漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2013年02月

箜篌引 曹植 魏詩<50>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1993

箜篌引 曹植 魏詩<50>

2013年2月28日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集夜歸鹿門山歌 孟浩然 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞ブログ 1996 (02/28)
●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性愁思 魚玄機  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-90-26-#  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1997
 
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http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首   
 




箜篌引 曹植 魏詩<50>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1993



箜篌引
置酒高殿上,親友從我游。
酒宴の用意を高楼の座敷にする。親友たちがぞろぞろと集まってくる。
中廚辦豐膳,烹羊宰肥牛。
料理の厨房ではたくさんのご馳走を準備した。羊を煮たり、牛を料理したりして、さまざまの珍味をととのえた。
秦箏何慷慨,齊瑟和且柔。
秦の国の箏は悲壮な調べをかなでる。斉の国の瑟はなごやかに、またやわらかなひびきをあげる。
陽阿奏奇舞,京洛出名謳。
陽阿の舞は世にもみごとな手振りを示し、洛陽の歌はとてもすぐれた節回しを聞かせる。
#2
樂飲過三爵,緩帶傾庶羞。主稱千金壽,賓奉萬年酬。
久要不可忘,薄終義所尤。謙謙君子德,磬折何所求。
#3
驚風飄白日,光景馳西流。盛時不再來,百年忽我遒。
生存華屋處,零落歸山丘。先民誰不死,知命復何憂。


箜篌引【くごいん】
酒を高殿の上に置き、親友我に従って遊ぶ。
中厨豊膳を辦【そな】へ、羊を烹【に】肥牛を宰おさむ。
秦箏【しんそう】何ぞ慷慨【こうがい】たる、斉瑟【せいしつ】和にして且つ柔なり。
陽阿【ようか】は奇舞を奏し、京洛は名謳【めいおう】を出す。
#2
楽しみ飲んで三爵【さんしゃく】に過ぎ、帶を緩めて庶羞【しょしゅう】を傾く。
主は千金の壽を稱し、賓は萬年の酬を奉ず。
久要【きゅうよう】忘る可からず、終りに薄きは義の尤【とが】むる所。
謙謙たる君子の徳、磬折【せいせつ】して何をか求めんと欲する。
#3
驚風 白日を飄し、光景を馳せて西に流る。
盛時再びす可からず、百年忽ち我に遒る。
生存しては華屋【かおく】に處り、零落【れいらく】しては山丘に歸る。
先民誰か死せざらん、命を知らは復何をか憂へん。

宮島(3)


『箜篌引』 現代語訳と訳註
(本文)

置酒高殿上,親友從我游。
中廚辦豐膳,烹羊宰肥牛。
秦箏何慷慨,齊瑟和且柔。
陽阿奏奇舞,京洛出名謳。


(下し文) 箜篌引【くごいん】
酒を高殿の上に置き、親友我に従って遊ぶ。
中厨豊膳を辦【そな】へ、羊を烹【に】肥牛を宰おさむ。
秦箏【しんそう】何ぞ慷慨【こうがい】たる、斉瑟【せいしつ】和にして且つ柔なり。
陽阿【ようか】は奇舞を奏し、京洛は名謳【めいおう】を出す。


(現代語訳)
酒宴の用意を高楼の座敷にする。親友たちがぞろぞろと集まってくる。
料理の厨房ではたくさんのご馳走を準備した。羊を煮たり、牛を料理したりして、さまざまの珍味をととのえた。
秦の国の箏は悲壮な調べをかなでる。斉の国の瑟はなごやかに、またやわらかなひびきをあげる。
陽阿の舞は世にもみごとな手振りを示し、洛陽の歌はとてもすぐれた節回しを聞かせる。

姑蘇台02
(訳注)
箜篌引

箜篌引 引は古楽府の題名で、後漢に名づけられたもの。箜篌はハープに類する西域伝来の楽器のこと。曹植のこの作は主題と関係がなく、交道の終わりを全うすべきを述べ、人生の無常を歌い、天命に遵い安んずべきとよんだ詩である。酒宴が頽廃に向かうことはなかったことであろう。


置酒高殿上,親友從我游。
酒宴の用意を高楼の座敷にする。親友たちがぞろぞろと集まってくる。


中廚辦豐膳,烹羊宰肥牛。
料理の厨房ではたくさんのご馳走を準備した。羊を煮たり、牛を料理したりして、さまざまの珍味をととのえた。
・中厨 くりや、調理場。
・豊膳 たくさんのご馳走。
・宰 治むの意、料理すること。


秦箏何慷慨,齊瑟和且柔。
秦の国の箏は悲壮な調べをかなでる。斉の国の瑟はなごやかに、またやわらかなひびきをあげる。
・秦箏 軍はもと十二紋、今は十三絃の「こと」。秦の銅製であるとも伝える。秦人がよくこれを弾じたという。
・斉瑟 富は二十五紋の「大ごと」。史記蘇秦伝に、臨淄(斉の地名) の民で瑟を鼓せぬものはないと記してある。


陽阿奏奇舞,京洛出名謳。
陽阿の舞は世にもみごとな手振りを示し、洛陽の歌はとてもすぐれた節回しを聞かせる。
・陽阿 陽阿の踊りを踊る女。歌舞の名妓の名、また地名、山西省晋城県の西北。趙飛燕がそれから歌舞を学んだと漢書・外戚伝に見える。ここでは転じて舞踊の者。
秦の箏、齊の瑟、陽阿の奇舞、京洛の歌、良い酒宴の必須アイテム。これだけそろえば十分な宴会である。

泰山梁父行 曹植 魏詩・楽府<49>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1988

泰山梁父行 曹植 魏詩・楽府<49>

2013年2月27日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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女性詩人
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孟郊詩
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李商隠詩
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泰山梁父行 曹植 魏詩・楽府<49>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1988


泰山梁甫行
八方各異氣,千里殊風雨。
天下の八方それぞれ気候は異なるものである。千里の遠方は風雨のようすさえも別なものになる。
劇哉邊海民,寄身於草野。
辺地、僻地、海辺の地域に住む民の生活はひどいものである。その身は草ぶきのあばら屋に寄せている。
妻子像禽獸,行止依林阻。
妻子はまるで禽獣のようである。仕事をするのは山林のけわしい所ばかりなのである。
柴門何蕭條,狐兔翔我宇。

その家の門は柴折戸のなんとものさびしいことであろうか。狐や兎までもが家の中をかけまわっているのである。

泰山梁父行
八方各の気を異にし、千里風雨を殊にす。
劇しい哉遠海の民、身を草堂に寄す。
妻子は禽獣に象、行止は林阻に依る。
柴門何ぞ蕭條たる、狐兎我が宇に翔る。


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『泰山梁父行』 現代語訳と訳註
(本文)
梁甫行
八方各異氣,千里殊風雨。
劇哉邊海民,寄身於草野。
妻子像禽獸,行止依林阻。
柴門何蕭條,狐兔翔我宇。


(下し文)
泰山梁父行
八方各の気を異にし、千里風雨を殊にす。
劇しい哉遠海の民、身を草堂に寄す。
妻子は禽獣に象、行止は林阻に依る。
柴門何ぞ蕭條たる、狐兎我が宇に翔る。


(現代語訳)
天下の八方それぞれ気候は異なるものである。千里の遠方は風雨のようすさえも別なものになる。
辺地、僻地、海辺の地域に住む民の生活はひどいものである。その身は草ぶきのあばら屋に寄せている。
妻子はまるで禽獣のようである。仕事をするのは山林のけわしい所ばかりなのである。
その家の門は柴折戸のなんとものさびしいことであろうか。狐や兎までもが家の中をかけまわっているのである。


(訳注)
泰山梁父行

貧しい人の歌。「楽府詩集」では相和歌辞楚調曲に入れる。古辞もあったらしいが、今は残っていない。梁甫は泰山の下にある山で、ともに人の死後、霊魂が帰ってゆくところといわれる。普通は「泰山吟」「梁父吟」の二曲に分けられて居り、両者とも、『薤露』『蒿里』などと同じく挽歌の類である。しかし曹植のこの篇は挽歌ではなく、賤山賤の苦しい荒涼たる生活を歌うもの。
この篇の制作動機については、諸説があり、斉の国の風土を詠むが故に、東阿・甄城王に封ぜられた時のものとか、漢末黄巾の乱による人民流離のさまを憫れみ作ったとか、曹植が「遷都の賦の序」でいう「連りに瘠せたる土に遇い、衣食継がず。」と同趣旨であるなどという。
晩年の大和年間の作品ではなかろうか。曹丕にも明帝にも権力闘争に敗れて以降の作品は、詩人らしく、哲学的な作品が増えている。


八方各異氣,千里殊風雨。
天下の八方それぞれ気候は異なるものである。千里の遠方は風雨のようすさえも別なものになる。
・八方 東・西・南・北の四万と東北・東南・西北・西南の四隅を合わせいう。八方の用語解説 - 1 四方と四隅。東・西・南・北と北東・北西・南東・南西の八つの方角。 2 あらゆる方面。ほうぼう。「―に目を配る」「―丸くおさまる」 3 「八方行灯(あんどん)」の略。


劇哉邊海民,寄身於草野。
辺地、僻地、海辺の地域に住む民の生活はひどいものである。その身は草ぶきのあばら屋に寄せている。
・劇哉 生活の困難をいう。
・辺海 辺地、僻地、海辺の地域。
・草堂 一本には草野に作る。「壁」はかりいお、なや、田畑の収穫をとり入れる小屋、また野原の意もある。


妻子像禽獸,行止依林阻。
妻子はまるで禽獣のようである。仕事をするのは山林のけわしい所ばかりなのである。
・象 …のよう。
・行止 行くと止まる。行動、動作の意。
・林阻 山林や険阻の地をいう。


柴門何蕭條,狐兔翔我宇。
その家の門は柴折戸のなんとものさびしいことであろうか。狐や兎までもが家の中をかけまわっているのである。
・柴門 柴を折って作った門扉。
・蕭條 さびしさをいう。
・翔 遊び廻る。
demen07

贈丁廙 曹植 魏詩<48-#2>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1983

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贈丁廙 曹植 魏詩<48-#2>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1983


贈丁廙
嘉賓填城闕,豐膳出中廚。吾與二三子,曲宴此城隅。
立派な賓客たちが城門の楼閣に勢ぞろいしていっぱいである。山海の珍味のごちそう豊富な食膳が調理場よりはこばれてくる。
私は二三人の友人と共にいる、それはこの城壁の小楼で、この者たちと心おきのない小宴をはるのである。

秦箏發西氣,齊瑟揚東謳。餚來不虛歸,觴至反無餘。
秦の筝は西方の国のメロディーを流し西方の気分にしてくれる。斉の瑟をかなでると東方の国の歌を声を張り上げて歌うのだ。
料理が来れば、すべて食らい残して還すことなどない。杯がまわって来れば、すべて飲みほして杯をかえすのである。

我豈狎異人,朋友與我俱。

だから、私はどうして意見の違う他人になれ親しむことがあろうか。気のおけない朋友がここにいっしょにいるではないか。

大國多良材,譬海出明珠。
大国には、有為の才能が、逸材が多い。たとえると、大海からかがやく真珠が産出されるというようなものだ。
君子義休偫,小人德無儲。
君子には正義がみごとにそなわっているが、小人には徳、義をたくわえる余地がないものだ。
積善有餘慶,榮枯立可須。
『易経・坤卦』にいう「積善の家には余慶ありという」善いことをすれば、その報いがあるというものだ。栄枯盛衰などというがそれは瞬時のうちに転変するものである。
滔盪固大節,時俗多所拘。
大らかな気持こそ、そのもととなるものであり、人生の大きな意義である。世人・俗人というものは何にでも詰まらぬことに拘りを持ち過ぎるというものである。
君子通大道,無願為世儒。

だから、君子というものは大道に通じなければいけないのだ。狭い了見の、権欲にすり寄った俗儒になろうと願うことなどあってはならないことなのだ。


丁翼【ていよく】に贈る
#1
嘉賓【かひん】城闕【じょうけつ】に墳ち、豊膳【ほうぜん】中廚【ちゅうちゅう】より出づ。
吾 二三子と与に、此の城隅【じょうぐう】に曲宴す。
秦箏【しんそう】西気を発し、斉瑟【せいしつ】東謳【とうおう】を揚ぐ。
餚【さかな】来りては虚しくは帰らず、觴【さかずき】至りては反【か】えすに余す無し。
我 豈に異人に狎【な】れんや、朋友 我と供にす。
#2
大国には良材多く、譬【たと】うれば海の明珠【めいじゅ】を出すがごとし。
君子 義は休【よ】く偫【そな】わり、小人 徳は儲うる無し。
善を積めば余慶【よけい】有り、栄枯【えいこ】立どころに須【ま】つ可し。
滔盪【とうとう】たるは固【もと】より大節にして、世俗は拘【こだわ】る所多し。
君子は大道に通ず、世儒【せじゅ】と為るを願うこと無かれ。

華山000
『贈丁廙』 現代語訳と訳註
(本文)
贈丁廙#2
大國多良材,譬海出明珠。
君子義休偫,小人德無儲。
積善有餘慶,榮枯立可須。
滔盪固大節,時俗多所拘。
君子通大道,無願為世儒。


(下し文)
#2
大国には良材多く、譬【たと】うれば海の明珠【めいじゅ】を出すがごとし。
君子 義は休【よ】く偫【そな】わり、小人 徳は儲うる無し。
善を積めば余慶【よけい】有り、栄枯【えいこ】立どころに須【ま】つ可し。
滔盪【とうとう】たるは固【もと】より大節にして、世俗は拘【こだわ】る所多し。
君子は大道に通ず、世儒【せじゅ】と為るを願うこと無かれ。


(現代語訳)
大国には、有為の才能が、逸材が多い。たとえると、大海からかがやく真珠が産出されるというようなものだ。
君子には正義がみごとにそなわっているが、小人には徳、義をたくわえる余地がないものだ。
『易経・坤卦』にいう「積善の家には余慶ありという」善いことをすれば、その報いがあるというものだ。栄枯盛衰などというがそれは瞬時のうちに転変するものである。
大らかな気持こそ、そのもととなるものであり、人生の大きな意義である。世人・俗人というものは何にでも詰まらぬことに拘りを持ち過ぎるというものである。
だから、君子というものは大道に通じなければいけないのだ。狭い了見の、権欲にすり寄った俗儒になろうと願うことなどあってはならないことなのだ。

原道 韓退之(韓愈)05
(訳注) 贈丁廙#2
○廙 (未詳―220年)字は敬礼、儀の弟で博学多識との評があった。曹植側近の一人。兄儀とともに文帝(曹丕)に忌まれ、黄初元年殺さる。「魏志」では「丁翼」に作る。この詩の制作時期は不明だが、黄初以前の作であることは勿論である


大國多良材,譬海出明珠。
大国には、有為の才能が、逸材が多い。たとえると、大海からかがやく真珠が産出されるというようなものだ。


君子義休偫,小人德無儲。
君子には正義がみごとにそなわっているが、小人には徳、義をたくわえる余地がないものだ。
○義 利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義。中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。
○休偫 休1やすむ。2やめる。3やすみ。4さいわい。よろこび。5よい。うるわしい。りっぱな。美なり。偫は具備の意。


積善有餘慶,榮枯立可須。
『易経・坤卦』にいう「積善の家には余慶ありという」善いことをすれば、その報いがあるというものだ。栄枯盛衰などというがそれは瞬時のうちに転変するものである。
○積善 「積善の家に余慶あり」『易経・坤卦』
善行を重ねているような人の家庭には、自然にめでたいことが集まってくる。人知れず善いことを積み重ねていくよう努力することは決して無駄にはならない。
基本的な筋として、天地の理・宇宙の運行と人間の運命との関連を追求した書で「善いことをすれば、その報いがある」という因果応報の考え方は、自然の理によるものという理想に裏付けられている。「余慶」とは慶事の余ったものの意味で、十分に良いことがあるということを意味する。
○須 待つ 


滔盪固大節,時俗多所拘。
大らかな気持こそ、そのもととなるものであり、人生の大きな意義である。世人・俗人というものは何にでも詰まらぬことに拘りを持ち過ぎるというものである。
○滔盪 広大なるさま。


君子通大道,無願為世儒。
だから、君子というものは大道に通じなければいけないのだ。狭い了見の、権欲にすり寄った俗儒になろうと願うことなどあってはならないことなのだ。
○世儒 俗儒の意。儒者を名乗るも俗人的な振る舞いをする、権欲にすり寄った儒学者というところか。王充(2796年頃)後漢の文人。道教、儒教に対して厳しい批判を行なっている。『論衡』問孔篇に「世儒学者、好みて師を信じて古を是とし、もって聖賢の言う所皆非なること無しと為す。専ら講習に精しく難問を知らず。」と見える。

贈丁廙 曹植 曹植(曹子建) 魏詩<47>文選 贈答 二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1978

贈丁廙 曹植(曹子建) 魏詩

2013年2月25日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩贈丁廙 曹植 曹植(曹子建) 魏詩<47>文選 贈答 二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1978
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩原性 韓愈(韓退之) <116-1>Ⅱ中唐詩599 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1979
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集西郊 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 2)  杜甫 <407> 五言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1980 杜甫詩1000-407-590/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集游鳳林寺西嶺 孟浩然 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞ブログ 1981 (02/25)
●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性和新及第悼亡詩二首 其一 魚玄機  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-87-23-#  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1982
 
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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。李商隠詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首 
 



贈丁廙 曹植 曹植(曹子建) 魏詩<47>文選 贈答 二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1978



贈丁廙
嘉賓填城闕,豐膳出中廚。
立派な賓客たちが城門の楼閣に勢ぞろいしていっぱいである。山海の珍味のごちそう豊富な食膳が調理場よりはこばれてくる。
吾與二三子,曲宴此城隅。
私は二三人の友人と共にいる、それはこの城壁の小楼で、この者たちと心おきのない小宴をはるのである。
秦箏發西氣,齊瑟揚東謳。
秦の筝は西方の国のメロディーを流し西方の気分にしてくれる。斉の瑟をかなでると東方の国の歌を声を張り上げて歌うのだ。
餚來不虛歸,觴至反無餘。
料理が来れば、すべて食らい残して還すことなどない。杯がまわって来れば、すべて飲みほして杯をかえすのである。
我豈狎異人,朋友與我俱。

だから、私はどうして意見の違う他人になれ親しむことがあろうか。気のおけない朋友がここにいっしょにいるではないか。

大國多良材,譬海出明珠。君子義休偫,小人德無儲。
積善有餘慶,榮枯立可須。滔盪固大節,時俗多所拘。
君子通大道,無願為世儒。


丁翼【ていよく】に贈る
#1
嘉賓【かひん】城闕【じょうけつ】に墳ち、豊膳【ほうぜん】中廚【ちゅうちゅう】より出づ。
吾 二三子と与に、此の城隅【じょうぐう】に曲宴す。
秦箏【しんそう】西気を発し、斉瑟【せいしつ】東謳【とうおう】を揚ぐ。
餚【さかな】来りては虚しくは帰らず、觴【さかずき】至りては反【か】えすに余す無し。
我 豈に異人に狎【な】れんや、朋友 我と供にす。

#2
大国には良材多く、譬【たと】うれば海の明珠【めいじゅ】を出すがごとし。
君子 義は休【よ】く偫【そな】わり、小人 徳は儲うる無し。
善を積めば余慶【よけい】有り、栄枯【えいこ】立どころに須【ま】つ可し。
滔盪【とうとう】たるは固【もと】より大節にして、世俗は拘【こだわ】る所多し。
君子は大道に通ず、世儒【せじゅ】と為るを願うこと無かれ。


『贈丁廙』 現代語訳と訳註
(本文)
贈丁廙
嘉賓填城闕,豐膳出中廚。吾與二三子,曲宴此城隅。
秦箏發西氣,齊瑟揚東謳。餚來不虛歸,觴至反無餘。
我豈狎異人,朋友與我俱。


(下し文)
丁翼【ていよく】に贈る
#1
嘉賓【かひん】城闕【じょうけつ】に墳ち、豊膳【ほうぜん】中廚【ちゅうちゅう】より出づ。
吾 二三子と与に、此の城隅【じょうぐう】に曲宴す。
秦箏【しんそう】西気を発し、斉瑟【せいしつ】東謳【とうおう】を揚ぐ。
餚【さかな】来りては虚しくは帰らず、觴【さかずき】至りては反【か】えすに余す無し。
我 豈に異人に狎【な】れんや、朋友 我と供にす。


(現代語訳)
立派な賓客たちが城門の楼閣に勢ぞろいしていっぱいである。山海の珍味のごちそう豊富な食膳が調理場よりはこばれてくる。
私は二三人の友人と共にいる、それはこの城壁の小楼で、この者たちと心おきのない小宴をはるのである。
秦の筝は西方の国のメロディーを流し西方の気分にしてくれる。斉の瑟をかなでると東方の国の歌を声を張り上げて歌うのだ。
料理が来れば、すべて食らい残して還すことなどない。杯がまわって来れば、すべて飲みほして杯をかえすのである。
だから、私はどうして意見の違う他人になれ親しむことがあろうか。気のおけない朋友がここにいっしょにいるではないか。


(訳注)
贈丁廙
○廙
 (未詳―220年)字は敬礼、儀の弟で博学多識との評があった。曹植側近の一人。兄儀とともに文帝(曹丕)に忌まれ、黄初元年殺さる。「魏志」では「丁翼」に作る。この詩の制作時期は不明だが、黄初以前の作であることは勿論である。


嘉賓填城闕,豐膳出中廚。
立派な賓客たちが城門の楼閣に勢ぞろいしていっぱいである。山海の珍味のごちそう豊富な食膳が調理場よりはこばれてくる。
○墳 充満。
○城闕 城門の楼閣。

杜甫『野老』

野老籬邊江岸迴,柴門不正逐江開。
漁人網集澄潭下,估客船隨返照來。
長路關心悲劍閣,片雲何意傍琴台?
王師未報收東郡,城闕秋生畫角哀。
○豐膳 山海の珍味のごちそう豊富な食膳
○中厨 調理場。


吾與二三子,曲宴此城隅。
私は二三人の友人と共にいる、それはこの城壁の小楼で、この者たちと心おきのない小宴をはるのである。
○曲宴 私的に開いた小宴会。公式なものと区別する意味のもので「魏志」后妃伝に見える。
○城隅 城壁上の小棲。


秦箏發西氣,齊瑟揚東謳。
秦の筝は西方の国のメロディーを流し西方の気分にしてくれる。斉の瑟をかなでると東方の国の歌を声を張り上げて歌うのだ。
○箏 古くは十二絃、後、十三絃になる。
○西気 「西音」に作るを正しいとする説(古直など)あり、西方の国である秦のメロディーのこと。隴西から長安を示すが東方の人間にとっては長安を西方とした。インドペルシャとの交易の窓口であった。
○瑟 古くは五十絃、後二十五絃となる。
○東謳 東方の国である斉の歌。


