
峻節【しゅんせつ】は秋霜を貫き、明豔【めいえん】は朝日に博し。
嘉運【かうん】は既に我に從へり、欣願【きんがん】比より垂らん。


(現代語訳)
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。


(訳注)
椅梧傾高鳳,寒谷待鳴律。
空高く飛ぶ鳳凰の方へと桐の木は枝を傾けて止りに来るのを待っている、寒くつめたい谷は鄒衍が律菅を吹き鳴らしてくれるのを待っている。
椅梧 椅も梧の類。・傾高鳳 高く飛ぶ鳳のやすむのを待って枝を傾ける。鳳は桐に息むと伝える。青桐には仲の良いつがいの鳳凰が住む。 ・寒谷待鳴律 燕の寒谷には穀物を生ぜぬか、鄒衍(周代の学者)の吹く音律に応じて黍を生じた。劉向別録沈徳潜の注に「椅梧鳳烏の來儀(あいさつに来る)を佇め、寒谷吹律を待って煦まるとは、夫婦の相匹すること、影皆の相思ふが如きを言ふなり」と。


影響豈不懷?自遠每相匹。
それと同じく男女の場合も、形に影が従い声に琴が応ずるごとく、互いに思いあうもので、遠くはなれたところにいても、どこにいても夫婦であるのが常である。


婉彼幽閑女,作嫔君子室。
うるわしき彼のしとやかな女「潔婦」は、徳のある人の家、秋胡の家にとついで妻となった。
幽閑 奥ゆかしく淑やかな。窃充。・作嫔 妻となる。


峻節貫秋霜,明豔侔朝日。
高くすぐれた、厳しい節操のあるかの女は秋霜を貫き凌ぐほどのものであり、辺りを照らすそのあでやかさは朝日の光が輝くようなのと同じである。
明艶 光明艶美。 


嘉運既我從,欣願自此畢。
良い運の巡り合わせは自分に従いついている。すでに嫁にした上は、これからによろこばしい願いが満足に遂げられることと妻はおもったのだ。(その一)
嘉運 めでたい運。

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩471 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1230

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩471 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1230


於安城答靈運詩の作者
謝宣遠(謝瞻)
(387-421)37歳卒
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。江南の安城の太守。

謝霊運(謝康楽) (385~433) 48歳卒 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。



於安城答靈運詩
(1)
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。

官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

(2)
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
親親子敦余。賢賢五爾賞。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしはすぐれたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。
比景後鮮輝。方年一日長。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
萎葉愛榮條。涸流好河廣。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。

(3)
徇業謝成操。復禮愧貧樂。

わたしは仕事をしてみさおを守り貫いて成就することができないことを申し上げ、礼を踏み行なって貧しい中にあっても道を楽しむというまでにはなられず、愧ずかしい次第であった。
幸會果代耕。符守江南曲。
幸いにも仕官ができて禄を得ることになっている、朝廷から割符をもらい受けて、江南のほとりになる安城に太守となった。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。
しかし当面することにおわれてしまい年月はどんどん過ぎていった、またあなたとは役所の仕事を遵守することで身も心も遠くはなれていることを欺き悲しむ。
布懷存所欽。我勞一何篤。
わがうやまい慕うところのあなたを想う情をのべて詩をおくるけれど、わたしのあなたを思う心使いは何と厚いことであろうかきっとわかってくれることでしょう。
業を徇【いとな】みては操を成すことを謝し、禮に復しては貧にも楽しむことに愧【は】ず。
幸に代耕【だいこう】を果すに會ひ、江南の曲【ほとり】に符守【ふしゅ】す。
運を履【ふ】みては荏苒【じんぜん】なるを傷み、塗【みち】に遵【したが】っては緬邈【めんばく】なるを歎く。
懐【おもい】を布【し】いて欽【きん】する所を存す、我が勞【ろう】は一に何ぞ篤き。

#4
肇允雖同規。翻飛各異概。

はじめわれと君とはまことに円形を描く用具のように見た目も考えも同じであったが、飛びたって世に進むに至っては各々ちがう才能が現われた。
迢遞封畿外。窈窕承明內。
かくてたしは都から遠く離れたこの安城の地に太守として在り、あなたは都の奥深い承明殿に秘書丞として仕えている。
尋塗塗既暌。即理理已對。
私とあなたの志す道は官途都で進むものと地方とで途は道理の上から見ると才ある者は都の秘書監について二極分化している、それはすなわち、その道理として才のあるものとない者が相対している。
絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
素絲を見て泣き、岐路を見て哭すという悲しみの情を起すことは古から恒にあることだが、ましてやわが敬愛するあなたと離れている場合なおさらである。

肇は允【まこと】に規【のり】を同じくすと雖も、翻飛【はんぴ】しては各々概を異にす。
封畿【ほうき】の外に迢遞【しょうてい】し、承明の内に窈窕【ようちょう】たり。
塗【みち】を尋ねれば塗【みち】は既に暌【そむ】き、理に即【つ】けば理も亦對【まいたい】す。
絲路【しろ】には恒悲【こうひ】有り、矧【いわ】んや迺【すなわ】ち吾が愛に在るをや。

#5
跬行安步武。鎩翮周數仞。
わたしは半歩ほど歩いてその短い距離の間に安心満足するほどもので、また『荘子、逍遥遊』に「鵬が翮を搏てば九万里」といわれるが私は翅を負傷してわずか数仞の高さでくるっと周る遊ぶ鳥ほどのものでしかない小人物である。
豈不識高遠。違方往有吝。
たしかに、高く遠い大空まで飛ぶ楽しみを十分に知ることがないわけではないのだが、才徳の足らぬわが身のほどをわきまえておるのです。そしてそれは行くべき方向とは違った所へ往き進んでしまい、後悔するようになるであろうということなのだ。
歲寒霜雪嚴。過半路愈峻。
そしてそれは、年も暮れ、寒い時節で霜や雪か厳しく降るときに、道の半ばすぎくらいのところまで進んだのに、前途がますます険しくむつかしくなるというものだ。
量已畏友朋。勇退不敢進。
それゆえ自分の力量をよく考え友だちから分不相応であると、そしられるであろうことを気づかうのである。いさぎよく退いて、無理にも進もうなどとはしてはならないのだ。
行矣勵令猷。寫誠酬來訊。

謝霊運殿、何とぞよき道につとめ励まれよ、われは誠の心をのべ表わしてあなたの詩に答えることとします。
跬行して步武【ほぶ】に安んじ、翮【つばさ】を鎩【そ】ぎて數仞【すうじん】を周【めぐ】る。
豈 高遠【こうえん】を識らざらんや、方に違ひ往くときほ客有り。
歲寒く霜雪【そうせつ】嚴しきとき。過半にして路は愈よ峻し。
已を量りて友朋【ゆうほう】を畏れ、退くことに勇して敢えて進まず。
行いて令猷【れいゆう】を勵めよ。誠を寫して來訊【らいじん】に酬【むく】ゆ。




現代語訳と訳註
(本文)
#5
跬行安步武、鎩翮周數仞。豈不識高遠、違方往有吝。
歲寒霜雪嚴、過半路愈峻。量已畏友朋、勇退不敢進。
行矣勵令猷、寫誠酬來訊。


(下し文)
跬行して步武【ほぶ】に安んじ、翮【つばさ】を鎩【そ】ぎて數仞【すうじん】を周【めぐ】る。
豈 高遠【こうえん】を識らざらんや、方に違ひ往くときほ客有り。
歲寒く霜雪【そうせつ】嚴しきとき。過半にして路は愈よ峻し。
已を量りて友朋【ゆうほう】を畏れ、退くことに勇して敢えて進まず。
行いて令猷【れいゆう】を勵めよ。誠を寫して來訊【らいじん】に酬【むく】ゆ。


(現代語訳)
わたしは半歩ほど歩いてその短い距離の間に安心満足するほどもので、また『荘子、逍遥遊』に「鵬が翮を搏てば九万里」といわれるが私は翅を負傷してわずか数仞の高さでくるっと周る遊ぶ鳥ほどのものでしかない小人物である。
たしかに、高く遠い大空まで飛ぶ楽しみを十分に知ることがないわけではないのだが、才徳の足らぬわが身のほどをわきまえておるのです。そしてそれは行くべき方向とは違った所へ往き進んでしまい、後悔するようになるであろうということなのだ。
そしてそれは、年も暮れ、寒い時節で霜や雪か厳しく降るときに、道の半ばすぎくらいのところまで進んだのに、前途がますます険しくむつかしくなるというものだ。
それゆえ自分の力量をよく考え友だちから分不相応であると、そしられるであろうことを気づかうのである。いさぎよく退いて、無理にも進もうなどとはしてはならないのだ。
謝霊運殿、何とぞよき道につとめ励まれよ、われは誠の心をのべ表わしてあなたの詩に答えることとします。


(訳注) #5
跬行安步武、鎩翮周數仞。

わたしは半歩ほど歩いてその短い距離の間に安心満足するほどもので、また『荘子、逍遥遊』に「鵬が翮を搏てば九万里」といわれるが私は翅を負傷してわずか数仞の高さでくるっと周る遊ぶ鳥ほどのものでしかない小人物である。
跬行 司馬法「凡人一舉足曰跬。跬,三尺也。兩舉足曰步。步,六尺也。」(凡そ人の一たび足を挙ぐるを跬といふ、跬は三尺なり。両たび足を挙ぐるを歩といふ、歩は六尺なり。)すなわち跬は半歩で日本での普通に一歩というものに当る。〇 半歩すなわち三尺。歩武とは、わずかな距離のこと。〇鎩翮 つばさをそぐ。羽毛をそこない、いためること。○周數仞 仞は八尺、また七尺ともいう。荘子、逍遥遊に「鵬搏扶搖羊角而上者九萬里。斥鷃笑之曰彼且奚適也我騰躍而上不過數仞而下。此亦飛之至也。」(鵬は扶揺に搏ち羊角して上る者九万里なり。斥鷃は之を笑うて曰く、我は騰躍して上る、数仞に過ぎず、而して下る、これも亦、飛ぶことの至りなり。)「歩武・数仞」の二句は、謝宣遠自身の地位や志の小なることをいうものであるが、宣遠は、もとより明哲保身の人で、かつて「吾が家は素退を以て業となす」といって、弟なる謝晦を誡めたこともあるほどだから(南史本伝)、この詩にいう所も、右のような立場からであって、必ずしも単なる卑下ではない。


豈不識高遠。違方往有吝。
たしかに、高く遠い大空まで飛ぶ楽しみを十分に知ることがないわけではないのだが、才徳の足らぬわが身のほどをわきまえておるのです。そしてそれは行くべき方向とは違った所へ往き進んでしまい、後悔するようになるであろうということなのだ。
高遠 官途が進み栄えることは結構だが、それにつれて、苦労や危険も多いことをいう。〇 『論語、里仁篇』「子曰、父母在、不遠遊、遊必有方。」(子曰く、父母在せば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方あるべし。)〇往有吝 『周易、屯卦』「即鹿无虞,以從禽也﹔君子舍之,往吝窮也。」(鹿につくに虜なく、ただ林中に入る。 君子はきざしをみてやむにしかず。往くときは客にして窮まる。)鹿を追うことをやめるべきなのに追い往くときほ、後悔のたねとなり、進退きわまるようになる。


歲寒霜雪嚴、過半路愈峻。
そしてそれは、年も暮れ、寒い時節で霜や雪か厳しく降るときに、道の半ばすぎくらいのところまで進んだのに、前途がますます険しくむつかしくなるというものだ。
過半路愈峻  官途が進み栄えることは結構だが、それにつれて、苦労や危険も多いことをいう。


量已畏友朋、勇退不敢進。
それゆえ自分の力量をよく考え友だちから分不相応であると、そしられるであろうことを気づかうのである。いさぎよく退いて、無理にも進もうなどとはしてはならないのだ。
量已畏友朋 自分の力量をよく考え友だちから、分不相応であると、そしられるであろうことを気づかう。


行矣勵令猷、寫誠酬來訊。
謝霊運殿、何とぞよき道につとめ励まれよ、われは誠の心をのべ表わしてあなたの詩に答えることとします。
行矣 行かなむ、行けよ。いざ、さあ、の意味。〇 水をもらす。ここは、謝靈運に対し述べ表わすこと。

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩470 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1227

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩470 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1227


於安城答靈運詩の作者
謝宣遠(謝瞻)
(387-421)37歳卒
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。江南の安城の太守。

謝霊運(謝康楽) (385~433) 48歳卒 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。



於安城答靈運詩
(1)
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。

官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

(2)
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
親親子敦余。賢賢五爾賞。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしはすぐれたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。
比景後鮮輝。方年一日長。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
萎葉愛榮條。涸流好河廣。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。

(3)
徇業謝成操。復禮愧貧樂。

わたしは仕事をしてみさおを守り貫いて成就することができないことを申し上げ、礼を踏み行なって貧しい中にあっても道を楽しむというまでにはなられず、愧ずかしい次第であった。
幸會果代耕。符守江南曲。
幸いにも仕官ができて禄を得ることになっている、朝廷から割符をもらい受けて、江南のほとりになる安城に太守となった。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。
しかし当面することにおわれてしまい年月はどんどん過ぎていった、またあなたとは役所の仕事を遵守することで身も心も遠くはなれていることを欺き悲しむ。
布懷存所欽。我勞一何篤。
わがうやまい慕うところのあなたを想う情をのべて詩をおくるけれど、わたしのあなたを思う心使いは何と厚いことであろうかきっとわかってくれることでしょう。
業を徇【いとな】みては操を成すことを謝し、禮に復しては貧にも楽しむことに愧【は】ず。
幸に代耕【だいこう】を果すに會ひ、江南の曲【ほとり】に符守【ふしゅ】す。
運を履【ふ】みては荏苒【じんぜん】なるを傷み、塗【みち】に遵【したが】っては緬邈【めんばく】なるを歎く。
懐【おもい】を布【し】いて欽【きん】する所を存す、我が勞【ろう】は一に何ぞ篤き。

#4
肇允雖同規。翻飛各異概。
はじめわれと君とはまことに円形を描く用具のように見た目も考えも同じであったが、飛びたって世に進むに至っては各々ちがう才能が現われた。
迢遞封畿外。窈窕承明內。
かくてたしは都から遠く離れたこの安城の地に太守として在り、あなたは都の奥深い承明殿に秘書丞として仕えている。
尋塗塗既暌。即理理已對。
私とあなたの志す道は官途都で進むものと地方とで途は道理の上から見ると才ある者は都の秘書監について二極分化している、それはすなわち、その道理として才のあるものとない者が相対している。
絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
素絲を見て泣き、岐路を見て哭すという悲しみの情を起すことは古から恒にあることだが、ましてやわが敬愛するあなたと離れている場合なおさらである。

肇は允【まこと】に規【のり】を同じくすと雖も、翻飛【はんぴ】しては各々概を異にす。
封畿【ほうき】の外に迢遞【しょうてい】し、承明の内に窈窕【ようちょう】たり。
塗【みち】を尋ねれば塗【みち】は既に暌【そむ】き、理に即【つ】けば理も亦對【まいたい】す。
絲路【しろ】には恒悲【こうひ】有り、矧【いわ】んや迺【すなわ】ち吾が愛に在るをや。

