司馬相如 《子虚賦 》(24)それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。
2013年9月30日 | 同じ日の紀頌之5つのブログ |
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武帝の宮廷へ
ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。
武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。
(24)#10-1
且齊東陼鉅海,南有琅邪,
それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。
觀乎成山,射乎之罘;
成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。
浮勃澥,游孟諸。
渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。
邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界,
東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。
(25) #10-2
秋田乎青丘,傍偟乎海外,
吞若雲夢者八九,其於匈中曾不蔕芥。
若乃俶儻瑰偉,異方殊類,
珍怪鳥獸,萬端鱗崒,
(26) #10-3
充仞其中者,不可勝記,
禹不能名,契不能計。
然在諸侯之位,不敢言游戲之樂,苑囿之大;
先生又見客,是以王辭不復,
何為無以應哉!」
(24) #10-1
且つ齊は東のかた鉅海【きょかい】を陼【しきり】とし,南のかた琅邪【ろうや】を有【たも】てり,。
成山に觀 乎【つく】り,之罘【しふ】に射る。
勃澥【ぼっかい】に浮かび,孟諸【もうちょ】に游ぶ。
邪【なな】めに肅慎【しゅくしんと】鄰たり,右は湯谷を以って界と為せり。
(25) #10-2
秋には青丘に田【かり】し,海外に傍偟【ほうこう】す。
雲夢の若き者も八九を吞めども,其の匈中に於て曾て蔕芥【たいかい】にもせず。
若し乃ち俶儻【てきとう】瑰偉【かいい】として,方を異にし類を殊にするは,
珍怪鳥獸,萬端にして鱗【うろこ】もごとく崒【あつま】る。
(26) #10-3
其の中に充仞【じゅうじん】し,勝【あ】げて記す可からず。
禹も名つくること能わず,契も計【かぞ】うること能わず。
然れども諸侯の位に在りては,敢て游戲の樂しみ,苑囿【えんゆう】の大いなることを言わず。
先生 又た 客と見【せ】られたり,是を以って王辭して復【こた】えず。
何んぞ以って應【こた】うること無しと為さんや!」
『子虛賦』 現代語訳と訳註
(本文) #10
且齊東陼鉅海,南有琅邪,
觀乎成山,射乎之罘;
浮勃澥,游孟諸。
邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界,
(下し文) (24) #10-1
且つ齊は東のかた鉅海【きょかい】を陼【しきり】とし,南のかた琅邪【ろうや】を有【たも】てり,。
成山に觀 乎【つく】り,之罘【しふ】に射る。
勃澥【ぼっかい】に浮かび,孟諸【もうちょ】に游ぶ。
邪【なな】めに肅慎【しゅくしんと】鄰たり,右は湯谷を以って界と為せり。
(現代語訳)
(烏有先生の言葉の続き)
それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。
成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。
渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。
東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。
(訳注) #10
(#10の理解のため)

・始皇帝の二回目の巡行は、B.C.219年、一回目の一年後である。二回目は東方の郡県をめぐり、南方に下ってかえった。
・鄒の嶧山に上り、魯の儒生らを招いてこの時封禅のことを問うた。 儒家の一致しない意見を無視して封禅を行った始皇帝は、山を下りた時ににわかに風雨に遭い、五大夫松の下で休んだという。
・そして渤海に沿って東行し、黄縣を通り、成山を極め、之罘山に登って秦の頌徳碑を立てた。そして南の琅琊山に登り大いに楽しみ、滞留3ヶ月、 黔首3万戸を琅琊山の麓にうつし、12年間賦税を免除して琅琊台を作った。
・ここで徐芾に命じて童男童女数千人を出して海上に僊(仙)人を求めた。
・彭城を通ったとき、斎戒して祈り、周の鼎を泗水から引き揚げようと1000人に命じて水中に探させたが見つからなかった。この逸話は、おそらく後世儒家が作り出した話である。
・南行して南郡で長江に浮かび、湘山祠に行ったところ、大風にあい、舟が覆りそうになる事件があった。 始皇帝は大いに怒って罪人3000人を使い湘山の樹をみな伐って禿げ山にした。そして南郡から武関を通って咸陽に帰った。
且齊東陼鉅海,南有琅邪。
それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。
・鉅海 大きな海。 勢力のあるうみ。
・琅邪 中国の古地名。瑯邪,瑯琊,琅玡とも書く。春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国とした。東晋・南朝で第一流の名族とされた王導一族は,琅邪・臨沂の出身である。
觀乎成山,射乎之罘。
成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。
・之罘 之罘山
浮勃澥,游孟諸。
渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。
・孟諸 孟諸沢は宋城の東北に沼沢が広がっていて、良い猟場であった。
邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界。
東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。
・粛慎 先秦時代の古典に見える東北境外の民族。〈東夷〉の一つで,中国の威徳を慕って来朝し,特産品の楛矢石砮(こしせきど)(人参木の枝で作った矢に石のやじりをつけたもの)を献上したことが記されているが実体は不明。3世紀,魏・晋期以降になると,今の吉林・黒竜江両省から沿海州方面に居住した漢代の挹婁(ゆうろう),南北朝期の勿吉(こつきつ),隋・唐期の靺鞨(まつかつ),宋以降の女真をその後裔とする考えが行われた。
・湯谷 《山海經》記載之湯谷就在古琅琊(現山東省日照市)