餚來不虛歸,觴至反無餘。
料理が来れば、すべて食らい残して還すことなどない。杯がまわって来れば、すべて飲みほして杯をかえすのである。


我豈狎異人,朋友與我俱。
だから、私はどうして意見の違う他人になれ親しむことがあろうか。気のおけない朋友がここにいっしょにいるではないか。
○異人 他人のこと。「詩経」小雅、顛弁に「豈伊れ異人ならんや、兄弟にして他に匪ず」。いろんな詩から、曹植はセクト的で偏向した考えの持ち主だったのだろう。

贈白馬王彪 其七 曹植(曹子建) 魏詩<46>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1973

贈白馬王彪 其七 曹植(曹子建) 魏詩

2013年2月24日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩贈白馬王彪 其七 曹植(曹子建) 魏詩<46>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1973
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩道をたずねる 原道 13回~24回 まとめ(2) 韓愈(韓退之) <115-26>Ⅱ中唐詩598 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1974
道をたずねる 原道 17回~24回 まとめ(3) 韓愈(韓退之) <115-26>Ⅱ中唐詩598 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1974
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集奉酬李都督表丈早春作 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 1)  杜甫 <406> 五言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1975 杜甫詩1000-406-589/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集
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●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性和友人次韻 魚玄機  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-86-22  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1977
 
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安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。李商隠詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首 
 



贈白馬王彪 其七 曹植(曹子建) 魏詩<46>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1973


贈白馬王彪 其七
苦辛何慮思,天命信可疑。
兄弟の間での辛苦について、何を思いわずらうのか。そして天命に従うというものの、天命とて、『書経』にいうように実はまことに疑わしいものなのだ。
虛無求列仙,松子久吾欺。
これまで多くの仙人たちを追い求めては見たものの、それも、まったくむなしいことであった。我々は長い間、赤松子と王子喬などの昔の仙人に、だまされていたということのようだ。
變故在須臾,百年誰能持?
戦争、災難や事故は、瞬間のうちにやって来るものだ。人生百年のいのちなど誰が維持できるというのか。
離別永無會,執手將何時?
今君とこうして別れをしたのだが、このように一緒に変えることが出来ない状況では、また会う時は長くないだろうし、手をとりあえるということなど、一体いつの日になろうか。
王其愛玉體,俱享黃髮期。
白馬王、君自身の輝ける御身を愛することだ。ともに髪が黄ばむ時まで長寿を享受しょうではないか。
收淚即長路,援筆從此辭。
私はもう涙を流すのを止める、長い旅路に出発するのである。だからこの詩を作って、君との別れとするのである。

苦辛【しんく】して何をか慮思【りょし】する、天命 信に疑う可し。
虚無なるかな 列仙を求むる、松子 久しく吾を欺きぬ。
変故 須臾【しゅゆ】に在り、百年 誰れか能く持せん。
離別せば永く会無し、手を執る 将た何れの時ぞ。
王 其れ玉体を愛せよ、倶に黄髪の期を享【う】けん。
涙を収めて長路に即き、筆を援【と】りて此れ従り辞す。


曹植洛陽地図02


『贈白馬王彪 其七』 現代語訳と訳註
(本文)

贈白馬王彪 其七
苦辛何慮思,天命信可疑。虛無求列仙,松子久吾欺。變故在須臾,百年誰能持?
離別永無會,執手將何時?王其愛玉體,俱享黃髮期。收淚即長路,援筆從此辭。


(下し文)
苦辛【しんく】して何をか慮思【りょし】する、天命 信に疑う可し。
虚無なるかな 列仙を求むる、松子 久しく吾を欺きぬ。
変故 須臾【しゅゆ】に在り、百年 誰れか能く持せん。
離別せば永く会無し、手を執る 将た何れの時ぞ。
王 其れ玉体を愛せよ、倶に黄髪の期を享【う】けん。
涙を収めて長路に即き、筆を援【と】りて此れ従り辞す。


(現代語訳)
兄弟の間での辛苦について、何を思いわずらうのか。そして天命に従うというものの、天命とて、『書経』にいうように実はまことに疑わしいものなのだ。
これまで多くの仙人たちを追い求めては見たものの、それも、まったくむなしいことであった。我々は長い間、赤松子と王子喬などの昔の仙人に、だまされていたということのようだ。
戦争、災難や事故は、瞬間のうちにやって来るものだ。人生百年のいのちなど誰が維持できるというのか。
今君とこうして別れをしたのだが、このように一緒に変えることが出来ない状況では、また会う時は長くないだろうし、手をとりあえるということなど、一体いつの日になろうか。
白馬王、君自身の輝ける御身を愛することだ。ともに髪が黄ばむ時まで長寿を享受しょうではないか。
私はもう涙を流すのを止める、長い旅路に出発するのである。だからこの詩を作って、君との別れとするのである。


(訳注)
贈白馬王彪 其七

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの最終の七。
〇第六章の最終句「苦辛」をうけて一句が始まる尻とりの聯句になっている。曹彰(任城王)の急死をいたみつつ、彪に、おたがいの不遇と、人生のはかなさをうったえたもの。この詩でも、なぜこんな詩なのか意味不明である。取り方によれば、「俺はこのままでは終わらない。何時かはなんとかしようとおもっている。」ともとれる詩である。曹植の「贈」詩は思わせぶりなのである。これでは家臣の心がが離れていくのは仕方ないのであろうか。いずれにしても、トップに立てる器ではない。不遇ではなく無能なのではなかろうか。曹植についてブログは半ばで、まだ続くが44回のどこを見ても宰相たる器ではない。逆に言えば、若しその器であれば、真っ先に殺されているだろう。重要ではない城主であることを喜ばなければならないという程度のものとしか「詩」を解析して思うことである。この詩にしても白馬城と曹植の甄城は隣り合わせの位置関係にあるにもかかわらず、このような表現をしたのは、曹植支持から離反していったのでこの内容になったと断定できるのではなかろうか。この後の人生どうなるか楽しみではあったが、先細りで41歳で死没。兄の文帝が曹植36歳の時に真だが文帝の嫡子が明帝となった。


苦辛何慮思,天命信可疑。
兄弟の間での辛苦について、何を思いわずらうのか。そして天命に従うというものの、天命とて、『書経』にいうように実はまことに疑わしいものなのだ。
○天命信可疑 「書経」成至徳に「天諸たり難く、命常なる靡し。」と見え、孔伝に「その常なきの故に信じ難し。」という。○天命 『論語•季氏篇』 孔子曰 君子有三畏。畏天命,畏大人,畏聖人之言。(孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。)“君子の抱く畏怖は小人にはない種類の畏れ(はばかり)であり、君子は『人智を超越した力や権威・徳』に対する敬意と畏怖の念を絶えず忘れないのである。反対に、徳や志といったものがない小人は、天命を畏怖せずに無視し、徳の優れた大人になれなれしくして、聖人の言葉を教訓にしようとする意志がないと言っている。”


虛無求列仙,松子久吾欺。
これまで多くの仙人たちを追い求めては見たものの、それも、まったくむなしいことであった。我々は長い間、赤松子と王子喬などの昔の仙人に、だまされていたということのようだ。
○虚無 虚妄。又うつろな態度で、あるいは虚妄にも、とも解される。空しく何もない。
○列仙 多くの仙人。
○松子 赤松子と王子喬などの昔の仙人。どちらも仙人に随って嵩山にのぼったというもの。赤松子:伝説上の仙人で神農のころの雨師水玉を服用し、それを神農にも教えた。自焼することで火によって尸解したという。西王母の石室に宿り風雨とともに山を上り下りした。炎帝(神農)の末娘が赤松子を追ってきて仙人になり、二人とも姿を消した。黄帝の曾孫の高辛氏の時代に再び雨師になったというもの。
王子喬:周の霊王の太子の姫晋であるとする。笙の笛を吹くことを好み,鳳凰の鳴声を模することができた。道士の浮丘公に会い,つれられて嵩高山(すうこうざん)に入って仙人となった。魏晋南北朝時代以来,赤松子とならんで古代の仙人の代表とされ,詩文や絵画に登場することが多い。
○久吾欺 曹操の「善哉行」に「痛ましきかな世人、神仙に欺かる。」と見え、曹植の「弁道論」には「又世に虚然として仙人の説あり。」と見える。


變故在須臾,百年誰能持?
戦争、災難や事故は、瞬間のうちにやって来るものだ。人生百年のいのちなど誰が維持できるというのか。
○変改 災難や事故。語は「筍子」栄辱に見える。
○須臾  瞬時。
〇百年 「古詩」に「人生百に満たず。」と見える。古詩十九首之十五首
生年不滿百,常懷千歲憂。
晝短苦夜長,何不秉燭遊!
為樂當及時,何能待來茲?
愚者愛惜費,但為後世嗤。
卡人王子喬,難可蜿等期。
古詩十九首之十五 漢の無名氏(15) 漢詩<102>Ⅱ李白に影響を与えた詩536 漢文委員会紀頌之の漢詩ブログ1425
西門行
出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
夫爲樂、爲樂當及時。
何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
人生不滿百、常懷千歳憂。
晝短而夜長、何不秉燭游。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
人壽非金石、年命安可期。
貪財愛惜費、但爲後世嗤。

西門行 漢の無名氏 詩<81-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩511 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1350


離別永無會,執手將何時?
今君とこうして別れをしたのだが、このように一緒に変えることが出来ない状況では、また会う時は長くないだろうし、手をとりあえるということなど、一体いつの日になろうか。
○執手 会合して手をとりあうこと。


王其愛玉體,俱享黃髮期。
白馬王、君自身の輝ける御身を愛することだ。ともに髪が黄ばむ時まで長寿を享受しょうではないか。
○黄髪 長寿のしるし。長寿の人の頭髪は、白髪より萌色になるということからいう。1 老人の髪の毛。白髪がさらに黄色味をおびた髪。「種々(しょうしょう)たる―の頭を懶(ものう)げに傾けながら」〈芥川・道祖問答〉 2 老人。


收淚即長路,援筆從此辭。
私はもう涙を流すのを止める、長い旅路に出発するのである。だからこの詩を作って、君との別れとするのである。






『芙蓉池作』曹丕 
乗輦夜行游、逍遥歩西園。双渠相漑灌、嘉木繞通川。
卑枝払羽蓋、脩条摩蒼天。驚風扶輪轂、飛鳥翔我前。
丹霞挟名月、華星出雲間。上天垂光彩、五色一何鮮。
寿命非松喬、誰能得神仙。遨游快心意、保己終百年。

贈白馬王彪 其六 曹植(曹子建) 魏詩<45>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1968

贈白馬王彪 其六 曹植(曹子建) 魏詩<45>

2013年2月23日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
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贈白馬王彪 其六 曹植(曹子建) 魏詩<45>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1968


贈白馬王彪 其六
心悲動我神,棄置莫復陳。
心の悲しみというものは、私自身の精神を中心からゆり動かすものである。それはもう捨ておかねばなるまい、二度とは申しのべないこととする。
丈夫志四海,萬里猶比鄰。
わたしも男である以上、東西南北、世界のはてまでいきわたる志をもたねばならない。万里の外までも、隣近所と同様なのである。
恩愛苟不虧,在遠分日親。
それ故、恩愛の情に、かりにもかけるところがなければ、遠くへだたっても、親しみが日日にますものだ。
何必同衾幬,然後展殷勤。
何も必ずしもいっしょに寝起きしなければ志を同じくするというものではないし、寝起きを一緒して初めて、深いよしみをわかちあうというものではないのだ。
憂思成疾疹,無乃兒女仁。
人心離反による心配のあまり、病気になるなどは、それこそ婦女子なみの神経の持ち主ではなかろうか?
倉卒骨肉情,能不懷苦辛?

しかし、曹彰(任城王)の急死があり、また、このように君とあわただしく別れ別れにならねはならないのである。兄弟の情というものが、このようにまことに辛苦にみちたものであってよいのだろうか。

(白馬王彪に贈る 其の六)
心悲しみ我が神を動かすも、棄置して 復た陳ぶること莫からん。
丈夫 四海に志さば、万里 猶お此隣のごとし。
恩愛 苟【いやし】くも虧【か】けずんば、遠きに在りても分日【ぶんひ】びに親し。
何んぞ必ずしも衾幬【きんちゅう】を同じくして、然る後に殷勤【いんぎん】を展べんや。
憂思【ゆうし】して疾疹【しつちん】を成すは、乃ち児女の仁なる無からんや。
倉卒たり 骨肉の情、能く苦辛を懐かざらんや。


曹植洛陽地図02


『贈白馬王彪 其六』 現代語訳と訳註
(本文)
心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。恩愛苟不虧,在遠分日親。
何必同衾幬,然後展殷勤。憂思成疾疹,無乃兒女仁。倉卒骨肉情,能不懷苦辛?


(下し文)
心悲しみ我が神を動かすも、棄置して 復た陳ぶること莫からん。
丈夫 四海に志さば、万里 猶お此隣のごとし。
恩愛 苟【いやし】くも虧【か】けずんば、遠きに在りても分日【ぶんひ】びに親し。
何んぞ必ずしも衾幬【きんちゅう】を同じくして、然る後に殷勤【いんぎん】を展べんや。
憂思【ゆうし】して疾疹【しつちん】を成すは、乃ち児女の仁なる無からんや。
倉卒たり 骨肉の情、能く苦辛を懐かざらんや。


(現代語訳)
心の悲しみというものは、私自身の精神を中心からゆり動かすものである。それはもう捨ておかねばなるまい、二度とは申しのべないこととする。
わたしも男である以上、東西南北、世界のはてまでいきわたる志をもたねばならない。万里の外までも、隣近所と同様なのである。
それ故、恩愛の情に、かりにもかけるところがなければ、遠くへだたっても、親しみが日日にますものだ。
何も必ずしもいっしょに寝起きしなければ志を同じくするというものではないし、寝起きを一緒して初めて、深いよしみをわかちあうというものではないのだ。
人心離反による心配のあまり、病気になるなどは、それこそ婦女子なみの神経の持ち主ではなかろうか?
しかし、曹彰(任城王)の急死があり、また、このように君とあわただしく別れ別れにならねはならないのである。兄弟の情というものが、このようにまことに辛苦にみちたものであってよいのだろうか。


(訳注)
贈白馬王彪 其六

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの六。
〇第五章の最終句「心悲」をうけて一句が始まる。尻とりの聯句になっている。曹彰(任城王)の急死をいたみつつ、彪に、おたがいの不遇と、人生のはかなさをうったえたもの。この詩でも、なぜこんな詩なのか意味不明である。取り方によれば、「俺はこのままでは終わらない。何時かはなんとかしようとおもっている。」ともとれる詩である。曹植の「贈」詩は思わせぶりなのである。これでは家臣の心がが離れていくのは仕方ないのであろうか。いずれにしても、トップに立てる器ではない。不遇ではなく無能なのではなかろうか。曹植についてブログは半ばで、まだ続くが44回のどこを見ても宰相たる器ではない。逆に言えば、若しその器であれば、真っ先に殺されているだろう。重要ではない城主であることを喜ばなければならないという程度のものとしか「詩」を解析して思うことである。後半どうなるか楽しみではある。


心悲動我神,棄置莫復陳。
心の悲しみというものは、私自身の精神を中心からゆり動かすものである。それはもう捨ておかねばなるまい、二度とは申しのべないこととする。
○神 精神の中心。生の根元。「史記」太史公自序に「神は生の本なり。」と。
○陳 陳述する。


丈夫志四海,萬里猶比鄰。
わたしも男である以上、東西南北、世界のはてまでいきわたる志をもたねばならない。万里の外までも、隣近所と同様なのである。
○丈夫 成年式をすませた男、一人前の男。
〇四海 世界の四つのはてをいう。昔の中国人は中国の四方を海がとりかこんでいると信じていた。
○此隣 近所。


恩愛苟不虧,在遠分日親。
それ故、恩愛の情に、かりにもかけるところがなければ、遠くへだたっても、親しみが日日にますものだ。
〇虧 欠ける。
○分 親愛の情義をあらわす言葉。


何必同衾幬,然後展殷勤。
何も必ずしもいっしょに寝起きしなければ志を同じくするというものではないし、寝起きを一緒して初めて、深いよしみをわかちあうというものではないのだ。
○同衾幬 かいまきとベッドのとばりを共にすること、即ち共にねること。「詩経」国風、小星に「粛粛として宵に征き、衾と裯を抱けり。」と見える。
○殷勤 慇懃ととも書く。意味は同じで、ねんごろな気持のこと。


憂思成疾疹,無乃兒女仁。
人心離反による心配のあまり、病気になるなどは、それこそ婦女子なみの神経の持ち主ではなかろうか?
○疾疹 疾、疹ともに病むこと。人の心が離れていくことを謂う。曹植を支持するものが次第に少なくなっていく時の心情を云う。
○無乃 それこそ……ではなかろうか。
○児女仁 この場合仁は心の働き、婦女子なみの神経の持ち主というに等しい。


倉卒骨肉情,能不懷苦辛?
しかし、曹彰(任城王)の急死があり、また、このように君とあわただしく別れ別れにならねはならないのである。兄弟の情というものが、このようにまことに辛苦にみちたものであってよいのだろうか。
○倉卒 倉は蒼生、卒は死没で生まれて死ぬまではあっけないというすばやい形容。


贈白馬王彪 其五-#2 曹植(曹子建) 魏詩<44>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1958

贈白馬王彪 其五-#2 曹植(曹子建) 魏詩

2013年2月22日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩贈白馬王彪 其五-#2 曹植(曹子建) 魏詩<44>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1958
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
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●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く
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贈白馬王彪 其五-#2 曹植(曹子建) 魏詩<44>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1958



其五
太息將何為?天命與我違。
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
奈何念同生,一往形不歸。
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
孤魂翔故域,靈柩寄京師。

彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)

存者忽復過,亡歿身自衰。
まだ生きている私も君も、たちまちのうちに、かの彰兄さんのように、世を去らねはならぬ。亡くなってしまえば、その形骸は、おのずと朽ち果ててしまうものだ。(魂だけが城へ帰ってもどうしようもないのだ。)
人生處一世,去若朝露晞。
人間として生きる以上、ひとたびこの世に生を受けて此処にいる以上何とかしたいととおもうけれど、その生涯はニラにおりた朝露が、朝日に見る間にかわかされるように、人間の命は朝露のようなものなのである。
年在桑榆間,影響不能追。
朝日が桑畑から昇りニラ畑に沈む間に春から秋までに誰もが一年というものの間にしなければいけないのだ。光や響のようにすばやいもので、追いつくことのできないものだから、早くやらなければと思っているのだ。
自顧非金石,咄唶令心悲。
しかし、私は、自分自身が、金のように輝く石、皇帝に慣れる器ではないとは思っているが、「チックショー」、ああ、こんなことを考えると心が悲しくなってしまう。

大息して将に何をか為さんとする、天命 我と違る。
奈何にせん 同生を念うも、一たび往きて形帰らざるを
孤魂 故城に翔り、霊枢 京師に寄す。
存する者 忽として復た過ぎ、亡没すれば身白から衰う。
人生まれて一世に処るも、去ること朝露の晞くが若し。
年桑榆の間に在り、影響 追うこと能わず。
自ら顧みるに 金石に非ず、咄唶して心を悲しましむ。

贈白馬王彪 其五 曹植(曹子建)

『贈白馬王彪 其五』 現代語訳と訳註
(本文)
其五
太息將何為?天命與我違。
奈何念同生,一往形不歸。
孤魂翔故城,靈柩寄京師。

存者忽復過,亡歿身自衰。
人生處一世,去若朝露晞。
年在桑榆間,影響不能追。
自顧非金石,咄唶令心悲。

(下し文)
大息して将に何をか為さんとする、天命 我と違る。
奈何にせん 同生を念うも、一たび往きて形帰らざるを
孤魂 故城に翔り、霊枢 京師に寄す。
存する者 忽として復た過ぎ、亡没すれば身白から衰う。
人生まれて一世に処るも、去ること朝露の晞くが若し。
年桑榆の間に在り、影響 追うこと能わず。
自ら顧みるに 金石に非ず、咄唶して心を悲しましむ。


(現代語訳)
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)

まだ生きている私も君も、たちまちのうちに、かの彰兄さんのように、世を去らねはならぬ。亡くなってしまえば、その形骸は、おのずと朽ち果ててしまうものだ。(魂だけが城へ帰ってもどうしようもないのだ。)
人間として生きる以上、ひとたびこの世に生を受けて此処にいる以上何とかしたいととおもうけれど、その生涯はニラにおりた朝露が、朝日に見る間にかわかされるように、人間の命は朝露のようなものなのである。
朝日が桑畑から昇りニラ畑に沈む間に春から秋までに誰もが一年というものの間にしなければいけないのだ。光や響のようにすばやいもので、追いつくことのできないものだから、早くやらなければと思っているのだ。
しかし、私は、自分自身が、金のように輝く石、皇帝に慣れる器ではないとは思っているが、「チックショー」、ああ、こんなことを考えると心が悲しくなってしまう。


(訳注)
贈白馬王彪(其五)

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの五。
〇第四章の最終句「太息」をうけて一句が始まる。尻とりの聯句になっている。曹彰(任城王)の急死をいたみつつ、彪に、おたがいの不遇と、人生のはかなさをうったえたもの。この詩でも、なぜこんな詩なのか意味不明である。取り方によれば、「俺はこのままでは終わらない。何時かはなんとかしようとおもっている。」ともとれる詩である。曹植の「贈」詩は思わせぶりなのである。これでは家臣の心がが離れていくのは仕方ないのであろうか。いずれにしても、トップに立てる器ではない。不遇ではなく無能なのではなかろうか。曹植についてブログは半ばで、まだ続くが44回のどこを見ても宰相たる器ではない。逆に言えば、若しその器であれば、真っ先に殺されているだろう。重要ではない城主であることを喜ばなければならないという程度のものとしか「詩」を解析して思うことである。後半どうなるか楽しみではある。


太息將何為?天命與我違。
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
○天命 『論語•季氏篇』 孔子曰 君子有三畏。畏天命,畏大人,畏聖人之言。(孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。)“君子の抱く畏怖は小人にはない種類の畏れ(はばかり)であり、君子は『人智を超越した力や権威・徳』に対する敬意と畏怖の念を絶えず忘れないのである。反対に、徳や志といったものがない小人は、天命を畏怖せずに無視し、徳の優れた大人になれなれしくして、聖人の言葉を教訓にしようとする意志がないと言っている。”
○違 離れる。異なる道、試練の道。


奈何念同生,一往形不歸。
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
○同生 同母の兄弟をいう。ここでは曹彰をさす。曹丕(文帝)・任城王彰・陳思王植の三人は卞【べん】皇后を母とする。
○往 死ぬ。 


孤魂翔故城,靈柩寄京師。
彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)
〇故城 域に作るテキストもある。彰の任城をさす。この城は富養な土地で飢饉や政治を間違えば叛乱がおこるので重要な城であった。
〇霊柩 ひつぎ。
○寄 かりにおく。
○京師 洛陽をさす。


存者忽復過,亡歿身自衰。
まだ生きている私も君も、たちまちのうちに、かの彰兄さんのように、世を去らねはならぬ。亡くなってしまえば、その形骸は、おのずと朽ち果ててしまうものだ。(魂だけが城へ帰ってもどうしようもないのだ。)
○存者忽復過 曹植と彪をふくめて、人はたちまちのうちに次次と世を去ってゆく。
○亡歿身自衰 亡没すれば、形骸はおのずと朽ち果ててしまうという。