#5
跬行安步武。鎩翮周數仞。豈不識高遠。違方往有吝。
歲寒霜雪嚴。過半路愈峻。量已畏友朋。勇退不敢進。
行矣勵令猷。寫誠酬來訊。
跬行して步武【ほぶ】に安んじ、翮【つばさ】を鎩【そ】ぎて數仞【すうじん】を周【めぐ】る。
豈 高遠【こうえん】を識らざらんや、方に違ひ往くときほ客有り。
歲寒く霜雪【そうせつ】嚴しきとき。過半にして路は愈よ峻し。
已を量りて友朋【ゆうほう】を畏れ、退くことに勇して敢えて進まず。
行いて令猷【れいゆう】を勵めよ。誠を寫して來訊【らいじん】に酬【むく】ゆ。



現代語訳と訳註
(本文)
#4
肇允雖同規。翻飛各異概。迢遞封畿外。窈窕承明內。
尋塗塗既暌。即理理已對。絲路有恆悲。矧迺在吾愛。



(下し文)
肇は允【まこと】に規【のり】を同じくすと雖も、翻飛【はんぴ】しては各々概を異にす。
封畿【ほうき】の外に迢遞【しょうてい】し、承明の内に窈窕【ようちょう】たり。
塗【みち】を尋ねれば塗【みち】は既に暌【そむ】き、理に即【つ】けば理も亦對【まいたい】す。
絲路【しろ】には恒悲【こうひ】有り、矧【いわ】んや迺【すなわ】ち吾が愛に在るをや。



(現代語訳)
はじめわれと君とはまことに円形を描く用具のように見た目も考えも同じであったが、飛びたって世に進むに至っては各々ちがう才能が現われた。
かくてたしは都から遠く離れたこの安城の地に太守として在り、あなたは都の奥深い承明殿に秘書丞として仕えている。
私とあなたの志す道は官途都で進むものと地方とで途は道理の上から見ると才ある者は都の秘書監について二極分化している、それはすなわち、その道理として才のあるものとない者が相対している。
素絲を見て泣き、岐路を見て哭すという悲しみの情を起すことは古から恒にあることだが、ましてやわが敬愛するあなたと離れている場合なおさらである。



(訳注)
肇允雖同規。翻飛各異概。

肇は允【まこと】に規【のり】を同じくすと雖も、翻飛【はんぴ】しては各々概を異にす。
はじめわれと君とはまことに円形を描く用具のように見た目も考えも同じであったが、飛びたって世に進むに至っては各々ちがう才能が現われた。
 ぶん回し。円形を描く用具。○ 分量。才能。



迢遞封畿外。窈窕承明內。
封畿【ほうき】の外に迢遞【しょうてい】し、承明の内に窈窕【ようちょう】たり。
かくてたしは都から遠く離れたこの安城の地に太守として在り、あなたは都の奥深い承明殿に秘書丞として仕えている。
迢遞 遠く聳えたさま。○封畿 諸侯の領地。安城郡をさす。○窈窕 遠くうねり続く。○承明 承明殿に秘書丞として仕えている



尋塗塗既暌。即理理已對。
塗【みち】を尋ねれば塗【みち】は既に暌【そむ】き、理に即【つ】けば理も亦對【まいたい】す。
私とあなたの志す道は官途都で進むものと地方とで途は道理の上から見ると才ある者は都の秘書監について二極分化している、それはすなわち、その道理として才のあるものとない者が相対している。
○塗 志を持って進む道。ここでは靈運と謝瞻、それぞれの官途。○ 隔たる,離れる。にらみあう。そむく。○ 志を持って進むことに対する道理。



絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
絲路【しろ】には恒悲【こうひ】有り、矧【いわ】んや迺【すなわ】ち吾が愛に在るをや。
素絲を見て泣き、岐路を見て哭すという悲しみの情を起すことは古から恒にあることだが、ましてやわが敬愛するあなたと離れている場合なおさらである。
絲・路 淮南子に「墨子は素絲を見て泣く、以て黄となすべく、以て黒となすべきがためなり」。「揚子は岐路を見て哭す、以て南すべく、以て北すべきがためなり」。


於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩469 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1224

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩469 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1224


於安城答靈運詩の作者
謝宣遠(謝瞻) (387-421)37歳卒
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。江南の安城の太守。

謝霊運(謝康楽) (385~433) 48歳卒 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。



於安城答靈運詩
(1)
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。

官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

(2)
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
親親子敦余。賢賢五爾賞。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしはすぐれたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。
比景後鮮輝。方年一日長。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
萎葉愛榮條。涸流好河廣。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。

(3)
徇業謝成操。復禮愧貧樂。
わたしは仕事をしてみさおを守り貫いて成就することができないことを申し上げ、礼を踏み行なって貧しい中にあっても道を楽しむというまでにはなられず、愧ずかしい次第であった。
幸會果代耕。符守江南曲。
幸いにも仕官ができて禄を得ることになっている、朝廷から割符をもらい受けて、江南のほとりになる安城に太守となった。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。
しかし当面することにおわれてしまい年月はどんどん過ぎていった、またあなたとは役所の仕事を遵守することで身も心も遠くはなれていることを欺き悲しむ。
布懷存所欽。我勞一何篤。

わがうやまい慕うところのあなたを想う情をのべて詩をおくるけれど、わたしのあなたを思う心使いは何と厚いことであろうかきっとわかってくれることでしょう。
業を徇【いとな】みては操を成すことを謝し、禮に復しては貧にも楽しむことに愧【は】ず。
幸に代耕【だいこう】を果すに會ひ、江南の曲【ほとり】に符守【ふしゅ】す。
運を履【ふ】みては荏苒【じんぜん】なるを傷み、塗【みち】に遵【したが】っては緬邈【めんばく】なるを歎く。
懐【おもい】を布【し】いて欽【きん】する所を存す、我が勞【ろう】は一に何ぞ篤き。

#4
肇允雖同規。翻飛各異概。迢遞封畿外。窈窕承明內。
尋塗塗既暌。即理理已對。絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
#5
跬行安步武。鎩翮周數仞。豈不識高遠。違方往有吝。
歲寒霜雪嚴。過半路愈峻。量已畏友朋。勇退不敢進。
行矣勵令猷。寫誠酬來訊。


現代語訳と訳註
(本文)
#3
徇業謝成操。復禮愧貧樂。
幸會果代耕。符守江南曲。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。
布懷存所欽。我勞一何篤。


(下し文) #3
業を徇【いとな】みては操を成すことを謝し、禮に復しては貧にも楽しむことに愧【は】ず。
幸に代耕【だいこう】を果すに會ひ、江南の曲【ほとり】に符守【ふしゅ】す。
運を履【ふ】みては荏苒【じんぜん】なるを傷み、塗【みち】に遵【したが】っては緬邈【めんばく】なるを歎く。
懐【おもい】を布【し】いて欽【きん】する所を存す、我が勞【ろう】は一に何ぞ篤き。


(現代語訳)
わたしは仕事をしてみさおを守り貫いて成就することができないことを申し上げ、礼を踏み行なって貧しい中にあっても道を楽しむというまでにはなられず、愧ずかしい次第であった。
幸いにも仕官ができて禄を得ることになっている、朝廷から割符をもらい受けて、江南のほとりになる安城に太守となった。
しかし当面することにおわれてしまい年月はどんどん過ぎていった、またあなたとは役所の仕事を遵守することで身も心も遠くはなれていることを欺き悲しむ。
わがうやまい慕うところのあなたを想う情をのべて詩をおくるけれど、わたしのあなたを思う心使いは何と厚いことであろうかきっとわかってくれることでしょう。


(訳注) #3
徇業謝成操。復禮愧貧樂。
業を徇【いとな】みては操を成すことを謝し、禮に復しては貧にも楽しむことに愧【は】ず。
わたしは仕事をしてみさおを守り貫いて成就することができないことを申し上げ、礼を踏み行なって貧しい中にあっても道を楽しむというまでにはなられず、愧ずかしい次第であった。
 ふれしらせる。もとめる。あまねく示す。ここは営む。『史記、項羽紀』「不徇、尚書、徇于貨色。」〇 去る。断る。礼を述べる。あやまる。告げる、。話す。むくいる。○成操 みさおを守り遂げること。志を成就すること。○復礼 礼を踏み行う。『論語、顔淵』第に「子日、克己復礼為仁。」(子日く、己に克ち礼に復して仁と為す。)〇貧樂 貧乏であるために、気をつかうことも少なく、かえって気楽であること。貧乏ゆえの気楽さ。『論語、学而篇』「子曰、可也、未若貧時樂道、富而好禮者也」(子日く、未だ、貧にあっても楽しみ、富みても礼を好む者には若かざるなり。)


幸會果代耕。符守江南曲。
幸に代耕【だいこう】を果すに會ひ、江南の曲【ほとり】に符守【ふしゅ】す。
幸いにも仕官ができて禄を得ることになっている、朝廷から割符をもらい受けて、江南のほとりになる安城に太守となった。
 成し遂げる。〇代耕 官からもらう禄米、転じて仕官すること。耕さずに食うこと。礼記、王制に「諸侯之下士、視上農夫。禄足以代其耕也。」(諸侯の下士は、上級の農夫に視【なぞ】らふ、禄は以て其の耕に代ふるに足る」。〇符守 朝廷から割符をもらい受けて、太守となる。尹辞


履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。
運を履【ふ】みては荏苒【じんぜん】なるを傷み、塗【みち】に遵【したが】っては緬邈【めんばく】なるを歎く。
しかし当面することにおわれてしまい年月はどんどん過ぎていった、またあなたとは役所の仕事を遵守することで身も心も遠くはなれていることを欺き悲しむ。
 時のめぐりゆくこと。それを履とは、当面することである。○荏苒【じんぜん】なすことのないまま歳月が過ぎるさま。また、物事が延び延びになるさま。○緬邈 はるかに遠いさま。


布懷存所欽。我勞一何篤。
懐【おもい】を布【し】いて欽【きん】する所を存す、我が勞【ろう】は一に何ぞ篤き。
わがうやまい慕うところのあなたを想う情をのべて詩をおくるけれど、わたしのあなたを思う心使いは何と厚いことであろうかきっとわかってくれることでしょう。
 ここは、たずねる。想う。〇 いたく心をつかうこと。

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩468 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1221

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩468 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1221


於安城答靈運詩の作者
謝宣遠(謝瞻)(387-421)37歳卒
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。

謝霊運(謝康楽)
 (385~433) 48歳卒 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。


於安城答靈運詩
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。

官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

#2
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
親親子敦余。賢賢五爾賞。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしはすぐれたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。
比景後鮮輝。方年一日長。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
萎葉愛榮條。涸流好河廣。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。

#3
徇業謝成操。復禮愧貧樂。幸會果代耕。符守江南曲。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。布懷存所欽。我勞一何篤。
#4
肇允雖同規。翻飛各異概。迢遞封畿外。窈窕承明內。
尋塗塗既暌。即理理已對。絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
#5
跬行安步武。鎩翮周數仞。豈不識高遠。違方往有吝。
歲寒霜雪嚴。過半路愈峻。量已畏友朋。勇退不敢進。
行矣勵令猷。寫誠酬來訊。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。親親子敦余。賢賢五爾賞。
比景後鮮輝。方年一日長。萎葉愛榮條。涸流好河廣。


(下し文)#2
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。


(現代語訳)
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしはすぐれたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。


(訳注)#2
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。

華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
花は美しく光りかがいているように謝一族の栄誉は互いを輝かせている。鳥は嚶鳴しているようにわたしたちも心からうれしそうに唱和している。
・華萼 一族の栄誉・栄位のたとえ。兄弟の情をいう。萼:1 四方を眺めるために建てられた高い建物。高殿(たかどの)。 2 極楽に往生した者の座る蓮(はす)の花の形をした台。3 (「萼」とも書く)花の萼(がく)。 4 眺望をよくする。5花の最も外側の部分。ふつう緑色をし、外面に毛をもつ。つぼみのときは内部を包み保護する。・嚶鳴 鳥が仲良く声を合わせて鳴くこと。鳥が友を呼ぶ声。『詩経、小雅、伐木』「伐木丁丁、鳥鳴嚶嚶。出自幽谷、遷于喬木。嚶其鳴矣、 求其友聲。相彼鳥矣、猶求友聲。矧伊人矣、不求友生。」


親親子敦余。賢賢五爾賞。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
そのように、あなたは親しい仲の者のうち特にわたしに親愛の厚い情を示してくれる、わたしは賢れたあなたを賢者として尊びほめたたえるのである。

比景後鮮輝。方年一日長。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
ひとに慕われることを比較するとあなたの鮮明さにわたしは劣っている、年齢を比べるとあなたが少しだけ多いだけというのに輝きは明らかに違っている。
・景 景気・景況・景仰・景行・景色・景勝・景福・光景。ここは文学・遺徳などを含めて、人格の高い人をあおぎ慕うこと。
 
萎葉愛榮條。涸流好河廣。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。
衰えしぼんだ葉というものは繁った枝であったことを愛するもの、水がなくなった川は広い河をよしとするごとくわたしは、あなたを敬い慕うのである。
・萎葉 1 木の葉しなわせる、たわめる。2 しみじみとした感じを出す様子をいう。


#2
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。
親親子敦余。賢賢五爾賞。
比景後鮮輝。方年一日長。
萎葉愛榮條。涸流好河廣。

#2
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩467 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1218

於安城答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<64-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩467 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1218


於安城答靈運詩
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。

官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

#2
華萼相光飾。嚶鳴悅同響。親親子敦余。賢賢五爾賞。
比景後鮮輝。方年一日長。萎葉愛榮條。涸流好河廣。
#2
華萼【かがく】は相【あい】光飾【こうしょく】し、嚶鳴【おうめい】は同響【どうきょう】を悦【よろこ】ぶ。
親【しん】を親しみて子は予に敦【あつ】くし、賢を賢として吾は爾を賞す。
景を比ぶれば鮮輝【せんき】に後れ、年を方ぶれば一日長ず。
萎葉【いよう】は榮條【えいじょう】を愛し、涸流【こりゅう】は河鷹【かこう】を好す。
#3
徇業謝成操。復禮愧貧樂。幸會果代耕。符守江南曲。
履運傷荏苒。遵塗歎緬邈。布懷存所欽。我勞一何篤。
#4
肇允雖同規。翻飛各異概。迢遞封畿外。窈窕承明內。
尋塗塗既暌。即理理已對。絲路有恆悲。矧迺在吾愛。
#5
跬行安步武。鎩翮周數仞。豈不識高遠。違方往有吝。
歲寒霜雪嚴。過半路愈峻。量已畏友朋。勇退不敢進。
行矣勵令猷。寫誠酬來訊。


現代語訳と訳註
(本文)

條繁林彌蔚。波清源愈濬。華宗誕吾秀。之子紹前胤。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。鴻漸隨事變。雲台與年峻。