人生處一世,去若朝露晞。
人間として生きる以上、ひとたびこの世に生を受けて此処にいる以上何とかしたいととおもうけれど、その生涯はニラにおりた朝露が、朝日に見る間にかわかされるように、人間の命は朝露のようなものなのである。
○朝露 古詩十九首之第十三首其一、其二「浩浩陰陽移,年命如朝露。」(浩浩として陰陽移り、年命【ねんめい】朝露の如し。)“四季陰陽の変北はこうこうと果てしもなく、そこに住む人間の命は朝露のようなものである。”とある。人命の短くあわただしいことの形容。
〇晞 かわく。「薤蕗歌」に「薤上の露何んぞ晞き易き」は昔の挽歌で、貴族の葬式のとき、ひつぎを引きながら歌うもの。ニラの形状からもほかの葉にまだ梅雨がのころ時に露がついていないのでこのようにいう。


年在桑榆間,影響不能追。
朝日が桑畑から昇りニラ畑に沈む間に春から秋までに誰もが一年というものの間にしなければいけないのだ。光や響のようにすばやいもので、追いつくことのできないものだから、早くやらなければと思っているのだ。
○桑榆 桑は東(春)に植えるもので榆は西方にうえるものであり秋を意味する、日の出と夕暮れを意味し、春から秋をいみするもので、時の移り変わりを示す語である。東方日出處,指早晨;桑、(榆:指日落處,也指日暮。)・晼晚: 日が西落ちる。楚辭.宋玉.九辯:七段「白日晼晚其將入兮,明月銷鑠而減毀。」(白日は晼晚して其れ將に入らんとす,明月は銷鑠して減毀す。)晼:日陰が傾く。「漢書」谷永伝に「太白西方に出づること六十日、尚桑稔の間にあり。」と見える。
○影響 光と音、ともにスピードの早いもの。時間の迅速にすぎさることにたとえた。


自顧非金石,咄唶令心悲。
しかし、私は、自分自身が、金のように輝く石、皇帝に慣れる器ではないとは思っているが、「チックショー」、ああ、こんなことを考えると心が悲しくなってしまう。
○顧 おもう。
非金石 「古詩」に「人生金石に非ず、豈に能く長く寿考ならんや。」と見える。
○咄唶 咄は叱呼の声(「訳文」)、曙は嘆声(「広駒」)。ここでは舌うちし、痛嘆をもらす声。いまようにいえば、「チックショー」であろう。


古詩源 漢の無名氏『西門行』。
出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。
夫爲樂、爲樂當及時。
何能坐愁拂鬱、當復待來茲。
飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。
人生不滿百、常懷千歳憂。
晝短而夜長、何不秉燭游。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
自非仙人王子喬、計會壽命難與期。
人壽非金石、年命安可期。
貪財愛惜費、但爲後世嗤。
西門行 漢の無名氏 詩<81-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩511 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1350


古詩十九首之第十一首
回車駕言邁,悠悠涉長道。四顧何茫茫,東風搖百草。
所遇無故物,焉得不速老。盛衰各有時,立身苦不早。
人生非金石,豈能長壽考?奄忽隨物化,榮名以為寶。

古詩十九首之十一 漢の無名氏(11) 漢詩<98>Ⅱ李白に影響を与えた詩530 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1407


古詩十九首之第十三首
驅車上東門,遙望郭北墓。白楊何蕭蕭,松柏夾廣路。
下有陳死人,杳杳即長暮。潛寐黃泉下,千載永不寤。
浩浩陰陽移,年命如朝露。人生忽如寄,壽金石固。
萬歲更相送,賢聖莫能度。服食求神仙,多為藥所誤。
不如飲美酒,被服紈與素。

古詩十九首之十三 漢の無名氏(13)-1 漢詩<100-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩533 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1416

贈白馬王彪 其五-#1 曹植(曹子建) 魏詩<44>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1958


2013年2月21日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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●森鴎外の小説 ”激しい嫉妬・焦燥に下女を殺してしまった『魚玄機』”といわれているがこれに疑問を持ち異なる視点で解釈して行く
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孟浩然の詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。李商隠詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
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李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
 




贈白馬王彪 其五-#1 曹植(曹子建) 魏詩<44>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1958


其五
太息將何為?天命與我違。
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
奈何念同生,一往形不歸。
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
孤魂翔故域,靈柩寄京師。
彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)
#2

存者忽復過,亡歿身自衰。
人生處一世,去若朝露晞。
年在桑榆間,影響不能追。
自顧非金石,咄唶令心悲。

大息して将に何をか為さんとする、天命 我と違る。
奈何にせん 同生を念うも、一たび往きて形帰らざるを
孤魂 故城に翔り、霊枢 京師に寄す。

存する者 忽として復た過ぎ、亡没すれば身白から衰う。
人生まれて一世に処るも、去ること朝露の晞くが若し。
年桑榆の間に在り、影響 追うこと能わず。
自ら顧みるに 金石に非ず、咄唶して心を悲しましむ。

贈白馬王彪 其五 曹植(曹子建)

『贈白馬王彪 其五』 現代語訳と訳註
(本文) 其五

太息將何為?天命與我違。
奈何念同生,一往形不歸。
孤魂翔故城,靈柩寄京師。

存者忽復過,亡歿身自衰。
人生處一世,去若朝露晞。
年在桑榆間,影響不能追。
自顧非金石,咄唶令心悲。

(下し文)
大息して将に何をか為さんとする、天命 我と違る。
奈何にせん 同生を念うも、一たび往きて形帰らざるを
孤魂 故城に翔り、霊枢 京師に寄す。
存する者 忽として復た過ぎ、亡没すれば身白から衰う。
人生まれて一世に処るも、去ること朝露の晞くが若し。
年桑榆の間に在り、影響 追うこと能わず。
自ら顧みるに 金石に非ず、咄唶して心を悲しましむ。


(現代語訳)
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)


(訳注)
贈白馬王彪(其五)

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの五。
〇第四章の最終句「太息」をうけて一句が始まる。尻とりの聯句になっている。曹彰(任城王)の急死をいたみつつ、彪に、おたがいの不遇と、人生のはかなさをうったえたもの。この詩でも、なぜこんな詩なのか意味不明である。取り方によれば、「俺はこのままでは終わらない。何時かはなんとかしようとおもっている。」ともとれる詩である。曹植の「贈」詩は思わせぶりなのである。これでは家臣の心がが離れていくのは仕方ないのであろうか。いずれにしても、トップに立てる器ではない。不遇ではなく無能なのではなかろうか。曹植についてブログは半ばで、まだ続くが44回のどこを見ても宰相たる器ではない。逆に言えば、若しその器であれば、真っ先に殺されているだろう。重要ではない城主であることを喜ばなければならないという程度のものとしか「詩」を解析して思うことである。後半どうなるか楽しみではある。


太息將何為?天命與我違。
どの道を進んでよいのかわからず、大きなため息をもらすほかに一体なにができるだろうか。天命はわれわれに我慢と苦難の道をあたえているのだろか。(天は、反逆の機会を与えてくれないのか。)
○天命 『論語•季氏篇』 孔子曰 君子有三畏。畏天命,畏大人,畏聖人之言。(孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。)“君子の抱く畏怖は小人にはない種類の畏れ(はばかり)であり、君子は『人智を超越した力や権威・徳』に対する敬意と畏怖の念を絶えず忘れないのである。反対に、徳や志といったものがない小人は、天命を畏怖せずに無視し、徳の優れた大人になれなれしくして、聖人の言葉を教訓にしようとする意志がないと言っている。”
○違 離れる。異なる道、試練の道。


奈何念同生,一往形不歸。
ああ何ともしょうがない、彰兄さんが生きている間に私がもっと頼りに思ってみたらよかったのか、しかし、彰兄さんはもはやこの世を去り、その肉体は、再び帰ってくることもないのである。
○同生 同母の兄弟をいう。ここでは曹彰をさす。曹丕(文帝)・任城王彰・陳思王植の三人は卞【べん】皇后を母とする。
○往 死ぬ。 


孤魂翔故城,靈柩寄京師。
彰兄さんの魂はひとりさまよって、もといた任城の地に翔ってかえり、ひっぎは、都の洛陽にしばらくとまっている。(それでよいのだろうか。)
〇故城 域に作るテキストもある。彰の任城をさす。この城は富養な土地で飢饉や政治を間違えば叛乱がおこるので重要な城であった。
〇霊柩 ひつぎ。
○寄 かりにおく。
○京師 洛陽をさす。

贈白馬王彪 其四 曹植(曹子建) 魏詩<43>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1953

贈白馬王彪 其四 曹植(曹子建) 魏詩

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謝靈運詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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孟浩然の詩
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http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
 


贈白馬王彪 其四 曹植(曹子建) 魏詩<43>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1953


其四
踟躕亦何留?相思無終極。
足踏みして進むことが出来なくなっていても、また何処に留まれるというのか。進めないのは我々お互いに思っていることが際限がないからなのだ。
秋風發微涼,寒蟬鳴我側。
初秋の風はほのかに膚につめたくなってきている。思いのたけを吐き出してくれる秋の蝉は私のかたわらで鳴いている。
原野何蕭條,白日忽西匿。
見渡すと原野には、何んとものさびしいものになっているのだ。秋の日は短く、いつのまにか西に沈んでしまったのだ。
歸鳥赴喬林,翩翩厲羽翼。
帰りゆく鳥は、ねぐらのある喬木しげる林をめざして飛び去る。ひらりひらりとつばさをはげしく羽ばたいて飛んでいくのだ。
孤獸走索群,御草不遑食。
むれを離れたけものは、走って仲間をさがしもとめている。草をおさえていてもいそぐ心で、食べることもしないのだ。
感物傷我懷,撫心長太息。
目に見えるものに感じて、この疎外感を癒すことよりも心を傷つけられてしまうのだ。胸にてをあてて長いため息をもらすだけなのだ。

踟躕【ちちゅう】して亦た何くにか留まらん、相思うて終極無し。
秋風 微涼を発し、寒蟬【かんせん】我が側に鳴く。
原野 何んぞ蕭条【しょうじょう】たる、白日 忽として西に匿【かく】る。
帰鳥 喬林【きょうりん】に赴むき、翩翩【へんぺん】として羽翼を厲【ふる】う。
孤獣 走りて群を索【もと】め、草を御【ぎょ】して食うに遑【こう】あらず。
物に感じては我が懐を傷ましめ、心を撫で長く太息【たいそく】す。


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『贈白馬王彪 其四』 現代語訳と訳註
 (本文)

踟躕亦何留?相思無終極。
秋風發微涼,寒蟬鳴我側。
原野何蕭條,白日忽西匿。
歸鳥赴喬林,翩翩厲羽翼。
孤獸走索群,御草不遑食。
感物傷我懷,撫心長太息。


(下し文)
踟躕【ちちゅう】して亦た何くにか留まらん、相思うて終極無し。
秋風 微涼を発し、寒蟬【かんせん】我が側に鳴く。
原野 何んぞ蕭条【しょうじょう】たる、白日 忽として西に匿【かく】る。
帰鳥 喬林【きょうりん】に赴むき、翩翩【へんぺん】として羽翼を厲【ふる】う。
孤獣 走りて群を索【もと】め、草を御【ぎょ】して食うに遑【こう】あらず。
物に感じては我が懐を傷ましめ、心を撫で長く太息【たいそく】す。


(現代語訳)
足踏みして進むことが出来なくなっていても、また何処に留まれるというのか。進めないのは我々お互いに思っていることが際限がないからなのだ。
初秋の風はほのかに膚につめたくなってきている。思いのたけを吐き出してくれる秋の蝉は私のかたわらで鳴いている。
見渡すと原野には、何んとものさびしいものになっているのだ。秋の日は短く、いつのまにか西に沈んでしまったのだ。
帰りゆく鳥は、ねぐらのある喬木しげる林をめざして飛び去る。ひらりひらりとつばさをはげしく羽ばたいて飛んでいくのだ。
むれを離れたけものは、走って仲間をさがしもとめている。草をおさえていてもいそぐ心で、食べることもしないのだ。
目に見えるものに感じて、この疎外感を癒すことよりも心を傷つけられてしまうのだ。胸にてをあてて長いため息をもらすだけなのだ。


(訳注) 其四
贈白馬王彪(其四)
○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの四。
〇第三章の踟躕をうけて一句が始まる。尻とりの聯句になっている。この詩でも、なぜこんな詩なのか意味不明である。取り方によれば、「俺はこのままでは終わらない。何時かはなんとかしようとおもっている。」ともとれる詩である。曹植の「贈」は思わせぶりなのである。これでは家臣の心がが離れていくのは仕方ないのであろうか


踟躕亦何留?相思無終極。
足踏みして進むことが出来なくなっていても、また何処に留まれるというのか。進めないのは我々お互いに思っていることが際限がないからなのだ。
○踟躕 宋玉九弁のの悲愁感と内容に基づき書かれている。『楚辭‧九辯』7段:「事亹亹而覬進兮,蹇淹留而躊躇。」(事は亹亹として進まんと覬うも,蹇 淹留して躊躇す。)私の仕事は常に勉めて君子に許されて仕えることをこいねがうものであるが、ああ、久しくたってもただためらい足踏みして進むことが出来ないのだ。
○亦 また。詠嘆的な言葉。


秋風發微涼,寒蟬鳴我側。
初秋の風はほのかに膚につめたくなってきている。思いのたけを吐き出してくれる秋の蝉は私のかたわらで鳴いている。
○寒蝉 ひぐらし。・寒蟬 ひぐらし。つくづくぼうし。『礼記』月令篇孟秋月「涼風至,白露降,寒蟬鳴,鷹乃祭鳥,用始行戮。」(孟秋の月、実時鳴き、白露降る。)と見える。びぐらしが鳴くのは陰暦の七月のことである。


原野何蕭條,白日忽西匿。
見渡すと原野には、何んとものさびしいものになっているのだ。秋の日は短く、いつのまにか西に沈んでしまったのだ。
蕭條 ものさびしいさま。草木のかれ衰えるこ 錮とをいう。
〇白日 太陽。


歸鳥赴喬林,翩翩厲羽翼。
帰りゆく鳥は、ねぐらのある喬木しげる林をめざして飛び去る。ひらりひらりとつばさをはげしく羽ばたいて飛んでいくのだ
○杏林 高い木の林。
○励励 軽やかにはやく飛ぶさま。
○属 はげしくはやく働かす。


孤獸走索群,御草不遑食。
むれを離れたけものは、走って仲間をさがしもとめている。草をおさえていてもいそぐ心で、食べることもしないのだ。


感物傷我懷,撫心長太息。
目に見えるものに感じて、この疎外感を癒すことよりも心を傷つけられてしまうのだ。胸にてをあてて長いため息をもらすだけなのだ。
○撫心 胸を手でなでる


贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩<42>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1948

贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩

2013年2月19日 同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩<42>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1948
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩<42>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1948


其三
玄黃猶能進,我思郁以紆。
黒馬は疲れて黄色になってよろめいてはいるが、それでもまだまだ前進して行くことはできる。しかし私の胸の中は憂愁がわだかまり、ひらいてけすことができないのだ。
鬱紆將何念?親愛在離居。
憂愁にとざされた私は、一体何を思えばよいのであろうか。他でもない、親愛な兄弟たちが、いまや居り場所が散り散りバラバラになっていることだ。
本圖相與偕,中更不克俱。
元々我々は隣り合った城を任されていることあって君(白馬王)と、いっしょにかえろうとしていたが、思いがけなく、同道まかりならぬと命令に従うことになったのだ。
鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢。
あの宦官のフタロウのような輩が、帝の乗りもののクビキで悪声、讒言を云ったのだ。オオカミのような小役人たちが、行く道を邪魔したのだ。
蒼蠅間白黑,讒巧令親疏。
靑蝿は白いものをよごして黒くするものだし、讒言や巧言は、親しいものを疎遠な関係にしてしまうのだ。
欲還絕無蹊,攬轡止踟躕。

私はこの路を止めてもとへひきかえしたく思うのだが、すでに細い小道すら全くなくなっている。むなしく馬のたづなを手にとって、ただむなしくためらうのみである。

玄黄【げんおう】なるも猶お能く進めど、我が恩は鬱として以って紆たり。
鬱紆【うつう】として将た何をか念う、親愛 離居に在り。
本もと相い与に偕にせんと図りしに、中ごろ供にすること克わざるに更めらる。
鴟梟【しきょう】は衡軛【こうやく】に鳴き、豺狼【さいろう】は路衢【ろく】に当る。
蒼蝿【そうよう】は白を間えて黒からしめ、讒巧【ざんこう】は親をして疏ならしむ。
還えらんと欲するも絶えて蹊なく、轡【たずな】を撹りて止【ただ】ちに踟躕【ちゅうちょ】す。


『贈白馬王彪 其三』 現代語訳と訳註
(本文)
其三
玄黃猶能進,我思郁以紆。
鬱紆將何念?親愛在離居。
本圖相與偕,中更不克俱。
鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢。
蒼蠅間白黑,讒巧令親疏。
欲還絕無蹊,攬轡止踟躕。


(下し文)
玄黄【げんおう】なるも猶お能く進めど、我が恩は鬱として以って紆たり。
鬱紆【うつう】として将た何をか念う、親愛 離居に在り。
本もと相い与に偕にせんと図りしに、中ごろ供にすること克わざるに更めらる。
鴟梟【しきょう】は衡軛【こうやく】に鳴き、豺狼【さいろう】は路衢【ろく】に当る。
蒼蝿【そうよう】は白を間えて黒からしめ、讒巧【ざんこう】は親をして疏ならしむ。
還えらんと欲するも絶えて蹊なく、轡【たずな】を撹りて止【ただ】ちに踟躕【ちゅうちょ】す。


(現代語訳)
黒馬は疲れて黄色になってよろめいてはいるが、それでもまだまだ前進して行くことはできる。しかし私の胸の中は憂愁がわだかまり、ひらいてけすことができないのだ。
憂愁にとざされた私は、一体何を思えばよいのであろうか。他でもない、親愛な兄弟たちが、いまや居り場所が散り散りバラバラになっていることだ。
元々我々は隣り合った城を任されていることあって君(白馬王)と、いっしょにかえろうとしていたが、思いがけなく、同道まかりならぬと命令に従うことになったのだ。
あの宦官のフタロウのような輩が、帝の乗りもののクビキで悪声、讒言を云ったのだ。オオカミのような小役人たちが、行く道を邪魔したのだ。
靑蝿は白いものをよごして黒くするものだし、讒言や巧言は、親しいものを疎遠な関係にしてしまうのだ。
私はこの路を止めてもとへひきかえしたく思うのだが、すでに細い小道すら全くなくなっている。むなしく馬のたづなを手にとって、ただむなしくためらうのみである。


(訳注)
贈白馬王彪(其三)

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの其の三。
*第三章 この詩は時間をすこしもどる。出発直後の出来事。曹植は白馬王と別行動をとることを余儀なくされる。しかし曹植の考え方の方がおかしい。諸侯が同一行動をとると謀叛とされる。それがわかっていていうのは別の問題があるのだろう。

曹植洛陽地図02


玄黃猶能進,我思郁以紆。
黒馬は疲れて黄色になってよろめいてはいるが、それでもまだまだ前進して行くことはできる。しかし私の胸の中は憂愁がわだかまり、ひらいてけすことができないのだ。
○玄黃 馬の疲れること。玄(黒い馬)がつかれると黄色になるという意より疲労すること。
○猶 それでもまだ。
○以 軽くそえられた言等
○紆 屈曲すること。わだかまりをのこす。


鬱紆將何念?親愛在離居。
憂愁にとざされた私は、一体何を思えばよいのであろうか。他でもない、親愛な兄弟たちが、いまや居り場所が散り散りバラバラになっていることだ。
○鬱 愁いがわだかまること。
○将 強意の助字。
○何念 一体何を思えばよいのであろうか。
○親愛 兄弟をさす。白馬王だけに限らない。
○在離居 在は存在をあらわす動詞から転じて現在の状態をあらわす。『『古詩十九首之第六首』漢の無名氏
第六首

涉江采芙蓉,蘭澤多芳草。采之欲遺誰,所思在遠道。
還顧望舊鄉,長路漫浩浩。同心而離居,憂傷以終老。
江を捗【わた】りて芙蓉【ふよう】を采る、蘭澤【らんたく】芳草【ほうそう】多し。
之を采りて誰にか遺【おく】らんと欲する、思ふ所は遠道【えんどう】に在り。
還【めぐ】り顧【かえりみ】て 旧郷を望めば、長路漫として浩浩たらん。
同心にして離屈【りきょ】せば、憂傷【ゆうしょう】して以て終に老いなん。古詩十九首之六 (6) 漢詩<93>Ⅱ李白に影響を与えた詩525 漢文委員会 紀頌之の漢詩ブログ1392
*此の二句は暗号なのか。


本圖相與偕,中更不克俱。
元々我々は隣り合った城を任されていることあって君(白馬王)と、いっしょにかえろうとしていたが、思いがけなく、同道まかりならぬと命令に従うことになったのだ。
〇偕 ともに同道する。
○更 変更する。


鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢。
あの宦官のフタロウのような輩が、帝の乗りもののクビキで悪声、讒言を云ったのだ。オオカミのような小役人たちが、行く道を邪魔したのだ。

○鴟梟鳴衡軛 鴟梟はフクロウ、悪声をはなつ邪悪の鳥で、不吉な鳥とされ、好悪な小人にたとえる、宦官を云う。衡軛はクビキ、轅の前につけて牛馬をつなぐもの。この一句は文帝の側に好悪の家臣と宦官が多いことをたとえる。豺狼はやまいぬ。鴟梟と同じく、讒言をもとに皇帝の威を借りている好悪な小役人にたとえる。
○衢 十字路。


蒼蠅間白黑,讒巧令親疏。
靑蝿は白いものをよごして黒くするものだし、いりまじってわからなくもしているのだ。だから、讒言や巧言は、親しいものを疎遠な関係にしてしまうのだ。
蒼蝿間白黒。の句は白いものが黒く汚され、白と黒が混ざり合ってしまいわからなくなること。
○疏 疎遠、疎外。


欲還絕無蹊,攬轡止踟躕。
私はこの路を止めてもとへひきかえしたく思うのだが、すでに細い小道すら全くなくなっている。むなしく馬のたづなを手にとって、ただむなしくためらうのみである。
○還 もとの道をひきかえして都に帰ることと、かつての文帝となかよしくしていた昔に帰ることの両義を含む。

贈白馬王彪 其二 曹植(曹子建) 魏詩<41>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1943

贈白馬王彪 其二 曹植(曹子建) 魏詩

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謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。李商隠詩


http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 



贈白馬王彪 其二 曹植(曹子建) 魏詩<41>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1943


223年黃初四年五月のことである。曹植は白馬王彪・任城王彰とともに、都洛陽に参集し、夏至節の朝会に出席した。
ところが夏至節の朝会に出席のための洛陽に到着すると、まもなく、任城王は逝去したのである。
七月になり、曹植は白馬王とともに国に帰ろうとした途中に贈ったときにに一篇の詩章としたのである。
ただ、この詩に出てくる地名について、曹植の行動ルートが甚だ疑問に思う。暗号文なのだろうか。

其二
大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。
この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。
霖雨泥我途,流潦浩從橫。
秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。
中逵絕無軌,改轍登高崗。
暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。
修阪造雲日,我馬玄以黃。
長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。
太谷何んぞ寥廓【りょうかく】たる、山樹【さんじゅ】鬱として蒼蒼たり。
霖雨【りんう】我が途を泥【とど】こおらせ、流潦【りゅうりょう】浩として縦横たり。
中逵【ちゅうき】絶えて軌【あと】無く、轍【てつ】を改めて高岡【こうこう】に登る。
修阪【しゅうばん】雲日に造【いた】り、我が馬 玄【げん】以って黄す。

華山000

『贈白馬王彪 其二』 現代語訳と訳註
(本文) 其二
大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。霖雨泥我途,流潦浩從橫。
中逵絕無軌,改轍登高崗。修阪造雲日,我馬玄以黃。


(下し文)
太谷何んぞ寥廓【りょうかく】たる、山樹【さんじゅ】鬱として蒼蒼たり。
霖雨【りんう】我が途を泥【とど】こおらせ、流潦【りゅうりょう】浩として縦横たり。
中逵【ちゅうき】絶えて軌【あと】無く、轍【てつ】を改めて高岡【こうこう】に登る。
修阪【しゅうばん】雲日に造【いた】り、我が馬 玄【げん】以って黄す。


(現代語訳)
この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。
秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。
暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。
長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。


(訳注)
其二
曹植洛陽地図01
オレンジの矢印の先は曹植の甄城である。ところが贈白馬王彪 其一、其二で明確になった旅の方向性が東に向かうべきなのに南に向かっている。其一は河水の表現が全くおかしい。大谷は魏の洛陽の真南にあり、詩の内容も大谷のものだ。

大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。

この大谷関所のあたりは、何んとも空虚なものである。鬱蒼と生いしげる山の樹木が、どこまでもつづいている。
○大谷 洛陽の南五十華里ほどのところにある関所の名。洛陽を囲嶢する八関(函谷・広成・伊闕・大谷・軒轅・旋門・小平津・孟津)に都尉を置く。
○蓼廓 空虚に広いさま。広々として大きいさま。
○鬱 木の生い茂るさま。
○蒼蒼 木の茂るさま。


霖雨泥我途,流潦浩從橫。
秋の長雨がふりつづく、私の旅の道は泥まみれですすむのがはかどらせない。道のたまり水がずうっとむこうまで地面をおおっている。
○宗雨 なが雨。「貌志」文帝紀に「哉初四年六月大いに雨ふり、伊・洛溢流す。」と見える。
○泥 とどこおらす。泥だらけにするとも読める。
○流繚 雨水の道に流れるもの。


中逵絕無軌,改轍登高崗。
暫く行くと辻にきていた、そこには、前に通ったわだちのあとなど全く見当らない。やっと見つけた轍のほうに道をかえて高い山の背に登って行くのである。
○中逵 道が四方八方に通じているところ。辻。
○改轍 道をかえて進むこと。轍は車のワダチのあと。○高崗 「詩経」周南、巻耳に「かの高き岡に捗れば、我が馬玄哉る」と見える。。『詩経』大雅・巻阿に「鳳凰鳴けり、彼の高岡に。梧桐生ぜり、彼の朝陽に」。


修阪造雲日,我馬玄以黃。
長くけわしい山坂は、雲に、太陽にとどかんばかりなのだ。私の馬は黄色になっている。馬も私も疲れはててしまった。
○修阪 長いけわしい山坂。
○造芸日 造は至る。高い形容。
○玄以黄 以は……となるという結果を示す語。玄(黒い馬)がつかれると黄色になるという意より疲労すること。


 
黄巾軍 (184):東漢末、太平道の信徒を主力とした農民起義。 光和7年(184)に全国で一斉に蜂起すると長吏の多くが逃亡し、幽・冀・青・徐・豫・兗・荊・揚州を席捲し、殊に張角の拠る広宗(邢台市威県)と豫州の潁川が強盛だった。
 朝廷は何進を大将軍とし、洛陽を囲嶢する八関(函谷・広成・伊闕・大谷・軒轅・旋門・小平津・孟津)に都尉を置くと共に党錮を解き、霊帝の私財や西園の厩馬を放出し、盧植・皇甫嵩・朱儁らを実戦の将帥として中郎将に任じた。
 黄巾軍は郷村秩序の破壊を嫌う地方豪族とも対立し、張角の病死と、左中郎将皇甫嵩・騎都尉曹操による潁川黄巾の鎮圧などで衰えた。 年末には広宗黄巾も平定されて全国規模の叛抗は終息したが、朝廷の無為無策などによって各地に大小の匪賊が蜂起し、白波黄巾・青州黄巾・黒山衆・義従胡などは大勢力となり、牧守の軍閥化を招いて東漢の分解を決定的にした。

贈白馬王彪 其一  曹植(曹子建) 魏詩<40>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1938

贈白馬王彪 其一  曹植(曹子建) 魏詩


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http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
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http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 

 



贈白馬王彪 其一  曹植(曹子建) 魏詩<40>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1938


贈白馬王彪 其一
謁帝承明廬,逝將歸舊疆。
宮殿内の承明門傍にある宿所で、文帝陛下にお目見えする。そして、これからわが住む甄城の地に帰ろうとしているところである。
清晨發皇邑,日夕過首陽。
早朝のよく晴れた清々しい朝に、都、洛陽を出発する。そして、日ぐれには首陽山を通りすぎるのである。
伊洛廣且深,欲濟川無梁。
その途中にある伊水があり、都から続く洛水とも川はばが広く、深いものである。この川には渡るべき橋がなく渡ろうとすることさえできないのだ。
泛舟越洪濤,怨彼東路長。
そこで舟を浮べて、大きな波を乗りこえでゆくのである。それにつけても、東方の甄城への道のりの遠いことが怨みごとをいいたいように思えてくる。
顧瞻戀城闕,引領情內傷。
洛陽城の朝廷の御門を慕わしく何度も振り返って見るのである、のびあがって遙か彼方を眺めると、胸のうちが悲傷に閉ざされるのをおぼえる。

帝に謁す 承明の廬、逝に将に旧疆に帰らんとす。
清晨 皇邑を発し、日夕 首陽を過ぐ。
伊・洛は広く且つ深く、済らんと欲すれど 川に梁無し。
舟を泛べて洪濤を越え、彼の東路の長きを怨む。
顧み瞻て城闕を恋い、領を引きて 情は内に傷む。

漢魏隋唐の洛陽城

『贈白馬王彪 其一』 現代語訳と訳註
(本文)
其一
謁帝承明廬,逝將歸舊疆。
清晨發皇邑,日夕過首陽。
伊洛廣且深,欲濟川無梁。
泛舟越洪濤,怨彼東路長。
顧瞻戀城闕,引領情內傷。


(下し文)
帝に謁す 承明の廬、逝に将に旧疆に帰らんとす。
清晨 皇邑を発し、日夕 首陽を過ぐ。
伊・洛は広く且つ深く、済らんと欲すれど 川に梁無し。
舟を泛べて洪濤を越え、彼の東路の長きを怨む。
顧み瞻て城闕を恋い、領を引きて 情は内に傷む。


(現代語訳)
宮殿内の承明門傍にある宿所で、文帝陛下にお目見えする。そして、これからわが住む甄城の地に帰ろうとしているところである。
早朝のよく晴れた清々しい朝に、都、洛陽を出発する。そして、日ぐれには首陽山を通りすぎるのである。
その途中にある伊水があり、都から続く洛水とも川はばが広く、深いものである。この川には渡るべき橋がなく渡ろうとすることさえできないのだ。
そこで舟を浮べて、大きな波を乗りこえでゆくのである。それにつけても、東方の甄城への道のりの遠いことが怨みごとをいいたいように思えてくる。
洛陽城の朝廷の御門を慕わしく何度も振り返って見るのである、のびあがって遙か彼方を眺めると、胸のうちが悲傷に閉ざされるのをおぼえる。


(訳注)
贈白馬王彪(其一)

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。
○この詩は七章に分れるの一。

汜水関などの地図

謁帝承明廬,逝將歸舊疆。
宮殿内の承明門傍にある宿所で、文帝陛下にお目見えする。そして、これからわが住む甄城の地に帰ろうとしているところである。
○帝 文帝曹丕をさす。
○承明廬 魏の宮殿内の門に承明門なるものがあり、鹿とはその勇の宿直場所ぢ、漢の故事にもとづき、侍臣の宿所をさしている。
○逝将 これから……しようとする。「詩経」魏風、碩鼠に「逝将去女」-逝に将に女より去らん」と見える。楊樹達は「詞鍵」において逝は語頭の助字で意なしという。
○旧彊 当時曹植の居住地たる甄城(山東省濮県の東)をさす。


清晨發皇邑,日夕過首陽。
早朝のよく晴れた清々しい朝に、都、洛陽を出発する。そして。日ぐれには首陽山を通りすぎるのである。
○皇邑 皇帝の被いのかかる邑、洛陽をさす。
○首陽 首陽山:洛陽の東北二十華里(12km)にある山で、山西省の西南部にある山。周の武王をいさめた伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)が隠棲し餓死した山として知られる。


伊洛廣且深,欲濟川無梁。
その途中にある伊水があり、都から続く洛水とも川はばが広く、深いものである。この川には渡るべき橋がなく渡ろうとすることさえできないのだ。
○伊洛 伊水と洛水。ともに洛陽附近を流れる川。


泛舟越洪濤,怨彼東路長。
そこで舟を浮べて、大きな波を乗りこえでゆくのである。それにつけても、東方の甄城への道のりの遠いことが怨みごとをいいたいように思えてくる。
○洪涛 大きな波。
○東路長 甄城は洛陽の東八百華里のところにある。


顧瞻戀城闕,引領情內傷。
洛陽城の朝廷の御門を慕わしく何度も振り返って見るのである、のびあがって遙か彼方を眺めると、胸のうちが悲傷に閉ざされるのをおぼえる。
○城闕 洛陽城の朝廷の御門。
○引領 首をのばして遠くを見ること

贈白馬王彪 序 曹植(曹子建) 魏詩<39>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1933

贈白馬王彪(並序) 曹植(曹子建)

2013年2月16日 同じ日の紀頌之5つのブログ
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
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女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 



贈白馬王彪 序 曹植(曹子建) 魏詩<39>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1933




贈白馬王彪(並序)曹植

黃初四年五月,白馬王、任城王與余俱朝京師。
會節氣,到洛陽,任城王薨。
至七月,與白馬王還國。
後有司以二王歸藩,
道路宜異宿止,意毒恨之。
蓋以大別在數日,是用自剖,
與王辭焉,憤而成篇:

其一
謁帝承明廬,逝將歸舊疆。清晨發皇邑,日夕過首陽。
伊洛廣且深,欲濟川無梁。泛舟越洪濤,怨彼東路長。
顧瞻戀城闕,引領情內傷。

其二
大谷何寥廓,山樹郁蒼蒼。霖雨泥我途,流潦浩從橫。
中逵絕無軌,改轍登高崗。修阪造雲日,我馬玄以黃。

其三
玄黃猶能進,我思郁以紆。鬱紆將何念?親愛在離居。本圖相與偕,中更不克俱。
鴟梟鳴衡軛,豺狼當路衢。蒼蠅間白黑,讒巧令親疏。欲還絕無蹊,攬轡止踟躕。

其四
踟躕亦何留?相思無終極。秋風發微涼,寒蟬鳴我側。原野何蕭條,白日忽西匿。
歸鳥赴喬林,翩翩厲羽翼。孤獸走索群,御草不遑食。感物傷我懷,撫心長太息。

其五
太息將何為?天命與我違。奈何念同生,一往形不歸。孤魂翔故域,靈柩寄京師。
存者忽復過,亡歿身自衰。人生處一世,去若朝露晞。年在桑榆間,影響不能追。
自顧非金石,咄唶令心悲。

其六
心悲動我神,棄置莫復陳。丈夫志四海,萬里猶比鄰。恩愛苟不虧,在遠分日親。
何必同衾幬,然後展殷勤。憂思成疾疹,無乃兒女仁。倉卒骨肉情,能不懷苦辛?

其七
苦辛何慮思,天命信可疑。虛無求列仙,松子久吾欺。變故在須臾,百年誰能持?
離別永無會,執手將何時?王其愛玉體,俱享黃髮期。收淚即長路,援筆從此辭。


黃初四年五月,白馬王、任城王與余俱朝京師。
223年黃初四年五月のことである。私は白馬王彪・任城王彰とともに、都洛陽に参集し、夏至節の朝会に出席することになった。
會節氣,到洛陽,任城王薨。
ところが夏至節の朝会に出席のための洛陽に到着すると、まもなく、任城王は逝去されたのである。
至七月,與白馬王還國。
七月になり、私は白馬王とともに国に帰ろうとしたのである。
後有司以二王歸藩,道路宜異宿止,意毒恨之。
しかしその後、当路の役人は、私たち二人の王が、おのが藩に帰る場合、帰路は同じでも、前後して出発し、宿所を異にするがよろしからんと言った(当時曹植の居地は鄭城で白馬の東にあった)。
蓋以大別在數日,是用自剖,
白馬王との別離は特に任城王の逝去があったので私の心中いたく恨みものなのだ。あと数日で、今度何時再会できるか分らない別離となるからなのだ。
與王辭焉,憤而成篇:

白馬王と別れをつげたのではあるが、胸のつかえをはらすために、語り尽くせないことをいっておくために一篇の詩章としたのである。

白馬王彪に贈る 井びに序
黄初【こうしょ】四年五月、白馬王・任城王【にんじょうおう】、余と供に京師に朝し、
節気に会す、洛陽に到りて、任城王薨【こう】ず。七月に至り、
白馬王と与に国に還らんとす。後 有司【ゆうし】二王の藩に帰るに、
道路宜しく宿止【しゅくし】を異にすべきことを以ってす、意これを毒【いた】く恨めり。
蓋し大別は数日に在るを以ってなり、是れを用って自ら割き、
王と辞し、憤【いきど】おりてせき篇を成せり。

miyajima 697


『贈白馬王彪(並序)』 現代語訳と訳註
(本文) 序
黃初四年五月,白馬王、任城王與余俱朝京師。會節氣,到洛陽,任城王薨。至七月,與白馬王還國。後有司以二王歸藩,道路宜異宿止,意毒恨之。蓋以大別在數日,是用自剖,與王辭焉,憤而成篇:


(下し文)
白馬王彪に贈る 井びに序
黄初【こうしょ】四年五月、白馬王・任城王【にんじょうおう】、余と供に京師に朝し、
節気に会す、洛陽に到りて、任城王薨【こう】ず。七月に至り、
白馬王と与に国に還らんとす。後 有司【ゆうし】二王の藩に帰るに、
道路宜しく宿止【しゅくし】を異にすべきことを以ってす、意これを毒【いた】く恨めり。
蓋し大別は数日に在るを以ってなり、是れを用って自ら割き、
王と辞し、憤【いきど】おりてせき篇を成せり。


(現代語訳)
223年黃初四年五月のことである。私は白馬王彪・任城王彰とともに、都洛陽に参集し、夏至節の朝会に出席することになった。
ところが夏至節の朝会に出席のための洛陽に到着すると、まもなく、任城王は逝去されたのである。
七月になり、私は白馬王とともに国に帰ろうとしたのである。
白馬王との別離は特に任城王の逝去があったので私の心中いたく恨みものなのだ。あと数日で、今度何時再会できるか分らない別離となるからなのだ。
白馬王と別れをつげたのではあるが、胸のつかえをはらすために、語り尽くせないことをいっておくために二篇の詩章としたのである。

韓愈の地図00
(訳注)
贈白馬王彪(並序)

○白馬王彪 曹樽の異母弟である曹彪(195-251年)。白馬王(白馬は河南省滑県の東にある)に封ぜられたことがあるのでかく称する。字は朱虎、素平三年(251年)罪を問われて自殺する、時に五十七歳。○この詩は七章に分れる。


黃初四年五月,白馬王、任城王與余俱朝京師。
223年黃初四年五月のことである。私は白馬王彪・任城王彰とともに、都洛陽に参集することになった。
○黃初四年 蜀の劉備が永安宮で崩御する。このとき63歳だった。
○白馬王 彪のこと。「魂志」の彼の本伝によれば、彪が白馬王に封ぜられたのは226年黄初七年のことで、223年黄初四年には呉王であった。この点、「魏志」の記載はこの「詩題」「序」と矛盾し、諸説が生れている。「詩題」及び「序」は後人が添加するばあいがおおく、曹植の手になったものではない。当時彪は白馬もしくはその近辺の王に封ぜられていたと考えておきたい。
○任城王 曹植の同母兄曹彰(字は子文)。黄初四年急逝した。文帝曹丕その剛勇を忌まれて毒殺されたと『世説新語』にみる。曹植に『任城王の誄』がある。任城は山東省済寧県附近。


會節氣,到洛陽,任城王薨。
ところが夏至節の朝会に出席のための洛陽に到着すると、まもなく、任城王は逝去されたのである。
会節気 当時の制度で一年の四節には、諸王をはじめとして首都に会合して気を迎える行事があった。邸玄の「礼記の注」その他に見える。五月というから夏至節の朝会であろう。黄節は立秋より十八品の朝会という。
○到洛陽一本はこの三字を「日不陽」に作るが、「曹集考異」によって改めた。


至七月,與白馬王還國。
七月になり、私は白馬王とともに国に帰ろうとしたのである。


後有司以二王歸藩,道路宜異宿止,意毒恨之。
しかしその後、当路の役人は、私たち二人の王が、おのが藩に帰る場合、帰路は同じでも、前後して出発し、宿所を異にするがよろしからんと言った(当時曹植の居地は鄭城で白馬の東にあった)。
○有司 関係の役人。必ずしも監国謁者(お目附役)の役にいた潅均とは限らない。


蓋以大別在數日,是用自剖,
白馬王との別離は特に任城王の逝去があったので私の心中いたく恨みものなのだ。あと数日で、今度何時再会できるか分らない別離となるからなのだ。
○大別 長い別れ。当時王侯は他の王侯と自由に会合することができなかった。
〇自剖 自己の感情をさいて。肺肝をえぐる思いで



與王辭焉,憤而成篇:
白馬王と別れをつげたのではあるが、胸のつかえをはらすために、語り尽くせないことをいっておくために二篇の詩章としたのである。

又贈丁儀王粲  曹植(曹子建)  魏詩<38-#2>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1928

又贈丁儀王粲  曹植(曹子建)  魏詩


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古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、曹植の詩
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唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
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又贈丁儀王粲  曹植(曹子建)  魏詩<38-#2>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1928


この詩の建安十六年とは、
「魏志」の曹植伝及び裴松之の注によれば、丁儀が曹椿に接近し始めたのは建安十六年頃からであり、建安十九年には丁儀が曹植の羽翼となったと明記している。曹操配下の鍾繇の漢中遠征に対して、関中馬超が疑心を抱き、韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに反乱を起こす。
建安十六年秋七月曹操は西のかた、馬超・韓遂を攻め、九月に関中(陝西)を平定し、冬十月長安より北のかた、安定(甘粛東部)に楊秋を包囲し、敵を投降せしめた。この西征に曹植が従軍したことは、彼の「離思賦」の序にも見える。
曹操は、安定の楊秋を降伏させ、夏侯淵を長安に駐留させた。『三国志』(魏書・武帝紀)
この年、益州の劉璋が法正の意見を容れ、劉備を益州に迎え入れる。


贈丁儀王粲
從軍度函谷,驅馬過西京。
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
山峰高無極,涇渭揚濁清。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
壯哉帝王居,佳麗殊百城。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。
員闕出浮雲,承露概泰清。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。
漢文委員会紀頌之タイトル
#2
皇佐揚天惠,四海無交兵。
今や丞相は天子の恩沢をその手にうけられ発揚せられる。そして天下の隅々まで兵を起して刃向うことはできないのである。
權家雖愛勝,全國為令名。
職業軍人らというものは敵を軍事行為で打ち破って勝利を収めることを冥利としている。しかし肝心なことは敵国を降参させて、その敵国土をそっくり手に入れてこそ、名誉にかがやくというものである。
君子在末位,不能歌德聲。
丁儀君、王粲、君たちは位が低いということでふまんをもつ。だから、天子の恩徳、丞相の威光・威徳をたたえる歌を作りたいのにつくることができないのだ。
丁生怨在朝,王子歡自營。
しかし、丁君は官位が低いのを恨んで、恨みがましく朝廷に仕えているのであり、王君は官途には初めから興味をもたず、自分の興味を追求するのにうつつをぬかしているとのは、どうも感心できないことだ。(君たちの力量は理解しているよ。)
歡怨非貞則,中和誠可經。

君たちのように喜怒哀楽を表に出すことは「礼記」中庸にいうように原理にてらしてよくないのであり、「中和を致す」中庸の道こそ、誠に永遠の法則となすべきものといわれていることなのだ。


丁儀・玉条に贈る
軍に従いて函谷を度り、馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑 高くして極り無く、涇・渭 濁と清とを揚ぐ。
壮んなる哉 帝王の居、佳麗なること百城に殊なり。
員闕は浮雲より出で、承露は泰清に概る。

皇佐は天恵を揚げ、四海には兵を交うる無し。
権家は勝を愛すと維ども、国を全うするを令名と為す。
君子は末位に在れば、徳声を歌うこと能わじ。
丁生は怨みて朝に在り、王子は歓びて自ら営む。
歓と怨とは貞則に非ず、中和をば誠に経とす可し。


華山000

『贈丁儀王粲』 現代語訳と訳註
(本文)
贈丁儀王粲#2
皇佐揚天惠,四海無交兵。權家雖愛勝,全國為令名。
君子在末位,不能歌德聲。丁生怨在朝,王子歡自營。
歡怨非貞則,中和誠可經。


(下し文)
皇佐は天恵を揚げ、四海には兵を交うる無し。
権家は勝を愛すと維ども、国を全うするを令名と為す。
君子は末位に在れば、徳声を歌うこと能わじ。
丁生は怨みて朝に在り、王子は歓びて自ら営む。
歓と怨とは貞則に非ず、中和をば誠に経とす可し。


(現代語訳)
今や丞相は天子の恩沢をその手にうけられ発揚せられる。そして天下の隅々まで兵を起して刃向うことはできないのである。
職業軍人らというものは敵を軍事行為で打ち破って勝利を収めることを冥利としている。しかし肝心なことは敵国を降参させて、その敵国土をそっくり手に入れてこそ、名誉にかがやくというものである。
丁儀君、王粲、君たちは位が低いということでふまんをもつ。だから、天子の恩徳、丞相の威光・威徳をたたえる歌を作りたいのにつくることができないのだ。
しかし、丁君は官位が低いのを恨んで、恨みがましく朝廷に仕えているのであり、王君は官途には初めから興味をもたず、自分の興味を追求するのにうつつをぬかしているとのは、どうも感心できないことだ。(君たちの力量は理解しているよ。)
君たちのように喜怒哀楽を表に出すことは「礼記」中庸にいうように原理にてらしてよくないのであり、「中和を致す」中庸の道こそ、誠に永遠の法則となすべきものといわれていることなのだ。