(下し文)#1
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。


(現代語訳)
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。


(訳注)
條繁林彌蔚。波清源愈濬。

條繁くして林は弼上蔚たり、披清くして源は愈よ濬し。
木々の枝が重なり、繁茂すればするほど林はますますこんもりと茂り、波が清らかであれば清く、源はますます清く深くなる。(源が深いほど、流はいよいよ清くなる意)。
波清源愈濬 「條繁」「林」、を謝氏の血統の世さ、秀逸なところから秀士が生まれる。「原清」「流清」(源清めば則ち流清み)に基づいて詩の初めの聯を構成する。
『荀子、君道』「原清則流清、原濁則流濁。故上好礼義、尚賢使能、無貪利之心、則下亦将綦辞譲、致忠信、而謹於臣子矣。」(源清【す】めば則ち流清み、源濁れば則ち流濁る。故に上【かみ】礼義を好み、賢を尚【とうと】び能を使い、貪利の心無ければ、則ち下【しも】も亦、将に辞譲を綦【きわ】め、忠臣を致【きわ】めて、臣子に謹まんとす。」(源(みなもと)清ければ流れ清し)


華宗誕吾秀。之子紹前胤。
華宗には吾が秀誕まれ、之の子は前胤を紹ぐ。
そのように、輝けるわが謝一族には秀美の人士が生まれている、その一人であるあなたは祖先の血統をついでいる。
華宗 貴族の意。・誕 毛蓑の詩伝に「毛萇詩傳 誕,大也。載,生也。大矣后稷, 十月而生也。」誕は大なり、大なるかな后稷は十月にして生まる」。りつばに生みつけられる意である。


綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
綢繆して風徽を結び、煙熅として芳訊を吐く。
そしてあなたの文才の心にまつわりつくように風雅の道が結晶と成し、天地の気が和合し、いきいきした芳しい詩をつくる。
綱超 まといつく。ここは、夙微の方に心が引かれて、離れがたいこと。・風徽 よい風とは、文学こ坦徳などの風雅なことであろう。・煙熅 煙を伴った火、煙のない火、転じて天地の気が和合し、さかんで、いきいきしたさま。・ 問う。告ぐ、ここは、誰もが早く聞きたい詩である。


鴻漸隨事變。雲台與年峻。
鴻漸は事に隨って變じ、雲台は年と輿に峻し。
官に仕えては「鴻漸之翼」のように出世する優秀な人材であり、雲にとどくばかりの政治の舞台であら、爵位は年の経過と共に高くなる。
鴻漸 鴻漸之翼のこと。ひとたび飛翔すれば一気に千里をすすむといわれる鴻(おおとり)のつばさ。転じて、スピード出世する優秀な人材、大事業が成功する人物のこと。・雲台 台は政治の舞台。雲にとどくばかりの政治の舞台、爵位。


於安城答靈運詩
條繁林彌蔚。波清源愈濬。
華宗誕吾秀。之子紹前胤。
綢繆結風徽。煙熅吐芳訊。
鴻漸隨事變。雲台與年峻。
(その一)
條【えだ】繁【しげ】くして林は彌【いよい】よ蔚【うつ】たり、波清くして源は愈【いよい】よ濬【ふか】し。
華宗【かそう】には吾が秀【しゅう】誕【う】まれ、之の子は前胤【ぜんいん】を紹ぐ。
綢繆【ちょうびゅう】して風徽【ふうき】を結び、煙熅【えんうん】として芳訊【ほうじん】を吐く。
鴻漸【こうぜん】は事に隨って變じ、雲台【うんだい】は年と輿【とも】に峻【たか】し。

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩466 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1215

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩466 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1215


謝瞻 あざな・宣遠が、謝霊連からの「霖(ながあめ)を愁ふる詩」に答えた詩である。

答靈運
夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。

あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。


(靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。
#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


現代語訳と訳註
(本文)

忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。


(下し文) (靈運に答ふ)#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


(現代語訳)
そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。


(訳注)
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。

そうしているうち、いまあなたからの「愁霖の詩」を受けとったところ、そこにはあなたが苦労をいだいたなかで、わたしに示す厚い真心を述べてある。
 進める。○ 誠と同じ。


嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
すなわち雨のため、旅中の難儀さをなげく気持ちがわかるとともに、わたしに対する慈しみ深い言葉を感じ親しみ思うのだ。
眷言 『詩経‧小雅‧大東』 「睠言顧之 潸焉出涕。」(睠かえりみて我ここに之れを顧み、潸焉として涕を出す。)」など、用例が多い。


伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
わたしは平生慰め楽しむことも少ないといいながらも、あなたの詩を読んで、心の深い憂いも暫しば軽くなったものだ。
殷憂 今、邶風、柏舟篇「殷憂」とみえる。痛ましい、深いうれい。○牽率 ひきいる。


牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。
あなたからの便りに心引かれ、みごとな詩に答える、霊運殿の妙才に対してまことに愧ずかしく思うしだいです。
長揖 揖は胸のあたりに手をあてて、あいさつする。長とは、その手で上から下へ撫で極めること。○吾生 ここは謝霊運をさす。

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209

答靈運 謝宣遠(謝瞻) 詩<63-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209


謝瞻 あざな・宣遠が、謝霊連からの「霖(ながあめ)を愁ふる詩」に答えた詩である。



答靈運
夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
忽獲愁霖唱,懷勞奏所成。
嘆彼行旅艱,深茲眷言情。
伊余雖寡慰,殷憂暫為輕。
牽率酬嘉藻,長揖愧吾生。


(靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。

#2
忽ち愁霖【しゅうりん】の唱を獲たるに、勞を懐【いだ】ぎて誠なる所を奏す。
彼の行旅【こうりょ】の艱を嘆き、茲【こ】の眷言【けんげん】の情を深くす。
伊れ余【われ】慰【なぐさみ】寡【すくな】しと雖も、殷憂【いんゆう】ぱ暫く為に輕し。
牽率【けんそつ】して嘉藻【かそう】に酬い、長揖【ちょういつ】しで吾生【ごせい】に愧づ。


現代語訳と訳註
(本文) 答靈運

夕霽風氣涼,閒房有餘清。
開軒滅華燭,月露皓已盈。
獨夜無物役,寢者亦云寧。


(下し文) (靈運に答ふ)
夕に霽【は】れて風氣【ふうき】は涼しく,閒房【かんぼう】には餘清【よせい】有り。
軒を開きて華燭【かしょく】を滅【け】せば、月霧【げつろ】は皓【こう】として已に盈つ。
獨夜には物役【ぶつえき】無く、寢【い】ぬれば 亦云【ここ】に寧【やす】し。


(現代語訳)
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。


(訳注)
答靈運

謝宣遠(387-421)(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。文選に有る詩は
「九日従宋公戯馬台集送孔令詩」、「玉撫軍庾西陽集別時為予章太守庚被徴還東」、「張子房詩」、「答靈運」、「於安城答靈運」がある。
謝靈運(385-433)『愁霖詩』 に答えての詩である。


夕霽風氣涼,閒房有餘清。
夕方雨がはれて清涼感のある空気が流れる、しずかなわが官舎の室には雨後の清らかさが満ちている。
 #2の初句「愁霖」の語がみえるから、長雨がはれたことであろう。氣涼 雨が上がり、晴れてきて清涼感の空気が流れる。○閒房 太守の官舎のしずかなわが室。(1) ひま,空き時間. 消闲暇つぶしをする. (2) 本筋とかかわりがない,意味のない. 闲谈雑談する閒居の閒(門構えに月)は、間と一緒。(間は閒の俗字) で、実は閑も、間と同じ意味で使われることが多いのだった。 たとえば、閑話休題とも間話休題とも書く○餘清 雨後の清らかさ


開軒滅華燭,月露皓已盈。
廊下の欄干のまどを開扉してきれいな台座のともし火を消すと、もう月露のいろは白く光って月の光に満ちあふれている。
開軒 軒は横に長い窓、廊下の欄干のまどを開扉する。○燭 ろうそく。ここは、その火。華とは、ろうそくや、その台が美しいことをさす.


獨夜無物役,寢者亦云寧。
こうした夜に一人で過ごすわたしは俗務にわずらわされることもない、そして、横に寝ているものにとっては心安らかというものだ。
○物役 外物に使役されること。俗務-俗世間の雑用的なことに動かされること。○寢者 横に寝ているもの○云寧 心安らかというもの。


謝宣遠(387-421)
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。時に弟の晦は右衛将軍として権遇は甚だ重く、賓客は輻輳してその門に至る。瞻は、かくの如き富貴権遇を門戸の福に非ずとし、「吾はこれを見るに忍びず」と言った。しかし、劉裕が宋王朝を始めるにあたり、晦はついに佐命の功を建てたので、瞻は益々憂えおそれ、たまたま疾を獲たが療(なお)そうとはせず、まもなく卒した。随志には、文集三巻。

謝朗
(生卒年不詳,376年前後在世) 字長度といい,小字は胡,南朝陳國陽夏の人,謝安の從子。晉孝武帝375年太元元年前後在世。体が弱く病気がちであった。


謝 安(しゃ あん、Xie Ān、320年 - 385年)は中国東晋の政治家。字は安石。陳郡陽夏(現河南省)の出身。桓温の簒奪の阻止、淝水の戦いの戦勝など東晋の危機を幾度と無く救った。謝裒の3男で謝奕、謝拠の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝琰。
名族・陽夏謝氏に生まれ、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに王羲之と交流を深め、清談に耽った。360年、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。やがて桓温から離れて中央に戻り侍中、吏部尚書に就任した。
当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の死後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。桓温の死後の373年に尚書僕射となり、東晋の政権を握る。
383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。
この功績により、陽夏謝氏は琅邪王氏と同格の最高の家格とされ、謝安は太保となった。更に謝安はこの勢いを駆って北伐を計画していたが、皇族の権力者司馬道子に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒してのことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。
385年、65歳で病死。死後、太傅の官と廬陵郡公の爵位が追贈された。子の謝琰と孫の謝混も引き続き東晋に仕えた。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#5>Ⅱ李白に影響を与えた詩464 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1209


還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
曾是反昔園,語往實款然。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。

#5
曩基即先築,故池不更穿。
修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
果木有舊行,壤石無遠延。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。
雖非休憩地,聊取永日閒。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
衛生自有經,息陰謝所牽。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬ影の所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
夫子照清素,探懷授往篇。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。

demen07

現代語訳と訳註
(本文)
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。


(下し文) #5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


(現代語訳)
修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬ影の所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。


(訳注)#5
曩基即先築,故池不更穿。

修業ための家屋、別荘は以前すでに建築している、池はもとからあり、この上さらに掘ることはいらないのである。
 昔、以前。○ 土台。ここは家屋のこと。浄土教による学問修業の場、別荘や寺もたてている。


果木有舊行,壤石無遠延。
果樹はもとのままに立ち並び、土や石も近くにあるから遠方から持ち運ぶ必要はない。


雖非休憩地,聊取永日閒。
この先祖からの荘園は真に休憩すべき地ではないにしても、まあ昼を長く引きのばして楽しむといわれる、その永日ののどかな心を養いたい。
永日 のどかな春の日。春の日長。一日中。日を長くする。『詩経、唐風、山有樞』「且以喜楽、且以永日」(且つ以て喜楽し、且つ以て日を永うせん。)琴を引いて愉快にやれば楽しくもあり、一日のんびりと暮らせる。―ということでこの詩に基づいている。
 

衛生自有經,息陰謝所牽。
生を守り命を全うするには自ずから方法かあるもので、日向で影ができるのが嫌で日の当らぬかげの所に休み、俗務に引きわずらわされぬようにしたい。
衛生 生命を守り全うする。健康を保ち、病気の予防、治療をはかること。『荘子、庚桑楚』「 南榮趎曰:“里人有病,里人問之,病者能言其病,然其病病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衛生之經而已矣。”老子曰:“衛生之經,能抱一乎?能勿失乎?能無卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?」南栄趎曰く、願はくは生を衛るの經を聞かんのみと。老子日く、生を衛るの経は、能く一を抱かんかな。能く失ふ勿からんかな。能く物と委蛇して其の波に同じくするは、是れ生を衛るの経なり」。・経とは道、方法。○息陰 荘子に「人、影を畏れ迩を悪み、之を去りて走るものあり。足を挙ぐること愈々しばしばすれば、迹ほ愈々疾ければ影は身を離れず」ということから、影がうつるのをやめたいならば、走り動くことをやめて、日光の当らぬ所に居ればよい。そこならば影は生ぜぬ」といった。○謝 しりぞけことわる。


夫子照清素,探懷授往篇。
顔・范の二君はわが胸の中から本当の心を探りとっているので、わが胸のうちを述べたこの詩を差しあげる。
探懷 胸の中から情素(ほんとの心)を探りとる。○往篇 当方から寄せる詩。先方から寄こすものを来詩という。顔延之(延年)  和謝監靈運  詩<61-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩456 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1185謝靈運の酬従弟恵運にも用例がある。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩463 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1206

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還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
曾是反昔園,語往實款然。

かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基即先築,故池不更穿。
果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。
衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#4
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。


(下し文) #4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。


(現代語訳)
424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。


(訳注)#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅

424年文帝即位し、426年には盛明の徳をもって暗い陰湿な徐羨之らの横暴を粛清したのである、そして正美の道をもって難儀な状態を鎮め落ち着いた世にした。
○盛明 少帝422年 - 424年文帝(ぶんてい)は南朝宋の第3代皇帝。皇帝を廃されて殺された少帝(劉義符)の弟に当たる。即位以前は宜都王の地位にあった。424年、兄の義符が不行跡を理由に廃されて殺されると、代わって即位することとなった。即位後は、兄を廃して殺した罪で徐羨之らの重臣を次々と粛清した。(426年に徐羨之らの専横を嫌った文帝により、少帝殺害の罪を問われ、自殺を命じる。)その一方で貴族を重用し、学問を奨励して国子学を復興する。謝靈運は、426年"秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。このような経緯から、文帝の治世において学問・仏教などの文化が盛んになり、范曄が『後漢書』を完成させたりと、宋は全盛期を迎えることになった。このため、文帝の治世は元嘉の治と呼ばれている。○氛昏 422~426年までの徐羨之・傅亮らの専横。顔延之は422年左遷されている。○貞休 正義をもって純徳の道を進むこと。○屯邅 二字とも、一か所にたむろして行き悩んで進まぬこと。ここでは、それまでの皇帝が短年で変わっており、文帝になり安定したことをいう。


殊方咸成貸,微物豫采甄。
それで遠い国々までも皆、徳の恩恵をうけて国が栄えたのであるし、微細でとるに足らないわたしごときをおとりあげになり、恩命に接したのである。(426年秘書監となる。秘閣の書を整理し、『晋書』を作る。)。
殊方 方法を異にする。方向を変えること。○成貸 老子の「それただ道は善く貸し且つ成す」に本づく。『老子:徳経:同異第四十一』
上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、大白若辱、廣徳若不足。建徳若偸、質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且成。○ 参す。あづかり加わる。