(訳注)
○丁儀 (未詳―220年)字は正札、沛郡(安徴、宿県の西北)の人。曹植の最も親しい側近の一人で、曹植を帝位につけようと種々画策したため、兄の曹丕に忌まれ、曹丕が帝位につくや殺された。
○王粲 (177-217年)字は仲宜、山陽高平(山東、金郷県西北)の人。《建安七子》の一人。劉柏(171-217年)とともに、曹植につぐ建安文学の担い手で、悲愴憂愁に富む作品が多い。

#2
皇佐揚天惠,四海無交兵。
今や丞相は天子の恩沢をその手にうけられ発揚せられる。そして天下の隅々まで兵を起して刃向うことはできないのである。
○皇佐 曹操を言。皇帝を輔佐する地位の人、時に曹操は丞相であった。
○天恵 天が人に与える恵み。皇帝の恩恵。


權家雖愛勝,全國為令名。
職業軍人らというものは敵を軍事行為で打ち破って勝利を収めることを冥利としている。しかし肝心なことは敵国を降参させて、その敵国土をそっくり手に入れてこそ、名誉にかがやくというものである。
○權家 兵家。軍属の家系のものいう
○全国 敵国を降伏せしめて、国土をそのまま手に入れること。「孫子」謀政策に「凡用兵之法,全國為上,破國次之」(凡そ兵を用うるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。)と見える。
孫子曰、凡用兵之法、全國為上、破國次之、全軍為上、破軍次之、全旅為上、破旅次之、全卒為上、破卒次之、全伍為上、破伍次之、是故百戦百勝・・・・・


君子在末位,不能歌德聲。
丁儀君、王粲、君たちは位が低いということでふまんをもつ。だから、天子の恩徳、丞相の威光・威徳をたたえる歌を作りたいのにつくることができないのだ。
○君子 丁儀・王粲をさす。
○末位 建安十六年頃の丁儀・王粲は、ともに丞相の掾(丞相の幕僚)であった。
○徳声 君主の道徳の高きほまれをたたえる歌。


丁生怨在朝,王子歡自營。
しかし、丁君は官位が低いのを恨んで、恨みがましく朝廷に仕えているのであり、王君は官途には初めから興味をもたず、自分の興味を追求するのにうつつをぬかしているとのは、どうも感心できないことだ。(君たちの力量は理解しているよ。)
○丁生怨在朝 曹植はこの二人を下級官僚ではなくてもっと登用すべきと考えていることを前提にしていることでこの句を解釈する。自己の官位が低いのを恨んで、恨みがましく朝廷に仕えているということになる。丁儀の『厲志賦』「疾青蠅之染白,悲小弁之靡托。」においても官途に不満を持つもので一致する。
○王子歡自營 王粲は詩人としての意識が強く王粲は官途には初めから興味をもたず、自分の興味を追求するのにうつつをぬかしているとの意となる。この場合、「芸文類衆」巻五十七に引く玉条の「七釈」の節に「今、子深く共の身を蔵し、高く其の志を栖まわす。外に営むところなく、内に事すところなし。」という。


歡怨非貞則,中和誠可經。
君たちのように喜怒哀楽を表に出すことは「礼記」中庸にいうように原理にてらしてよくないのであり、「中和を致す」中庸の道こそ、誠に永遠の法則となすべきものといわれていることなのだ。
○貞則 正しい原理。貞は正、則は法である。
○中和 「礼記」中庸にいう「喜怒哀樂之未發。謂之中。發而皆中節。謂之和。中也者天下之大本也。和也者天下之達道也。致中和。天地位焉。萬物育焉。」(喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発して皆節に中る、これを和という。中なるものは天下の大本なり。和なるものは天下の達道なり。中和を致せば天地位り、万物育つ。」と。普遍妥当で最も正しいことの意。

又贈丁儀王粲 曹植(曹子建) 魏詩<38-#1>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1917

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又贈丁儀王粲 曹植(曹子建) 魏詩<38-#1>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1917



この詩の建安十六年とは、
「魏志」の曹植伝及び裴松之の注によれば、丁儀が曹植に接近し始めたのは建安十六年頃からであり、建安十九年には丁儀が曹植の羽翼となったと明記している。曹操配下の鍾繇の漢中遠征に対して、関中馬超が疑心を抱き、韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに反乱を起こす。
建安十六年秋七月曹操は西のかた、馬超・韓遂を攻め、九月に関中(陝西)を平定し、冬十月長安より北のかた、安定(甘粛東部)に楊秋を包囲し、敵を投降せしめた。この西征に曹植が従軍したことは、彼の「離思賦」の序にも見える。
曹操は、安定の楊秋を降伏させ、夏侯淵を長安に駐留させた。『三国志』(魏書・武帝紀)
この年、益州の劉璋が法正の意見を容れ、劉備を益州に迎え入れる。
曹植000

贈丁儀王粲
從軍度函谷,驅馬過西京。
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
山峰高無極,涇渭揚濁清。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
壯哉帝王居,佳麗殊百城。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。
員闕出浮雲,承露概泰清。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。
#2
皇佐揚天惠,四海無交兵。權家雖愛勝,全國為令名。
君子在末位,不能歌德聲。丁生怨在朝,王子歡自營。
歡怨非貞則,中和誠可經。


又丁儀・玉条に贈る
軍に従いて函谷を度り、馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑 高くして極り無く、涇・渭 濁と清とを揚ぐ。
壮んなる哉 帝王の居、佳麗なること百城に殊なり。
員闕は浮雲より出で、承露は泰清に概る。

#2
皇佐は天恵を揚げ、四海には兵を交うる無し。
権家は勝を愛すと維ども、国を全うするを令名と為す。
君子は末位に在れば、徳声を歌うこと能わじ。
丁生は怨みて朝に在り、王子は歓びて自ら営む。
歓と怨とは貞則に非ず、中和をば誠に経とす可し。


函谷関長安地図座標005



『贈丁儀王粲』 現代語訳と訳註
(本文)
又贈丁儀王粲
從軍度函谷,驅馬過西京。山峰高無極,涇渭揚濁清。
壯哉帝王居,佳麗殊百城。員闕出浮雲,承露概泰清。


(下し文)
丁儀・玉条に贈る
軍に従いて函谷を度り、馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑 高くして極り無く、涇・渭 濁と清とを揚ぐ。
壮んなる哉 帝王の居、佳麗なること百城に殊なり。
員闕は浮雲より出で、承露は泰清に概る。


(現代語訳)
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。


 (訳注)
贈丁儀王粲

○丁儀 (未詳―220年)字は正札、沛郡(安徴、宿県の西北)の人。曹植の最も親しい側近の一人で、曹植を帝位につけようと種々画策したため、兄の曹丕に忌まれ、曹丕が帝位につくや殺された。
○王粲 (177-217年)字は仲宜、山陽高平(山東、金郷県西北)の人。《建安七子》の一人。劉柏(171-217年)とともに、曹植につぐ建安文学の担い手で、悲愴憂愁に富む作品が多い。


從軍度函谷,驅馬過西京。
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
度函谷 函谷関は河南省鉄門県の東北にある。そこを通ったとは、前述の馬超・韓遂征伐をさす。潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地(北緯34度38分19.23秒東経110度55分16.59秒、現在の三門峡・霊宝市函谷関鎮)に作られた。3層の楼閣2棟があったという。
過西京 西京は長安のことで東京は洛陽。そこをすぎたとは、前述の楊秋討伐を言う。


山峰高無極,涇渭揚濁清。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
山峰 山岑のテキストもあり、河川両翼の峻険なる山をいう。
渭水と涇水。ともに甘粛より流れ、陝西で合流(地図のG3)し、黄河にそそぐ。涇水は濁り、渭水は澄んでいる。
後世中唐の孟郊は『罪松』「涇流合渭流,清濁各自持。」
“涇水の流れは、黄土を流して南流して、西から清く澄みきった水をたたえて東流する渭水の流れに合流する。清濁各々自らの特徴をもっている。”とうたっている。また、『詩経豳風』『詩経、大雅、公劉篇』、でその地域を詠っている。周の部族が、豳に住むようになったのは、に大王九世の祖公劉のときからである。豳は長安の北、黄河支流渭水の支流涇水の流域で岐山を南に控えた高原地帯である。公劉のときから古公亶父まで数百年そこに住んだ、農耕部族である。『詩経、豳風』にその生活の様子を歌ものである。


壯哉帝王居,佳麗殊百城。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。


員闕出浮雲,承露概泰清。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。
・円闕 員は圓に同じ。建章宮の宮門の北に円関が造られ、高さ二十五丈、上に銅鳳台とある。闕とは楼門である。
・承露 承露盤のこと。上天の柄をうけるべく空中高く作られた大きな皿。

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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
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贈王粲 曹植(曹子建) 魏詩<37-#2>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1913

贈王粲
端坐苦愁思,攬衣起西遊。
暫く一休みしてじっと坐っていると憂愁の思いがさらにまして苦しくなる。だから、着物の裾をからげてたちあがり、西の方を目指して行きはじめる。
樹木發春華,清池激長流。
既に春もたけなわで、樹木は春の花をまんかいにしている。すんだ池には、遠くからながい流れを成してきれいなみずをそそぎこんで、はげしく白波をたてている。
中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
池の中ほどに、つがいを離れた鴛鳶がいる。だからだろうか、哀しげな声をあげて、つれあいを求めているのだろう。
我願執此鳥,惜哉無輕舟。
私はこの鳥があなたに見え、これをわが手の中にとらえたいと願ってはいるものの、残念なことに、つかまえにいくてだてのからやかにうごく小舟を用意することが出来ないのだ。(王粲に時期が来るまでもう少し待っていてくれということを云っているのだ。)
#2
欲歸忘故道,顧望但懷愁。
そこで舟を取りに帰ろうとしたが、もと来た道を忘れてしって、何度も振り返って確認したが、悲しい思いをいだくばかりであったのだ。
悲風鳴我側,羲和逝不留。
秋の冷たくつれない風が、私の左右にヒユウヒユウと通り抜けるばかりだ。そうしてるうちに、時間を運ぶ神は一瞬たりとも、とどまってはくれないのだ。
重陰潤萬物,何懼澤不周。
密雲は万物を潤してくれるものである。何も雨露の恵みがゆきわたらないのを恐れる必要はない。(君、わたし魏王なることが一番重要なことで、そうなれば、不遇をかこつものにも恵みを垂れることができるのだ。)
誰令君多念,自使懷百憂。
しかし、誰をして君を多くのもの思いに沈ませるというのだ。もう少しの間、君の心中に、多くの心配ごとをいだかしめるかもしれないことを、深くおわびるので、いろいろよろしく。


王粲に贈る
端坐して愁思に苦しみ、衣を攬り 起ちて西遊す。
樹木 春華を発き、清池長流を激す。
中に孤なる鴛鴦有り、哀鳴して匹儔を求む。
我 此の鳥を執えんと願うも、惜しい哉 軽舟なし。

帰らんと欲して政道を忘れ、顧み望みて但だ愁を懐く。
悲風は我が側に鳴り、義和 逝きて留まらず。
重陰 万物を潤さば、何ぞ沢の周ねからざるを懼れん。
誰か君をして念い多からしめ、自ら百憂を懐かしむる。

nat0026

『贈王粲』#2 曹植 魏詩 現代語訳と訳註
(本文)
#2
欲歸忘故道,顧望但懷愁。
悲風鳴我側,羲和逝不留。
重陰潤萬物,何懼澤不周。
誰令君多念,自使懷百憂。


(下し文)
帰らんと欲して政道を忘れ、顧み望みて但だ愁を懐く。
悲風は我が側に鳴り、義和 逝きて留まらず。
重陰 万物を潤さば、何ぞ沢の周ねからざるを懼れん。
誰か君をして念い多からしめ、自ら百憂を懐かしむる。


(現代語訳)
そこで舟を取りに帰ろうとしたが、もと来た道を忘れてしって、何度も振り返って確認したが、悲しい思いをいだくばかりであったのだ。
秋の冷たくつれない風が、私の左右にヒユウヒユウと通り抜けるばかりだ。そうしてるうちに、時間を運ぶ神は一瞬たりとも、とどまってはくれないのだ。
密雲は万物を潤してくれるものである。何も雨露の恵みがゆきわたらないのを恐れる必要はない。(君、わたし魏王なることが一番重要なことで、そうなれば、不遇をかこつものにも恵みを垂れることができるのだ。)
しかし、誰をして君を多くのもの思いに沈ませるというのだ。もう少しの間、君の心中に、多くの心配ごとをいだかしめるかもしれないことを、深くおわびるので、いろいろよろしく。


(訳注) #2
贈王粲

○王粲 (177-217年)字は仲宜、山陽高平(山東、金郷県西北)の人。《建安七子》の一人。劉柏(171-217年)とともに、曹植につぐ建安文学の担い手で、悲愴憂愁に富む作品が多い。この詩の制作時期は当然王粲が死んだ建安二十二年(二一七年)以前で、内容より王粲が侍中の職につく建安二十年以前と推定される。


欲歸忘故道,顧望但懷愁。
そこで舟を取りに帰ろうとしたが、もと来た道を忘れてしって、何度も振り返って確認したが、悲しい思いをいだくばかりであったのだ。
・欲歸忘故道,顧望但懷愁。この二句は暗号のようなものであろう。わざわざ、お詫びの手紙の中にこの句が入る必要性は、ないはずである。ただ、普通に解釈すれば、「孤独な鴛鴦の片方を何とか救おうとしたけれども邪魔立てされてうまくいかなかった」。ということであるが、これを王粲に対する密命の書簡とすれば、「私は今監視されていて身動きが取れないから、そうひをあんさつするじゅんびをしておいてくれ。」と解釈できる。」


悲風鳴我側,羲和逝不留。
秋の冷たくつれない風が、私の左右にヒユウヒユウと通り抜けるばかりだ。そうしてるうちに、時間を運ぶ神はは一瞬たりとも、とどまってはくれないのだ。
悲風鳴我側,羲和逝不留 王粲を曹植のもとにととめ置くことが出来なくなったと悲しんだもの。これは、自分は身動きが取れないから君がいろいろ動いてくれということにもとれる。
○義和 日の神であり、日を乗せる馬車の御者とも考えられ、更には、二つの名に分けて、暦法を定めた人ともされた。「山海経」に記載のある太陽の母神であり、炎帝に属し東夷人の先祖にあたる帝俊の妻。東海の海の外、甘水のほとりに義和の国があり、そこに生える世界樹・扶桑の下に住む女神である義和は、子である「十の太陽たち」を世話している。天を巡ってきてくたびれた太陽を湯谷で洗っては扶桑の枝にかけて干し、輝きを蘇らせるという。ここでは日の御者としての義和とすると、時間を進める御者として、義和をいっているから、日月といってもそう矛盾を感じないものである。太陽をのせて走る車の御者。神話中の人物である。「楚辞」離巌に「吾義和をして節を辞めしめ云云」と見える。○六竜 太陽神の乗る、六頭立ての竜の引く車。義和という御者がそれを御して大空を東から西にめぐる、という神話に基づく。(『初学記』巻一,『准南子』「天文訓」など)。
また、「書経」五子之歌から》くさった縄で6頭の馬を御するように、非常に難しくて危ないこと
義和の神を例にとることは、暗殺計画を意味するものである。


重陰潤萬物,何懼澤不周。
密雲は万物を潤してくれるものである。何も雨露の恵みがゆきわたらないのを恐れる必要はない。(君、わたし魏王なることが一番重要なことで、そうなれば、不遇をかこつものにも恵みを垂れることができるのだ。)
○重陰 重なった雲、密雲をいうことで、曹操にたとえたものというのが定説。密雲は雨をもたらし、雨はよく万物をうるおす。曹操は万物に恵みをたれるにふさわしい人であり、またその位置にあるから、こう言ったものである。このことで、王粲に必ず君は登用されるということを云ったことになる。あるいは、とりかたによれば、だから「曹操は私(曹植)を後継者に選ぶだろう、そうして私は君を必ず登用する」といっているともいえる。
○沢 雨露、またその恩恵をいう。


誰令君多念,自使懷百憂。
しかし、誰をして君を多くのもの思いに沈ませるというのだ。もう少しの間、君の心中に、多くの心配ごとをいだかしめるかもしれないことを、深くおわびるので、いろいろよろしく。
○誰令君多念,自使懷百憂 王粂よりの依頼を果し得ぬことをわびている。もうしばらくの辛抱だ。



贈王粲
端坐苦愁思,攬衣起西遊。
樹木發春華,清池激長流。
中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
我願執此鳥,惜哉無輕舟。
#2
欲歸忘故道,顧望但懷愁。
悲風鳴我側,羲和逝不留。
重陰潤萬物,何懼澤不周。
誰令君多念,自使懷百憂。


贈王粲  曹植(曹子建) 魏詩<37-#1>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1909 贈王粲

贈王粲  曹植(曹子建) 魏詩

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贈王粲  曹植(曹子建) 魏詩<37-#1>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1909 贈王粲



贈王粲
端坐苦愁思,攬衣起西遊。
暫く一休みしてじっと坐っていると憂愁の思いがさらにまして苦しくなる。だから、着物の裾をからげてたちあがり、西の方を目指して行きはじめる。
樹木發春華,清池激長流。
既に春もたけなわで、樹木は春の花をまんかいにしている。すんだ池には、遠くからながい流れを成してきれいなみずをそそぎこんで、はげしく白波をたてている。
中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
池の中ほどに、つがいを離れた鴛鳶がいる。だからだろうか、哀しげな声をあげて、つれあいを求めているのだろう。
我願執此鳥,惜哉無輕舟。
私はこの鳥があなたに見え、これをわが手の中にとらえたいと願ってはいるものの、残念なことに、捕まえにいく手立ての軽やかに動く小舟を用意することが出来ないのだ。(王粲に時期が来るまでもう少し待っていてくれということを云っているのだ。)
#2
欲歸忘故道,顧望但懷愁。
悲風鳴我側,羲和逝不留。
重陰潤萬物,何懼澤不周。
誰令君多念,自使懷百憂。

王粲に贈る
端坐して愁思に苦しみ、衣を攬り 起ちて西遊す。
樹木 春華を発き、清池長流を激す。
中に孤なる鴛鴦有り、哀鳴して匹儔を求む。
我 此の鳥を執えんと願うも、惜しい哉 軽舟なし。

帰らんと欲して政道を忘れ、顧み望みて但だ愁を懐く。
悲風は我が側に鳴り、義和 逝きて留まらず。
重陰 万物を潤さば、何ぞ沢の周ねからざるを懼れん。
誰か君をして念い多からしめ、自ら百憂を懐かしむる。


二羽のゆりかもめ


『贈王粲』 現代語訳と訳註
(本文)
贈王粲
端坐苦愁思,攬衣起西遊。
樹木發春華,清池激長流。
中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
我願執此鳥,惜哉無輕舟。


(下し文) 王粲に贈る
端坐して愁思に苦しみ、衣を攬り 起ちて西遊す。
樹木 春華を発き、清池長流を激す。
中に孤なる鴛鴦有り、哀鳴して匹儔を求む。
我 此の鳥を執えんと願うも、惜しい哉 軽舟なし。


(現代語訳)
暫く一休みしてじっと坐っていると憂愁の思いがさらにまして苦しくなる。だから、着物の裾をからげてたちあがり、西の方を目指して行きはじめる。
既に春もたけなわで、樹木は春の花をまんかいにしている。すんだ池には、遠くからながい流れを成してきれいなみずをそそぎこんで、はげしく白波をたてている。
池の中ほどに、つがいを離れた鴛鳶がいる。だからだろうか、哀しげな声をあげて、つれあいを求めているのだろう。
私はこの鳥があなたに見え、これをわが手の中にとらえたいと願ってはいるものの、残念なことに、捕まえにいく手立ての軽やかに動く小舟を用意することが出来ないのだ。(王粲に時期が来るまでもう少し待っていてくれということを云っているのだ。)


(訳注)
贈王粲
○王粲
 (177-217年)字は仲宜、山陽高平(山東、金郷県西北)の人。《建安七子》の一人。劉柏(171-217年)とともに、曹植につぐ建安文学の担い手で、悲愴憂愁に富む作品が多い。この詩の制作時期は当然王粲が死んだ建安二十二年(二一七年)以前で、内容より王粲が侍中の職につく建安二十年以前と推定される。一説には王粲が荊州の劉表に仕えていた時の作、また一説には、彼が曹操に召されて郷におもむいた(その頃曹植は有力な王位継承者と目されていた。)頃の作ともいう。なおこの詩は王粲の「雜詩」日暮遊西園と映発するところが多い。或いは曹植が王粲の作品に擬したもの。
王粲「雜詩」
日暮遊西園,冀寫憂思情。曲池揚素波,列樹敷丹榮。 上有特棲鳥,懷春向我鳴。褰袵欲從之,路險不得征。 徘徊不能去,佇立望爾形。風飈揚塵起,白日忽已冥。 回身入空房,托夢通精誠。人欲天不違,何懼不合幷。
私感であるが、王粲の詩と曹植の詩に共通して言えるのは詩の意図が分からないということだ。魏王の後継争いの支持確認の詩と考えれば内容的に理解できる。唐時代まで詩人は軍人であり、メッセージを詩で行っている。ほとんどの詩が裏の意味を考えrないと理解できないが、ここではその点は示唆だけにとどめる。


端坐苦愁思,攬衣起西遊。
暫く一休みしてじっと坐っていると憂愁の思いがさらにまして苦しくなる。だから、着物の裾をからげてたちあがり、西の方を目指して行きはじめる。
○端坐 じっと坐っていること。
○攬衣 「古詩」に「衣を携り起ちて排梱す」と見える。
古詩十九首 之第十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。憂愁不能寐,攬衣起徘徊
客行雖雲樂,不如早旋歸。出戶獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。
○西園 銅雀園。張載の「魏都賦」の注に「文昌殿の西に銅爵(雀)園あり、国中に魚池あり。」という。


樹木發春華,清池激長流。
既に春もたけなわで、樹木は春の花をまんかいにしている。すんだ池には、遠くからながい流れを成してきれいなみずをそそぎこんで、はげしく白波をたてている。
○長流 造かな方より流れて来た川をいうか。玉条の「雑詩」には「曲池素波を揚ぐ。」という。


中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
池の中ほどに、つがいを離れた鴛鳶がいる。だからだろうか、哀しげな声をあげて、つれあいを求めているのだろう。
○鴛鴦 おしどり。夫婦仲のよい鳥。
王桑をさしていうとは、唐の李善注以来の説である。三条の「社詩」に「上に特り棲む鳥あり、春を懐い我に向いて鳴く。」と見える。
古詩十九首 之第十八首
客從遠方來,遺我一端綺。相去萬餘里,故人心尚爾。
文彩雙鴛鴦,裁為合歡被。著以長相思,緣以結不解。
以膠投漆中,誰能別離此?
〇匹俸 つれ。


我願執此鳥,惜哉無輕舟。
私はこの鳥があなたに見え、これをわが手の中にとらえたいと願ってはいるものの、残念なことに、捕まえにいく手立ての軽やかに動く小舟を用意することが出来ないのだ。(王粲に時期が来るまでもう少し待っていてくれということを云っているのだ。)
○我願執此鳥,惜哉無輕舟 王粲の苦境を救い、自分たちのグループにひきいれたいが、悲しいことに、自分には救うてだてがない,王粲に時期が来るまでもう少し待っていてくれということを云っているのだ。。



贈王粲
端坐苦愁思,攬衣起西遊。
樹木發春華,清池激長流。
中有孤鴛鴦,哀鳴求匹儔。
我願執此鳥,惜哉無輕舟。
#2
欲歸忘故道,顧望但懷愁。
悲風鳴我側,羲和逝不留。
重陰潤萬物,何懼澤不周。
誰令君多念,自使懷百憂。

王粲に贈る
端坐して愁思に苦しみ、衣を攬り 起ちて西遊す。
樹木 春華を発き、清池長流を激す。
中に孤なる鴛鴦有り、哀鳴して匹儔を求む。
我 此の鳥を執えんと願うも、惜しい哉 軽舟なし。

帰らんと欲して政道を忘れ、顧み望みて但だ愁を懐く。
悲風は我が側に鳴り、義和 逝きて留まらず。
重陰 万物を潤さば、何ぞ沢の周ねからざるを懼れん。
誰か君をして念い多からしめ、自ら百憂を懐かしむる。

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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
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登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
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贈丁儀-#2 魏詩<36-#2>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1905 

丁儀が曹丕に殺害されることになった原因の詩。

贈丁儀
初秋涼氣發,庭樹微消落。
初秋の候となって、清涼感のある気候になってきたようだ。庭の樹々の葉もようやく色づき枯れおち始めている。
凝霜依玉除,清風飄飛閣。
もう固く氷りついた霜が宮殿の階段をおおている。清々しい秋風が、宮中を吹き抜けて高閣に舞っている。
朝雲不歸山,霖雨成川澤。
朝がた山の端を離れた雲がそのまま浮んでいて山のほうには帰る気配を見せない、今度は秋のなが雨になり、河川や沢地をつくるのだ。
黍稷委疇隴,農夫安所獲。

この雨は、収獲の前の黍や稷を田のうねにたおれふしたままにするものなのだ、これでは農夫は収穫など皆無であり、どうするのだろうか。
#2
在貴多忘賤,為恩誰能博。
高貴の位にある人の多くは、貧餞にあえぐ人々のことを多くの事で忘れるものである。恩恵をほどこすことう、誰が誰にでもよくすることがあろうか。
狐白足御冬,焉念無衣客。
また、狐白裘を着て、冬の寒さも感じない高貴のものが、着るべき着物がない人々のことに、どうして思いをはせることがあるというのか。
思慕延陵子,寶劍非所惜。
そして、私はかの延陵の季札を思慕しているように魏王になろうとは思っていないのである。それよりまして、季札のように宝剣など惜しむものでもないのだ。(私ならその場で差し上げるだろう。)
子其寧爾心,親交義不薄。
丁儀君、君の思うところ(私を魏王にしたい気持ち)は理解できるのでもうしばらく心を安らかに保っておいてほしい。我々のこの親しい交わりは、尊蜍そこらの薄情ものとはわけが違って情義において厚いものがあるではないか。

丁儀に贈る
初秋涼気発し、庭樹微【ようや】く銷落【しょうらく】す。
凝霜【ぎょうそう】玉除に依り、清風飛閣に飄る。
朝雲 山に帰らず、霖雨【りんむ】川沢【せんたく】を成せり。
黍稷【しょしょく】疇隴【ちゅうろう】に委【す】てられ、農夫 安んぞ獲る所あらん。
#2
貴に在りては多く賤を忘れ、恩を為すこと誰か能く博【ひろ】からん。
狐白は冬を禦【ふせ】ぐに足るも、焉んぞ無衣の客を念わん。
延陵子【えんりょうし】を思慕【しぼ】すれば、宝剣は惜む所に非ず。
子 其れ爾が心を寧【やす】んぜよ、親交 義【ぎ】薄からず。

銅雀臺00

『贈丁儀』 現代語訳と訳註
(本文)
贈丁儀 #2
在貴多忘賤,為恩誰能博。
狐白足御冬,焉念無衣客。
思慕延陵子,寶劍非所惜。
子其寧爾心,親交義不薄。


(下し文)
貴に在りては多く賤を忘れ、恩を為すこと誰か能く博【ひろ】からん。
狐白は冬を禦【ふせ】ぐに足るも、焉んぞ無衣の客を念わん。
延陵子【えんりょうし】を思慕【しぼ】すれば、宝剣は惜む所に非ず。
子 其れ爾が心を寧【やす】んぜよ、親交 義【ぎ】薄からず。


(現代語訳)
高貴の位にある人の多くは、貧餞にあえぐ人々のことを多くの事で忘れるものである。恩恵をほどこすことう、誰が誰にでもよくすることがあろうか。
また、狐白裘を着て、冬の寒さも感じない高貴のものが、着るべき着物がない人々のことに、どうして思いをはせることがあるというのか。
そして、私はかの延陵の季札を思慕しているように魏王になろうとは思っていないのである。それよりまして、季札のように宝剣など惜しむものでもないのだ。(私ならその場で差し上げるだろう。)
丁儀君、君の思うところ(私を魏王にしたい気持ち)は理解できるのでもうしばらく心を安らかに保っておいてほしい。我々のこの親しい交わりは、尊蜍そこらの薄情ものとはわけが違って情義において厚いものがあるではないか。


(訳注) #2
贈丁儀
○丁儀
 (未詳―220年)字は正札、沛郡(安徴、宿県の西北)の人。曹植の最も親しい側近の一人で、曹植を帝位につけようと種々画策したため、兄の曹丕に忌まれ、曹丕が帝位につくや殺された。この詩は不遇をかこつ丁儀を慰め、信義に厚い自己の心情を打明けたものとされているが、曹植を慕う家臣を排除していかなければ魏王朝が危うくなる。こういった詩を書く背景には曹丕暗殺の計画があって、その時期は今ではないといっているように読み取れる。この詩が、曹丕の知る所となれば丁儀は抹殺されるのは当然だろう。政権初期段階に兄弟で殺し合うのは歴史の必然で、曹植が殺されなかったのは、曹丕の優しい部分が作用したということだ。普通は鬼と化すものであるからだ。


在貴多忘賤,為恩誰能博。
高貴の位にある人の多くは、貧餞にあえぐ人々のことを多くの事で忘れるものである。恩恵をほどこすということは、誰にでもよくするということがあろうか。


狐白足御冬,焉念無衣客。
また、狐白裘を着て、冬の寒さも感じない高貴のものが、着るべき着物がない人々のことに、どうして思いをはせることがあるというのか。(私がその立場なら下々のことがよくわかる。)
○狐白 狐白裘のこと。狐の腋の皮をあつめて作った皮ごろもで、最上の衣料。「量子春秋」に、斉の景公が三日も雪がつづいた時に、狐白裏をきていた。公は貴子に、三日も雪がつづくが一向に寒くないねと言うと、量子は、賢君たるもの、飽食暖衣の時は、人の飢寒を知らねはならぬと諌めた挿話がある。


思慕延陵子,寶劍非所惜。
そして、私はかの延陵の季札を思慕しているように魏王になろうとは思っていないのである。それよりまして、季札のように宝剣など惜しむものでもないのだ。(私ならその場で差し上げるだろう。)
○延陵子 延陵(江蘇武進県)に封ぜられた呉の王子季札のこと。春秋時代の人。徳義のほまれがあり、父が、兄をさしおいて季札に国を譲ろうとしたが、固辞して受けなかった。又、季札が晋の国に使者として赴く途中、徐の国を通り、徐の君主と面会した。徐君は季札が帯びている宝剣に目をつけ、ほしそうな表情をした。季札は徐君の気持を察したものの、まだ外交官としての使命が終っていなかったのだが、後、使命を果して、帰途徐の国に立寄って授けようとしたが、徐君はすでにこの世の人ではなかった。この宝剣を徐君の墓の樹にかけて立去ったというもの。(これが日本なら先に渡すのが上に立つもの(皇帝になるべき)の行い。)
*常識的には曹植が自分は季札と同じで兄を差し置いて皇帝になる気はないという解釈になるが、実際にそう思っているならこの故事はひかないものではなかろうか。曹植の家臣、支持者に対してこの故事をことさら述べるように思えてならない。曹植は皇帝になりたいのである。父曹操が兄弟のどちらにするか迷っていると思っている、むしろ自分を後継者に選んでくれると思っているから、この詩の表現になったのである。


子其寧爾心,親交義不薄。
丁儀君、君の思うところ(私を魏王にしたい気持ち)は理解できるのでもうしばらく心を安らかに保っておいてほしい。我々のこの親しい交わりは、尊蜍そこらの薄情ものとはわけが違って情義において厚いものがあるではないか。
○親交「徐幹に贈る」詩では私との親しい交りは、情義に厚いことで成立っている。私はこれ以上の言葉を重ねてのべるだけの必要性はないと思っている。贈徐幹 (1) 曹植 魏詩<28>文選 贈答二 659 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1853    参照。
贈徐幹
驚風飄白日,忽然歸西山。
圓景光未滿,眾星粲以繁。
志士榮世業,小人亦不閒。
聊且夜行遊,遊彼雙闕間。
文昌鬱雲興,迎風高中天。
春鳩鳴飛棟,流猋激櫺軒。
顧念蓬室士,貧賤誠足憐。
薇藿弗充虛,皮褐猶不全。
慷慨有悲心,興文自成篇。
寶棄怨何人?和氏有其愆。
彈冠俟知己,知己誰不然?
良田無晚歲,膏澤多豐年。
亮懷璵璠美,積久德愈宣。
親交義在敦,申章復何言。

贈丁儀 曹植 魏詩<36>#1文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1901

贈丁儀 曹植 魏詩

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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
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孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
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李商隠詩
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贈丁儀 曹植 魏詩<36>#1文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1901

丁儀が曹丕に殺害されることになった原因の詩。



贈丁儀
初秋涼氣發,庭樹微消落。
初秋の候となって、清涼感のある気候になってきたようだ。庭の樹々の葉もようやく色づき枯れおち始めている。
凝霜依玉除,清風飄飛閣。
もう固く氷りついた霜が宮殿の階段をおおている。清々しい秋風が、宮中を吹き抜けて高閣に舞っている。
朝雲不歸山,霖雨成川澤。
朝がた山の端を離れた雲がそのまま浮んでいて山のほうには帰る気配を見せない、今度は秋のなが雨になり、河川や沢地をつくるのだ。
黍稷委疇隴,農夫安所獲。
この雨は、収獲の前の黍や稷を田のうねにたおれふしたままにするものなのだ、これでは農夫は収穫など皆無であり、どうするのだろうか。
#2
在貴多忘賤,為恩誰能博。
狐白足御冬,焉念無衣客。
思慕延陵子,寶劍非所惜。
子其寧爾心,親交義不薄。

丁儀に贈る
初秋涼気発し、庭樹微【ようや】く銷落【しょうらく】す。
凝霜【ぎょうそう】玉除に依り、清風飛閣に飄る。
朝雲 山に帰らず、霖雨【りんむ】川沢【せんたく】を成せり。
黍稷【しょしょく】疇隴【ちゅうろう】に委【す】てられ、農夫 安んぞ獲る所あらん。

#2
貴に在りては多く賤を忘れ、恩を為すこと誰か能く博【ひろ】からん。
狐白は冬を禦【ふせ】ぐに足るも、焉んぞ無衣の客を念わん。
延陵子【えんりょうし】を思慕【しぼ】すれば、宝剣は惜む所に非ず。
子 其れ爾が心を寧【やす】んぜよ、親交 義【ぎ】薄からず。



nat0019

『贈丁儀』 現代語訳と訳註
(本文)
贈丁儀
初秋涼氣發,庭樹微消落。
凝霜依玉除,清風飄飛閣。
朝雲不歸山,霖雨成川澤。
黍稷委疇隴,農夫安所獲。


(下し文) 丁儀に贈る
初秋涼気発し、庭樹微【ようや】く銷落【しょうらく】す。
凝霜【ぎょうそう】玉除に依り、清風飛閣に飄る。
朝雲 山に帰らず、霖雨【りんむ】川沢【せんたく】を成せり。
黍稷【しょしょく】疇隴【ちゅうろう】に委【す】てられ、農夫 安んぞ獲る所あらん。


(現代語訳)
初秋となって、清涼感のある気候になってきたようだ。庭の樹々の葉もようやく色づき枯れおち始めている。
もう固く氷りついた霜が宮殿の階段をおおている。清々しい秋風が、宮中を吹き抜けて高閣に舞っている。
朝がた山の端を離れた雲がそのまま浮んでいて山のほうには帰る気配を見せない、今度は秋のなが雨になり、河川や沢地をつくるのだ。
この雨は、収獲の前の黍や稷を田のうねにたおれふしたままにするものなのだ、これでは農夫は収穫など皆無であり、どうするのだろうか。


(訳注)
贈丁儀

○丁儀 (未詳―220年)字は正札、沛郡(安徴、宿県の西北)の人。曹植の最も親しい側近の一人で、曹植を帝位につけようと種々画策したため、兄の曹丕に忌まれ、曹丕が帝位につくや殺された。この詩は不遇をかこつ丁儀を慰め、信義に厚い自己の心情を打明けたものとされている。


初秋涼氣發,庭樹微消落。
初秋となって、清涼感のある気候になってきたようだ。庭の樹々の葉もようやく色づき枯れおち始めている。
○銷楽 枯れ落ちる。


凝霜依玉除,清風飄飛閣。
もう固く氷りついた霜が宮殿の階段をおおている。清々しい秋風が、宮中を吹き抜けて高閣に舞っている。
○玉除 宮殿の階。皇帝の宮殿前の中庭から宮殿のに入る朱色に輝く飾られた階段。
○飛閣 宮中、麒麟の絵が描かれている高閣をいう。


朝雲不歸山,霖雨成川澤。
朝がた山の端を離れた雲がそのまま浮んでいて山のほうには帰る気配を見せない、今度は秋のなが雨になり、河川や沢地をつくるのだ。
○朝雲不帰山 「広雅」に「八月浮雲帰と見え、『詩経』豳風(ひんぷう)「七月」(ふみづき)
七月流火、九月授衣。
一之日觱發、二之日栗烈。
無衣無褐、何以卒歲。
三之日于耜、四之日舉趾、同我婦子。
饁彼南畝、田畯至喜。
(七月には流る火あり、九月衣を授く。
一の日は觱發たり、二の日は栗烈たり。
衣無く褐無くんば、何を以てか歲を卒へん。
三の日 于(ここ)に耜(し)し、四の日 趾(あし)を舉ぐ、我が婦子とともに。
彼の南畝に饁(かれひ)す、田畯至り喜ぶ。)
に基づく句である。
<大意>七月には火星が西に流れる、九月には家族に衣を与えねばならぬ、十一月には風が寒くなり、十二月には激しく吹く、衣がなければ、どうして年を越せようか、明けて三月には鋤の手入れをし、四月には足を上げて耕さねばならぬ、我が妻子とともに、南の畑で働いていると、田んぼの役人さんがやってきて、喜びなさるだろう(流火:火は火星のこと、それが西へ流れるのを流火という、一之日:十一月をさす、田畯:田んぼを管轄する役人)
○霖雨 三日以上降る雨。


黍稷委疇隴,農夫安所獲。
この雨は、収獲の前の黍や稷を田のうねにたおれふしたままにするものなのだ、これでは農夫は収穫など皆無であり、どうするのだろうか。
○委 すてる。倒れたままほったらかしになっていること。
○疇隴 田のウネ。疇と隴、両方とも田畑のうね。
曹植000

七歩詩 曹植 魏詩<35>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1897

七歩詩 曹植 魏詩



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孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
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七歩詩 曹植 魏詩<35>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1897


七歩詩
煮豆持作羹,漉豉以爲汁。
豆を煮て、それで豆乳を作り、醗酵させた味噌をこして汁を作る。
萁向釜下然,豆在釜中泣。
豆がらは釜の下でもえ、豆は釜の中で泣いていうのだ。
本是同根生,相煎何太急?
「もとはといえば、同じ根から育ったものではありませんか、どしてそんなにひどく煎ってしまうのですか。」と。

豆を煮て 持って羹【あつもの】と作し,豉【し】を漉して 以って汁と爲す。
萁【まめがら】 は釜の下に在りて然え,豆は 釜の中に 在りて 泣く。
本是れ同根に生ぜしに,相い煎【に】ること何ぞ太【はなは】だ 急なる。


00大豆畑


『七歩詩』 現代語訳と訳註
(本文)
煮豆持作羹,漉豉以爲汁。
萁向釜下然,豆在釜中泣。
本是同根生,相煎何太急?


(下し文)
豆を煮て 持って羹【あつもの】と作し,豉【し】を漉して 以って汁と爲す。
萁【まめがら】 は釜の下に在りて然え,豆は 釜の中に 在りて 泣く。
本是れ同根に生ぜしに,相い煎【に】ること何ぞ太【はなは】だ 急なる。


(現代語訳)
豆を煮て、それで豆乳を作り、醗酵させた味噌をこして汁を作る。
豆がらは釜の下でもえ、豆は釜の中で泣いていうのだ。
「もとはといえば、同じ根から育ったものではありませんか、どしてそんなにひどく煎ってしまうのですか。」と。


(訳注)
七歩詩
 『三國演義』第七十九回「兄逼弟曹植賦詩。姪陥叔劉封伏法」には『七歩詩』が出てくる。曹丕は弟の曹植に対して「吾今限汝行七歩吟詩一首」と命じ、作った「兩肉齊道行,頭上帶凹骨。相遇由山下,起相突。二敵不倶剛,一肉臥土窟。非是力不如,盛氣不泄畢。」がそれである。それに対して曹丕は「七歩成章,吾猶以爲遲。汝能應聲而作詩一首否?」といわれ、再び作ったのが四句の詩であるが三国演義などの講談、逸話としての面白さであるがこの話はここで本気で取り上げることではないのでここまでにする。。
曹植:(そうち)。(192年~232年)。曹操の子で、曹丕の弟。詩人として有名で建安時 代を代表する作家であり、「建安の傑」と称される。その才能によって、かつて父曹操より太子にされようとしたこともある。父の死後,曹丕らによって種々の迫害を受け不遇をかこったが、詩人として成長させた。


煮豆持作羹,漉豉以爲汁。
豆を煮て、それで豆乳を作り、醗酵させた味噌をこして汁を作る。
・羹 羹。汁もの。
・漉豉 漉はこす。豉は煮たり蒸したりしたのち、醸酵させた豆。味噌、納豆の類。


萁向釜下然,豆在釜中泣。
豆がらは釜の下でもえ、豆は釜の中で泣いていうのだ。
・萁 豆の茎。豆がら。
・釜下 かまどした。*豆と豆萁とは、本来同一の根から生えている謂わば身内だが、豆がらは燃えて(身内の)豆を煮て来るので、豆は堪えかねてカマの中で泣いている。・釜中泣 釜の中で泣く。豆と豆萁とは、本来同一の根から生えている、いわば身内だが、豆萁(豆がら)は燃えて豆を煮て来るので、豆は堪えかねてカマの中で泣いている


本是同根生,相煎何太急?
「もとはといえば、同じ根から育ったものではありませんか、どしてそんなにひどく煎ってしまうのですか。」と。
本是 本来は。 
同根生 同じ根から生長した。ここでは曹丕と曹植との兄弟をも指す。
相煎 豆萁が豆をにる。兄が弟を虐めることを云っている。・相 …てくる。動作が対象に及ぶ時の表現。 
・何太急:どうしてそんなに急くのか。 ・何:なんぞ。反問。疑問の辞。・太 はなはだ。あまりにも。・急 いそぐ。せく。急である。
*ここでは曹丕と曹植の兄弟を指し、兄が弟を殺し除こうとすることを云っているとされているが、この詩程度のものは曹植の作詩能力からすると低レベルであり、その点からこの詩の評価と、『三國演義』に対して疑問を持っているものは私だけではないのだろうと思う。

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女性詩人
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雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#2>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1893


雑詩 其四 (閨情詩)#1 
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
空室自生風。百鳥翩南征。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
佳人在遠遁。妾身單且煢。

季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
#2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
倘終顧盻恩。永副我中情。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。

衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。


Chrysanthemum


『雑詩其四(閨情詩)』 現代語訳と訳註
(本文)
#2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。


(下し文)
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。


(現代語訳)
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。


(訳注) #2
其四 閨情詩 雑詩

○雜詩 「玉台新詠」に従って、「雑詩」其四とする。この節の詩題を、各本は「閏情」とする。なおこの詩の制作時期は明瞭でないが、229年太和三年、東阿王に国がえになった後、明帝を懐しんで作るとされる。
参考(1)では、220年頃~223年にかけての情勢の概略をのべる。参考(2)で224~230年の情勢をのべるのでこの詩の背景として参考にされたい。


歡會難再遇。芝蘭不重榮。
貴方というものがある以上心ときめく出合は許されるものではなくいけないことなのです。このかぐわしい蘭や香草芝は、もう一度花やぐことはかないことでこのまま次第に衰えていくのです。
○蘭芝香草で、才徳の象徴。「曹集」では芝蘭に作るが「玉台新詠」に従う。


人皆棄舊愛。君豈若平生。
人はみな、昔の愛人をすてぜるもの。あなたも、若かりし頃のようではありますまい。
○旧愛 昔の愛人。
○豈  反語で、どうして……であろうやの意。反語にとらないで推量的な疑問副詞ととる見方もある。
○平生かつての時間。若い頃。「論語」憲間に「久要(昔の約束)平生の言を忘れずんは」と見え、孔安国の注によると平生とは少時と同義。


寄松為女蘿。依水如浮萍。
わたしは決まった一本の松にまつわる姫かずらなのです。またあなたは、水のまにまにうかぶ浮草のようにどこかへ行くのです。
○女蘿 ヒメカズラ。松は男性の象徴。


齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
わたしは『衿帯の教え』を遵奉し、操を堅くまもっています。朝な夕なに女としての務めをおこたりなくいたしております。
○齎身 身をつつしむこと。貞操を守ること。
○奉衿帯 身をつつしみ婦道にはげめとの《衿帯の教え》を遵奉する。衿帶とは1 着物の襟と帯。2 《山が襟のように、川が帯のように取り巻く意から》山や川に囲まれて、敵の攻撃を受けにくい要害の地。これらを踏まえて嫁いだ女性の操を守る道徳的な教えを云う。
不墮傾 上述の嫁入り時の母の教を固く守り、道をあやまらないこと。嫁ぎ先の義理の母は絶対であった。32回の連載であった『為焦仲卿妻作』を参考

為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩583 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1566