感深操不固,質弱易版纏。
わたしはこれに深く感じいって隠退の志は堅いということでなく、気も弱くて恩命に引かれ易いままに秘書監の職についた。
○板纏 牽引の意、ひく。


曾是反昔園,語往實款然。
かくて官についたものの今や会稽の先祖伝来の荘園にもどり、過ぎし日の事など語ることができて打ち解けて。真心から人に接することが実にうれしい。
曾是 かくて~したものの今や~。○款然 打ち解けて。真心から人に接するさま。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩462 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1203

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩462 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1203


#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。

(下し文) #3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。

(現代語訳)
この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。


(訳注)#3
流沫不足險,石林豈為艱。

この流れに比べると、論語でいうかの呂梁さえも険しいとするには足らず、この山に比べると、かの石林山もどうして難所と言えようか、艱険なことは呂梁や石林以上である。
流沫 急流に立つあわ。列子「孔子從而問之, 曰: 「 呂梁懸水三十仞, 流沫三十里, 黿鼉魚鱉所不能游, 向吾見子道之. 以為有苦而欲」孔子は呂梁を観る。懸水四十仭、流沫三十里。東嶺(誓)魚順讐管も泳ぐははざる所なり」。
孔子が呂梁(ろりょう・急流を石堤でせき止めたところ)に遊んだとき、そこには三十尋(ひろ・約1・5メートル)もの滝がかかっていて、水しぶきを上げる流れは四十里も続き、魚類でさえ泳ぐ事のできないところだったが、一人の男がそこで泳いでいるのが眼に入った。孔子は悩み事で自殺しようとしていると思い、弟子をやって岸辺から助けようとした。ところが男は数百歩の先で水から上がると、髪を振り乱したまま歌を唄って歩いて、堤のあたりをぶらついた。
 孔子は男に尋ねた「私はあなたを化け物かと思いましたが、よく見ると人間でした。お尋ねしたいが、水中を泳ぐのに何か特別な方法があるのですか」。
 男は答えた「ありません。私は慣れたところから始めて、本性のままに成長し、運命のままに出来上がっているのです。水の中では渦巻きに身を任せて一緒に深く入り、湧き水に身を任せて一緒に出てくる。水のあり方についていくだけで、自分の勝手な心を加えないのです。私が水中を上手く泳げるのはそのためです」。
 孔子はいった「慣れたところから始まって、本性のままに成長し、運命のままに出来上がったといわれたが、それはどういうことですか」
 男はいう「私がこうした丘陵地に生まれ、安住しているという事が慣れた所です。こうした水の流れとともに育って、その流れに安心しているというのが本性(もちまえ)です。自分が何故そんなに上手く泳げるのか、そんな事は分からずにいて、そうあるというのが、運命(さだめ)なのです)」。  


閩中安可處,日夜念歸旋。
永嘉は都を遠くはなれた閩中の地という場所であり、何でそこに落ちついておられようか、昼も夜も会稽に帰りたいと望んでいた。
 中国五代十国時代に現在の福建省を中心に存在した国。十国の一つであるが、ここではその国のことではなくその地方のことをいう。


事躓兩如直,心愜三避賢。
己に世の治乱にかかわらず論語でいう史魚と遽伯玉の二人の直道を守るものほどのものであるがつまずき失敗し、左遷の憂きめをみたが、心は孫叔敖の三度退けられても悔いぬごとき賢に満足している。
○両如直 論語の衛霊公篇に「子曰、直哉史魚、邦有道如矢、邦無道如矢、君子哉遽伯玉、邦有道則仕、邦無道則可巻而懐之。」(子曰わく、直(ちょく)なるかな史魚(しぎょ)。邦(くに)に道有るにも矢の如(ごと)く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな遽伯玉(きょはくぎょく)。邦に道有れば則(すなわ)ち仕(つか)え、邦に道無ければ則ち巻きてこれを懐(ふところ)にすべし。)廉直の人である史魚と君子である遽伯玉を評価したもの。史魚は国家の秩序関係なく懸命に働く。遽伯玉は秩序がとられていないときはその才能を発揮せずしまいこんだことを君子と評価した。〇三避 史記に「孫叔敖は楚に相たり、三たび相を去りたれども悔いず、その己が罪にあらざるを知ればなり」。○ すぐれた道、かしこさ。


託身青雲上,棲岩挹飛泉。
会稽の荘園では、青雲のかかる山の高きに身を寄せ、いわおのほとりに住んで谷川の水をすくいとって飲むという日常であった。
託身青雲上,棲岩挹飛泉 永嘉太守をやめて、会稽の旧園に暫くいた時のこという。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩461 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1200

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還舊園作見顏范二中書 謝靈運
五言

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。

ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。

#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
焚玉發昆峰,餘燎遂見遷。投沙理既迫,如邛原亦愆。
長與懽愛別,永絶平生緣。浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。


(下し文)#2
玉を焚くこと昆峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。


(現代語訳)
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。


(訳注)#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。

かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
○焚玉 尚書の胤征篇に、「祝融司夏,萬物焦爍,火炎昆崗,玉石俱焚,爾無與焉。天吏逸德烈于猛火。」火の崑崗と炎えさかるや、玉も石も俱に焚かる。天吏の逸徳は猛火よりも烈し」。○崑峰 棟両端の金幣、屋根上の宝珠は崑崗が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊を現している。○余燎 余火。もえ広がる火の余り。宋書に、「少帝は位につく、権は大臣に在り、靈運は異同を構扇し、執政を非毀す。司徒の徐羨之が患ひ、出して永嘉の太守となす」。霊運は時に盧陵王の司馬となっていたのである。


投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
投沙 身を長沙に投ず。長沙にゆくこと。漢書に、「賈誼は謫せられて長沙に居る。長沙は卑濕なれは、自ら傷悼し、おもへらく、壽ながきを得ざらんと」。・賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。○理迫 運命がさしせまる。「理は法官なり」という。それは、徐羨之らに厳しく監視されて、さし迫った立場に置かれた、というもの。○如邛 漢書に「卓文君は司馬相如に謂って曰く、しばらく臨邛にゆきて昆弟に従ひて仮貸せば、なお以て生を為すに足らん。何ぞ自ら苦しむこと此くのごときに至らん、と。相加ときに臨邛にゆく」。○ あやまつ、たがう、失。


長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
長與懽愛 長らく親愛の情で親交を深めていた付き合いをいう。詩を贈った相手の名前ではないが貰った相手にはすぐわかる表現である。顔延之と范泰である。・顔延之(ガンエンシ)384~456
瑯邪の人。字は延年。諡は憲子。顔含の曽孫。御史中丞、秘書監などを経て金紫光禄大夫になった。 当時延之と謝霊運とは詩才をもって有名で、西晋の潘岳、陸機以来の文士といわれていた。 延之は貴族としては第2流であるが、その言動には当時の貴族のもつ特性が顕著に現われている。
范泰【ハンタイ】355~428 南陽・順陽の人。字は伯倫。諡は宣侯。〈後漢書〉の著者范曄の父。 晋の太学博士として任官、父范寧の遂郷侯の爵をついだ。 のち宋の武帝と文帝に仕え、侍中となり、国子祭酒・領江夏王師であった。 晩年には仏教に傾倒した。謝靈運と親交があった。 文章にすぐれ、いくつかの上奏文は正史に載せられている。 文集20巻のほか、古今の善言を集めた24編があったが、全て現在に伝わっていない。
范曄(ハンヨウ)398~445
字は蔚宗。順陽・山陰の人。父范泰は宋の車騎将軍。 范曄は家をでて従伯范弘之の家を継ぎ武興県五等侯を襲封。 経史にひろくわたり、文章・隷書・音律にひいでた。 晋末に彭城王劉義康の冠軍参軍となり、宋に入っては荊州別駕従事まですすみ、父の死をもって退いた。 のち征南将軍檀道済の司馬となったが、脚疾を理由に従軍をがえんじないことなどがあり、不覊の行為が多かったが、累遷して尚書吏部郎となった。 これよりさき、424〔元嘉元〕年、彭城太妃が没し、その葬祭のとき、故僚の集まっているときに、彼は弟の范広義の家で酒を飲み、窓を開いて挽歌を聞きながら楽をかなでた。 そのため、彭城王の怒りをかい、宣城太守に左遷された。しかしその志をえぬ間に、彼は諸家の〈後漢書〉をつづり、一家の作をなした。 范曄は完成をみぬまま没した。 439〔元嘉16〕年、母の死で退いた范曄は、ふたたび仕えて左衛将軍太子せん事にまだいたったが、家庭は修まらず、門地が高いわりに朝廷の優遇を得ず、同じく不平の徒、魯の孔熙先とむすび、彭城王の擁立をはかったが、事がもれて棄市の刑に処された。


浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
○仞 一仞は八尺、また七尺、もしくは四尺。○尋 八尺。

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 詩集 370

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 #2 詩集 371

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 鄰里相送至方山 詩集 373

孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372

過始寧墅 謝霊運 #1 詩集 374

過始寧墅 謝霊運 #2 詩集 375

富春渚<14> #1 謝霊運 376

富春渚 #2 謝霊運<14> 詩集 377

初往新安桐盧口 謝霊運<15>  詩集 378

七里瀬 #1 謝霊運<16> 詩集 376

七里瀬 #2 謝霊運<16> 詩集 377

晚出西射堂 #1 謝霊運<17>  詩集 381

晚出西射堂 #2謝霊運<17>  詩集 382 #2

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197



429年 文帝 元嘉6年45歳。
(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)

会稽の始寧県に先祖からの故郷の荘園にかえってから、顔延之太守ならびに范泰中書侍郎におくったものである。


還舊園作見顏范二中書 謝靈運

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
#2
焚玉發昆峰,餘燎遂見遷。投沙理既迫,如邛原亦愆。
長與懽愛別,永絶平生緣。浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。

#2
玉を焚くこと昆峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。
#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。偶與張邴合,久欲還東山。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。何意沖飆激,烈火縱炎烟。


(下し文)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。


(現代語訳)
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。


(訳注) #1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
滿 滿ち足る。ここは在官のこと。官を満了する。○豈多秩 「秩を多とせんや」(秩ありて満つることを望まず、辞す)。


偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
張邴 張長公と邴丹曼容のこと。・:張長公 漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。漢の張釈之の子。
陶淵明『飲酒、其十二』
長公曾一仕、壯節忽失時。
杜門不復出、終身與世辭。
仲理歸大澤、高風始在茲。
一往便當已、何爲復狐疑。
去去當奚道、世俗久相欺。
擺落悠悠談、請從余所之。
長公曾て一たび仕(つか)えしも、壮節にして忽ち時を失う。
門を杜(と)じて復(ま)た出でず、終身 世と辞す。
仲理 大沢(だいたく)に帰りて、高風 始めて茲(こ)こに在り。
一たび往かば便(すなわ)ち当(まさ)に已むべし、(なん)為(す)れぞ復た狐疑する。
去り去りて当(まさ)に奚(なに)をか道(い)う可けん、世俗は久しく相い欺(あざむ)けり。
悠悠の談を擺(はら)い落とし、請(こ)う 余が之(ゆ)く所に従わん。

前漢の張長公は一度官途についたが、まだ壮年だというのにすぐに失脚した。それからは門を閉ざして外に出ず、終生仕えようとしなかった。後漢の楊仲理は大きな池のそばに隠居して、あの高尚な学風がそこで養われたのだ。さっさと隠退しよう、何をためらうことがあろうか。どんどん歩いて行こう、何もいうことはない、世間はずっと昔からお互いだましあいの世界。世俗のいい加減なうわさなどはらいすてて、さあ我が道を行くのだ。
○長公 前漢の張摯。『史記』巻一百二「張釈之伝」に「釈之(せきし)卒す。其の子を張摯(ちょうし)と曰う、字は長公。官は大夫に至るも、免ぜらる。当世に容(い)らるるを取ること能(あた)わざるを以て、故に終身仕(つか)えず」とある。○仲理 後漢の楊倫。『後漢書』巻一百九上「楊倫伝」に「楊倫、字は仲理。……少(わか)くして諸生と為り、司徒丁鴻に師事して古文尚書を習い、郡の文学掾(えん)と為るも、更(あらた)められて数将を歴(ふ)。志(こころざし)時に乖(そむ)き、人間(じんかん)の事を能(よ)くせざるを以て、遂に職を去り、復た州郡の命に応じず。大沢中に講授して、弟子千余人に至る」とある。○狐疑 『離騒』に「心猶(ゆう)豫(よ)して狐疑す、自ら適(ゆ)かんと欲するに而も可ならず」とある、屈原が美女に求婚しようとするのにぐずぐずしている表現を意識し、ここは、そのように閑居に踏み切れずにいる自分を叱咤激励している。○去去當奚道 曹植「雜詩六首」其一(『文選』巻二十九)「去(ゆ)き去きて復た道(い)う莫れ、沈憂は人をして老いしむ」を意識し、官界への未練を断ち切れと自らに言いきかせている。○悠悠談 悠悠は、とりとめもない、けじめがないの意。「悠悠の談」は、世間での自分に対する風評のたぐい。そんなものは気にせずに我が道を行けと、これも自分を励ましている。
 これは、官界から離脱し、閑居に入ろうとしつつも、官界への未練があってぐずぐずしている自分に決断をせまり、叱咤激励する詩である。
李白『單父東樓秋夜送族弟沈之秦』
爾從咸陽來。 問我何勞苦。
沐猴而冠不足言。 身騎土牛滯東魯。』
沈弟欲行凝弟留。 孤飛一雁秦云秋。
坐來黃葉落四五。 北斗已挂西城樓。』
絲桐感人弦亦絕。 滿堂送君皆惜別。
卷帘見月清興來。 疑是山陰夜中雪。』
明日斗酒別。 惆悵清路塵。
遙望長安日。 不見長安人。
長安宮闕九天上。 此地曾經為近臣。』
一朝復一朝。 發白心不改。
屈原憔悴滯江潭。 亭伯流離放遼海。』
折翮翻飛隨轉蓬。 聞弦墜虛下霜空。
聖朝久棄青云士。 他日誰憐張長公。』
青云士 学徳高き賢人。 ○張長公 漢の張摯、字は長公、官吏となったが、世間と合はないとてやめられたのち終身仕へなかった。漢の張釈之の子。
謝靈運『初去郡』
顧己雖自許,心跡猶未並。
無庸妨周任,有疾像長卿。
畢娶類尚子,薄遊似邴生
恭承古人意,促裝反柴荊。
○尚子 尚長、字は子平。男女の子供が結婚した後は、家事に関係せず、死んだようにして暮らした(高士伝)。○薄遊 遊宦(役人生活)をなすことが薄い。薄禄に甘んじたこと。○邴生 漢書「邴丹曼容養志自修,為官不肯過六百石,輒自免去。」(邴生、名は丹、字は曼容、志を養い自ら修む。官と為りて敢えて六百石を過ぎず、輒ち免じて去ると。)

初去郡 謝靈運<34>#2 詩集 413  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1056

東山 浙江省上虞県の西南にあり、会稽(紹興)からいうと東の山であり、名勝地。晋の太傅であった謝安がむかしここに隠居して、なかなか朝廷の招きに応じなかったので有名。山上には謝安の建てた白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所と伝えられている。


聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。


何意沖飆激,烈火縱炎烟。
ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
 突風。竜巻き。また、一般に風。つむじかぜ. 渦を巻きながら激しく舞い上がる風。大風。徐羨之らの乱を比喩する表現。

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩459 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1194

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#4>Ⅱ李白に影響を与えた詩459 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1194

(謝監靈運に和す)―「還舊園作見顔范二中書」に答える。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197





和謝監靈運   顏延年
弱植慕端操,窘步懼先迷。
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
寡立非擇方,刻意藉窮棲。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
雖慚丹雘施,未謂玄素睽。
天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。
(謝監靈運に和す)
弱植【じゃくち】にして端操【たんそう】を慕ひ,窘步【きんぽ】して先迷【せんめい】を懼【おそ】る。
立つこと寡【すくな】くして方【みち】を擇【えら】ぶに非ず,意【こころ】を刻【きざ】みて窮棲【きゅうせい】に籍【よ】る。
伊【こ】れ昔多幸【たこう】に邁ひ,筆を秉りて兩閨【りょうけい】に侍す。
丹雘【たんかく】の施【ほどこし】に慚【は】づと雖も,未だ玄素の睽【そむ】けるを謂はず。

#2
徒遭良時詖,王道奄昏霾。
しかるに、宋の武帝の良く治まった時代が終って偏った施政となった、たちまち王道は乱れて暗くなり、文帝のあと、少帝は政治を怠ったのだ。
人神幽明絶,朋好雲雨乖。
人と神とは天と地との如く懸け離れて縁がなくなり祭りができず、朋友は雲雨の離れ散るようにばらばらに散ったのだ。
弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。
かくて我も始安郡の太守となって都を離れる途中で祠原を沼薗のほとりに弔い、蒼梧山の径のほとりなる舜帝の廟に詣でた。
倚岩聽緒風,攀林結留荑。

また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。
#2
徒【ただ】良時【りょうじ】の詖【かたむ】けるに遭い,王道【おうどう】奄【たちま】ち昏霾【こんまい】す。
人神【じんしん】は幽明【ゆうめい】のごとく絶え,朋好【ほうこう】は雲雨のごとく乖【そむ】く。
屈【くつ】を汀洲【ていしゅう】の浦【ほ】に弔し,帝に蒼山【そうざん】の蹊【みち】に謁【えつ】す。
岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。
韓愈の地図03

#3
跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。

衡山にへだてられた五嶺山脈の向こうの始安郡(桂林)にあっても、爪先を立てて君の方を望み、いつになったら君の住む会稽山を見ることができようかと思ったものだ。
皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
のち文帝が位につかれて天のごとき徳を明らかにし、その治世は元嘉の治と呼ばれた。そのゆたかな恵みは、水底に沈む泥をもふるい起すごとく、元嘉三年、徐羨之を誅殺、顔延之は、中書侍郎として都に召しかえされた。
惜無爵雉化,何用充海淮。
残念なことに、我はすずめを蛤(はまぐり)にかえ、きじを蜃(おおはまぐり)にかえるような才がないので、どうして故事に言う「海や淮水」の変化に当ることができるというのか、天子に仕えてよく職責をはたすにことはできかねる。
去國還故里,幽門樹蓬藜。
それゆえこの国都を去って放郷に帰り、静かに隠遁し、門のほとりに蓬やあかざを植えるのである。
#3
跂【つまだ】てて予【われ】衡嶠【こうきょう】を間【へだ】つ,曷【いづれ】の月にか秦稽【しんけい】を瞻【み】ん。
皇聖【こうせい】は天德【てんとく】を昭【あきら】かにし,豐澤【ほうたく】は沈泥【ちんでい】を振う。
惜【おし】むらくは爵雉【じゃくち】の化【か】無し,何を用てか 海淮【かいわい】に充【あ】たらん。
國を去りて 故里【こり】に還り,幽門【ゆうもん】に蓬藜【ほうれい】を樹えん。

#4
采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。
物謝時既晏,年往志不偕。
親仁敷情昵,興賦究辭棲。
芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。
盡言非報章,聊用布所懷。

家の周りのいばらを取り除き、むかしからの家の屋根を葺きかえ、荘園のいばらなどを伐り除いて旧田を開き耕したい。
今や万物、気持ちの部分でも凋落して老人のように歳晩となっていた、たしかに、わが年もまた往き老いていて、隠遁したいという志を遂げることができずにいる。
浄土教の仁を積んだ者と親しくしている君は、この度わたしに対して親近の情をのべ示し、詩を寄せて真心こめたことばをのべてくれたのだ。
君は人里はなれた林野で修行に適した閑静な場所で過ごしているのでありながら、その詩は香気が盛んに漂わせているのだ、清らかに響く音は珪璧の美玉が触れ合って鳴る澄んだ音のようである。
わたしが精いっぱいのことばで述べたこの詩は、君に答えるに足るものではなくいかもしれないが、まあ心に思うことをのべたというほどのつまらないものです。

#4
茨【し】を采りて 昔宇【せきう】を葺【ふ】き,棘【きょく】を翦【き】りて 舊畦【きゅうけい】を開かん。
物 謝【さ】りて時は既に晏【く】れ,年 往きて志【こころざし】は偕【とも】ならず。
仁【じん】に親しみて 情の昵【ちか】きを敷き,賦【ふ】を興して 辭の棲【せい】を究【きわ】む。
芬馥【ぶんぱく】は蘭若【らんじゃく】を歇【つく】し,清越【せいえつ】は琳珪【りんけい】を奪う。
言を盡すも章にゆる報に非らず,聊【いささ】か用って 懷う所を布【し】く。


現代語訳と訳註
(本文)

采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。物謝時既晏,年往志不偕。
親仁敷情昵,興賦究辭棲。芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。
盡言非報章,聊用布所懷。


(下し文)
茨【し】を采りて 昔宇【せきう】を葺【ふ】き,棘【きょく】を翦【き】りて 舊畦【きゅうけい】を開かん。
物 謝【さ】りて時は既に晏【く】れ,年 往きて志【こころざし】は偕【とも】ならず。
仁【じん】に親しみて 情の昵【ちか】きを敷き,賦【ふ】を興して 辭の棲【せい】を究【きわ】む。
芬馥【ぶんぱく】は蘭若【らんじゃく】を歇【つく】し,清越【せいえつ】は琳珪【りんけい】を奪う。
言を盡すも章にゆる報に非らず,聊【いささ】か用って 懷う所を布【し】く。


(現代語訳)
家の周りのいばらを取り除き、むかしからの家の屋根を葺きかえ、荘園のいばらなどを伐り除いて旧田を開き耕したい。
今や万物、気持ちの部分でも凋落して老人のように歳晩となっていた、たしかに、わが年もまた往き老いていて、隠遁したいという志を遂げることができずにいる。
浄土教の仁を積んだ者と親しくしている君は、この度わたしに対して親近の情をのべ示し、詩を寄せて真心こめたことばをのべてくれたのだ。
君は人里はなれた林野で修行に適した閑静な場所で過ごしているのでありながら、その詩は香気が盛んに漂わせているのだ、清らかに響く音は珪璧の美玉が触れ合って鳴る澄んだ音のようである。
わたしが精いっぱいのことばで述べたこの詩は、君に答えるに足るものではなくいかもしれないが、まあ心に思うことをのべたというほどのつまらないものです。


(訳注)
采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。

家の周りのいばらを取り除き、むかしからの家の屋根を葺きかえ、荘園のいばらなどを伐り除いて旧田を開き耕したい。
○茨1 バラ・カラタチなど、とげのある低木の総称。荊棘(けいきょく)。 2 人里近くに多いバラ科バラ属の低木の総称。ノイバラ・ヤマイバラ・ヤブイバラなど。《季 花=夏 実=秋》3 植物のとげ。○棘 いばら。ひくく横に並んではえて林を成す。○畦 田のこと。「二十五畝を小畦となす」という。


物謝時既晏,年往志不偕。
今や万物、気持ちの部分でも凋落して老人のように歳晩となっていた、たしかに、わが年もまた往き老いていて、隠遁したいという志を遂げることができずにいる。
○謝 去る。凋落。○晏 晩。


親仁敷情昵,興賦究辭棲。
浄土教の仁を積んだ者と親しくしている君は、この度わたしに対して親近の情をのべ示し、詩を寄せて真心こめたことばをのべてくれたのだ。
○親仁 謝霊運をさす。左氏伝、隠公六年に「仁に親しみ鄭に善きは、同の宝なり」。○敷 しく、のべる。○賦 詩を作ることにもいう。ここは詩。○悽 李善注本は「唆」に作るが、五臣注本に従う。切実なこと。○究 きわめつくす。


芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。
君は人里はなれた林野で修行に適した閑静な場所で過ごしているのでありながら、その詩は香気が盛んに漂わせているのだ、清らかに響く音は珪璧の美玉が触れ合って鳴る澄んだ音のようである。
○芬馥【ふんぷく】香気が盛んに漂う様。○歇 ひと息入れる.(2) 停止する,中止する.(3) 寝る,眠る.短い時間,しばらくの間。○蘭若 仏典では,人里はなれた林野で修行に適した閑静な場所とされ,転じて僧侶の住む山間の小寺院を指す。○琳【りん】美しい玉。また、玉が触れ合って鳴る、澄んだ音の形容。○珪 諸侯に封じる時に、天子が授ける玉。「珪璧(けいへき)」


盡言非報章,聊用布所懷。
わたしが精いっぱいのことばで述べたこの詩は、君に答えるに足るものではなくいかもしれないが、まあ心に思うことをのべたというほどのつまらないものです。
○清越 礼記の聘義篇に「夫昔者,君子比德於玉焉。玉的敲擊,聲音清越悠長」(昔者、君子は徳を玉に比す、之を叩くときは、其の声は清越にして長し。)越は、あがる意。○歇・奪 香草のかおりや美玉の清い音を、「うばい尽くす」とは、香草・美玉にとってかわる、それと同じ、の意。

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩458 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1191

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩458 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1191

(謝監靈運に和す)―「還舊園作見顔范二中書」に答える。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197






和謝監靈運   顏延年
弱植慕端操,窘步懼先迷。
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
寡立非擇方,刻意藉窮棲。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
雖慚丹雘施,未謂玄素睽。
天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。
(謝監靈運に和す)
弱植【じゃくち】にして端操【たんそう】を慕ひ,窘步【きんぽ】して先迷【せんめい】を懼【おそ】る。
立つこと寡【すくな】くして方【みち】を擇【えら】ぶに非ず,意【こころ】を刻【きざ】みて窮棲【きゅうせい】に籍【よ】る。
伊【こ】れ昔多幸【たこう】に邁ひ,筆を秉りて兩閨【りょうけい】に侍す。
丹雘【たんかく】の施【ほどこし】に慚【は】づと雖も,未だ玄素の睽【そむ】けるを謂はず。

#2
徒遭良時詖,王道奄昏霾。
しかるに、宋の武帝の良く治まった時代が終って偏った施政となった、たちまち王道は乱れて暗くなり、文帝のあと、少帝は政治を怠ったのだ。
人神幽明絶,朋好雲雨乖。
人と神とは天と地との如く懸け離れて縁がなくなり祭りができず、朋友は雲雨の離れ散るようにばらばらに散ったのだ。
弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。
かくて我も始安郡の太守となって都を離れる途中で祠原を沼薗のほとりに弔い、蒼梧山の径のほとりなる舜帝の廟に詣でた。
倚岩聽緒風,攀林結留荑。

また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。
#2
徒【ただ】良時【りょうじ】の詖【かたむ】けるに遭い,王道【おうどう】奄【たちま】ち昏霾【こんまい】す。
人神【じんしん】は幽明【ゆうめい】のごとく絶え,朋好【ほうこう】は雲雨のごとく乖【そむ】く。
屈【くつ】を汀洲【ていしゅう】の浦【ほ】に弔し,帝に蒼山【そうざん】の蹊【みち】に謁【えつ】す。
岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。
韓愈の地図03

#3
跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。
衡山にへだてられた五嶺山脈の向こうの始安郡(桂林)にあっても、爪先を立てて君の方を望み、いつになったら君の住む会稽山を見ることができようかと思ったものだ。
皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
のち文帝が位につかれて天のごとき徳を明らかにし、その治世は元嘉の治と呼ばれた。そのゆたかな恵みは、水底に沈む泥をもふるい起すごとく、元嘉三年、徐羨之を誅殺、顔延之は、中書侍郎として都に召しかえされた。
惜無爵雉化,何用充海淮。
残念なことに、我はすずめを蛤(はまぐり)にかえ、きじを蜃(おおはまぐり)にかえるような才がないので、どうして故事に言う「海や淮水」の変化に当ることができるというのか、天子に仕えてよく職責をはたすにことはできかねる。
去國還故里,幽門樹蓬藜。

それゆえこの国都を去って放郷に帰り、静かに隠遁し、門のほとりに蓬やあかざを植えるのである。
#3
跂【つまだ】てて予【われ】衡嶠【こうきょう】を間【へだ】つ,曷【いづれ】の月にか秦稽【しんけい】を瞻【み】ん。
皇聖【こうせい】は天德【てんとく】を昭【あきら】かにし,豐澤【ほうたく】は沈泥【ちんでい】を振う。
惜【おし】むらくは爵雉【じゃくち】の化【か】無し,何を用てか 海淮【かいわい】に充【あ】たらん。
國を去りて 故里【こり】に還り,幽門【ゆうもん】に蓬藜【ほうれい】を樹えん。

#4
采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。物謝時既晏,年往志不偕。
親仁敷情昵,興賦究辭棲。芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。
盡言非報章,聊用布所懷

#4
茨【し】を采りて 昔宇【せきう】を葺【ふ】き,棘【きょく】を翦【き】りて 舊畦【きゅうけい】を開かん。
物 謝【さ】りて時は既に晏【く】れ,年 往きて志【こころざし】は偕【とも】ならず。
仁【じん】に親しみて 情の昵【ちか】きを敷き,賦【ふ】を興して 辭の棲【せい】を究【きわ】む。
芬馥【ぶんぱく】は蘭若【らんじゃく】を歇【つく】し,清越【せいえつ】は琳珪【りんけい】を奪う。
言を盡すも章にゆる報に非らず,聊【いささ】か用って 懷う所を布【し】く。



現代語訳と訳註
(本文)
#3
跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。
皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
惜無爵雉化,何用充海淮。
去國還故里,幽門樹蓬藜。


(下し文)
跂【つまだ】てて予【われ】衡嶠【こうきょう】を間【へだ】つ,曷【いづれ】の月にか秦稽【しんけい】を瞻【み】ん。
皇聖【こうせい】は天德【てんとく】を昭【あきら】かにし,豐澤【ほうたく】は沈泥【ちんでい】を振う。
惜【おし】むらくは爵雉【じゃくち】の化【か】無し,何を用てか 海淮【かいわい】に充【あ】たらん。
國を去りて 故里【こり】に還り,幽門【ゆうもん】に蓬藜【ほうれい】を樹えん。
 