倘終顧盻恩。永副我中情。
私の願いは、万が一にも私を忘れず、かつての愛情を最後までかけて下さいということで、いついつまでも、わたしの心をささえていただきたいということなのです。
○倘終顧盻恩 万が一にも私を忘れず、かつての愛情をかけて下さるならばの意。倘は仮定の言葉で、もし、万一にもの意。銘はまっとうする、最後までつづける。顧盻はかえり見る、思いやる。恩は夫婦の愛情をいう。
○副 つまびらかにするという意味を含んでささえること。
○中情 心中。この場合の中はあたるという意味。



参考(2) 
蜀の復興と諸葛亮の手腕

223年、劉備に代わって劉禅が皇帝に即位した蜀は、滅亡の危機に瀕していた。夷陵の敗北は蜀の軍事と経済に深刻な打撃を与え、劉備の死は蜀の国威を低下させたのである。223年、成都にはど近い漢嘉の太守黄元が苛に叛旗を翻したのを皮切りに、また同年、益州軍の確聞、脾脚部太守の朱襲、越亮の異民族の王高定と、立て続けに反乱が勃発する。

ここで獅子奮迅の働きをするのが蜀の丞相諸葛亮である。彼は屯田政策、塩・鉄の専売制、蜀錦などの殖産興業の奨励といった数々の経済政策を行ない、蜀の経済を立て直す。一方、呉に部芝を派遣し外交関係の修復にも努める。呉は款の曹丕が南下していたこともあり、蜀からの講和と同盟の再締結の申し出を受け入れるのであった。

この時期の諸葛亮の大いなる働きによって、一時は滅亡寸前であった蜀は内政外交の両面で立ち直っていく。

225年
、蜀を再建した諸葛亮は、ようやく南方の反乱の鎮定に乗り出し、これらをすべて治めていく。諸葛亮はここでも優れた手腕を発揮し、この南方の異民族たちを後方の重要な生産力として確保することに成功したのであった。


諸葛亮の北伐227年三月、やっと国内を安定させた諸葛亮は、念願の北伐に乗り出す。「出師の表」で漢の復興を高らかに宣言した彼は、漢中を足がかりとして北への進撃を開始する。諸葛亮にとってこの北伐は、充分に勝算のある作戦であった。というのも、予め上庸の孟達と内応の約束を取り付けてあり、また前年には魂帝の曹杢が崩御しており、その混乱も期待できたからである。しかし、内応した孟達は魏の司馬懿の速攻に漬されてしまう。蜀本軍も、迎撃に出た曹真を相手に善戦するが、228年初頭の街事の戦いで蜀の守将馬謀が魏の名将張部に大敗を喫し、戦線全体が崩壊して撤退を余儀なくされる。

同年十一月、諸葛亮は再び北伐の兵を起こすが、魏の司令官曹真はこれを予期していた。要衝である陳倉には城が築かれ、守将である那昭がこれをよく守り、諸葛亮は手も足も出ず撤退する。


229年
、諸葛亮は三度目の北伐を行ない武都、陰平を併竜北伐初の戦果を挙げる。同年九月、孫権が呉において帝位を宣言。名目上、これ以降「三国時代」となる。


231年、請書亮は四度目の北伐を行なう。このとき初めて総司令官として諸葛亮に対したのが、病没した曹真の後を受けた司馬鼓であった。諸葛亮と司馬敦は、郡山において開戦する。これは萄軍有利に終わるが、補給が続かず撤退を余儀なくされる。だが諸葛亮は、この撤退戦において第一次北伐で煮え湯を飲まされた、張部を討ち取ることに成功する。
このように、諸葛亮の北伐は戦果は挙げるものの、その目的である魏の打倒を果たすにははど遠いというのが実情であった。だが、劉備の死後、崩壊するかと思われた蜀を、諸葛亮は見事に立て直したのは事実である。なおかつ彼は、再三にわたる北伐で、覇に歴史の主導権を握らせる。呉も何度か蜀の北伐に呼応して魏に攻め入っていたが、やはりこの時代の主役は蜀であり、諸葛亮であった。


雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#1>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1889


2013/02/07  同じ日の紀頌之5つのブログ
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#1>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1889
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Ⅲ杜甫詩1000詩集
贈蜀僧閭邱師兄 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -7-#3)  杜甫 <391>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1891 杜甫詩1000-391-572/1500
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謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#1>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1889


玉台新詠集 巻二 曹植
雑詩
其一 (七哀詩)
明月照高樓,流光正徘徊。
上有愁思婦,悲歎有餘哀。
借問歎者誰?言是宕子妻。
君行踰十年,孤妾常獨棲。
君若清路塵,妾若濁水泥;
浮沈各異勢,會合何時諧?
願為西南風,長逝入君懷。
君懷良不開,賤妾當何依!
七哀詩 魏詩<33-1>文選 哀傷 666 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1881

其二
西北有織婦。綺縞何繽紛。
明晨秉機杼。日昃不成文。
太息終長夜。悲嘯入青雲。
妾身守空閨。良人行從軍。
自期三年歸。今已歷九春。
飛鳥遶樹翔。噭噭鳴索 。
願為南流景。馳光見我君。
雜詩六首其三 曹植 魏詩<20>古詩源 巻三 三国時代の詩646 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1801


其三 情詩
微陰翳陽景,清風飄我衣。
遊魚潛淥水,翔鳥薄天飛。
眇眇客行士,徭役不得歸。
始出嚴霜結,今來白露泺。
遊者歎黍離,處者歌式微。
慷慨對嘉賓,悽愴內傷悲。
情詩 曹植 魏詩<17>古詩源 巻三 女性詩643 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1789


其四 閨情詩 雑詩
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
空室自生風。百鳥翩南征。
春思安可忘。憂戚與我幷。
佳人在遠遁。妾身單且煢。
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。



南國有佳人。容華若桃李。
朝游江北岸。夕宿瀟湘沚。
時俗薄朱顏。誰為發皓齒。
俛仰歲將暮。榮曜難久恃。
雜詩六首其四 曹植 魏詩<21>古詩源 巻三 女性詩647 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1805





雑詩 其四 (閨情詩)#1 
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
空室自生風。百鳥翩南征。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
佳人在遠遁。妾身單且煢。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
#2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。

衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。


『雑詩其三(情詩)』 現代語訳と訳註
(本文)
其四 閨情詩 雑詩
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
空室自生風。百鳥翩南征。
春思安可忘。憂戚與我幷。
佳人在遠遁。妾身單且煢。


(下し文)
衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。


(現代語訳)
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。


(訳注)
其四 閨情詩 雑詩

○雜詩 「玉台新詠」に従って、「雑詩」其四とする。この節の詩題を、各本は「閏情」とする。なおこの詩の制作時期は明瞭でないが、229年太和三年、東阿王に国がえになった後、明帝を懐しんで作るとされる。
参考(1)では、220年頃~223年にかけての情勢の概略をのべる。参考(2)で224~230年の情勢をのべるのでこの詩の背景として参考にされたい。


攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
○撹衣 衣の裾を手にとって。「古詩十九首」之十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
出戶獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。に基づいて作る。。
○中閨 閨中におなじ。ねやの中。
○逍遙 さまよいあるく。
曹丕『芙蓉池作』 
乗輦夜行游、逍遥歩西園。双渠相漑灌、嘉木繞通川。
卑枝払羽蓋、脩条摩蒼天。驚風扶輪轂、飛鳥翔我前。
丹霞挟名月、華星出雲間。上天垂光彩、五色一何鮮。
寿命非松喬、誰能得神仙。遨游快心意、保己終百年。
〇兩楹 堂の入り口の二本の柱。この句で女性の自慰行為とも読める。不遇のものは性描写することで反骨を表すことが多い。


閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
○閒房 しずかな部屋。正室の傍にある部屋を房という。
○被 おおう。
○階庭 庭へおりる階段と中庭のこと。


空室自生風。百鳥翩南征
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
○空室/空穴 開いた門戸をさす。うつろな部屋。


春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
○春思 万物が冬の間は我慢をしている「春女陽気に感じて男を思う。」という。曹植の春思はこれにもとづくのであろう。。「天地陰陽、不革而成。」『易経、革』「上六、君子豹変、小人革面」(上六、君子は豹変し、小人は面を革む。)四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が「緒風」として残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。ということで万物が性に目覚める季節の思い。
○憂戚 憂も戚も、ともにうれいの意。
○与我幷 私と一つになる。私とともに存在してはなれない。この語は男女の合体を意味する。


佳人在遠遁。妾身單且煢。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
○佳人 表面的には夫をさす
○単煢 孤独のさま。


参考(1)
■曹操の死と漢王朝の滅亡
220年1月23日。洛陽において魏王曹操が逝去する。享年六十六歳であった。
偉大なる覇王の跡を継いだ曹丕は、そつなく国内をまとめあげ、曹操の死による動揺は蜀と呉の陣営が期待したほどにはなかった。
220年10月、曹杢は漢王朝より禅譲を受け、皇帝となる。かくして前漢も合わせれば四百年にわたって続いた漢王朝は滅亡し、代わって魏王朝が成立するのであった。
221年4月、曹丕の魏皇帝即位に対抗して、劉備もまた漢王朝の皇帝として即位する。後に蜀と呼ばれる国家の成立であるが、彼としては劉備が漢王朝の血を引くと自称しており、あくまで漢王朝の正当なる後継者としての皇帝即位であったが、一般的に表現の混乱を避けるため以後「蜀」と表記する。
皇帝に即位した劉備は、荊州奪回を決意する。これは、彼の配下や兵士たちには荊州出身者が多く含まれており、彼らのためにも荊州を奪還せねば人心をまとめあげることが難しかったのである。ただ、義弟である関羽の復仇に意固地になったため過去の劉備とまったく異なるほどの冷静さを欠いてたたかっている。ただこれは劉備の個人的な感情に走るほど無理な戦争であったということなのだ。つまり、蜀から呉を攻め落とせるだけの力量がなかったということであろう。


■夷陵の戦いと劉備の死
221年7月。劉備は蜀の軍勢の大半を動員して、孫権陣営に宣戦布告する。
開戦当初、劉備の勢いは凄まじく、いっきに長江を下っていった。呉の総司令官である陸遜は、蜀軍の勢いを受け流すかのように防衛線を五百里も後退していく。
222年2月、陸遜は夷陵に最終防衛線を張り、ここを堅守して持久戦の態勢に入るのであった。
夷陵における劉備と陸遜の対陣は三カ月にも及び、蜀軍も疲労と倦怠の色が濃くなっていく。
222年5月、陸遜は蜀軍の士気が緩み切ったのを見計らい総攻撃をかける。火攻と夜襲による陸遜の奇襲は見事に成功し、蜀軍は潰滅する。劉備は身一つで白帝城に逃げ込んだものの、蜀軍は多くの将が討たれ、兵員の損害は甚大なるものとなった。ほぼ全滅といえる敗戦である。
このまま陸遜が劉備を追撃し、続けて益州まで攻め入っていれば蜀はこの時点で滅亡していたかもしれない。呉も一時的には蜀を攻め落とせても長期的には伸びすぎた戦力として魏の進行に敗れるとした。蜀は呉の冷静さに救われたということだ。


■曹丕の参戦
曹丕が蜀と呉の戦いの隙を突いて、大軍を南下させようとしていたのである。この報を受けるまでもなく、陸遜は追撃をしなかったのである。
223年、曹丕は濡須口において呉軍と開戦する。しかし呉と蜀の戦いは曹丕の予想よりも早く決着し、防備を整備見直していた呉軍の前に撃退されることになる。結果としては、蜀を救うだけの徒労な遠征となった。ここで三権の力関係がバランスを取れた段階に入ったということだ。
223年4月、劉備は成都に戻ることなく白帝城にて失意のまま没する。そして跡を継いだ劉禅が蜀の皇帝に即位することになった。これを丞相である諸葛亮が補佐するという体制がとられるが、主力軍の大半を失ったうえに、夷陵の敗戦と劉備の死の動揺は大きく、早くも国内では反乱が頻発する。建国間もない蜀は、滅亡の道を啜家と思われるほどの同様であったのだ。
ともあれ漢王朝もまた滅び、後漢末の動乱を飾った最後の群雄である曹操と劉備が没したのである。時代は後漢末から三国時代へと、名実ともに移り変わっていく。

七哀詩 魏詩<33-2>文選 哀傷 667 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1885

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古詩十九首 (1) 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67676781.html
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。


李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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七哀詩 魏詩<33-2>文選 哀傷 667 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1885



七哀詩
明月照高樓,流光正徘徊。
仲秋の名月は高殿を明るく照らし、移りゆく光は、影を庭に影を映し去りもしないで寂しく動いている。
上有愁思婦,悲歎有餘哀。
高殿の上には、愁いにもの思う女がいる。彼女は悲しみ歎き、つきぬ哀愁をかこつものである。
借問歎者誰?言是宕子妻。
その歎いている方はどなたかと、こころみにたずねてみます。それは旅に出ている者の妻ですと答えるのだ。
君行踰十年,孤妾常獨棲。



そして彼女が夫に呼びかけていう、「あなたが旅に出かけてから、十年以上になりますが、残された私は、いつもひとりぼっちなのです。」と。
君若清路塵,妾若濁水泥;
「あなたは清らな路上の塵のよう、私はにごり水に沈む泥のようにきれいな水になるのを待つだけなのです」。
浮沈各異勢,會合何時諧?
「浮遊するのと沈殿とは、動と静で条件がまったく違っているのです。こんなことなのですが、再会の願はいつかなえられることでしょう。
願為西南風,長逝入君懷。
せめてもの願いは、西南から吹く風となりたいものです。そうすれば、わたしは女としての操を守り遠く空をかけり、あなたの胸にはとびこんで行きたいのです。
君懷良不開,賤妾當何依!

しかし、あなたの胸がもしも開かれていなかったなら、この私はどこに頼ったらよいのでしょうか。

明月 高楼を照らし、流光 正に徘徊す。
上に愁思の婦あり、悲歎して余哀あり。
借問す 歎ずる者は誰ぞと、謂うう是れ 客子の妻なりと。
君行きて十年を踰え、孤妾 常に独り棲む。

君は清路の塵の若く、妾は濁水の泥の若し。
浮沈 各の勢を異にし、会合 何れの時にか諧わん。
願わくは 西南の風となり、長逝して 君が懐に人らんことを。
君が懷 良に開かずんば、賤妾 当に何れにか依るべき。

nat0026

『七哀詩』 現代語訳と訳註
(本文)

君若清路塵,妾若濁水泥;浮沈各異勢,會合何時諧?
願為西南風,長逝入君懷。君懷良不開,賤妾當何依!


(下し文)
君は清路の塵の若く、妾は濁水の泥の若し。
浮沈 各の勢を異にし、会合 何れの時にか諧わん。
願わくは 西南の風となり、長逝して 君が懐に人らんことを。
君が懷 良に開かずんば、賤妾 当に何れにか依るべき。


(現代語訳)
「あなたは清らな路上の塵のよう、私はにごり水に沈む泥のようにきれいな水になるのを待つだけなのです」。
「浮遊するのと沈殿とは、動と静で条件がまったく違っているのです。こんなことなのですが、再会の願はいつかなえられることでしょう。
せめてもの願いは、西南から吹く風となりたいものです。そうすれば、わたしは女としての操を守り遠く空をかけり、あなたの胸にはとびこんで行きたいのです。
しかし、あなたの胸がもしも開かれていなかったなら、この私はどこに頼ったらよいのでしょうか。


(訳注)
〇七哀 この詩の題を、「玉台新詠」では「雑詩」とする。又「楽府詩集」では、晋楽奏する所として、十二句を増して、七解にわけている。「文選」では「七哀詩」として、哀傷の類に列する。岩波文庫「玉台新詠集」では上203ページ。事実、曹植には他に「七哀」と名づける詩があったことは、「文選」の飽照「苦熱行」及び劉轢「擬古詩」の李善注に見える。文選には王仲宣、張孟陽、にそれぞれ「七哀」の詩がある。


君若清路塵,妾若濁水泥;
「あなたは清らな路上の塵のよう、私はにごり水に沈む泥のようにきれいな水になるのを待つだけなのです」。
○君若持路塵、妾若濁水泥 黄節はいう、塵も泥も、本来同一の物。夫婦一体にたとえるものであるが、チリはどこへでも行ける。女の私は、この泥水の中でじっときれいになるのを待つだけなのだという意味である。


浮沈各異勢,會合何時諧?
「浮遊するのと沈殿とは、動と静で条件がまったく違っているのです。こんなことなのですが、再会の願はいつかなえられることでしょう。
○勢 形状をいう。
○譜 希望が達せられる。


願為西南風,長逝入君懷。
せめてもの願いは、西南から吹く風となりたいものです。そうすれば、わたしは女としての操を守り遠く空をかけり、あなたの胸にはとびこんで行きたいのです。
西南風 西南の方向は坤にあたり、坤は妻の道なる故かくいうとか、一般的な女のことを謂うのであるから、妻の道、女の道、「操」を守ることを強調するのである。


君懷良不開,賤妾當何依!
しかし、あなたの胸がもしも開かれていなかったなら、この私はどこに頼ったらよいのでしょうか。
○長逝 遠いみちのりを行く。
○艮 まことに、果して。「もし」でもよい。



七哀詩 魏詩<33-1>文選 哀傷 666 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1881

七哀詩 曹植

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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩七哀詩 魏詩<33-1>文選 哀傷 666 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1881 
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩原道 韓退之(韓愈)詩<115-7>Ⅱ中唐詩579 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1882 4段目-2 
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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
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登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。


李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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七哀詩 魏詩<33-1>文選 哀傷 666 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1881


七哀詩
明月照高樓,流光正徘徊。
仲秋の名月は高殿を明るく照らし、移りゆく光は、影を庭に影を映し去りもしないで寂しく動いている。
上有愁思婦,悲歎有餘哀。
高殿の上には、愁いにもの思う女がいる。彼女は悲しみ歎き、つきぬ哀愁をかこつものである。
借問歎者誰?言是宕子妻。
その歎いている方はどなたかと、こころみにたずねてみます。それは旅に出ている者の妻ですと答えるのだ。
君行踰十年,孤妾常獨棲。

そして彼女が夫に呼びかけていう、「あなたが旅に出かけてから、十年以上になりますが、残された私は、いつもひとりぼっちなのです。」と。

君若清路塵,妾若濁水泥;浮沈各異勢,會合何時諧?
願為西南風,長逝入君懷。君懷良不開,賤妾當何依!


明月 高楼を照らし、流光 正に徘徊す。
上に愁思の婦あり、悲歎して余哀あり。
借問す 歎ずる者は誰ぞと、謂うう是れ 客子の妻なりと。
君行きて十年を踰え、孤妾 常に独り棲む。

君は清路の塵の若く、妾は濁水の泥の若し。
浮沈 各の勢を異にし、会合 何れの時にか諧わん。
願わくは 西南の風となり、長逝して 君が懐に人らんことを。
君が懷 良に開かずんば、賤妾 当に何れにか依るべき。


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『七哀詩』 現代語訳と訳註
(本文)

明月照高樓,流光正徘徊。上有愁思婦,悲歎有餘哀。
借問歎者誰?言是宕子妻。君行踰十年,孤妾常獨棲。


(下し文)
明月 高楼を照らし、流光 正に徘徊す。
上に愁思の婦あり、悲歎して余哀あり。
借問す 歎ずる者は誰ぞと、謂うう是れ 客子の妻なりと。
君行きて十年を踰え、孤妾 常に独り棲む。


(現代語訳)
仲秋の名月は高殿を明るく照らし、移りゆく光は、影を庭に影を映し去りもしないで寂しく動いている。
高殿の上には、愁いにもの思う女がいる。彼女は悲しみ歎き、つきぬ哀愁をかこつものである。
その歎いている方はどなたかと、こころみにたずねてみます。それは旅に出ている者の妻ですと答えるのだ。
そして彼女が夫に呼びかけていう、「あなたが旅に出かけてから、十年以上になりますが、残された私は、いつもひとりぼっちなのです。」と。


(訳注)
七哀詩

○七哀 この詩の題を、「玉台新詠」では「雑詩」とする。又「楽府詩集」では、晋楽奏する所として、十二句を増して、七解にわけている。「文選」では「七哀詩」として、哀傷の類に列する。岩波文庫「玉台新詠集」では上203ページ。事実、曹植には他に「七哀」と名づける詩があったことは、「文選」の飽照「苦熱行」及び劉轢「擬古詩」の李善注に見える。文選には王仲宣、張孟陽、にそれぞれ「七哀」の詩がある。この詩は、漢の無名氏「古詩」十九首に基づいている。


明月照高樓,流光正徘徊。
仲秋の名月は高殿を明るく照らし、移りゆく光は、影を庭に影を映し去りもしないで寂しく動いている。
○明月 秋八月の月。仲秋の名月。
「古詩十九首」之第七首
明月皎夜光,促織鳴東壁。
玉衡指孟冬,眾星何歷歷。
白露沾野草,時節忽復易。
秋蟬鳴樹間,玄鳥逝安適。
古詩十九首之七 (7) 漢詩<94>Ⅱ李白に影響を与えた詩526 漢文委員会 紀頌之の漢詩ブログ1395
第十七首
孟冬寒氣至,北風何慘栗。
愁多知夜長,仰觀眾星列。
三五明月滿,四五蟾兔缺。
客從遠方來,遺我一書劄。
上言長相思,下言久離別。
置書懷袖中,三歲字不滅。
一心抱區區,懼君不識察。
古詩十九首之十七 漢の無名氏 (17) 漢詩<104>Ⅱ李白に影響を与えた詩539 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1434 
「古詩十九首」之第十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
出戶獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。
古詩十九首之十九 漢の無名氏(19) 漢詩<107>Ⅱ李白に影響を与えた詩541 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1440
○流光正排掴 移りゆく月光をいう。仲秋の月の移動が早く、明るさも一番明るいので光が流れる如くであるという。
○徘徊 高殿や庭木の影を追うこと。仲秋は月が昇り沈むまでもっともく長、最も高く上がる。それらと悲しさ、寂しさを示す。


上有愁思婦,悲歎有餘哀。
高殿の上には、愁いにもの思う女がいる。彼女は悲しみ歎き、つきぬ哀愁をかこつものである。


借問歎者誰?言是宕子妻。
その歎いている方はどなたかと、こころみにたずねてみます。それは旅に出ている者の妻ですと答えるのだ。
○借問 ちょっとたずねて見る。こころみに問う。
○宕子 旅人。宕は久しく他郷をさすらうこと。


君行踰十年,孤妾常獨棲。
そして彼女が夫に呼びかけていう、「あなたが旅に出かけてから、十年以上になりますが、残された私は、いつもひとりぼっちなのです。」と。
○君 客子たる夫のこと。
○踰 超過する。

送應氏二首 其二 曹植 魏詩<32-2>文選 祖餞 665 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1877

送應氏二首 其二 曹植 魏詩

  同じ日の紀頌之5つのブログ 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩送應氏二首 其二 曹植 魏詩<32-2>文選 祖餞 665 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1877 
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩原道 韓退之(韓愈)詩<115-6>Ⅱ中唐詩578 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1878 
 Ⅲ杜甫詩1000詩集和裴迪登新津寺寄王侍郎 杜甫 成都(2部)浣花渓の草堂(3 -6)  杜甫 <388> 五言律詩 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1879 杜甫詩1000-388-569/1500 
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古詩十九首 (1) 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67676781.html
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。


李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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送應氏二首 其二 曹植 魏詩<32-2>文選 祖餞 665 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1877


其二
清時難屢得,嘉會不可常。
太平の時世というものがたびたびあるということはむつかしいしいものだ、友との心嬉しい会合も、何時も持てるとは限らない。
天地中無極,人命若朝霜。
天地山河は悠久で終わりがあることはない、人のいのちはまことに朝におく霜のようなはかないものだ。
願得展嬿婉,我友之朔方。
できることならこのような親愛の情をほしいままにできる機会をいつも持ちたいものだ、こういう中でわが友は北の方に旅立っていくのである。
親昵並集送,置酒此河陽。

ここで親しい仲間が集まってみなでおくろうとしている。ここの黄河の北でもって酒を酌み交わす別れの宴をしている。

中饋起獨薄?賓飲不盡觴。
送別の宴に供する酒食の量が乏しいとか少ないというわけではないのだが、主人公の君の杯がどうやらすすまないようだ。
愛至望苦深,豈不愧中腸?
君に対する親愛の情の大きさを考えれば私の助力に期待を寄せることも当然のことだ。どういうわけか今回はうまくいかなかった。無力な自分を情けなく思っているところだ。
山川阻且遠,別促會日長。
これからお互いは、険しい山河で隔てられ遠いものとなる。別れの時は迫ってくる。再び会うことができるのは遠い先のことになる。
願為比翼鳥,施翮起高翔!
願うことは「比翼鳥」になって、このまま離れずに並び飛びたいとおもっている。そして、翼を広げ大空高く翔けゆきたいとおもうのだ!