(現代語訳)
衡山にへだてられた五嶺山脈の向こうの始安郡(桂林)にあっても、爪先を立てて君の方を望み、いつになったら君の住む会稽山を見ることができようかと思ったものだ。
のち文帝が位につかれて天のごとき徳を明らかにし、その治世は元嘉の治と呼ばれた。そのゆたかな恵みは、水底に沈む泥をもふるい起すごとく、元嘉三年、徐羨之を誅殺、顔延之は、中書侍郎として都に召しかえされた。
残念なことに、我はすずめを蛤(はまぐり)にかえ、きじを蜃(おおはまぐり)にかえるような才がないので、どうして故事に言う「海や淮水」の変化に当ることができるというのか、天子に仕えてよく職責をはたすにことはできかねる。
それゆえこの国都を去って放郷に帰り、静かに隠遁し、門のほとりに蓬やあかざを植えるのである。


 (訳注)
跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。

衡山にへだてられた五嶺山脈の向こうの始安郡(桂林)にあっても、爪先を立てて君の方を望み、いつになったら君の住む会稽山を見ることができようかと思ったものだ。
 山の名。○ 爾雅に「山の鋭くて高いもの」とあり、五嶺山脈。○ 会稽郡の秦望山。始皇帝が、この山に登り、南海を望んだからという。○ 会楷山。もと茅山といい、禹帝がここに登ってから、名を改めた。


皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
のち文帝が位につかれて天のごとき徳を明らかにし、その治世は元嘉の治と呼ばれた。そのゆたかな恵みは、水底に沈む泥をもふるい起すごとく、元嘉三年、徐羨之を誅殺、顔延之は、中書侍郎として都に召しかえされた。
皇聖昭天德 424年文帝即位。貴族勢力との妥協のもと政治を行なった。文帝の治世は元嘉の治と呼ばれた。426年顔延死を左遷させた徐羨之・傅亮らが誅殺され顔延之は召還された。


惜無爵雉化,何用充海淮。
残念なことに、我はすずめを蛤(はまぐり)にかえ、きじを蜃(おおはまぐり)にかえるような才がないので、どうして故事に言う「海や淮水」の変化に当ることができるというのか、天子に仕えてよく職責をはたすにことはできかねる。
爵雉化 国語に、趙簡子の語「雀(爵)は海に入りて蛤となり、雉は淮水に入りて蜃となる」ことがみえる。○化 かわる。かえる。天地が万物を生成する。民の俗をかえる、教化・徳化、などをいう。


去國還故里,幽門樹蓬藜。
それゆえこの国都を去って放郷に帰り、静かに隠遁し、門のほとりに蓬やあかざを植えるのである。
 ここは、天子の都の意。国の反対語に隠遁がある。

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩457 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1188

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩457 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1188

(謝監靈運に和す)―「還舊園作見顔范二中書」に答える。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197






和謝監靈運   顏延年
弱植慕端操,窘步懼先迷。
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
寡立非擇方,刻意藉窮棲。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
雖慚丹雘施,未謂玄素睽。
天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。
(謝監靈運に和す)
弱植【じゃくち】にして端操【たんそう】を慕ひ,窘步【きんぽ】して先迷【せんめい】を懼【おそ】る。
立つこと寡【すくな】くして方【みち】を擇【えら】ぶに非ず,意【こころ】を刻【きざ】みて窮棲【きゅうせい】に籍【よ】る。
伊【こ】れ昔多幸【たこう】に邁ひ,筆を秉りて兩閨【りょうけい】に侍す。
丹雘【たんかく】の施【ほどこし】に慚【は】づと雖も,未だ玄素の睽【そむ】けるを謂はず。

#2
徒遭良時詖,王道奄昏霾。
しかるに、宋の武帝の良く治まった時代が終って偏った施政となった、たちまち王道は乱れて暗くなり、文帝のあと、少帝は政治を怠ったのだ。
人神幽明絶,朋好雲雨乖。
人と神とは天と地との如く懸け離れて縁がなくなり祭りができず、朋友は雲雨の離れ散るようにばらばらに散ったのだ。
弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。
かくて我も始安郡の太守となって都を離れる途中で祠原を沼薗のほとりに弔い、蒼梧山の径のほとりなる舜帝の廟に詣でた。
倚岩聽緒風,攀林結留荑。
また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。
#2
徒【ただ】良時【りょうじ】の詖【かたむ】けるに遭い,王道【おうどう】奄【たちま】ち昏霾【こんまい】す。
人神【じんしん】は幽明【ゆうめい】のごとく絶え,朋好【ほうこう】は雲雨のごとく乖【そむ】く。
屈【くつ】を汀洲【ていしゅう】の浦【ほ】に弔し,帝に蒼山【そうざん】の蹊【みち】に謁【えつ】す。
岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。
#3
跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
惜無爵雉化,何用充海淮。去國還故里,幽門樹蓬藜。
#4
采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。物謝時既晏,年往志不偕。
親仁敷情昵,興賦究辭棲。芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。
盡言非報章,聊用布所懷

#3
跂【つまだ】てて予【われ】衡嶠【こうきょう】を間【へだ】つ,曷【いづれ】の月にか秦稽【しんけい】を瞻【み】ん。
皇聖【こうせい】は天德【てんとく】を昭【あきら】かにし,豐澤【ほうたく】は沈泥【ちんでい】を振う。
惜【おし】むらくは爵雉【じゃくち】の化【か】無し,何を用てか 海淮【かいわい】に充【あ】たらん。
國を去りて 故里【こり】に還り,幽門【ゆうもん】に蓬藜【ほうれい】を樹えん。
#4
茨【し】を采りて 昔宇【せきう】を葺【ふ】き,棘【きょく】を翦【き】りて 舊畦【きゅうけい】を開かん。
物 謝【さ】りて時は既に晏【く】れ,年 往きて志【こころざし】は偕【とも】ならず。
仁【じん】に親しみて 情の昵【ちか】きを敷き,賦【ふ】を興して 辭の棲【せい】を究【きわ】む。
芬馥【ぶんぱく】は蘭若【らんじゃく】を歇【つく】し,清越【せいえつ】は琳珪【りんけい】を奪う。
言を盡すも章にゆる報に非らず,聊【いささ】か用って 懷う所を布【し】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
徒遭良時詖,王道奄昏霾。人神幽明絶,朋好雲雨乖。
弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。倚岩聽緒風,攀林結留荑。


(下し文)
徒【ただ】良時【りょうじ】の詖【かたむ】けるに遭い,王道【おうどう】奄【たちま】ち昏霾【こんまい】す。
人神【じんしん】は幽明【ゆうめい】のごとく絶え,朋好【ほうこう】は雲雨のごとく乖【そむ】く。
屈【くつ】を汀洲【ていしゅう】の浦【ほ】に弔し,帝に蒼山【そうざん】の蹊【みち】に謁【えつ】す。
岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。


(現代語訳)
しかるに、宋の武帝の良く治まった時代が終って偏った施政となった、たちまち王道は乱れて暗くなり、文帝のあと、少帝は政治を怠ったのだ。
人と神とは天と地との如く懸け離れて縁がなくなり祭りができず、朋友は雲雨の離れ散るようにばらばらに散ったのだ。
かくて我も始安郡の太守となって都を離れる途中で祠原を沼薗のほとりに弔い、蒼梧山の径のほとりなる舜帝の廟に詣でた。
また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。


(訳注)
徒遭良時詖,王道奄昏霾。

しかるに、宋の武帝の良く治まった時代が終って偏った施政となった、たちまち王道は乱れて暗くなり、文帝のあと、少帝は政治を怠ったのだ。
 さかしい、かたよる、正しくない。○ にわか。○ 爾雅に「風が土をふらすこと」とある。砂や土を空にまきあげて、ふらす。そのため暗くなる。


人神幽明絶,朋好雲雨乖。
人と神とは天と地との如く懸け離れて縁がなくなり祭りができず、朋友は雲雨の離れ散るようにばらばらに散ったのだ。
幽明 1 暗いことと明るいこと。 2 死後の世界と、現在の世界。冥土(めいど)と現世。天と地。


弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。
かくて我も始安郡の太守となって都を離れる途中で祠原を沼薗のほとりに弔い、蒼梧山の径のほとりなる舜帝の廟に詣でた。
弔屈 史記によると、屈原は主君に忠心をつくしたが、用いられずして退けられ、のちに狽羅に身を投じて死んだ。顔延年は都から始安郡にうつされたのが不平で、屈原に感ずる所があった。始安郡は、今の広西省にあたるから、狽羅を通過したのである。ときに「屈原を祭る文」を作って、自身の意をのべたことが、南史の本伝に見える。○汀洲浦 汀:水ぎわ。洲:す。浦:うら。水に沿うた地。以上により、沼薗のほとりということになる。○蒼山 九疑山, 別称(蒼梧山)、寧遠県の南部にあり、[史記]五帝紀に、舜が「南に巡狩し、蒼梧の野に崩じ、江南の九疑に葬らる」とある舜廟の旧址と碑刻が現存し、廟の背後に舜源峰、前方に蛾皇・女英両峰が聳えるとある。故に「帝に謁す」といった。


倚岩聽緒風,攀林結留荑。
また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。
倚岩聽緒風,攀林結留荑 楚辞に「石巌に倚りて以て涕を流す」、遵野莽以呼風兮,步從容於山廋。巡陸夷之曲衍兮,幽空虛以寂寞。倚石巖以流涕兮,憂憔悴而無樂。登巑岏以長企兮,望南郢而闚之。山脩遠其遼遼兮,塗漫漫其無時。聽玄鶴之晨鳴兮,于高岡之峨峨。獨憤積而哀娛兮,翔江洲而安歌。
離騒4「留夷と掲車(鰐と)P27
余既茲蘭之九畹兮,又樹蕙之百畝。畦留夷與掲車兮,雑杜蘅與芳芷。冀枝葉之峻茂兮,愿竢時乎吾將刈。雖萎絶其亦何傷兮,哀衆芳之蕪穢。
・秋冬之緒風『楚辞』「九章」の「渉江」
○緒風 秋冬の風の名残をいう。に、「乗鄂渚而反顧兮、欵秋冬之緒風。」(鄂渚に乗りて反顧すれば、ああ、秋冬の緒風なり。)とある。

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩456 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1185

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩456 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1185
(謝監靈運に和す)―「還舊園作見顔范二中書」に答える。

還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩460 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1197



和謝監靈運   顏延年
弱植慕端操,窘步懼先迷。
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
寡立非擇方,刻意藉窮棲。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
雖慚丹雘施,未謂玄素睽。

天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。
#2

徒遭良時詖,王道奄昏霾。人神幽明絶,朋好雲雨乖。
弔屈汀洲浦,謁帝蒼山蹊。倚岩聽緒風,攀林結留荑。
#3

跂予間衡嶠,曷月瞻秦稽。皇聖昭天德,豐澤振沈泥。
惜無爵雉化,何用充海淮。去國還故里,幽門樹蓬藜。
#4

采茨葺昔宇,翦棘開舊畦。物謝時既晏,年往志不偕。
親仁敷情昵,興賦究辭棲。芬馥歇蘭若,清越奪琳珪。

盡言非報章,聊用布所懷。


(謝監靈運に和す)
弱植【じゃくち】にして端操【たんそう】を慕ひ,窘步【きんぽ】して先迷【せんめい】を懼【おそ】る。
立つこと寡【すくな】くして方【みち】を擇【えら】ぶに非ず,意【こころ】を刻【きざ】みて窮棲【きゅうせい】に籍【よ】る。
伊【こ】れ昔多幸【たこう】に邁ひ,筆を秉りて兩閨【りょうけい】に侍す。
丹雘【たんかく】の施【ほどこし】に慚【は】づと雖も,未だ玄素の睽【そむ】けるを謂はず。
#2
徒【ただ】良時【りょうじ】の詖【かたむ】けるに遭い,王道【おうどう】奄【たちま】ち昏霾【こんまい】す。
人神【じんしん】は幽明【ゆうめい】のごとく絶え,朋好【ほうこう】は雲雨のごとく乖【そむ】く。
屈【くつ】を汀洲【ていしゅう】の浦【ほ】に弔し,帝に蒼山【そうざん】の蹊【みち】に謁【えつ】す。
岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。
#3
跂【つまだ】てて予【われ】衡嶠【こうきょう】を間【へだ】つ,曷【いづれ】の月にか秦稽【しんけい】を瞻【み】ん。
皇聖【こうせい】は天德【てんとく】を昭【あきら】かにし,豐澤【ほうたく】は沈泥【ちんでい】を振う。
惜【おし】むらくは爵雉【じゃくち】の化【か】無し,何を用てか 海淮【かいわい】に充【あ】たらん。
國を去りて 故里【こり】に還り,幽門【ゆうもん】に蓬藜【ほうれい】を樹えん。
#4
茨【し】を采りて 昔宇【せきう】を葺【ふ】き,棘【きょく】を翦【き】りて 舊畦【きゅうけい】を開かん。
物 謝【さ】りて時は既に晏【く】れ,年 往きて志【こころざし】は偕【とも】ならず。
仁【じん】に親しみて 情の昵【ちか】きを敷き,賦【ふ】を興して 辭の棲【せい】を究【きわ】む。
芬馥【ぶんぱく】は蘭若【らんじゃく】を歇【つく】し,清越【せいえつ】は琳珪【りんけい】を奪う。
言を盡すも章にゆる報に非らず,聊【いささ】か用って 懷う所を布【し】く。



現代語訳と訳註
(本文)
和謝監靈運
弱植慕端操,窘步懼先迷。寡立非擇方,刻意藉窮棲。
伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。雖慚丹雘施,未謂玄素睽。


(下し文) (謝監靈運に和す)
弱植【じゃくち】にして端操【たんそう】を慕ひ,窘步【きんぽ】して先迷【せんめい】を懼【おそ】る。
立つこと寡【すくな】くして方【みち】を擇【えら】ぶに非ず,意【こころ】を刻【きざ】みて窮棲【きゅうせい】に籍【よ】る。
伊【こ】れ昔多幸【たこう】に邁ひ,筆を秉りて兩閨【りょうけい】に侍す。
丹雘【たんかく】の施【ほどこし】に慚【は】づと雖も,未だ玄素の睽【そむ】けるを謂はず。


(現代語訳)
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。


(訳注) 和謝監靈運
秘書監なる謝霊運に、故郷の会楷にかえったとき『還舊園作見顔范二中書』(旧園に還りて作り、顔・范二中書に見す)詩がある。顔延年が、それに答えたのがこの詩である。


弱植慕端操,窘步懼先迷。
われわれは年若いころから正しい操を守る道を慕ってきた、脇道を急いで進み正道を踏みはずすことがないようにと気づかったものだ。
弱植 楚辞注「植は志なり」を引くから、1.弱い志2.自主性のない志。3.若い時から身を立てる。ここでは3.○端操 ただしいみさお。志のありかたをいう。○窘步 急いで歩み進む。○先迷 『周易、坤卦』「君子有攸往,先迷失道,後得順常。」君子の行く骸(樋)、先んずるときは迷ひて 道を失ひ、後るるときは順にして常を得」。従うべきものに従わないで先に行くと、迷って道をふみはずすことになること。


寡立非擇方,刻意藉窮棲。
そうして立身を志として方策とすることなどない「正しい道を択び求め善く官につかえる」ことができない性格なのである、ひたすら一人静かな隠棲することに心をむけていた。
立・方 『周易、恒卦』「雷風,恒,君子以立不易方。」(雷風は恒あり。君子は以て立ちて方を易へず。)恒に変ることなき所の道に従って身を立て、方(道)をかえるようなことはせぬ意。○刻意藉窮棲 『荘子、刻意篇』「刻意尚行、離世異俗、高論怨誹、為亢而已矣、此山谷之士、非世之人、枯槁赴淵者之所好也。」(意を刻み行ひを尚くし、世を離れ俗と異にし、高論・怨誹、完を為すのみなるは、此れ山谷の士、世を封るの人、枯槙にして淵に赴くものの好む所なり)を含むところの五種の人物をあげ、これらは、自己の好む所に従い、一方に偏するもので、至道に達せぬという。○ かる、よる。○窮棲 山におること。幽棲。隠棲生活。


伊昔遘多幸,秉筆待兩閨。
かつて幸い多い時にめぐりあうことができて、筆をとって文帝と太子との二宮に仕えた(武帝に仕え、太子舎人となった)。
兩閨 閨閥のこと。王室、貴族に属す一族のこと。
1高祖-武帝-劉裕     420年 - 422年
2    -少帝-劉義符-422年 - 424年


雖慚丹雘施,未謂玄素睽。
天子の御恩にむくいるに足らなかったことは、はずかしいことであるとはいえ、だからといって、「素が玄に」節操を変えるようなことはしなかったといえるのである。
丹雘施 尚書、梓材篇「「若作梓材,旣勤樸斵,惟其塗丹雘」木を削り治めた上、朱色の漆を塗り、器を作りあげることをいう。ここは、栄禄を賜わった君恩をさす。丹雘は、国家の光華たるものをいう。○玄素睽 初めは素(白)い糸であるのが、終りには玄(黒)く汚れそまる、色がかわる。「睽」はそむき、はなれる。純真なものが世間に汚れる、賄賂、汚職にまみえること。

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182

初入南城 謝霊運(康楽) 詩<60>Ⅱ李白に影響を与えた詩455 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1182


432年元嘉九年48歳

広々とした鄱陽湖(彭蟸湖)を船で渡り、撫河をさかのぼって撫州から支流の姑川、つまり当時の臨川へと旅を続けた。やがて、やっと旅を重ねて霊運は臨川に無事に着任した。そのころの郡治は南城であった。ここに着いてほっとして作ったのが「初めて南城に入る」 の詩である。

初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
雖未登雲峰,且以歡水宿。

しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

(初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。

a謝霊運永嘉ルート

現代語訳と訳註
(本文)
初發入南城
弄波不輟手,玩景豈停目。
雖未登雲峰,且以歡水宿。


(下し文) (初めて南城に入る)
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。


(現代語訳)
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。


(訳注)
初發入南城

・撫州、臨川 257年(太平2年)、臨川郡が設置された。南北朝時代梁は臨川郡の一部に巴山郡を設置した。589年(開皇9年)、臨川郡及び巴山郡に新に撫州を設置、洪州総管府の管轄とし、撫州の初見となった。
臨川 麻姑山の南城の李白『金陵江上遇蓬池隱者』「心愛名山游、身隨名山遠。羅浮麻姑台、此去或未返。」
謝靈運についての資料が残されているのは、史実ではすべて支配者側の者ばかりで隠遁していたものが謀反を企てたということで詮議されるというのも解せない点ではある。謝霊運の詩を系統的に見ているが、若い時にすこし切れやすかった詩人としか思えない。歳をとって、やるせなさを感じはするが、それ以上は感じない。李白の場合随所に野心を感じさせる内容の詩があるのとは違っている。


弄波不輟手,玩景豈停目。
波を弄【もてあそ】び 手を輟【や】めず,景を玩【もてあそ】び 豈 目を停【とど】めんや。
鄱陽湖を南下し撫河をさかのぼる舟は波かき分け進みを輟むことはない、そしてこの美しい景色、興を深める風景をどうして愛でるのを停めることが出来ようか。


雖未登雲峰,且以歡水宿。
未だ雲峰【うんほう】に登らずと雖ども,且に以って水宿を歓ばんとす。
しかし、自分には雲峰の大望があったがいまだに登ることも、叶うこともできてはいない、そういうことではあるけれど、今日は南城の水上旅宿に歓んで泊まることにしよう。

謝霊運と仏教との関係
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる[1]。

中国,江西省北部にある湖、鄱陽湖に流入する河川は。贛江(かんこう),撫江,信江,修水,鄱江などの川が流入する。南北両湖に分かれ,湖水は北の湖口を経て長江(揚子江)に注ぐ。面積3976km2,湖面の標高21mで中国最大の淡水湖である。古くは彭蠡(ほうれい),彭沢と呼ばれ,隋代以降に鄱陽湖と呼ばれる。都昌・呉城の間で湖面が狭くなり,このくびれた部分を境にして北湖と南湖に分かれる。南湖は江西省のほとんどの水系を集め,増水期には内陸まで浸水し最深部は十数mに達する。・・・

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<59-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩454 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1179

やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
露物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。
#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(下し文) #2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し。


(現代語訳)
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。


(訳注)#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。
崖を攀じ登ったら廬山の石壁・石鏡に日が照り輝いている。木葉をかき分けて白蓮社の松門を入っていく。
石鏡 高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。慧遠は中国化された仏教の開創者であり、仏教の中国化と、中国の仏教化という潮流を作りだした。
太平天国の乱で破壊される前、廬山は中国第一の仏教の聖地であり、全盛期には全山に寺廟は三百以上を数えた。
廬山、李白『廬山謠寄盧侍御虛舟』
我本楚狂人、狂歌笑孔丘。手持綠玉杖、朝別黃鶴樓。
五嶽尋仙不辭遠、一生好入名山遊。
廬山秀出南斗傍、屏風九疊雲錦張、影落明湖青黛光。
金闕前開二峰長、銀河倒掛三石梁 。
香爐瀑布遙相望、迴崖沓嶂凌蒼蒼。
翠影紅霞映朝日、鳥飛不到吳天長。
登高壯觀天地間、大江茫茫去不還 。
黃雲萬里動風色、白波九道流雪山 。
好為廬山謠、興因廬山發 。
閑窺石鏡清我心、謝公行處蒼苔沒 。
早服還丹無世情、琴心三疊道初成。
遙見仙人彩雲裡、手把芙蓉朝玉京。
先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清。
(廬山の廬侍御虚舟に謡い寄す)
我は本 楚の狂人、 鳳歌して孔丘を笑う。 手に緑の玉杖を持ち、朝に別る 黄鶴楼。
五嶽に仙を尋ぬるに遠きを辞さず、 一生 名山に入りて遊ぶを好む
廬山は秀で出ず 南斗の傍ら、 屛風九畳 雲錦張る、影は明湖に落ちて青黛光る。
金闕 前に開いて 二峰長し、銀河は倒に挂かる 三石梁。
香炉の瀑布 遥かに相望む、 迥崖沓嶂 凌として蒼蒼たり。
翠影紅霞 朝日に映じ、鳥は飛びて到らず 呉天の長きを。
高きに登りて壮観す 天地の間、大江は茫茫として去りて還らず。
黄雲 万里 風色を動かし、白波 九道 雪山に流る。
好みて廬山の謡を為し、興じて廬山に因りて発す。
閑に石鏡を窺えば我が心清らかなり、謝公の行処は蒼苔に没す。
早に還丹を服して世情無く、琴心 三畳 道初めて成る。
遥かに仙人を見る綵雲の裏、手に芙蓉を把って玉京に朝す。
先は期さん 汗漫と九垓の上に、 願わくは廬敖に接して太清に遊ばん


三江事多往,九派理空存。
彭蟸湖の口の三江は事が多くあって行く先は判らない。九江ではここに九つの流れが集まってきており地理はむなしくあるだけだ。(三江、九江で、三皇五帝の禹王の徳の施政事は過去の事であり、いまわ空しく地形としてあるだけだ。だから仏の助けが必要だ。)
三江 彭蟸の三江のこと。 湖北武昌の南江,江西九江の中江,江蘇鎮江の北江。 .『尚書、禹貢篇』に基づく場所指定。
九派 潯陽の九派のこと。 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


靈物吝珍怪,異人秘精魂。
道教的な神、仏は稀に見るめずらしい出来事というものは受け入れない。異教徒、異文化人は全身全霊を傾けて隠そうとするものだ。
靈物 霊妙なもの。神秘的な力のあるもの。霊魂道教的な神をいい、物は仏をいう。・珍怪 めずらしいもの。貴重でめったに見られない宝物。稀に見るめずらしい出来事。
「霊物は珍怪をおしみ、異人は精魂を秘す」ような奇抜が欲しいという。 奇抜か、霊運は苦笑した。 詩はつねに不特定多数に向けた挨拶状であった。・精魂 力などを注ぐ(努力を)傾注する ・ (全身全霊を)傾けて ・ (意識を)集中させる。


金膏滅明光,水碧綴流溫。
卓抜された人物が光輝いていたのが陰っていくし、命の泉である水の中に有る水晶であっても穏やかな光沢を止めてあらわさないというようなものである。
金膏 卓抜された人物。道教の傳說中の仙藥。・水碧 水中のみどり。水晶のこと。泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。


徒作千里曲,弦絕念彌敦。
かくして、わたしは離別悲愁の「千里の曲」をかなでる、そして琴を弾くのを終わると念仏を唱えあつくひたすら念じるのである。
千里曲 屈原『楚辞、招魂、第二段』「増冰峨峨、飛雪千里些。」に基づく。琴曲:「郊廟歌辭」「燕射歌辭」「鼓吹歌辭」「橫吹曲辭」「相和歌辭」「淸商曲辭」「舞曲歌辭」「琴曲歌辭」「雜曲歌辭」「近代曲辭」「雜歌謠辭」などある。


入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173

入彭蟸湖口 謝霊運(康楽) 詩<53#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173


やがて、何日か宿をして後、臨川郡の入り口にある彭蟸湖、つまり、今の鄱陽湖に着いた。おそらく、郡の下役人の出迎えを受け、挨拶の言葉ぐらいはあったであろうが、謝靈運には、依然として不平と不満に満ちていた。この赴任には謝霊運を押さえつけるものであるから、彼の心はなんともいえぬものがあり、その感情を歌ったものが「入彭蟸湖口」(彭蟸湖口に入る) の一首である。『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されている。


入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
#2
攀崖照石鏡,牽葉入松門。三江事多往,九派理空存。
露物吝珍怪,異人秘精魂。金膏滅明光,水碧綴流溫。
徒作千里曲,弦絕念彌敦。


(彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。

#2
崖に攀【よ】じて石鏡に照らし、葉を牽きつつ松門に入る。
三江は事多に往き,九派は理 空しく存す。
霊物は珍怪を宏【おし】み、異人は精魂を秘す。
金膏【きんこう】は明光を減し、水碧は流温【りゅうおん】を綴【や】む。
徒らに千里の曲を作すも、弦絶えて念い彌【いよい】よ敦【あつ】し

彭蟸の三江 北江・中江・南江
潯陽の九派 烏白江・好江・烏江・嘉靡江・吠江・源江・庫江・提江・菌江


現代語訳と訳註
(本文)
入彭蠡湖口  #1
客游倦水宿,風潮難具論。洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。春晚綠野秀,岩高白雲屯。
千念集日夜,萬感盈朝昏。


(下し文) (彭蟸湖口に入る)#1
客遊して水宿【すいしゅく】に倦【う】み、風潮【ふうちょう】は具【つぶ】さに論じ難し。
洲島【しゅうとう】は驟【しばし】ば廻合【かしごう】し、折岸【きがん】は屡【しばし】ば崩奔【ほうほん】す。
月に乗じて哀狖【あいいう】を聴き、露に浥【うる】おいて芳蓀【ほうそん】馥【かんば】し。
春は晩れて緑野 秀で、巌 高くして白雲 屯【あつま】り。
千念【せんねん】は日夜に集まり、万感【ばんかん】朝昏【ちょうこん】に盈つ。


(現代語訳)
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。


(訳注)
入彭蠡湖口
 
江西省北部、長江南岸にある湖。中国の淡水湖では最大。北緯29度00分、東経116度10分に位置する。贛江・撫河・信江・饒河(鄱江)・修水などの長江支流がここで流入する。湖の表面積は、季節により146km2から3,210km2まで変わり、長江の水流を調節する役目もしている。紀元前から記録されている湖で、彭蠡湖(澤)、あるいは彭澤とも呼ばれた。何度も洪水を起こし、そのために築いた堤防が湖の中に残っている。 孟浩然『彭蠡湖中望廬山』に「挂席候明発、渺漫平湖中」の表現があるが、更に溯れば謝霊運「遊赤石進航海」に「揚帆采石華、挂席拾海月(帆をあげて海草を採り、蓆を掲げて海月を採集に行く)」の句がある。
彭蠡湖中望廬山 孟浩然
太虛生月暈,舟子知天風。掛席候明發,眇漫平湖中。
中流見匡阜,勢壓九江雄。黤黕容霽色,崢嶸當曉空。
香爐初上日,瀑布噴成虹。久欲追尚子,況茲懷遠公。
我來限於役,未暇息微躬。淮海途將半,星霜歲欲窮。
寄言岩棲者,畢趣當來同。


客游倦水宿,風潮難具論。
旅ゆく人として船旅につかれて宿を取る、風の流れと長江の流れは自分にとってもそうであるがこうしてそのまま旅をするのがいいのか十分に論じつくすというのは難しい。
具論 つぶさに論じる。十分に論じつくす。


洲島驟回合,圻岸屢崩奔。
長江を下ると中州と島が時折り廻ったり戻ったり離れたり集まったりする、長江の流れも岸が折れたり、曲がったりしてしばしば崩れたり出入りが激しかったりして、私の人生のようだ。
洲島 長江の中州と島。このあたりでは長江の流れもゆるく大きな島や中州がある。・ 【うごつく・しばしば】「うこづく」動き揺れる。うごめく。・回合 廻ったり戻ったり離れたり集まったりする。・圻岸 岸が折れたり、曲がったりする。・崩奔 崩れたり出入りが激しかったりする。


乘月聽哀狖,浥露馥芳蓀。
月がのぼってくるとどこからか悲しい声の野猿が鳴いている、夜も更け露に潤う時刻になるとほんのりと菖蒲の花の香りがしてくる。
 ここでは、野猿。屈原『楚辞』「猨狖群嘯兮禽獸所居,至樂佚也。」で猨狖という言葉を用いた。猨は前述の猱蝯の蝯と同義であり、狖とともにテナガザル。・浥露 夜も更け露に潤う時刻になると。艶歌に使用される語である。・ 菖蒲。香草名。夜の娼婦の香水の香りという場合もある。


春晚綠野秀,岩高白雲屯。
春も終わりで木々も萌えるころで、緑が秀でるころであり、しげりも盛んになっている、見上げると岩場の高い所に白い雲が浮かんでいる。


千念集日夜,萬感盈朝昏。
思い返してみて千念(ちじ)の思いで念仏というのは、真昼か真夜中に集うもので、この全身全霊で感じ取るのは朝夕の念仏で満たされるのである。
千、萬念 浄土宗は極楽浄土には念仏を惟唱えること、貴賤・善悪の差別はないものとしておることに基づいている。

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩452 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1173


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時を昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
不怨秋夕長,常苦夏日短。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。
#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
濯流【とうりゅう】浮湍【ふたん】に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


現代語訳と訳註
(本文)
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!