其二
清時【せいじ】屡【しばし】ば得難く、嘉会常にはす可からず。
天地終極無く、人命朝の霜の若し。
願わくは 嬿婉【えんえん】を展【の】ぶるを得ん、我が友朔方【さくほう】に之く。
親昵【しんじつ】並び集いて送り、酒を此の河陽に置く。
中饋【ちゅうさ】は豈に独り薄からんや、賓は飲むに 觴【さかずき】を尽くさず。
愛至りて望み苦【はなは】だ深し、豈に中腸に愧じざらんや。
山川阻たり且つ遠く、別れ促【せま】りて会日【かいじつ】長し。
願わくは 比翼の鳥と為り、翮【つばさ】を施【の】べ起ちて高く翔【か】けらん。


『送應氏二首 其二』 曹植 現代語訳と訳註
(本文) 其二
中饋起獨薄?賓飲不盡觴。
愛至望苦深,豈不愧中腸?
山川阻且遠,別促會日長。
願為比翼鳥,施翮起高翔!


(下し文)
中饋【ちゅうさ】は豈に独り薄からんや、賓は飲むに 觴【さかずき】を尽くさず。
愛至りて望み苦【はなは】だ深し、豈に中腸に愧じざらんや。
山川阻たり且つ遠く、別れ促【せま】りて会日【かいじつ】長し。
願わくは 比翼の鳥と為り、翮【つばさ】を施【の】べ起ちて高く翔【か】けらん。


(現代語訳)
送別の宴に供する酒食の量が乏しいとか少ないというわけではないのだが、主人公の君の杯がどうやらすすまないようだ。
君に対する親愛の情の大きさを考えれば私の助力に期待を寄せることも当然のことだ。どういうわけか今回はうまくいかなかった。無力な自分を情けなく思っているところだ。
これからお互いは、険しい山河で隔てられ遠いものとなる。別れの時は迫ってくる。再び会うことができるのは遠い先のことになる。
願うことは「比翼鳥」になって、このまま離れずに並び飛びたいとおもっている。そして、翼を広げ大空高く翔けゆきたいとおもうのだ!


(訳注)
中饋起獨薄?賓飲不盡觴。

送別の宴に供する酒食の量が乏しいとか少ないというわけではないのだが、主人公の君の杯がどうやらすすまないようだ。
○中饋 餞とは目上の者に食物をすすめることで、古来、女性の職分として男性に勧めることをいう。「周易」家人に見える。ここでは送別の宴に供する酒食のこと。
 

愛至望苦深,豈不愧中腸?
君に対する親愛の情の大きさを考えれば私の助力に期待を寄せることも当然のことだ。どういうわけか今回はうまくいかなかった。無力な自分を情けなく思っているところだ。
愛至望苦深 「漢書」、杜鄴傳に「愛至りてはその求むるや詳かなり。」と見える。望は期待するのぞみ。苦は非常に。恐らく曹植は応氏から、北方へ出張せよとの命令を取消すべき斡旋を依頼されたのだろうが、それが果せなかったのを、恥じて言ったもの。
○中腸 腹中、心中。


山川阻且遠,別促會日長。
これからお互いは、険しい山河で隔てられ遠いものとなる。別れの時は迫ってくる。再び会うことができるのは遠い先のことになる。


願為比翼鳥,施翮起高翔!
願うことは「比翼鳥」になって、このまま離れずに並び飛びたいとおもっている。そして、翼を広げ大空高く翔けゆきたいとおもうのだ
○比翼鳥 常に二羽並んで飛ぶ仲のよい鳥。逆にいうと二羽そろわないと飛べないわけで、そのことが男女の仲の睦まじさをあらわす喩えにもなっている。『山海経』「海外南経」によれば、青赤色の身体で、2羽で翼がそろって飛ぶという鳥。 フウチョウ科の鳥。全長18センチくらい。雄は背面が赤く、胸のわきに扇形の緑色の飾り羽をもち、尾は中央羽根が線状で著しく長い。雌は全体に茶褐色。
○施 のばす。
○翮 はねのくき。
二羽のゆりかもめ

送應氏二首 其二 曹植 魏詩<32>文選 祖餞 664 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1873

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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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送應氏二首 其二 曹植 魏詩<32>文選 祖餞 664 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1873


其二
清時難屢得,嘉會不可常。
太平の時世というものがたびたびあるということはむつかしいしいものだ、友との心嬉しい会合も、何時も持てるとは限らない。
天地中無極,人命若朝霜。
天地山河は悠久で終わりがあることはない、人のいのちはまことに朝におく霜のようなはかないものだ。
願得展嬿婉,我友之朔方。
できることならこのような親愛の情をほしいままにできる機会をいつも持ちたいものだ、こういう中でわが友は北の方に旅立っていくのである。
親昵並集送,置酒此河陽。
ここで親しい仲間が集まってみなでおくろうとしている。ここの黄河の北でもって酒を酌み交わす別れの宴をしている。

中饋起獨薄?賓飲不盡觴。
愛至望苦深,豈不愧中腸?
山川阻且遠,別促會日長。
願為比翼鳥,施翮起高翔!

其二
清時【せいじ】屡【しばし】ば得難く、嘉会常にはす可からず。
天地終極無く、人命朝の霜の若し。
願わくは 嬿婉【えんえん】を展【の】ぶるを得ん、我が友朔方【さくほう】に之く。
親昵【しんじつ】並び集いて送り、酒を此の河陽に置く。

中饋【ちゅうさ】は豈に独り薄からんや、賓は飲むに 觴【さかずき】を尽くさず。
愛至りて望み苦【はなは】だ深し、豈に中腸に愧じざらんや。
山川阻たり且つ遠く、別れ促【せま】りて会日【かいじつ】長し。
願わくは 比翼の鳥と為り、翮【つばさ】を施【の】べ起ちて高く翔【か】けらん。

汜水関などの地図


『送應氏二首 其二』 曹植 現代語訳と訳註
(本文) 其二
清時難屢得,嘉會不可常。
天地中無極,人命若朝霜。
願得展嬿婉,我友之朔方。
親昵並集送,置酒此河陽。


(下し文) 其二
清時【せいじ】屡【しばし】ば得難く、嘉会常にはす可からず。
天地終極無く、人命朝の霜の若し。
願わくは 嬿婉【えんえん】を展【の】ぶるを得ん、我が友朔方【さくほう】に之く。
親昵【しんじつ】並び集いて送り、酒を此の河陽に置く。


(現代語訳)
太平の時世というものがたびたびあるということはむつかしいしいものだ、友との心嬉しい会合も、何時も持てるとは限らない。
天地山河は悠久で終わりがあることはない、人のいのちはまことに朝におく霜のようなはかないものだ。
できることならこのような親愛の情をほしいままにできる機会をいつも持ちたいものだ、こういう中でわが友は北の方に旅立っていくのである。
ここで親しい仲間が集まってみなでおくろうとしている。ここの黄河の北でもって酒を酌み交わす別れの宴をしている。


(訳注)
送應氏二首 其二

華やかな建安文学の中でも応瑒、応璩も中心的な存在であった。曹植のもとを去って、都に引き返す応瑒を送別するに当ってこの作品を作った。応瑒には『別詩二首』という作品が残っていて、この曹植の二首と呼応するところがあり、互いに作品を送りあって別れを惜しんだことがうかがえる。
建安七子に一人 )応瑒 (おうよう) ?~217   字は徳璉。汝南郡南頓の人。応珣の子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。
応璩(おうきょ) 190~252   字は休璉。汝南郡南頓の人。応瑒の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。


清時難屢得,嘉會不可常。
太平の時世というものがたびたびあるということはむつかしいしいものだ、友との心嬉しい会合も、何時も持てるとは限らない。
○晴時 太平の時世。
○嘉会 このましき会合。李陵の作と伝える「蘇武に与うる詩三首」其二に「嘉会再びは遇い難く、三載も千秋為り」と見える。


天地中無極,人命若朝霜。
天地山河は悠久で終わりがあることはない、人のいのちはまことに朝におく霜のようなはかないものだ。


願得展嬿婉,我友之朔方。
できることならこのような親愛の情をほしいままにできる機会をいつも持ちたいものだ、こういう中でわが友は北の方に旅立っていくのである。
○展嬿婉 親愛の情をほしいままにする。・嬿婉 おだやかなさま。好ましいさま。ここではたがいのなごやかな友情をさして言ったもの。「詩経」邶風、新台に「燕婉なるをこそ之れ求めしに」と見えるが、雜詩では「嬿婉」に作る。毛伝は「燕は安、婉は順なり」といい、韓説は「嬿婉は好ましき貌なり。」といぅ。
○朔方 通常は甘粛省北部をいうが、ここではひろく北方をさす。


親昵並集送,置酒此河陽。
ここで親しい仲間が集まってみなでおくろうとしている。ここの黄河の北でもって酒を酌み交わす別れの宴をしている。
親昵 親近の人たち。
○河陽 黄河の北の地。固有名詞と考えれば、河南の河陽県。
nat0022

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謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
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李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人
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孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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送應氏二首 其一 曹植 魏詩<31-2>文選 祖餞 663 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1869


送應氏二首
其一
步登北芒阪,遙望洛陽山。
徒歩で城郭の北にある北芒陵の坂を登っていく。はるかに見える洛陽、とりまく山々を望む。
洛陽何寂寞!宮室盡燒焚。
洛陽の城郭はなんとさびしい所となってしまったのか。あの宮殿が専横な董卓によってことごとく焼き払われているのだ。
垣牆皆頓擗,荊棘上參天。
宮殿も邸宅の垣根も土塀もすべて崩壊され、破裂、破壊されてしまっている。それなのに、ただイバラだけは生い茂り、天にも届かんばかりになっているのだ。
不見舊耆老,但睹新少年。

街の中を歩く人でさえも昔を知る老人の姿は見当たらない。見知らぬ風来の貴公子、若者たちが行き交うばかりなのだ。

側足無行徑,荒疇不復田。
この焦土の洛陽の街はつま先立ちで歩かなければいけないほど行く路も踏み場もない。
遊子久不歸,不識陌與阡。
此れまで旅続きで久しく帰っていないので洛陽を訪れる君らはには道の東西さえ見分けられないほどなのだ。
中野何蕭條,千里無人煙。
此れでは野原の中に立つのであり、なんとしかことかこの蕭條と広がるこの地は。もう千里の彼方まで一筋の人の生活の煙がみえないのだ。
念我平常居,氣結不能言。
今私が君らかつて過ごした屋敷を思い出そうとしている、ところがこの有様を見ると、気持ちはふさがってしまい、言葉にすることもできない。

其の一
歩みて北芒の坂を登り、遙かに洛陽の山を望む。
洛陽何ぞ寂寞たる、宮室 尽【ことごと】く焼焚【しょうふん】す。
垣牆【えんしょう】皆頓【くず】れ擗【さ】け、荊棘【けいきょく】上って天に参わる。
旧耆老【きろう】を見ず、但だ新少年を覩【み】るのみ。
足を側【そばだ】つるに行径なく、荒疇【こうちゅう】復た田をせず。
遊子久しく帰らず、陌と阡とを識らざらん。
中野【ちゅうや】何ぞ蕭条【しょうじょう】たる、千里人煙無し。
我が平常の居を念い、気結ばれて言うこと能わず。

sas0010

『送應氏二首 其一』後半 現代語訳と訳註
(本文)

側足無行徑,荒疇不復田。
遊子久不歸,不識陌與阡。
中野何蕭條,千里無人煙。
念我平常居,氣結不能言。


(下し文)
足を側【そばだ】つるに行径なく、荒疇【こうちゅう】復た田をせず。
遊子久しく帰らず、陌と阡とを識らざらん。
中野【ちゅうや】何ぞ蕭条【しょうじょう】たる、千里人煙無し。
我が平常の居を念い、気結ばれて言うこと能わず。


(現代語訳)
この焦土の洛陽の街はつま先立ちで歩かなければいけないほど行く路も踏み場もない。
此れまで旅続きで久しく帰っていないので洛陽を訪れる君らはには道の東西さえ見分けられないほどなのだ。
此れでは野原の中に立つのであり、なんとしかことかこの蕭條と広がるこの地は。もう千里の彼方まで一筋の人の生活の煙がみえないのだ。
今私が君らかつて過ごした屋敷を思い出そうとしている、ところがこの有様を見ると、気持ちはふさがってしまい、言葉にすることもできない。


(訳注)
送應氏二首 其一

華やかな建安文学の中でも応瑒、応璩も中心的な存在であった。曹植のもとを去って、都に引き返す応瑒を送別するに当ってこの作品を作った。応瑒には『別詩二首』という作品が残っていて、この曹植の二首と呼応するところがあり、互いに作品を送りあって別れを惜しんだことがうかがえる。
建安七子に一人 )応瑒 (おうよう) ?~217   字は徳璉。汝南郡南頓の人。応珣の子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。
応璩(おうきょ) 190~252   字は休璉。汝南郡南頓の人。応瑒の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。


側足無行徑,荒疇不復田。
この焦土の洛陽の街はつま先立ちで歩かなければいけないほど行く路も踏み場もない。
荒れ放題の田畑は ふたたび耕される様子もない。
○側足 つまだちして歩く。この場合焦土でまともに歩ける場所がないこと。
李白『梁甫吟』「側足焦原未言苦。智者可卷愚者豪。世人見我輕鴻毛。力排南山三壯士。」
○疇 1 田畑のうね。あぜ道。田畑。「田疇」 2 昔。以前。
○田 耕作する(動詞)。


遊子久不歸,不識陌與阡。
此れまで旅続きで久しく帰っていないので洛陽を訪れる君らはには道の東西さえ見分けられないほどなのだ。
○遊子 旅人、応氏兄弟をさす。
○陌與阡 東西に通ずる道を陌といい、南北の大通りを阡という。


中野何蕭條,千里無人煙。
此れでは野原の中に立つのであり、なんとしかことかこの蕭條と広がるこの地は。もう千里の彼方まで一筋の人の生活の煙がみえないのだ。
○中野 野原の中。
○蕭條 ものさびしい。
・人煙 人が生活するためのかまどの煙。


念我平常居,氣結不能言。
今私が君らかつて過ごした屋敷を思い出そうとしている、ところがこの有様を見ると、気持ちはふさがってしまい、言葉にすることもできない。

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女性詩人
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孟郊詩
http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩
http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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送應氏二首 其一 曹植 魏詩<31-1>文選 祖餞 662 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1865




建安文学
建安文学 (けんあんぶんがく)  後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。建安の三曹七子 1)孔融・2)陳琳・3)徐幹・4)王粲・5)応瑒・6)劉楨・8)阮瑀、建安の七子と曹操・曹丕・曹植の三曹を同列とし、建安の三曹七子と呼称する。 

  

有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応璩・蔡琰・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。

建安の詩人の中で、曹植は別格に優れた詩人であり、陶淵明や謝靈運らいわゆる六朝詩以前における最高の詩人の一人であることは間違いない。実際、彼の詩は今見ても表現は艶麗にして細緻、その描く情景の美しさには格別なものがある。


曹植の詩は、曹家の公子として、また天才青年詩人として活躍した前半生と、任地を流刑同然に転々としていた後半生とではっきりと二分される。父曹操の死歿によってはっきりとその詩の様相が変わるのである。文帝曹丕に疎まれることも、曹家に生まれ、人心掌握力を持っていれば仕方のない運命である。前半生のころの詩はひたすら華やかで明るく、後半はその憂悶が詩に表われ、詩人として生きていくことに喜びを感じていたのではないだろうか。


送應氏二首

其一
步登北芒阪,遙望洛陽山。
徒歩で城郭の北にある北芒陵の坂を登っていく。はるかに見える洛陽、とりまく山々を望む。
洛陽何寂寞!宮室盡燒焚。
洛陽の城郭はなんとさびしい所となってしまったのか。あの宮殿が専横な董卓によってことごとく焼き払われているのだ。
垣牆皆頓擗,荊棘上參天。
宮殿も邸宅の垣根も土塀もすべて崩壊され、破裂、破壊されてしまっている。それなのに、ただイバラだけは生い茂り、天にも届かんばかりになっているのだ。
不見舊耆老,但睹新少年。
街の中を歩く人でさえも昔を知る老人の姿は見当たらない。見知らぬ風来の貴公子、若者たちが行き交うばかりなのだ。

側足無行徑,荒疇不復田。
遊子久不歸,不識陌與阡。
中野何蕭條,千里無人煙。
念我平常居,氣結不能言。


其二
清時難屢得,嘉會不可常。
天地中無極,人命若朝霜。
願得展嬿婉,我友之朔方。
親昵並集送,置酒此河陽。

中饋起獨薄?賓飲不盡觴。
愛至望苦深,豈不愧中腸?
山川阻且遠,別促會日長。
願為比翼鳥,施翮起高翔!

其の一
歩みて北芒の坂を登り、遙かに洛陽の山を望む。
洛陽何ぞ寂寞たる、宮室 尽【ことごと】く焼焚【しょうふん】す。
垣牆【えんしょう】皆頓【くず】れ擗【さ】け、荊棘【けいきょく】上って天に参わる。
旧耆老【きろう】を見ず、但だ新少年を覩【み】るのみ。

足を側【そばだ】つるに行径なく、荒疇【こうちゅう】復た田をせず。
遊子久しく帰らず、陌と阡とを識らざらん。
中野【ちゅうや】何ぞ蕭条【しょうじょう】たる、千里人煙無し。
我が平常の居を念い、気結ばれて言うこと能わず。


其二
清時【せいじ】屡【しばし】ば得難く、嘉会常にはす可からず。
天地終極無く、人命朝の霜の若し。
願わくは 嬿婉【えんえん】を展【の】ぶるを得ん、我が友朔方【さくほう】に之く。
親昵【しんじつ】並び集いて送り、酒を此の河陽に置く。
中饋【ちゅうさ】は豈に独り薄からんや、賓は飲むに 觴【さかずき】を尽くさず。
愛至りて望み苦【はなは】だ深し、豈に中腸に愧じざらんや。
山川阻たり且つ遠く、別れ促【せま】りて会日【かいじつ】長し。
願わくは 比翼の鳥と為り、翮【つばさ】を施【の】べ起ちて高く翔【か】けらん。

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『送應氏二首』 現代語訳と訳註
(本文) 其一
步登北芒阪,遙望洛陽山。
洛陽何寂寞!宮室盡燒焚。
垣牆皆頓擗,荊棘上參天。
不見舊耆老,但睹新少年。


(下し文)
其の一
歩みて北芒の坂を登り、遙かに洛陽の山を望む。
洛陽何ぞ寂寞たる、宮室 尽【ことごと】く焼焚【しょうふん】す。
垣牆【えんしょう】皆頓【くず】れ擗【さ】け、荊棘【けいきょく】上って天に参わる。
旧耆老【きろう】を見ず、但だ新少年を覩【み】るのみ。


(現代語訳)
徒歩で城郭の北にある北芒陵の坂を登っていく。はるかに見える洛陽、とりまく山々を望む。
洛陽の城郭はなんとさびしい所となってしまったのか。あの宮殿が専横な董卓によってことごとく焼き払われているのだ。
宮殿も邸宅の垣根も土塀もすべて崩壊され、破裂、破壊されてしまっている。それなのに、ただイバラだけは生い茂り、天にも届かんばかりになっているのだ。
街の中を歩く人でさえも昔を知る老人の姿は見当たらない。見知らぬ風来の貴公子、若者たちが行き交うばかりなのだ。


(訳注)
送應氏二首 其一

華やかな建安文学の中でも応瑒、応璩も中心的な存在であった。曹植のもとを去って、都に引き返す応瑒を送別するに当ってこの作品を作った。応瑒には『別詩二首』という作品が残っていて、この曹植の二首と呼応するところがあり、互いに作品を送りあって別れを惜しんだことがうかがえる。
建安七子に一人 )応瑒 (おうよう) ?~217   字は徳璉。汝南郡南頓の人。応珣の子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。
応璩(おうきょ) 190~252   字は休璉。汝南郡南頓の人。応瑒の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。


步登北芒阪,遙望洛陽山。
徒歩で城郭の北にある北芒陵の坂を登っていく。はるかに見える洛陽、とりまく山々を望む。
○北芒 洛陽の北にある山。後漢以降、この地に王侯貴族の墓が集まっていた。北邙 『古詩十九首之第十三首』「驅車上東門,遙望郭北墓。」劉希夷(劉廷芝)『公子行』「百年同謝西山日,千秋萬古北邙塵。」  


洛陽何寂寞!宮室盡燒焚。
洛陽の城郭はなんとさびしい所となってしまったのか。あの宮殿が専横な董卓によってことごとく焼き払われているのだ。
○焼焚 190年初平元年、形勢不利と判断した董卓が長安に逃避する際、洛陽の宮殿城郭を焼きはらったのだ。


垣牆皆頓擗,荊棘上參天。
宮殿も邸宅の垣根も土塀もすべて崩壊され、破裂、破壊されてしまっている。それなのに、ただイバラだけは生い茂り、天にも届かんばかりになっているのだ。
○頓擗 頓は崩壊、擗は破裂。
○荊棟 イバラ。
○参天 天にとどくほどのびる。


不見舊耆老,但睹新少年。
街の中を歩く人でさえも昔を知る老人の姿は見当たらない。見知らぬ風来の貴公子、若者たちが行き交うばかりなのだ。
〇耆老 老人。
○但 ただ……だけ。
○少年 若者。

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