(下し文) #3
濯流【とうりゅう】浮湍【ふたん】に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


(現代語訳)
人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。


(訳注) #3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。

人生は浮き沈みの多い流れで急流は激しいし、そして木陰にて休み、始寧での隠棲生活がそれだった、そしてひっそりとした竹の林に寄りかかるのは自分を支えてくれる仏教者たちであった。
濯流【とうりゅう】 浮き沈みの多い流れ。・浮湍【ふたん】急流。
息陰 木陰にて休む。ここでは始寧での隠棲生活をいう。・密竿 竹の林。ここでは自分を支えてくれる仏教者をさすもの。


懷故叵新歡,含悲忘春暖
しかしこうして旅する今となって、故郷の山を懐うので新しい歓びは得られはしないし、悲しみを抱いていては喜ぶべき春の暖かさをわすれる。
・叵 …し難い,…できない叵耐我慢ならない.


淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
それで、凄淒と胸ふさがる懐いで「明月の曲」を吹き、身にしみて感ずる「廣陵散」の琴曲をかなでる。
凄淒 (1) 寒い,冷え冷えする.(2) もの寂しい,うらさびれた.悲しい,胸ふさがる.・惻惻 . 惻 惻(そくそく). 悲しみ、悼むさま。身にしみて感ずること。・明月 明月の曲 古典音楽、越劇(浙江省の地方劇:女性のみで演じられる京劇に次いで人気のある華東の伝統劇の中の曲。)漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○・廣陵散 漢代の大型琴曲。別名「廣陵止息」。安徽省壽縣境內の民間樂曲。琴、箏、笙、築等の樂器で演奏,現存するもっとも古い琴曲である。


殷勤訴危柱,慷慨命促管!
この憂いを晴らす,心をこめて琴柱に訴える、笛の音が急にして怒り嘆きを命じるのである。
殷勤 ねんごろな,心のこもった、心からもてなす.・危柱 琴の音が高いことをいう。柱はことじ。・慷慨【こうがい】1 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。「社会の矛盾を―する」「悲憤―」2 意気が盛んなこと。・促管 笛の音が急なこと。


道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩451 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1170

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<58-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩451 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1170


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時の昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
不怨秋夕長,常苦夏日短。

愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春暖。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。
#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
流れに濯ぎて 浮湍に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!



現代語訳と訳註
(本文)
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
得性非外求,自已為誰纂?
不怨秋夕長,常苦夏日短。

(下し文) #2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【しょうたん】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。


(現代語訳)
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
始寧で隠棲の時を昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。


(訳注) #2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
故郷を思う気持ちはうず高く積み重なってしまった、先祖の謝安の東山を思えば、私の心は我慢できないし、腹に据えかねるのだ。
憤懣 我慢できない腹に据えかねる ・ 業を煮やす。


追尋棲息時,偃臥任縱誕。
始寧で隠棲の時の昔を思い起してみると、体が思うに任せず、わがままでしまりがないことをし続けていたのだ。
追尋 昔を思い尋ねる。・偃臥 【えんが】うつぶして寝ること。腹ばうこと。病気療養を指す。・縱誕【しょうたん】かってきまま。わがままでしまりがないさま。


得性非外求,自已為誰纂?
この性格になったのはだれか外部から影響を受けたというものではない。すべてこの身から出たものであり、誰の為に集めてそろえるといったものであろうか。
 集めてそろえる。編集する。「纂修/雑纂・編纂・論纂」 .


不怨秋夕長,常苦夏日短。
愁いに秋の夕の長いことを怨んでみてもしかたがないし、「一切皆苦」と常に夏に日ごとに短かくなっていく、生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされるのだ。
ここは、「一切皆苦」初期の経典に「色は苦なり」「受想行識も苦なり」としばしば説かれていることをいっている。「すべての存在は不完全であり、不満足なものである」と言いかえることもできる。不完全であるがゆえに、常に変化して止まることがない。永遠に存在するものはなく、ただ変化のみが続くので「空しい」というふうに、「苦」という一語で様々な現象が語られる。日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、「一切皆苦」というのは実にこの意である。

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<52#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164

道路憶山中 謝霊運(康楽) 詩<52#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


臨川郡に行く途中、遠ざかりゆく始寧の故居を思い、その過去の生活を追憶しつつ、その感情を歌った。「道路憶山中」(道路にて山中を憶う) 詩は、『文選』の巻二十六の「行旅」 の部に選ばれているものである。


道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。

屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。
#2
存鄉爾思積,憶山我憤懣。
追尋棲息時,偃臥任縱誕。
得性非外求,自已為誰纂?
不怨秋夕長,常苦夏日短。
#3
濯流激浮湍,息陰倚密竿。
懷故叵新歡,含悲忘春日耎。
淒淒明月吹,惻惻廣陵散。
殷勤訴危柱,慷慨命促管!

道路にて山中を憶う
菱を采る調べは急になり易く、江南の歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。

#2
鄉を存【おも】い爾【しか】い思いは積めり,山を憶い我は憤懣【ふんまん】す。
棲息の時 追尋するに,偃臥【えんが】して縱誕【おもい】を任【ほしい】ままにせり。
性を得る外に求むるに非らず,自から已むのみにて誰の為にか纂【つ】がん?
秋の夕の長きを怨みず,常に夏の日の短きに苦しむ。
#3
流れに濯ぎて 浮湍に激しくし,陰に息【いこ】いて密【しげり】の竿【たけ】に倚る。
故【むかし】を懷い新しき歡【よろこ】びは叵【しがた】く,悲しを含み春の暖かなるを忘る。
淒淒として明月を吹き,惻惻として廣陵を散【ひ】く。
殷勤【いんぎん】 危柱【きちゅう】に訴え,慷慨【こうがい】 促管【そくかん】を命ず!


現代語訳と訳註
(本文) 道路憶山中
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人心昔絕,越客腸今斷。
斷絕雖殊念,俱為歸慮款。


(下し文)
道路にて山中を憶う
「采菱」 調べは急になり易く、「江南」 歌は緩ならず。
楚人の心は昔から絕ち,越客【えつかく】の腸は今に斷つ。
斷絕【だんぜつ】は念いを殊にすと雖も,俱為【とも】に歸慮【きりょ】に款【たた】かれぬ。

(現代語訳)
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。

(訳注)
采菱調易急,江南歌不緩。
楚人の歌曲の「採菱曲」の調べで歩くと早歩きになりやすいし、「江南曲」だと歌はゆるやかにはならない。

・采菱 楚人の歌曲名。採菱曲。農民女性の歌。宋玉『楚辞・招魂』「肴羞未通、女楽蘿些。㴑鐘按鼓、造新歌些。渉江采菱、發揚荷些。美人既酔、朱顔酡些。」(肴羞【こうしゅう】未だ通ぜらるに、女楽【じょがく】蘿【つらな】る。鐘を㴑【つら】ね鼓を按じて、造新歌些。渉江【しょうこう】采菱【さいりょう】、發揚荷【】些。美人既酔、朱顔【しゅがん】酡【だ】なり。)


楚人心昔絕,越客腸今斷。
楚人の宋玉の心というのは昔に讒言によって絶たれてしまった、越客の屈原の腸も今私の断腸の思いも屈原が強烈な愛国の情から出た詩を生み出したように、私はこの自然を極楽浄土、祇園精舎として詩を描くのだ。


斷絕雖殊念,俱為歸慮款。
屈原の国を思う心と私の極楽浄土へのおもい、断絶は念いをそれぞれ殊にするというものだが、一緒なのは供に故郷に帰りたいという思いが強いということである。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(下し文)#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


(現代語訳)
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。


(訳注) #3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
山阿人 祇園精舎で左土地を開く修行をしているひと。山の端に住む人。楚辞九歌山鬼篇に「若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。」(ここに人山の阿に有りし薜茘を被り女蘿を帯にす)と。・薜羅 薜茘の衣、女蘿の帯。山鬼の衣帯。
楚辞九歌山鬼篇
若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。既含睇兮又宜笑,子慕予兮善窈窕。
乘赤豹兮从文狸,辛夷车兮结桂旗。被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。
余處幽篁兮终不見天,路險難兮獨后来。表独立兮山之上,云容容兮而在下。
杳冥冥兮羌昼晦,东风飘兮神灵雨。留灵修兮憺忘归,岁既晏兮孰华予。
采三秀兮于山间,石磊磊兮葛蔓蔓。怨公子兮怅忘归,君思我兮不得閒。
山中人兮芳杜若,飲石泉兮陰松柏。君思我兮然疑作。
雷填填兮雨冥冥,猿啾啾兮狖夜鳴。風颯颯兮木萧萧,思公子兮徒離憂。


握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
握蘭 香ばしい蘭草を握る。山鬼篇に「被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。」(石蘭【せきらん】を被【き】て杜衡【とこう】を带【おび】とし,芳馨を折りて思ふ所に遣らん。)「棗拠の逸民賦に曰く、春蘭を握りて芳を遣ると」とある。・折麻 麻の白い花を折って離れている人に贈る。楚辞九歌大司命篇に「折疏麻兮瑶華、将以兮離居。」(疏麻の瑶華〈白玉のような花〉を折りて、将に離れ居るもの遣らんとす。)と。沈徳潜注に「此れ徒に勤に心を結ぶを云ふ」と。・心莫展 遣る人がないのでこころはふさがる。沈徳潜注に「友に贈らんと欲して由末きを言ふなり。上の二句を承けて看れは便ち明かなり」と。
楚辞九歌大司命篇
廣開兮天門,紛吾乘兮玄雲;
令飘风兮先驱,使涷雨兮洒尘;
君回翔兮以下,逾空桑兮从女;
纷总总兮九州,何寿夭兮在予;
高飞兮安翔,乘清气兮御陰陽;
吾与君兮齐速,导帝之兮九坑;
灵衣兮被被,玉佩兮陆离;
壹陰兮壹陽,衆莫知兮余所爲;
折疏麻兮瑶,将以遗兮离居;
老冉冉兮既极,不寢近兮愈疏;
乘龍兮轔轔,高騁兮冲天;
結桂枝兮延佇,羌愈思兮愁人;
愁人兮奈何,愿若今兮無虧;
固人命兮有当,孰離合兮何爲?


情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
 偽りのない心。・用賞為美 極楽浄土をもとめる心の賞賛をよいとする。・事昧 その事の真理は無知蒙昧にとって悟り難い。・竟誰辨 仏陀は分け隔てをしない。善人も悪人でも分け隔てなく極楽浄土にゆけること。


觀此遺物慮。一悟得所遣。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
遣物慮 物欲の外物や内心のやましい心慮を忘れる。・一悟 浄土に遣ることだけを心に悟って。・ 悩みを去る。心をなぐさめる。煩悩を棄て極楽浄土へ遣ること。謝靈運にとって、天子のほかに仏陀がいるのであり、中華思想では判断できない思想がある。儒者道教者は、施政者の哲学の中に入っていて天子の徳が施されることを基本に論理が組み立てられる。謝靈運には、天子、皇帝より極楽浄土が基本であり、ましてや太守の発言行動に敬意を表することも尊重することもないのである。仏陀のもとにゆけるのか、極楽浄土へ行けるのかが最も重要な判断基準であるのだ。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩448 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1161


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(下し文)
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。


(現代語訳)
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。


(訳注) #2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。

谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
 徒渉。詩経に「深ければ則ち厲る」と、毛伝に「衣を以て水を捗るを厲といふ」と。・登桟 かけはし路を登る。木を組んで急斜面に作った道を桟道という。・陵紬、はるかな山の上に出る。


川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
徑複 往来する。


蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
蘋萍 うきくさ。・沉深 深い淵。・孤荊 まこもやがま。水草。・ 蔽う。


企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
企石 石の上に爪先き立つ。企はつま立つ。・飛泉 滝水。・葉巻 まだ展びないわか葉。

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155

従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<51#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩446 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1155


 儒教者は謝靈運が理解できないようだ。多くの注釈で儒教者の感覚で間違った解釈をしている。仏教徒としての謝靈運ということ見ていくと違った意味となってくる。まず、ある注釈書に謝靈運にとって「自然の美しさ、山水の美しさは、気を紛らすことであり、精神的な苦しみを忘却するためであった」と「觀此遺物慮。一悟得所遣。」(此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。)この詩の最後の聯であり、結論としている。基本的な姿勢が儒教者の観念で捉えるからこのような了見の狭い解釈となったのだ。

この『從斤竹澗越嶺溪行詩』で、“斤竹潤から多くの嶺や谷を越えての旅で、猿声・谷・巌下の雲、花の上の露、遠き山川、潤、桟道、水草などの美しきを巧みに詠じ、結句で「此を観て物慮を遣れ一たび悟りて遣る所を得」と歌っている。これは霊運は美しい山水をみているあいだだけは心の憂いを忘れることができたという。すなわち、霊運が山水の美にあこがれたのは、常にその精神的な苦しみを忘却するためであった。ここで問題となるのは「物慮」である。これに対し、江家は物欲と塵慮であるというが、一般の人々より金持であり、生活に困らぬはずであった霊運ではあるが、さらにたくさんの金銭への欲望があったのかもしれぬ。そして、塵慮とは出世への欲望であったろうか。口では忘れたといっても、これは人間の本能である。いつも心の中には忘れることができなかった。これらは中国の知識人のみならず、人類の永遠の悩みでもある。”とあらわされている。儒教者の注釈を日本で、直訳しそのまま解説しているからで、実は全く違うことをいっているのである。自然の美しさは浄土ととらえているのである。念仏を唱えることで浄土にゆけるといっているのである。


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。

#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


現代語訳と訳註
(本文)

從斤竹澗越嶺溪行詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
巌下雲方合。花上露猶泫。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。


(下し文)
斤竹澗より嶺を越えて溪行す。
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。


(現代語訳)
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。


(訳注)
從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
斤竹澗 温州府楽清県の東七十五里の谷川の名。・溪行 谷川ぞいに行く。


猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。


巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
 したたる。


逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
逶迤 うねうねとしたさま。・隈襖 山のくま。'隈, 山曲也。'隩, 隈也。 ・迢遞 造かに遠い。・陘峴 陸に連山の切れ目、峴は小さい嶺。

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紀 頌之

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